2015年04月30日
イチゴイチエ
久々に庭に出てみたら、フェンスに牡丹の大輪が絡んで、あっちを向いている。
誰も通らないし、家人もだれも花が咲いているとも知らない
そこで、鋏で切ってみるかと、切り取ってこちらに向けて見てみるとなんとも見事なピンクの牡丹だった。
(クリックすると拡大できます)
花瓶にさして、しばらく楽しむことにしたが、家族は出払って見ることもないだろうから、ブログの写真にしておくことにした。
咲いてくれてありがとう、何故か今年はそんな風に思えた。
娘が結婚したからだろうか(と、いっても結婚式をしない、今風だ?!)
誰も見ていないのに律儀に春を感じて、春を咲いている。
春爛漫の今日は四月最後だ。
確かに、二人は言っていたように「春に」結婚した、
なるほど、「春に」という結婚の意思を聞いて、その時は来春と思ったが、
震災・津波、原発の放射能の影響で30代未満には特に影響が考えられると言われだし、
妊娠を控えるばかりでなく、付近に住む妊娠中の女性は中絶のことも報道されたり、
柏の女性の授乳にセシウムが含まれたことが分かると社会不安も大きくなっていった
この地区は、震災数日後に長雨が降って、この辺りはホットスポットとなり、
その間に、国外市外へ逃避行を促されて決行していた人たちも多くいた
いつしか、国民すべからく低濃度被爆したといわれるところになって、
福島だけじゃなく、ホットスポット地域も被爆者扱いされるかとの懸念は
考えてみると日本全国にご遺体や瓦礫の焼却などで受け入て、各地が放射能に曝されることになり
悶着を起こしながら、70年前の原爆の被災者のようにのけ者にされる事からは救われた
戦中派が感じたであろう「焼け跡」の憔悴感のような世も末かと思った時期も実のところあった、
やり場のない怒り、焦りをもったものだ 日本という国の誇りも失われるのかと危惧は
しかし、段々に国外から寄せられる賞賛の声に払拭されるようになってきた
昨日は、たまたま吉永小百合さんの「福島を忘れないで」との彼女らしい朗読活動、
それは広島原爆の問題に長年取り組んできた朗読活動の上にさらに加えた活動だが
それを丁寧な取材で取り上げる番組をみていた
美しい人だなあと、改めて70歳になるという彼女の単衣と思える縞の入った着物姿をみて
初夏の新緑のような清々しさを感じた
映画女優として、アーティストとして、一人の人間として生真面目に、
生きることに向かいあっている まだまだと自分を磨く人なのだろうなあと
番組を見て、日本人の満場一致で、彼女を嫌いな人はいないだろうと思ったりした
とにかく、今日は ありがとう
昨日に続く 今日は そんな気持ちになる、
麗らかな春の日
一期一会、大切な出会いに感謝です。
2015年04月29日
Sir Paul McCartney’s Budoukan Live!
来日ツアー中のサー・ポール・マッカートニーはツアー最終日の28日、東京・日本武道館で公演した。
武道館のステージに立つのは1966年のビートルズ公演以来49年ぶり。「キャント・バイ・ミー・ラブ」「オール・マイ・ラビング」などヒット曲を中心に30曲を熱唱し、1万人の観客が熱狂した。
ポールは観客席に向かって日本語で「ブドウカンヘ、ヨウコソ」「ヒサシブリ、ブドウカン」などと日本語呼びかけてい日本通になったことも披露した。
ビートルズの1966年の武道館公演は、日本で初の武道以外の使用目的、しかも外国人のバンドだと物議をかもした、論争にもなったて、台風の目、ビートルズ旋風とも注目された。6月30日から7月2日までの5回、その簡易は日枝神社近くのワーウィクホテルが宿舎となって、宿泊客以外の少女たちが大挙して不帰、中には一目会いたいと忍び込もうとしたりと、次々に話題となった。
今回も「シーズ・ア・ウーマン」「アイム・ダウン」など11曲を演奏した。今回その中からは「ペイパーバック・ライター」「イエスタデイ」を披露して、往年のファンを喜ばせた。
ビートルズの武道館公演は、「不良の音楽」と中高生などは学校が問題視、社会的な反発が起きる中で開かれたが、当時に大学生だった人は、「49年前に演奏した曲を、もっと聴きたかったですが、ライブとしては満足。また来ると言っていたので、信じて待ちます」ともらしていた。
来年6月18日には、サー・ポールは74歳を迎えている。「フェン・アイム・64(64歳になったら)」、友達はいなくなり、誰も祝ってくれる人がいないのだろうか、などと絶頂期にシニカルな歌詞を書いて英国人のユーモアの真骨頂を感じさせたが、日本で再度コンサートを開いたのならお祝いの大合唱が武道館にとどろきそうだ。
Here Comes Sun,with little help from my friends ♪
武道館のステージに立つのは1966年のビートルズ公演以来49年ぶり。「キャント・バイ・ミー・ラブ」「オール・マイ・ラビング」などヒット曲を中心に30曲を熱唱し、1万人の観客が熱狂した。
ポールは観客席に向かって日本語で「ブドウカンヘ、ヨウコソ」「ヒサシブリ、ブドウカン」などと日本語呼びかけてい日本通になったことも披露した。
ビートルズの1966年の武道館公演は、日本で初の武道以外の使用目的、しかも外国人のバンドだと物議をかもした、論争にもなったて、台風の目、ビートルズ旋風とも注目された。6月30日から7月2日までの5回、その簡易は日枝神社近くのワーウィクホテルが宿舎となって、宿泊客以外の少女たちが大挙して不帰、中には一目会いたいと忍び込もうとしたりと、次々に話題となった。
今回も「シーズ・ア・ウーマン」「アイム・ダウン」など11曲を演奏した。今回その中からは「ペイパーバック・ライター」「イエスタデイ」を披露して、往年のファンを喜ばせた。
ビートルズの武道館公演は、「不良の音楽」と中高生などは学校が問題視、社会的な反発が起きる中で開かれたが、当時に大学生だった人は、「49年前に演奏した曲を、もっと聴きたかったですが、ライブとしては満足。また来ると言っていたので、信じて待ちます」ともらしていた。
来年6月18日には、サー・ポールは74歳を迎えている。「フェン・アイム・64(64歳になったら)」、友達はいなくなり、誰も祝ってくれる人がいないのだろうか、などと絶頂期にシニカルな歌詞を書いて英国人のユーモアの真骨頂を感じさせたが、日本で再度コンサートを開いたのならお祝いの大合唱が武道館にとどろきそうだ。
Here Comes Sun,with little help from my friends ♪
2015年04月28日
ネパール大地震
25日、ネパールでおきた大地震で甚大な被害が出ている。28日、日本の国際緊急援助隊が到着し、70人態勢で現地入りした。緊急援助隊は、ヒンズー教の寺院が多く倒壊した市の中心部で、救助犬を使った捜索活動を始めたが、作業は大変に厳しい状況だという。29日にも同じ現場で捜索を再開し、援助隊の医療チームも同日に現地に入る予定で、総勢120人の態勢で支援にあたる予定だとされる。
地震発生から3日、生存率が急激に下がる72時間のタイムリミットがある。死者は1万人のおそれとの情報も出ている。首都カトマンズでは、倒壊した建物の下敷きになった生存者を救出するため、昼夜、懸命の作業が行われ、がれきの下で生き埋めになっていた男性が62時間ぶりに救出され歓声が上がった。
国連はネパールで人口のおよそ3割にあたるおよそ800万人が被災したと推計。140万人以上が食料支援を必要としているとの見方を示している。
ネパールは、敬虔な仏教者の国であり、最近はカレー店の出店が我孫子でも相次いでおり、身近なアジアの国の一つだ。若いころ、カトマンズを訪れ、エベレストを見てみようと計画をしたことがあった。インドの旅で、酷い下痢になってしまい、ポカラから飛行機でアクセスしてそこからエベレストを望もうと思ったが果たせずに終わった。ジェーン・バーキン主演の映画をみたことから、カトマンズの光景が目にとまり関心をもっていた、これまでも機会があったら行ってみたいと思っている国だった・・・。
今は、犠牲者となった方々に追悼の意を表するとともに、一日も早い復旧をお祈りします。
地震発生から3日、生存率が急激に下がる72時間のタイムリミットがある。死者は1万人のおそれとの情報も出ている。首都カトマンズでは、倒壊した建物の下敷きになった生存者を救出するため、昼夜、懸命の作業が行われ、がれきの下で生き埋めになっていた男性が62時間ぶりに救出され歓声が上がった。
国連はネパールで人口のおよそ3割にあたるおよそ800万人が被災したと推計。140万人以上が食料支援を必要としているとの見方を示している。
ネパールは、敬虔な仏教者の国であり、最近はカレー店の出店が我孫子でも相次いでおり、身近なアジアの国の一つだ。若いころ、カトマンズを訪れ、エベレストを見てみようと計画をしたことがあった。インドの旅で、酷い下痢になってしまい、ポカラから飛行機でアクセスしてそこからエベレストを望もうと思ったが果たせずに終わった。ジェーン・バーキン主演の映画をみたことから、カトマンズの光景が目にとまり関心をもっていた、これまでも機会があったら行ってみたいと思っている国だった・・・。
今は、犠牲者となった方々に追悼の意を表するとともに、一日も早い復旧をお祈りします。
2015年04月27日
民主主義の反省期
26日に投票が行われた統一地方選挙の後半戦の市議会議員選挙と区議会議員選挙も終了し、選挙の投票率はいずれも過去最低となったこと明るみにでて、前半戦に続きさらなる問題でした。総務省によると、統一地方選挙の後半戦の全国平均で、市議会議員選挙の投票率は48.62%(前回より2ポイント余り下がって初めて50%を下回)、区議会議員選挙は42.81%、町村議会議員選挙は63.12%で、ともに過去最低となりました。
次に、近隣市での投票率に目を移してみてみると、
鎌ヶ谷では、45.15% 男性より、女性の投票率が高い。
印西で52.44%、男性より女性の投票率が高く、女性6名全員が当選
白井の投票率は、50.97% 女性は一名落選の他は、女性7名が当選
浦安の投票率は、男性38.57% 女性39.20% 全体38.89%
流山の投票率47.15%で、女性が男性よりも投票率が高い。
都区内では、選挙の応援にいった世田谷を見てみると42.84% で、男性が女性よりも若干投票率が高い
(都内でもっとも人口が多く708,183人、うち男性330,936人、女性377,247人)
振り返って、総選挙の投票率(全国)では、2012年の59.32%を大きく下回る2014年末の投票率が52.66%だった時に、昨年の世田谷区の総選挙での投票率は、2014年が55.51%、2012年63.7%からかなり下がっています。
それを我孫子では2012が63.05%で、2014年 56.74%で、全国平均よりはやや高く、女性より男性の投票率が高いなどの世田谷と比較的に似ている傾向がみられました。
県議選投票率では、県平均では、2011年40.04% → 2015年37.01% ですが、
我孫子での県議選投票率は 2015の投票率は35.48%で県平均より低く、しかも前回よりも5.49%下がっていました。国政にはかなりの興味を示し、地元には関心が薄いというのも世田谷似です。つまり、男性の投票率が高いと国政への関心がつよいが、地元はどうも何やってるんだかという気分になっているのかもしれません。
因みに、知事選最低 2011年埼玉県知事選挙 24.89%
政令指定都市市長選挙最低 1979年京都市長選挙 16.13%
その他最高 1951年群馬県堤ケ岡村長・村議会議員選挙ほか多数にて 100.00%
投票に行かない人は、「棄権しても、ま、いいか」誰に咎められるでなし、という意識かもしれません。
村であると、誰が来なかったなどと、むしろ地元の選挙では後々も言われる…
一般に言われるのが、投票率が低いと組織、政党推薦の候補を応援していることに同じです…。
昔、森総理が「国民は寝ててほしい(選挙に行かないでほしい)」と言って、ひんしゅくを買っていましたが
浮動票のと言われる層が投票に行かなければ、組織票による候補者が有利になる仕掛け、なのです。
(この発言、民主主義を否定する、恐ろしい失言でしたよね)
11月には、我孫子で全国でも最後に行われる市議選となります、これこそ市民の意識の高さを示したいところです。それこそ、よろしくおねがいします!
次に、近隣市での投票率に目を移してみてみると、
鎌ヶ谷では、45.15% 男性より、女性の投票率が高い。
印西で52.44%、男性より女性の投票率が高く、女性6名全員が当選
白井の投票率は、50.97% 女性は一名落選の他は、女性7名が当選
浦安の投票率は、男性38.57% 女性39.20% 全体38.89%
流山の投票率47.15%で、女性が男性よりも投票率が高い。
都区内では、選挙の応援にいった世田谷を見てみると42.84% で、男性が女性よりも若干投票率が高い
(都内でもっとも人口が多く708,183人、うち男性330,936人、女性377,247人)
振り返って、総選挙の投票率(全国)では、2012年の59.32%を大きく下回る2014年末の投票率が52.66%だった時に、昨年の世田谷区の総選挙での投票率は、2014年が55.51%、2012年63.7%からかなり下がっています。
それを我孫子では2012が63.05%で、2014年 56.74%で、全国平均よりはやや高く、女性より男性の投票率が高いなどの世田谷と比較的に似ている傾向がみられました。
県議選投票率では、県平均では、2011年40.04% → 2015年37.01% ですが、
我孫子での県議選投票率は 2015の投票率は35.48%で県平均より低く、しかも前回よりも5.49%下がっていました。国政にはかなりの興味を示し、地元には関心が薄いというのも世田谷似です。つまり、男性の投票率が高いと国政への関心がつよいが、地元はどうも何やってるんだかという気分になっているのかもしれません。
因みに、知事選最低 2011年埼玉県知事選挙 24.89%
政令指定都市市長選挙最低 1979年京都市長選挙 16.13%
その他最高 1951年群馬県堤ケ岡村長・村議会議員選挙ほか多数にて 100.00%
投票に行かない人は、「棄権しても、ま、いいか」誰に咎められるでなし、という意識かもしれません。
村であると、誰が来なかったなどと、むしろ地元の選挙では後々も言われる…
一般に言われるのが、投票率が低いと組織、政党推薦の候補を応援していることに同じです…。
昔、森総理が「国民は寝ててほしい(選挙に行かないでほしい)」と言って、ひんしゅくを買っていましたが
浮動票のと言われる層が投票に行かなければ、組織票による候補者が有利になる仕掛け、なのです。
(この発言、民主主義を否定する、恐ろしい失言でしたよね)
11月には、我孫子で全国でも最後に行われる市議選となります、これこそ市民の意識の高さを示したいところです。それこそ、よろしくおねがいします!
2015年04月26日
TPPの進展で日米のパワーバランスは、どう均衡がとれるか
甘利TPP担当大臣は、先週行われたTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の日米閣僚協議で、日本からアメリカ向けの自動車部品の関税について、アメリカ側が「相当な部分で」関税の即時撤廃に応じる意向を伝えてきたとの報道が出されて、あちらとしての譲歩がみえます。
ところで、TPP協定交渉の中で、あまり話題にならないが最も問題が深刻だと言われているのがISD条項です。これまでずっと自国の法律を極力変えずに他国と協定を結んできたのですから、当然の結果なのです。
当時の情報で、TPPのISDS条項は安全保障上必要な規制等は訴訟の対象にならないようだ、と言われていましたので、水源地を守ることが日本にとって安全保障上必要だとなれば、ISD条項で訴えられることはないので、政府がそういった方針を打ち出すことが必要ですとの答えでした。
そこで、TPP協定などの推進をする前に、水源地や辺境の地の土地取得に関して必要な法整備をすることを政府に訴えなければならないと、調べていくうちに日本はすでにWTO等の取り組みで土地に関して外資による取得を留保しないことを認めてしまっていたことが分かりました。ですから、これから新しく法律を作るためには、WTO等協定義務違反が発生するために、協定の再協議を行い、それに見合った代償を日本として出していく必要があるということでした。国民の多くが知らないうちに、日本は外資に対してどんどん開かれてしまっていたのです。 ところが日本政府はそれで全く問題ないと考えているようです。そもそも、訴えられることを想定していない節があります。
それには主に二つの理由があります。一つ目の理由は、必要な規制には留保を主張して、それが参加国から認められれば留保表に記載して、規制を維持することができるというものです。この留保には将来的にも規制を新しくかけることを放棄しない、将来留保も含まれています。日本は国を開かなければならない、と間違った主張をして日本のTPP協定への道を開いてしまった元首相がいましたが、実際には日本はすでにかなりの部分を開いてしまっています。ですから、現状ある規制は必要な規制としてほぼ問題なく守られると説明しています。ICSIDの仲裁人を務められたこともある故小寺彰東京大学教授は、今のままでは難しいでしょうねというものでした。
例えば、日本の遺伝子組み換え作物の表示義務化が覆されるということです。あのモンサントはTPPによって思いのままに日本の農業産品にも手を下せるとなりそうです。 アメリカの息のかかった世界銀行はモンサント有利な判決を下すことになるとの予想がされ、事実、米国と北米自由貿易協定(NAFTA)を結ぶカナダ、メキシコでは、これまでにISD条項を使って46件の提訴があって、そのうち30件が米国企業が原告。結果、米国企業はカナダとメキシコから多額の賠償金を勝ち取った。早い話が、米国政府が負けた訴訟はない。つまり「ISDは米国優位」というのがNAFTAを通じて裏付けられています。自動車の部品の関税で譲歩しても、ISD条項で手堅く得るなら、勝をえるのは米国だとの計算ずくなのでしょうか。
これまでに海外に進出する際、様々な参入障壁と格闘してきた日本の推進企業たちは、協定が他国による不当な扱いを抑制するものになればいいと考えているだけで、自分たちが他国を訴えることを想定していません。内外格差がない規制を作ってきたし、これからも作っていくと考えている政府は、日本が訴えられることを想定していません。
私たちは、政治家が一見専門家を抱えて自信を持って行っているような事項にでも、やはり真摯に考えて、意見を交わして、日本にとっての選択をどうすべきか、疑問に向かい合ってくれる政治家を見出し、米国にいいような答えに合わしていくばかりでなく、交渉をしてもらう必要があります。
ところで、TPP協定交渉の中で、あまり話題にならないが最も問題が深刻だと言われているのがISD条項です。これまでずっと自国の法律を極力変えずに他国と協定を結んできたのですから、当然の結果なのです。
当時の情報で、TPPのISDS条項は安全保障上必要な規制等は訴訟の対象にならないようだ、と言われていましたので、水源地を守ることが日本にとって安全保障上必要だとなれば、ISD条項で訴えられることはないので、政府がそういった方針を打ち出すことが必要ですとの答えでした。
そこで、TPP協定などの推進をする前に、水源地や辺境の地の土地取得に関して必要な法整備をすることを政府に訴えなければならないと、調べていくうちに日本はすでにWTO等の取り組みで土地に関して外資による取得を留保しないことを認めてしまっていたことが分かりました。ですから、これから新しく法律を作るためには、WTO等協定義務違反が発生するために、協定の再協議を行い、それに見合った代償を日本として出していく必要があるということでした。国民の多くが知らないうちに、日本は外資に対してどんどん開かれてしまっていたのです。 ところが日本政府はそれで全く問題ないと考えているようです。そもそも、訴えられることを想定していない節があります。
それには主に二つの理由があります。一つ目の理由は、必要な規制には留保を主張して、それが参加国から認められれば留保表に記載して、規制を維持することができるというものです。この留保には将来的にも規制を新しくかけることを放棄しない、将来留保も含まれています。日本は国を開かなければならない、と間違った主張をして日本のTPP協定への道を開いてしまった元首相がいましたが、実際には日本はすでにかなりの部分を開いてしまっています。ですから、現状ある規制は必要な規制としてほぼ問題なく守られると説明しています。ICSIDの仲裁人を務められたこともある故小寺彰東京大学教授は、今のままでは難しいでしょうねというものでした。
例えば、日本の遺伝子組み換え作物の表示義務化が覆されるということです。あのモンサントはTPPによって思いのままに日本の農業産品にも手を下せるとなりそうです。 アメリカの息のかかった世界銀行はモンサント有利な判決を下すことになるとの予想がされ、事実、米国と北米自由貿易協定(NAFTA)を結ぶカナダ、メキシコでは、これまでにISD条項を使って46件の提訴があって、そのうち30件が米国企業が原告。結果、米国企業はカナダとメキシコから多額の賠償金を勝ち取った。早い話が、米国政府が負けた訴訟はない。つまり「ISDは米国優位」というのがNAFTAを通じて裏付けられています。自動車の部品の関税で譲歩しても、ISD条項で手堅く得るなら、勝をえるのは米国だとの計算ずくなのでしょうか。
これまでに海外に進出する際、様々な参入障壁と格闘してきた日本の推進企業たちは、協定が他国による不当な扱いを抑制するものになればいいと考えているだけで、自分たちが他国を訴えることを想定していません。内外格差がない規制を作ってきたし、これからも作っていくと考えている政府は、日本が訴えられることを想定していません。
私たちは、政治家が一見専門家を抱えて自信を持って行っているような事項にでも、やはり真摯に考えて、意見を交わして、日本にとっての選択をどうすべきか、疑問に向かい合ってくれる政治家を見出し、米国にいいような答えに合わしていくばかりでなく、交渉をしてもらう必要があります。
2015年04月25日
聞くという事、答えるという事
著名な方々から一般の方々まで、3000人以上インタビューをしてきた経験を 『会話は「聞く」からはじめなさい』(日本実業出版社聞)という本に書いた上阪徹さんは、中でも興味深かったのが芸術分野で多大な実績を残しているあるアーティストへのインタビューだったと語っています。そういう人たちはアトリエにこもってウンウンとうなりながら作品をつくり上げてくものとばかり思っていたが、そうではなかったというのです。アイデアは、そうした問題意識のある人たちで、ワイワイいろいろな話をしたり、互いに質問をしたりしながら、新たな考えを得ていたのに驚いたというのです。
優れたアイデアが人間の脳の奥底に間違いなく眠っている。
芸術家であってもアトリエで一人でウンウンうなっていても、出てくるものではないどころか、誰かとコミュニケーションを交わしていると、思わぬ形でひょんなところで表出してくる、それが貴重だというのが分かってきたそうです。
アイデアや記憶、発想を、頭の中から引っ張り出してくるには、実は自分一人では取り出すことができなかった、しかし、誰かに何かを聞いてもらったりして刺激を与えることが欠かせない、と分かったとの事でした。
人の脳の奥底に潜んでいるものを引っ張り出すと言う意味でも、いろいろな角度から話を聞いて、質問を繰り出し、自分を刺激していく、それが大いなるプラスになるという、聞く、話すことは、思わぬ仕事の成果を生み出す可能性も秘めていたという事です。
その昔、日々、我孫子に住んで、出会って、お互いに疑問を声にしていった白樺派の5人は、それが大きな力を発揮し、「バカラシ」とも言われた時期を脱皮したもと言えそうです。それぞれが、それぞれの分野で後々に認められ、後に文化勲章などの栄誉を受けるまでになっており、バーナード・リーチなどはまさに、我孫子の時期を懐かしんで、自著にも我孫子にいた時がサイコーだったと書いていたのです。
人は、自分の話を聞いてくれる人に安心感信頼感をもつ生き物だからだ、母親、父親が人生の最初の段階でそのような役割を果たすことも頷けます。学校で、仕事の場面で、上手に聞いてくれる人がいれば、どんどん口が滑らかになり、アイデア、考えが浮かんでくる。そんなふうに気持ちよくしゃべっていると、「我ながらいいこと話してる」などと思うことが多々出てくるようになると上阪さんは書いている。
そして、話すことは、脳に眠っていたアイデアが表に出てくるからこそ、とても大事なのが相手と気持ちよく話すこと。阿川佐和子さんなどは、相手に対して限りない興味や好奇心を持ち、聞きたくてしかたがない、という気持ちがにじみ出てくる、相手の心の奥底に眠っているアイデアや、しゃべりたくてウズウズしているテーマの話を引き出す聞く、聞き手としてはもっとも嬉しい人になっているのでしょう。
私たちの暮らしの中でも、相手が求めるもの、期待や満足について、有権者として聞いてもらうこと、話すことができれば、安心感と信頼感を持てるようになります。目を輝かせて、語りあえる人たちがいるなら、そのまちが大好きになるのも間違いない。
やはり、聞いて、答えるという姿勢は、社会において大事なのではないか、選挙の際にもこうした仕組みが機能するなら何か改善できそうなのにと思う。あの世田谷であっても、立ち止まって聞いてくれる人は少ないのはなぜだろうか、と思った。今、信頼や安心感が薄れてきているのか、気になっています。投票率は社会の変化をみるバロメーター、投票への意識が薄れない街づくりを模索中です。
優れたアイデアが人間の脳の奥底に間違いなく眠っている。
芸術家であってもアトリエで一人でウンウンうなっていても、出てくるものではないどころか、誰かとコミュニケーションを交わしていると、思わぬ形でひょんなところで表出してくる、それが貴重だというのが分かってきたそうです。
アイデアや記憶、発想を、頭の中から引っ張り出してくるには、実は自分一人では取り出すことができなかった、しかし、誰かに何かを聞いてもらったりして刺激を与えることが欠かせない、と分かったとの事でした。
人の脳の奥底に潜んでいるものを引っ張り出すと言う意味でも、いろいろな角度から話を聞いて、質問を繰り出し、自分を刺激していく、それが大いなるプラスになるという、聞く、話すことは、思わぬ仕事の成果を生み出す可能性も秘めていたという事です。
その昔、日々、我孫子に住んで、出会って、お互いに疑問を声にしていった白樺派の5人は、それが大きな力を発揮し、「バカラシ」とも言われた時期を脱皮したもと言えそうです。それぞれが、それぞれの分野で後々に認められ、後に文化勲章などの栄誉を受けるまでになっており、バーナード・リーチなどはまさに、我孫子の時期を懐かしんで、自著にも我孫子にいた時がサイコーだったと書いていたのです。
人は、自分の話を聞いてくれる人に安心感信頼感をもつ生き物だからだ、母親、父親が人生の最初の段階でそのような役割を果たすことも頷けます。学校で、仕事の場面で、上手に聞いてくれる人がいれば、どんどん口が滑らかになり、アイデア、考えが浮かんでくる。そんなふうに気持ちよくしゃべっていると、「我ながらいいこと話してる」などと思うことが多々出てくるようになると上阪さんは書いている。
そして、話すことは、脳に眠っていたアイデアが表に出てくるからこそ、とても大事なのが相手と気持ちよく話すこと。阿川佐和子さんなどは、相手に対して限りない興味や好奇心を持ち、聞きたくてしかたがない、という気持ちがにじみ出てくる、相手の心の奥底に眠っているアイデアや、しゃべりたくてウズウズしているテーマの話を引き出す聞く、聞き手としてはもっとも嬉しい人になっているのでしょう。
私たちの暮らしの中でも、相手が求めるもの、期待や満足について、有権者として聞いてもらうこと、話すことができれば、安心感と信頼感を持てるようになります。目を輝かせて、語りあえる人たちがいるなら、そのまちが大好きになるのも間違いない。
やはり、聞いて、答えるという姿勢は、社会において大事なのではないか、選挙の際にもこうした仕組みが機能するなら何か改善できそうなのにと思う。あの世田谷であっても、立ち止まって聞いてくれる人は少ないのはなぜだろうか、と思った。今、信頼や安心感が薄れてきているのか、気になっています。投票率は社会の変化をみるバロメーター、投票への意識が薄れない街づくりを模索中です。
2015年04月24日
世田谷区議選、そして区長選も
統一地方選挙は19日から後半戦が始まり、都内では区長選&区議選が始まり、世田谷区議の応援に行ってます。世田谷区は人口およそ88万人、約900ヶ所の掲示板があり、日本一大きな掲示板。選挙のさなかに強い風にあおられて転倒し、候補者が急きょ確認作業を求められるハプニングも起きたほどです。
しかも地域によってポスターの位置は、ずらしているので、張り位置がバラバラになっているのだそうです。
支援者から、「田中優子さんのポスターが貼ってない!」と連絡が来て、実は貼ってあった、ということがあったそうです。つまり、貼ってあっても、82人もの候補者の中からすぐにポスターを見つけられなかった、焦った!ということも起きている日本最多の選挙区。それだからこそ、全国的に投票率が過去最低を記録しているとはいえ、愛する世田谷区では前回より投票率を上げ、民度の高い選挙にしたいというのは候補者として当然です。
世田谷区長選挙には、現職と新人のあわせて2人が立候補しました。
立候補したのは、2期目を目指す無所属の現職、保坂展人さん。
無所属の新人で、自民党と公明党、それに次世代の党が推薦する世田谷区商店街振興組合連合会の副理事長、久保田英文さん。
大徳寺、梅ヶ丘、経堂の駅へは千代田線で一直線であり、調査能力抜群、行動力の伴った女性区議の5期目を目指す姿勢に、友人らがバンコック、軽井沢からも駆けつけていました。
彼女のブログを検索すると、千葉からも応援と海津にいなの写真もアップされているのでした。
世田谷にお知り合いのいらしゃる方は、投票率アップのためにもお知り合いにご連絡ください、お願いします。
しかも地域によってポスターの位置は、ずらしているので、張り位置がバラバラになっているのだそうです。
支援者から、「田中優子さんのポスターが貼ってない!」と連絡が来て、実は貼ってあった、ということがあったそうです。つまり、貼ってあっても、82人もの候補者の中からすぐにポスターを見つけられなかった、焦った!ということも起きている日本最多の選挙区。それだからこそ、全国的に投票率が過去最低を記録しているとはいえ、愛する世田谷区では前回より投票率を上げ、民度の高い選挙にしたいというのは候補者として当然です。
世田谷区長選挙には、現職と新人のあわせて2人が立候補しました。
立候補したのは、2期目を目指す無所属の現職、保坂展人さん。
無所属の新人で、自民党と公明党、それに次世代の党が推薦する世田谷区商店街振興組合連合会の副理事長、久保田英文さん。
大徳寺、梅ヶ丘、経堂の駅へは千代田線で一直線であり、調査能力抜群、行動力の伴った女性区議の5期目を目指す姿勢に、友人らがバンコック、軽井沢からも駆けつけていました。
彼女のブログを検索すると、千葉からも応援と海津にいなの写真もアップされているのでした。
世田谷にお知り合いのいらしゃる方は、投票率アップのためにもお知り合いにご連絡ください、お願いします。
2015年04月23日
Kimono Fun Club (きもの愛好会)
「きもの愛好家」の創立3周年総会(会計報告)は、本町にあるイタリアンのお店「ピアツァ」でした。きものでまち興し、リサイクルも兼ねるという真摯で殊勝な趣旨に賛同して、「きもの愛好会」に参加して、いつの間にか3年目でした。なにぶん主宰者の方が、我孫子在住の着物デザイナー(河童祭りの浴衣デザインも)でパリでもコレクションを発表して、着物の美しさを魅せたいと凱旋門にも練り歩き、絶賛を浴びたという佐藤さんです!
毎回、インフォメーションセンター・アビシルベに集合、恒例となっている集合写真はアビシルベスタッフに撮っていただいて、市内、近隣、都内に着物で散策におでかけましす。
お蔭様で、海津にいなですら、30分くらいで、自前で着付けし、帯結びができるようになりました。この日は、5月の陽気なので先回りして、単衣(ひとえ)の着物にしましたが、実はこれ、リサイクルで700円で入手のもの。ランチにスパゲッティだとしても、ま、いっかで気軽かしらと着用しました。しかし、カニのトマトパスタもお上品に食べられて、着物に飛び地くこともなくOKでした。テラミス、エスプレッソのデザートまでついたランチセット(1300円、リーズナブルな我孫子値段)を完食して、苦しいと感じることもなく、ゆったりの紐結びは一本だけなのに着くずれを心配することもなく、ゆったり過ごせるようになりました。
白樺派の声楽家・柳兼子は、着物だったから、帯が体を支えるコルセット代わりに利用できたこともあって、そして日本歌曲の選定したことが、声楽家としての固有の存在感を高め、芸術家としてのオリジナリティーも自他ともに認めるところとなって、晩年(80歳過ぎまで)舞台で歌い通せた、着物は可能性を広げてくれた秘訣だったというようなこともいっていました。
歌はともかく、海津にいなの場合は、車でお迎えにいくのはもちろん、外国人ツアーのドライブも余裕でOKとなりました。池袋での「クラス会」、我孫子ゴルフ倶楽部での「観桜会」にも着物で行きました。な、なんと、昨年そして今年と、観桜会では偶然とは言え、星野市長とも”What a small world!" などと歓談(!?)してしまいました。
アビシルベのFBを検索して頂くと毎回に撮りためた写真がありますよ。
皆様も次回は、着てみませんか????
次回は5/28 11時にインフォメーションセンター前集合です。
予約なしでの参加OKです!?
ちなみに、年会費は3000円、ランチ、交通費は自己負担、会長は佐藤さん、役員の予定は未定のまま3年目、和気あいあいの会ですから、まずはアビシルベのFBを覗いて探してみてください。
https://www.facebook.com/ABISHIRUBE/photos/a.204274909672114.32993.204179236348348/632467020186232/?type=1
毎回、インフォメーションセンター・アビシルベに集合、恒例となっている集合写真はアビシルベスタッフに撮っていただいて、市内、近隣、都内に着物で散策におでかけましす。
お蔭様で、海津にいなですら、30分くらいで、自前で着付けし、帯結びができるようになりました。この日は、5月の陽気なので先回りして、単衣(ひとえ)の着物にしましたが、実はこれ、リサイクルで700円で入手のもの。ランチにスパゲッティだとしても、ま、いっかで気軽かしらと着用しました。しかし、カニのトマトパスタもお上品に食べられて、着物に飛び地くこともなくOKでした。テラミス、エスプレッソのデザートまでついたランチセット(1300円、リーズナブルな我孫子値段)を完食して、苦しいと感じることもなく、ゆったりの紐結びは一本だけなのに着くずれを心配することもなく、ゆったり過ごせるようになりました。
白樺派の声楽家・柳兼子は、着物だったから、帯が体を支えるコルセット代わりに利用できたこともあって、そして日本歌曲の選定したことが、声楽家としての固有の存在感を高め、芸術家としてのオリジナリティーも自他ともに認めるところとなって、晩年(80歳過ぎまで)舞台で歌い通せた、着物は可能性を広げてくれた秘訣だったというようなこともいっていました。
歌はともかく、海津にいなの場合は、車でお迎えにいくのはもちろん、外国人ツアーのドライブも余裕でOKとなりました。池袋での「クラス会」、我孫子ゴルフ倶楽部での「観桜会」にも着物で行きました。な、なんと、昨年そして今年と、観桜会では偶然とは言え、星野市長とも”What a small world!" などと歓談(!?)してしまいました。
アビシルベのFBを検索して頂くと毎回に撮りためた写真がありますよ。
皆様も次回は、着てみませんか????
次回は5/28 11時にインフォメーションセンター前集合です。
予約なしでの参加OKです!?
ちなみに、年会費は3000円、ランチ、交通費は自己負担、会長は佐藤さん、役員の予定は未定のまま3年目、和気あいあいの会ですから、まずはアビシルベのFBを覗いて探してみてください。
https://www.facebook.com/ABISHIRUBE/photos/a.204274909672114.32993.204179236348348/632467020186232/?type=1
2015年04月22日
日経ダウ、15年ぶりに2万円の大台を回復!
22日の東京株式相場は続伸し、主要株価指数は年初来高値を更新した。日経新聞1面には日立、マツダ最高益との記事が出ていた。マツダ株は昨年12月初めに3250円の高値をつけて以来、このところ2300円と低迷していたが、今日4月22日この記事を好感し、久しぶりに2400円台に乗せた。今週は、国内でも企業業績の発表が本格化し、期待感が高まっていた。本日終値は、前日比224円81銭高の2万0133円90銭、15年ぶりに2万円の大台を回復したのだ。国内経済や企業業績の改善期待に加え、世界的な金融緩和が株高を後押しした。
21日の中国上海総合指数は、高安を繰り返しながら、終値では1.8%高と20日の下げ分を埋めた。日本株と連動性が高まっているストックス欧州600指数も0.6%高。米国株は化学のデュポン、保険のトラベラーズの決算が嫌気され、高安まちまちだったが、大きく崩れなかった。
昨日の米国債は、金融当局が年内に利上げを開始できるだけのペースで景気は拡大しているとの見方が広がり、10年債利回りは終値ベースで13日以降では初めて1.9%を上回った。NY為替市場ではユーロが対ドルで12年ぶりの安値付近となる一方、円は対ドルで119円80銭台と5営業日ぶりの安値水準に振れた。
知人が「NYでも桜が見れます。今日はブルックリンのBotanical Gardenの側を通り、桜を見ました。アメリカでも、日本ブームなのか桜の華やぎは人気の様です。お花見をしている人も結構居ました。」とのこと。震災から復活する様子を見ようと海外からのツアー客が増えてきているのも、嬉しい経済効果になっている。日本を理解する、いいブームにしたいものだ。
21日の中国上海総合指数は、高安を繰り返しながら、終値では1.8%高と20日の下げ分を埋めた。日本株と連動性が高まっているストックス欧州600指数も0.6%高。米国株は化学のデュポン、保険のトラベラーズの決算が嫌気され、高安まちまちだったが、大きく崩れなかった。
昨日の米国債は、金融当局が年内に利上げを開始できるだけのペースで景気は拡大しているとの見方が広がり、10年債利回りは終値ベースで13日以降では初めて1.9%を上回った。NY為替市場ではユーロが対ドルで12年ぶりの安値付近となる一方、円は対ドルで119円80銭台と5営業日ぶりの安値水準に振れた。
知人が「NYでも桜が見れます。今日はブルックリンのBotanical Gardenの側を通り、桜を見ました。アメリカでも、日本ブームなのか桜の華やぎは人気の様です。お花見をしている人も結構居ました。」とのこと。震災から復活する様子を見ようと海外からのツアー客が増えてきているのも、嬉しい経済効果になっている。日本を理解する、いいブームにしたいものだ。
2015年04月21日
認知症、覚えていない養子の問題
1) 東京23区内に住む80代の女性が、2013年、遠い親戚にあたる中年の女性と養子縁組をした。
縁組から約2週間後、「(財産は)養女にすべて相続させる」という遺言書がつくられた。
女性には、親から相続した1億円相当の土地建物や預金がある。以前には、長年付き合いのある団体に「すべて寄付する」と周辺に繰り返し語っていた。女性に実子はおらず、いずれは養女が財産を相続することになる。
女性は数十年ずっと一人暮らしだったが、08年ごろから「人と会ったことをすぐに忘れる」といった認知症の症状が出始めた。養子縁組した13年ごろには、部屋は足の踏み場もなくなるほどゴミが散乱していた。いま、遠戚の女性と養子縁組した当時の経緯はほとんど覚えていない。
女性はヘルパーに介助されながら今も自宅で一人暮らしを続ける。外出はめったにせず、家で長時間、テレビを見て過ごす。
2)今年1月、関東北部に住む70代の認知症の女性に養女から一通の文書が送られてきた。「2千万円で離縁に応じる」というものだ。夫に先立たれ一人で暮らす女性には数千万円の資産がある。この女性は11年、自宅近くに住む知人の20代女性と養子縁組した。
この縁組を不審に思った親族は、家裁に対し「親族が女性を扶養する権利」があることを確認し、養女に「離縁」を求める審判を起こした。親族の一人は「親族に一言もなく、赤の他人が養子縁組しているとは驚いた」と話す。審判では、女性の預金が計70万円以上減ったこともわかった。
この審判の和解案として、養女側が示してきたのが「2千万円で離縁」という条件だ。家裁の結論はまだ出ていない。
3) 東京都内に住む認知症の90代男性にも養女がいる。
10年以上前、繁華街のカラオケスナックで知りあった当時60代の女性だ。妻に先立たれ、自宅で一人暮らしだった男性が、この女性と養子縁組したのは08年。男性はこのころ、すでに認知症の症状が出ていたとみられる。11年には、養女が本人に代わって財産を管理する成年後見人になった。男性の自宅を3千万円で売却し、その一部を男性の老人ホームの入居費にあてるなど、介護に必要なお金の手当てをしていた。
一方で養女は後見人の義務として、男性の財産の状況を家庭裁判所に報告していた。しかし、報告に不審な点があるとして家裁は12年、養女を調査する監督人をつけた。監督人の調べによると、養女は男性の預金から多くのお金を自分の口座に移し、1年で約1500万円を使っていた。残りの預金もいずれ養女が相続する。
じつは、男性は12年、もう1人の女性とも養子縁組していた。男性の自宅に訪問介護に来ていた30代の女性ヘルパーだ。だが、1人目の養女がヘルパーの事業所を通じて離縁を求め、ヘルパーが応じる形でこの養子縁組はわずか1週間で解消された。
■財産狙いに注意を
日本では、養子縁組の手続きは比較的簡単だ。筆跡の鑑定もない。
2人の戸籍謄本と「養子縁組届」を自治体に提出するだけで「親子」の権利関係が生まれる。
しかし、養子の縁組や解消は双方の同意を前提としているため、縁組後、親が認知症で判断力が低下した場合などは、仮に周囲が縁組の解消を望んだとしても、養子側が縁組の継続を望めば、離縁するのは難しい。
日本では毎年約8万件の養子縁組がある一方、認知症高齢者の縁組をめぐるトラブルは各地で起きている。後見人の司法書士らでつくる「成年後見センター・リーガルサポート」の川口純一・東京支部長は「財産狙いの縁組への対策を早急に打つべきだ」と話す。
しかし、養子縁組が財産狙いかどうかチェックするしくみはない。
早稲田大学法学学術院の岩志和一郎教授(民法)は「行政に当人たちの『意思』を審査する権限はなく、要件がそろった届け出は受理しないわけにはいかない」と話す。
財産を管理する後見人も、結婚や養子縁組など、家族制度の根幹にかかわる行為には立ち入れない。民法は、養子縁組について「後見人の同意を要しない」と明記している。大阪大学大学院の床谷文雄教授(民法)は「後見を受けている高齢者を守るには、民法の『後見人の同意を要しない』を『要する』と変えるのも一案だ」と言う。
今できることはあるのか。
元気なうちに後見人を予約する「任意後見」を使うなど、早めに面倒を見てくれる人を探しておく方法もある。そうすれば財産狙いの縁組をさせられないようアドバイスを受けることもできる。
後見人がついた後に縁組がなされた場合、養子側は相続権は持つが、日ごろの財産管理の権限は後見人側が持ち続ける。
参照:朝日デジタル 4/19
縁組から約2週間後、「(財産は)養女にすべて相続させる」という遺言書がつくられた。
女性には、親から相続した1億円相当の土地建物や預金がある。以前には、長年付き合いのある団体に「すべて寄付する」と周辺に繰り返し語っていた。女性に実子はおらず、いずれは養女が財産を相続することになる。
女性は数十年ずっと一人暮らしだったが、08年ごろから「人と会ったことをすぐに忘れる」といった認知症の症状が出始めた。養子縁組した13年ごろには、部屋は足の踏み場もなくなるほどゴミが散乱していた。いま、遠戚の女性と養子縁組した当時の経緯はほとんど覚えていない。
女性はヘルパーに介助されながら今も自宅で一人暮らしを続ける。外出はめったにせず、家で長時間、テレビを見て過ごす。
2)今年1月、関東北部に住む70代の認知症の女性に養女から一通の文書が送られてきた。「2千万円で離縁に応じる」というものだ。夫に先立たれ一人で暮らす女性には数千万円の資産がある。この女性は11年、自宅近くに住む知人の20代女性と養子縁組した。
この縁組を不審に思った親族は、家裁に対し「親族が女性を扶養する権利」があることを確認し、養女に「離縁」を求める審判を起こした。親族の一人は「親族に一言もなく、赤の他人が養子縁組しているとは驚いた」と話す。審判では、女性の預金が計70万円以上減ったこともわかった。
この審判の和解案として、養女側が示してきたのが「2千万円で離縁」という条件だ。家裁の結論はまだ出ていない。
3) 東京都内に住む認知症の90代男性にも養女がいる。
10年以上前、繁華街のカラオケスナックで知りあった当時60代の女性だ。妻に先立たれ、自宅で一人暮らしだった男性が、この女性と養子縁組したのは08年。男性はこのころ、すでに認知症の症状が出ていたとみられる。11年には、養女が本人に代わって財産を管理する成年後見人になった。男性の自宅を3千万円で売却し、その一部を男性の老人ホームの入居費にあてるなど、介護に必要なお金の手当てをしていた。
一方で養女は後見人の義務として、男性の財産の状況を家庭裁判所に報告していた。しかし、報告に不審な点があるとして家裁は12年、養女を調査する監督人をつけた。監督人の調べによると、養女は男性の預金から多くのお金を自分の口座に移し、1年で約1500万円を使っていた。残りの預金もいずれ養女が相続する。
じつは、男性は12年、もう1人の女性とも養子縁組していた。男性の自宅に訪問介護に来ていた30代の女性ヘルパーだ。だが、1人目の養女がヘルパーの事業所を通じて離縁を求め、ヘルパーが応じる形でこの養子縁組はわずか1週間で解消された。
■財産狙いに注意を
日本では、養子縁組の手続きは比較的簡単だ。筆跡の鑑定もない。
2人の戸籍謄本と「養子縁組届」を自治体に提出するだけで「親子」の権利関係が生まれる。
しかし、養子の縁組や解消は双方の同意を前提としているため、縁組後、親が認知症で判断力が低下した場合などは、仮に周囲が縁組の解消を望んだとしても、養子側が縁組の継続を望めば、離縁するのは難しい。
日本では毎年約8万件の養子縁組がある一方、認知症高齢者の縁組をめぐるトラブルは各地で起きている。後見人の司法書士らでつくる「成年後見センター・リーガルサポート」の川口純一・東京支部長は「財産狙いの縁組への対策を早急に打つべきだ」と話す。
しかし、養子縁組が財産狙いかどうかチェックするしくみはない。
早稲田大学法学学術院の岩志和一郎教授(民法)は「行政に当人たちの『意思』を審査する権限はなく、要件がそろった届け出は受理しないわけにはいかない」と話す。
財産を管理する後見人も、結婚や養子縁組など、家族制度の根幹にかかわる行為には立ち入れない。民法は、養子縁組について「後見人の同意を要しない」と明記している。大阪大学大学院の床谷文雄教授(民法)は「後見を受けている高齢者を守るには、民法の『後見人の同意を要しない』を『要する』と変えるのも一案だ」と言う。
今できることはあるのか。
元気なうちに後見人を予約する「任意後見」を使うなど、早めに面倒を見てくれる人を探しておく方法もある。そうすれば財産狙いの縁組をさせられないようアドバイスを受けることもできる。
後見人がついた後に縁組がなされた場合、養子側は相続権は持つが、日ごろの財産管理の権限は後見人側が持ち続ける。
参照:朝日デジタル 4/19
2015年04月20日
東急プラザ49年の歴史に幕
一か月前、3月22日に渋谷駅前の東急プラザが閉店となりました。
9階にあるレストラン街も古くからのなじみ客が通う店が多く、海津にいなの場合は、ロゴスキーが待ち合わせの場所にもなっていましたから寂しいです。友人などは東急プラザの地下にある食料品の市場では手ごろな値段でいい品が手に入ると重宝していたそうです。閉店前日に最後の買いものに行ってきたというその方から和風ビーフシチューなるレシピをご開陳いただきましたので、おすそわけです。しかも、100グラム158円の豪州産の牛のモモ肉の塊、和風作りをしたのだそうです。なにぶん、KIHACHIの熊谷シェフのレシピを参考にした健康クッキングなのですから、記念にご紹介です。
1.肉は60グラムくらいの大きな塊に切り分けます。ニンジン、タマネギ、セロリそれぞれ2分の1程度を刻みます。ニンニクも潰しておきます。
2.肉と野菜をボールに入れ赤ワインをヒタヒタに入れます。本来はこれを冷蔵庫で一晩マリネしますが、この日はその時間がないので強めに揉みこんで30分ほどおきました。
3.大根を厚めの輪切りにし、皮をむいて竹串が通る程度に煮ておきます。
4.肉を取り出し小麦粉をまぶして、フライパンで六面に焼目をつけます。
5.圧力鍋にマリネ液をこした野菜を入れて炒めます。その上に焼目をつけた肉をおきます。
マリネ液も入れます。肉が隠れる程度に水を入れ、顆粒状の鶏ガラスープを大さじ1杯ほど入れます。
(ここで水煮のトマト入れれば西洋風のビーフシチューなりますが)そしてアクをさっと取って30分ほど圧力をかけて煮ます。
6.圧力鍋のピンが下がったら、肉を取り出し残りの野菜をシノアでこします。野菜はほとんど溶けている状態ですが残った繊維を除いて口当たりを良くするためです。
7.鍋に肉と漉した煮汁を入れ弱火で煮ながら、白味噌と赤味噌あれば八丁味噌を、味を見ながらそれぞれ大さじ1杯程度入れます。
8.大根をフライパンで焦げ目がつくように焼き、シチュー鍋に入れます。
以上
レシピの紹介者は、ビジネスモデルについての大学教授(東京大学)ですが「最近、ニュースを分析していると、アメリカの衰退、特に政権末期のオバマ政権の実情をヒシヒシと感じます。永年アメリカの覇権の下でぬくぬくしてきた時代が終わりつつあるという感じがしてきます。私を含めて政治的課題にきちっと向き合ってこなかった国民もそろそろ自覚しないといけませんね。」と言われます。統一選の投票率低下、各地で無投票が増えるなどの状況からしても、確かに確かに言えています。
明治、大正、昭和、平成・・・・場所も時代も変わっていきます。より良く変わるか、衰退するか、どうなるかはその時代の人の考え方、行動の示し方いかんのようです。
今後、東急プラザ跡については渋谷の再開発の更なる進展となり、益々、駅前は文化の発信地を謳歌するようなっていくはずです。明治、大正の頃、文化の発祥地は上野がひとつの文化圏として一目も二目も置かれて、頑張っていました。
ですから、上野駅から東京駅(品川)にもつながった常磐線エリアも頑張らねば!!
9階にあるレストラン街も古くからのなじみ客が通う店が多く、海津にいなの場合は、ロゴスキーが待ち合わせの場所にもなっていましたから寂しいです。友人などは東急プラザの地下にある食料品の市場では手ごろな値段でいい品が手に入ると重宝していたそうです。閉店前日に最後の買いものに行ってきたというその方から和風ビーフシチューなるレシピをご開陳いただきましたので、おすそわけです。しかも、100グラム158円の豪州産の牛のモモ肉の塊、和風作りをしたのだそうです。なにぶん、KIHACHIの熊谷シェフのレシピを参考にした健康クッキングなのですから、記念にご紹介です。
1.肉は60グラムくらいの大きな塊に切り分けます。ニンジン、タマネギ、セロリそれぞれ2分の1程度を刻みます。ニンニクも潰しておきます。
2.肉と野菜をボールに入れ赤ワインをヒタヒタに入れます。本来はこれを冷蔵庫で一晩マリネしますが、この日はその時間がないので強めに揉みこんで30分ほどおきました。
3.大根を厚めの輪切りにし、皮をむいて竹串が通る程度に煮ておきます。
4.肉を取り出し小麦粉をまぶして、フライパンで六面に焼目をつけます。
5.圧力鍋にマリネ液をこした野菜を入れて炒めます。その上に焼目をつけた肉をおきます。
マリネ液も入れます。肉が隠れる程度に水を入れ、顆粒状の鶏ガラスープを大さじ1杯ほど入れます。
(ここで水煮のトマト入れれば西洋風のビーフシチューなりますが)そしてアクをさっと取って30分ほど圧力をかけて煮ます。
6.圧力鍋のピンが下がったら、肉を取り出し残りの野菜をシノアでこします。野菜はほとんど溶けている状態ですが残った繊維を除いて口当たりを良くするためです。
7.鍋に肉と漉した煮汁を入れ弱火で煮ながら、白味噌と赤味噌あれば八丁味噌を、味を見ながらそれぞれ大さじ1杯程度入れます。
8.大根をフライパンで焦げ目がつくように焼き、シチュー鍋に入れます。
以上
レシピの紹介者は、ビジネスモデルについての大学教授(東京大学)ですが「最近、ニュースを分析していると、アメリカの衰退、特に政権末期のオバマ政権の実情をヒシヒシと感じます。永年アメリカの覇権の下でぬくぬくしてきた時代が終わりつつあるという感じがしてきます。私を含めて政治的課題にきちっと向き合ってこなかった国民もそろそろ自覚しないといけませんね。」と言われます。統一選の投票率低下、各地で無投票が増えるなどの状況からしても、確かに確かに言えています。
明治、大正、昭和、平成・・・・場所も時代も変わっていきます。より良く変わるか、衰退するか、どうなるかはその時代の人の考え方、行動の示し方いかんのようです。
今後、東急プラザ跡については渋谷の再開発の更なる進展となり、益々、駅前は文化の発信地を謳歌するようなっていくはずです。明治、大正の頃、文化の発祥地は上野がひとつの文化圏として一目も二目も置かれて、頑張っていました。
ですから、上野駅から東京駅(品川)にもつながった常磐線エリアも頑張らねば!!
2015年04月19日
『白樺』の最新情報、 大安の土曜日にご一緒しませんか
散策には最高の季節です。
市内の白樺ゆかりのスポットの最新情報です、ご一緒に出掛けませんか?
5/9(大安の土曜日)11時、白樺文学館そばの公園(志賀直哉邸跡記念公園)、に集合ください。
当日問合せ: 080-1164-0145
◆志賀直哉邸(書斎)
毎週土曜日、日曜日10時〜14時に書斎の中を公開しています。
(悪天候の場合、公開中止あり。詳しい情報は我孫子市の指定文化財のページをご覧ください。)
◆白樺文学館
開館時間:9時30分から17時まで
(入館は16時30分まで 詳細は、HP開館日カレンダーをご確認ください。)
●柳兼子 愛用のピアノ演奏
2014(平成26)年2月末、柳兼子が我孫子にきて百年という記念の年に、日本民藝館より、愛用したピアノが寄贈されました。広く、長く、多くの方々へとこのピアノの魅力に触れていただくために、10月より、ボランティアスタッフによる展示鑑賞のためのBGM的生演奏を開始しました。これまでに、多くの来館者にその音色をお楽しみいただき、好評を得てきました。(ボランティアのピアニスト演奏は音大生など)
午前10:30〜、(昼休みを挟んで)午後 〜2:30、ピアノBGM演奏の時間に合わせて館内の展示をご覧いただくと一層、穏やかな、癒される空間としてもお過ごしいただけます。
詳しくは、白樺文学館の演奏日程HPをご覧ください)
● 特別企画展
「我孫子・白樺派を継ぐ者―原田京平の生涯―」(5月24日まで)
白樺派の柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤はそれぞれの人生のステップとしてこの我孫子で若き時代を過ごします。
柳にとっては、民藝運動という生涯をかけた運動のきっかけをつかむための「出会いと絆」の地。
武者小路にとっては、新しき村という新たな活動の構想を練った「思索」の地。
志賀にとっては、止まっていた筆が動きだし、『和解』を書き、唯一の長編小説『暗夜行路』へ結びつく、再スタートの「創作」の地。
彼らが作り出した「我孫子・白樺派」ともいうべき文化空間は、志賀が1923(大正12)年京都へと旅立ち、その文化空間は消え去ってしまったかのように思われてきました。
しかし、実はその文化空間を引き継いだ一人の芸術家がいたのです。それが我孫子・白樺派を継ぐ原田京平でした。原田京平は、画家として、歌人として、我孫子を描き、我孫子を詠んだ芸術家です。
1895(明治28)年に静岡県で生まれ、1913(大正2)年18歳で上京し画家の道を歩み始めますが、1936(昭和11)年に40歳の若さで亡くなります。
我孫子に来たのは、1921(大正10)年10月。我孫子別荘地の先駆けである島田久兵衛が築いた島久別荘に移住しました。志賀が我孫子を去った1923(大正12)年3月以降は、志賀邸の留守居役として1928(昭和3)年3月まで志賀邸で暮らし、約7年に及ぶ我孫子での生活でした。我孫子は、妻で画家の睦との新婚時代を過ごした地であり、2人の娘を授かった地でもあります。また 我孫子生まれの娘たちはそれぞれ染織家原田麻那、洋画家原田南として後々活躍していきます。我孫子時代は、芸術家人生を振り返ってみても特筆すべき時代であったといえるでしょう。
我孫子ゆかりの芸術家原田京平。本企画展では、歴史の中に埋もれてしまった芸術家にスポットをあて、我孫子当時の芸術家の一端ををよみがえらせます。
なお、上記について特別講演会(事前予約制)が予定されます。
5月9日(土曜日)13時〜14時30分まで
場所 生涯学習センターア・ビスタ(2階ミニホール)
定員 60名(要予約)
※ 講演会の予約、その他詳細は、文学館までお問い合わせください。
〒270−1153 我孫子市緑2−11−8
04−7169−8468
★GW中の我孫子散策お奨めスポット
http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/21,0,214,1050,html
市内の白樺ゆかりのスポットの最新情報です、ご一緒に出掛けませんか?
5/9(大安の土曜日)11時、白樺文学館そばの公園(志賀直哉邸跡記念公園)、に集合ください。
当日問合せ: 080-1164-0145
◆志賀直哉邸(書斎)
毎週土曜日、日曜日10時〜14時に書斎の中を公開しています。
(悪天候の場合、公開中止あり。詳しい情報は我孫子市の指定文化財のページをご覧ください。)
◆白樺文学館
開館時間:9時30分から17時まで
(入館は16時30分まで 詳細は、HP開館日カレンダーをご確認ください。)
●柳兼子 愛用のピアノ演奏
2014(平成26)年2月末、柳兼子が我孫子にきて百年という記念の年に、日本民藝館より、愛用したピアノが寄贈されました。広く、長く、多くの方々へとこのピアノの魅力に触れていただくために、10月より、ボランティアスタッフによる展示鑑賞のためのBGM的生演奏を開始しました。これまでに、多くの来館者にその音色をお楽しみいただき、好評を得てきました。(ボランティアのピアニスト演奏は音大生など)
午前10:30〜、(昼休みを挟んで)午後 〜2:30、ピアノBGM演奏の時間に合わせて館内の展示をご覧いただくと一層、穏やかな、癒される空間としてもお過ごしいただけます。
詳しくは、白樺文学館の演奏日程HPをご覧ください)
● 特別企画展
「我孫子・白樺派を継ぐ者―原田京平の生涯―」(5月24日まで)
白樺派の柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤はそれぞれの人生のステップとしてこの我孫子で若き時代を過ごします。
柳にとっては、民藝運動という生涯をかけた運動のきっかけをつかむための「出会いと絆」の地。
武者小路にとっては、新しき村という新たな活動の構想を練った「思索」の地。
志賀にとっては、止まっていた筆が動きだし、『和解』を書き、唯一の長編小説『暗夜行路』へ結びつく、再スタートの「創作」の地。
彼らが作り出した「我孫子・白樺派」ともいうべき文化空間は、志賀が1923(大正12)年京都へと旅立ち、その文化空間は消え去ってしまったかのように思われてきました。
しかし、実はその文化空間を引き継いだ一人の芸術家がいたのです。それが我孫子・白樺派を継ぐ原田京平でした。原田京平は、画家として、歌人として、我孫子を描き、我孫子を詠んだ芸術家です。
1895(明治28)年に静岡県で生まれ、1913(大正2)年18歳で上京し画家の道を歩み始めますが、1936(昭和11)年に40歳の若さで亡くなります。
我孫子に来たのは、1921(大正10)年10月。我孫子別荘地の先駆けである島田久兵衛が築いた島久別荘に移住しました。志賀が我孫子を去った1923(大正12)年3月以降は、志賀邸の留守居役として1928(昭和3)年3月まで志賀邸で暮らし、約7年に及ぶ我孫子での生活でした。我孫子は、妻で画家の睦との新婚時代を過ごした地であり、2人の娘を授かった地でもあります。また 我孫子生まれの娘たちはそれぞれ染織家原田麻那、洋画家原田南として後々活躍していきます。我孫子時代は、芸術家人生を振り返ってみても特筆すべき時代であったといえるでしょう。
我孫子ゆかりの芸術家原田京平。本企画展では、歴史の中に埋もれてしまった芸術家にスポットをあて、我孫子当時の芸術家の一端ををよみがえらせます。
なお、上記について特別講演会(事前予約制)が予定されます。
5月9日(土曜日)13時〜14時30分まで
場所 生涯学習センターア・ビスタ(2階ミニホール)
定員 60名(要予約)
※ 講演会の予約、その他詳細は、文学館までお問い合わせください。
〒270−1153 我孫子市緑2−11−8
04−7169−8468
★GW中の我孫子散策お奨めスポット
http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/21,0,214,1050,html
2015年04月18日
B.リーチからの英文書簡(1929年2月10日)
東大総長賞に選ばれた学生は、異文化に関心強い若者たちだった
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150420-00000011-sasahi-soci
そして、百年前は東京帝国大学と称されていたが、柳宗悦も卒業生だった。
同様に世界に向けた関心は強く、英国人のバーナード・リーチとも懇意になった。
柳がいなければ、我孫子の世界的な芸術家村の展開はできなかったことだろう。
下記は、リーチから出された柳への手紙、我孫子での日々の懐かしんでいます。
Letters between
Soetsu Yanagi and Bernard Leach
Feb.10th 1929
My dear Yanagi,
I would indeed have it so, for the retrospect of life with you, especially at Abiko,is of the happiest & fullest time in my life. The fullness which has come upon me often seems outward & empty in comparison. How often I long to share an adventure of the mind, especially those outreachings towards truth which we call religions, with you. I have often regretted that I missed opportunities at Abiko in not sharing more those approachs---Fate does not offer the same twice.
Bernard Leach
上記英文訳 ↓
PEACE&FRIENDSHIP PEACE&FRIENDSHIP PEACE&FRIENDSHIP
君と共に生きた追憶、特に我孫子での生活は、私の人生の中でもっとも幸せで充実した時代だったといえる。その充実感の素晴らしさを今と比較すると、今は表面的で空虚に思える。君と再び精神の探求をすることを幾度望んだ事か! ……運命は二度と同じ機会を与えてくれはしない
..................
「柳宗悦とバーナード・リーチ往復書簡集(1912〜1959)」が、学術研究用にと、昨年刊行されていたので入手しました。
今から百年前に、我孫子に住んでいた柳宗悦ですが、留学していた訳ではないのに、乞われてハーバード大学で英語で連続講義して、感動の喝采を受けるほどの理論性とハートフル(Heartfelt)な言葉の使い手でした。なにぶん英国人のリーチと英語で喧嘩もしたくらいだそうで(?!)、そしてもちろん、すぐに『和解』することが出来たのは、我孫子だったからでしょうか。
叔父の嘉納治五郎(講道館創始者、現・筑波大学学長/東京師範校長、日本体育協会会長。我孫子の別荘人の草分け。)も、同様に英語の使い手であったそう。熊本五校校長の時には、ラフカディオ・ハーンを教師に雇い、丁々発止にやり取りしていたそうです。さらには、戦前のオリンピック誘致の為に奔走していたのは我孫子では近年有名になっていますが、クーベルタン男爵にアジアからの参加要請を直談判だ頼まれて、周到な準備をして、開催地決定の投票のロビー活動に力をいれ、皆をうならせ、カノウならなにごとも可能にできると信頼が高まって、英語のスピーチの内容でもうならせるものがあったと、誘致に成功するのです。しかし、決定の後の帰路の船上(当時はカイロへ行くために一か月ほどかかったとか)で急逝されました。そのころも、我孫子の別荘生活、農園作業に息抜きに来ていたという。79歳没
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150420-00000011-sasahi-soci
そして、百年前は東京帝国大学と称されていたが、柳宗悦も卒業生だった。
同様に世界に向けた関心は強く、英国人のバーナード・リーチとも懇意になった。
柳がいなければ、我孫子の世界的な芸術家村の展開はできなかったことだろう。
下記は、リーチから出された柳への手紙、我孫子での日々の懐かしんでいます。
Letters between
Soetsu Yanagi and Bernard Leach
Feb.10th 1929
My dear Yanagi,
I would indeed have it so, for the retrospect of life with you, especially at Abiko,is of the happiest & fullest time in my life. The fullness which has come upon me often seems outward & empty in comparison. How often I long to share an adventure of the mind, especially those outreachings towards truth which we call religions, with you. I have often regretted that I missed opportunities at Abiko in not sharing more those approachs---Fate does not offer the same twice.
Bernard Leach
上記英文訳 ↓
PEACE&FRIENDSHIP PEACE&FRIENDSHIP PEACE&FRIENDSHIP
君と共に生きた追憶、特に我孫子での生活は、私の人生の中でもっとも幸せで充実した時代だったといえる。その充実感の素晴らしさを今と比較すると、今は表面的で空虚に思える。君と再び精神の探求をすることを幾度望んだ事か! ……運命は二度と同じ機会を与えてくれはしない
..................
「柳宗悦とバーナード・リーチ往復書簡集(1912〜1959)」が、学術研究用にと、昨年刊行されていたので入手しました。
今から百年前に、我孫子に住んでいた柳宗悦ですが、留学していた訳ではないのに、乞われてハーバード大学で英語で連続講義して、感動の喝采を受けるほどの理論性とハートフル(Heartfelt)な言葉の使い手でした。なにぶん英国人のリーチと英語で喧嘩もしたくらいだそうで(?!)、そしてもちろん、すぐに『和解』することが出来たのは、我孫子だったからでしょうか。
叔父の嘉納治五郎(講道館創始者、現・筑波大学学長/東京師範校長、日本体育協会会長。我孫子の別荘人の草分け。)も、同様に英語の使い手であったそう。熊本五校校長の時には、ラフカディオ・ハーンを教師に雇い、丁々発止にやり取りしていたそうです。さらには、戦前のオリンピック誘致の為に奔走していたのは我孫子では近年有名になっていますが、クーベルタン男爵にアジアからの参加要請を直談判だ頼まれて、周到な準備をして、開催地決定の投票のロビー活動に力をいれ、皆をうならせ、カノウならなにごとも可能にできると信頼が高まって、英語のスピーチの内容でもうならせるものがあったと、誘致に成功するのです。しかし、決定の後の帰路の船上(当時はカイロへ行くために一か月ほどかかったとか)で急逝されました。そのころも、我孫子の別荘生活、農園作業に息抜きに来ていたという。79歳没
2015年04月17日
人生を変える質問
世界No1.コーチと言われるアンソニー・ロビンズ* の見解では、
「ごく単純にいえば、成功する人はより良い質問をし、それによって、より良い答えを手に入れている」ということだ。人生をより良くを変えたければ、毎日自分自身や周りの人に、どんな「質問」をすれば質の高い答えに導かれるかをいつも考えているのが秘訣だという。
松下幸之助も成功した秘訣を尋ねられて、「わからないことを素直に聞いたこと」だと言った。
「どうしたら楽しに稼げるか」、とか、「どうやったら旨く勝てるか」、という問いかけをばかりでは、決して長く続くことはないが、どのような質問をするかで人生は変わるとの明らかに良い例だ。
海外の例として、W・ミッチェルという人の話は、大事故で全身に火傷を負い、両脚の機能を失ってしまった。その人が、「いまの僕に残された能力とは何だろう?」、彼は自分に聞いた。
「いま自分にできること、事故にあう以前にも増して可能なことは何だろう?」
その入院先で、彼はアニーという名の看護師に出会い、恋に落ちた。 腰から下は麻痺しているし、その体は火傷で見る影もなくひどい状態なのにもかかわらず、彼には、「どうしたら彼女をデートに誘えるだろう?」と自分で自分に質問してみる素晴らしい勇気を奮ったのだ。
そして、彼らは間もなく結婚した。
さらに彼は、ハンディキャップをものともせず、地元の市長に立候補して当選したほか、公共事業管理の修士号を取得し、環境問題にも積極的に取り組み、講演活動も行った。
そもそも考えるということは、「質問」し「それに答えるプロセス」だ。イエスかノーで返答するにしても「報道は、一面ではないのか、すぐに発表してないではなのか」とか、「コメンテイターの言っていることに賛成できるか」などとの自問もしなければならない、とのこと。
思考過程では、「評価」に始まり、「思案(何が可能か)」、「決定(どうするか)」まで自問自答が行われる。 失敗や断られる可能性のある質問もあるが、どのような質問を自分から投げかけるだろう?新たな答えが導き出せるのは、新たな質問が生まれる時だとも言える。自分自身や愛する人に問いかけることができ、たくさんのパワーが湧いてくる質問とはどんな質問かを考えてみよう。
どうも質問のどこにスポットライトを当てるか、その人次第だということのようだ。
新年度が始まった、若葉のこの時期、人生はあかるい 良いスタートを!
わー、雷がなるわ、小粒の雹が北側の窓に当たって降っている。
あれは、2001だったか、大粒の雹で満開の薔薇が一挙にやられてしまった<`ヘ´> ことがありましたけ。
雨降って、地固まるだけど、
雹ふってガラスが割れるで大変した
電話がかかってきたけれど電波が雷の影響受けた模様で
音信不通 短時間降ったら、おさまると思います。
良い質問・・・ とっさには思いつきません
即、次々に思いつく人がいたら
良い人生にどんどん変わるということなのかもしれません
*『アンソニー・ロビンズの「成功法則」』PHP研究所
「ごく単純にいえば、成功する人はより良い質問をし、それによって、より良い答えを手に入れている」ということだ。人生をより良くを変えたければ、毎日自分自身や周りの人に、どんな「質問」をすれば質の高い答えに導かれるかをいつも考えているのが秘訣だという。
松下幸之助も成功した秘訣を尋ねられて、「わからないことを素直に聞いたこと」だと言った。
「どうしたら楽しに稼げるか」、とか、「どうやったら旨く勝てるか」、という問いかけをばかりでは、決して長く続くことはないが、どのような質問をするかで人生は変わるとの明らかに良い例だ。
海外の例として、W・ミッチェルという人の話は、大事故で全身に火傷を負い、両脚の機能を失ってしまった。その人が、「いまの僕に残された能力とは何だろう?」、彼は自分に聞いた。
「いま自分にできること、事故にあう以前にも増して可能なことは何だろう?」
その入院先で、彼はアニーという名の看護師に出会い、恋に落ちた。 腰から下は麻痺しているし、その体は火傷で見る影もなくひどい状態なのにもかかわらず、彼には、「どうしたら彼女をデートに誘えるだろう?」と自分で自分に質問してみる素晴らしい勇気を奮ったのだ。
そして、彼らは間もなく結婚した。
さらに彼は、ハンディキャップをものともせず、地元の市長に立候補して当選したほか、公共事業管理の修士号を取得し、環境問題にも積極的に取り組み、講演活動も行った。
そもそも考えるということは、「質問」し「それに答えるプロセス」だ。イエスかノーで返答するにしても「報道は、一面ではないのか、すぐに発表してないではなのか」とか、「コメンテイターの言っていることに賛成できるか」などとの自問もしなければならない、とのこと。
思考過程では、「評価」に始まり、「思案(何が可能か)」、「決定(どうするか)」まで自問自答が行われる。 失敗や断られる可能性のある質問もあるが、どのような質問を自分から投げかけるだろう?新たな答えが導き出せるのは、新たな質問が生まれる時だとも言える。自分自身や愛する人に問いかけることができ、たくさんのパワーが湧いてくる質問とはどんな質問かを考えてみよう。
どうも質問のどこにスポットライトを当てるか、その人次第だということのようだ。
新年度が始まった、若葉のこの時期、人生はあかるい 良いスタートを!
わー、雷がなるわ、小粒の雹が北側の窓に当たって降っている。
あれは、2001だったか、大粒の雹で満開の薔薇が一挙にやられてしまった<`ヘ´> ことがありましたけ。
雨降って、地固まるだけど、
雹ふってガラスが割れるで大変した
電話がかかってきたけれど電波が雷の影響受けた模様で
音信不通 短時間降ったら、おさまると思います。
良い質問・・・ とっさには思いつきません
即、次々に思いつく人がいたら
良い人生にどんどん変わるということなのかもしれません
*『アンソニー・ロビンズの「成功法則」』PHP研究所
2015年04月16日
年ではない、魅力の人は求められる
来日公演を前に元ビートルズのポール・マッカートニーさんが15日、朝日新聞の電話インタビューに応じた。 ポールさんはその日、米国ロサンゼルスでのリハーサル後に、インタビューに臨んだ。
単独での来日公演は通算5度目、2013年11月以来となるポールさんは昨年5月にも来日したが、体調を崩し、全公演は中止に。「日本でとても面倒をよく見て頂いた。帰国後、4週間ぐらいですっかり元気になった」と話した。
60年代に信じられていた「音楽は世界を変える」という考えは現代でも通用するかと問うと、「世の中を動かすのは、大統領や首相といった国のリーダーたち。言い換えれば、彼らが様々な問題を引き起こすこともある。昔からですが、音楽では、全ての問題を解決できない」。
ただ、「音楽は人の考え方、人生を変えうる」と指摘。「自由、ポジティブな考え、明るい未来……。僕はいつも前向きになるようなことを歌って、メッセージを発信している」と力説した。「音楽は人の助けになると思う。自分の音楽で人を助けたり心を癒やしたりできるのが、うれしい。それがミュージシャンとしての誇りです」。
現在、72歳、何歳くらいまでライブを続けたいかと聞くと、「それは分からない。でも、求められる間はショーを続けたい。ショーはエネルギーを与えてくれるから、逆に疲れないんです」とこたえた。創作意欲も盛んで、最近、アニメ映画用の曲を作り、録音を終えたという、年じゃない求められる魅力がある。若い人は若さの魅力だけで求められる。年を重ねて求められるのは本物があるということ、何か素敵で、楽しい共感があるだからなんだろう。
参照:
朝日新聞デジタル 4/16
単独での来日公演は通算5度目、2013年11月以来となるポールさんは昨年5月にも来日したが、体調を崩し、全公演は中止に。「日本でとても面倒をよく見て頂いた。帰国後、4週間ぐらいですっかり元気になった」と話した。
60年代に信じられていた「音楽は世界を変える」という考えは現代でも通用するかと問うと、「世の中を動かすのは、大統領や首相といった国のリーダーたち。言い換えれば、彼らが様々な問題を引き起こすこともある。昔からですが、音楽では、全ての問題を解決できない」。
ただ、「音楽は人の考え方、人生を変えうる」と指摘。「自由、ポジティブな考え、明るい未来……。僕はいつも前向きになるようなことを歌って、メッセージを発信している」と力説した。「音楽は人の助けになると思う。自分の音楽で人を助けたり心を癒やしたりできるのが、うれしい。それがミュージシャンとしての誇りです」。
現在、72歳、何歳くらいまでライブを続けたいかと聞くと、「それは分からない。でも、求められる間はショーを続けたい。ショーはエネルギーを与えてくれるから、逆に疲れないんです」とこたえた。創作意欲も盛んで、最近、アニメ映画用の曲を作り、録音を終えたという、年じゃない求められる魅力がある。若い人は若さの魅力だけで求められる。年を重ねて求められるのは本物があるということ、何か素敵で、楽しい共感があるだからなんだろう。
参照:
朝日新聞デジタル 4/16
2015年04月15日
日本から海外へ、美しき女性たち
日本人の枠を超えて、活躍する若い女性二人について、紹介したい。彼女たちは、とても恵まれた容姿をしているが、逆境(異分子としてなかなか受け入れられない環境)をバネに社会的な影響力を発揮しようと志高く頑張って、運命を切り開いている。
宮本エリアナさんは長崎県佐世保市出身の20歳、ミス・ユニバース・ジャパンの国内大会で2015年グランプリに輝いた。佐世保市役所を表敬訪問し、受賞を報告したというのは、やはり、地元の応援に感謝してということなのだろう。周囲に応援されたからこそ困難を乗り切れたということを強く感じてのことなのだろう。
宮本さんは日本人の母親と父親がアフリカ系米国人。22歳未満のため、日本と米国の二重国籍、将来的には日本国籍を選択する予定であるという。趣味と特技は、オートバイツーリング。書道5段。得意な日本料理は、「鰹で出汁を採った味噌汁が得意」と話している。大型自動二輪免許を保有している。
自分が幼い頃に肌の色の違いでいじめられ、友人が人種差別に悩んで20歳で自殺するなど悲しい経験があるという。「人種差別は、日本にもある。悩んでいる人の励みになりたい」と語る宮本さん。「ハーフ(半分)」の苦悩を日米「ダブル(倍)」の魅力に変えて世界大会で世界一を目指す。
他方、祐真キキ(すけざねきき、1989年)さんは京都府出身の26歳。高校時代に1年間、米中西部サウスダコタ州に留学し英会話を習得。留学の理由は「中学生の頃から米国のドラマや映画に憧れていた」ため。高校卒業後、アルバイトで生活。バックパッカーで1カ月間タンザニアを訪れ、国際機関で難民の援助をしている米国人に出会い、女優になろうと決意。インドの故マザー・テレサさんや国連活動をする米女優アンジェリーナ・ジョリーさん(39)に憧れ、有名になって発展途上国や環境破壊などの現状を広く伝えるため。「有名になるということが私の夢には欠かせないんです」と世界的な活躍を誓っている。
21歳から1年半は、ハリウッド映画界でも活躍するプロデューサーの奈良橋陽子さん(67。ゴダイゴの作詞も手掛けた)が設立した俳優養成機関(東京)で学び、4年前にロサンゼルスに渡った。エキストラやイベントでの着物モデルなど、さまざまな仕事をしながら、今年に入って「Heroes Reborn」のオーディションを受けた。世界中で大ヒットした米ドラマ「HEROES/ヒーローズ」の新シリーズ「Heroes Reborn」に、出演することになった。
宮本エリアナさんは長崎県佐世保市出身の20歳、ミス・ユニバース・ジャパンの国内大会で2015年グランプリに輝いた。佐世保市役所を表敬訪問し、受賞を報告したというのは、やはり、地元の応援に感謝してということなのだろう。周囲に応援されたからこそ困難を乗り切れたということを強く感じてのことなのだろう。
宮本さんは日本人の母親と父親がアフリカ系米国人。22歳未満のため、日本と米国の二重国籍、将来的には日本国籍を選択する予定であるという。趣味と特技は、オートバイツーリング。書道5段。得意な日本料理は、「鰹で出汁を採った味噌汁が得意」と話している。大型自動二輪免許を保有している。
自分が幼い頃に肌の色の違いでいじめられ、友人が人種差別に悩んで20歳で自殺するなど悲しい経験があるという。「人種差別は、日本にもある。悩んでいる人の励みになりたい」と語る宮本さん。「ハーフ(半分)」の苦悩を日米「ダブル(倍)」の魅力に変えて世界大会で世界一を目指す。
他方、祐真キキ(すけざねきき、1989年)さんは京都府出身の26歳。高校時代に1年間、米中西部サウスダコタ州に留学し英会話を習得。留学の理由は「中学生の頃から米国のドラマや映画に憧れていた」ため。高校卒業後、アルバイトで生活。バックパッカーで1カ月間タンザニアを訪れ、国際機関で難民の援助をしている米国人に出会い、女優になろうと決意。インドの故マザー・テレサさんや国連活動をする米女優アンジェリーナ・ジョリーさん(39)に憧れ、有名になって発展途上国や環境破壊などの現状を広く伝えるため。「有名になるということが私の夢には欠かせないんです」と世界的な活躍を誓っている。
21歳から1年半は、ハリウッド映画界でも活躍するプロデューサーの奈良橋陽子さん(67。ゴダイゴの作詞も手掛けた)が設立した俳優養成機関(東京)で学び、4年前にロサンゼルスに渡った。エキストラやイベントでの着物モデルなど、さまざまな仕事をしながら、今年に入って「Heroes Reborn」のオーディションを受けた。世界中で大ヒットした米ドラマ「HEROES/ヒーローズ」の新シリーズ「Heroes Reborn」に、出演することになった。
2015年04月14日
自衛隊海外派遣の恒久法「国際平和支援法」で最終調整
後半国会の最大の焦点となる安全保障法制をめぐる与党協議が、14日から再開されます-。
政府は、自衛隊を海外に派遣するための「恒久法」を新たに制定する方針ですが、その-名称を「国際平和支援法」とする方向で最終調整していることがJNNの取材でわかりま-した。
出典:
TBSニュース
???????? ?????????
これって、名前は「平和」と聞こえがいいが、米国主導「戦争」「紛争」解決手段にもくみする事には違いない。「憲法改正」に慎重審議に時間がとられる間に、既成事実は積み上げられるということだと思えばみえる。3月上旬、通常国会に防衛省設置法改正案を提出されており、設置法12条を改正するほか、分担してきた自衛隊の部隊運用(作戦)を背広組(文官)優位から制服組主体に改める「運用一元化」も盛り込む勢いだ。
国民の半分以上か、6割以上が、統一地方選の投票という行動にも動かない(考えるのが億劫?)などとなってきていたのなら、再び国家の決めるイエスマンにされてしまわないだろうか。
国民という施主は、自衛隊海外派遣の恒久法「国際平和」支援法などを取り付けてなどと言わなかったのに、「サービスです、付けて置きました」などと聞こえはいい説明だったが、ブレーカーをいれた途端に相当な電気代がかかるのだと知ったときは、取り外せない後のまつり、サービスの価格よりも後々の電気代はバカにならなかったいうのだったらとんでもない困りモノだ。「今からでも、外してください!」と請求書が来てから文句をいっても無駄だったなんてことを、歴史は繰り返すことのないようにしなくてはいけない。昭和の国民が総懺悔を求められて寡黙に暮らして戦後復興に歯を食いしばったのだから、平成の国民は四半世紀以上にもなるのであるから、声あるスマート・パーソンになって、熟慮するだけでなく意思を示すという行動はしないと、生きている意味がない。
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政府は、自衛隊を海外に派遣するための「恒久法」を新たに制定する方針ですが、その-名称を「国際平和支援法」とする方向で最終調整していることがJNNの取材でわかりま-した。
出典:
TBSニュース
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これって、名前は「平和」と聞こえがいいが、米国主導「戦争」「紛争」解決手段にもくみする事には違いない。「憲法改正」に慎重審議に時間がとられる間に、既成事実は積み上げられるということだと思えばみえる。3月上旬、通常国会に防衛省設置法改正案を提出されており、設置法12条を改正するほか、分担してきた自衛隊の部隊運用(作戦)を背広組(文官)優位から制服組主体に改める「運用一元化」も盛り込む勢いだ。
国民の半分以上か、6割以上が、統一地方選の投票という行動にも動かない(考えるのが億劫?)などとなってきていたのなら、再び国家の決めるイエスマンにされてしまわないだろうか。
国民という施主は、自衛隊海外派遣の恒久法「国際平和」支援法などを取り付けてなどと言わなかったのに、「サービスです、付けて置きました」などと聞こえはいい説明だったが、ブレーカーをいれた途端に相当な電気代がかかるのだと知ったときは、取り外せない後のまつり、サービスの価格よりも後々の電気代はバカにならなかったいうのだったらとんでもない困りモノだ。「今からでも、外してください!」と請求書が来てから文句をいっても無駄だったなんてことを、歴史は繰り返すことのないようにしなくてはいけない。昭和の国民が総懺悔を求められて寡黙に暮らして戦後復興に歯を食いしばったのだから、平成の国民は四半世紀以上にもなるのであるから、声あるスマート・パーソンになって、熟慮するだけでなく意思を示すという行動はしないと、生きている意味がない。
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2015年04月13日
無視されない社会へ
県議選投票率は、東日本大震災の折の千葉県は全国ワースト2と低調でありながらも、当市は県平均を上回り、更に前回の県議選投票率を上回っていました。ところが今回は、大都市圏を中心に投票率の低迷も続き、全体で7割近い28府県が50%に達しなかった。千葉を含むワースト8府県は、すべての府県内で政令市議選が実施されていたというのですから、相当数の候補者が行きかって、それでも投票所へ足を運ぶのも出来ないとなると民主主義の末期ともいえそうな状況です。全定数に占める無投票当選者の割合(無投票率)は記録が残る1951年以降最高の21.9%でした。立候補する意欲も減少していたのです。道府県議選の平均投票率は1979年に70%を割り込んでから低下傾向が続き、今回の投票率全国平均52%でした。
残念ながら投票率が最も低かった全国ワーストワンは、千葉県(37.01%)、県政史上過去最低の県平均投票率であったのが、我孫子市ではそれも割り込み、投票率は4年前より5%以上落ち込んだのです。これは、震災時であった中での上昇と比べても疑問の残るものでした。 39.27%(2007)→ 40.97%(2011)→ 35.48%(2015)と、投票率が下がったこと、市長選に続く3割台の原因は、7割近い市民が争点が見出しにくかったからだとか、候補者にシラケてしまったなどと評論家然としたコメントでは、もはや意味をなさない。我孫子においては、他市と比較して投票率が高い傾向を維持してきただけに、地域社会に変化が起きてきたのではないか、真剣に検討が必要です。無投票を回避しようとの行動を起こし、ウエーブを作ったことから見えてきたのは、何か社会構造の変化がおきていると考えなくてはならような気がしています。
◆投票率が上がるべきなのに
我孫子の統一地方選(県議)は終わり、女性県議が復活しました。
難しいとされる二人区での選挙、無所属候補が自民党順風のなかで現職県議に票差を接近させ、初当選でした。
我孫子では、現職県議(民主→維新)が一人辞職しての選挙戦だったので、現職が席巻するパワーバランスが崩れた選挙という構図にあって、投票率は少なくとも上回るのがセオリーのはずでした。新聞を購読しない人が世帯が増えてはいるものの、今期からはネット選挙になったので候補者情報は逆に入手しやすくなり、当時は入居仕立てだった大規模マンションの世帯も定着、候補者は早くからせっせとと資料を配布しており、地域情報の収集はされています。
そうなってくると、このところの低投票率の傾向は、候補者に魅力がなかったのかの議論でなく、どうもほかに原因が生じてきたのではないかと、考えたほうが答えが見えてきそうです。現職県議が欠けたという時期にあたる選挙で、働き盛りの年齢の男性元市議、メディアに登場も多い女性元市議もいて、両野党候補にはこれまでにないほど応援が多く駆けつけ、または女性候補には若き男性サポーターも累々、投票行動のモチベーションで問題視される若い有権者でも関心を引き付ける要素は詰まっていたわけです。となると、女性有権者の投票率がかなり低くなってきていたことに原因を探ってみべきでは、というのが 海津にいなの考えです。
我孫子の男性はリベラルで真面目で、女性だからやらせてみようと柔軟な思考ができる人が多いので、他自治体に先駆けて女性の市議、県議が当選してきたと言えます。そこで、男性のまじめな気質が投票率を高め、それに輪をかけて真面目な女性が投票率を押し上げてきた。そのような投票行動が続いてきて、我孫子は比較的高い投票率であったと思うのです。それが、3割投票率が定着してくるような変化は、政治への批判で終わるのはなく、やはり何に起因するのか分析して対処していくことが必要です。
当日有権者総計108,192人の内訳は、男52,735人、女55,457人と女性が多いのです。男性の36.90%、女性は34.13%が投票に行っています。県全体をみて、毎回の県議選に女性候補が出馬できる地域は希少なのですから女性の政治意識は低くないはずが、投票率では県平均の比較で落ちてくることが起きている可能性が考えられ、ひとつに高齢で外へ出ずらくなった方たちが増えているとの影響が考えられるのではないかという事です、なにぶん東葛一の高齢化率などと言われる以上は、我孫子市としても対策を考えなくてはいけません。
最も身近な地域のために働く人を決めるのが選挙ですから、選ばれる候補者を問題にするだけでなく、選ぶ有権者の問題もなおざりにせずに、確実に選挙に行って、市民(県民)の一人でも多くの意思を反映できるように環境を整えていくのが、民主主義のシステムを真っ当に活用する策ではないか。
◆無視されないことは大事
話は変わりますが、日本理研科学工業の大山泰弘会長の次のようなお話を知りました。
「うちの工場には知的障害をもつ二人の少女が働いています。施設に居るだけでもかまわないのに、懸命に工場で働こうとする。せかされたり、楽ではないはずあのに、働くことを選ぶのはなぜか?」、とある法要で偶然に出会ったご住職にふと尋ねたことがあったそうです。
すると、ご住職は目をまっすぐに見つめながら、
「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の四つです。
人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、そして、人から必要とされること。
愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。障害をもつ人たちが働こうとするのは、
本当の幸せを求める人間の証なのです」と言われたのだそうです。
日本理化学工業は、社員の7割が身障者という日本一のチョーク工場です。それから、会長は、「人は働くことで幸せになれる。であれば、会社は社員に『働く幸せ』をもたらす場所でなければならない」と考えるようになったのでした。
人は他の為に働くことによって、人にほめられ、人の役に立ち、人から必要とされるからこそ、生きる喜びを感じることができる、というのです。 家や施設で保護されているだけでは、この喜びを感じることはできないからです。働くことが当然の大山会長にとって、働ける幸せがいかにかけがえのないものか、その時、初めて考えさせられたというのでした。
人も会社も組織も、まわりから認められ、人として必要とされるからこそ存在しています。
人にとって一番つらく悲しいことは、無視されることです。
つづき
残念ながら投票率が最も低かった全国ワーストワンは、千葉県(37.01%)、県政史上過去最低の県平均投票率であったのが、我孫子市ではそれも割り込み、投票率は4年前より5%以上落ち込んだのです。これは、震災時であった中での上昇と比べても疑問の残るものでした。 39.27%(2007)→ 40.97%(2011)→ 35.48%(2015)と、投票率が下がったこと、市長選に続く3割台の原因は、7割近い市民が争点が見出しにくかったからだとか、候補者にシラケてしまったなどと評論家然としたコメントでは、もはや意味をなさない。我孫子においては、他市と比較して投票率が高い傾向を維持してきただけに、地域社会に変化が起きてきたのではないか、真剣に検討が必要です。無投票を回避しようとの行動を起こし、ウエーブを作ったことから見えてきたのは、何か社会構造の変化がおきていると考えなくてはならような気がしています。
◆投票率が上がるべきなのに
我孫子の統一地方選(県議)は終わり、女性県議が復活しました。
難しいとされる二人区での選挙、無所属候補が自民党順風のなかで現職県議に票差を接近させ、初当選でした。
我孫子では、現職県議(民主→維新)が一人辞職しての選挙戦だったので、現職が席巻するパワーバランスが崩れた選挙という構図にあって、投票率は少なくとも上回るのがセオリーのはずでした。新聞を購読しない人が世帯が増えてはいるものの、今期からはネット選挙になったので候補者情報は逆に入手しやすくなり、当時は入居仕立てだった大規模マンションの世帯も定着、候補者は早くからせっせとと資料を配布しており、地域情報の収集はされています。
そうなってくると、このところの低投票率の傾向は、候補者に魅力がなかったのかの議論でなく、どうもほかに原因が生じてきたのではないかと、考えたほうが答えが見えてきそうです。現職県議が欠けたという時期にあたる選挙で、働き盛りの年齢の男性元市議、メディアに登場も多い女性元市議もいて、両野党候補にはこれまでにないほど応援が多く駆けつけ、または女性候補には若き男性サポーターも累々、投票行動のモチベーションで問題視される若い有権者でも関心を引き付ける要素は詰まっていたわけです。となると、女性有権者の投票率がかなり低くなってきていたことに原因を探ってみべきでは、というのが 海津にいなの考えです。
我孫子の男性はリベラルで真面目で、女性だからやらせてみようと柔軟な思考ができる人が多いので、他自治体に先駆けて女性の市議、県議が当選してきたと言えます。そこで、男性のまじめな気質が投票率を高め、それに輪をかけて真面目な女性が投票率を押し上げてきた。そのような投票行動が続いてきて、我孫子は比較的高い投票率であったと思うのです。それが、3割投票率が定着してくるような変化は、政治への批判で終わるのはなく、やはり何に起因するのか分析して対処していくことが必要です。
当日有権者総計108,192人の内訳は、男52,735人、女55,457人と女性が多いのです。男性の36.90%、女性は34.13%が投票に行っています。県全体をみて、毎回の県議選に女性候補が出馬できる地域は希少なのですから女性の政治意識は低くないはずが、投票率では県平均の比較で落ちてくることが起きている可能性が考えられ、ひとつに高齢で外へ出ずらくなった方たちが増えているとの影響が考えられるのではないかという事です、なにぶん東葛一の高齢化率などと言われる以上は、我孫子市としても対策を考えなくてはいけません。
最も身近な地域のために働く人を決めるのが選挙ですから、選ばれる候補者を問題にするだけでなく、選ぶ有権者の問題もなおざりにせずに、確実に選挙に行って、市民(県民)の一人でも多くの意思を反映できるように環境を整えていくのが、民主主義のシステムを真っ当に活用する策ではないか。
◆無視されないことは大事
話は変わりますが、日本理研科学工業の大山泰弘会長の次のようなお話を知りました。
「うちの工場には知的障害をもつ二人の少女が働いています。施設に居るだけでもかまわないのに、懸命に工場で働こうとする。せかされたり、楽ではないはずあのに、働くことを選ぶのはなぜか?」、とある法要で偶然に出会ったご住職にふと尋ねたことがあったそうです。
すると、ご住職は目をまっすぐに見つめながら、
「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の四つです。
人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、そして、人から必要とされること。
愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。障害をもつ人たちが働こうとするのは、
本当の幸せを求める人間の証なのです」と言われたのだそうです。
日本理化学工業は、社員の7割が身障者という日本一のチョーク工場です。それから、会長は、「人は働くことで幸せになれる。であれば、会社は社員に『働く幸せ』をもたらす場所でなければならない」と考えるようになったのでした。
人は他の為に働くことによって、人にほめられ、人の役に立ち、人から必要とされるからこそ、生きる喜びを感じることができる、というのです。 家や施設で保護されているだけでは、この喜びを感じることはできないからです。働くことが当然の大山会長にとって、働ける幸せがいかにかけがえのないものか、その時、初めて考えさせられたというのでした。
人も会社も組織も、まわりから認められ、人として必要とされるからこそ存在しています。
人にとって一番つらく悲しいことは、無視されることです。
つづき
2015年04月12日
動き出すことが、打開策
今日は、県議選投票日です。
ピーター・ドラッカーは、「自ら意思決定をする勇気」が大事と語っています。『真に意味のあることとは何か』『最も重要なことは何か』という時間と仕事の観点からも集中して考えて決定する重要性を指摘しています。諦めない、そして、もっとすばらしいのが やり出す勇気だということなのではないか。
「時間がないから」「お金がないから」「もう年だから」など、できない言い訳を考えるのは一番簡単。
将来にむけて自分が諦めたらそれで終わり。生きているからこそ出来ることがあるのです。
「忙しいから」、「みんなやってるから」、「疲れてるから」とか、最も良いをカタチを目指しても、ピッタリきまる候補者、政党はなくなって、投票所へ足が向かないかもしれないが、 考えて、少しでも動き出せば、もつれた糸もすこしずつほぐれて、新しいカタチを探れるはずです。まずは、投票所へ。
ピーター・ドラッカーは、「自ら意思決定をする勇気」が大事と語っています。『真に意味のあることとは何か』『最も重要なことは何か』という時間と仕事の観点からも集中して考えて決定する重要性を指摘しています。諦めない、そして、もっとすばらしいのが やり出す勇気だということなのではないか。
「時間がないから」「お金がないから」「もう年だから」など、できない言い訳を考えるのは一番簡単。
将来にむけて自分が諦めたらそれで終わり。生きているからこそ出来ることがあるのです。
「忙しいから」、「みんなやってるから」、「疲れてるから」とか、最も良いをカタチを目指しても、ピッタリきまる候補者、政党はなくなって、投票所へ足が向かないかもしれないが、 考えて、少しでも動き出せば、もつれた糸もすこしずつほぐれて、新しいカタチを探れるはずです。まずは、投票所へ。
2015年04月11日
我孫子を育てる、芸術家、外国人、そして女性たち!
我孫子市は、白樺派ゆかりの街として知られる。柳宗悦、志賀直哉や武者小路実篤らの他、陶芸家・バーナード・リーチ、声楽家・柳兼子が主要な5人だ。女性も外国人も加わった、大正ロマンの希少な交流の場となたのだとも言える。
我孫子は、男女共同参加宣言の都市として千葉県唯一、その後に続くまちがないということに尽きるが、しかし、今回の県議選に女性の候補・水野ゆうき氏が頑張っているというのは、その一つの頼もしい挑戦だと思える。100年前に白樺派の柳夫妻がやってきたのが1914年9月だという。我孫子のまちの経済は常に、水害と治水との格闘の歴史だったから、女たちは絵馬に託した安寧な生活を手にいれるために男に変わって行商に出た。この町の経済を支えた女性たちは、家を建て、子弟を大学に行かせ、車を購入できた。女性たちも働くと、女性ならでは情報と発送も街の発展に寄与するようになる。
2015年に、無投票ならずに気勢を上げたのは女性の力でもあると、海津にいな自身は思っているし、それらは必ず伝わるものだと信じたい。支える側で生き続けるのと、自らも声を出すことの違いは何か・・・。
それは、兎も角、白樺の5人が去った後も、名をとどめてはこなかったが後に著名になる若き芸術家が「文化空間」を引き継いできた。その中の一人、志賀邸で暮らすことになった画家で、歌人の原田京平が我孫子を描き、詠でいた。今まで歴史に埋もれていた原田の生涯に光を当てる企画展が、現在、市白樺文学館で開かれている。
原田は1921(大正10)年に、我孫子の島田久兵衛別荘に移住。近所の志賀との交流が始まり、翌年春陽会に参加。23年に志賀が京都に移住後、志賀の母屋に留守番役として住む。28(昭和3)年、都内に転居するまで約7年間を我孫子で暮らした。原田は我孫子の郷土史でも紹介されていなかったが、文学館が開かれたお蔭で、ゆかりの人の資料が寄せられるようにもなり、前橋市在住の原田の孫から資料約300点の寄託を受けた。こうして、白樺派の次の世代にも着目されるようになって、我孫子の芸術家の軌跡がたどられるようになってきた。
白樺派に続く芸術家とは、画家グループ・春陽会の仲間たちで、硲(はざま)伊之助や三岸好太郎、節子夫妻らが手賀沼のスケッチなどである。原田宅に集い、我孫子は若き画家たちの文化空間になっていたのだ。それら、関係資料が約50点を展示のほか、有島武郎が志賀宛てに書き、志賀から原田に贈られたとみられる手紙や、京都・山科の志賀邸で柳宗悦らと撮った写真など白樺派との交流を示す資料が並んでの、展覧会(5月24日まで)となっている。
ただ、油絵や水墨画、スケッチ類は残されていたが、原田の我孫子時代に春陽会の展覧会へ毎回出品した絵などは見つかっていない。今回は手賀沼の風景と見られる水彩色紙を展示しているが、制作年は不明。一方、歌人としては、硲が装丁した遺歌集「雲の流れ」(36年)に我孫子の風景を詠んだ88首が収められている。
文学館学芸員の稲村さんは「詩情豊かな沼のほとりの環境は白樺派の文人らと同様に、創作活動に最適の場所だったのでは」と推測する、23歳の若い研究者の卵だ。こちらも、芸術家村・我孫子があってこその原因の結果かもしない。我孫子のまちの発展に期待が出来る要素はまだまだ多い、
まずは、選挙の投票率が高まることは、民の力の示しどころなのです!
我孫子は、男女共同参加宣言の都市として千葉県唯一、その後に続くまちがないということに尽きるが、しかし、今回の県議選に女性の候補・水野ゆうき氏が頑張っているというのは、その一つの頼もしい挑戦だと思える。100年前に白樺派の柳夫妻がやってきたのが1914年9月だという。我孫子のまちの経済は常に、水害と治水との格闘の歴史だったから、女たちは絵馬に託した安寧な生活を手にいれるために男に変わって行商に出た。この町の経済を支えた女性たちは、家を建て、子弟を大学に行かせ、車を購入できた。女性たちも働くと、女性ならでは情報と発送も街の発展に寄与するようになる。
2015年に、無投票ならずに気勢を上げたのは女性の力でもあると、海津にいな自身は思っているし、それらは必ず伝わるものだと信じたい。支える側で生き続けるのと、自らも声を出すことの違いは何か・・・。
それは、兎も角、白樺の5人が去った後も、名をとどめてはこなかったが後に著名になる若き芸術家が「文化空間」を引き継いできた。その中の一人、志賀邸で暮らすことになった画家で、歌人の原田京平が我孫子を描き、詠でいた。今まで歴史に埋もれていた原田の生涯に光を当てる企画展が、現在、市白樺文学館で開かれている。
原田は1921(大正10)年に、我孫子の島田久兵衛別荘に移住。近所の志賀との交流が始まり、翌年春陽会に参加。23年に志賀が京都に移住後、志賀の母屋に留守番役として住む。28(昭和3)年、都内に転居するまで約7年間を我孫子で暮らした。原田は我孫子の郷土史でも紹介されていなかったが、文学館が開かれたお蔭で、ゆかりの人の資料が寄せられるようにもなり、前橋市在住の原田の孫から資料約300点の寄託を受けた。こうして、白樺派の次の世代にも着目されるようになって、我孫子の芸術家の軌跡がたどられるようになってきた。
白樺派に続く芸術家とは、画家グループ・春陽会の仲間たちで、硲(はざま)伊之助や三岸好太郎、節子夫妻らが手賀沼のスケッチなどである。原田宅に集い、我孫子は若き画家たちの文化空間になっていたのだ。それら、関係資料が約50点を展示のほか、有島武郎が志賀宛てに書き、志賀から原田に贈られたとみられる手紙や、京都・山科の志賀邸で柳宗悦らと撮った写真など白樺派との交流を示す資料が並んでの、展覧会(5月24日まで)となっている。
ただ、油絵や水墨画、スケッチ類は残されていたが、原田の我孫子時代に春陽会の展覧会へ毎回出品した絵などは見つかっていない。今回は手賀沼の風景と見られる水彩色紙を展示しているが、制作年は不明。一方、歌人としては、硲が装丁した遺歌集「雲の流れ」(36年)に我孫子の風景を詠んだ88首が収められている。
文学館学芸員の稲村さんは「詩情豊かな沼のほとりの環境は白樺派の文人らと同様に、創作活動に最適の場所だったのでは」と推測する、23歳の若い研究者の卵だ。こちらも、芸術家村・我孫子があってこその原因の結果かもしない。我孫子のまちの発展に期待が出来る要素はまだまだ多い、
まずは、選挙の投票率が高まることは、民の力の示しどころなのです!
2015年04月10日
「天皇の島」を訪問される天皇陛下
戦後70年の「慰霊の旅」として、天皇、皇后両陛下は8〜9日、太平洋戦争の激戦地、西太平洋のパラオを訪問された。
戦没者慰霊を目的とした海外訪問は戦後60年の米自治領サイパン以来2回目。日米両軍約1万8000人が戦死したパラオ訪問は、両陛下の十数年来の希望で実現することになったそうです。
戦後70年を迎える事を受け、政府は今年度から10年間を遺骨収集の強化期間と位置づけ、遺骨の収容を進める方針です。しかし、終戦から70年という歳月による風化等により、遺骨の捜索・収容は過去以上に困難が予想されます。第一次大戦の戦後処理の結果、現在のパラオを含む南洋諸島は日本の委任統治領となり、第二次大戦では主要な戦場の一つとなりました。この地域における戦闘の中でも、熾烈を極めた攻防が行われたペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた事が知られています。両陛下にとっては因縁浅からぬ場所と言え、9日にペリリュー島の慰霊碑を訪問される事は、歴史的にも意義のある事です。
両陛下が訪問されるペリリュー島にいた日本軍1万人はそのほとんどが戦死し、その中には労働者として徴用されていた3000人の朝鮮人も含まれています。わずか13平方キロメートルの小島で1万人が亡くなりほぼ全滅、生き残った方は50人前後だというのでした。そして、日本国外のアジアから太平洋の広範囲な地域では、日本兵、民間人が亡くなりましたが、その半数の遺骨が未だに異国の土、あるいは海中で眠り続けています。日本政府は230万人(1937〜45年)という数字を公式に採用してきました。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との統計もでています。神風特別攻撃隊を題材にした小説、映画が話題になっている今。約4000人とされる航空特攻による戦死者以外の、229万人余はどのような最期を遂げたのか、知られないままが多いのです。
そしてなにより、遺骨収容を担う人出が不足しています。戦没者の遺骨収容事業は厚生労働省の管轄ですが、現地で収容を行う人員はボランティアがその主力になっています。多くのボランティアは、少なからぬ費用を自腹で負担している状態で、ボランティア個人や団体の意志が、遺骨収容を支えています。
約240万人の海外戦没者のうち、平成25年度末時点で収容された遺骨は127万柱。未だに113万柱が未収容のままで、このうち海没により収容困難な遺骨が30万柱(海没遺骨の扱いについては、拙稿「戦艦武蔵発見で考える海没遺骨」を参照)、住民感情など相手国事情で収容困難な遺骨が23万柱ありますが、収容可能とみられている60万柱は未だに外地で眠り続けています。
このニュースのフォロアーから、
「国民全体の問題で有り遺骨収容を一定期間は国民に義務化する事も過去を見直す良い機会 太平洋戦争の総括が出来る 残された時間は限られて来た 戦死された英霊の為にも日本人はやり遂げねば成らない!」との書き込みがされていました。なるほどです。
70周年のこの夏、安倍首相は靖国に参拝しないとは言っても、政府としてどのような総括がされるのか、世界中が注目していることでしょう。一億総懺悔、平和憲法、風化、そして、また戦争のできる国になった、じゃ浮かばれませんよ。
参照:
Yahoo Japan ニュース4/8
戦没者慰霊を目的とした海外訪問は戦後60年の米自治領サイパン以来2回目。日米両軍約1万8000人が戦死したパラオ訪問は、両陛下の十数年来の希望で実現することになったそうです。
戦後70年を迎える事を受け、政府は今年度から10年間を遺骨収集の強化期間と位置づけ、遺骨の収容を進める方針です。しかし、終戦から70年という歳月による風化等により、遺骨の捜索・収容は過去以上に困難が予想されます。第一次大戦の戦後処理の結果、現在のパラオを含む南洋諸島は日本の委任統治領となり、第二次大戦では主要な戦場の一つとなりました。この地域における戦闘の中でも、熾烈を極めた攻防が行われたペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた事が知られています。両陛下にとっては因縁浅からぬ場所と言え、9日にペリリュー島の慰霊碑を訪問される事は、歴史的にも意義のある事です。
両陛下が訪問されるペリリュー島にいた日本軍1万人はそのほとんどが戦死し、その中には労働者として徴用されていた3000人の朝鮮人も含まれています。わずか13平方キロメートルの小島で1万人が亡くなりほぼ全滅、生き残った方は50人前後だというのでした。そして、日本国外のアジアから太平洋の広範囲な地域では、日本兵、民間人が亡くなりましたが、その半数の遺骨が未だに異国の土、あるいは海中で眠り続けています。日本政府は230万人(1937〜45年)という数字を公式に採用してきました。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との統計もでています。神風特別攻撃隊を題材にした小説、映画が話題になっている今。約4000人とされる航空特攻による戦死者以外の、229万人余はどのような最期を遂げたのか、知られないままが多いのです。
そしてなにより、遺骨収容を担う人出が不足しています。戦没者の遺骨収容事業は厚生労働省の管轄ですが、現地で収容を行う人員はボランティアがその主力になっています。多くのボランティアは、少なからぬ費用を自腹で負担している状態で、ボランティア個人や団体の意志が、遺骨収容を支えています。
約240万人の海外戦没者のうち、平成25年度末時点で収容された遺骨は127万柱。未だに113万柱が未収容のままで、このうち海没により収容困難な遺骨が30万柱(海没遺骨の扱いについては、拙稿「戦艦武蔵発見で考える海没遺骨」を参照)、住民感情など相手国事情で収容困難な遺骨が23万柱ありますが、収容可能とみられている60万柱は未だに外地で眠り続けています。
このニュースのフォロアーから、
「国民全体の問題で有り遺骨収容を一定期間は国民に義務化する事も過去を見直す良い機会 太平洋戦争の総括が出来る 残された時間は限られて来た 戦死された英霊の為にも日本人はやり遂げねば成らない!」との書き込みがされていました。なるほどです。
70周年のこの夏、安倍首相は靖国に参拝しないとは言っても、政府としてどのような総括がされるのか、世界中が注目していることでしょう。一億総懺悔、平和憲法、風化、そして、また戦争のできる国になった、じゃ浮かばれませんよ。
参照:
Yahoo Japan ニュース4/8
2015年04月09日
ピンチはチャンス
雪のちらついた昨日と一転しての快晴、9日午前から東京株式市場は大幅続伸です!!
2000年4月以来、15年ぶりだとの事です。日経平均株価の前日比上げ幅は一時、100円を超え、1万9900円台まで上昇、「2万円回復」の声も益々高まって、ツキも運も取り込みたい、待ちに待った時期になってきました。春こい、早く来いの 春爛漫、2万円まで100円を切りましたので、加速するや楽しみです。
さて、日本中を見渡すとコンビニの出店は、すさまじい。店舗数は全国で約5万4千店に達するそうで、激しい競争で、既存店ベースの売上高は、業界全体でみると前年割れだとも言われる。そんな中でも業界首位のセブンイレブンは、既存店売上高が前年比プラス、営業利益だけでなく、1店あたりの1日平均売上高でも他社を引き離している。我孫子も、セブン&アイ・ホールディングスのコンビニ、スパーがあってこその生活スタイルになっています。今やスーパー、コンビニは生活になくてはならない。結婚しなくても、困らなくなっているくらい、痒いところにも手が届くという品揃えだ。味噌汁も、おにぎりも、ゆりかごから墓場まで、コンビニになんでもあると思うようになった。今や、高齢者福祉も取り込んでいこうとの意欲をみせるコンビニ業界は、そこまでに進化して、百貨店は外国人観光客にシフトせざるを得ないのもなるほどです。
そのセブン&アイ・ホールディングス会長・鈴木敏文氏は、次のようなことを言われていました。
「いま消費が冷え込んでいるといわれていますが、そうは言っても大多数の消費者はお金がなくて困っているわけではありません。先行きへの不安から無駄な消費をせずに、貯蓄に回しているというのが実情です。人間の欲望は無限で、きっかけさえあれば、どこかで発散したいという心理があるはずです。
だからこそ、人の心を動かすイベントが重要で、それを行うことで新たな需要を喚起し得る可能性があるのです。 消費マーケットの問題は「経済学」の分野から、「心理学」の分野に移っているのです。
いまは不況で売れないといいますが、実は欲しいものがない時代ではないか。」とのことです。
今や他のコンビニを大きく差をつけた源泉は、商品開発力だといわれます。自社ブランド「セブンプレミアム」の売上高は、グループ全体で前年比21%増の8150億円。10億円以上売り上げる商品が144もある。しかも商品の生産・開発には、大手メーカーが携わる例が多い。セブンの販売・宣伝力は抜群で、ここに商品を置けるか置けないかで、売り上げが全く違ってくるからだ。 大手ビールの関係者は「セブンの存在感は別格だ。」とというので、これまでセブン向けの共同企画商品を開発していなかったが、それも見過ごせなくなっているということで前例が覆され、コカコーラでもセブン向けの商品が作られていくことになるという。
市民の消費行動が心理によって動く時代になってきたというのであれば、市民を大切にしてきた街にとっても大きなチャンスの到来になるかもしれないのです。その意味では、見つけ出し、作り、育て上げていけるなら我孫子にもチャンスは呼び込めることになるのです。いまの時代に必要なのは、市民の立場で検討して、少しでも実行していくことです。動き出す、チャンスを作ることです。貧乏度ランキング2位、地下値下がり率全国1位、ピンチだからチャンスに変えられる!?
たとえば、わがままに思えても、市民・県民・国民の要求に応えられるようなシステムを作り上げていく。
例えば、若いママの意見は、ちゃりんこに子供たちを安全に乗せる自転車の開発、されました。それこそかつては電車に子供連れで乗ると うるさい と言われるといけないからと、女子供は低姿勢で端にいた時代(「愚妻」などと夫が謙遜して憚らない、そういう時代)を、ここまで変えてきたという訳です。消費者の最前線にいた女性の消費行動、感性がビジネスにも大事にされるようになったという事でしょう。おばあちゃんと呼んだら失礼な若さとハリでお洒落して、女性はいくつになっても消費のカギを握っているのです。
これからは、それらにどう応え、人口を増やして、市民の満足感を満たすという、重要課題に結びつけられるか、スタートラインには同時に並べるのチャンスです。
街は変わり続けます、完成形はない。ピンチでも 考えること、やってみること、それを諦めた街は、終末を迎えるとうこと、です。観光学のゼミの教授は「村じまい」の話を教えてくれました。もちろん、観光のできない、観光にはむかない街(村)もあるのです。どこでも「できる街」になれるものでもないのです。しかし、私の思うところ、我孫子は磨けば光る珠を秘めていると思うのです、が。
そういう街の政治の一つが決まる、県議選投票日が間近かです、しっかり決めて前に進んでいきましょう!
つづき
参考:
『ビジネス革新の極意』(鈴木敏文&齋藤孝)マガジンハウス
2000年4月以来、15年ぶりだとの事です。日経平均株価の前日比上げ幅は一時、100円を超え、1万9900円台まで上昇、「2万円回復」の声も益々高まって、ツキも運も取り込みたい、待ちに待った時期になってきました。春こい、早く来いの 春爛漫、2万円まで100円を切りましたので、加速するや楽しみです。
さて、日本中を見渡すとコンビニの出店は、すさまじい。店舗数は全国で約5万4千店に達するそうで、激しい競争で、既存店ベースの売上高は、業界全体でみると前年割れだとも言われる。そんな中でも業界首位のセブンイレブンは、既存店売上高が前年比プラス、営業利益だけでなく、1店あたりの1日平均売上高でも他社を引き離している。我孫子も、セブン&アイ・ホールディングスのコンビニ、スパーがあってこその生活スタイルになっています。今やスーパー、コンビニは生活になくてはならない。結婚しなくても、困らなくなっているくらい、痒いところにも手が届くという品揃えだ。味噌汁も、おにぎりも、ゆりかごから墓場まで、コンビニになんでもあると思うようになった。今や、高齢者福祉も取り込んでいこうとの意欲をみせるコンビニ業界は、そこまでに進化して、百貨店は外国人観光客にシフトせざるを得ないのもなるほどです。
そのセブン&アイ・ホールディングス会長・鈴木敏文氏は、次のようなことを言われていました。
「いま消費が冷え込んでいるといわれていますが、そうは言っても大多数の消費者はお金がなくて困っているわけではありません。先行きへの不安から無駄な消費をせずに、貯蓄に回しているというのが実情です。人間の欲望は無限で、きっかけさえあれば、どこかで発散したいという心理があるはずです。
だからこそ、人の心を動かすイベントが重要で、それを行うことで新たな需要を喚起し得る可能性があるのです。 消費マーケットの問題は「経済学」の分野から、「心理学」の分野に移っているのです。
いまは不況で売れないといいますが、実は欲しいものがない時代ではないか。」とのことです。
今や他のコンビニを大きく差をつけた源泉は、商品開発力だといわれます。自社ブランド「セブンプレミアム」の売上高は、グループ全体で前年比21%増の8150億円。10億円以上売り上げる商品が144もある。しかも商品の生産・開発には、大手メーカーが携わる例が多い。セブンの販売・宣伝力は抜群で、ここに商品を置けるか置けないかで、売り上げが全く違ってくるからだ。 大手ビールの関係者は「セブンの存在感は別格だ。」とというので、これまでセブン向けの共同企画商品を開発していなかったが、それも見過ごせなくなっているということで前例が覆され、コカコーラでもセブン向けの商品が作られていくことになるという。
市民の消費行動が心理によって動く時代になってきたというのであれば、市民を大切にしてきた街にとっても大きなチャンスの到来になるかもしれないのです。その意味では、見つけ出し、作り、育て上げていけるなら我孫子にもチャンスは呼び込めることになるのです。いまの時代に必要なのは、市民の立場で検討して、少しでも実行していくことです。動き出す、チャンスを作ることです。貧乏度ランキング2位、地下値下がり率全国1位、ピンチだからチャンスに変えられる!?
たとえば、わがままに思えても、市民・県民・国民の要求に応えられるようなシステムを作り上げていく。
例えば、若いママの意見は、ちゃりんこに子供たちを安全に乗せる自転車の開発、されました。それこそかつては電車に子供連れで乗ると うるさい と言われるといけないからと、女子供は低姿勢で端にいた時代(「愚妻」などと夫が謙遜して憚らない、そういう時代)を、ここまで変えてきたという訳です。消費者の最前線にいた女性の消費行動、感性がビジネスにも大事にされるようになったという事でしょう。おばあちゃんと呼んだら失礼な若さとハリでお洒落して、女性はいくつになっても消費のカギを握っているのです。
これからは、それらにどう応え、人口を増やして、市民の満足感を満たすという、重要課題に結びつけられるか、スタートラインには同時に並べるのチャンスです。
街は変わり続けます、完成形はない。ピンチでも 考えること、やってみること、それを諦めた街は、終末を迎えるとうこと、です。観光学のゼミの教授は「村じまい」の話を教えてくれました。もちろん、観光のできない、観光にはむかない街(村)もあるのです。どこでも「できる街」になれるものでもないのです。しかし、私の思うところ、我孫子は磨けば光る珠を秘めていると思うのです、が。
そういう街の政治の一つが決まる、県議選投票日が間近かです、しっかり決めて前に進んでいきましょう!
つづき
参考:
『ビジネス革新の極意』(鈴木敏文&齋藤孝)マガジンハウス
2015年04月08日
道徳は「特別の教科」に(平成30年度より)
文部科学省は先月13日、平成30年度以降に教科化される小中学校の道徳をめぐる学習指導要領の改定案について、2月4日〜3月5日の期間で実施していた意見公募(パブリックコメント)を集計した。文科省は寄せられた意見を改正案に反映した新指導要領を月内に告示する方針。道徳は「特別の教科」として小学校で30年度、中学校では31年度から導入される見通し。文科省は今回の改正案で、教育内容を「正直、誠実」「感動、畏敬」などキーワードごとに示したり、小学校低学年から教材で国を愛する心を取り上げたりするなど記載を大幅に変更。こうした工夫について、「分かりやすくてよい」「改善された」などと評価する声があった。
評価は記述式で行われるが、「評価を記入するからこそ、意識して指導に当たることができるようになる」との賛成意見がある一方、「教師の求める発言をする子供が増える。道徳は本音で語れる場とすることが重要」との指摘もあった。
意見公募には、国内を中心に5002人から計5993件の意見が寄せられた。教科化によって「健全な社会秩序が維持され、伝承される」などの賛成意見が出た一方、「一定の価値観や規範意識の押しつけにつながることが危惧される」などの反対意見も寄せられた。
賛成意見では、子供たちへの教育の観点からだけでなく、教科化によって、教員の能力を高め、学校教育の質の向上を期待する声が目立った。具体的には「教師が子供とともに学ぶことが必要」「多くの教員が道徳の授業のあり方を考えることとなり、授業の質にも目が向けられる」などの意見があった。
一方、反対の立場からは「偏狭なナショナリズムにつながる」「国の考え方を子供に植え付ける危険性が極めて高い」などの意見がみられた。「道徳は普段の生活などから学ぶもので、教科として学ぶものではない」「現行の制度でも十分に実施できる」などと教科化することへの疑問も目立った。
戦前に、千葉では学校教育に関する県の干渉で教師への弾圧が起きた時代があった。自由主義的教育を推進して、我孫子にも当時に熱心な白樺教師らが絵画教育に取り組むなど、新しい教育を取り入れる機運が盛り上がった。しかし、その中でも目立った存在であった教師が手塚岸衛だった。1919年に千葉師範学校附属小学校に任ぜられると、教育の画一性を廃し、子どもの自発性、自主性を最大限に発揮させるという自由教育を提唱した。その名は、全国に知られるようになっていったが、1926年、県大多喜中学校校長となると校長排斥運動が起こり、辞職に追い込まれる。当時、千葉県は軍の力も強かったため、1928年、東京に移り、幼稚園・小学校・中学校からなる自由ヶ丘学園を創立する。その後に自由ヶ丘学園の幼稚園・小学校は後にトモエ学園(窓際のトトちゃんのモデルとなった学校)となったよいうことだ。
参考:産経新聞 3月13日
評価は記述式で行われるが、「評価を記入するからこそ、意識して指導に当たることができるようになる」との賛成意見がある一方、「教師の求める発言をする子供が増える。道徳は本音で語れる場とすることが重要」との指摘もあった。
意見公募には、国内を中心に5002人から計5993件の意見が寄せられた。教科化によって「健全な社会秩序が維持され、伝承される」などの賛成意見が出た一方、「一定の価値観や規範意識の押しつけにつながることが危惧される」などの反対意見も寄せられた。
賛成意見では、子供たちへの教育の観点からだけでなく、教科化によって、教員の能力を高め、学校教育の質の向上を期待する声が目立った。具体的には「教師が子供とともに学ぶことが必要」「多くの教員が道徳の授業のあり方を考えることとなり、授業の質にも目が向けられる」などの意見があった。
一方、反対の立場からは「偏狭なナショナリズムにつながる」「国の考え方を子供に植え付ける危険性が極めて高い」などの意見がみられた。「道徳は普段の生活などから学ぶもので、教科として学ぶものではない」「現行の制度でも十分に実施できる」などと教科化することへの疑問も目立った。
戦前に、千葉では学校教育に関する県の干渉で教師への弾圧が起きた時代があった。自由主義的教育を推進して、我孫子にも当時に熱心な白樺教師らが絵画教育に取り組むなど、新しい教育を取り入れる機運が盛り上がった。しかし、その中でも目立った存在であった教師が手塚岸衛だった。1919年に千葉師範学校附属小学校に任ぜられると、教育の画一性を廃し、子どもの自発性、自主性を最大限に発揮させるという自由教育を提唱した。その名は、全国に知られるようになっていったが、1926年、県大多喜中学校校長となると校長排斥運動が起こり、辞職に追い込まれる。当時、千葉県は軍の力も強かったため、1928年、東京に移り、幼稚園・小学校・中学校からなる自由ヶ丘学園を創立する。その後に自由ヶ丘学園の幼稚園・小学校は後にトモエ学園(窓際のトトちゃんのモデルとなった学校)となったよいうことだ。
参考:産経新聞 3月13日
2015年04月07日
こどもの貧困格差、日本は先進国で最悪
子どもの貧困率は16・3%(2012年)、過去最悪の水準とはいただけない状況になっている。先月のOECDの発表によって、日本は平均値より格差が大きく貧困率は高いことも分かった。
政府は2日、子どもの貧困の解消に向けて、民間資金を活用した基金を新設すると発表した。暮らしや学習をサポートする団体への資金援助や、スポーツ・芸術面で力がある子どもを経済的に支える取り組みで、親から子への「貧困の連鎖」を断ち切ることを狙う。家計が苦しい子を支援する団体の活動費の一部などを、企業・市民の善意のお金に頼ることを想定する。財政難の中で民間資金の「呼び水」にしようとの思惑もある。支援現場から期待の声があがる一方、問題解決には国の予算を増やすことがより重要との指摘も出ている。
この日、子どもの貧困解消に官民が連携して取り組む「子供の未来応援国民運動」の発起人集会が官邸で開かれた。 発起人には安倍晋三首相のほか、元プロボクサーで児童養護施設出身の坂本博之さんや伊藤一郎・旭化成会長ら27人が名を連ねた。基金新設を盛り込んだ趣意書を採択。資金の募集方法や助成手続きなど、詳細は今後詰める。
政府は年末までに支援策の「政策パッケージ」をつくる考えを表明した。離婚後の子どもの養育費を父母間で取り決める際の弁護士のあっせんや、公営住宅の優先入居などを検討していく方向だ。基金は、企業や市民から資金を募る。生活や学習面で子どもを支援する活動をしている団体への助成のほか、スポーツ芸術分野で活動を続けたい子どもに何らかの形で費用を助成することを想定する。
国民運動ではほかに、各種の支援情報を集約したポータルサイトの整備や、シンボルマークをつくって広く協賛を呼びかけることも想定している。内閣府、文部科学省、厚生労働省と日本財団が中心に準備組織を立ち上げ、夏ごろまでに事務局を設置する方向だ。
基金については支援団体から歓迎の声があがる一方、当然ながら国の予算の増額を求める指摘もでている。
◆キーワード
<子どもの貧困率> 貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を試算して順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分(貧困線)に届かない人の割合。子どもの貧困率は、18歳未満でこの貧困線を下回る人の割合を指す。厚生労働省調査によると、子どもの貧困率は1985年は10・9%だったが、12年は過去最悪の16・3%となり、およそ6人に1人が貧困という結果となった。
参照:
朝日デジタル 4月2日
政府は2日、子どもの貧困の解消に向けて、民間資金を活用した基金を新設すると発表した。暮らしや学習をサポートする団体への資金援助や、スポーツ・芸術面で力がある子どもを経済的に支える取り組みで、親から子への「貧困の連鎖」を断ち切ることを狙う。家計が苦しい子を支援する団体の活動費の一部などを、企業・市民の善意のお金に頼ることを想定する。財政難の中で民間資金の「呼び水」にしようとの思惑もある。支援現場から期待の声があがる一方、問題解決には国の予算を増やすことがより重要との指摘も出ている。
この日、子どもの貧困解消に官民が連携して取り組む「子供の未来応援国民運動」の発起人集会が官邸で開かれた。 発起人には安倍晋三首相のほか、元プロボクサーで児童養護施設出身の坂本博之さんや伊藤一郎・旭化成会長ら27人が名を連ねた。基金新設を盛り込んだ趣意書を採択。資金の募集方法や助成手続きなど、詳細は今後詰める。
政府は年末までに支援策の「政策パッケージ」をつくる考えを表明した。離婚後の子どもの養育費を父母間で取り決める際の弁護士のあっせんや、公営住宅の優先入居などを検討していく方向だ。基金は、企業や市民から資金を募る。生活や学習面で子どもを支援する活動をしている団体への助成のほか、スポーツ芸術分野で活動を続けたい子どもに何らかの形で費用を助成することを想定する。
国民運動ではほかに、各種の支援情報を集約したポータルサイトの整備や、シンボルマークをつくって広く協賛を呼びかけることも想定している。内閣府、文部科学省、厚生労働省と日本財団が中心に準備組織を立ち上げ、夏ごろまでに事務局を設置する方向だ。
基金については支援団体から歓迎の声があがる一方、当然ながら国の予算の増額を求める指摘もでている。
◆キーワード
<子どもの貧困率> 貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を試算して順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分(貧困線)に届かない人の割合。子どもの貧困率は、18歳未満でこの貧困線を下回る人の割合を指す。厚生労働省調査によると、子どもの貧困率は1985年は10・9%だったが、12年は過去最悪の16・3%となり、およそ6人に1人が貧困という結果となった。
参照:
朝日デジタル 4月2日
2015年04月06日
福井、県議立候補者戦後最少
4月3日に告示された福井県議選の立候補者は、戦後最も少ない45人。4年前の前回選挙以降、定数が3人削減されたとはいえ、議員のなり手不足が目立っている。12選挙区のうち5選挙区で無投票になり、定数37に対する無投票当選者の割合は約30%。旧福井市・足羽郡が無投票だった1991年の65%に次いで戦後2番目に高い。県内政界、有権者からは「議員が固定化する」「マンネリだ」と“無風選挙”に危機感を抱く声が上がる。
■選ぶ権利の消失
県内第2の市で選挙区としても3番目の有権者数を抱える坂井市。定数4に対し現職4人以外の候補者は現れず、県議選で有権者7万4千人の投票先はなくなった。市内の女性(73)は「私たちには選ぶ権利があり、候補者の話をいろいろ聞いて一票を投じたい。選挙戦で争うことで発展もあるはず」と残念がる。
50代の元坂井市議は「本来、多くの候補者が出て政策論争すべきだが、合併前の旧4町のバランスなどで対立構図をつくりたくない意識が影響したのでは」と分析する。
大野市は前回に続く無投票で、昨年6月の市長選、今年2月の市議選も無投票だった。市内の女性(84)は「今の大野に活気が無い感じがして寂しい」とポツリ。建設業の男性(63)は「議員は市民の代弁者なのに、無投票ではマンネリ。候補者も選挙を勝ち抜かないとポリシーを発揮しにくい」と話す。
■実態は県の追認機関
なぜ県議のなり手が少なくなってきているのか。
「県議の仕事に魅力がない。県議会は二元代表制の一翼を担うと言っても、県の政策の“追認機関”になっている」。20〜40代前半の超党派の市町会議員でつくる「ふくい若手議員の会」のメンバーの一人は、こう指摘する。
大野市内の無職男性(66)も「県議とは何ぞやということに市民は無関心」と語り、県議会への期待感の薄さもなり手不足の背景にありそうだ。
一方で「県議に“うま味”がなくなってきている」と県内の複数の政界関係者はみる。元兵庫県議の不自然な政務活動費の支出問題などを挙げ「議員活動の透明性が厳しく求められ、“我田引水”のようなことは今はできない」と指摘する。
県議会を変革しようと出馬を模索しても、そこに「“政党の壁”が立ちはだかる」と若手議員の会のメンバー。同じ党に公認された現職で埋まっている選挙区に、仮に同じ党籍を持つ新人が出ようとしても押さえつけられてしまうという。
「野党に地方政治の次代を育てる努力が足りない」と自戒するのは民主党支援団体の関係者だ。国政の影響もあるとみられるが、自民党公認・推薦の候補者数は前回、前々回と比べてほぼ維持している一方、民主党や共産党など他党の公認・推薦候補者は半減した。
■重い三条件
選挙に不可欠とされる「地盤(地元組織)」「看板(知名度)」「かばん(資金)」も重い条件だ。
県議補選に出馬した経験のある30代男性は「県議選の初陣で当選しようと思ったら、1千万〜2千万円はかかる」。準備期間を1年以上かけるならば、スタッフの人件費などもかさむ。仮に当選したとしても「4年間の議員報酬だけでは返せない。サラリーマンが出馬するのは絶対無理」という。
男性は、知名度の“看板”は街頭演説を繰り返せば可能とするが「地盤とかばんは個人の努力ではどうしようもない」と付け加える。
組織票や資金力を持った人だけが当選する傾向が強まり、それが無投票につながって、議員の固定化、高齢化が進む。ある県内政界関係者は「ベテランを非難するわけではないが、議会を活性化するには新人や女性が起こす新風が必要」と選挙戦の重要性を語った。
参照:福井新聞社
福井新聞ONLINE 4月6日(月)16時48分配信
■選ぶ権利の消失
県内第2の市で選挙区としても3番目の有権者数を抱える坂井市。定数4に対し現職4人以外の候補者は現れず、県議選で有権者7万4千人の投票先はなくなった。市内の女性(73)は「私たちには選ぶ権利があり、候補者の話をいろいろ聞いて一票を投じたい。選挙戦で争うことで発展もあるはず」と残念がる。
50代の元坂井市議は「本来、多くの候補者が出て政策論争すべきだが、合併前の旧4町のバランスなどで対立構図をつくりたくない意識が影響したのでは」と分析する。
大野市は前回に続く無投票で、昨年6月の市長選、今年2月の市議選も無投票だった。市内の女性(84)は「今の大野に活気が無い感じがして寂しい」とポツリ。建設業の男性(63)は「議員は市民の代弁者なのに、無投票ではマンネリ。候補者も選挙を勝ち抜かないとポリシーを発揮しにくい」と話す。
■実態は県の追認機関
なぜ県議のなり手が少なくなってきているのか。
「県議の仕事に魅力がない。県議会は二元代表制の一翼を担うと言っても、県の政策の“追認機関”になっている」。20〜40代前半の超党派の市町会議員でつくる「ふくい若手議員の会」のメンバーの一人は、こう指摘する。
大野市内の無職男性(66)も「県議とは何ぞやということに市民は無関心」と語り、県議会への期待感の薄さもなり手不足の背景にありそうだ。
一方で「県議に“うま味”がなくなってきている」と県内の複数の政界関係者はみる。元兵庫県議の不自然な政務活動費の支出問題などを挙げ「議員活動の透明性が厳しく求められ、“我田引水”のようなことは今はできない」と指摘する。
県議会を変革しようと出馬を模索しても、そこに「“政党の壁”が立ちはだかる」と若手議員の会のメンバー。同じ党に公認された現職で埋まっている選挙区に、仮に同じ党籍を持つ新人が出ようとしても押さえつけられてしまうという。
「野党に地方政治の次代を育てる努力が足りない」と自戒するのは民主党支援団体の関係者だ。国政の影響もあるとみられるが、自民党公認・推薦の候補者数は前回、前々回と比べてほぼ維持している一方、民主党や共産党など他党の公認・推薦候補者は半減した。
■重い三条件
選挙に不可欠とされる「地盤(地元組織)」「看板(知名度)」「かばん(資金)」も重い条件だ。
県議補選に出馬した経験のある30代男性は「県議選の初陣で当選しようと思ったら、1千万〜2千万円はかかる」。準備期間を1年以上かけるならば、スタッフの人件費などもかさむ。仮に当選したとしても「4年間の議員報酬だけでは返せない。サラリーマンが出馬するのは絶対無理」という。
男性は、知名度の“看板”は街頭演説を繰り返せば可能とするが「地盤とかばんは個人の努力ではどうしようもない」と付け加える。
組織票や資金力を持った人だけが当選する傾向が強まり、それが無投票につながって、議員の固定化、高齢化が進む。ある県内政界関係者は「ベテランを非難するわけではないが、議会を活性化するには新人や女性が起こす新風が必要」と選挙戦の重要性を語った。
参照:福井新聞社
福井新聞ONLINE 4月6日(月)16時48分配信
2015年04月05日
無投票はダメ、「いごっそう」80歳の有言実行
統一地方選に伴って、各地で選挙が行われるが、4年前の高知県田野町議選(定数10)では、同町の西内三造さん(無所属)が80歳で初当選を果たした。無投票の公算が大きいという話を聞き、「議員は有権者の負託を受けるべき」と立候補を決意したという。西内さんは「豊富な人生経験を生かし、議会で積極的に質問したい。4年間で町民の声が反映される町政への道筋を付け、若者に後を託したい」と話した。
東京水産大(現東京海洋大)卒業後、東京・築地で魚の競り人として16年間働き、帰郷後、製材業を営んだ。1999年頃に引退してからは、家庭菜園を楽しみながら、町議会を年に7、8回傍聴していた。そこで、「議員が私見ばかり述べ、地区の声を届けていない」と、もどかしさを感じるようになったという。
妻の道さん(当時78)は猛反対したが、年齢的に1期限りで引退すると約束、「一度決めたら貫き通す、いごっそう」と根負けして送り出した。選挙運動は、町営住宅を建てる建設事業の推進や農業振興などの公約を記した紙をポスター掲示板に張っただけだが、地区の引退議員票も引き継ぎ、100票を集めて最下位当選した。町議選は地区宛のような選挙となることが多く、地域の気兼ねが働き女性候補もほぼいないという、立候補自体が難しいところがあるので順位よりは立候補への段取りができるかが勝負でもある。選管によると、新人当選者としては、記録が残る過去40年で80歳は最高齢。
県議選投票日までに、最近は期日前投票も便利になっている。一票を大切にしたい。
参照:
読売新聞 2011年4月26日
東京水産大(現東京海洋大)卒業後、東京・築地で魚の競り人として16年間働き、帰郷後、製材業を営んだ。1999年頃に引退してからは、家庭菜園を楽しみながら、町議会を年に7、8回傍聴していた。そこで、「議員が私見ばかり述べ、地区の声を届けていない」と、もどかしさを感じるようになったという。
妻の道さん(当時78)は猛反対したが、年齢的に1期限りで引退すると約束、「一度決めたら貫き通す、いごっそう」と根負けして送り出した。選挙運動は、町営住宅を建てる建設事業の推進や農業振興などの公約を記した紙をポスター掲示板に張っただけだが、地区の引退議員票も引き継ぎ、100票を集めて最下位当選した。町議選は地区宛のような選挙となることが多く、地域の気兼ねが働き女性候補もほぼいないという、立候補自体が難しいところがあるので順位よりは立候補への段取りができるかが勝負でもある。選管によると、新人当選者としては、記録が残る過去40年で80歳は最高齢。
県議選投票日までに、最近は期日前投票も便利になっている。一票を大切にしたい。
参照:
読売新聞 2011年4月26日
2015年04月04日
統一選の無投票は過去最高(21.9%)、女性候補が過去最高(11.6%)
3日告示された41道府県議選で、総定数の5分の1を超える501人が有権者の審判を受けずに既に議席を得た。道府県議選で無投票当選の比率が過去最高の21・9%に上り、香川では全41議席の約3分の2(65・9%)に当たる27議席が決定した。この結果、自民の無投票当選者は348人で前回より約3割増えた。全公認候補1319人に占める割合は26%に上った。
千葉県議選(定数95)では、20ある1人区で民主は候補者を立てず、結果、12選挙区が無投票になった。我孫子市でも無投票の可能性が噂されてもいたが、自民(現)、民主(新)の男性候補に対して、2月に水野ゆうき氏(32歳)が立候補表明して、事実上の選挙戦がスタートして各戸にチラシが配れ、街宣活動がされていた。
人口減に揺れる地方の市町村だけでなく、県庁所在地の高松市など都市部でも無投票当選が相次いだ。投票率はさがる傾向をみせるものの、無投票であれば予算がかからないからと揶揄する声はもはやない。「自民1強」の国政の勢力を無効に、多弱の野党や無所属の立候補では、資金の援助もない選挙戦で、特に1、2人区当選の可能性の難しい地区で候補者擁立に苦しんだのも一因だとされる。
■無投票6回連続
群馬県議選の北群馬郡区(定数1、吉岡町・榛東〈しんとう〉村)は1999年以来、補選も含め6回連続で無投票となった。当選した自民現職の高橋正氏(67)は「選挙で有権者の信任を得るのが本当だが、争いを好まない地域だから」と語った。
前橋市や高崎市に隣接し、ベッドタウンとして開発が進む。かつては首長経験者同士が争う激戦区だったが、旧吉岡村長を務めて県議になった故大林喬任(たかとう)氏の時代に保守系が一本化され、息子の俊一氏が地盤を引き継ぎ、親子2代にわたる無投票が4年前まで4回続いた。俊一氏の死去に伴う昨年7月の補選でも、榛東村議長だった高橋氏への候補の一本化がすんなり決まり、無投票となった。
平成の大合併の影響を指摘する声もある。北群馬郡区には5町村あったが、2006年に3町村が渋川市と合併し、吉岡町と榛東村だけが残った。首長経験者の一人は「候補者を出して争えば、二つの自治体間の関係にひびが入る」と語る。
労組などの足場が弱く、野党は民主党の全盛期でさえ候補を立てられなかった。野党幹部の一人は「新住民が増えているとはいえ、もともと保守的な地域。1人区で勝算があるとは思えない」と明かす。
島根県議選では、奥出雲町を区域とする仁多(にた)選挙区(定数1)で8回連続で無投票となった。5期連続の無投票当選を決めた自民党の絲原(いとはら)徳康氏(67)は地元で400年続く絲原家の15代当主。竹下登元首相の地元後援会を支えた父の故・義隆氏から親子2代で8期連続での無投票当選だ。
棚田で炭を焼いていた幡(はた)勇さん(85)は話す。「選挙は決まったようなものだからねえ。町議選と違い、県の話を我々がとやかく言うことはない」
■資質の判断「仰ぐべきだ」 定数15、県都でも
今回、定数が複数の都市部でも無投票が相次いだ。
定数41のうち27人が無投票で当選した香川県議選。定数に占める無投票当選者の割合は66%で全国で最も高かった。高松市選挙区(定数15)では、現職14人と新顔1人のほかに立候補の届け出はなく、全員が当選。香川県議選で県庁所在地の選挙区が無投票となったのは初めてだ。
高松市の契約社員の男性(60)は「投票の機会がないのは残念。定数内でもその人が議員にふさわしいのか、判断を仰ぐべきだ」と話した。
人口40万人を超える愛知県議選の豊田市選挙区(定数5)でも自民2、民主2、公明1の5人が無投票で当選した。前回、候補を擁立した地域政党・日本一愛知の会(会長・大村秀章知事)は大村知事が2月に各党の支援を受けて再選されたことから県議選で擁立せず、共産も同選挙区では見送った。共産の地元幹部は「適切な人材がいなかった」と話す。
■無投票にさせない出馬
一方、無投票を阻止するために立候補した候補者もいる。
1999年以来、補選を含め5回連続で無投票が続いた岐阜県議選加茂郡選挙区(定数1)。自民現職の加藤大博氏(35)に、自民を離党した元川辺町議会議長で僧侶の矢田宗雄氏(64)が挑む。「無投票阻止」を掲げる矢田氏は第一声で、「無投票が続き、若者の政治離れにつながった」と訴えた。
加茂郡7町村のうち五つは「消滅可能性都市」に名を連ねる。矢田氏は「このままでは加茂郡は消滅してしまう」と訴えた。3期目を目指す加藤氏は「課題にしっかりと対応してきた」と実績をアピールした。
自民の支持基盤が厚く、自民関係者は「2人区から99年に1人区となり、自民の公認候補に新顔が対抗する余地が全くなく、無投票が続いた」と話す。
■民主、公認候補4割減
民主は4年前の統一選から約4割も公認候補が減り、345人の擁立にとどまった。岡田克也代表は3日の会見で「候補者は多い方がいいが、結果につなげるにはやむを得ない」と語った。現職の当選を最優先し、多くの新顔を立てる余力に乏しかったのが実情だ。例えば、「民主王国」と呼ばれる北海道の道議選も、公認候補が前回の47人から32人に激減。47選挙区中、19選挙区が無投票になった。
与党で衆参の過半数を上回る議席を確保するなか、自民党はこの統一地方選を「日本を取り戻す最終決戦」と位置付ける。1人区のほか、複数区でも積極的に公認候補を立て、他党の出ばなをくじいた。
90年代以前は、政党の候補者擁立にかなり波があった。79年には、前回に大量落選した共産党が候補者を半分以下に絞り、一気に無投票が増えた。83年は、夏に比例代表制での初の参院選を控え、足場固めのために与野党が積極的に候補者を擁立。対決構図が強まり無投票が激減した。
90年代からは、地方を中心に自民党に対抗する勢力が少なかったことや、合併や人口減で、選挙区の数や定数が減り、当選のハードルが高くなったことなどから、無投票の割合は高止まりしていた。
41道府県議選で、女性候補者は379人と11・6%で、相変わらず出馬すること自体が関門だ。全候補者に占める割合は、それでも前回選挙を1・6ポイント上回る統一地方選としては過去最高となった。政党別では、共産が前回から36人増の128人で最多。党候補に占める女性の割合は約47%に達した。2位は民主の58人で、前回より18人減少した。一方、女性活躍を掲げる自民党の女性候補は3.6%、自民は48人、公明は15人、維新は9人、社民は6人で、生活と次世代は各1人です。本当の意味で女性が活躍できる社会に向けて、身近であるはずの地方政治により積極的に関心をもち、候補者の主張、声をしっかり聞いて1票を投じたいですね。
参照:
朝日デジタル、産経新聞 4月3日
千葉県議選(定数95)では、20ある1人区で民主は候補者を立てず、結果、12選挙区が無投票になった。我孫子市でも無投票の可能性が噂されてもいたが、自民(現)、民主(新)の男性候補に対して、2月に水野ゆうき氏(32歳)が立候補表明して、事実上の選挙戦がスタートして各戸にチラシが配れ、街宣活動がされていた。
人口減に揺れる地方の市町村だけでなく、県庁所在地の高松市など都市部でも無投票当選が相次いだ。投票率はさがる傾向をみせるものの、無投票であれば予算がかからないからと揶揄する声はもはやない。「自民1強」の国政の勢力を無効に、多弱の野党や無所属の立候補では、資金の援助もない選挙戦で、特に1、2人区当選の可能性の難しい地区で候補者擁立に苦しんだのも一因だとされる。
■無投票6回連続
群馬県議選の北群馬郡区(定数1、吉岡町・榛東〈しんとう〉村)は1999年以来、補選も含め6回連続で無投票となった。当選した自民現職の高橋正氏(67)は「選挙で有権者の信任を得るのが本当だが、争いを好まない地域だから」と語った。
前橋市や高崎市に隣接し、ベッドタウンとして開発が進む。かつては首長経験者同士が争う激戦区だったが、旧吉岡村長を務めて県議になった故大林喬任(たかとう)氏の時代に保守系が一本化され、息子の俊一氏が地盤を引き継ぎ、親子2代にわたる無投票が4年前まで4回続いた。俊一氏の死去に伴う昨年7月の補選でも、榛東村議長だった高橋氏への候補の一本化がすんなり決まり、無投票となった。
平成の大合併の影響を指摘する声もある。北群馬郡区には5町村あったが、2006年に3町村が渋川市と合併し、吉岡町と榛東村だけが残った。首長経験者の一人は「候補者を出して争えば、二つの自治体間の関係にひびが入る」と語る。
労組などの足場が弱く、野党は民主党の全盛期でさえ候補を立てられなかった。野党幹部の一人は「新住民が増えているとはいえ、もともと保守的な地域。1人区で勝算があるとは思えない」と明かす。
島根県議選では、奥出雲町を区域とする仁多(にた)選挙区(定数1)で8回連続で無投票となった。5期連続の無投票当選を決めた自民党の絲原(いとはら)徳康氏(67)は地元で400年続く絲原家の15代当主。竹下登元首相の地元後援会を支えた父の故・義隆氏から親子2代で8期連続での無投票当選だ。
棚田で炭を焼いていた幡(はた)勇さん(85)は話す。「選挙は決まったようなものだからねえ。町議選と違い、県の話を我々がとやかく言うことはない」
■資質の判断「仰ぐべきだ」 定数15、県都でも
今回、定数が複数の都市部でも無投票が相次いだ。
定数41のうち27人が無投票で当選した香川県議選。定数に占める無投票当選者の割合は66%で全国で最も高かった。高松市選挙区(定数15)では、現職14人と新顔1人のほかに立候補の届け出はなく、全員が当選。香川県議選で県庁所在地の選挙区が無投票となったのは初めてだ。
高松市の契約社員の男性(60)は「投票の機会がないのは残念。定数内でもその人が議員にふさわしいのか、判断を仰ぐべきだ」と話した。
人口40万人を超える愛知県議選の豊田市選挙区(定数5)でも自民2、民主2、公明1の5人が無投票で当選した。前回、候補を擁立した地域政党・日本一愛知の会(会長・大村秀章知事)は大村知事が2月に各党の支援を受けて再選されたことから県議選で擁立せず、共産も同選挙区では見送った。共産の地元幹部は「適切な人材がいなかった」と話す。
■無投票にさせない出馬
一方、無投票を阻止するために立候補した候補者もいる。
1999年以来、補選を含め5回連続で無投票が続いた岐阜県議選加茂郡選挙区(定数1)。自民現職の加藤大博氏(35)に、自民を離党した元川辺町議会議長で僧侶の矢田宗雄氏(64)が挑む。「無投票阻止」を掲げる矢田氏は第一声で、「無投票が続き、若者の政治離れにつながった」と訴えた。
加茂郡7町村のうち五つは「消滅可能性都市」に名を連ねる。矢田氏は「このままでは加茂郡は消滅してしまう」と訴えた。3期目を目指す加藤氏は「課題にしっかりと対応してきた」と実績をアピールした。
自民の支持基盤が厚く、自民関係者は「2人区から99年に1人区となり、自民の公認候補に新顔が対抗する余地が全くなく、無投票が続いた」と話す。
■民主、公認候補4割減
民主は4年前の統一選から約4割も公認候補が減り、345人の擁立にとどまった。岡田克也代表は3日の会見で「候補者は多い方がいいが、結果につなげるにはやむを得ない」と語った。現職の当選を最優先し、多くの新顔を立てる余力に乏しかったのが実情だ。例えば、「民主王国」と呼ばれる北海道の道議選も、公認候補が前回の47人から32人に激減。47選挙区中、19選挙区が無投票になった。
与党で衆参の過半数を上回る議席を確保するなか、自民党はこの統一地方選を「日本を取り戻す最終決戦」と位置付ける。1人区のほか、複数区でも積極的に公認候補を立て、他党の出ばなをくじいた。
90年代以前は、政党の候補者擁立にかなり波があった。79年には、前回に大量落選した共産党が候補者を半分以下に絞り、一気に無投票が増えた。83年は、夏に比例代表制での初の参院選を控え、足場固めのために与野党が積極的に候補者を擁立。対決構図が強まり無投票が激減した。
90年代からは、地方を中心に自民党に対抗する勢力が少なかったことや、合併や人口減で、選挙区の数や定数が減り、当選のハードルが高くなったことなどから、無投票の割合は高止まりしていた。
41道府県議選で、女性候補者は379人と11・6%で、相変わらず出馬すること自体が関門だ。全候補者に占める割合は、それでも前回選挙を1・6ポイント上回る統一地方選としては過去最高となった。政党別では、共産が前回から36人増の128人で最多。党候補に占める女性の割合は約47%に達した。2位は民主の58人で、前回より18人減少した。一方、女性活躍を掲げる自民党の女性候補は3.6%、自民は48人、公明は15人、維新は9人、社民は6人で、生活と次世代は各1人です。本当の意味で女性が活躍できる社会に向けて、身近であるはずの地方政治により積極的に関心をもち、候補者の主張、声をしっかり聞いて1票を投じたいですね。
参照:
朝日デジタル、産経新聞 4月3日
2015年04月03日
落合恵子講演会(4/11) いま、いのちから 〜3.11を改めて心に刻む〜
2011年3月11日の東日本大震災後、流山市を含む千葉県北西部はホットスポットとなり(流山市のホームページに放射線の測定値などが公開されています)、4年が経ちます。 現在でも高い放射線量が観測され、多くの市民が健康被害を心配しながら生活しています。
わたしたちが、3.11とその後の一連の出来事から考えたことはなんだったのでしょうか。 子どもたちを守り、この地で安心して住み続けるためにできること、するべきことを、改めて一緒に考えませんか?と、「地域・職域の人々とともに、安心して住み続けられるまちづくり」を標榜する東葛病院が下記の講演会を開催し、再度、考えを新たに連携していこうとの呼び掛けをしてます。
落合恵子講演会 いま、いのちから 〜3.11を改めて心に刻む〜
【日時】2015年4月11日(土) 14:30~ (開場14:00)
【場所】流山市文化会館
【共催】東葛病院被ばく医療委員会/東葛健康友の会/HPH推進委員会
【後援】流山市教育委員会
書籍販売あり、講演終了後にサイン会を行います。
【お問い合わせ】
東葛病院 被ばく医療委員会 04-7159-1011(代表) 平日9:00~16:45
Email:tk_medical_pr@tokyo-kinikai.com
※申し込み不要、どなたでも参加できます。
※資料代として 500円です。
※託児が必要な方は事前にご相談ください。
わたしたちが、3.11とその後の一連の出来事から考えたことはなんだったのでしょうか。 子どもたちを守り、この地で安心して住み続けるためにできること、するべきことを、改めて一緒に考えませんか?と、「地域・職域の人々とともに、安心して住み続けられるまちづくり」を標榜する東葛病院が下記の講演会を開催し、再度、考えを新たに連携していこうとの呼び掛けをしてます。
落合恵子講演会 いま、いのちから 〜3.11を改めて心に刻む〜
【日時】2015年4月11日(土) 14:30~ (開場14:00)
【場所】流山市文化会館
【共催】東葛病院被ばく医療委員会/東葛健康友の会/HPH推進委員会
【後援】流山市教育委員会
書籍販売あり、講演終了後にサイン会を行います。
【お問い合わせ】
東葛病院 被ばく医療委員会 04-7159-1011(代表) 平日9:00~16:45
Email:tk_medical_pr@tokyo-kinikai.com
※申し込み不要、どなたでも参加できます。
※資料代として 500円です。
※託児が必要な方は事前にご相談ください。
2015年04月02日
「観光は平和へのパスポート(Tourism;Passport to Peace)」
今年も、「きもの愛好会」では花見散策を慣行し会は三周年をお祝いした。我孫子ゴルフ場での観桜会は最高のお天気だったので多くの花見客がいたが、気象台記念公園などにも寄ってきたところ、お昼のお弁当を広げて春休みの子供たちと共に寛ぐ家族を見かけた。そして、2日には千鳥ヶ淵の桜の様子を目にして日本の春の桜の美しさを改めて観てきたが、確かに日本列島は花の国のように美しい所だと感じた。
その北上中の桜前線を追いかけるように、海外から観光客が増えて、特に中国人の花見客が増えているようだ。台湾や中国には「清明節」にあわせた連休があり、今春は台湾では4月3〜6日、中国は4〜6日が休み。この休みの前後の海外旅行先として、距離が近い日本はもともと人気がある。最近は花見が口コミで人気となり、日本人気に拍車をかけているようだ。
外務省によると、中国で3月に出した短期滞在者向けの訪日ビザは、前年の2倍近い28万人に達する見通し。春節の訪日客らに出した今年1月の25万人を上回り3月として過去最高だ。「花見の時期の日本旅行は売り切れ」と、中国の旅行会社の担当者は話す。
高島屋新宿店は、歩いて10分ほどの新宿御苑の開花状況を、英語と中国語で知らせる掲示板を設けている。御苑までの行き方を中国語などで案内する地図も配っている。裏には、和牛ミックス弁当(税込み2601円)や桜色の団子(584円)など花見向けの商品を記した。桜の樹皮を使った茶筒(1万6200円)など、高価な日本土産も併せて売り込む。
中華圏の旧正月休みで訪日客が増えた2月の大手百貨店の免税品販売が前年の約3〜4倍と好調だ。大手百貨店4社が2日発表した既存店の売上高(速報値)は、全社が前年実績を上回った。昨春の消費増税後にそろって増加したのは、確定値で減少に修正した社のあった昨年8月を除き初めて。
免税品の販売シェアは、前年の1〜2%台から今年は4〜6%台まで急伸し、いずれも過去最高を記録した。外国人客の多い三越銀座店(東京都中央区)は25%になった。中国語で商品を案内するタブレット端末を売り場に導入したり、中国人らの好みに合わせた紳士のスーツや靴下を販売したりして対応を強化。店舗全体の4分の1が外国人による買い上げで「海外旅行をする中国人が増えている。お花見の時期や10月の国慶節など今後も高まる要素はある」(広報)とみる。
店舗全体でも、三越銀座店は前年同月より24・6%増と大幅に伸びた。大丸札幌店(札幌市)は13・4%増、大丸心斎橋店(大阪市)は11・5%増、高島屋新宿店(東京都渋谷区)は7・8%増となり、外国人客の多い都心部が好調だった。外国人客が少ない地方店は苦戦が続いている。
全体の売上高は、三越伊勢丹が4・0%増、そごう・西武が2・6%増、大丸松坂屋を運営するJフロントリテイリングが1・6%増、高島屋が0・1%増だった。Jフロントは6カ月ぶりにプラスに転じた。
都内のホテルも中国人花見客で満室になっているところが多い。
プリンスホテルは日本庭園を備えた東京・高輪の三つのホテルで「桜まつり」を3月中旬から4月12日まで開催中だ。「中国からの宿泊客は、富裕層を中心に昨年より2割は増えている」と担当者は話す。
京都府や京都市が出資している「京都文化交流コンベンションビューロー」は2月、中国のインターネット検索大手「百度」の日本法人と提携した。
祇園白川など桜の名所を含む観光写真約600点を旅行サイト「百度旅行」向けに提供。写真撮影など旅行中の守るべきマナーを共同でPRすることも検討している。
「旅行者も受け入れる側も気持ち良く過ごせるようにしたい」と、ビューローの担当者は話している。
「観光は平和へのパスポート(Tourism;Passport to Peace)」とのスローガンが1966年(昭和41年)11月4日の国際連合第21回総会において翌年を国際観光年とする決議が採決された。戦争よりも平和であらんことをとの決議で、互いの国を知ることが大事であるとして、異文化・文明への共感、評価が民族間の理解を促進する国際観光は、世界平和の伸張に寄与するものとされた。海津にいなは、この精神のもとに観光の推進に取り組もうと日夜研鑽を続けているので、皆様からも我孫子の観光スポットを逐一お教えいただきたい。
http://www.asahi.com/topics/word/%E8%8A%B1%E8%A6%8B.html
参考:
2/23、3/30 朝日デジタル
その北上中の桜前線を追いかけるように、海外から観光客が増えて、特に中国人の花見客が増えているようだ。台湾や中国には「清明節」にあわせた連休があり、今春は台湾では4月3〜6日、中国は4〜6日が休み。この休みの前後の海外旅行先として、距離が近い日本はもともと人気がある。最近は花見が口コミで人気となり、日本人気に拍車をかけているようだ。
外務省によると、中国で3月に出した短期滞在者向けの訪日ビザは、前年の2倍近い28万人に達する見通し。春節の訪日客らに出した今年1月の25万人を上回り3月として過去最高だ。「花見の時期の日本旅行は売り切れ」と、中国の旅行会社の担当者は話す。
高島屋新宿店は、歩いて10分ほどの新宿御苑の開花状況を、英語と中国語で知らせる掲示板を設けている。御苑までの行き方を中国語などで案内する地図も配っている。裏には、和牛ミックス弁当(税込み2601円)や桜色の団子(584円)など花見向けの商品を記した。桜の樹皮を使った茶筒(1万6200円)など、高価な日本土産も併せて売り込む。
中華圏の旧正月休みで訪日客が増えた2月の大手百貨店の免税品販売が前年の約3〜4倍と好調だ。大手百貨店4社が2日発表した既存店の売上高(速報値)は、全社が前年実績を上回った。昨春の消費増税後にそろって増加したのは、確定値で減少に修正した社のあった昨年8月を除き初めて。
免税品の販売シェアは、前年の1〜2%台から今年は4〜6%台まで急伸し、いずれも過去最高を記録した。外国人客の多い三越銀座店(東京都中央区)は25%になった。中国語で商品を案内するタブレット端末を売り場に導入したり、中国人らの好みに合わせた紳士のスーツや靴下を販売したりして対応を強化。店舗全体の4分の1が外国人による買い上げで「海外旅行をする中国人が増えている。お花見の時期や10月の国慶節など今後も高まる要素はある」(広報)とみる。
店舗全体でも、三越銀座店は前年同月より24・6%増と大幅に伸びた。大丸札幌店(札幌市)は13・4%増、大丸心斎橋店(大阪市)は11・5%増、高島屋新宿店(東京都渋谷区)は7・8%増となり、外国人客の多い都心部が好調だった。外国人客が少ない地方店は苦戦が続いている。
全体の売上高は、三越伊勢丹が4・0%増、そごう・西武が2・6%増、大丸松坂屋を運営するJフロントリテイリングが1・6%増、高島屋が0・1%増だった。Jフロントは6カ月ぶりにプラスに転じた。
都内のホテルも中国人花見客で満室になっているところが多い。
プリンスホテルは日本庭園を備えた東京・高輪の三つのホテルで「桜まつり」を3月中旬から4月12日まで開催中だ。「中国からの宿泊客は、富裕層を中心に昨年より2割は増えている」と担当者は話す。
京都府や京都市が出資している「京都文化交流コンベンションビューロー」は2月、中国のインターネット検索大手「百度」の日本法人と提携した。
祇園白川など桜の名所を含む観光写真約600点を旅行サイト「百度旅行」向けに提供。写真撮影など旅行中の守るべきマナーを共同でPRすることも検討している。
「旅行者も受け入れる側も気持ち良く過ごせるようにしたい」と、ビューローの担当者は話している。
「観光は平和へのパスポート(Tourism;Passport to Peace)」とのスローガンが1966年(昭和41年)11月4日の国際連合第21回総会において翌年を国際観光年とする決議が採決された。戦争よりも平和であらんことをとの決議で、互いの国を知ることが大事であるとして、異文化・文明への共感、評価が民族間の理解を促進する国際観光は、世界平和の伸張に寄与するものとされた。海津にいなは、この精神のもとに観光の推進に取り組もうと日夜研鑽を続けているので、皆様からも我孫子の観光スポットを逐一お教えいただきたい。
http://www.asahi.com/topics/word/%E8%8A%B1%E8%A6%8B.html
参考:
2/23、3/30 朝日デジタル
2015年04月01日
安全のコスト
今年も4分の一が過ぎたことになる、桜は満開だが、どこかで悲劇はおき、年を重ねることは喜びばかりではない事を知る。
3月24日、ドイツのLCC(格安航空会社)であるジャーマンウィングスの旅客機がフランスの山中に墜落したのは世界に衝撃を与えた。日本人とみられる2人の搭乗者を含む乗客乗員150人の生存は絶望的とみられている。
仏検察当局は26日、ドイツ人のアンドレアス・ルビッツ副操縦士(27)が「意図的に機体を墜落させた」との見解を発表。ルビッツ氏の自宅からは「勤務不可」を指示する医師の診断書が破られた状態で発見された。日本では機長による「逆噴射」が原因となった1982年の日本航空機羽田沖墜落事故の後、精神面のチェック体制が強化されたという。
航空機乗組員の身体検査などを実施する一般財団法人航空医学研究センターはこう説明する。
「航空会社のパイロットは全員、半年もしくは年に1回、身体検査が義務付けられている。精神面の検査もあり、ペーパーではなく精神科の医師との面談となります。当然、精神面の検査で落とされる人もいます」
ジャーマン社では精神面の定期検査を行っていなかったという。事故のもう一つの原因は、操縦士がトイレに立った後、ルビッツ氏が操縦室の扉を内側からロックし「密室」をつくり出してしまったことだ。2001年の米同時多発テロ事件の後、扉の防護対策が強化されたことが仇になった。元日航機長の石津晃(こう)氏は、操縦室の少人数化を指摘する。
「昔は機長、副操縦士の他に計器を見てスイッチを操作する航空機関士や、月や星を見て航路を決める航空士の計4人がコックピットにいた。今は自動操縦の技術が進んで操縦に必要な人数が減った一方、機体の大型化で乗客は増え、操縦士にかかる責任が重くなった」
一方で、待遇面は厳しくなっているという。元日航チーフパーサーで航空評論家の秀島一生氏がこう指摘する。
「欧州メディアの論調は、LCCの厳しい労働条件が乗組員を追いつめているのではないかというもの。私が現役の頃は月間フライトタイムは最大でも80時間程度だったが、LCCでは100時間は当たり前。疲労がたまれば精神面に悪影響があるかもしれない」
元航空ジャーナル編集長の青木謙知氏もこう語る。
「競争の厳しい欧州のLCCでは操縦士でも年収300万〜400万円はざらで、高給取りではない。短距離のピストン輸送が多く、休憩時間も短くなりがちです」
今後の事故が繰り返されぬように、安さの航空競争ではなく、操縦士の待遇問題などにも捜査の目が入るように行方が注目される。
参考:
※週刊朝日 2015年4月10日号
(Yahoo ニュース最終更新:4月1日(水)7時26分)
3月24日、ドイツのLCC(格安航空会社)であるジャーマンウィングスの旅客機がフランスの山中に墜落したのは世界に衝撃を与えた。日本人とみられる2人の搭乗者を含む乗客乗員150人の生存は絶望的とみられている。
仏検察当局は26日、ドイツ人のアンドレアス・ルビッツ副操縦士(27)が「意図的に機体を墜落させた」との見解を発表。ルビッツ氏の自宅からは「勤務不可」を指示する医師の診断書が破られた状態で発見された。日本では機長による「逆噴射」が原因となった1982年の日本航空機羽田沖墜落事故の後、精神面のチェック体制が強化されたという。
航空機乗組員の身体検査などを実施する一般財団法人航空医学研究センターはこう説明する。
「航空会社のパイロットは全員、半年もしくは年に1回、身体検査が義務付けられている。精神面の検査もあり、ペーパーではなく精神科の医師との面談となります。当然、精神面の検査で落とされる人もいます」
ジャーマン社では精神面の定期検査を行っていなかったという。事故のもう一つの原因は、操縦士がトイレに立った後、ルビッツ氏が操縦室の扉を内側からロックし「密室」をつくり出してしまったことだ。2001年の米同時多発テロ事件の後、扉の防護対策が強化されたことが仇になった。元日航機長の石津晃(こう)氏は、操縦室の少人数化を指摘する。
「昔は機長、副操縦士の他に計器を見てスイッチを操作する航空機関士や、月や星を見て航路を決める航空士の計4人がコックピットにいた。今は自動操縦の技術が進んで操縦に必要な人数が減った一方、機体の大型化で乗客は増え、操縦士にかかる責任が重くなった」
一方で、待遇面は厳しくなっているという。元日航チーフパーサーで航空評論家の秀島一生氏がこう指摘する。
「欧州メディアの論調は、LCCの厳しい労働条件が乗組員を追いつめているのではないかというもの。私が現役の頃は月間フライトタイムは最大でも80時間程度だったが、LCCでは100時間は当たり前。疲労がたまれば精神面に悪影響があるかもしれない」
元航空ジャーナル編集長の青木謙知氏もこう語る。
「競争の厳しい欧州のLCCでは操縦士でも年収300万〜400万円はざらで、高給取りではない。短距離のピストン輸送が多く、休憩時間も短くなりがちです」
今後の事故が繰り返されぬように、安さの航空競争ではなく、操縦士の待遇問題などにも捜査の目が入るように行方が注目される。
参考:
※週刊朝日 2015年4月10日号
(Yahoo ニュース最終更新:4月1日(水)7時26分)