2015年07月19日

74歳の大学生・欽ちゃんは、新しい笑いを探し求めつづける現役芸人

74歳の大学生・萩本欽一は、これまで、人気バラエティー番組を多く世に出し、お茶の間の笑いを独占してきた「欽ちゃん」へのインタビュー記事があった。


 ――お笑いの道に入ってから55年。どうしてまた、大学に?
 「僕はずっと、みんなの逆を行って生きてきた。だから去年、舞台を引退したときに何か新しい荷を背負おうと思ったの。それが受験勉強だった。僕は仏教学部を『仏様の教え』なんだから、いい言葉がたくさんあるに違いない、その言葉に会いに行こうって思った。母ちゃんも大学には絶対行けといっていたし。ご免よ、ちょっと遠回りしてって感じかな」

 ――キャンパスでは若者と普通に会話しているんですか。

 「もちろん。就活で暗い顔した4年生に喫煙所で会ってね。僕、言ったの。いろんな職業の人に会ってきたけど、半分は『好きで始めた仕事じゃねえ』って人だった。オヤジがかわいそうで家業を継いだ、とか。でも、そんな人の、いまは幸せって笑顔を何度も見たよってね。そしたら、『幅が広がった』って、うれしそうに飛んでった」

 「人のお世話をする仕事をしたいっていう女子には、いいねえ、あんたがおばあちゃんの面倒なんかみたら、アイドルになるんじゃないのって言ったの。笑顔がとってもいい娘でね。そしたら泣き出しちゃった。こんなに認めてもらえたのは初めてだって」

 ――何が見えました?

 「もしかして、僕たち大人は若者とちゃんと会話をしてないんじゃないか。親は子に重すぎる夢を負わせていないか。だから若者は働くイメージも持てず、窮屈で、生きにくい世の中になっているんじゃないかって。とにかくみんな、前へ前へと進みたがることも気になるね。でもね、人生はそんなに簡単に前には進まないよ。偉人の伝記を読めばわかるでしょ。最初は失敗だらけなんだから。だから僕はいつも言うの。まず一歩下がって、世界を広く見ろ。もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろって」

 ――でも、萩本さんの人生は順調だったんでしょう。

 「違うよお。高校を出て浅草の劇場で修業を始めたんだけど、実はあがり症でね。セリフも忘れ、本当に才能がなかった。3カ月で演出の先生に呼ばれ、やめるなら早いうちだと言われて、『やめます』って答えちゃった。しょんぼりしていたら、先輩が『どうした』と聞くの。事情を話すと、飛んで行って先生に掛け合ってくれた。それで残れたの。後で先生から言われたよお。お前みたいな下手くそを止めにきた奴がいる。こういうのが芸の世界では大事なんだ。応援したい、って周りに思ってもらうのが俺たちの仕事だから。欽坊、やめるなよ、って。もう、泣いちゃったよ」

 「人生は出会いだって、よく言うけど、ちょっと違うね。出会いっていうのは、人にただ会うことじゃないんだ。苦労をして、マイナスの経験をいくつも積んで初めて、会うべき人に出会える。なぜ自分がダメだったのか、生きていくうえで何が足りなかったのか。本当の出会いなら、その答えが見えてくるもんだよ」

 ――運と才能。成功するには、どちらが大事でしたか。

 「8割は運だね。そいつは正面からは来ない。思ってもみないところからやってくるから、なかなかつかまえられないのよ。後ろから肩をトントンやる奴がいて、うるせえなこの野郎って、振り向いたら何だ、ここにいたのか、というのが運なんだよ。坂上二郎さんとの出会いがそうだった」

 「浅草では突っ込みのライバルでね。しつこくって苦手だった。好きな人100人に電話しろと言われたら、101番目に電話する人だったね。でも、その二郎さんが何と、僕に電話してきたの。テレビで大失敗した僕が、意気消沈して行った熱海のショーから戻った日だった。コントを思いついたばかりでね。話したら、2人でしたほうがきっと面白いって。それがコント55号の始まり。運は二郎さんが全部持ってきてくれた

 ――飛び蹴りをして、舞台を縦横に駆け回る姿が衝撃でした。

 「浅草では言葉で笑わせたりすると先輩に張り倒されたんだよ。動きや体、芝居で笑わせろって。でもね、コント55号でテレビに出始めて気付いたの。芸って深いものなのに、テレビはそれを映さない。動きも伝わらない。なのに芸をやり、動きの笑いをやってたら間抜けだろうって。それで言葉の笑いに移っていった。投稿を募る『欽ドン!』や、ドラマ仕立ての『欽どこ』につながったの」

 ――テレビは何が違いました?

 「コント55号の練習中に、連合赤軍が人質をとって立てこもった浅間山荘事件(72年)を生中継しててね。窓に影が映ったというだけで、みんなテレビの前にすっ飛んで行ったの。ディレクターまでもが。こっちは懸命に稽古しているのに。で、気付いたわけ。テレビは何が面白いとか、何がいいとかじゃなく、次に何が起こるかわからないときに最も人を引きつけるんだ。予測不能の『いま』を撮れば面白くなるんだって

 ――それがヒットの秘訣(ひけつ)?

 「秘訣がわかれば、まだテレビをつくってるよ。ただ、振り返ったら、みんながやっていることはしない、という一点だけは貫いてきたね。世の中には優れものが大勢いる。僕なんかがマネしてもかなわない、とわかってたから」

 「子役をどうやって選ぶかテレビ局に聞いたら、タレント事務所に電話したらなんぼでも来ます、どの局もそうしてますって言う。『じゃあ、それをやめてください』っていうだけで変わったね。あるディレクターは、何かピンとくるいい子役を求めて、全国を歩いたっていうし。遠回りすれば、人間いろいろ考える。いろんな出来事にぶつかる。もちろん、いいことばかりとは限らないよ。でも、とてつもなくいいものにぶつかることが、あるんだよ。その出会いにこそ物語が生まれる。それが大事なのよ。そういう物語に、人は心を動かされるんだから

 ――時代が変わると、笑いも変わるものですか。

 「変わります。昭和の笑いには、下の者が上の者をちゃかす快感があってね。偉い社長さんをごまかし、インチキするサラリーマンの姿が笑いをとっていた。すき焼きの場面で、ネギで肉を隠しながら食べる姿がおかしかった。笑いというのは貧しい大衆、ちょっとダメ扱いされている人間たちの反撃でもあったの。でも日本が豊かになると、すき焼き自体が珍しくなくなり、社長さんにも文句を言うようになって、反撃の笑いが成り立ちにくくなってきた」

 ――時代は巡り、いま再び、貧困と格差が広がっています。

 「笑いはみんなの共感を呼ぶものに敏感だから、本当に大変な時代が来たら貧困も格差もネタにすると思うよ。笑いは必ず時代に追いついてくる。それに笑いには、直接は言えないことを遠回しに伝える大事な働きもあるんです。みんな何かヘンだなあと思っていることを、笑いが社会に広く伝えるということがあるの」

 ――これから、どんな新しい笑いが生まれるのでしょう。

 「なんだ、こんなことが笑いになるのか、という何かでしょう。これまでのジャンルには収まりきらない何か。本当に新しい何かが生まれるときはラベルから変わるもの。僕らだって最初、コントって何ですか、漫才とどう違うんですかって聞かれて困り、さあ何ですかねえって答えてたもん

 ――もしかして、その「何か」をいま大学で探しておられる?

 「明日、会う人がいる、しゃべる誰かがいるっていうのが、この年になると一番幸せだと思うの。年を取ると、周りと付き合いづらくなってね。僕もいつの間にか『大将』と祭り上げられていた。大学では、20歳前後の子がみんな『欽ちゃん』と呼んでくれる。まあ、そのー、大学に通って若いのに毎日会っているうちに、僕のなかの何かが変わって、結果的に何か新しい笑いが見えてこないかなあっていう気持ちが、実はないこともないんだけど。まだ、いいことないなあ」

 ――いまも現役なんですね。

 「もちろん。生まれ変わってもコメディアンだよ。ただ、またダメなコメディアンから出発したいね。ダメな若い奴が上を目指してもがく姿に、支えてやろうって気持ちが生まれたんだと思うから」(聞き手・萩一晶)

出典:
朝日新聞デジタル 7月11日
posted by Nina at 16:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ
日記(3651)
ニオュ(0)
歴史(0)
chiba(60)