私が子供の頃は、お正月には門に日の丸を掲げている家庭が多かった。
門松も立派に据えられて、新年の街角は清々しいものだった。
国旗や国歌について、どう思うかとメールをもらったこともあった。東日本大震災後、やり場のない気分で沈滞する日本、突如、ナデシコJAPANが世界に躍り出て、世界一を競う場に勝ち進み、盛り上がっていた頃だった。印象的なメールだったので取っておいた。
----- Original Message -----
Subject: Re: [heiwa0][08685] 国家斉唱とナデシコ
> 海津様
>
> 海津さんはオリンピックで「日の丸の国旗、君が代の国歌」についてどう考えておられるのですか。
> 私はオリンピック競技場での国旗は国際的識別以上の意味をもたないと思います。識別以上の意味が無いのに、ナショナリズムを煽るから国旗掲揚と国歌演奏に反対です。
> スポーツはそもそもが遊びが原点なのに、勝敗と記録を求めて成果至上主義に走るのは止めるべきであると思います。
> 鬼の形相をして対戦していく女性選手の表情を見ていると悲しい気持ちになります。
> 海津さん、私はあまのじゃくなのでしょうか?
>
> 石原慎太郎氏は、都教育委員会に「都立学校の式典では、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱しなければ処分する」とした、2003年10・23通達を発令(通達は法律ではないという見解もあるようですが)させた張本人です。1999年時点の石原氏の言辞を引用しているのは不適切です。
>
>> 英国でも、歌うことを強制するのは筋違いというわけでしたが、物知り(??)の石原慎太郎も「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と毎日新聞(1999年(平成11年)3月13日付)のインタビュー)言っているのです。「君が代」が流れる時、都教員が卒入学式で歌っているかどうか、ビデオ録画してチェックした都教委は仕事とは言え、学校に出向いてそのようにしたようですが、それでも、オリンピックでは、私たちの想像を絶するような厳しい練習と鍛錬を重ねてきて、ついにオリンピックという世界一の舞台でその力が認められ、表彰台に上がった時に、胸に去来する思いは国家「君が代」の歌詞などではなく、いつも陰に日向に支えてくれあ人々の顔なのでしょう。
・・・・・
人間は生きている以上は、何かしら功罪を引き起こしているので、何かの気づきがあるなら呼び掛けて
どれだけの人の関心を得られるか、社会を多少とも自然と人に負荷をかけないように変えられるか、
なのではないですか。どうしても考え方の違いはあるものだから、多数の人と違う考えを「あまのじゃく(天の邪鬼)」かと聞かれたら、別の問題でしょう。
例えば、我が子は、人間は動物を実験に使って薬、化粧品など開発し、その実験動物を廃棄していのは人間の横暴ではないかと言って、製薬会社を訴える活動のサポータをしていた。そればかりでなく、食肉の製造の過程でも、麻酔をかけるでもなく屠殺していること、それをこともなげに食べて、そのくせ余らせて大量に廃棄している事を人間の横暴だという。もちろん毛皮の製造工程についても憤慨しており、遂には本人の食べる物は、野菜、穀類だけになって、家族とは別のメニューして久しい。タンパク質を他から取らないとならない人類は、他の哺乳類以上に罪深いのだと言うように、少し人と違うが、これをあまのじゃくとも言わないだろうし、ライフスタイル、考え方の違いなのだと思うのです。
正しい見解とは、多数の意見というのでもないでしょう。それは、戦争が正しくなくともその時代に形成される多数の意見に時代は流されて言った過去が示している。後に反省すれど悔やまれる結果になるのが20世紀の戦争への加担だ。それを避けるために法律に定め、国民全体がそれえを認識した。必要に応じて変更して、改正することが出来る。けして、手続きを簡単に変更するようになることがおきてしまいわないように叡智をつくすのが、21世紀に生きる国民のひとり一人の責務だと思う。
天皇陛下は年末に、戦後70周年をきちんと戦後を振り返り、慰霊の年にしたいというようなお心持をはなされた。
羊年は「翔」の字にあるように群れて縁起がいいそうだ、
今年は春から縁起がいい年にしたいですね。