2015年02月08日

ニューギニアの話・・・

我孫子の文化を守る会の講演会にパプアニューギニア、サウジアラビアなどで公使をされていた方が講師でお話があるからと誘われて、イスラムの話も気になりますが、ニューギニアについて知りたいとの気持ちがあり、行ってきました。

1941年からの太平洋戦争で、日本軍が1942年1月22日、ニューブリテン島ラバウルに上陸、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領し、次にポートモレスビー攻略を狙った後、翌年8月にはソロモン海岸からオーエン・スタンレー山脈越えでポートモレスビーを陸路攻略する作戦とられました。飢えとマラリアの為に多くの死者を出して撤退し、その後、制海権、制空権を失い補給を絶たれ凄惨な戦場となったのでせう。ニューブリテン島の先端の港町、それがラバウルです。もと日本海軍司令部があり、山本五十六連合艦隊長官はラバウルと飛び立ち、ブーゲンビル島で撃墜され亡くなりました。ゲゲゲの鬼太郎で有名なマンガ家、水木しげる氏もニューギニア戦に従軍してそこで左腕を失っていて、そこでの体験などが漫画のもとになったと言われています。

先の戦争では約20万人の旧日本軍部隊が投入され、以後3年間にわたり戦場となり、実に18万人の将兵が亡くなったのでした。この生存率は他の戦場と比べ極めて低く、その実態は食糧、弾薬の補給がないままに無謀な行軍を継続したことにあったといわれています。実は、私の父はここから生還できた2万人の兵の一人でした。行軍についていけないほど体を壊して野戦病院に残されていたことが、生死の分かれ目になったのだということは聞かされていましたが、まさかその飢えとマラリアで亡くなるという戦場の実態を父は語りませんでした。常に亡くなった戦友の叫びを感じていたのか、夜も眠れない日々があったように思い出します。

日本の戦争の最大の敗因の一つは、兵士を天皇の赤子として切りすてるような、無謀な作戦を多々とってきたそれも浅薄な感情で忘れ去られるということではないか。米国の兵士は、数か月おきに休暇が与えられて母国に戻る余裕があったが、日本兵は行ったら死ぬまでご奉公でした。米戦死者の遺骨は放置されることがなく、葬られる措置に比べ、日本の戦後はあらゆることで戦後処理が不十分だったと言わなくてはならないです。

旧日本軍は連合軍に補給路を断たれ配給もなく、現地調達できるのは原住民が栽培する芋くらいで、他に食べ物は全くありませんでした。気温の高い中でジャングルを行軍しながら、飢えを凌ぐにも蛇やトカゲ、クモ、毛虫の類しかないありさま、中には兵士の人肉を食したのも実話としてあったというのも書物で知りました。心身の衰弱でマラリアなどの伝染病に罹りましたが、薬もなく、体力と気力が尽きた人から次々と亡くなってゆきました。つまり、戦死者の大半がこうした飢えからきた病死であり、語る戦果も空しい、遺族、関係者の中で語られるのがせいぜいでした。

今も残る遺骨は遺族、関係者の収集団が赴いていますが、その遺骨引き渡しは千鳥ヶ淵墓苑で行われ、墓苑の中にある厚生労働省の霊安室に一旦安置され、ご遣骨は年に一度、日本政府主催の納骨式をもって、墓苑に納骨されるのだということます。ニューギニアだけでなく日本国外で亡くなった旧日本軍将兵のご遺骨はいまだ多くが放置されたまま、という侘しい現実です。約240万人の戦死者のうち100万人以上のご遺骨が、放置を余儀なくされたままだとすると、現地の人々に白骨ロードと呼ばれ野ざらしにされていることは日本の人々はほとんど知られないままできたということも、せめて教科書に記すべきで、70年を節目そうしたこととも取り組んでほしいと思ったところです。70年の昔とはいえ、夫であり、兄であり、父であったその人が、異国の地で亡くなり放置されて年月を待ち続け、山と放置されたままであっていいはずはありません。

http://www.mhlw.go.jp/jigyo_shiwake/gyousei_review_sheet/2014/h25_pdf_saisyu/7-5-2.pdf#search='%E5%8E%9A%E7%94%9F%E7%9C%81+PNG+%E9%81%BA%E9%AA%A8%E5%8F%8E%E9%9B%86'
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ
日記(3399)
ニオュ(0)
歴史(0)
chiba(60)