2015年04月11日

我孫子を育てる、芸術家、外国人、そして女性たち!

我孫子市は、白樺派ゆかりの街として知られる。柳宗悦、志賀直哉や武者小路実篤らの他、陶芸家・バーナード・リーチ、声楽家・柳兼子が主要な5人だ。女性も外国人も加わった、大正ロマンの希少な交流の場となたのだとも言える。
 
 我孫子は、男女共同参加宣言の都市として千葉県唯一、その後に続くまちがないということに尽きるが、しかし、今回の県議選に女性の候補・水野ゆうき氏が頑張っているというのは、その一つの頼もしい挑戦だと思える。100年前に白樺派の柳夫妻がやってきたのが1914年9月だという。我孫子のまちの経済は常に、水害と治水との格闘の歴史だったから、女たちは絵馬に託した安寧な生活を手にいれるために男に変わって行商に出た。この町の経済を支えた女性たちは、家を建て、子弟を大学に行かせ、車を購入できた。女性たちも働くと、女性ならでは情報と発送も街の発展に寄与するようになる。

 2015年に、無投票ならずに気勢を上げたのは女性の力でもあると、海津にいな自身は思っているし、それらは必ず伝わるものだと信じたい。支える側で生き続けるのと、自らも声を出すことの違いは何か・・・。

 それは、兎も角、白樺の5人が去った後も、名をとどめてはこなかったが後に著名になる若き芸術家が「文化空間」を引き継いできた。その中の一人、志賀邸で暮らすことになった画家で、歌人の原田京平が我孫子を描き、詠でいた。今まで歴史に埋もれていた原田の生涯に光を当てる企画展が、現在、市白樺文学館で開かれている。

 原田は1921(大正10)年に、我孫子の島田久兵衛別荘に移住。近所の志賀との交流が始まり、翌年春陽会に参加。23年に志賀が京都に移住後、志賀の母屋に留守番役として住む。28(昭和3)年、都内に転居するまで約7年間を我孫子で暮らした。原田は我孫子の郷土史でも紹介されていなかったが、文学館が開かれたお蔭で、ゆかりの人の資料が寄せられるようにもなり、前橋市在住の原田の孫から資料約300点の寄託を受けた。こうして、白樺派の次の世代にも着目されるようになって、我孫子の芸術家の軌跡がたどられるようになってきた。

 白樺派に続く芸術家とは、画家グループ・春陽会の仲間たちで、硲(はざま)伊之助や三岸好太郎、節子夫妻らが手賀沼のスケッチなどである。原田宅に集い、我孫子は若き画家たちの文化空間になっていたのだ。それら、関係資料が約50点を展示のほか、有島武郎が志賀宛てに書き、志賀から原田に贈られたとみられる手紙や、京都・山科の志賀邸で柳宗悦らと撮った写真など白樺派との交流を示す資料が並んでの、展覧会(5月24日まで)となっている。

 ただ、油絵や水墨画、スケッチ類は残されていたが、原田の我孫子時代に春陽会の展覧会へ毎回出品した絵などは見つかっていない。今回は手賀沼の風景と見られる水彩色紙を展示しているが、制作年は不明。一方、歌人としては、硲が装丁した遺歌集「雲の流れ」(36年)に我孫子の風景を詠んだ88首が収められている。

 文学館学芸員の稲村さんは「詩情豊かな沼のほとりの環境は白樺派の文人らと同様に、創作活動に最適の場所だったのでは」と推測する、23歳の若い研究者の卵だ。こちらも、芸術家村・我孫子があってこその原因の結果かもしない。我孫子のまちの発展に期待が出来る要素はまだまだ多い、

 まずは、選挙の投票率が高まることは、民の力の示しどころなのです!

 
 
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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