徳永圀典
『日本人の誇りと自信を取り戻す33話』コスモ21
外国国歌の歌詞、
@ソ連 A中華人民共和国 Bフランス Cイギリス Dアメリカ の歌詞を翻訳したものである。
@「鍛えられし わがつわもの 攻めくる敵 討ち破り 断固と守る 尊き国わが祖国に栄あれ。 栄光の民よ 自由の祖国 結ばれしその誉れ 旗のかげで 導けよ勝利の為進めよや」
A「立て、奴隷となるとな、血と肉もて、築かんよき国。 立て!立て!立て!心合わせ、敵にあたらん、進め、敵にあたらん。 進め、進め、進め、進めよや」
B「ゆけ祖国の国民 時こそ至れり正義の我らに。 旗は翻る 聞かずや野に山に 敵の呼ぶを悪魔の如く 敵は血に飢えたり 立て国民 いざ矛とれ 進め進め 仇なす敵を葬らん」
C「おお神よ 我らが神よ 敵をけ散らし降伏させ給え 悪らつな政策と奸計を破らせ給え 神こそ我らが望み 国民を守らせ給え」
D「おお激戦の後に 暁の光に照らし出された星条旗が見えるか 夜どおし砲弾が飛びかった後に 我らの星条旗が翻っている。 自由な祖国 勇敢な家庭 星条旗をふれ 星条旗をふれ 戦闘がやんで微風が吹く中に 濃い朝霧の中 見え隠れしているものは何か これこそ我らが星条旗 神よ! 星条旗をふり続け給え 自由の祖国勇敢な家庭の上に」
国を讃える国歌には、勇ましい軍歌調のものが多い、国王(王女)のために戦ったとか独立の為に血を流したことに哀悼の意と賞讃をおくり、たたえる歴史をものがたっているからだ。
血とか肉とか敵と戦えとか、血に飢えた敵とか、実に戦闘的なものばかりの烈しい。
戦争に向かって多くの命を落とすこともあったが、そこを奮い立たせて、若人に故郷を守るために闘いにいくことを求め、慰める必要があったからだと思われる。
一方の日本の国歌、「君が代」の歌詞は、平和でおおらかで悠久な歴史を重ねていけるようにとの格調が高いが、作詞者は「読み人知らず」なので無名の民の歌である。
歌詞は、今から約一千年前、醍醐天皇が紀貫之に命じて編集させた日本最古の歌集「古今和歌集」巻第七、賀歌の第三四三番、読み人知らず、として掲載されている「わが君は、千代にやちよに、さざれいしの いはおとなりて、こけのむすまで」がルーツだとされる。
『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない。当時に天皇は、「大君」であって、「君」などと軽く表現することは、当時は畏れ多くて、とても言えなかったという解釈がある。
『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる。上から強制して歌われたものではない長寿を祈り願う祝い歌として人々に広く愛唱されていったもののようである。つまり、「わが君」とはあなたであり、広く対者をいう際の敬愛を込めた言葉であると解釈できるともいえる。
万葉時代、そして現在も、皇居では毎年、「歌会始め」があり、老若男女、地位名誉に無関係に歌を募集し、入選者は皇室に呼ばれる。
「君が代」を恋の歌、との解釈をいう人もいる。
庶民と歌を詠みあう皇室・王室は世界に類が無いだろう。実は、1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞したことがあったのだという。
日本の国歌は世界に比しても、先祖の英知にあふれてあるとしたら感謝しなくてはならない。