上智大学の名物教授/アルフォンス・デーゲン先生は、日本で司祭になって3月に50周年を迎えた。「司祭として私はメイド・イン・ジャパンですね」と、ユーモアある日本語で周りを温かい思いにする。日本における生死学の祖とも言われ、特に震災後の日本において、この生死観に関心が強くなっている。暮らしの足もとが揺らぎ、社会の不安が広がっている。一般向けに40年続くキリスト教入門講座に、昨年は福島の女性が、毎週片道4時間かけてバスで通ってきたという。
1932年ドイツ生まれ。19歳でイエズス会に入り、59年に来日した。日本では、この半世紀に、高度成長、バブル景気と崩壊、デフレ、そして阪神・淡路、東日本と2度の大震災を経験した。現代の日本人に向けて、四十年以上にわたって「死への準備」の重要性を情熱的に語り続けてきた。上智大の最終講義に加筆して本にまとめた『よく生き よく笑い よき死と出会う』で、成育過程の決定的に重要な節目が何であったのかを子細に語った。
まず、デーケン先生にとって「人生での最初の一番深い体験」は、妹パウラの死だったという。八人兄弟の三番目だったアルフォンス少年は、八歳の時、四歳だったパウラが白血病で死にゆくのを家族とともに看取っている。父母が「病院で死を迎えさせるより、生まれ育った家に戻って、みんなで最期まで介護しよう」と決断し、子どもたちにも介護に参加させ、死別への心の準備をやさしく教えたという点だ。医学が発達していなかった時代なのに、今日の在宅ホスピスケアを実践していたのだ。わずか四歳だった妹は、自分の死期を悟り、「また、天国で会いましょう」と言って息を引き取った。敬虔なカトリックの信仰に生きる家族だった。この時、アルフォンス少年は「信仰は永遠に対する希望の根源だ」ということを深く考えさせられたという。
第二は、父母の生き方だった。第二次大戦中に、父は生粋のドイツ人でありながら、ナチスの人種差別と障害者抹殺に反対し、密かに反ナチ運動に身を投じていた。「絶対に認められないことは、生死をかけてでも、反対していかなければならない」という父の言葉は少年の胸に深く刻まれたという。ナチスを告発する文書をタイプで増刷するのを手伝った。そして母は穏やかな性格で、大鍋料理による家族の団欒に象徴されるように、朝から晩まで子どもたちのために家事に専念し、いつもいつも家族みんなの無事を祈るのだ。その姿はまさに「母の愛」そのものだった。
第三のエピソードは、連合軍の空襲が激しくなり、下校途中に、戦闘機の機銃掃射を受け、地面に伏した身体すれすれのところに弾丸がめりこんだという恐怖の体験だ。それは「私自身の死」との初めての出会いであり、生きる喜びと意味を強烈に自覚するようになったきっかけになったという。
第四のエピソードは、小学校の卒業が近づいた時、校長から言われたナチスの指導者養成学校への進学を拒否し、同級生たちから疎外されたことだ。自ら選んだ「孤独」ゆえに、読書と創作に耽るようになった。そして、その時読んだ一冊の本を通して、長崎の二十六聖人殉教者の中に十二歳の少年もいたことを知って感激し、日本人への関心を強く抱くようになったという。
人間は旅人。旅に出ればすばらしい人に出会う。出会いによって人間は成長し転機をつかむ。――という人生観で生きてきたデーケン先生の人生は物語に満ちている。悲しみも辛さもすべて成長と転機の糧として自分の物語の文脈に位置づけてきた生き方は、カトリックの信仰を超えて仏教徒である私たちの心の中にまでも沁みこませてくる。大学で「死の哲学」「人間学」などを教えながら、死生学を広めた。83年に始めた「生と死を考える会」は各地に広がり、いま全国で48の会が活動を続ける。長年、世界各国のホスピスを医師らと訪ねる視察ツアーを主導し、日本での普及を後押しした。国際人名センター(英国ケンブリッジ)が発刊する「21世紀の優れた知識人2000人」の常連でもある。
日本社会の未来を悲観してはいない。被災地で講演し人々とふれあい、「日本人の強い回復力には心を打たれます」。今後は「世界一の超高齢社会の処方箋を世界に発信していくことが日本の使命です」。
参照;
朝日デジタル 5月1日