幸徳秋水とは、いま、どんな人物だと思われているのか。我孫子に全く関係がないというのではない、針文字の出現によって、杉村楚人冠とのかかわりが見られる。
秋水は明治時代の社会主義者でアナキスト、「大逆事件」で刑死した人物。
研究者ではない市井の人がそれだけを聞くと――思想家としての彼の業績は当然認めるとして――「危険な人」との印象を免れないかもしれません。高校の日本史の授業で「大逆事件」を習い、幸徳の名前のみ知る段階では、そうした印象を持つものだ。
しかし、社会人の一教養として中江兆民を読むことから始め、「兆民を師と仰いだ幸徳」として『帝国主義』(岩波文庫)を読むと、いわゆる「危険な」印象とは大きく異なる人物像が浮かぶ。生意気ながら、「至極まっとうなことを主張する人だ」という感じを受けた。
しかし、「至極まっとうなこと」を言う人ほど、世の中では危険視されるのだということも、見えてくる気がした。
幸徳秋水『二十世紀の怪物 帝国主義』(山田博雄 訳、光文社古典新訳文庫)によると、
「世の『志士』『愛国者』はみな、髪をさかだて、目をカッと見ひらいている。こういう時に、ひとり冷然として真理と正義を講じ、道徳を説くのは、いかにも現実離れしていると嘲笑されるだろう。わたしもそれは知っている。にもかかわらず、あえてこれを行うのは、実に長い間、この真理、正義、道徳にかんして心を痛めてきたからであり、やむにやまれぬ気持ちだからである」(「三つの前置き」)。
「嘲笑される」と知りながら、あえて『二十世紀の怪物』を書いたのは、おそらく幸徳が「真理、正義、道徳」、そして「自由」にも大きな価値を置く人物だったからだろう。「真理、正義、道徳、自由」、これらはみな西洋近代がもたらした価値観・概念だが、日本がもとかはどうでもいい、生きる以上、それらを実現し満喫しなければ意味がない、とでもいいたげな姿勢が、彼の書くものからは感じられる。実に明るく潔く、嫌味がなく風通しのいい、それこそ「自由」を感じさせる文章だ。
幸徳と親友だった堺利彦の知られざる多くの人間的側面に光を当てた黒岩比佐子氏の大著『パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(現在は講談社文庫)に、幸徳と堺、内村鑑三ら「万朝報」の記者たちがみな、当時「ハイカラな自転車」(!)を買い、なんと教習所に通ってまで乗車の練習をし、休日にはサイクリングにうち興じる姿が紹介されている。それは、社会改良を目指す「理想団」を発足させ、幸徳と堺が日露戦争反対の論陣を張り始めた頃なのだ。
なんとも「自由」で、こんなところにも概念としてでなく、現実として「自由」を生きようとする幸徳と仲間たちの姿が感じられ、改めて時代の感覚を知る。
しかし、その後は「真理、正義、道徳」そして「自由」を実現させようとした幸徳は「大逆事件」で国家権力により命を奪われる。
堺利彦は、幸徳の死刑が決まった後「なんだか自然の成り行きのよう」だと幸徳に言った、と幸徳の遺稿「死刑の前」に書かれていた。ふだん温厚で知られた堺も、拙速にことが進められて、幸徳の裁判なき判決の事情を知った夜は荒れて泥酔し、「街頭や道路工事の赤ランプをけとばして壊し」たという(黒岩氏前掲書)。
石川啄木、永井荷風、与謝野晶子をはじめ、大逆事件で幸徳らを擁護する発言をした文学者は多くいたことは有名だが、事件について一切言及のない――また社会主義者とは距離のあった――夏目漱石でさえ、『それから』のなかで幸徳を登場させ、監視する権力の動きを「現代的滑稽の標本」と主人公・代助に語らせている。われらが杉村楚人冠が、菅野スガから密書を受け取っていたとすると、朝日の大記者は何を思っていたのだろうか。
「真理、正義、道徳、自由」の人・幸徳秋水が、何を考え、何を言おうとしたのか、それらを最もよく伝える作品が『二十世紀の怪物』であり、獄中で書かれ刑の執行のために途中で終わる彼の遺稿が「死刑の前」だった。
「自由」を生きた人の軌跡を改めて時代に刻印した。編集者としてのそんな願いとともに、両作品を、光文社古典新訳文庫『二十世紀の怪物 帝国主義』に収めた。原文の、漢文書き下しの文語文――それも見事ですが――を読みこなし、味わい尽くせる人がかなり限られてきたのが現代の事情ではあるが・・・。 幸徳を「危険な人」「急進的」などのイメージを抱くことすらもない若い人たちも読みやすいよう、思いきってわかりやすい訳にしてあるという。100年以上前に書かれたとはいえ、現代的諸問題を含んでいる。ごり押し政治に、軍国主義化、子供や女性の隠れ貧困、格差拡大などを、歴史的事実を引用しながら鋭く丁寧に分析している。「自由」を体現した幸徳秋水の言葉を改めて思い返して、考えてみたい。
参照:
BRONZA 6/10 佐藤美奈子
いま、幸徳秋水『二十世紀の怪物』を読む意味 「自由」を生きた人が辿った軌跡
2015年06月30日
2015年06月29日
安保法案審議は木を見て、森の病理を見過ごすのか
いままさに進行している国会での安保法案審議のなかで、自衛官のリスクが増大する可能性を野党から指摘された際、安倍首相はこうコメントした。
――木を見て森を見ない議論が多い。
もともと正常な言語感覚に欠ける、いやそれ以前に言葉に信の置けない人であることは重々承知しているが、これは特にひどい。
仮にも人の命が懸かっている(これについても首相は「大げさなんだよ!」とヤジを飛ばしていたが)議論について用いられる比喩ではない。
しかし考えてみれば、この言葉こそ安倍晋三という人間、あるいは彼が率いる政権与党の本質を如実に表してはいないか。つまり、彼らにとって人ひとりの命(木)など国全体(森)にとってはどうでもいいのである。
『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル 著 古屋美登里 訳 亜紀書房)を貫く姿勢はそれとはまったく逆のベクトルを持つ。すなわち木1本1本の病いを徹底的に見つめることで、森全体の病理を鋭くあぶり出している。
本書はイラクに派兵された5人の兵士とその家族が、帰還後どういう苦難を生きているかを、膨大なインタビューや取材から得た事実を再構成することでリアルに描いたものだ。
5人の兵士とは正確に言うと、イラクでもっとも戦闘の激しい地域に送られた第一六歩兵連隊第二大隊(隊員の平均年齢20歳!)の同じ中隊に所属した仲間で、そのうち1人はすでに戦死し、残る4人は重い精神的ストレス(PTSD)を負っている。
妻たちは口々に言う。「戦争に行く前はいい人だったのに、帰還後は別人になっていた」と。
実際ここに描かれる、自ら志願してイラクに派遣されるまでは気のよかった若者たちは、帰還したのち妄想や幻覚に苦しみ、家中の物を投げつけて妻を殴る。あるいはあらゆる機会を狙って自らの命を絶とうとする。
いったい戦場の何が、彼らに変貌をもたらしたのか。
もちろん、帰還兵が心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむのはイラクに始まったわけではなく、この病い自体がベトナム戦争で生まれ名付けられたものだ。しかし、イラクやアフガニスタンでは、ベトナムと根本的に違うことがある。それは明確な前線というものが存在しないことだ。
「360度のあらゆる場所が戦場だった。進むべき前線もなければ軍服姿の敵もおらず、予想できるパターンもなければ安心できる場所もなかった。兵士の中に頭がおかしくなる者が出たのはそのせいだった」(つまり後方支援もクソもないのである)
そうして帰還兵の神経を蝕むものはこの恐怖だけではない。
ここに登場する兵士たちに共通するのは、「もしあの時こうしていれば、同僚のあいつは無惨な死に方をしなくて済んだのではないか」という自責の念(危険があれば後方支援は即退避する、と安倍は言うが、危険な状況で前線に味方を残して立ち去ることが、戦闘の現場においていかに非現実的であるか)と、殺してしまった現地人の記憶……そのなかでもとりわけ悲惨なのは、血でぐっしょり濡れた花柄のワンピースを着ている7、8歳の女の子が、椅子に座ってじっとこちらを見ている夢を夜な夜な見る帰還兵の話だ。
イラクとアフガニスタンから帰還したアメリカ兵はおよそ200万人。そのうちの20〜30%にあたる人がPTSDや外傷性脳損傷(TBI)を患っているという。だからここに登場する帰還兵の例は決してレアケースではない。
それに本書で克明に描かれる自殺のケースはふたつだけだが、アメリカでは毎年240人以上の帰還兵が自殺を遂げ、その数字は年を経るにしたがって増え続けている。
日本でもつい最近、安保法制の衆院特別委員会で、イラクに派遣された自衛隊員のうち54人が自殺したという衝撃的な事実が防衛省からもたらされた。
自衛隊の定員は25万人(うち常時2〜3万人が不足している)でイラク・アフガンに派遣されたのは延べ2万2560人。もちろんアメリカと比べたら規模が違うが、単純計算で418人に1人、自衛官全体と比べて7.1倍、国民平均の11.9倍にあたる自殺率はきわめて高い。
もとよりアメリカという国には「戦後」という観念がない。なにせ建国以来41回(5年に1回)、第二次大戦以後に限っても19回(3年に1回)も戦争をしている国である。つまり常時戦時体制にあるのだ。
その国の軍隊と一体になって自衛隊が働く、というのが今回の安保法案の骨子である。軍隊そのものも、それを抱える社会の質も、日本とアメリカとは雲泥の差がある。その差をいったいどう埋めようというのだろう。
著者がつまびらかにした木の病理は帰還兵だけにとどまらない。
たとえば夫がいつ自分の首を絞めに来るかもしれないと、枕の下にそっと拳銃を隠してベッドに入る妻。怒声と暴力に脅え、父親から切り離されて妻の実家に預けられる子供たち。けっして少なくはないそのような「病んだ木」を擁する森とは、いったいどんなだろう。
あるいはカウンセリングやセラピーなど、戦争からの快復という悲しい仕事さえも、巨大な産業へと変貌させてしまう「死の商人」が跋扈する森とは、いったいどんなだろう。
そんな森(=社会)をひたすら冀(こいねが)い、嬉々として目指そうとしているのが現政権である。
本書の原題は「THANK YOU FOR YOUR SERVICE」である。「(母国のための)ご奉仕に感謝いたします」。
このフレーズは本書の至るところに響いている。それは、傷ついた帰還兵が出会い系サイトにアプローチした際の、女の子側からのメールの返答であったり、自殺した兵士の葬儀での追悼の言葉であったりする。
最初はアイロニカルに聞こえるこの言葉も、訳者が「あとがき」で書いているように、次第に著者の悲痛な願いの色を帯びてくる。それがアメリカというものである。
しかし今の日本において(災害時の救援活動を除き)、もし仮に集団的自衛権の行使によって戦場で死傷し、あるいは帰還後に自殺した自衛官がいたとしたら、彼らに向けて口が裂けてもこんなセリフは言えはしまい。
それほど差のあるアメリカと日本の社会だが、本書のなかでひとつ、実にリアリティを伴って想像できる箇所があった。それは兵士を癒す仕事に取り憑かれた陸軍副参謀長が、戦争を正式に認めたり、軍事費を計上する立場にある政府の要人を招いて晩餐会を催したときのこと。晩餐会にはテーマを用意するのが常であり、かねてよりペンタゴンで自殺防止会議を主宰していた副参謀長は、その晩餐会のテーマを迷わず「自殺防止」とすることにした。ところがそれを伝え、ディナーのメニューも決まった直後に、出席を予定していた政治家たちから次々に出席を見送るという報せを受けた。曰く、他の行事と重なったから、云々。結局、晩餐会は中止せざるを得なかった。
たとえばわが国において同じ状況が生まれたとして、同じようにしれっと言い訳をして出席を見送る政治家は、その顔までがありありと思い浮かぶ。すなわち、どの時代でもどこの国でも、戦争を起こしたい人々、あるいは戦争をして得をする人々のうちのほとんどは、現実に起こる生死についての面倒ごとには、進んで関わりたくはないのである。
出典:
大槻慎二 書評
(WEBRONZA 6/12)
――木を見て森を見ない議論が多い。
もともと正常な言語感覚に欠ける、いやそれ以前に言葉に信の置けない人であることは重々承知しているが、これは特にひどい。
仮にも人の命が懸かっている(これについても首相は「大げさなんだよ!」とヤジを飛ばしていたが)議論について用いられる比喩ではない。
しかし考えてみれば、この言葉こそ安倍晋三という人間、あるいは彼が率いる政権与党の本質を如実に表してはいないか。つまり、彼らにとって人ひとりの命(木)など国全体(森)にとってはどうでもいいのである。
『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイヴィッド・フィンケル 著 古屋美登里 訳 亜紀書房)を貫く姿勢はそれとはまったく逆のベクトルを持つ。すなわち木1本1本の病いを徹底的に見つめることで、森全体の病理を鋭くあぶり出している。
本書はイラクに派兵された5人の兵士とその家族が、帰還後どういう苦難を生きているかを、膨大なインタビューや取材から得た事実を再構成することでリアルに描いたものだ。
5人の兵士とは正確に言うと、イラクでもっとも戦闘の激しい地域に送られた第一六歩兵連隊第二大隊(隊員の平均年齢20歳!)の同じ中隊に所属した仲間で、そのうち1人はすでに戦死し、残る4人は重い精神的ストレス(PTSD)を負っている。
妻たちは口々に言う。「戦争に行く前はいい人だったのに、帰還後は別人になっていた」と。
実際ここに描かれる、自ら志願してイラクに派遣されるまでは気のよかった若者たちは、帰還したのち妄想や幻覚に苦しみ、家中の物を投げつけて妻を殴る。あるいはあらゆる機会を狙って自らの命を絶とうとする。
いったい戦場の何が、彼らに変貌をもたらしたのか。
もちろん、帰還兵が心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむのはイラクに始まったわけではなく、この病い自体がベトナム戦争で生まれ名付けられたものだ。しかし、イラクやアフガニスタンでは、ベトナムと根本的に違うことがある。それは明確な前線というものが存在しないことだ。
「360度のあらゆる場所が戦場だった。進むべき前線もなければ軍服姿の敵もおらず、予想できるパターンもなければ安心できる場所もなかった。兵士の中に頭がおかしくなる者が出たのはそのせいだった」(つまり後方支援もクソもないのである)
そうして帰還兵の神経を蝕むものはこの恐怖だけではない。
ここに登場する兵士たちに共通するのは、「もしあの時こうしていれば、同僚のあいつは無惨な死に方をしなくて済んだのではないか」という自責の念(危険があれば後方支援は即退避する、と安倍は言うが、危険な状況で前線に味方を残して立ち去ることが、戦闘の現場においていかに非現実的であるか)と、殺してしまった現地人の記憶……そのなかでもとりわけ悲惨なのは、血でぐっしょり濡れた花柄のワンピースを着ている7、8歳の女の子が、椅子に座ってじっとこちらを見ている夢を夜な夜な見る帰還兵の話だ。
イラクとアフガニスタンから帰還したアメリカ兵はおよそ200万人。そのうちの20〜30%にあたる人がPTSDや外傷性脳損傷(TBI)を患っているという。だからここに登場する帰還兵の例は決してレアケースではない。
それに本書で克明に描かれる自殺のケースはふたつだけだが、アメリカでは毎年240人以上の帰還兵が自殺を遂げ、その数字は年を経るにしたがって増え続けている。
日本でもつい最近、安保法制の衆院特別委員会で、イラクに派遣された自衛隊員のうち54人が自殺したという衝撃的な事実が防衛省からもたらされた。
自衛隊の定員は25万人(うち常時2〜3万人が不足している)でイラク・アフガンに派遣されたのは延べ2万2560人。もちろんアメリカと比べたら規模が違うが、単純計算で418人に1人、自衛官全体と比べて7.1倍、国民平均の11.9倍にあたる自殺率はきわめて高い。
もとよりアメリカという国には「戦後」という観念がない。なにせ建国以来41回(5年に1回)、第二次大戦以後に限っても19回(3年に1回)も戦争をしている国である。つまり常時戦時体制にあるのだ。
その国の軍隊と一体になって自衛隊が働く、というのが今回の安保法案の骨子である。軍隊そのものも、それを抱える社会の質も、日本とアメリカとは雲泥の差がある。その差をいったいどう埋めようというのだろう。
著者がつまびらかにした木の病理は帰還兵だけにとどまらない。
たとえば夫がいつ自分の首を絞めに来るかもしれないと、枕の下にそっと拳銃を隠してベッドに入る妻。怒声と暴力に脅え、父親から切り離されて妻の実家に預けられる子供たち。けっして少なくはないそのような「病んだ木」を擁する森とは、いったいどんなだろう。
あるいはカウンセリングやセラピーなど、戦争からの快復という悲しい仕事さえも、巨大な産業へと変貌させてしまう「死の商人」が跋扈する森とは、いったいどんなだろう。
そんな森(=社会)をひたすら冀(こいねが)い、嬉々として目指そうとしているのが現政権である。
本書の原題は「THANK YOU FOR YOUR SERVICE」である。「(母国のための)ご奉仕に感謝いたします」。
このフレーズは本書の至るところに響いている。それは、傷ついた帰還兵が出会い系サイトにアプローチした際の、女の子側からのメールの返答であったり、自殺した兵士の葬儀での追悼の言葉であったりする。
最初はアイロニカルに聞こえるこの言葉も、訳者が「あとがき」で書いているように、次第に著者の悲痛な願いの色を帯びてくる。それがアメリカというものである。
しかし今の日本において(災害時の救援活動を除き)、もし仮に集団的自衛権の行使によって戦場で死傷し、あるいは帰還後に自殺した自衛官がいたとしたら、彼らに向けて口が裂けてもこんなセリフは言えはしまい。
それほど差のあるアメリカと日本の社会だが、本書のなかでひとつ、実にリアリティを伴って想像できる箇所があった。それは兵士を癒す仕事に取り憑かれた陸軍副参謀長が、戦争を正式に認めたり、軍事費を計上する立場にある政府の要人を招いて晩餐会を催したときのこと。晩餐会にはテーマを用意するのが常であり、かねてよりペンタゴンで自殺防止会議を主宰していた副参謀長は、その晩餐会のテーマを迷わず「自殺防止」とすることにした。ところがそれを伝え、ディナーのメニューも決まった直後に、出席を予定していた政治家たちから次々に出席を見送るという報せを受けた。曰く、他の行事と重なったから、云々。結局、晩餐会は中止せざるを得なかった。
たとえばわが国において同じ状況が生まれたとして、同じようにしれっと言い訳をして出席を見送る政治家は、その顔までがありありと思い浮かぶ。すなわち、どの時代でもどこの国でも、戦争を起こしたい人々、あるいは戦争をして得をする人々のうちのほとんどは、現実に起こる生死についての面倒ごとには、進んで関わりたくはないのである。
出典:
大槻慎二 書評
(WEBRONZA 6/12)
2015年06月28日
周りに感謝すると自分に返ってくる
日本のメンタルトレーニングの第一人者、西田文郎氏は「六方拝」を提唱している。
六方拝とは、もともとはお釈迦さまの教えだが、六つの方角、すなわち、東西南北と天と地に向かって、感謝すること。東に向かってご先祖さま、西に向かって家族、南に向かって人生の師匠、北に向かって友人知人、そして、上に向かって天のはからいと、下に向かって地のめぐみに、毎日感謝する。
感謝することの大切さについては、誰もが知っている。
しかし、それを知っているだけで終わらさずに、実行に移すかどうかが最も大事なこと。
『見守られて生きる』(幻冬舎)の著者で、東京大学医学部救急医学分野教授の矢作直樹は、上手に生きる、それは気持ち良く生きるということになるという。
なんと、そのためには自分の周囲にいる方々、あるいは亡くなった身内やご先祖さまなど先人への感謝の祈りが必要だというのです。そして、私たちの吐いた炭酸ガスを吸収し、酸素を生み出してくれている草木への感謝も、相手、周りの浄化につながることだそうです。
「ありがとう」「あなたに感謝します」を実践する、強く願うと必ず通じるとはお安い御用です。
規模の大小ではなく、そこにどれだけの「思い」が込められているかが大切です。
要は動機の純粋さなのです。
自分の状況があまり思わしくないときも、ありがとうとその状況に感謝する。
自分の思い通りにならなくても、これで十分ですと感謝する。
それを邪魔するのが執着心ですが、執着を手放すことで私たちが得るものは多くなるでしょう。
サポーターは、いつも見守ってくれているのです。
素直に謝罪する気持ちと同時に、ごめんなさいが言える関係をつくってくれたその相手に心から感謝する、肝に銘じておきたいと思います。
六方拝とは、もともとはお釈迦さまの教えだが、六つの方角、すなわち、東西南北と天と地に向かって、感謝すること。東に向かってご先祖さま、西に向かって家族、南に向かって人生の師匠、北に向かって友人知人、そして、上に向かって天のはからいと、下に向かって地のめぐみに、毎日感謝する。
感謝することの大切さについては、誰もが知っている。
しかし、それを知っているだけで終わらさずに、実行に移すかどうかが最も大事なこと。
『見守られて生きる』(幻冬舎)の著者で、東京大学医学部救急医学分野教授の矢作直樹は、上手に生きる、それは気持ち良く生きるということになるという。
なんと、そのためには自分の周囲にいる方々、あるいは亡くなった身内やご先祖さまなど先人への感謝の祈りが必要だというのです。そして、私たちの吐いた炭酸ガスを吸収し、酸素を生み出してくれている草木への感謝も、相手、周りの浄化につながることだそうです。
「ありがとう」「あなたに感謝します」を実践する、強く願うと必ず通じるとはお安い御用です。
規模の大小ではなく、そこにどれだけの「思い」が込められているかが大切です。
要は動機の純粋さなのです。
自分の状況があまり思わしくないときも、ありがとうとその状況に感謝する。
自分の思い通りにならなくても、これで十分ですと感謝する。
それを邪魔するのが執着心ですが、執着を手放すことで私たちが得るものは多くなるでしょう。
サポーターは、いつも見守ってくれているのです。
素直に謝罪する気持ちと同時に、ごめんなさいが言える関係をつくってくれたその相手に心から感謝する、肝に銘じておきたいと思います。
2015年06月27日
我孫子駅(北口)界隈レストラン
世の中には、去るものあれば来るものあり。閉じる店あれば、開く店もある。
手賀沼周辺にカフェを増やして、もっと「おもてなし」ムードを創るべしと推奨しましたし・・・
というわけで(?!)、食いしん坊したい仲間と我孫子のあっちこちで食べ歩きしております。
今回は、我孫子駅(北口)界隈を調査し隊*と行ってまいりました。
クチーナ・イタリアーナ AIZAWA 04-7184-6262
今のところはディナー(17:00-22:00)だけだそうです。
前菜、パスタ、メイン(肉または魚をチョイス)、コーヒーまたは紅茶(有機農園産)のコースは3200円(税別)の他、デザート付(3800円)、メインに魚および肉も加わりデザート付で4900円の三種類です。
*ワインはココファーム(沖縄サミットの晩餐会で供されたワイナリー)も置いてあります。
美味小屋
*お手頃なランチが、早くて安い!
我孫子周辺の美味い処、いいものの調査し隊*に加わってみようという方、情報提供をしてくださる方、は下記へお願いします。 年齢、性別、国籍は問いません。ボランティア精神で、美味しく食べるのが好きな方歓迎です。時間帯、予算もご髄です。もちろん着物での参加は大歓迎!
Email:ninakaizu●gmail.com
04-7184-9828(留守の場合Faxまたは録音されます)
手賀沼周辺にカフェを増やして、もっと「おもてなし」ムードを創るべしと推奨しましたし・・・
というわけで(?!)、食いしん坊したい仲間と我孫子のあっちこちで食べ歩きしております。
今回は、我孫子駅(北口)界隈を調査し隊*と行ってまいりました。
クチーナ・イタリアーナ AIZAWA 04-7184-6262
今のところはディナー(17:00-22:00)だけだそうです。
前菜、パスタ、メイン(肉または魚をチョイス)、コーヒーまたは紅茶(有機農園産)のコースは3200円(税別)の他、デザート付(3800円)、メインに魚および肉も加わりデザート付で4900円の三種類です。
*ワインはココファーム(沖縄サミットの晩餐会で供されたワイナリー)も置いてあります。
美味小屋
*お手頃なランチが、早くて安い!
我孫子周辺の美味い処、いいものの調査し隊*に加わってみようという方、情報提供をしてくださる方、は下記へお願いします。 年齢、性別、国籍は問いません。ボランティア精神で、美味しく食べるのが好きな方歓迎です。時間帯、予算もご髄です。もちろん着物での参加は大歓迎!
Email:ninakaizu●gmail.com
04-7184-9828(留守の場合Faxまたは録音されます)
2015年06月26日
図書館と、キャサンリン妃と、諸々
小学生のころから、図書館は大好きな場所の一つだった。自転車をこいで図書館に行くワクワク感は、大人の集まる場所に行くようで、特別な誇らしい気持ちにななるものだった。そして今は、リサイクルして資源の還元を重んじる海津新菜のコンセプトに、図書館はぴったりと合っていて、静かで刺激があり、リラックスできる場所としてありがたい。そんなわけで、引っ越した場所では図書館にすぐいく。子育て中もベビーカーを押しながら図書館で本を選んだ。
我孫子に転居した頃(1987年)はアビスタはなく、図書室程度のしつらえが市民会館の一角の手狭なスペースに押しこめられていた。東京から転勤で暮らした芦屋でも、図書館はそれなりだったが、屋根裏部屋のような状況の図書室の我孫子であったため、千葉の田舎だから仕方ないのかと侘しく思って、やはり東京に劣るのは千葉ゆえとおもっていた。
ところがある日、隣町の白井(当時は、市ではなく町だった。千葉県初の女性市長を誕生させた)に行って、驚いたことに図書館が素晴らしいのだ。東京では望めないような通しガラスをはめ込んだ先に見える庭園も手入れがよく行き届き、デザインの質が市民の質を表すのではと思えるほど感じの良い建物だった。人口が少なければ住民税が東京よりも少ないのだから、田舎のほうが文化レベルが低くなると思い込んでいたので衝撃的な事実をみた。地域の文化格差は人口比ではないと知った。実のところ、我孫子の公共施設のシンボルとも言うべき図書館の貧弱さは、税金の使われ方の意識の低さにあるのではと気づかされた。目から鱗というか、我孫子市の税金の使い方について考えさせられ、図書館大好き人間は、多少とも我孫子の行政に対して一般市民ながらも、憤りに似たものを感じたのだった。
思い返すと、子供のころ、「世界文学全集」というものが毎月発刊され、近所の本屋さんが家に届けてくれるのが楽しみだった。長閑な時代だったと思う。その本のある巻にたまたま、イギリスの歴史について解説がのっていたのを今でも覚えている。英王ヘンリー8世はキャサリン妃との間に男子に恵まれず、これを離婚してキャサリンの侍女だったアン・ブーリンと結婚したという話の顛末だった。当時の宗教上(カトリック)は、離婚を認めないため、王は手続をさかのぼって結婚そのものを無効にした。ヘンリー8世はキャサリンとの離婚に際し、教皇庁と袂を分かちイギリス国教会を設立したというものだ。現代の日本の皇室は、推古天皇の他に何人かの女帝がいたのだが、維新後の大日本帝国憲法で男性長子の皇位継承となった。もっとも、男性ばかりで継承するのは無理があったはずなのは、養子縁組の特異な日本の家系存続システムをみればわかることだから、そろそろ女性天皇も考えようかとの機運もおきた訳であったが・・・・。歴史の表向きと裏の事情に想像を逞しくしたのも本からだった。イギリスは、教会を変え、女性の君主も受け入れ、産業革命の時代に変わっていく。
特にイギリスは、女王の治世に反映すると言われた。女性宰相・サッチャーの時に黄昏の英国も復活した。現代のプリンセス・キャサリン妃は国内外からますまず注目の的、先月2日には第二子シャーロット・ダイアナ・エリザベスを出産され、ますます女性として輝く。スポーツ万能で健康的、英国ファッションをリードして、バッキンガム宮殿は観光スポットだ。
視線を身近なアジア、女性大統領のいる韓国に移してみると、これもまた複雑な事情の歴史と伝統をもっていたことを書物は教えてくれる。戦前、李氏朝鮮においては、その歴史を通じて男子であっても庶子(서얼、庶孼、庶孽)は差別され、虐げられてきた。朝鮮の基本法典『経国大典』によれば、父親が両班であっても、庶子は出世の道である文科挙を受験することも出来ない。武科挙と、専門職の官吏を選ぶ試験は受験することができたが、朝鮮では武官の身分は文官に比べて低く、また専門職の官吏は「中人」という両班と常民の中間の身分の人間がなるものだとされていた。この中人と庶子を合わせて「中庶」という表現があったほど、庶子の身分は制限されていたのだという。
朝鮮王朝の続いた時代では、奴婢随母法によって母親が奴婢階級であれば奴婢として、常民であれば常民として一生を過ごさなければならなかった(父が功臣、王族の場合には除外)。奴婢の女中を母に持つ庶子であると父を「アボジ(お父さん)」ではなく、「ナーリ(旦那様)」と呼ばなくてはならなかった。しかし、庶子であることを理由に養育を放棄されることはなく、文化的教育も十分に受けることが出来た。儒教では特に先祖の祭祀を男子が行うとするため、男系男子の保存という役割を期待があったからだった。
過去に、庶民は歴史の主役ではなかったけれど、他国に比べて日本では読み書きの初歩的な教育が一般にも取り入れられていた。戦乱のなかった江戸時代に庶民文化は世界に比して豊かに醸成されたのだった。どうもそれが民芸の美に繋がったのではないだろうか、と思うことしきり。
要は、図書館の建物の見事さではなく、どのような形で子供の教育をするかでその町の品位が決まってくるのではないか。後の世の変化をどう乗り越えられ、その思いが継承されるか、そこそ私たちは注目してみるべきのようだ。我孫子の人々が子供たちに郷土の良さをどう伝えたか、それがどう変わっていくのか、そういう点では実のところ民パワーに物凄く期待している。
我孫子に転居した頃(1987年)はアビスタはなく、図書室程度のしつらえが市民会館の一角の手狭なスペースに押しこめられていた。東京から転勤で暮らした芦屋でも、図書館はそれなりだったが、屋根裏部屋のような状況の図書室の我孫子であったため、千葉の田舎だから仕方ないのかと侘しく思って、やはり東京に劣るのは千葉ゆえとおもっていた。
ところがある日、隣町の白井(当時は、市ではなく町だった。千葉県初の女性市長を誕生させた)に行って、驚いたことに図書館が素晴らしいのだ。東京では望めないような通しガラスをはめ込んだ先に見える庭園も手入れがよく行き届き、デザインの質が市民の質を表すのではと思えるほど感じの良い建物だった。人口が少なければ住民税が東京よりも少ないのだから、田舎のほうが文化レベルが低くなると思い込んでいたので衝撃的な事実をみた。地域の文化格差は人口比ではないと知った。実のところ、我孫子の公共施設のシンボルとも言うべき図書館の貧弱さは、税金の使われ方の意識の低さにあるのではと気づかされた。目から鱗というか、我孫子市の税金の使い方について考えさせられ、図書館大好き人間は、多少とも我孫子の行政に対して一般市民ながらも、憤りに似たものを感じたのだった。
思い返すと、子供のころ、「世界文学全集」というものが毎月発刊され、近所の本屋さんが家に届けてくれるのが楽しみだった。長閑な時代だったと思う。その本のある巻にたまたま、イギリスの歴史について解説がのっていたのを今でも覚えている。英王ヘンリー8世はキャサリン妃との間に男子に恵まれず、これを離婚してキャサリンの侍女だったアン・ブーリンと結婚したという話の顛末だった。当時の宗教上(カトリック)は、離婚を認めないため、王は手続をさかのぼって結婚そのものを無効にした。ヘンリー8世はキャサリンとの離婚に際し、教皇庁と袂を分かちイギリス国教会を設立したというものだ。現代の日本の皇室は、推古天皇の他に何人かの女帝がいたのだが、維新後の大日本帝国憲法で男性長子の皇位継承となった。もっとも、男性ばかりで継承するのは無理があったはずなのは、養子縁組の特異な日本の家系存続システムをみればわかることだから、そろそろ女性天皇も考えようかとの機運もおきた訳であったが・・・・。歴史の表向きと裏の事情に想像を逞しくしたのも本からだった。イギリスは、教会を変え、女性の君主も受け入れ、産業革命の時代に変わっていく。
特にイギリスは、女王の治世に反映すると言われた。女性宰相・サッチャーの時に黄昏の英国も復活した。現代のプリンセス・キャサリン妃は国内外からますまず注目の的、先月2日には第二子シャーロット・ダイアナ・エリザベスを出産され、ますます女性として輝く。スポーツ万能で健康的、英国ファッションをリードして、バッキンガム宮殿は観光スポットだ。
視線を身近なアジア、女性大統領のいる韓国に移してみると、これもまた複雑な事情の歴史と伝統をもっていたことを書物は教えてくれる。戦前、李氏朝鮮においては、その歴史を通じて男子であっても庶子(서얼、庶孼、庶孽)は差別され、虐げられてきた。朝鮮の基本法典『経国大典』によれば、父親が両班であっても、庶子は出世の道である文科挙を受験することも出来ない。武科挙と、専門職の官吏を選ぶ試験は受験することができたが、朝鮮では武官の身分は文官に比べて低く、また専門職の官吏は「中人」という両班と常民の中間の身分の人間がなるものだとされていた。この中人と庶子を合わせて「中庶」という表現があったほど、庶子の身分は制限されていたのだという。
朝鮮王朝の続いた時代では、奴婢随母法によって母親が奴婢階級であれば奴婢として、常民であれば常民として一生を過ごさなければならなかった(父が功臣、王族の場合には除外)。奴婢の女中を母に持つ庶子であると父を「アボジ(お父さん)」ではなく、「ナーリ(旦那様)」と呼ばなくてはならなかった。しかし、庶子であることを理由に養育を放棄されることはなく、文化的教育も十分に受けることが出来た。儒教では特に先祖の祭祀を男子が行うとするため、男系男子の保存という役割を期待があったからだった。
過去に、庶民は歴史の主役ではなかったけれど、他国に比べて日本では読み書きの初歩的な教育が一般にも取り入れられていた。戦乱のなかった江戸時代に庶民文化は世界に比して豊かに醸成されたのだった。どうもそれが民芸の美に繋がったのではないだろうか、と思うことしきり。
要は、図書館の建物の見事さではなく、どのような形で子供の教育をするかでその町の品位が決まってくるのではないか。後の世の変化をどう乗り越えられ、その思いが継承されるか、そこそ私たちは注目してみるべきのようだ。我孫子の人々が子供たちに郷土の良さをどう伝えたか、それがどう変わっていくのか、そういう点では実のところ民パワーに物凄く期待している。
2015年06月25日
たま駅長、招き猫の功績
和歌山電鉄貴志駅(和歌山県紀の川市)のスーパー駅長を務める三毛猫「たま」は 和歌山電鉄は、観光のシンボルとして国内や海外からの観光客を増加させた招き猫、福猫だった。そのことを高く評価して、2014年1月、同電鉄14駅の総駅長職となる「ウルトラ駅長」に昇進していたが、22日午後7時すぎ、16歳2カ月で天国へ旅立った。同社によると、人間の約80歳に相当するという。
昨年、同駅では「たま駅長就任7周年記念式典」をおこなっており、集まったファンら約300人が祝福したということがあった。たま駅長は国内外のメディアが数多く取り上げ、アジアを中心に、たま駅長見たさに和歌山を訪れる外国人観光客も増加。イタリアの新聞、シンガポールやアメリカのテレビ局が取材に訪れたほか、アメリカンファミリー生命保険(アフラック)の米国本社(ジョージア州)のIR担当者から取材を受けた。同社では株主に向けた事業報告書を発行しており、日本でアフラックのテレビCMに出演したたま駅長の話題を、ユニークな取り組みとして掲載に。最近には、アルジャジーラも注目し、5月に体調をこじらせていたため「ニタマ」が代理取材をうけた世界でも経済効果をもたらず「招き猫」効果の異色の存在だった。
こうした功績をたたえ、和歌山県は「県勲功爵(わかやまでナイト)」や「県観光まねき大明神」の称号を贈っていた。同社では、2007年1月に駅長に任命された。愛くるしさと物珍しさで観光客を招き、赤字のローカル線は一躍人気スポットに。08年にスーパー駅長、写真集などグッズの売り上げでも貢献し、なんと、駅舎も10年には猫を模した新駅舎に模様替えし、和歌山県、紀の川市の顔として地域や乗客に笑顔をもたらしてきた。13年1月に同社の社長代理に昇進した。昨年は貴志川線総駅長職「ウルトラ駅長」に就任したという目覚ましいキャリアを積んでいた。なにぶん、スケートの高橋大輔氏もオリンピック前に母親が、気持ちがおおらかになるようにと駅長の写真をとって渡したとかの名物駅長なので、受験生らにも全国レベルでの知名度が高かった。そのため、ウルトラ駅長の部下とされる同電鉄伊太祈曽(いだきそ)駅長の飼っている三毛猫「ニタマ」(雌、3歳)も「スーパー駅長」になっている。帽子とメダルを身につけた2匹は「いいにゃあ」と張り切っているの様子だったという。
貴志川線存続のため04年9月に沿線住民らがつくった「貴志川線の未来を“つくる”会」代表の浜口晃夫さん(73)=紀の川市=には、この24日午前、たまの死が伝えられた。浜口さんは「一緒に地域を盛り上げてくれた仲間。今後は私たち自身も頑張らないと。安らかに眠ってほしい」と、コメント。
仁坂吉伸知事は「たま駅長は観光のスーパースターとして国内外から絶大な人気を誇り、観光振興に大いに貢献してくれた。突然の死の悲しみとともに感謝の気持ちでいっぱい。どうか安らかに永眠してほしい」と話したとされる。28日午後0時半から貴志駅で社葬を執り行う。葬儀委員長は小嶋社長。
海津にいなの家には、4月で22歳になった白猫がおり、この換算から110歳にあたるということになる。かつては、隣家の家の人の靴音と聞き分けて出迎えに表れたが、今は、成長して帰りの遅くなった子供たち、家族の帰りを日がな一日玄関の前で待っていている。猫や犬は家族や人の繋がりをほっこりと作り、地域の絆になっている心温まるエピソードを耳にすることが少なくない。
昨年、同駅では「たま駅長就任7周年記念式典」をおこなっており、集まったファンら約300人が祝福したということがあった。たま駅長は国内外のメディアが数多く取り上げ、アジアを中心に、たま駅長見たさに和歌山を訪れる外国人観光客も増加。イタリアの新聞、シンガポールやアメリカのテレビ局が取材に訪れたほか、アメリカンファミリー生命保険(アフラック)の米国本社(ジョージア州)のIR担当者から取材を受けた。同社では株主に向けた事業報告書を発行しており、日本でアフラックのテレビCMに出演したたま駅長の話題を、ユニークな取り組みとして掲載に。最近には、アルジャジーラも注目し、5月に体調をこじらせていたため「ニタマ」が代理取材をうけた世界でも経済効果をもたらず「招き猫」効果の異色の存在だった。
こうした功績をたたえ、和歌山県は「県勲功爵(わかやまでナイト)」や「県観光まねき大明神」の称号を贈っていた。同社では、2007年1月に駅長に任命された。愛くるしさと物珍しさで観光客を招き、赤字のローカル線は一躍人気スポットに。08年にスーパー駅長、写真集などグッズの売り上げでも貢献し、なんと、駅舎も10年には猫を模した新駅舎に模様替えし、和歌山県、紀の川市の顔として地域や乗客に笑顔をもたらしてきた。13年1月に同社の社長代理に昇進した。昨年は貴志川線総駅長職「ウルトラ駅長」に就任したという目覚ましいキャリアを積んでいた。なにぶん、スケートの高橋大輔氏もオリンピック前に母親が、気持ちがおおらかになるようにと駅長の写真をとって渡したとかの名物駅長なので、受験生らにも全国レベルでの知名度が高かった。そのため、ウルトラ駅長の部下とされる同電鉄伊太祈曽(いだきそ)駅長の飼っている三毛猫「ニタマ」(雌、3歳)も「スーパー駅長」になっている。帽子とメダルを身につけた2匹は「いいにゃあ」と張り切っているの様子だったという。
貴志川線存続のため04年9月に沿線住民らがつくった「貴志川線の未来を“つくる”会」代表の浜口晃夫さん(73)=紀の川市=には、この24日午前、たまの死が伝えられた。浜口さんは「一緒に地域を盛り上げてくれた仲間。今後は私たち自身も頑張らないと。安らかに眠ってほしい」と、コメント。
仁坂吉伸知事は「たま駅長は観光のスーパースターとして国内外から絶大な人気を誇り、観光振興に大いに貢献してくれた。突然の死の悲しみとともに感謝の気持ちでいっぱい。どうか安らかに永眠してほしい」と話したとされる。28日午後0時半から貴志駅で社葬を執り行う。葬儀委員長は小嶋社長。
海津にいなの家には、4月で22歳になった白猫がおり、この換算から110歳にあたるということになる。かつては、隣家の家の人の靴音と聞き分けて出迎えに表れたが、今は、成長して帰りの遅くなった子供たち、家族の帰りを日がな一日玄関の前で待っていている。猫や犬は家族や人の繋がりをほっこりと作り、地域の絆になっている心温まるエピソードを耳にすることが少なくない。
2015年06月24日
ネパール地震のその後
我孫子に外国人の経営するレストランも多い。台湾、中国、ネパール、マレーシア、タイ、メキシコ・・・・。飲食店を経営するのは楽ではないはずだけれど、そうした外国人の店は続いているから、多文化に興味があるため、時折寄ってみることにしている。我孫子駅の北口のエスカレーター脇のビル1Fにはインド・ネパールと銘打ったカレー店がラーメン店の後に入っている。働いている従業員はネパール人が多いというが、安い人件費でも雇用できるから経営が成り立っているのかもしれない。彼らが母国に送るお金が、ひいては復興支援に繋がることもあるかもしれないと、大盛りのナンを食べながらおもう。
気にしていた最近のネパールの様子が少しわかる記事があったので、ブログに一部を掲載しておきたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネパール地震の発生から二か月になる今、現場で感じるのは、この地震が、首都カトマンズとそれ以外の地域の格差や、カトマンズ市内でも見える格差を如実に映しだしており、今後、押し広げていく可能性もあるという点だ。
地震が起きた直後の被害に関する報道は、人口の多いカトマンズの様子に集中していた。山間部は道路が狭く曲がりくねっており、所々で土砂崩れが起きている。行くことそのものが難しい。また、確かにカトマンズ市内にも被害がひどい地域はある。だが、発生翌日の夜にカトマンズ入りし、空港から市内中心部の宿泊先に移動した私は、市内の様子を見て「あれ?」と思った。
テレビの映像などから、カトマンズに入るまでは、市内は壊滅状態に近いのではないかと考えていた。空港からの道中、多くの人が雨の中でも建物の外で夜を明かしていたが、事前の想像と異なり、崩れている建物がほとんど見当たらなかった。
翌朝、市内中心部を歩いた。繁華街のタメル地区は、ほぼ無傷だった。近くの空き地には大勢の人々がテント暮らしをしていたが、自宅が倒壊したのではなく、余震を恐れて、屋外に避難していたのだ。地震発生当初、市内の空き地を埋め尽くしていたテント暮らしの被災者の多くは、こうした人々だった。数日が過ぎると、自宅に戻る人が増え、次第にテントの数は減っていった。最終的に本当に行き場を失った人だけが、空き地に残った。5月も半ばをすぎ、再びにぎわうようになったショッピングモールの前にも、テントは残り続けた。ここに残った人々こそが、自宅が実際に被害を受けた「被災者」だったのだ。だが、国際社会のネパール地震への関心はぐっと低くなっていた。
◇
カトマンズ市内では、建物の倒壊は一部の地域に集中していた。
一つは、市街地を囲む環状道路沿いに広がる、もともと沼地だった新興住宅街ゴンガブ地区など、地盤の弱い地域だ。その中でも、柱が細いといった構造に問題を抱える建物だけが、横倒しになってぐしゃりとつぶれるように倒壊した。
もう一つは、古い建物だ。市内の観光名所ダルバール広場では、古い寺院や高い塔は倒壊したものの、周囲の建物は無傷だった。地盤がしっかりした住宅街は、ほぼ被害を受けていない。そのコントラストは、不気味なほどくっきりとしていた。
次に見えたのは、首都と地方の大きな差だ。
5月6日、地形的に険しく大きな被害を受けた北東部の山間部シンドゥパルチョーク郡に向かった。カトマンズから、細く曲がりくねり、所々で土砂崩れを起こしている道を約3時間。道中は、ほとんど被害を受けていない集落と、完全に倒壊した集落にはっきり分かれていた。おそらくは地質や地形の問題なのだろう。だが、被害を受けている集落の方がはるかに多く、こうした地域の再建には長い時間がかかるだろうと感じさせられた。
1日かけて、ほこりまみれになりながらシンドゥパルチョーク郡を回り、夕方にカトマンズに戻ってきた。市街地に入ると、強い違和感を感じた。
多くの商店が営業を再開し、人出も戻り、まるで何事もなかったかのような光景が広がっていた。ちょうどこの日あたりから、多くの商店が開き始めていた。ほんの1、2時間前に見た地方での廃虚の様子が、まるで幻のように感じた。
その夜、タメル地区に食事に出た。任務を終えた救助隊か、人道支援NGOのスタッフなのか、ラフな服装の外国人が、タメル地区に多い西洋人好みのカフェでビールを飲んでいた。ほんの数十キロ先の山間部とカトマンズでは、全く違う時が流れていた。
◇
カトマンズから車で半日。そこからさらに、徒歩で3日かかるトレッキングの聖地ランタンは、雪崩で壊滅的な被害を受け、ほぼ全員が村を離れ、カトマンズのチベット寺院に身を寄せている。村全体が、地形が変わるほどの被害を受けているため、帰郷のめどは立たない。ギンドゥ・チリンさん(48)は「カトマンズは暑くてかなわない。ここには着の身着のままで来たし、故郷にも、もはや何も残っていない」とため息をついた。
地震から1カ月を控えた5月23日、ランタンの入り口となる町ドゥンチェに向かった。途中の町ベトラワティで、河原に張られたテントを見かけた。雨が降って川が増水すれば、確実に流されてしまう位置にある。山岳国で平地が乏しいため、出遅れれば、こうした危険な土地にしか、避難生活を送るためのスペースを見つけられなくなってしまう。
取材を続けていると、表通りに人だかりができて、にわかににぎやかになった。ここを選挙区とするマハト財務相が視察に来ていた。マハト氏は有権者に両手を振りながら表通りを練り歩き、また別の方向に向かっていった。ドゥンチェでも、空き地の至る所がテントに占領されていた。深い谷を挟んで向かい側にあるハク村で、地震後に次第に土砂崩れが進行し、今も続々と新たな避難者が出ている。土砂崩れの様子は、ドゥンチェからもくっきりと目に入った。トレッキングで知名度の高いランタンと異なり、これまでハクのことは何も報じられていなかった。
ちょうどこの日にハクから逃れてきたドルジェ・ビンジョさん(55)は「食べ物も水もない。土砂崩れがどんどん広がってくる。もうあそこには戻れない。とはいえ、いつまでもテント暮らしはできない。どうすればいい」と話した。
ドゥンチェのソーシャルワーカーは「ここに、ハクの被災者が生活を再建できる土地はない。政府は移住先を見つけるといっているが、見つかる可能性は極めて低い」と語り、「どこかに『難民キャンプ』のようなものをつくるしかなくなるかもしれない。近い将来、大きな問題になる」とみる。復興計画を練る政府計画委員会によると、山間部住民の20%は、土砂崩れなどによりもとの村に戻れない可能性が高いという。
もう一つ懸念されるのが、6月以降のモンスーン(雨期)だ。すでに緩み、大規模な地滑りが発生している地盤がどうなるか。土砂が川をせき止めれば、洪水も発生しかねない。山間部の人々は、その懸念を口々に語った。
カトマンズに戻ると、タメル地区で明かりをつける飲食店やバーは、さらに増えていた。ただし、救助・支援関係の外国人の多くが去り、観光客も戻らずにがらんとしていた。
◇
出典:
朝日新聞6/9 貫洞欣寛・ニューデリー支局長
気にしていた最近のネパールの様子が少しわかる記事があったので、ブログに一部を掲載しておきたい。
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ネパール地震の発生から二か月になる今、現場で感じるのは、この地震が、首都カトマンズとそれ以外の地域の格差や、カトマンズ市内でも見える格差を如実に映しだしており、今後、押し広げていく可能性もあるという点だ。
地震が起きた直後の被害に関する報道は、人口の多いカトマンズの様子に集中していた。山間部は道路が狭く曲がりくねっており、所々で土砂崩れが起きている。行くことそのものが難しい。また、確かにカトマンズ市内にも被害がひどい地域はある。だが、発生翌日の夜にカトマンズ入りし、空港から市内中心部の宿泊先に移動した私は、市内の様子を見て「あれ?」と思った。
テレビの映像などから、カトマンズに入るまでは、市内は壊滅状態に近いのではないかと考えていた。空港からの道中、多くの人が雨の中でも建物の外で夜を明かしていたが、事前の想像と異なり、崩れている建物がほとんど見当たらなかった。
翌朝、市内中心部を歩いた。繁華街のタメル地区は、ほぼ無傷だった。近くの空き地には大勢の人々がテント暮らしをしていたが、自宅が倒壊したのではなく、余震を恐れて、屋外に避難していたのだ。地震発生当初、市内の空き地を埋め尽くしていたテント暮らしの被災者の多くは、こうした人々だった。数日が過ぎると、自宅に戻る人が増え、次第にテントの数は減っていった。最終的に本当に行き場を失った人だけが、空き地に残った。5月も半ばをすぎ、再びにぎわうようになったショッピングモールの前にも、テントは残り続けた。ここに残った人々こそが、自宅が実際に被害を受けた「被災者」だったのだ。だが、国際社会のネパール地震への関心はぐっと低くなっていた。
◇
カトマンズ市内では、建物の倒壊は一部の地域に集中していた。
一つは、市街地を囲む環状道路沿いに広がる、もともと沼地だった新興住宅街ゴンガブ地区など、地盤の弱い地域だ。その中でも、柱が細いといった構造に問題を抱える建物だけが、横倒しになってぐしゃりとつぶれるように倒壊した。
もう一つは、古い建物だ。市内の観光名所ダルバール広場では、古い寺院や高い塔は倒壊したものの、周囲の建物は無傷だった。地盤がしっかりした住宅街は、ほぼ被害を受けていない。そのコントラストは、不気味なほどくっきりとしていた。
次に見えたのは、首都と地方の大きな差だ。
5月6日、地形的に険しく大きな被害を受けた北東部の山間部シンドゥパルチョーク郡に向かった。カトマンズから、細く曲がりくねり、所々で土砂崩れを起こしている道を約3時間。道中は、ほとんど被害を受けていない集落と、完全に倒壊した集落にはっきり分かれていた。おそらくは地質や地形の問題なのだろう。だが、被害を受けている集落の方がはるかに多く、こうした地域の再建には長い時間がかかるだろうと感じさせられた。
1日かけて、ほこりまみれになりながらシンドゥパルチョーク郡を回り、夕方にカトマンズに戻ってきた。市街地に入ると、強い違和感を感じた。
多くの商店が営業を再開し、人出も戻り、まるで何事もなかったかのような光景が広がっていた。ちょうどこの日あたりから、多くの商店が開き始めていた。ほんの1、2時間前に見た地方での廃虚の様子が、まるで幻のように感じた。
その夜、タメル地区に食事に出た。任務を終えた救助隊か、人道支援NGOのスタッフなのか、ラフな服装の外国人が、タメル地区に多い西洋人好みのカフェでビールを飲んでいた。ほんの数十キロ先の山間部とカトマンズでは、全く違う時が流れていた。
◇
カトマンズから車で半日。そこからさらに、徒歩で3日かかるトレッキングの聖地ランタンは、雪崩で壊滅的な被害を受け、ほぼ全員が村を離れ、カトマンズのチベット寺院に身を寄せている。村全体が、地形が変わるほどの被害を受けているため、帰郷のめどは立たない。ギンドゥ・チリンさん(48)は「カトマンズは暑くてかなわない。ここには着の身着のままで来たし、故郷にも、もはや何も残っていない」とため息をついた。
地震から1カ月を控えた5月23日、ランタンの入り口となる町ドゥンチェに向かった。途中の町ベトラワティで、河原に張られたテントを見かけた。雨が降って川が増水すれば、確実に流されてしまう位置にある。山岳国で平地が乏しいため、出遅れれば、こうした危険な土地にしか、避難生活を送るためのスペースを見つけられなくなってしまう。
取材を続けていると、表通りに人だかりができて、にわかににぎやかになった。ここを選挙区とするマハト財務相が視察に来ていた。マハト氏は有権者に両手を振りながら表通りを練り歩き、また別の方向に向かっていった。ドゥンチェでも、空き地の至る所がテントに占領されていた。深い谷を挟んで向かい側にあるハク村で、地震後に次第に土砂崩れが進行し、今も続々と新たな避難者が出ている。土砂崩れの様子は、ドゥンチェからもくっきりと目に入った。トレッキングで知名度の高いランタンと異なり、これまでハクのことは何も報じられていなかった。
ちょうどこの日にハクから逃れてきたドルジェ・ビンジョさん(55)は「食べ物も水もない。土砂崩れがどんどん広がってくる。もうあそこには戻れない。とはいえ、いつまでもテント暮らしはできない。どうすればいい」と話した。
ドゥンチェのソーシャルワーカーは「ここに、ハクの被災者が生活を再建できる土地はない。政府は移住先を見つけるといっているが、見つかる可能性は極めて低い」と語り、「どこかに『難民キャンプ』のようなものをつくるしかなくなるかもしれない。近い将来、大きな問題になる」とみる。復興計画を練る政府計画委員会によると、山間部住民の20%は、土砂崩れなどによりもとの村に戻れない可能性が高いという。
もう一つ懸念されるのが、6月以降のモンスーン(雨期)だ。すでに緩み、大規模な地滑りが発生している地盤がどうなるか。土砂が川をせき止めれば、洪水も発生しかねない。山間部の人々は、その懸念を口々に語った。
カトマンズに戻ると、タメル地区で明かりをつける飲食店やバーは、さらに増えていた。ただし、救助・支援関係の外国人の多くが去り、観光客も戻らずにがらんとしていた。
◇
出典:
朝日新聞6/9 貫洞欣寛・ニューデリー支局長
2015年06月23日
元法制局長官らも法案に対し相次いで疑問を呈す
集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案をめぐる国会審議は、参考人質疑が行われ、歴代内閣で憲法解釈を担ってきた元法制局長官らも法案に対し相次いで疑問を投げかけました。国会記者会館からの報告です。
野党側の推薦で出席した2人の元法制局長官は、集団的自衛権について、これまでの憲法解釈との整合性に加え、武力行使の幅を広げる政策判断としても問題点を指摘しました。
「集団的自衛権の行使容認は『限定的』と称するものを含めて、従来の政府見解とは相いれないものであって、これはいわば“黒”を“白”と言いくるめる類と言うしかない。『自国防衛』と称して武力攻撃を受けていないのに武力行使をするのは、違法とされる先制攻撃そのものであります」(宮崎礼壹 元内閣法制局長官)
「(集団的自衛権)これを行使するということは、進んで戦争に参加するということでありますから、敵となる相手国に我が国領土を攻撃する大義名分を与えるということでもあるわけですね。国民を守るというよりは進んで国民を危険にさらすという結果しかもたらさない」(阪田雅裕 元内閣法制局長官)
これに対し、自民推薦の参考人としては、菅官房長官が先日、「法案を憲法違反ではないと言っている憲法学者」として名前を挙げた駒澤大学の西教授が意見を述べました。
西教授は「戦争法案ではなく、戦争抑止法案だ」と強調したうえで、集団的自衛権の行使に憲法上の問題はなく、政府の政策判断によって可能との考えを示しました。
安倍政権は、安全保障環境の変化を理由に「あくまで限定的」という集団的自衛権を掲げて押し切る構えですが、政府の憲法解釈を担ってきた法制局長官経験者からも明確に問題点を指摘されたことに対しては、より分かりやすい反論が求められます。(22日11:34).
最終更新:
JNN 6月22日(月)
野党側の推薦で出席した2人の元法制局長官は、集団的自衛権について、これまでの憲法解釈との整合性に加え、武力行使の幅を広げる政策判断としても問題点を指摘しました。
「集団的自衛権の行使容認は『限定的』と称するものを含めて、従来の政府見解とは相いれないものであって、これはいわば“黒”を“白”と言いくるめる類と言うしかない。『自国防衛』と称して武力攻撃を受けていないのに武力行使をするのは、違法とされる先制攻撃そのものであります」(宮崎礼壹 元内閣法制局長官)
「(集団的自衛権)これを行使するということは、進んで戦争に参加するということでありますから、敵となる相手国に我が国領土を攻撃する大義名分を与えるということでもあるわけですね。国民を守るというよりは進んで国民を危険にさらすという結果しかもたらさない」(阪田雅裕 元内閣法制局長官)
これに対し、自民推薦の参考人としては、菅官房長官が先日、「法案を憲法違反ではないと言っている憲法学者」として名前を挙げた駒澤大学の西教授が意見を述べました。
西教授は「戦争法案ではなく、戦争抑止法案だ」と強調したうえで、集団的自衛権の行使に憲法上の問題はなく、政府の政策判断によって可能との考えを示しました。
安倍政権は、安全保障環境の変化を理由に「あくまで限定的」という集団的自衛権を掲げて押し切る構えですが、政府の憲法解釈を担ってきた法制局長官経験者からも明確に問題点を指摘されたことに対しては、より分かりやすい反論が求められます。(22日11:34).
最終更新:
JNN 6月22日(月)
2015年06月22日
シリアのバラと世界遺産
在英のシリア人権監視団は21日、過激派組織「イスラム国」が世界文化遺産に登録されたシリア中部パルミラの古代ローマ時代の遺跡群がある地域に、地雷や爆弾を仕掛けたと述べた。
シリア・アサド大統領の夫人は砂漠のバラと呼ばれる才媛。アスマ・アサド夫人は英国生まれでロンドン大卒業後、銀行勤務の経験がある。アサド大統領が英国留学・研修していた際に知り合い結婚した。慈善活動に熱心で大統領を支えたが、民主化運動開始後は沈黙を保ち、欧米諸国で批判が高まった。
地雷などは20日に仕掛けられたという。同組織は5月にパルミラを制圧し、遺跡群を支配下に置いた。「イスラム国」はイラクの支配地域で遺跡を相次いで破壊していることから、パルミラ遺跡も危険な状態に置かれているとの懸念が高まっている。ただ、今回は遺跡の破壊が目的ではなく、シリア政府軍によるパルミラ奪還作戦を防ぐための措置であるとの観かたもある。
参照:
時事通信 6月21日
シリア・アサド大統領の夫人は砂漠のバラと呼ばれる才媛。アスマ・アサド夫人は英国生まれでロンドン大卒業後、銀行勤務の経験がある。アサド大統領が英国留学・研修していた際に知り合い結婚した。慈善活動に熱心で大統領を支えたが、民主化運動開始後は沈黙を保ち、欧米諸国で批判が高まった。
地雷などは20日に仕掛けられたという。同組織は5月にパルミラを制圧し、遺跡群を支配下に置いた。「イスラム国」はイラクの支配地域で遺跡を相次いで破壊していることから、パルミラ遺跡も危険な状態に置かれているとの懸念が高まっている。ただ、今回は遺跡の破壊が目的ではなく、シリア政府軍によるパルミラ奪還作戦を防ぐための措置であるとの観かたもある。
参照:
時事通信 6月21日
2015年06月21日
ふれあい塾あびこ 開講1000回記念
まちづくりが街の要、それにはそれを支える人づくりにつきます。
どうぞ、お気軽に下記の講座にご参加ください!
カレンダーにマークして、お誘いでいらして頂けますようお願いいたします。
●会場 けやきプラザ2階 ふれあいホール
●受講料 無料
●日時 2015年7月4日(土)午後1時30分〜4時
◆午後1時30分〜2時20分
「学びを通じてまちづくり参加を」
川村学園女子大学名誉教授 齋藤哲瑯氏
◆午後2時30分〜3時15分 ハーフタイムコンサート
マリンバとピアノによる!
ベートーヴェンの交響曲「運命」
東京藝術大学名誉教授 有賀誠門氏と、竹内将也氏、
林瑞穂氏のみなさん
◆午後3時20分〜3時50分
「市の現状・課題と市民の協働参加への期待」
我孫子市副市長 青木 章氏
◆午後3時50分〜4時
「新しい『市民公益活動支援指針』と当面の支援企画」
我孫子市市民生活部長 枝村 潤氏
主催:NPO法人ふれあい塾あびこ 我孫子市教育委員会
どうぞ、お気軽に下記の講座にご参加ください!
カレンダーにマークして、お誘いでいらして頂けますようお願いいたします。
●会場 けやきプラザ2階 ふれあいホール
●受講料 無料
●日時 2015年7月4日(土)午後1時30分〜4時
◆午後1時30分〜2時20分
「学びを通じてまちづくり参加を」
川村学園女子大学名誉教授 齋藤哲瑯氏
◆午後2時30分〜3時15分 ハーフタイムコンサート
マリンバとピアノによる!
ベートーヴェンの交響曲「運命」
東京藝術大学名誉教授 有賀誠門氏と、竹内将也氏、
林瑞穂氏のみなさん
◆午後3時20分〜3時50分
「市の現状・課題と市民の協働参加への期待」
我孫子市副市長 青木 章氏
◆午後3時50分〜4時
「新しい『市民公益活動支援指針』と当面の支援企画」
我孫子市市民生活部長 枝村 潤氏
主催:NPO法人ふれあい塾あびこ 我孫子市教育委員会
2015年06月20日
「アンネのバラ」によせて
「アンネの日記」は全国各地の図書館に蔵書されて、戦争の悲惨さを語り、命の尊さを伝えるベストセラーとして名高いが、昨年は図書館で切り裂かれるという嫌な事件が発覚したということもあった。
そのアンネにちなんだ美しいバラがあり、そのバラの苗が日本にも伝わり、バラ生産量が全国一の岐阜県大野町で育てられて、各地に広められてきたことはあまり知られていない。
第2次大戦中にユダヤ人強制収容所で亡くなった少女アンネ・フランク(1929〜45)を悼み、ベルギーの育種家がつくった。アンネの父オットー・フランクさんが1972年、奈良県の牧師に贈ったのが日本でのルーツ。その後、京都府の元高校教諭が息子と栽培して全国各地に送り、広まった。岐阜県には約30年前、県ユネスコ協会を通じ、大野町のバラ農家青木宏達さん(58)の元に苗1株がやってきた。接ぎ木で年10株ほどを育て、小学校などに寄付してきた。今年は、岐阜県のカメラマンとの縁あって大槌町(岩手県)にも贈られた。地元では「逆境に耐えたアンネゆかりのバラで、被災者や被災地に訪れたひとにも癒やしになればうれしい」と話す。
犠牲となった人々、その縁者の生き方は、実のところ決して簡単に癒されることはない。 アンネの死後に義理の姉となるエバ・シュロスさん(86)は、アンネがナチスの強制収容所で命を落としたけれど、エバさんは生還した。戦後70年の今、義妹アンネへの複雑な思いと激動の半生を語った。
「アンネには、少女とは思えない、どこか近寄りがたいオーラがあった」と、ロンドン市内の自宅で4月、エバさんはアンネとの数奇な縁を語った。エバさんは1929年5月、ウィーンで製靴工場を営むユダヤ人中流家庭に生まれた。両親と3歳年上の兄との穏やかな暮らしに暗雲が垂れこめたのは33年、エバさん4歳の頃。隣国ドイツにヒトラー政権が誕生し、ユダヤ人排斥のうねりは欧州に広がっていた。
10歳になった39年、第2次大戦が勃発。一家は追われるように、オランダのアムステルダムに移り住んだ。近所に住んでいたのが、同い年のアンネ・フランクだった。「アンネはファッションやヘアスタイル、男の子にも興味があった。うぬぼれも強く、おしゃべり。私とは正反対だった」と、当時を振り返る。アンネは「友人の一人」に過ぎなかった。その後、2人の人生が複雑に絡み合うことなど予想もしなかった。
まもなく、オランダにも独軍が侵攻。エバさん一家は抵抗組織の助けで、隠れ家に潜んだ。同様に身を隠したアンネに会うこともなくなった。潜伏生活が2年余り続いたある朝、「密告」を受けたナチス親衛隊に踏み込まれる。
一家は拷問にも等しい取り調べを受け、ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所へ。最愛の父と兄から引き離され、エバさんは母のエルフリーデさんと共に近くのビルケナウ強制収容所に入れられ、飢餓と過酷な強制労働でやせ衰えていった。シャワー室に入れられるたびに「毒ガス」におびえ続ける日々。便所はバケツ1個。5人が一つのコップで奪い合うようにスープをすすった。家畜のような扱いに何度も高熱を出し、生死の境をさまよった。
収容から約8カ月後の45年1月27日、ソ連軍が収容所を解放。エバさんは九死に一生を得た喜びをかみしめる間もなく、父と兄の悲報を知る。「兄は終戦の約1カ月前、父はわずか3日前に力尽きた。私と母が無事なことも知らずに」
アンネも独北部の収容所で命を落としたが、生き延びたアンネの父オットーさんが戦後、エルフリーデさんと再婚。エバさんはアンネと義理の姉妹となった。「重荷だった。その後の私の人生は、まさに『アンネの影』だった」と語る。
■嫉妬を捨て「日記」の続編
「アンネの日記」がオランダで初出版されたのは終戦直後の47年。その後、世界中に広まったが、そこには父オットーさんの熱心な「宣伝」があったという。「オットーは、アンネを救えなかった自分を責め続けた。アンネが残したメッセージに救いを求めた」と、エバさんは考える。
だが、当時のエバさんの心に、アンネの言葉は「響かなかった」。アンネが日記の中で「人間の本性は善だと信じている」と吐露するが、エバさんは「収容所での経験をする前に書かれたものだから」と思わずにはいられなかった。収容所には冷酷なナチス将校だけでなく、生き残るためには他人を顧みない収容者もいた。極限状態の「人間の本性」を見せつけられた。
エバさんの憎悪は、ナチスの残虐行為を止められなかった「世界」にも向けられた。アンネに執着する継父オットーさんへの複雑な思いもあった。心の中に渦巻くどす黒い感情。「この世にいないアンネばかり注目され、生き残った私は苦しみを抱えて生きている。それが許せなかった」
救いの手を差し伸べたのは、他ならぬオットーさん。「人を憎めば自分を惨めにするだけだ」とエバさんに諭し続けた。いてついた心はぬくもりを取り戻していった。「私はアンネに嫉妬していたのです」
エバさんは収容所体験を人前で語ろうとはしなかった。終戦直後、世間に過去を振り返る余裕はなかった。「数十年たって世間に心の準備ができた時、元収容者の多くは偏見を恐れて過去を語りたがらなかった。子どもたちに重荷を背負わせたくなかった」
転機は40年以上たった86年。ロンドンで「アンネの日記」のイベントに招かれ、促されるままに収容所体験を初めて告白した。聴衆は衝撃を受け、「アンネの続編」を書いて欲しいという依頼が殺到。迷った末、受け入れた。「アンネの日記は素晴らしいが、収容所のことは書かれていない。それだけでは真のホロコースト(ユダヤ人らの大量虐殺)を伝えることはできない」と考えたからだ。
エバさんは戦後、しばしば悪夢に襲われた。自分と母が、ガス室に送られる「死の選別」を受ける場面だが、「収容所体験の話を人前でするようなって、悪夢はとまった」と言う。
戦後70年の今年、エバさんは各地のイベントや学校で講演している。終戦記念の5月8日の前後には、ドイツのテレビ特番にも出演した。ナチスの残虐行為について「ヒトラーの命令に逆らえなかった」と釈明する将校もいるが、エバさんは「多くの人が当時、残虐行為に喜んで手を染めていた」と憤る。一方で、ドイツ人の若い世代に、こう諭す。「祖父母のしたことに罪の意識を感じることはない。ただ歴史を学び、それを忘れないでいてほしい」(ロンドン=玉川透)
◇
〈アンネの日記〉 アンネ・フランクはナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アムステルダムの隠れ家に家族とともにこもった。44年に逮捕され、ドイツの強制収容所で15歳の生涯を閉じた。隠れ家での生活、戦争や家族への思いをつづった日記は世界的ベストセラーになり、60以上の言語に翻訳されている。
参照:
日経新聞デジタル 6/11
そのアンネにちなんだ美しいバラがあり、そのバラの苗が日本にも伝わり、バラ生産量が全国一の岐阜県大野町で育てられて、各地に広められてきたことはあまり知られていない。
第2次大戦中にユダヤ人強制収容所で亡くなった少女アンネ・フランク(1929〜45)を悼み、ベルギーの育種家がつくった。アンネの父オットー・フランクさんが1972年、奈良県の牧師に贈ったのが日本でのルーツ。その後、京都府の元高校教諭が息子と栽培して全国各地に送り、広まった。岐阜県には約30年前、県ユネスコ協会を通じ、大野町のバラ農家青木宏達さん(58)の元に苗1株がやってきた。接ぎ木で年10株ほどを育て、小学校などに寄付してきた。今年は、岐阜県のカメラマンとの縁あって大槌町(岩手県)にも贈られた。地元では「逆境に耐えたアンネゆかりのバラで、被災者や被災地に訪れたひとにも癒やしになればうれしい」と話す。
犠牲となった人々、その縁者の生き方は、実のところ決して簡単に癒されることはない。 アンネの死後に義理の姉となるエバ・シュロスさん(86)は、アンネがナチスの強制収容所で命を落としたけれど、エバさんは生還した。戦後70年の今、義妹アンネへの複雑な思いと激動の半生を語った。
「アンネには、少女とは思えない、どこか近寄りがたいオーラがあった」と、ロンドン市内の自宅で4月、エバさんはアンネとの数奇な縁を語った。エバさんは1929年5月、ウィーンで製靴工場を営むユダヤ人中流家庭に生まれた。両親と3歳年上の兄との穏やかな暮らしに暗雲が垂れこめたのは33年、エバさん4歳の頃。隣国ドイツにヒトラー政権が誕生し、ユダヤ人排斥のうねりは欧州に広がっていた。
10歳になった39年、第2次大戦が勃発。一家は追われるように、オランダのアムステルダムに移り住んだ。近所に住んでいたのが、同い年のアンネ・フランクだった。「アンネはファッションやヘアスタイル、男の子にも興味があった。うぬぼれも強く、おしゃべり。私とは正反対だった」と、当時を振り返る。アンネは「友人の一人」に過ぎなかった。その後、2人の人生が複雑に絡み合うことなど予想もしなかった。
まもなく、オランダにも独軍が侵攻。エバさん一家は抵抗組織の助けで、隠れ家に潜んだ。同様に身を隠したアンネに会うこともなくなった。潜伏生活が2年余り続いたある朝、「密告」を受けたナチス親衛隊に踏み込まれる。
一家は拷問にも等しい取り調べを受け、ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所へ。最愛の父と兄から引き離され、エバさんは母のエルフリーデさんと共に近くのビルケナウ強制収容所に入れられ、飢餓と過酷な強制労働でやせ衰えていった。シャワー室に入れられるたびに「毒ガス」におびえ続ける日々。便所はバケツ1個。5人が一つのコップで奪い合うようにスープをすすった。家畜のような扱いに何度も高熱を出し、生死の境をさまよった。
収容から約8カ月後の45年1月27日、ソ連軍が収容所を解放。エバさんは九死に一生を得た喜びをかみしめる間もなく、父と兄の悲報を知る。「兄は終戦の約1カ月前、父はわずか3日前に力尽きた。私と母が無事なことも知らずに」
アンネも独北部の収容所で命を落としたが、生き延びたアンネの父オットーさんが戦後、エルフリーデさんと再婚。エバさんはアンネと義理の姉妹となった。「重荷だった。その後の私の人生は、まさに『アンネの影』だった」と語る。
■嫉妬を捨て「日記」の続編
「アンネの日記」がオランダで初出版されたのは終戦直後の47年。その後、世界中に広まったが、そこには父オットーさんの熱心な「宣伝」があったという。「オットーは、アンネを救えなかった自分を責め続けた。アンネが残したメッセージに救いを求めた」と、エバさんは考える。
だが、当時のエバさんの心に、アンネの言葉は「響かなかった」。アンネが日記の中で「人間の本性は善だと信じている」と吐露するが、エバさんは「収容所での経験をする前に書かれたものだから」と思わずにはいられなかった。収容所には冷酷なナチス将校だけでなく、生き残るためには他人を顧みない収容者もいた。極限状態の「人間の本性」を見せつけられた。
エバさんの憎悪は、ナチスの残虐行為を止められなかった「世界」にも向けられた。アンネに執着する継父オットーさんへの複雑な思いもあった。心の中に渦巻くどす黒い感情。「この世にいないアンネばかり注目され、生き残った私は苦しみを抱えて生きている。それが許せなかった」
救いの手を差し伸べたのは、他ならぬオットーさん。「人を憎めば自分を惨めにするだけだ」とエバさんに諭し続けた。いてついた心はぬくもりを取り戻していった。「私はアンネに嫉妬していたのです」
エバさんは収容所体験を人前で語ろうとはしなかった。終戦直後、世間に過去を振り返る余裕はなかった。「数十年たって世間に心の準備ができた時、元収容者の多くは偏見を恐れて過去を語りたがらなかった。子どもたちに重荷を背負わせたくなかった」
転機は40年以上たった86年。ロンドンで「アンネの日記」のイベントに招かれ、促されるままに収容所体験を初めて告白した。聴衆は衝撃を受け、「アンネの続編」を書いて欲しいという依頼が殺到。迷った末、受け入れた。「アンネの日記は素晴らしいが、収容所のことは書かれていない。それだけでは真のホロコースト(ユダヤ人らの大量虐殺)を伝えることはできない」と考えたからだ。
エバさんは戦後、しばしば悪夢に襲われた。自分と母が、ガス室に送られる「死の選別」を受ける場面だが、「収容所体験の話を人前でするようなって、悪夢はとまった」と言う。
戦後70年の今年、エバさんは各地のイベントや学校で講演している。終戦記念の5月8日の前後には、ドイツのテレビ特番にも出演した。ナチスの残虐行為について「ヒトラーの命令に逆らえなかった」と釈明する将校もいるが、エバさんは「多くの人が当時、残虐行為に喜んで手を染めていた」と憤る。一方で、ドイツ人の若い世代に、こう諭す。「祖父母のしたことに罪の意識を感じることはない。ただ歴史を学び、それを忘れないでいてほしい」(ロンドン=玉川透)
◇
〈アンネの日記〉 アンネ・フランクはナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アムステルダムの隠れ家に家族とともにこもった。44年に逮捕され、ドイツの強制収容所で15歳の生涯を閉じた。隠れ家での生活、戦争や家族への思いをつづった日記は世界的ベストセラーになり、60以上の言語に翻訳されている。
参照:
日経新聞デジタル 6/11
2015年06月19日
MERS,韓国から上陸、感染拡大の恐れ
多くの死者を出した重症急性呼吸器症候群(SARS、致死率約10%)の約4倍の致死率というMERSが韓国に上陸、死者・感染者が急拡大している。MERSは、せきやくしゃみなどの飛沫でうつり、感染すると38度以上の高熱が続き、せきが止まらなくなる。感染後、5日以内に肺炎を引き起こし、しばしば重症化する。特徴は肺炎とともに、腎臓の障害を引き起こすことが多いことだ。やがて腎不全へと移行し、多臓器不全を起こして患者を死に至らしめる。特効薬はなく、対症療法しか手はないという。
特効薬がない感染症を野放しにした韓国。現地事情に詳しいジャーナリストの室谷克実氏は「鳥インフルエンザが世界的に流行したときも、韓国保健福祉省の当局者が『(鳥を)加熱すれば大丈夫』と発言して世界で大ひんしゅくを買った。一時が万事この調子だ」と、いつものことと解説する。
当初、韓国当局が楽観し、最初の感染者の男性を放置していたという重大事実が発覚した。MERSの感染者が乗った航空機が消毒されずに韓国から日本、中国に運航していたことも発覚。パンデミック(世界的流行)寸前を招いている朴槿恵(パク・クネ)政権に批判の声が渦巻いている。危機を危機と認識し、迅速な対応を打つ。被害の拡大を抑えるために真っ先にやるべきことだが、韓国にはその概念がないようだ。
この男性は、5月に中東4カ国の訪問から帰国し、発熱があったため、医師の助言を受け政府の疾病管理本部にMERS検査を求めた。しかし、男性の訪問国を「バーレーンだけ」と聞いた同本部は「MERSの発生国ではない」との理由で一度は断り、感染確認は2日遅れたという。確認後も「感染力は強くない」との判断から限定的な隔離措置を続けた結果、この男性から少なくとも22人に感染が起きた。
最初の患者から感染した人物を介し、さらに感染が広がる3次感染に発展したが、発表されている以上の感染者、死亡者が出ている可能性もある。対策が後手後手で感染がどれだけ広がるのか想像もつかない状況」とあきれる。
悪い事態は続き、朝鮮日報系の経済ニュースサイトは3日までに、MERSに感染した韓国人男性(44)が5月26日に利用した韓国・仁川発香港行きの航空機が、消毒されないまま27日まで名古屋や中国・大連などへの運航を続けたと伝えた。報道は、韓国保健当局から運航会社のアシアナ航空への連絡が遅れたためと指摘。28日に中国・長沙から仁川への飛行を終えた後、消毒が行われたという。
男性は香港から陸路で中国広東省に移動後、27日に韓国政府の連絡を受けた中国当局に隔離され、感染が確認された。
この重大な事態に直面しながら、朴政権下の保健や司法当局は「不確かな噂を流した者は罰する」と表明し、政府への批判を牽制、病院名を公表してほしいとの地元の要望にも応じていない。
現在の状況を、政府の救助失敗で300人以上が犠牲になった沈没事故になぞらえ、「全国民的なセウォル号事故だ」との声も国内で上がる。セウォル号の沈没事故後、安全性の不安から同国への外国人観光客が激減しているが、今回の事態は観光業界へのさらなるダメージとなっている。
韓国では感染症対策に欠かせない隔離病棟が「ほとんど整備されていない」といい、室谷氏は「日本にあるようなサーモグラフィー(熱感知器)も設置しておらず、空港の防疫体制も極めてお粗末。申告しない限り、感染者を素通りさせているのが現状だ」と指摘し、続ける。
「現在の韓国の防疫体制では、MERSの国外流出は避けられない。感染者の男性を中国に入国させてしまったケースでも、韓国政府は『個人の問題で政府に責任はない』と、われ関せずの姿勢を貫いている。韓国側に事態の収束を求めるのは無駄で、日本は自己防衛するしか手はない」
関西空港はすでにMERS用の検査試薬を準備済みで、担当者は「可能な限り水際で感染者を発見するのがわれわれの役割。そのための検査態勢は整っている」と強調、成田空港での対応も同様だ。日本上陸は時間の問題とも囁かれるなか、果たして水際で防げるのだろうか。観光どころではない危機的状況だ。
参照:
IZAニュースまとめ 2015/6/4
特効薬がない感染症を野放しにした韓国。現地事情に詳しいジャーナリストの室谷克実氏は「鳥インフルエンザが世界的に流行したときも、韓国保健福祉省の当局者が『(鳥を)加熱すれば大丈夫』と発言して世界で大ひんしゅくを買った。一時が万事この調子だ」と、いつものことと解説する。
当初、韓国当局が楽観し、最初の感染者の男性を放置していたという重大事実が発覚した。MERSの感染者が乗った航空機が消毒されずに韓国から日本、中国に運航していたことも発覚。パンデミック(世界的流行)寸前を招いている朴槿恵(パク・クネ)政権に批判の声が渦巻いている。危機を危機と認識し、迅速な対応を打つ。被害の拡大を抑えるために真っ先にやるべきことだが、韓国にはその概念がないようだ。
この男性は、5月に中東4カ国の訪問から帰国し、発熱があったため、医師の助言を受け政府の疾病管理本部にMERS検査を求めた。しかし、男性の訪問国を「バーレーンだけ」と聞いた同本部は「MERSの発生国ではない」との理由で一度は断り、感染確認は2日遅れたという。確認後も「感染力は強くない」との判断から限定的な隔離措置を続けた結果、この男性から少なくとも22人に感染が起きた。
最初の患者から感染した人物を介し、さらに感染が広がる3次感染に発展したが、発表されている以上の感染者、死亡者が出ている可能性もある。対策が後手後手で感染がどれだけ広がるのか想像もつかない状況」とあきれる。
悪い事態は続き、朝鮮日報系の経済ニュースサイトは3日までに、MERSに感染した韓国人男性(44)が5月26日に利用した韓国・仁川発香港行きの航空機が、消毒されないまま27日まで名古屋や中国・大連などへの運航を続けたと伝えた。報道は、韓国保健当局から運航会社のアシアナ航空への連絡が遅れたためと指摘。28日に中国・長沙から仁川への飛行を終えた後、消毒が行われたという。
男性は香港から陸路で中国広東省に移動後、27日に韓国政府の連絡を受けた中国当局に隔離され、感染が確認された。
この重大な事態に直面しながら、朴政権下の保健や司法当局は「不確かな噂を流した者は罰する」と表明し、政府への批判を牽制、病院名を公表してほしいとの地元の要望にも応じていない。
現在の状況を、政府の救助失敗で300人以上が犠牲になった沈没事故になぞらえ、「全国民的なセウォル号事故だ」との声も国内で上がる。セウォル号の沈没事故後、安全性の不安から同国への外国人観光客が激減しているが、今回の事態は観光業界へのさらなるダメージとなっている。
韓国では感染症対策に欠かせない隔離病棟が「ほとんど整備されていない」といい、室谷氏は「日本にあるようなサーモグラフィー(熱感知器)も設置しておらず、空港の防疫体制も極めてお粗末。申告しない限り、感染者を素通りさせているのが現状だ」と指摘し、続ける。
「現在の韓国の防疫体制では、MERSの国外流出は避けられない。感染者の男性を中国に入国させてしまったケースでも、韓国政府は『個人の問題で政府に責任はない』と、われ関せずの姿勢を貫いている。韓国側に事態の収束を求めるのは無駄で、日本は自己防衛するしか手はない」
関西空港はすでにMERS用の検査試薬を準備済みで、担当者は「可能な限り水際で感染者を発見するのがわれわれの役割。そのための検査態勢は整っている」と強調、成田空港での対応も同様だ。日本上陸は時間の問題とも囁かれるなか、果たして水際で防げるのだろうか。観光どころではない危機的状況だ。
参照:
IZAニュースまとめ 2015/6/4
2015年06月18日
美しい郷土を守る、とは一朝一夕にならず
我孫子市の中央学院大学において手賀沼学会大会が開催されるようになって久しい。2004年に手賀沼集水域の自然、社会を含めた文化の総体について、気楽に学ぶ目的で設立され、海津新名もレポートを提出して加わった事があった。設立にあたっては、山階鳥研の山岸哲所長(当時、現在名誉所長)が発起人として参加し、2013年には第十回記念大会が開催され、美しい手賀沼を愛する市民の連合会なども運営委員となるなど市民サイドの協力や、福嶋浩彦元我孫子市長(同学院教授、前消費者庁長官)の講演がされた。さすがに、「国民がいて、国家がある。それなのに『国家があって国民がいる』というふうに、今は逆立ちしてみている。地域から変わらなければ、国は変わらない。地域の人が考えて、実行しなくては、地域の人は幸せにならない。」と弁舌爽やか、更に住宅都市を掲げた市長であったが「人口が減るときにどう質を高めて小さくしていくかを考えていく必要がある。」との提言もされたとのことだ。
この記念開催には、堂本前知事の講演もあって、まず手賀沼で絶滅した水生植物を40年前の沼の土から復活させようという県立中央博物館の遠大な計画を紹介のあと、亀成川の水源地に残る生態系がなくなるという問題について話されたのだと記録がWebに残っている。「これだけ貴重なものが残っているものを壊すのは犯罪です。宝物にして保全していくべき」との講演の最後には、写真が草深原(そうふけっぱら)というタイトルで草原の映像が出され、なんとも関東エリアのサンクチュアリを実感させ、私たちが県民が国土を守らなくてはと、気づきの場所に暮らしている事を教える内容だったようだ。
もっとも印西市民も、亀成川の危機的状況を知らない方は大勢いる。むしろ、柏、松戸などの大都市圏の住民が、都内近郊で、ホタルやキツネが見られると関心を示していたりする。
それを示すような日本魚類学会の会長が招聘されての講演きのタイトルは「日本の宝 亀成川」だった。以来、日本トンボ学会、日本草地学会、日本生態学会からも注目され、要望書の提出やら調査やら意見書やらと、とにかく、住んでいる私たちが思っている以上に科学的にもこの地のすばらしさが、証明されてきたという。
残念ながら、我孫子市長の「外来種のコブハクチョウを好ましい生きものとしてとらえていた」(2009年)の話は現実を知らなすぎると辛口コメントが寄せられていた。基調講演は何を言いたいのかよくわからず、利根川の変遷をなぞっただけであり、収穫は何もなかったと手厳しい。「ブラックバスやブルーギル、アメリカナマズを問題視していたのに、ハクレンは何とも思っていないようで、やはり物事の本質を理解していないことがわかる。時間は半分でよかった。」「全体的に通してみた感想は、プレゼンテーションの稚拙さが目立った。高齢者が多いために、従来の講演のような形式が多く、退屈であり、このような発表は久しぶりに見た気がする。かといって話が面白いわけではない。手賀沼の明日を思うと、すこし悲しくなる学会であった。」との参加した人のブログ書き込みがあって、この学会の取り組みも見直されているのかもしれない・・・。
(と、思って聞いたところ、11年目を迎えて、学会は終了したということが分かった)
この記念開催には、堂本前知事の講演もあって、まず手賀沼で絶滅した水生植物を40年前の沼の土から復活させようという県立中央博物館の遠大な計画を紹介のあと、亀成川の水源地に残る生態系がなくなるという問題について話されたのだと記録がWebに残っている。「これだけ貴重なものが残っているものを壊すのは犯罪です。宝物にして保全していくべき」との講演の最後には、写真が草深原(そうふけっぱら)というタイトルで草原の映像が出され、なんとも関東エリアのサンクチュアリを実感させ、私たちが県民が国土を守らなくてはと、気づきの場所に暮らしている事を教える内容だったようだ。
もっとも印西市民も、亀成川の危機的状況を知らない方は大勢いる。むしろ、柏、松戸などの大都市圏の住民が、都内近郊で、ホタルやキツネが見られると関心を示していたりする。
それを示すような日本魚類学会の会長が招聘されての講演きのタイトルは「日本の宝 亀成川」だった。以来、日本トンボ学会、日本草地学会、日本生態学会からも注目され、要望書の提出やら調査やら意見書やらと、とにかく、住んでいる私たちが思っている以上に科学的にもこの地のすばらしさが、証明されてきたという。
残念ながら、我孫子市長の「外来種のコブハクチョウを好ましい生きものとしてとらえていた」(2009年)の話は現実を知らなすぎると辛口コメントが寄せられていた。基調講演は何を言いたいのかよくわからず、利根川の変遷をなぞっただけであり、収穫は何もなかったと手厳しい。「ブラックバスやブルーギル、アメリカナマズを問題視していたのに、ハクレンは何とも思っていないようで、やはり物事の本質を理解していないことがわかる。時間は半分でよかった。」「全体的に通してみた感想は、プレゼンテーションの稚拙さが目立った。高齢者が多いために、従来の講演のような形式が多く、退屈であり、このような発表は久しぶりに見た気がする。かといって話が面白いわけではない。手賀沼の明日を思うと、すこし悲しくなる学会であった。」との参加した人のブログ書き込みがあって、この学会の取り組みも見直されているのかもしれない・・・。
(と、思って聞いたところ、11年目を迎えて、学会は終了したということが分かった)
2015年06月17日
インドネシアと日本、そして我孫子
インドネシアで「バンドン会議60周年記念」の国際会議が開かれ、4月21日には安倍晋三首相が演説したことがあったばかりだ。そして、我孫子においては、この17日、インドネシアの一行が、手賀沼問題に関する行政視察がされた。
さて、そのバンドン会議では、第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカ諸国が反植民地主義や民族自決、世界平和などを掲げ1955年より開催されてきた。インドネシアのスカルノ大統領、インドのネール首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となり後の非同盟運動のきっかけになった。
日本は60年前のその会議にも招かれた縁があり、今回は安倍首相が出席した。ところが、韓国は「日本は侵略国で韓国を支配した植民地主義の国だったはずなのに」との意識をここでも譲らない。
東南アジアや中東、アフリカ諸国には、日本はアジアが欧州の植民地支配から解放されるきっかけを作ったと評価する声もあるとの説明を聞いて、むしろ韓国人は驚いた表情で「そんなはずはないだろう」と返したという。さらに「日本はアジアを侵略、占領した」というので「いや日本による占領は数年間で、アジア諸国にとっては欧州諸国による長期の植民地支配から解放されたことの意味は重要だったからだ」とも説明したが、結局は認めようとしなかった。
知識人に属する韓国人でもこうなので、一般的に韓国では「日本は今もアジアの国々から恨まれている」との意識が強固だ。韓国が「アジア」というときは、イコール韓国と中国ということでほかの国は視野に入っていない、ということのようなのだ。
そういう日本も、百年ほど前には、開国を迫られ、不平等条約を結び、江戸城が皇居となり、富国強兵の先兵となって日本女性たちが「からゆきさん」と呼ばれる、外貨を稼ぎのお先棒を担がされた。維新後の流通経済が解体されて、疲弊する農漁村社会から石減らしに人身売買されたとも言える状況が、続いた。山崎朋子の『サンダカン八番娼館』などにも悲惨な女性の末路を告発したが、従軍慰安婦が訴追されるように、戦後の日本ではパンパンと呼ばれる戦争未亡人など、GHQの将兵を相手にする女性が手賀沼周辺でも見受けられたというのを土地の古老にきいて驚いたことがある。実は、我孫子ゴルフは戦後の接収でGHQのお気に入りのリゾート地となっていて、お土産品にとメロンの生産もされたというのだ。
「からゆきさん」の多くは、長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身者で、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、ばくぜんと「外国」を指す言葉である。最近に、台湾でも戦前の日本から少女たちが「からゆきさん」のことが紹介されて、話題になったという。
バンドン会議60周年会議で、安倍首相の演説に過去の歴史に対し反省だけがあって謝罪が入っていないと批判したのは、参加もしていない韓国だけだったという。先に日本の外務省が戦後日本の対外協力の実績を紹介した映像の広報資料を発表したときも、韓国だけがデタラメだといって非難した。とくに韓国のことを取り上げたわけでもないのに映像の一部に韓国の製鉄所や地下鉄、ダムなどの写真が入っているのを見て韓国だけが反発した。さすがに政府は何も言わなかったが、マスコミは準国営のKBSテレビや最大手の朝鮮日報が先頭に立って「韓国の経済発展は日本のおかげとはとんでもない!」「妄言だ!」と意地になって日本を非難したのはさもありなんだが、人類が女性たちから搾取したいったとの視点を持つ学者は、男性の学会では起こりえなかったのと同じだ。女性の発想は、21世紀を平和裏に融合していこうとの意識を打ち立てるかと思えば朴大統領はどうもそうならない。
アジアの他の国は何もそうしたことは言っていない。しかも実際は韓国が経済・技術援助をはじめ最も日本の影響を受けて発展したことは国際的には理解されているのだ。韓国政府が日本との国交正常化(1965年)の際に、過去の支配に対する補償として受け取った対日請求権資金5億ドルは、韓国の経済発展の基礎になったことは韓国政府発行の『請求権資金白書』(76年刊)に詳述されている。国交正常化50周年の今年、記念事業としてこの白書を日韓双方で復刻出版してはどうなのか。教科書問題では、歴史を正確に見直すべしと韓国も吹聴してきた、両者の政治家ではなく学者レベルで物事を普遍的に見て見直すべきだろう。
国の繁栄のために名もなき人々の犠牲が積み重なってきたことは、どの国もどうようである。
どの国でも発展の途上で、女性たちが犠牲や若者が命を捧げて逝ったことの事実を認識し、忘れてはならない。
台湾で展示されたという「漢(から)行きさん」とされる少女たちの写真はもの悲しい。
参照:
産経新聞 5月16日
さて、そのバンドン会議では、第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカ諸国が反植民地主義や民族自決、世界平和などを掲げ1955年より開催されてきた。インドネシアのスカルノ大統領、インドのネール首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となり後の非同盟運動のきっかけになった。
日本は60年前のその会議にも招かれた縁があり、今回は安倍首相が出席した。ところが、韓国は「日本は侵略国で韓国を支配した植民地主義の国だったはずなのに」との意識をここでも譲らない。
東南アジアや中東、アフリカ諸国には、日本はアジアが欧州の植民地支配から解放されるきっかけを作ったと評価する声もあるとの説明を聞いて、むしろ韓国人は驚いた表情で「そんなはずはないだろう」と返したという。さらに「日本はアジアを侵略、占領した」というので「いや日本による占領は数年間で、アジア諸国にとっては欧州諸国による長期の植民地支配から解放されたことの意味は重要だったからだ」とも説明したが、結局は認めようとしなかった。
知識人に属する韓国人でもこうなので、一般的に韓国では「日本は今もアジアの国々から恨まれている」との意識が強固だ。韓国が「アジア」というときは、イコール韓国と中国ということでほかの国は視野に入っていない、ということのようなのだ。
そういう日本も、百年ほど前には、開国を迫られ、不平等条約を結び、江戸城が皇居となり、富国強兵の先兵となって日本女性たちが「からゆきさん」と呼ばれる、外貨を稼ぎのお先棒を担がされた。維新後の流通経済が解体されて、疲弊する農漁村社会から石減らしに人身売買されたとも言える状況が、続いた。山崎朋子の『サンダカン八番娼館』などにも悲惨な女性の末路を告発したが、従軍慰安婦が訴追されるように、戦後の日本ではパンパンと呼ばれる戦争未亡人など、GHQの将兵を相手にする女性が手賀沼周辺でも見受けられたというのを土地の古老にきいて驚いたことがある。実は、我孫子ゴルフは戦後の接収でGHQのお気に入りのリゾート地となっていて、お土産品にとメロンの生産もされたというのだ。
「からゆきさん」の多くは、長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身者で、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、ばくぜんと「外国」を指す言葉である。最近に、台湾でも戦前の日本から少女たちが「からゆきさん」のことが紹介されて、話題になったという。
バンドン会議60周年会議で、安倍首相の演説に過去の歴史に対し反省だけがあって謝罪が入っていないと批判したのは、参加もしていない韓国だけだったという。先に日本の外務省が戦後日本の対外協力の実績を紹介した映像の広報資料を発表したときも、韓国だけがデタラメだといって非難した。とくに韓国のことを取り上げたわけでもないのに映像の一部に韓国の製鉄所や地下鉄、ダムなどの写真が入っているのを見て韓国だけが反発した。さすがに政府は何も言わなかったが、マスコミは準国営のKBSテレビや最大手の朝鮮日報が先頭に立って「韓国の経済発展は日本のおかげとはとんでもない!」「妄言だ!」と意地になって日本を非難したのはさもありなんだが、人類が女性たちから搾取したいったとの視点を持つ学者は、男性の学会では起こりえなかったのと同じだ。女性の発想は、21世紀を平和裏に融合していこうとの意識を打ち立てるかと思えば朴大統領はどうもそうならない。
アジアの他の国は何もそうしたことは言っていない。しかも実際は韓国が経済・技術援助をはじめ最も日本の影響を受けて発展したことは国際的には理解されているのだ。韓国政府が日本との国交正常化(1965年)の際に、過去の支配に対する補償として受け取った対日請求権資金5億ドルは、韓国の経済発展の基礎になったことは韓国政府発行の『請求権資金白書』(76年刊)に詳述されている。国交正常化50周年の今年、記念事業としてこの白書を日韓双方で復刻出版してはどうなのか。教科書問題では、歴史を正確に見直すべしと韓国も吹聴してきた、両者の政治家ではなく学者レベルで物事を普遍的に見て見直すべきだろう。
国の繁栄のために名もなき人々の犠牲が積み重なってきたことは、どの国もどうようである。
どの国でも発展の途上で、女性たちが犠牲や若者が命を捧げて逝ったことの事実を認識し、忘れてはならない。
台湾で展示されたという「漢(から)行きさん」とされる少女たちの写真はもの悲しい。
参照:
産経新聞 5月16日
2015年06月16日
漁師も高齢化問題、まぐろ・かつお漁もインドネシアに後れる日本
スシに代表される和食が人気であることも功を奏して、世界でもかつお・まぐろ類の消費量の伸びは著しい。漁獲量も1982年の190.1万トンから2012年には488.9万トンと、約2.6倍にも拡大している。とりわけ、かつお類の漁獲量の伸びは大きく、世界のかつお・まぐろ類の漁獲量の57%を占めて279.5万トン。30年間で約3.5倍の伸びになる。
その一方で、かつては世界一の漁業国であった日本の地位が低下している。総漁業量は1982年時には1282万トンだったが、2012年には484万トンと3分の1に激減。中国などに後れをとり、いまは世界第8位に甘んじている。かつお・まぐろ類の漁獲量に関しても、日本は45.8万トンで世界第2位を維持しているものの、第1位のインドネシアの66.6万トンに大きく引き離されている状態だ。
■ 深刻な高齢化問題
管轄官庁である水産庁に加え、国土交通省や厚生労働省、さらに外務省や法務省、財務省からも関係法規の担当者が出席し、日本のかつお・まぐろ漁業が直面する諸問題について話し合った。
「全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会」によると、2012年時の同会所属船の年齢構成は平均56歳で、60歳以上が37%を占める。さらに新規就業者は5名にすぎず、同協会は船員確保と育成が喫緊の課題だと訴えた。
実際に高齢化問題は深刻で、水産庁のデータでは漁業就業者は約18万人で、過去10年間で3割減少した。遠洋まぐろはえ縄漁では60歳以上の就業者が42%を占めており、50代をも含めると、全体の83.3%にも上る。
政府は漁業の存続のため、毎年度2000人の新規就業者を確保すべく、「新規漁業就業者総合対策支援事業」として本年度予算に6億1400万円を計上した。また「沿岸漁業リーダー・女性育成支援事業」に3300万円、「安全な漁業労働環境保全確保事業」に1900万円を充てている。
しかし根本的な問題を解決せずして、漁業の問題は解消されない。日本の漁業にとって乗り越えなくてはいけないのは、コストの増大と年々厳しくなる国際環境だ。
■ 高騰する入漁料
コストに関しては昨今の急激な円安による燃料費の高騰もあるが、より深刻に関係者を悩ませているのは高騰する入漁料など国際環境の変化に基づくものだろう。
2014年6月にナウル協定加盟国(PNA:パプアニューギニア、ソロモン諸島、パラオ、ミクロネシア、キリバス、ナウル、ツバル、マーシャル諸島で構成)が2015年1月から1日あたりの入漁料(VDS)を8000ドルに引き上げたことは、日本の遠洋漁業に大きな衝撃を与えた。PNAのEEZ(排他的経済水域)は日本にとって海外まき網漁獲量の9割を占めているからだ。
そもそもPNAがVDSを導入した2005年以前では、南洋海域での入漁料は漁船1隻あたり年間約2000万円で、操業日数に制限はなかったのだ。さらに2012年に最低価格制度が導入されてから、入漁料はいっそう高騰。水産庁は日本が払うべきこうした入漁料は2015年には55億5600万円に達すると見込んでおり、漁船1隻あたり必要とされる入漁経費は年間1億7000万円を超えると予想されている。
「VDSが導入されて、外国は1日あたりの漁獲量が増えるように漁船を大型化した。一方で日本は国内の利害調整ができなくて、水産庁が漁船の大型化を許さなかった」
日本漁船の建造が法律で制限を受けていた間に外国に引き離されたと述べるのは、かつお・まぐろ議連で事務局長を務める自民党の井林辰憲衆院議員だ。井林氏の地元は焼津港を擁する静岡2区。焼津港は全国トップクラスの水揚げ量や水揚げ金額を誇り、かつお漁やまぐろ漁の大拠点地でもある。
実際に日本のまき網漁船ほとんどは1000トン型で、中国や台湾、韓国などが標準とする1800トン型と比べて漁倉容積や速力などで遅れをとっている上、魚群探査用ヘリコプターの搭載もない状態だ。
外国漁船の脅威は大型化だけではない。「全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会」は、台湾系の小型漁船が南太平洋島嶼国に船籍を移して増隻していることに危機感を募らせている。
そもそも小型漁船は十分な冷凍設備を持たないためにOPRT(責任あるまぐろ漁業推進機構)の管理枠外とされていたが、これら新規の小型船はマイナス50度の超低温設備を備えており、規制の目をくぐりぬけているからだ。
■ 政府の積極的な研究調査も必要
また「全国近海かつお・まぐろ漁業協会」は、パラオ共和国で外国漁船商船漁業禁止法案、ミクロネシア連邦でサメ法案が出されており、日本漁船が海域から締め出される危険性について政府の対処を求めている。
こうした問題について井林氏は、「政府を通じて適切な国際ルールを作っていくこと、また島嶼国にはODAの水産無償資金協力を行っているが、これを国内漁業者の入漁確保に資するように活用していくことが重要だ。外務省は『ODAは紐付きであってはならない』と原則にこだわりがちだが、漁業を守ることこそ国益にかなうことだ」と述べる。
さらに水産資源について、政府の積極的な研究調査も必要だと井林氏は主張する。たとえば昨年はかつおが歴史的な不漁で、外国漁船による南洋での乱獲が原因ではないかと言われたが、真相はまだ解明されていない。
「実はかつおの生態はよくわかっていないところがあり、南洋で成魚に発信器を付けても、日本海域で発見されなかった。おそらくは北緯20度あたりで一度産卵し、それが成魚となり北上するのだろうと推定されているが、詳細は不明だ」。
水産庁はこの「ミッシングリンク」の早急な解明に務めることを言明。原因がわかれば対策を打つことも可能だが、それを後押しするのは政治の役割だと井林氏は述べる。「日本の漁業は伝統産業であり、食文化を担う重要な役割も果たしている。我々はこれをしっかりと守っていかなければならない」。
出典:
安積 明子(東洋経済5/28)
その一方で、かつては世界一の漁業国であった日本の地位が低下している。総漁業量は1982年時には1282万トンだったが、2012年には484万トンと3分の1に激減。中国などに後れをとり、いまは世界第8位に甘んじている。かつお・まぐろ類の漁獲量に関しても、日本は45.8万トンで世界第2位を維持しているものの、第1位のインドネシアの66.6万トンに大きく引き離されている状態だ。
■ 深刻な高齢化問題
管轄官庁である水産庁に加え、国土交通省や厚生労働省、さらに外務省や法務省、財務省からも関係法規の担当者が出席し、日本のかつお・まぐろ漁業が直面する諸問題について話し合った。
「全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会」によると、2012年時の同会所属船の年齢構成は平均56歳で、60歳以上が37%を占める。さらに新規就業者は5名にすぎず、同協会は船員確保と育成が喫緊の課題だと訴えた。
実際に高齢化問題は深刻で、水産庁のデータでは漁業就業者は約18万人で、過去10年間で3割減少した。遠洋まぐろはえ縄漁では60歳以上の就業者が42%を占めており、50代をも含めると、全体の83.3%にも上る。
政府は漁業の存続のため、毎年度2000人の新規就業者を確保すべく、「新規漁業就業者総合対策支援事業」として本年度予算に6億1400万円を計上した。また「沿岸漁業リーダー・女性育成支援事業」に3300万円、「安全な漁業労働環境保全確保事業」に1900万円を充てている。
しかし根本的な問題を解決せずして、漁業の問題は解消されない。日本の漁業にとって乗り越えなくてはいけないのは、コストの増大と年々厳しくなる国際環境だ。
■ 高騰する入漁料
コストに関しては昨今の急激な円安による燃料費の高騰もあるが、より深刻に関係者を悩ませているのは高騰する入漁料など国際環境の変化に基づくものだろう。
2014年6月にナウル協定加盟国(PNA:パプアニューギニア、ソロモン諸島、パラオ、ミクロネシア、キリバス、ナウル、ツバル、マーシャル諸島で構成)が2015年1月から1日あたりの入漁料(VDS)を8000ドルに引き上げたことは、日本の遠洋漁業に大きな衝撃を与えた。PNAのEEZ(排他的経済水域)は日本にとって海外まき網漁獲量の9割を占めているからだ。
そもそもPNAがVDSを導入した2005年以前では、南洋海域での入漁料は漁船1隻あたり年間約2000万円で、操業日数に制限はなかったのだ。さらに2012年に最低価格制度が導入されてから、入漁料はいっそう高騰。水産庁は日本が払うべきこうした入漁料は2015年には55億5600万円に達すると見込んでおり、漁船1隻あたり必要とされる入漁経費は年間1億7000万円を超えると予想されている。
「VDSが導入されて、外国は1日あたりの漁獲量が増えるように漁船を大型化した。一方で日本は国内の利害調整ができなくて、水産庁が漁船の大型化を許さなかった」
日本漁船の建造が法律で制限を受けていた間に外国に引き離されたと述べるのは、かつお・まぐろ議連で事務局長を務める自民党の井林辰憲衆院議員だ。井林氏の地元は焼津港を擁する静岡2区。焼津港は全国トップクラスの水揚げ量や水揚げ金額を誇り、かつお漁やまぐろ漁の大拠点地でもある。
実際に日本のまき網漁船ほとんどは1000トン型で、中国や台湾、韓国などが標準とする1800トン型と比べて漁倉容積や速力などで遅れをとっている上、魚群探査用ヘリコプターの搭載もない状態だ。
外国漁船の脅威は大型化だけではない。「全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会」は、台湾系の小型漁船が南太平洋島嶼国に船籍を移して増隻していることに危機感を募らせている。
そもそも小型漁船は十分な冷凍設備を持たないためにOPRT(責任あるまぐろ漁業推進機構)の管理枠外とされていたが、これら新規の小型船はマイナス50度の超低温設備を備えており、規制の目をくぐりぬけているからだ。
■ 政府の積極的な研究調査も必要
また「全国近海かつお・まぐろ漁業協会」は、パラオ共和国で外国漁船商船漁業禁止法案、ミクロネシア連邦でサメ法案が出されており、日本漁船が海域から締め出される危険性について政府の対処を求めている。
こうした問題について井林氏は、「政府を通じて適切な国際ルールを作っていくこと、また島嶼国にはODAの水産無償資金協力を行っているが、これを国内漁業者の入漁確保に資するように活用していくことが重要だ。外務省は『ODAは紐付きであってはならない』と原則にこだわりがちだが、漁業を守ることこそ国益にかなうことだ」と述べる。
さらに水産資源について、政府の積極的な研究調査も必要だと井林氏は主張する。たとえば昨年はかつおが歴史的な不漁で、外国漁船による南洋での乱獲が原因ではないかと言われたが、真相はまだ解明されていない。
「実はかつおの生態はよくわかっていないところがあり、南洋で成魚に発信器を付けても、日本海域で発見されなかった。おそらくは北緯20度あたりで一度産卵し、それが成魚となり北上するのだろうと推定されているが、詳細は不明だ」。
水産庁はこの「ミッシングリンク」の早急な解明に務めることを言明。原因がわかれば対策を打つことも可能だが、それを後押しするのは政治の役割だと井林氏は述べる。「日本の漁業は伝統産業であり、食文化を担う重要な役割も果たしている。我々はこれをしっかりと守っていかなければならない」。
出典:
安積 明子(東洋経済5/28)
2015年06月15日
中国共産党のまたまたの汚職事件
中国の共産党で最高指導部の一人だった周永康・前党政法委員会書記(72)が、汚職事件で無期懲役の判決を受けた。
トップ級の高官でも罪に問うたことは前進ではあるが、司法手続きには多くの不透明さが残る。そもそも政治的な色合いが濃い訴追劇であり、正常な法治国家とは言いがたい。周前書記は国有石油会社を経て国土資源相、公安相、さらに治安担当の党常務委員まで上り詰めた。薄熙来・元重慶市党委書記ら政治局員クラスが汚職で裁かれた例はあるが、さらに上の常務委員経験者が裁きを受けるのは極めて異例だ。
党機関紙の人民日報は判決の後、「どんな人も憲法・法律を超える特権はない」と論じた。それ自体はもっともだが、周前書記の裁判は明らかに特別扱いされていた。4月に起訴されてから、公判が開かれているかどうかさえも不明だった。非公開だったのは「国家機密」にかかわるからとされたが、中国でも裁判は公開が原則のはずだ。起訴からわずか2カ月での判決というのも異常だ。
実は先に長い時間をかけて党中央規律検査委員会が調べを進めていた。党が司法に優先している以上、罪に問う範囲などが事前に固められ、裁判は単なる儀式に堕していた可能性がある。習近平(シーチンピン)政権には最初から政治的な狙いがあったはずだ。周前書記の後ろ盾は江沢民・元国家主席だったとされ、薄元書記と共に党を分裂させかねない情勢をつくったともいわれる。
ただ、そんな生々しい権力争いを表沙汰にはできないのかもしれない。結局確定した罪名は収賄、職権乱用と、国家機密の漏洩にとどまった。政府を批判した知識人が国家分裂罪で重刑に処せられることに比べれば、明らかにバランスを欠く。
周前書記は、判決で認定されただけでも400億円超という利益を一族らにもたらした。これほど巨額の財産を得たのは、個人的な犯罪というより、権力が集中する一党独裁の統治体制そのものに構造的な問題があるからだ。ところが、いまの中国では、国有企業や関連する政府部門が汚職をしないよう、にらみを利かせられるのは、その党自身の指導部でしかない。
言い換えれば、社会の公正さを担保する仕組みが、法の支配という原則に基づいておらず、ときに恣意的な判断が幅を利かすことを意味する。
中国の法治国家への道のりは、まだ遠そうだ。
出典:
朝日新聞デジタル 6月14日
トップ級の高官でも罪に問うたことは前進ではあるが、司法手続きには多くの不透明さが残る。そもそも政治的な色合いが濃い訴追劇であり、正常な法治国家とは言いがたい。周前書記は国有石油会社を経て国土資源相、公安相、さらに治安担当の党常務委員まで上り詰めた。薄熙来・元重慶市党委書記ら政治局員クラスが汚職で裁かれた例はあるが、さらに上の常務委員経験者が裁きを受けるのは極めて異例だ。
党機関紙の人民日報は判決の後、「どんな人も憲法・法律を超える特権はない」と論じた。それ自体はもっともだが、周前書記の裁判は明らかに特別扱いされていた。4月に起訴されてから、公判が開かれているかどうかさえも不明だった。非公開だったのは「国家機密」にかかわるからとされたが、中国でも裁判は公開が原則のはずだ。起訴からわずか2カ月での判決というのも異常だ。
実は先に長い時間をかけて党中央規律検査委員会が調べを進めていた。党が司法に優先している以上、罪に問う範囲などが事前に固められ、裁判は単なる儀式に堕していた可能性がある。習近平(シーチンピン)政権には最初から政治的な狙いがあったはずだ。周前書記の後ろ盾は江沢民・元国家主席だったとされ、薄元書記と共に党を分裂させかねない情勢をつくったともいわれる。
ただ、そんな生々しい権力争いを表沙汰にはできないのかもしれない。結局確定した罪名は収賄、職権乱用と、国家機密の漏洩にとどまった。政府を批判した知識人が国家分裂罪で重刑に処せられることに比べれば、明らかにバランスを欠く。
周前書記は、判決で認定されただけでも400億円超という利益を一族らにもたらした。これほど巨額の財産を得たのは、個人的な犯罪というより、権力が集中する一党独裁の統治体制そのものに構造的な問題があるからだ。ところが、いまの中国では、国有企業や関連する政府部門が汚職をしないよう、にらみを利かせられるのは、その党自身の指導部でしかない。
言い換えれば、社会の公正さを担保する仕組みが、法の支配という原則に基づいておらず、ときに恣意的な判断が幅を利かすことを意味する。
中国の法治国家への道のりは、まだ遠そうだ。
出典:
朝日新聞デジタル 6月14日
2015年06月14日
手賀沼探訪 その2
手賀沼は我孫子のシンボル、そしてかつては沼南町が沼の向こうにあって、三市町村での花火大会という形で夏の花火大会が行われていた・・・。
考えてみると、今や我孫子の手賀沼というよりは、柏の手賀沼の方が多くの人が立ち寄る賑わいがあるとも言えるかもしれない。一年中にぎわう道の駅、夜まで営業の温泉、いつでもおいでのいちご狩り、秋には梨狩り、日中のボートの船着き場付近からハスの花咲く水上遊覧船もある。そして、実は千葉氏の歴史も我孫子側よりは旧沼南町の側に多く残っているのだと当地の郷土史家の方が教えてくださった。そういわれてみれば、ロシア正教会も開かれていたのだから、町としての歴史は柏エリアに軍配があがるのを私たちは知らないままでいたのかもしれない。そこで、手賀沼とキーワードをいれて検索してみたら、柏市役所の手賀沼について簡潔に書いたページが検索された。
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p007311.html
そのページの下敷きになったのは、中村勝氏(旧沼南、柏市史編纂委員副委員長)の文章で、今年3月に『手賀沼開発の虚実』を刊行された方だ。中村氏は美術館の運営をされながら、蕎麦も打つという趣味を超えて、美術館内のカフェで提供してくださる。奥様のとれたれ山菜が天ぷらになるのだから歴史ファンがやってくることが多い。
しかも、運営する私設美術館は早逝した画家であったご子息の遺作を展示するために開設したものだ。この場所は、ギャラリー展示をされる様々な作家の拠り所、歴史好きの人々の語らいの場にもなって、ほっこりとなってくる。お薦めの手賀沼の隠れた秀逸な散策スポットだ。
中村順二美術館の正面と前庭
更に、旧沼南に行ってみた際には、是非とも見ておきたいのが芹沢コレクション。
染色工芸家で人間国宝となった世界的に愛好された芹沢_介(1895年〜1984年)の作品が、その芸術性に惹かれ、篤志家として知られる砂川七郎氏によって生涯にわたって蒐集に情熱を注いだ作品が集められている。氏は自らの所蔵作品を一般に公開するため、昭和56年5月、自宅に「砂川美術工芸館」を設立。ここにしかない逸品が揃い、芹沢ファンをはじめ、多くの工芸愛好家の関心を今も集めた。砂川館長の健康上の理由により閉館となったが、「作品を持っているだけではしょうがない。集めた作品を散逸させないよう後世に伝え、柏市の文化振興に役立てたい。」と、コレクションは平成7年5月、コレクションを柏市に寄贈した。旧沼南庁舎内の「柏市郷土資料展示室」で引き続き展示(無料)が見られることになった。
また、コレクションが展示される旧沼南庁舎の建物の脇は、地域の発展に努力されたかつての町長らの顕彰碑、鮮魚(なま)街道の橋梁部分などが置かれて感慨深い。
上記写真は、クリックすると拡大できます。
考えてみると、今や我孫子の手賀沼というよりは、柏の手賀沼の方が多くの人が立ち寄る賑わいがあるとも言えるかもしれない。一年中にぎわう道の駅、夜まで営業の温泉、いつでもおいでのいちご狩り、秋には梨狩り、日中のボートの船着き場付近からハスの花咲く水上遊覧船もある。そして、実は千葉氏の歴史も我孫子側よりは旧沼南町の側に多く残っているのだと当地の郷土史家の方が教えてくださった。そういわれてみれば、ロシア正教会も開かれていたのだから、町としての歴史は柏エリアに軍配があがるのを私たちは知らないままでいたのかもしれない。そこで、手賀沼とキーワードをいれて検索してみたら、柏市役所の手賀沼について簡潔に書いたページが検索された。
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p007311.html
そのページの下敷きになったのは、中村勝氏(旧沼南、柏市史編纂委員副委員長)の文章で、今年3月に『手賀沼開発の虚実』を刊行された方だ。中村氏は美術館の運営をされながら、蕎麦も打つという趣味を超えて、美術館内のカフェで提供してくださる。奥様のとれたれ山菜が天ぷらになるのだから歴史ファンがやってくることが多い。
しかも、運営する私設美術館は早逝した画家であったご子息の遺作を展示するために開設したものだ。この場所は、ギャラリー展示をされる様々な作家の拠り所、歴史好きの人々の語らいの場にもなって、ほっこりとなってくる。お薦めの手賀沼の隠れた秀逸な散策スポットだ。
中村順二美術館の正面と前庭
更に、旧沼南に行ってみた際には、是非とも見ておきたいのが芹沢コレクション。
染色工芸家で人間国宝となった世界的に愛好された芹沢_介(1895年〜1984年)の作品が、その芸術性に惹かれ、篤志家として知られる砂川七郎氏によって生涯にわたって蒐集に情熱を注いだ作品が集められている。氏は自らの所蔵作品を一般に公開するため、昭和56年5月、自宅に「砂川美術工芸館」を設立。ここにしかない逸品が揃い、芹沢ファンをはじめ、多くの工芸愛好家の関心を今も集めた。砂川館長の健康上の理由により閉館となったが、「作品を持っているだけではしょうがない。集めた作品を散逸させないよう後世に伝え、柏市の文化振興に役立てたい。」と、コレクションは平成7年5月、コレクションを柏市に寄贈した。旧沼南庁舎内の「柏市郷土資料展示室」で引き続き展示(無料)が見られることになった。
また、コレクションが展示される旧沼南庁舎の建物の脇は、地域の発展に努力されたかつての町長らの顕彰碑、鮮魚(なま)街道の橋梁部分などが置かれて感慨深い。
上記写真は、クリックすると拡大できます。
2015年06月13日
手賀沼探訪
「手賀カフェ」と名付けられた喫茶店の名を耳にして、行ってきました。
梅雨の季節の週末にも、窓越しの手賀沼を見ながらお茶するのにピッタリです!
皆の集える場所をと定年後のご夫婦が手賀沼のほとりにカフェを開業したのだそうです。こじんまり、かわいい感じのカフェ手賀カフェ、中に入ると大きく取ったガラス窓の先は手賀沼がまるで名画のようです。知る人ぞ知るの場所にあるにも関わらず、結構人気があるようで駐車場が結構いっぱい入れないこともおきるそうです。
ダイエット中の連れと入ったので、ケーキセットを横目に、リーフティーで入れてくれるというので、紅茶を頼みました。ティーポットですからお得感があります!!しかし、営業時間が5時までなのでお替りもそこそことなりましたが・・・。
これからの季節の早朝ランニング、土日のサイクリング、ワンちゃんを連れて、庭の白いテーブルでゆったりと、モーニング(500円)、ランチ(1000円)はお薦めかもしれません。
開店は8時半、木金が定休日。
↑クリックすると、
素敵な広がりの手賀沼の景観もご覧になれます
*道の駅しょうなん&満天の湯の交差点から、手賀沼病院方面へ 走って いくと左側に、手賀カフェの看板が見えます。
場所:柏市箕輪字花輪854 (駐車場5,6台分あり)
電話:04-7193-1117
メニュー:http://tegacafe.web.fc2.com/tegacafe.htm
歩く目安:我孫子駅南口から徒歩約40分-
梅雨の季節の週末にも、窓越しの手賀沼を見ながらお茶するのにピッタリです!
皆の集える場所をと定年後のご夫婦が手賀沼のほとりにカフェを開業したのだそうです。こじんまり、かわいい感じのカフェ手賀カフェ、中に入ると大きく取ったガラス窓の先は手賀沼がまるで名画のようです。知る人ぞ知るの場所にあるにも関わらず、結構人気があるようで駐車場が結構いっぱい入れないこともおきるそうです。
ダイエット中の連れと入ったので、ケーキセットを横目に、リーフティーで入れてくれるというので、紅茶を頼みました。ティーポットですからお得感があります!!しかし、営業時間が5時までなのでお替りもそこそことなりましたが・・・。
これからの季節の早朝ランニング、土日のサイクリング、ワンちゃんを連れて、庭の白いテーブルでゆったりと、モーニング(500円)、ランチ(1000円)はお薦めかもしれません。
開店は8時半、木金が定休日。
↑クリックすると、
素敵な広がりの手賀沼の景観もご覧になれます
*道の駅しょうなん&満天の湯の交差点から、手賀沼病院方面へ 走って いくと左側に、手賀カフェの看板が見えます。
場所:柏市箕輪字花輪854 (駐車場5,6台分あり)
電話:04-7193-1117
メニュー:http://tegacafe.web.fc2.com/tegacafe.htm
歩く目安:我孫子駅南口から徒歩約40分-
2015年06月12日
Abi's marche、マルシェとは
友人から、メールでお知らせが来ました。明日のご案内です。
仏語のmarche とは、いくつもの意味があり、歩く、市場、などなどです。
最近は、都内の青山、原宿、吉祥寺などでマルシェがはやっており、何かといえば我孫子の直販所のとれたて野菜などがお洒落なテントの下で手にできるというもの。我孫子は居ながらにして、新鮮野菜、珍しい新種野菜の作り手に恵まれているので、もっと前からあってしかるべきでした。名前はともかく、前からあったのではありますが、それに乗るか反るか、では柏にリードを許してしまいましたね。
で、これからは下記で実感してみてください!
Sent: Friday, June 12, 2015 9:16 AM
Subject: アビーズ・マルシェジャガイモまつり〜へのお誘い
皆様へ
アビーズ・マルシェ
〜いろんな種類のジャガイモもまつり〜
オーガニック野菜と加工品を生産者が販売する店
ジャガイモの季節になりました。初夏の美味しい様々な お野菜の他に男爵、北あかり、はるか他多数の種類のジャガイモの食べ比べコーナーと手打ちさぬきうどんの試食等があります。
ぜひ、お誘い合わせの上お運びください。
日時:6月13日(土)10時〜14時
場所:我孫子駅北口の大型マンション群の交差点 駅側角、なのでごめんなさい!駐車場はありません。
アビーズファーム(Abby’s Farm)
〜新鮮野菜を生産者が手渡しで販売するお店が北口にオープン〜
農薬や化学肥料を使わないで育てた採れたての野菜や、その加工品を販売する小さなお店が、昨年10月に我孫子駅北口の大型マンション群の交差点にオープンしました。
出店グループは、我孫子市近隣の新規就農した若い農家4軒と久寺家の福祉作業所みんなの広場「風」。
そして、天然酵母でベーグルを作る「ぱんごはん」。
各農家がその日に収穫をしたみずみずしい旬の野菜を各自のコーナーに並べます。
定番野菜の他、色とりどりで美しい野菜、珍しい野菜も並んでいます。
作り手が手渡しで自慢の野菜や加工品を販売することで、美味しい食べ方や畑の様子、安心安全の野菜づくりを地域の方々にお伝でき、お店が消費者と生産者が交流する場所になることを願っています。
では、当日、雨にも負けず、風にも負けずで ガンバリマス、どうぞ、いらしてください。
http://www6.ocn.ne.jp/~abikko/
地域活動支援センター みんなの広場「風」ブログ
http://d.hatena.ne.jp/minnanokaze/
仏語のmarche とは、いくつもの意味があり、歩く、市場、などなどです。
最近は、都内の青山、原宿、吉祥寺などでマルシェがはやっており、何かといえば我孫子の直販所のとれたて野菜などがお洒落なテントの下で手にできるというもの。我孫子は居ながらにして、新鮮野菜、珍しい新種野菜の作り手に恵まれているので、もっと前からあってしかるべきでした。名前はともかく、前からあったのではありますが、それに乗るか反るか、では柏にリードを許してしまいましたね。
で、これからは下記で実感してみてください!
Sent: Friday, June 12, 2015 9:16 AM
Subject: アビーズ・マルシェジャガイモまつり〜へのお誘い
皆様へ
アビーズ・マルシェ
〜いろんな種類のジャガイモもまつり〜
オーガニック野菜と加工品を生産者が販売する店
ジャガイモの季節になりました。初夏の美味しい様々な お野菜の他に男爵、北あかり、はるか他多数の種類のジャガイモの食べ比べコーナーと手打ちさぬきうどんの試食等があります。
ぜひ、お誘い合わせの上お運びください。
日時:6月13日(土)10時〜14時
場所:我孫子駅北口の大型マンション群の交差点 駅側角、なのでごめんなさい!駐車場はありません。
アビーズファーム(Abby’s Farm)
〜新鮮野菜を生産者が手渡しで販売するお店が北口にオープン〜
農薬や化学肥料を使わないで育てた採れたての野菜や、その加工品を販売する小さなお店が、昨年10月に我孫子駅北口の大型マンション群の交差点にオープンしました。
出店グループは、我孫子市近隣の新規就農した若い農家4軒と久寺家の福祉作業所みんなの広場「風」。
そして、天然酵母でベーグルを作る「ぱんごはん」。
各農家がその日に収穫をしたみずみずしい旬の野菜を各自のコーナーに並べます。
定番野菜の他、色とりどりで美しい野菜、珍しい野菜も並んでいます。
作り手が手渡しで自慢の野菜や加工品を販売することで、美味しい食べ方や畑の様子、安心安全の野菜づくりを地域の方々にお伝でき、お店が消費者と生産者が交流する場所になることを願っています。
では、当日、雨にも負けず、風にも負けずで ガンバリマス、どうぞ、いらしてください。
http://www6.ocn.ne.jp/~abikko/
地域活動支援センター みんなの広場「風」ブログ
http://d.hatena.ne.jp/minnanokaze/
2015年06月11日
戦後70周年に仏最高賞受賞、北野タケシ監督
*☆∴ ∴☆* ┏…┳━┳…┳━┳…┳━┳…┳━┓
★* *★∵★* *★ ┃北野たけし┃フランス最高賞受賞┃
☆ ☆ ☆ ┗━┻…┻━┻…┻━┻…┻━┻…┛
★* *★ ┃
☆ 祝
☆
*★ ★* ∵☆ ☆∵
*★ ★* ┃
*☆* ━★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆★━┛
北野武監督(68=ビートたけし)が、フランスの由緒ある「シャンパーニュ騎士団」から「シャンベラン・ドヌール(名誉侍従)」の“称号”を与えられることが決まった。最近は、海津にいなとしても、大学ゼミで映像研究に関わる先生とのお付き合いが出来て、ビジュアルにどう表現するかの関心も増してきて、シナリオだけでなく映像での表現法も学んでいるところだ。そんな中で、日本人映画監督としての氏への評価が高まるのは好ましい限りだ。
北野監督は2014年に同騎士団から「オフィシエ・ドヌール(名誉将校)」を叙任されたが、今回の「シャンベラン・ドヌール」は同騎士団が著名人らに叙任する際の最高位。過去に叙任されたのはモナコ公国大公アルベール2世と仏の政治家フランソワ・バロワン氏だけで、史上3人目の快挙となる。
北野監督は、「シャンパーニュ騎士団からオフィシェル・ドヌールを叙任されたり、フランスの文化大臣より芸術文化勲章のコマンドールを受章(2010)してきましたが、この度の叙任は大変な名誉だし、光栄に思っています。今後の仕事の大きな励みになるので、とても有り難いことです」とのコメントを寄せた。叙任式は12日、フランスのランス市で行われ、北野監督本人が出席することが決まっている。
同騎士団はシャンパーニュの普及を目的としており、世界の政財界や芸術家に栄誉を与える。
北野監督は、1999年には同国の「シュバリエ」を受章している。
2009年9月15日の「緊急!世界サミット“たけしJAPAN”2009日本を考えるTV」で「アジアと欧米人では生きることの意味が違うんだよね。日本はかつて特攻隊まで行ったわけだから。だから最終的には外交なんですよ。生きる死ぬでは抑えられないということになるんで、変な言い方をすれば日本のこの平和憲法ぐらい世界に誇れるものはないと思っている。世界の情勢の中でいつまで腰抜けな憲法を守ってるんだと言われるんだけど、それが意外に究極の力をもつ可能性がないではない」と述べていた。戦後70周年のこの年に文化退位国・フランスの芸術文化の最高賞を受賞し、またも北野たけし監督の名声が強まりそうだ。
★* *★∵★* *★ ┃北野たけし┃フランス最高賞受賞┃
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★* *★ ┃
☆ 祝
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北野武監督(68=ビートたけし)が、フランスの由緒ある「シャンパーニュ騎士団」から「シャンベラン・ドヌール(名誉侍従)」の“称号”を与えられることが決まった。最近は、海津にいなとしても、大学ゼミで映像研究に関わる先生とのお付き合いが出来て、ビジュアルにどう表現するかの関心も増してきて、シナリオだけでなく映像での表現法も学んでいるところだ。そんな中で、日本人映画監督としての氏への評価が高まるのは好ましい限りだ。
北野監督は2014年に同騎士団から「オフィシエ・ドヌール(名誉将校)」を叙任されたが、今回の「シャンベラン・ドヌール」は同騎士団が著名人らに叙任する際の最高位。過去に叙任されたのはモナコ公国大公アルベール2世と仏の政治家フランソワ・バロワン氏だけで、史上3人目の快挙となる。
北野監督は、「シャンパーニュ騎士団からオフィシェル・ドヌールを叙任されたり、フランスの文化大臣より芸術文化勲章のコマンドールを受章(2010)してきましたが、この度の叙任は大変な名誉だし、光栄に思っています。今後の仕事の大きな励みになるので、とても有り難いことです」とのコメントを寄せた。叙任式は12日、フランスのランス市で行われ、北野監督本人が出席することが決まっている。
同騎士団はシャンパーニュの普及を目的としており、世界の政財界や芸術家に栄誉を与える。
北野監督は、1999年には同国の「シュバリエ」を受章している。
2009年9月15日の「緊急!世界サミット“たけしJAPAN”2009日本を考えるTV」で「アジアと欧米人では生きることの意味が違うんだよね。日本はかつて特攻隊まで行ったわけだから。だから最終的には外交なんですよ。生きる死ぬでは抑えられないということになるんで、変な言い方をすれば日本のこの平和憲法ぐらい世界に誇れるものはないと思っている。世界の情勢の中でいつまで腰抜けな憲法を守ってるんだと言われるんだけど、それが意外に究極の力をもつ可能性がないではない」と述べていた。戦後70周年のこの年に文化退位国・フランスの芸術文化の最高賞を受賞し、またも北野たけし監督の名声が強まりそうだ。
2015年06月10日
朝鮮、中国の影響が色濃き日本の国宝茶碗
岡倉天心は現在の日本美術界の祖ともいえる人物とは誰もが認めるとこだ。
日本は文明開化以降、「廃仏毀釈」という仏教排斥の風潮が高まっていて、仏像などの美術品や仏教建築物などが破壊されたり、海外へ流出していた。天心はそういった仏教美術を救おうと立ち上がり、現政府にも波紋を広げていく。10年間で21万件もの全国の古美術の調査を行い、文化財保護を訴えたという。
このような天心の活動や見識によって、その後、文化財を保護する法律が次々と出来上がることとなった。
翌年昭和25年に文化財保護法が制定される。それは、ひとつに昭和24年に起こった法隆寺金堂の焼失事件で、
1300年続いていた金堂の建物の壁に描かれていた日本最古の絵画とされる7世紀後半の仏教絵画が黒焦げになった事件も影響した。昭和9年から行われていた「法隆寺昭和大修理」で解体修理中に壁画を模写していた画家が作業中に使っていた電気座布団のスイッチを切り忘れたからだと言われた。
一方、昭和35年、弥勒菩薩半跏思惟像は国宝認定第1号の仏像になったが、実は美しすぎるあまりに災難に見舞われたことがある。この仏像を見学していた京都大学の学生が、仏像の美しさに魅せられて頬ずりしようとしたところ、誤って指を折ってしまったのだ。現在は修理され、傷も肉眼では分からないほどになっていると言う。このエピソードは皮肉にも「学生が触って指を折ってしまうほど美しい」という仏像の美しさを知らしめるものとなった。 国宝の損壊ということで大変な騒ぎになったが、ある歴史学者が、指が折れたときに落ちた木片を詳しく調べたところ、 韓半島にしか生えていない赤松だということが明らかになった。日本の国宝に指定されたこの仏像が韓半島で作られたという、有力な根拠になった。
日本には様々な国宝が存在するが、海外にも認められた日本を代表する芸術であるはずの「浮世絵」は1点も国宝に選ばれていない。その理由のひとつは、浮世絵は庶民が楽しむ大衆芸術だったのでかつての日本では芸術的な評価が低かったことの表れともとれる。そういった背景から、肉筆など貴重な「国宝級」とも言える浮世絵の多くが海外に流出してしまった。
つまりどんなに素晴らしいモノであっても、その土地の人々がその価値を認めて保護しない限りは、いくら素晴らしいものであっても失われてしまうということだ。
さらに皮肉なことに、日本の国宝茶碗は8点のうち2点を覗き、朝鮮と中国からの渡来ものだ。そして、韓国、中国ではさして価値のないものとみなされたのか、国宝などとして残ってもいないという。日本のワビ、さびの極致をいく伝統文化はこうした背景の上に醸成されてきたということのようだ。
日本は文明開化以降、「廃仏毀釈」という仏教排斥の風潮が高まっていて、仏像などの美術品や仏教建築物などが破壊されたり、海外へ流出していた。天心はそういった仏教美術を救おうと立ち上がり、現政府にも波紋を広げていく。10年間で21万件もの全国の古美術の調査を行い、文化財保護を訴えたという。
このような天心の活動や見識によって、その後、文化財を保護する法律が次々と出来上がることとなった。
翌年昭和25年に文化財保護法が制定される。それは、ひとつに昭和24年に起こった法隆寺金堂の焼失事件で、
1300年続いていた金堂の建物の壁に描かれていた日本最古の絵画とされる7世紀後半の仏教絵画が黒焦げになった事件も影響した。昭和9年から行われていた「法隆寺昭和大修理」で解体修理中に壁画を模写していた画家が作業中に使っていた電気座布団のスイッチを切り忘れたからだと言われた。
一方、昭和35年、弥勒菩薩半跏思惟像は国宝認定第1号の仏像になったが、実は美しすぎるあまりに災難に見舞われたことがある。この仏像を見学していた京都大学の学生が、仏像の美しさに魅せられて頬ずりしようとしたところ、誤って指を折ってしまったのだ。現在は修理され、傷も肉眼では分からないほどになっていると言う。このエピソードは皮肉にも「学生が触って指を折ってしまうほど美しい」という仏像の美しさを知らしめるものとなった。 国宝の損壊ということで大変な騒ぎになったが、ある歴史学者が、指が折れたときに落ちた木片を詳しく調べたところ、 韓半島にしか生えていない赤松だということが明らかになった。日本の国宝に指定されたこの仏像が韓半島で作られたという、有力な根拠になった。
日本には様々な国宝が存在するが、海外にも認められた日本を代表する芸術であるはずの「浮世絵」は1点も国宝に選ばれていない。その理由のひとつは、浮世絵は庶民が楽しむ大衆芸術だったのでかつての日本では芸術的な評価が低かったことの表れともとれる。そういった背景から、肉筆など貴重な「国宝級」とも言える浮世絵の多くが海外に流出してしまった。
つまりどんなに素晴らしいモノであっても、その土地の人々がその価値を認めて保護しない限りは、いくら素晴らしいものであっても失われてしまうということだ。
さらに皮肉なことに、日本の国宝茶碗は8点のうち2点を覗き、朝鮮と中国からの渡来ものだ。そして、韓国、中国ではさして価値のないものとみなされたのか、国宝などとして残ってもいないという。日本のワビ、さびの極致をいく伝統文化はこうした背景の上に醸成されてきたということのようだ。
2015年06月09日
甘くないアジアの国際お菓子対決
日本の菓子メーカーによる海外へのお菓子の輸出が増えている。全日本菓子協会(港区)が発表している菓子統計によると、2013年の海外への菓子の輸出金額は、159億6287万8000円。前年と比べ21.1%も増加した。品目別にみると、キャンディー類は39億7296万4000円で33.5%増加。チョコレート菓子(2キロ以下)は25億4464万9000円で22.8%増加となっている。
こうした輸出の増加には、菓子メーカーが直面する国内事情もひとつの背景にある。少子化が進む中、お菓子を好む子どもの絶対数が減っており、日本市場は頭打ちとなっている。このため、各社とも生き残りをかけて海外に活路を求めている。また、コンビニなどで売られるプライベートブランドの増加も、菓子メーカーには脅威だ。そこで、消費者に広く浸透したロングセラー商品を押し出すことが、有効な対抗策にもなっている。
チョコレートをコーティングした江崎グリコの看板商品「ポッキー」は1966年に発売開始され、今年で49年目を迎える。今やほとんどの日本人におなじみの超ロングセラー商品だ。これまでタイや中国・上海、フランスに現地法人と工場を設立してきた。2012年には、経済成長著しいアジアにより力を入れるため、インドネシアに現地法人を立ち上げたほか、今年3月にはマレーシアに駐在員を初めて配置した。同社は、東京オリンピックが開かれる2020年をめどに「全世界でポッキーの売り上げを1億ドルにすることを目標に掲げています」と宣言。 同社によると、この1、2年はアメリカ人など海外観光客らの間で、日本だけで販売している「抹茶味」のポッキーが大人気。京都のほか、成田空港や関西国際空港のお土産品売り場では、大量買いする人が後を絶たないという。東京オリンピックに向けて日本への注目が増していくに連れて、日本のお菓子の愛好者も増えていきそうだ。
他方、韓国の「チョコパイ」は、1974年に発売された国民的お菓子として人気が高いだけでなく、国外でもヒット商品となっている。今年の1〜3月期の売り上げは地元の韓国が240億ウォン、中国550億ウォン、ベトナム230億ウォン、ロシア100億ウォンなどとなっている。
同社のチョコパイはこれらの国々のほかにインドや台湾でも人気で、北朝鮮でも国境の開城工業団地や中国経由で流入した商品が闇市場で売られているほどだという。昨年は、あまりの人気ぶりを警戒した北朝鮮政府が公式に取引を禁じたことでも話題となった。
専門家は、韓国の菓子市場では年間1000億ウォンの売り上げを記録すれば大成功とされると指摘し「チョコパイは真のヒット商品といえる」と評価。地場IBK投資証券のアナリストは、中国の1人当たり菓子消費量が日本の15%、韓国の43%にすぎないとし、チョコパイの中国での販売は伸びる余地がまだ十分にあると分析した。
オリオン幹部はここまでの成功について「各国市場に合わせた販促活動を展開し、消費者に受け入れられたのが要因」と述べ、今後はさらに発売国を増やしていきたいと意欲をみせた。
同社のチョコパイは、78年に地場ロッテ製菓が発売した類似商品などと激しい競争を繰り広げ、12年には年間売り上げが初めて3000億ウォンの大台を超える3440億ウォンにまで伸びた。その後も13年は3800億ウォン、14年は3830億ウォンと順調な増加が続く。今年は4000億ウォン突破を見込んでいる。
チョコにコーティングされたお菓子とはいえ、国際競争となると甘くはいかない話となっている。
こうした輸出の増加には、菓子メーカーが直面する国内事情もひとつの背景にある。少子化が進む中、お菓子を好む子どもの絶対数が減っており、日本市場は頭打ちとなっている。このため、各社とも生き残りをかけて海外に活路を求めている。また、コンビニなどで売られるプライベートブランドの増加も、菓子メーカーには脅威だ。そこで、消費者に広く浸透したロングセラー商品を押し出すことが、有効な対抗策にもなっている。
チョコレートをコーティングした江崎グリコの看板商品「ポッキー」は1966年に発売開始され、今年で49年目を迎える。今やほとんどの日本人におなじみの超ロングセラー商品だ。これまでタイや中国・上海、フランスに現地法人と工場を設立してきた。2012年には、経済成長著しいアジアにより力を入れるため、インドネシアに現地法人を立ち上げたほか、今年3月にはマレーシアに駐在員を初めて配置した。同社は、東京オリンピックが開かれる2020年をめどに「全世界でポッキーの売り上げを1億ドルにすることを目標に掲げています」と宣言。 同社によると、この1、2年はアメリカ人など海外観光客らの間で、日本だけで販売している「抹茶味」のポッキーが大人気。京都のほか、成田空港や関西国際空港のお土産品売り場では、大量買いする人が後を絶たないという。東京オリンピックに向けて日本への注目が増していくに連れて、日本のお菓子の愛好者も増えていきそうだ。
他方、韓国の「チョコパイ」は、1974年に発売された国民的お菓子として人気が高いだけでなく、国外でもヒット商品となっている。今年の1〜3月期の売り上げは地元の韓国が240億ウォン、中国550億ウォン、ベトナム230億ウォン、ロシア100億ウォンなどとなっている。
同社のチョコパイはこれらの国々のほかにインドや台湾でも人気で、北朝鮮でも国境の開城工業団地や中国経由で流入した商品が闇市場で売られているほどだという。昨年は、あまりの人気ぶりを警戒した北朝鮮政府が公式に取引を禁じたことでも話題となった。
専門家は、韓国の菓子市場では年間1000億ウォンの売り上げを記録すれば大成功とされると指摘し「チョコパイは真のヒット商品といえる」と評価。地場IBK投資証券のアナリストは、中国の1人当たり菓子消費量が日本の15%、韓国の43%にすぎないとし、チョコパイの中国での販売は伸びる余地がまだ十分にあると分析した。
オリオン幹部はここまでの成功について「各国市場に合わせた販促活動を展開し、消費者に受け入れられたのが要因」と述べ、今後はさらに発売国を増やしていきたいと意欲をみせた。
同社のチョコパイは、78年に地場ロッテ製菓が発売した類似商品などと激しい競争を繰り広げ、12年には年間売り上げが初めて3000億ウォンの大台を超える3440億ウォンにまで伸びた。その後も13年は3800億ウォン、14年は3830億ウォンと順調な増加が続く。今年は4000億ウォン突破を見込んでいる。
チョコにコーティングされたお菓子とはいえ、国際競争となると甘くはいかない話となっている。
2015年06月08日
内外で安全保障の議論、国民に決意を迫る戦後70周年
国民に歴史的な決断を迫る安保法制の議論が、安倍政権のもと国会でされてきました。戦後70年、日本の安全保障政策が岐路に立つ今、集団的自衛権自衛権での武力行使は認められるとの判断を進めるリーダーである安倍首相は、交戦権を認めない日本国憲法9条のもとで、恒久平和という自衛隊に同盟国との連携行動を認めるという難しい議論を保守絶対優位のこの時にと寝ずの勢いです。先週は、参考人として呼ばれた憲法学者3名が、安全保障関連法案を「違憲」と指摘し、波紋を広げています。
現在、首相は7日より開催のG7サミットに出席で独南部の保養地エルマウに滞在しています。首相は外交・安全保障問題を扱う同日の夕食会で、中国による人工島造成で緊張が高まる南シナ海情勢問題を提起、また政府軍と親ロシア派の衝突が続くウクライナ情勢とともに「力による現状変更を認めない」との立場での主張を行う重要な国際会議に臨んでいます。
日米同盟のもとに日本の安全と安心が確保されてきました。戦争法案だから反対というような社民論を一括しつつ、玉虫色の政府答弁の中で国民は安全保障に対するリスクを認識し、集団的自衛権の行使の限界を見極めた上で、いよいよの決心しなければならない、一億総懺悔となった戦後も70周です。
中国、北朝鮮などを配する東アジアの情勢を考えれば、日本単独で日本の安全を確保できない事は明白です。日米関係の力関係も敗戦国から脱して変化してきており、安全保障の在り方をこのまま通りは、沖縄とて黙っていません。つまるところ問題は広範囲な地域で軍事活動を展開する米軍の支援をどこまでやるかの限界と、その行動のタイミングが議論の要点となっているのです。不用意に戦争に巻き込まれる事は避けなければなりませんが、場合によっては、戦闘に近い所で自衛隊が活動する事はあると仮定しなければなりません。
国会の議論そのものが丁々発止でやるべき最重要案件ですが、安倍首相と野党の双方がかなり行儀が悪い状態で、いいはなしでなく民主主義の前提で少数の意見も尊重するかどうかです。特に安倍首相の答弁については、このところ各方面から厳しい評価がされているのは、聞く耳持たない、国会はプロセスの場であって、議論を尽くす場であると心得ていらしゃるのかどうかです。そのような国会のさもしい状況を国民に見せたくないのか、 NHKが国会審議を中継しないという驚くべき事をしています。私も民主党の辻本議員の質問のニュースを見ていましたが、いいところで番組が終わってしまいました。このNHKの姿勢は、あの会長の意向とすれば、言論の自由という民主主義の大前提に対す問題行動です。
安倍首相も、率直に国民にある覚悟と決断を迫るべきです。70年前の大本営発表なんて、国民を臣民と行っていた時代でしたが、21世紀も15年過ぎての首相は表向きLiveしかしグレーゾーンで逃げ切って、与党の賛成多数で今国会で成立させられるんだぞという、そんな態度が言動に現れています。
民主党の岡田党首は、法案に反対という意思表示はしませんでした。
サミット8日は、過激派組織「イスラム国」への対応を中心としたテロ対策や、地球温暖化対策、途上国の開発支援などを協議。2日間の成果をまとめた首脳宣言を採択して閉幕するということです。
現在、首相は7日より開催のG7サミットに出席で独南部の保養地エルマウに滞在しています。首相は外交・安全保障問題を扱う同日の夕食会で、中国による人工島造成で緊張が高まる南シナ海情勢問題を提起、また政府軍と親ロシア派の衝突が続くウクライナ情勢とともに「力による現状変更を認めない」との立場での主張を行う重要な国際会議に臨んでいます。
日米同盟のもとに日本の安全と安心が確保されてきました。戦争法案だから反対というような社民論を一括しつつ、玉虫色の政府答弁の中で国民は安全保障に対するリスクを認識し、集団的自衛権の行使の限界を見極めた上で、いよいよの決心しなければならない、一億総懺悔となった戦後も70周です。
中国、北朝鮮などを配する東アジアの情勢を考えれば、日本単独で日本の安全を確保できない事は明白です。日米関係の力関係も敗戦国から脱して変化してきており、安全保障の在り方をこのまま通りは、沖縄とて黙っていません。つまるところ問題は広範囲な地域で軍事活動を展開する米軍の支援をどこまでやるかの限界と、その行動のタイミングが議論の要点となっているのです。不用意に戦争に巻き込まれる事は避けなければなりませんが、場合によっては、戦闘に近い所で自衛隊が活動する事はあると仮定しなければなりません。
国会の議論そのものが丁々発止でやるべき最重要案件ですが、安倍首相と野党の双方がかなり行儀が悪い状態で、いいはなしでなく民主主義の前提で少数の意見も尊重するかどうかです。特に安倍首相の答弁については、このところ各方面から厳しい評価がされているのは、聞く耳持たない、国会はプロセスの場であって、議論を尽くす場であると心得ていらしゃるのかどうかです。そのような国会のさもしい状況を国民に見せたくないのか、 NHKが国会審議を中継しないという驚くべき事をしています。私も民主党の辻本議員の質問のニュースを見ていましたが、いいところで番組が終わってしまいました。このNHKの姿勢は、あの会長の意向とすれば、言論の自由という民主主義の大前提に対す問題行動です。
安倍首相も、率直に国民にある覚悟と決断を迫るべきです。70年前の大本営発表なんて、国民を臣民と行っていた時代でしたが、21世紀も15年過ぎての首相は表向きLiveしかしグレーゾーンで逃げ切って、与党の賛成多数で今国会で成立させられるんだぞという、そんな態度が言動に現れています。
民主党の岡田党首は、法案に反対という意思表示はしませんでした。
サミット8日は、過激派組織「イスラム国」への対応を中心としたテロ対策や、地球温暖化対策、途上国の開発支援などを協議。2日間の成果をまとめた首脳宣言を採択して閉幕するということです。
2015年06月07日
ジョージア(グルジア):『百万本のバラ』とワイン
薔薇の季節、『百万本のバラ』は、女性だったら百万と言わずに一本でも頂いたら感激です。
今年は、バラの開花も早く始まって、ジューンブライドのバラが足りなくなるのではというような気配ですが・・・
日本では、岩谷時子が訳して、その後に加藤登紀子などがヒット曲にしています。元の歌詞はロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詩をつくり、ラトビアの作曲家が曲をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌い大ヒットした、ソ連時代ならではの多様な民族性が絡んでいる哀愁のある歌とも言えます。
歌詞のインスピレーションは、グルジアの画家ニコ・ピロスマニが、町にやってきたマルガリータという名の女優に恋し、その愛を示すために彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという逸話に基づいています。ピロスマニは、その後、放浪に出て貧しく亡くなりますが、マルガリータをモデルとしたといわれる作品を何枚か残しました。グルジアの首都トビリシの国立美術館で『女優マルガリータ』を観ることができます。ソ連時代の1969年に、パリでピロスマニの個展が開催された際にはマルガリータ本人と目される女性が現れたと伝えられています。ソ連では1971年と1986年にその生涯が映画化され、2007年にはロシアの文化テレビ局が放送したピロスマニについてのドキュメンタリー番組でパリでの個展の際の出来事が紹介されたということです。グルジアの国民的な画家となり、グルジアの1ラリ紙幣に肖像が使用され、
NHKのYOUTUBEのロシア語会話で、歌の意味が解説され、画家の描いたマルガリータの絵も紹介され、ロシア語での歌い方も教授しています。
なお、グルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)は、公用語のグルジア語(カルトリ語)ではサカルトヴェロ(グルジア語: საქართველო, Sakartvelo)と呼ばれており、首都はトビリシ。ところが、日本政府にジョージア(英語: Georgia)へ呼称を変更を要請し、2015年の閣議決定によって4月22日からジョージアになっています。
グルジアは葡萄の産地でも有名で、実はワイン発祥の地ということです。グルジアワインはクレオパトラや楊貴妃、そしてチャーチル首相にも愛されたのだそうです。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ (Khvanchkara) は「甘口ワインの真珠」として著名なワインで、古代文明の王族、歴代ロシア皇帝や、ソ連の共産党の幹部たちが鉄のカーテンの向こうで愛飲し、西側には出てこなかった訳でした。スパークリングワインは、ツクリアラ (Cqriala) と呼ばれて、フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高いといわれうます。キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュのなかでも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたのですが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がグルジアに存在するのが、ワインの発祥地たる所以です。
2006年以来、ロシア連邦はグルジアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)していたのですが、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立に伴い解除しましたが、そんな事情もあって日本国内でまだまだ入手困難なワインです。皆様も、グルジアのワインに行き当たりましたら、是非、迷わず飲んでみてください。
今年は、バラの開花も早く始まって、ジューンブライドのバラが足りなくなるのではというような気配ですが・・・
日本では、岩谷時子が訳して、その後に加藤登紀子などがヒット曲にしています。元の歌詞はロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詩をつくり、ラトビアの作曲家が曲をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌い大ヒットした、ソ連時代ならではの多様な民族性が絡んでいる哀愁のある歌とも言えます。
歌詞のインスピレーションは、グルジアの画家ニコ・ピロスマニが、町にやってきたマルガリータという名の女優に恋し、その愛を示すために彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという逸話に基づいています。ピロスマニは、その後、放浪に出て貧しく亡くなりますが、マルガリータをモデルとしたといわれる作品を何枚か残しました。グルジアの首都トビリシの国立美術館で『女優マルガリータ』を観ることができます。ソ連時代の1969年に、パリでピロスマニの個展が開催された際にはマルガリータ本人と目される女性が現れたと伝えられています。ソ連では1971年と1986年にその生涯が映画化され、2007年にはロシアの文化テレビ局が放送したピロスマニについてのドキュメンタリー番組でパリでの個展の際の出来事が紹介されたということです。グルジアの国民的な画家となり、グルジアの1ラリ紙幣に肖像が使用され、
NHKのYOUTUBEのロシア語会話で、歌の意味が解説され、画家の描いたマルガリータの絵も紹介され、ロシア語での歌い方も教授しています。
なお、グルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)は、公用語のグルジア語(カルトリ語)ではサカルトヴェロ(グルジア語: საქართველო, Sakartvelo)と呼ばれており、首都はトビリシ。ところが、日本政府にジョージア(英語: Georgia)へ呼称を変更を要請し、2015年の閣議決定によって4月22日からジョージアになっています。
グルジアは葡萄の産地でも有名で、実はワイン発祥の地ということです。グルジアワインはクレオパトラや楊貴妃、そしてチャーチル首相にも愛されたのだそうです。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ (Khvanchkara) は「甘口ワインの真珠」として著名なワインで、古代文明の王族、歴代ロシア皇帝や、ソ連の共産党の幹部たちが鉄のカーテンの向こうで愛飲し、西側には出てこなかった訳でした。スパークリングワインは、ツクリアラ (Cqriala) と呼ばれて、フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高いといわれうます。キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュのなかでも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたのですが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がグルジアに存在するのが、ワインの発祥地たる所以です。
2006年以来、ロシア連邦はグルジアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)していたのですが、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立に伴い解除しましたが、そんな事情もあって日本国内でまだまだ入手困難なワインです。皆様も、グルジアのワインに行き当たりましたら、是非、迷わず飲んでみてください。
2015年06月06日
走って、ご長寿、世界新!
年齢を重ねるにつれて足腰が弱くなったり、杖に頼ったりが普通。だが、なかには年齢などもろともせず、スポーツやエクササイズに精を出す人もたくさんいる。そんな、活発な老齢者が内外に結構いらしゃるのを知ると励みになる。
先月は、なんと92歳という年齢でフルマラソンを完走し、女性最年長の世界記録を樹立したというのだ!!私など、100メートル走でも全力疾走できるか疑わしい一人(駅まで走るが、家族に言われると歩いてるという風情だそう)になって、まさに信じがたい人並みでない女神的な存在だ。
2015年5月31日、米カリフォルニア州でサンディエゴ・ロックンロールマラソンが開催された。42.195キロを走るフルマラソンだ。ハリエット・トンプソンさんは、ノースカロライナ州から参加した、92歳と65日。今回で、ロックンロールマラソンに参加するのは16回目で、76歳でマラソンを始めるまでに、白血病とリンパ腫を患っていたという。しかし、見事に癌(がん)を2回も克服し、16年も続けてフルマラソンに参加するまで元気になった。
7時間24分36秒というタイムでゴールし、フルマラソンを完走した女性最高齢の世界記録を樹立した。それまでは、2010年にホノルルマラソンを完走した92歳と19日のグラディス・ブリルさんが、女性最高齢の世界記録を保持していた。
実は、ハリエットさんの偉業はそれだけではない。2014年のロックンロール・マラソンでは7時間7分42秒という記録でゴールし、彼女の年齢枠で世界記録を打ち立ていた。さらに、白血病とリンパ腫の慈善団体「「Leukemia and Lymphoma Society」のためにフルマラソンに参加し続けている彼女は、今までに10万ドル(約1380万円)もの寄付金を集めるに至っている。女性世界最高齢の記録だけでなくタイムでも世界記録を残し、チャリティで多額の寄付金まで集めたハリエットさんは、まさに “スーパー・ウーマン” と呼ぶにふさわしい女性だ。こんなおばあちゃんの話を聞いたら、「もう歳だから……」などと簡単に言い訳はできなさそうである。
日本では、北上陸上競技場で開かれているアジアと全日本のマスターズ陸上競技選手権大会(アジアマスターズ陸上競技協会など主催、朝日新聞社など共催)が開かれてきたが、100メートル走に昨年9月の大会期間中に誕生日を迎えた大会最高齢者の104歳、宮崎秀吉さん(京都市)が出場し、こちらも注目された。
100歳を超すクラスに出場したのは宮崎さんだけで、記録は34秒61だった。4年前に自身が出した100歳超の世界記録29秒83には及ばなかったが、「満足。100点満点」と喜んだ。
元気の秘訣は「欲をかかないことと、食べ物に気をつけること」。口に入れたら30回かむようにしているという。大会にはこれからも出場し、「来年は世界新記録を出したい」と元気いっぱいだ。
さらに、全日本大会に夫婦で参加されている日本人も見事な成績だ。27年連続出場の日本記録を更新した石川董(ただし)さん(81)=奥州市江刺区=は100メートルに出場し、15秒60で80〜84歳クラスの2位に入った。「念願の『夫婦で計60個目』のメダルになった」と喜んだ。石川さんは2月に左足の病気で大きな手術をし、4週間ほど松葉杖の生活を送った。プールで水中を歩くリハビリを繰り返し、「何とかスタートラインに立てた状態だった」という。その中で結果を出すことができ、「夫婦であと3年出場し、連続30回を目指したい」と益々張り切って、アッパレなご夫婦だ。
先月は、なんと92歳という年齢でフルマラソンを完走し、女性最年長の世界記録を樹立したというのだ!!私など、100メートル走でも全力疾走できるか疑わしい一人(駅まで走るが、家族に言われると歩いてるという風情だそう)になって、まさに信じがたい人並みでない女神的な存在だ。
2015年5月31日、米カリフォルニア州でサンディエゴ・ロックンロールマラソンが開催された。42.195キロを走るフルマラソンだ。ハリエット・トンプソンさんは、ノースカロライナ州から参加した、92歳と65日。今回で、ロックンロールマラソンに参加するのは16回目で、76歳でマラソンを始めるまでに、白血病とリンパ腫を患っていたという。しかし、見事に癌(がん)を2回も克服し、16年も続けてフルマラソンに参加するまで元気になった。
7時間24分36秒というタイムでゴールし、フルマラソンを完走した女性最高齢の世界記録を樹立した。それまでは、2010年にホノルルマラソンを完走した92歳と19日のグラディス・ブリルさんが、女性最高齢の世界記録を保持していた。
実は、ハリエットさんの偉業はそれだけではない。2014年のロックンロール・マラソンでは7時間7分42秒という記録でゴールし、彼女の年齢枠で世界記録を打ち立ていた。さらに、白血病とリンパ腫の慈善団体「「Leukemia and Lymphoma Society」のためにフルマラソンに参加し続けている彼女は、今までに10万ドル(約1380万円)もの寄付金を集めるに至っている。女性世界最高齢の記録だけでなくタイムでも世界記録を残し、チャリティで多額の寄付金まで集めたハリエットさんは、まさに “スーパー・ウーマン” と呼ぶにふさわしい女性だ。こんなおばあちゃんの話を聞いたら、「もう歳だから……」などと簡単に言い訳はできなさそうである。
日本では、北上陸上競技場で開かれているアジアと全日本のマスターズ陸上競技選手権大会(アジアマスターズ陸上競技協会など主催、朝日新聞社など共催)が開かれてきたが、100メートル走に昨年9月の大会期間中に誕生日を迎えた大会最高齢者の104歳、宮崎秀吉さん(京都市)が出場し、こちらも注目された。
100歳を超すクラスに出場したのは宮崎さんだけで、記録は34秒61だった。4年前に自身が出した100歳超の世界記録29秒83には及ばなかったが、「満足。100点満点」と喜んだ。
元気の秘訣は「欲をかかないことと、食べ物に気をつけること」。口に入れたら30回かむようにしているという。大会にはこれからも出場し、「来年は世界新記録を出したい」と元気いっぱいだ。
さらに、全日本大会に夫婦で参加されている日本人も見事な成績だ。27年連続出場の日本記録を更新した石川董(ただし)さん(81)=奥州市江刺区=は100メートルに出場し、15秒60で80〜84歳クラスの2位に入った。「念願の『夫婦で計60個目』のメダルになった」と喜んだ。石川さんは2月に左足の病気で大きな手術をし、4週間ほど松葉杖の生活を送った。プールで水中を歩くリハビリを繰り返し、「何とかスタートラインに立てた状態だった」という。その中で結果を出すことができ、「夫婦であと3年出場し、連続30回を目指したい」と益々張り切って、アッパレなご夫婦だ。
2015年06月05日
自民推薦も含む参考人から、安保関連法案の「違憲の指摘」
衆院憲法審査会は4日、憲法学の専門家3人を招いて参考人質疑を行った。憲法解釈変更による集団的自衛権の行使を含む新たな安全保障関連法案について、与党が推薦した参考人をはじめ全員が「憲法違反だ」と批判した。
自民党や公明党などが推薦した早稲田大の長谷部恭男教授らは審査会で、安保法案について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と明言した。
参考人質疑に出席したのは、自民推薦の長谷部恭男・早大教授、民主党推薦の小林節・慶大名誉教授、維新の党推薦の笹田栄司・早大教授の3人。
憲法改正に慎重な立場の長谷部氏は、集団的自衛権の行使を認める安保関連法案について「憲法違反だ」とし、「個別的自衛権のみ許されるという(9条の)論理で、なぜ集団的自衛権が許されるのか」と批判。笹田氏も、従来の政府による9条解釈が「ガラス細工と言えなくもない、ぎりぎりで保ってきた」との認識を示し、今回の法案について「(これまでの定義を)踏み越えてしまっており、違憲だ」と指摘した。9条改正が持論の小林氏も「憲法9条2項で、海外で軍事活動する法的資格を与えられていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは9条違反だ」との見解を示した。また、重要影響事態法案などで、米軍などを後方支援する自衛隊が「現に戦闘行為が行われている場所」以外なら活動できるとした点についても、小林氏らは「(武力行使との)一体化そのものだ」などと発言。3人とも違憲や違憲のおそれがあるとの認識を示した。
これに対し、法案作りに関わった公明党の北側一雄副代表は「憲法9条の下でどこまで自衛措置が許されるのか突き詰めて議論した」と理解を求めた。だが、長谷部氏は「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と批判を続けた。
関係者によると、自民党は参考人の人選を衆院法制局に一任したという。ただ、長谷部氏は安保法案に反対する有識者の団体で活動しているだけに調整ミスは明らか。与党が呼んだ参考人が政府の法案を否定するという異例の事態となり、“人選ミス”で墓穴を掘った。「長谷部氏でゴーサインを出した党の責任だ。明らかな人選ミスだ」(自民党幹部)との批判が高まっている。
自民推薦も含む参考人から、安保関連法案の違憲性を指摘されたことに、与党は今後の法案審議で「野党に追及の材料を与えてしまった」(自民国対幹部)と危機感を募らせる。菅義偉官房長官は4日の会見で「違憲という指摘は全くあたらない」と反論し、法案審議には影響がないと強調した
審査会幹事の船田元(はじめ)自民党憲法改正推進本部長は、長谷部氏らの発言について、記者団に「ちょっと予想を超えた」と釈明。船田氏はその後、佐藤勉国対委員長から「自分たちが呼んだ参考人の発言だから影響は大きい。安保法制の議論に十分配慮してほしい」と注意を受けた。
中谷元(げん)防衛相は5日午前の記者会見で、衆院憲法審査会で与党が推薦した参考人全員が、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使を含む新たな安全保障関連法案を「憲法違反」と批判したことについて「これまでの憲法9条をめぐる議論との整合性を考慮したものだ。行政府における憲法解釈の裁量の範囲内で、違憲との指摘はあたらない」と反論した。「昨年7月の閣議決定は有識者の検討や与党協議会での綿密な協議を踏まえて行った」とも述べた。
一方、野党は衆院平和安全法制特別委員会で「政府・与党の矛盾」を追及する構えだ。
自民党や公明党などが推薦した早稲田大の長谷部恭男教授らは審査会で、安保法案について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と明言した。
参考人質疑に出席したのは、自民推薦の長谷部恭男・早大教授、民主党推薦の小林節・慶大名誉教授、維新の党推薦の笹田栄司・早大教授の3人。
憲法改正に慎重な立場の長谷部氏は、集団的自衛権の行使を認める安保関連法案について「憲法違反だ」とし、「個別的自衛権のみ許されるという(9条の)論理で、なぜ集団的自衛権が許されるのか」と批判。笹田氏も、従来の政府による9条解釈が「ガラス細工と言えなくもない、ぎりぎりで保ってきた」との認識を示し、今回の法案について「(これまでの定義を)踏み越えてしまっており、違憲だ」と指摘した。9条改正が持論の小林氏も「憲法9条2項で、海外で軍事活動する法的資格を与えられていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは9条違反だ」との見解を示した。また、重要影響事態法案などで、米軍などを後方支援する自衛隊が「現に戦闘行為が行われている場所」以外なら活動できるとした点についても、小林氏らは「(武力行使との)一体化そのものだ」などと発言。3人とも違憲や違憲のおそれがあるとの認識を示した。
これに対し、法案作りに関わった公明党の北側一雄副代表は「憲法9条の下でどこまで自衛措置が許されるのか突き詰めて議論した」と理解を求めた。だが、長谷部氏は「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と批判を続けた。
関係者によると、自民党は参考人の人選を衆院法制局に一任したという。ただ、長谷部氏は安保法案に反対する有識者の団体で活動しているだけに調整ミスは明らか。与党が呼んだ参考人が政府の法案を否定するという異例の事態となり、“人選ミス”で墓穴を掘った。「長谷部氏でゴーサインを出した党の責任だ。明らかな人選ミスだ」(自民党幹部)との批判が高まっている。
自民推薦も含む参考人から、安保関連法案の違憲性を指摘されたことに、与党は今後の法案審議で「野党に追及の材料を与えてしまった」(自民国対幹部)と危機感を募らせる。菅義偉官房長官は4日の会見で「違憲という指摘は全くあたらない」と反論し、法案審議には影響がないと強調した
審査会幹事の船田元(はじめ)自民党憲法改正推進本部長は、長谷部氏らの発言について、記者団に「ちょっと予想を超えた」と釈明。船田氏はその後、佐藤勉国対委員長から「自分たちが呼んだ参考人の発言だから影響は大きい。安保法制の議論に十分配慮してほしい」と注意を受けた。
中谷元(げん)防衛相は5日午前の記者会見で、衆院憲法審査会で与党が推薦した参考人全員が、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使を含む新たな安全保障関連法案を「憲法違反」と批判したことについて「これまでの憲法9条をめぐる議論との整合性を考慮したものだ。行政府における憲法解釈の裁量の範囲内で、違憲との指摘はあたらない」と反論した。「昨年7月の閣議決定は有識者の検討や与党協議会での綿密な協議を踏まえて行った」とも述べた。
一方、野党は衆院平和安全法制特別委員会で「政府・与党の矛盾」を追及する構えだ。
2015年06月04日
国会見学と講演会
第85 回市民政策研究会
「福島第一原発事故後の真実」のご案内
原発事故から4年、除染作業も進みだし、帰宅困難地域の一部解除も始まりました。
しかし今なお、様々な噂が飛び交い戸惑いを隠せません。
そこで原発賛成・反対に関わらず、フェアに事実に基づいたお話を伺いたいと思います。
なお、今も金曜日には官邸前のデモは続けられております。
当日は、講演前にその官邸ちかくの国会議事堂内見学会を開催します。
下記の@、Aの両方、またはどちらか一つのみの参加も可能です。
◆日時:平成27 年6月10 日(水)
@ 14 時〜 国会見学(参議院議員会館1F ロビー集合
永田町駅1番出口1分、国会議事堂前駅7分)
A 15 時30 分〜 講演会(参議院議員会館 会議室)
◆講師:川田龍平 参議院議員、 高橋克彦AMR 副会長
◆参加費:会員および 会員紹介者は 無料
◆申込方法:必要事項をメール(webmaster@mcmnet.jp)
または当案内状をFAX(020-4666-6865)で返信
◆ 主催:MCMNET(http://www.mcmnet.jp 電話090-2653-6878)
「福島第一原発事故後の真実」のご案内
原発事故から4年、除染作業も進みだし、帰宅困難地域の一部解除も始まりました。
しかし今なお、様々な噂が飛び交い戸惑いを隠せません。
そこで原発賛成・反対に関わらず、フェアに事実に基づいたお話を伺いたいと思います。
なお、今も金曜日には官邸前のデモは続けられております。
当日は、講演前にその官邸ちかくの国会議事堂内見学会を開催します。
下記の@、Aの両方、またはどちらか一つのみの参加も可能です。
◆日時:平成27 年6月10 日(水)
@ 14 時〜 国会見学(参議院議員会館1F ロビー集合
永田町駅1番出口1分、国会議事堂前駅7分)
A 15 時30 分〜 講演会(参議院議員会館 会議室)
◆講師:川田龍平 参議院議員、 高橋克彦AMR 副会長
◆参加費:会員および 会員紹介者は 無料
◆申込方法:必要事項をメール(webmaster@mcmnet.jp)
または当案内状をFAX(020-4666-6865)で返信
◆ 主催:MCMNET(http://www.mcmnet.jp 電話090-2653-6878)
2015年06月03日
ハワイでのオスプレイ訓練で墜落、死亡事故後
米海兵隊の新型輸送機オスプレイMV22が5月17日、米ハワイ州・オアフ島で訓練中に着陸に失敗し、乗組員1人が死亡し、21人が病院に搬送された。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)にも24機配備されたものと同機種で、安全性などをめぐって議論が再燃するのは必至だ。
地元メディアは、目撃者の話として、3機のオスプレイが上空を旋回し、いずれも地上に向けて高度を下げたものの、2機しか浮上せず、数秒後に黒煙が上がった、と伝えている。事故原因について、海兵隊では「調査中」としている。
海兵隊仕様のMV22は、すでに米軍普天間飛行場に24機配備されており、陸上自衛隊も同機種のオスプレイを2018年度までに米側から計17機購入することを決め、佐賀空港への配備を検討している。このほか、米国防総省は今月11日、米空軍仕様で特殊部隊などの輸送に使用するオスプレイCV22を計10機、横田基地(東京都福生市など)に配備すると発表している。
オスプレイは垂直離着陸ができ、航続距離も長いことから、米軍では旧型の輸送機やヘリなどを順次オスプレイに交代させている。ただ、オスプレイは開発当初から事故が相次ぎ、安全性を疑問視する声もあり、沖縄などで配備に根強い反対があった。今回の事故を受け、その安全性をめぐって改めて議論と検証が求められるのは避けられず、配備計画にも影響する可能性がある。
米政府監査院の報告書などによると、1991年6月、試作機が配線ミスで墜落。翌92年7月には試作機で火災が発生し、7人が死亡した。米海兵隊のMV22をめぐっては2000年4月、救出訓練中に墜落し、19人が死亡。同12月、操縦不能で墜落し、4人死亡。12年4月には、モロッコで訓練中に墜落し、2人が死亡した。13年8月にも、米ネバダ州の基地近くで着陸に失敗した。
横田基地に配備される米空軍のCV22型機も、10年4月、アフガニスタンで作戦中に墜落し、4人が死亡。12年6月に米フロリダ州で墜落事故を起こした。海兵隊仕様のMV22は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に24機配備されているほか、陸上自衛隊も導入を決めている。横田基地にも米空軍がCV22の配備を予定している。事故が相次ぎ、沖縄など地元では配備に反対する声が強い。
訪米中の翁長雄志(おながたけし)・沖縄県知事は29日(日本時間30日)、ハワイ州でデービッド・イゲ州知事と会談した。3日間の滞在で上下両院議員3人に加え、デービッド・イゲ州知事とも会談。県幹部は「会談相手は、こちらの要望がほぼかなった」と明かす。ただ、「辺野古ノー」を訴える翁長氏に対する会談相手の反応は様々。28日に会ったブライアン・シャーツ上院議員は「できる限りのことをしたい」と協力の意向を表明したものの、29日に会談したイゲ氏は沖縄に駐留する米海兵隊の一部をハワイに移転する再編計画には理解を示したが、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設問題については「日米両政府の問題」と述べるにとどめた。ハワイで起きたオスプレイの事故についても、意見を交わす時間はなかった。イゲ氏は祖父母が沖縄県出身の日系3世。今年は沖縄とハワイの姉妹提携30周年にあたり、会談で翁長氏とイゲ氏はそれぞれで予定されている式典に参加する意向も確認した。翁長知事はハワイの会談後、ワシントンに向かった。
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設計画をめぐり、名護市の稲嶺進市長は30日(日本時間31日)、米ワシントンで市民団体と意見交換会を開いた。移設反対を訴えるため訪米中の翁長雄志知事に同行している稲市長は、移設作業が続く沖縄の現状について「植民地と言っても過言ではない」と市民団体側に説明した。米国内で反戦や女性の権利を訴える複数の市民団体のメンバーら約10人にあった稲嶺市長は、戦後70年たっても全国の米軍専用施設の74%が沖縄に集中していると説明し、「どこの国でもこれだけ差別的な扱いはないと思う」と語った。また、辺野古の米軍基地前や海上で移設反対派と県警、第11管区海上保安本部が衝突している写真を紹介し、「県民同士を対立させ、分断させるのは植民地政策の常套(じょうとう)手段だ」と日米両政府を批判した。
6月3日(日本時間4日)、米政府高官などと面談し、普天間基地の辺野古への移設計画に反対する考えを訴える。
地元メディアは、目撃者の話として、3機のオスプレイが上空を旋回し、いずれも地上に向けて高度を下げたものの、2機しか浮上せず、数秒後に黒煙が上がった、と伝えている。事故原因について、海兵隊では「調査中」としている。
海兵隊仕様のMV22は、すでに米軍普天間飛行場に24機配備されており、陸上自衛隊も同機種のオスプレイを2018年度までに米側から計17機購入することを決め、佐賀空港への配備を検討している。このほか、米国防総省は今月11日、米空軍仕様で特殊部隊などの輸送に使用するオスプレイCV22を計10機、横田基地(東京都福生市など)に配備すると発表している。
オスプレイは垂直離着陸ができ、航続距離も長いことから、米軍では旧型の輸送機やヘリなどを順次オスプレイに交代させている。ただ、オスプレイは開発当初から事故が相次ぎ、安全性を疑問視する声もあり、沖縄などで配備に根強い反対があった。今回の事故を受け、その安全性をめぐって改めて議論と検証が求められるのは避けられず、配備計画にも影響する可能性がある。
米政府監査院の報告書などによると、1991年6月、試作機が配線ミスで墜落。翌92年7月には試作機で火災が発生し、7人が死亡した。米海兵隊のMV22をめぐっては2000年4月、救出訓練中に墜落し、19人が死亡。同12月、操縦不能で墜落し、4人死亡。12年4月には、モロッコで訓練中に墜落し、2人が死亡した。13年8月にも、米ネバダ州の基地近くで着陸に失敗した。
横田基地に配備される米空軍のCV22型機も、10年4月、アフガニスタンで作戦中に墜落し、4人が死亡。12年6月に米フロリダ州で墜落事故を起こした。海兵隊仕様のMV22は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に24機配備されているほか、陸上自衛隊も導入を決めている。横田基地にも米空軍がCV22の配備を予定している。事故が相次ぎ、沖縄など地元では配備に反対する声が強い。
訪米中の翁長雄志(おながたけし)・沖縄県知事は29日(日本時間30日)、ハワイ州でデービッド・イゲ州知事と会談した。3日間の滞在で上下両院議員3人に加え、デービッド・イゲ州知事とも会談。県幹部は「会談相手は、こちらの要望がほぼかなった」と明かす。ただ、「辺野古ノー」を訴える翁長氏に対する会談相手の反応は様々。28日に会ったブライアン・シャーツ上院議員は「できる限りのことをしたい」と協力の意向を表明したものの、29日に会談したイゲ氏は沖縄に駐留する米海兵隊の一部をハワイに移転する再編計画には理解を示したが、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設問題については「日米両政府の問題」と述べるにとどめた。ハワイで起きたオスプレイの事故についても、意見を交わす時間はなかった。イゲ氏は祖父母が沖縄県出身の日系3世。今年は沖縄とハワイの姉妹提携30周年にあたり、会談で翁長氏とイゲ氏はそれぞれで予定されている式典に参加する意向も確認した。翁長知事はハワイの会談後、ワシントンに向かった。
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設計画をめぐり、名護市の稲嶺進市長は30日(日本時間31日)、米ワシントンで市民団体と意見交換会を開いた。移設反対を訴えるため訪米中の翁長雄志知事に同行している稲市長は、移設作業が続く沖縄の現状について「植民地と言っても過言ではない」と市民団体側に説明した。米国内で反戦や女性の権利を訴える複数の市民団体のメンバーら約10人にあった稲嶺市長は、戦後70年たっても全国の米軍専用施設の74%が沖縄に集中していると説明し、「どこの国でもこれだけ差別的な扱いはないと思う」と語った。また、辺野古の米軍基地前や海上で移設反対派と県警、第11管区海上保安本部が衝突している写真を紹介し、「県民同士を対立させ、分断させるのは植民地政策の常套(じょうとう)手段だ」と日米両政府を批判した。
6月3日(日本時間4日)、米政府高官などと面談し、普天間基地の辺野古への移設計画に反対する考えを訴える。
2015年06月02日
首相には「懲罰動議が相当」との声も
安保法制の衆院特別委員会審議が続いており、昨日は昼にテレビをつけると5時過ぎまで審議が続いていた。たまたま、次のような記事を検索したが、今回の審議は安全保障にまつわる大事な時期なのだから、結論ありきの気分でいる首相の動向が気になる。
初日の5月27日、安倍首相は野党の質問に直接答えず、ダラダラと持論を述べるばかりで、身内の委員長にまで注意されていたという。そのため、28日は冒頭で「簡潔に答弁する大切さを踏まえ、留意する」と陳謝させられたのだが、その後も反省ゼロ。それどころか「ヤジ」まで飛ばし、再び陳謝させられたのである。
28日は民主党が“答弁ベタ”の中谷防衛相に集中的に質問する戦略を取ったことから、安倍首相は答弁の機会をなかなか与えられず、授業中に小学生が「ハイハイ」と乗り出して手を挙げるような身ぶりで、イライラを募らせていた。途中、勝手に立ち上がって、答えだす場面まであった。
そして、民主党の辻元清美議員の午後の質問の時である。閣僚席に座ったまま「早く質問しろよ。演説じゃないんだから」とヤジを飛ばしたのだ。前日に自分が答弁で5分以上話し、注意されたのをタナに上げて、である。
「民主党は安倍首相に対し、『懲罰動議』を出すべきです。吉田茂首相の『バカヤロー解散』のきっかけになったのは、1953年の予算委での『バカヤロー』発言でした。吉田首相が答弁席から帰りがけに吐き捨てた言葉に野党が激怒、議会軽視の表れとして懲罰動議を出した。その結果、可決し、吉田首相の不信任案も可決、解散となったのです。懲罰動議は安倍首相のイメージダウンになるでしょう。いまのだらしない自民党では造反者は出ないでしょうが、採決を記名投票でやれば誰が安倍首相を擁護するのか一目瞭然になる。民主党はここまでナメられていいのか。懲罰動議を出すべきです」(政治評論家・森田実氏)
希代の悪法を成立させないために、民主党はもっと攻撃的になっていい。
出典:
日刊ゲンダイ 5月29日
初日の5月27日、安倍首相は野党の質問に直接答えず、ダラダラと持論を述べるばかりで、身内の委員長にまで注意されていたという。そのため、28日は冒頭で「簡潔に答弁する大切さを踏まえ、留意する」と陳謝させられたのだが、その後も反省ゼロ。それどころか「ヤジ」まで飛ばし、再び陳謝させられたのである。
28日は民主党が“答弁ベタ”の中谷防衛相に集中的に質問する戦略を取ったことから、安倍首相は答弁の機会をなかなか与えられず、授業中に小学生が「ハイハイ」と乗り出して手を挙げるような身ぶりで、イライラを募らせていた。途中、勝手に立ち上がって、答えだす場面まであった。
そして、民主党の辻元清美議員の午後の質問の時である。閣僚席に座ったまま「早く質問しろよ。演説じゃないんだから」とヤジを飛ばしたのだ。前日に自分が答弁で5分以上話し、注意されたのをタナに上げて、である。
「民主党は安倍首相に対し、『懲罰動議』を出すべきです。吉田茂首相の『バカヤロー解散』のきっかけになったのは、1953年の予算委での『バカヤロー』発言でした。吉田首相が答弁席から帰りがけに吐き捨てた言葉に野党が激怒、議会軽視の表れとして懲罰動議を出した。その結果、可決し、吉田首相の不信任案も可決、解散となったのです。懲罰動議は安倍首相のイメージダウンになるでしょう。いまのだらしない自民党では造反者は出ないでしょうが、採決を記名投票でやれば誰が安倍首相を擁護するのか一目瞭然になる。民主党はここまでナメられていいのか。懲罰動議を出すべきです」(政治評論家・森田実氏)
希代の悪法を成立させないために、民主党はもっと攻撃的になっていい。
出典:
日刊ゲンダイ 5月29日
2015年06月01日
働く女性たちがやってみて本当によかった社会貢献活動とは?
学生時代にやってみて本当によかったと思う社会貢献活動を以下から選ぶ(複数選択可)という、働く女性にアンケートした結果が公表されてありました。
1位「ボランティア(海外・国内)」……30.3%
2位「国際交流推進活動」……20.8%
3位「募金・献血活動」……16.9%
4位「人権活動」……3.4%
5位「環境推進活動」……2.8%
6位「途上国支援・調査」……1.7%
※その他を除く、複数回答可
ボランティアに参加した人、大変に多いです。自然災害や地域活動など、これまでの社会事情から参加する機会が多いからかもしれません。ではその経験を通して得たものについても下記に分かります。
■「ボランティア(海外・国内)」
・「社会人や幅広い世代とかかわる機会を持てたので、会話の仕方やマナーが少し身についた」(23歳/人材派遣・人材紹介/営業職)
・「相手の立場になって考えることができるようになったからです」(32歳/ソフトウェア/事務系専門職)
・「老人ホームで音楽を披露するボランティアをして、いい経験になった」(33歳/金融・証券/専門職)
・「交友関係が広がったから。今でも定期的に会う友だちがいる」(24歳/食品・飲料/専門職)
ボランティア活動を通し、高齢者やけがを負った人たちなどと交流することによって、相手の立場になった考える力が養われるのかもしれません。
■「国際交流推進活動」
・「現地の学生と触れ合えるのは、同じ目線でいられる学生時代にしかないものだと思うから」(29歳/金属・鉄鋼・化学/事務系専門職)
・「いろんな価値観や立場を知りいろんな人と知り合っていい経験になるはずなので」(32歳/その他/クリエイティブ職)
・「社会人になるとなかなか、時間が取れないから」(28歳/学校・教育関連/専門職)
・「国際交流をして仲良くなった人といまだに連絡を取り合っているから」(30歳/医療・福祉/専門職)
実際に海外に行ったり、留学生を自宅にホームステイで迎えたりする国際交流に関する活動。日本以外の国のことを知る大きなチャンスになったことが分かります。
■「募金・献血活動」
・「投資は微々たるものだけど、それが復興に使われていて、被災地の人の生活がよくなっているので」(25歳/医療・福祉/専門職)
・「大学の献血カーで献血すると、『みんな持っていかないから』と言ってお菓子を山ほどもらえた」(30歳/機械・精密機器/事務系専門職)
・「喜ばれたから」(31歳/金融・証券/事務系専門職)
・「簡単にできる」(24歳/小売店/販売職・サービス系)
簡単に参加できるけれど、確実に誰かのためになっている、という実感が得られる募金活動や、献血活動。小さなことだけれど、とても大切なことです。
働く女性たちが学生の間に経験した社会貢献活動も、「もう社会人だからこういうのには参加できないかな……」などと諦めている人もいるかもしれませんが、ちょっとした機会をみつけながら復活してみてほしいものです。こうした経験から新たな見識が広がるきっかけになること間違いありませんし、もちろん男性も含めて、家族、周囲の協力を得て、周りも取り込んで有意義な経験を共有する事は、やはり社会が豊かになります。
※『マイナビウーマン』にて2015年5月にWebアンケート。有効回答数178件(22歳〜34歳の働く女性)
1位「ボランティア(海外・国内)」……30.3%
2位「国際交流推進活動」……20.8%
3位「募金・献血活動」……16.9%
4位「人権活動」……3.4%
5位「環境推進活動」……2.8%
6位「途上国支援・調査」……1.7%
※その他を除く、複数回答可
ボランティアに参加した人、大変に多いです。自然災害や地域活動など、これまでの社会事情から参加する機会が多いからかもしれません。ではその経験を通して得たものについても下記に分かります。
■「ボランティア(海外・国内)」
・「社会人や幅広い世代とかかわる機会を持てたので、会話の仕方やマナーが少し身についた」(23歳/人材派遣・人材紹介/営業職)
・「相手の立場になって考えることができるようになったからです」(32歳/ソフトウェア/事務系専門職)
・「老人ホームで音楽を披露するボランティアをして、いい経験になった」(33歳/金融・証券/専門職)
・「交友関係が広がったから。今でも定期的に会う友だちがいる」(24歳/食品・飲料/専門職)
ボランティア活動を通し、高齢者やけがを負った人たちなどと交流することによって、相手の立場になった考える力が養われるのかもしれません。
■「国際交流推進活動」
・「現地の学生と触れ合えるのは、同じ目線でいられる学生時代にしかないものだと思うから」(29歳/金属・鉄鋼・化学/事務系専門職)
・「いろんな価値観や立場を知りいろんな人と知り合っていい経験になるはずなので」(32歳/その他/クリエイティブ職)
・「社会人になるとなかなか、時間が取れないから」(28歳/学校・教育関連/専門職)
・「国際交流をして仲良くなった人といまだに連絡を取り合っているから」(30歳/医療・福祉/専門職)
実際に海外に行ったり、留学生を自宅にホームステイで迎えたりする国際交流に関する活動。日本以外の国のことを知る大きなチャンスになったことが分かります。
■「募金・献血活動」
・「投資は微々たるものだけど、それが復興に使われていて、被災地の人の生活がよくなっているので」(25歳/医療・福祉/専門職)
・「大学の献血カーで献血すると、『みんな持っていかないから』と言ってお菓子を山ほどもらえた」(30歳/機械・精密機器/事務系専門職)
・「喜ばれたから」(31歳/金融・証券/事務系専門職)
・「簡単にできる」(24歳/小売店/販売職・サービス系)
簡単に参加できるけれど、確実に誰かのためになっている、という実感が得られる募金活動や、献血活動。小さなことだけれど、とても大切なことです。
働く女性たちが学生の間に経験した社会貢献活動も、「もう社会人だからこういうのには参加できないかな……」などと諦めている人もいるかもしれませんが、ちょっとした機会をみつけながら復活してみてほしいものです。こうした経験から新たな見識が広がるきっかけになること間違いありませんし、もちろん男性も含めて、家族、周囲の協力を得て、周りも取り込んで有意義な経験を共有する事は、やはり社会が豊かになります。
※『マイナビウーマン』にて2015年5月にWebアンケート。有効回答数178件(22歳〜34歳の働く女性)