柳宋悦について書かれた本の読書会に参加した。
2013年に新書版がでた「柳宋悦 複合の美の思想」の最終章にこぎ着けた。
なんと著者の中見真理教授も参加してくださるというおまけつきだった。
白樺派の人々は、トルストイに関心が強かったとは研究がされているが、中見教授の「柳宋悦 時代と思想」(東大出版会)によって、思想史の研究によって、クロポトキンについても関心が強かったこともわかってきている。
我孫子にやってくるころと前後して、日本は軍事色を濃くしていく時期にあたり、政府は人心の統制に厳しくなっていく。1913年の警視庁官制の改正によって特別高等課は、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課として位置づけられた。特別高等警察では、特に、社会主義運動、農民運動などの左翼の政治運動や、右翼の国家主義運動などを取り締まった。
いよいよ、柳夫妻が我孫子に転居してくる1914年には、6月にサラエボ事件が起きて、これを契機に人類史上初の世界大戦(1914-1918)となっていく。日本の参戦で国際社会において認識されると同時に、ヨーロッパの文化もまた大量に日本に流入し、人道主義や民主主義といった思想も入ってきた。民主主義思想の流入とともに、この元老政治、軍部・官僚を攻撃する動きが知識人の間に広がり(憲政擁護運動)、天皇機関説(美濃部達吉)、民本主義(吉野作造))、普通選挙の実施を求める声が強まった。
ロシア革命が起きる(1917年)のに続いて、日本共産党が結成(1922年)されると、1922年から1926年にかけて警察部にも特別高等課が設けられ北海道・神奈川・愛知・京都・兵庫・山口・福岡・長崎・長野などの主要府県におかれた。特高として略称される、思想統制を行う非情な組織だ。
柳宋悦が朝鮮独立運動を鑑みて「朝鮮人を想う」との論文を発表したのが、1919年であったので、特高の監視も受けていたとのことだった。柳は、1921年に我孫子を去るが、その前年の1月に帝大経済学部森戸辰男教授が起訴され有罪判決となる「森戸事件」が起きている。大学教授へも言論弾圧がされるようになった、この事件を白樺派の同人が知らないわけがなかった。
森戸教授は、経済学部機関誌『経済学研究』創刊号にロシアの無政府主義者・クロポトキンの「パンと奪取」という論文を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表した。学内の興国同志会から「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」と攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、当時の新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪にあたると指摘がされて、森戸教授は起訴され、文部省に従った当時の東大総長山川健次郎によって休職処分となる。
もちろん、各大学の学生団体も森戸と大内を擁護し新聞・雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となった。裁判では今村力三郎を主任弁護士に原嘉道、花井卓蔵、鵜沢総明、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、「社会理想としての無政府主義」と「実行方針としての無政府主義」は峻別すべきと主張した。10月2日、大審院(当時の大審院検事局検事総長は平沼騏一郎で、立ち上がれニッポンの代表だった平沼はその甥。1月11日に興国同志会の訪問を受けてる)は上告を棄却して有罪が確定。禁錮刑となって、巣鴨監獄の独房で3ヶ月を過ごした。弁護団ばかりでなく、有島武郎や長谷川如是閑、後藤新平ら多くの文化人が森戸らを擁護し、有島とは終生変わらぬ交友を持った。有島は生前のクロポトキンに会った数少ない日本人の一人であり、白樺派に参加していたことでも知られる作家である。白樺文士たちは、クロポトキンに傾倒していたのであるから、身の危険も感じるようになっていたことだろう。おりしも、柳邸内のリーチ窯の工房が焼失するのが1919年であった。農家ような戸締りのしにくい家の作りはなく、都会の住まいかたに変えようとしたのかもしれないなどと、我孫子にやってきて10年もしないうちに次々に去っていく彼らの去就の理由を思いめぐらすことになった。