2015年07月23日

全国に巡らした日本会議のネットワークとは

これまで、日本会議と安倍政権の関係について触れた記事(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44029) における日本会議の実態は、とくに女性議員らの仲間の中ではささやかれていた。もうその頃には男女平等の主張とは表現されなくなったいが、当時に、女性議員たちは「男女共同参画社会」の為に奔走している最中だった。するとジェンダーの偏重、男女役割の男らしさ・女らしさの些細な指摘をこの日本会議の関係団体と思われるところから突き上げをくらい、我孫子市議会には10件上に及ぶ陳情、請願がだされた。しかも、中には一字間違えたような同文の内容まで出されていて、組織性を感じる人々が市外から呼びかけを裏づけるのであって、我孫子の議会の傍聴にはせ参じた約20名はいただろうか、分からないなりにともかく内容は提出するのだという人までいたから驚いた。

さらに、彼らは、子供のための権利条例、平和条例などの議案が出てくる、従軍慰安婦に関する意見書を国に出し欲しいとの陳情が出されるなどすると、また多数で議会傍聴にくるので、議員たちは彼らの顔も覚え話題になっていた。要するに一般の市民ではできないような、近隣市民が呼びかけあってきていること、我孫子市民だけではない明らかに全国的な組織を感じさせる。提出される議案を察知して廃案にしてほしいと陳情・請願をもってやってくる、市役所前はもちろん、市内にも頻繁にチラシをつくって配布していた。従軍慰安婦の意見書を出してほしとの請願を出した人と請願の紹介議員宅前で、十数人をつらねてヘイトスピーチよろしく街宣して、それを動画サイトに投稿しているのだから、これまでのような市内の市民の手法ではないことが分かるのだ。さらに、後には、その組織によって議場に国旗掲揚をなどとの趣旨の請願を出してきた。これは、どうもおかしいとインターネットで検索すると、全国のどの議会までが彼ら組織的意図で議場での国旗掲揚がなったかと、オセロゲームのように戦果を並べていた。

日本会議なる組織は、国会議員、都議をふくめ各議会に既に組織の数を膨らまし、その動員力によって、着実に議会に影響力を浸透させていたことが読み取れてきた。男女共同参画条例は、小さな笹舟のように揺れながらも議会で否決される場面も多かったが、我孫子の場合は流石の結果で、男性議員の賛成もいただけ、相当の拮抗する場面もあったが、職員の周到な準備が功を奏して議会の理解を得て、条例制定につながった。県下初の男女共同都市宣言都市であるということも、議会の健全性を示していると私などは思う。当時には、我孫子には女性議員が全国トップクラスだったことも意味は大きかった。

そういう経緯があったので、この『週刊現代』の記事については、「やはり」の感が多く読んだ。とある商店街で、商店主が、安全保障関連法案などを批判する垂れ幕の付いた七夕飾りを設置したところ、「祭りにふさわしくない」との意見が市などに寄せられ、撤去していたことが分かったが、商店主の50代男性は「今声を上げなければと思ったが、周囲に迷惑がかかるので撤去した」と話している。千葉の美術館で朝鮮陶器の美術展があったが、「公費のでている美術館でこのような企画をするとは何事だ」の意見が寄せられた。皆様にも、行政や議会というところに様々な見方を通して意見、圧力がかかることの事情を知っていただきた。

こうした事情も兼ね合わせて気になった方は、下記もご覧ください。

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日本会議の中核メンバーが目指すのは、端的にいうと、戦前の日本の“栄光”を取り戻すことだ。彼らは何十年も前から周到な計画を練り、着実に布石を打ってきた。それは誇大妄想ではないかとおっしゃるだろう。筆者(魚住 昭)も最初はそんな大それた仕掛けがあるとは思いもしなかった。マスコミも彼らの動向をほとんど報じなかった。

でも、8年前のことだが、かつての「参院のドン」村上正邦さん(82歳・元労相)の聞き書きを1年つづけるうち、彼らが全国に巡らしたネットワークと、その戦略が見えてきた。

村上さんが日本会議結成(1997年)にいたる内幕を明かしてくれたからだ。彼は日本会議の礎を作った当事者の一人である。そしてこれが重大なポイントなのだが、生長の家の創始者・谷口雅春('85年没)の信頼が最も厚い政治家だった。

ここで生長の家について簡単に説明しておこう。教団の歴史は戦前、谷口が人生苦の解決法を説く個人誌『生長の家』を創刊した時から始まる。彼はキリスト教や仏教、神道などから種々の要素を取り入れて万教帰一、すべての教えは同じ、ただ登り口が違うだけだと説いた。また、彼は天皇を現人神として崇めた。「一切は天皇より出でて天皇に帰るなり」と説き、聖戦完遂を唱えて教団を大発展させた。敗戦後は一転して自由と平和を唱えたが、公職追放から復帰した後、右傾化・神道化を強めて教勢を拡大させた。

紆余曲折はあったにせよ、谷口は戦後の宗教界で最もラディカルな皇国思想の持ち主となった。彼は「明治憲法復元」を掲げて1964年、生長の家政治連合(生政連)を作り、教団の政治進出を本格化させる。その生政連の国民運動本部長に任じられたのが村上さんである。

それから10年後の'74年、愛国心高揚を目指す「日本を守る会」が誕生する。臨済宗円覚寺貫主・朝比奈宗源が谷口らに呼びかけて作ったものだった。そこに生長の家はもちろん神道、仏教などの宗教団体が集まり、作家の山岡荘八や思想家の安岡正篤らも加わった。事務局は明治神宮に置かれ、村上さんは谷口の意を受け、事務局の中心メンバーとして働いた。

「守る会」はまず「天皇陛下御在位50年奉祝中央パレード」を成功させ、その余勢をかって元号法制化運動に乗り出していく。もともと元号は戦前の皇室典範に定められていた。その条文がGHQの意向で削られ、法的根拠を失った。それを再び法制化しようという右派の動きは戦後三十余年、社会党・共産党の抵抗にあって阻まれていた。

結論を先に言わせてもらえば、この法制化運動の成功が、それまで少数精鋭主義だった右派の運動スタイルを広範な国民を巻き込む大衆運動に変え、日本会議を誕生させることになる。

名著の誉れ高い『増補戦後の右翼勢力』(勁草書房)の著者・堀幸雄氏の言葉を借りるなら「制服を着た右翼」から「背広を着た右翼」への変身である。その大衆運動の戦略を描いたのが、いまの日本会議を事務総長として取り仕切る椛島有三(かばしま)氏だ。彼は谷口思想の心酔者で天性のオルガナイザーだった。長崎大学在学中に全共闘や共産党系の民青に対抗して民族派学生運動を組織し、自治会の主導権奪還に成功した経歴を持っていた。村上さんの回想。

「椛島さんは長大卒業後、上京して一途に日本青年協議会(生長の家の学生OB組織)で民族派の運動をやっていた。彼は名誉栄達や金を求めず、面倒見もよかったから学生たちから尊敬されていた。彼が一声かければ動く若い人が全国にたくさんいた。その彼が『守る会』事務局に入ってくれたので、彼と二人三脚で運動を進めたんです」ちなみに当時の日本青年協議会委員長は今の安倍首相側近の衛藤晟一参院議員。書記長が椛島氏、政策部長が今の日本政策研究センター代表で首相ブレーンの伊藤哲夫氏。3人とも日本会議の中核メンバーである。

村上さんの証言によると、椛島氏は大衆運動のいろんな戦略や戦術に長けていた。各地で人手が必要なときは日本青年協議会傘下の学生らを動員した。たとえば「守る会」は'77年秋から元号法制化を求める地方議会決議運動を始め、翌年10月までに全国1016市町村の議会決議を達成して政府に圧力を加えるのだが、この「地方から中央へ」という戦略を考え出したのも椛島氏だった。

こうした地方の動きに呼応する形で'78年7月、「守る会」を中心に「元号法制化実現国民会議」が作られる。議長に石田和外・元最高裁長官が就き、音楽家の黛敏郎が代表委員の一人になった。椛島氏は事務局長として戦略を考え、さらに世論を盛り上げるため全国47都道府県にキャラバン隊を派遣した。

自民党や民社党、新自由クラブによる超党派の国会議員連盟も作られ、同年10月、日本武道館に2万人を集めて総決起国民大会が開かれた。動員の中心になったのは生長の家や佛所護念会、世界真光文明教団、明治神宮や神社本庁といった「守る会」に結集した宗教団体だった。

翌'79年6月、全国的な気運の高まりのなかで元号法案は国会を通過する。右派三十余年の宿願が「守る会」(+日本青年協議会)によるわずか2年の運動で達成されたのである。椛島戦略の効果は絶大だった。以来、椛島氏をはじめとする日本青年協議会の面々、つまり谷口雅春の思想を核に育った人々が”隠れた主役”となって右派の運動をリードしていく。彼らは政財界などへの影響力を急速に拡大させ、ついには憲法改正に王手をかける一歩手前にまで至るのだが、その過程については次でご説明したい。

出典:
『週刊現代』2015年7月18日号

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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