人生とは、「一引(いちひ)き 二運(にうん) 三力(さんちから)」であると言われもします。まずは「あなたを使ってあげる」と、人様に引っ張り上げてもらえる機会を得なければ、永遠に能力を発揮することはできません。そういう“引き”の機会をどうつくるか、それが人生の勝負だというのです。
それを実践した例として、フランク・ベドガーが一貫して説いている「積極的に生きる姿勢」、「情熱」を挙げます。ベドガーは怪我で野球選手から生命保険の外交員へ転身し、口下手で人見知りだったダメセールスマンから一念発起をして全米一位の保険セールスマンとなった人です。
そこで、毎日積極的に生きる、情熱的に生きるためには、まずは早起きをすることを主張したのだそうです。 朝早く起きること自体、ゆっくり寝ていたいという怠惰な心との闘いです。しかし、それに打ち克って早起きを続けた人のみが勤勉で積極的な人生を歩み、成功していくと言うのです。ベドガーは「6時クラブ」といって、毎朝6時までに起きることを周囲の人にも推奨しました。そして、早起き会で、ベドガーらが何をしていたかというと、「笑顔の筋肉運動」でした。
ベドガー自身は生まれもって情熱的だったわけではなく、「青年時代の私は無愛想で、ひねくれた性格で、人づきあいは悪く、まことにもって可愛げのない若者だった」と著書に記しています。そこで、朝にシャワーを浴びながら楽しい歌を歌ったり、鏡を見ながら愉快で明るい笑顔をつくる訓練をしました。「陰鬱な気分でいながら、愉快そうに笑うなんて、それこそ容易なことではない。しかし私は、最初の決心のとおり、毎朝、非常に苦しい努力を続けながらも、自分で自分を訓練した」との一文からも、笑顔とは気分ではなく、意思によるものだということが分かります。
ところで、やる気がなさそうに見える人は、確かに、マイナスの言葉やネガティブな行動が多いと言われます。「グチやいい訳、不平不満が多い」、「歩き方や動きがダラダラして、キビキビしていない」、「声が小さくモゾモゾ話す」、「集中力がなく、散漫」、「何事も面倒くさがる」、つまり、覇気がない人だそうです。ですから、成功する人ほど前向きに燃える人間で、周囲はその姿に共鳴共感して「おまえ、なかなかいいじゃないか」とチャンスをくれることになるそうです。やる気や情熱という覇気を前面に出すには、最初は言葉で自らを奮い立たせるしかない。ベドガーは、出来ない言い訳の前に「よし!今日も大いにやるぞ!」、「よし!大いに働くぞ!」という二語を口ぐせにしました。 笑顔を身につけようと、早起きして「笑顔の筋肉運動」をしていた。こうした情熱と笑顔があれば、何でもできるということですね。
『仕事力入門』(致知出版社)の著者の田中真澄 は「商は 笑なり 勝なり 笑顔は最大の集客力」を主張する。そのなかで、天才発明家と言われるエジソンは、色々な明言を残したが「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけ」とも言った。つまり、人は、見方や態度によって成功をつかめもするが、その見方や態度で不幸にもなるというのだ。
また、ウディ・アレンは、「アイデアは出し惜しみせずに、出し続ける人にわいて来る。情報も、出し惜しみしないで出し続ける人に、結局は集まってくる。たとえ最初はゴーストライターの仕事であろうが、目の前の仕事に一所懸命に努力すれば、やがてそれが自分の実力となる。」といっていた。
情報でもアイデアでも、出し惜しみするようなケチくさい人は大成しない。まして愚痴を言っているだけでは、先にも進まない。「長続きするたった一つの愛は片想い」だけなのだともいっていた。言い得て妙、そして月曜日もがんばろう!
我孫子に、「商を 笑を 勝をもたらそう。笑顔は最大の集客力!!!」
2014年11月30日
2014年11月29日
児童虐待防止推進月間
あと一日で終わる11月ですが、厚労省では毎年11月を「児童虐待防止推進月間」と位置づけ、さまざまな取り組みを行っています。
社会全体の問題となっている児童虐待について、子どもを守ることはもちろん、子育てに苦悩する保護者の側にも立って考えるために、働く女性たちの中でディスカッションが進行中です。
★「児童虐待防止のため、親のストレスサポート、必要ですか?」
http://k.d.combzmail.jp/t/0n48/d0ep68w0cnfk0b7rrdRsF
我孫子でも十年前に、悲しい児童虐待死の現実がありました、その反省をもって、それまでの国や県の権限を打破して市独自の対応で迅速に動こうとの対策を打つことを決めています。しかし、行政だけの力では限界もあります。市民一人一人の関心と協力は重要な支えです。
社会全体の問題となっている児童虐待について、子どもを守ることはもちろん、子育てに苦悩する保護者の側にも立って考えるために、働く女性たちの中でディスカッションが進行中です。
★「児童虐待防止のため、親のストレスサポート、必要ですか?」
http://k.d.combzmail.jp/t/0n48/d0ep68w0cnfk0b7rrdRsF
我孫子でも十年前に、悲しい児童虐待死の現実がありました、その反省をもって、それまでの国や県の権限を打破して市独自の対応で迅速に動こうとの対策を打つことを決めています。しかし、行政だけの力では限界もあります。市民一人一人の関心と協力は重要な支えです。
2014年11月28日
和紙の周辺事情、日本の技術と伝統文化
26日(日本時間27日未明)、パリで開催の政府間委員会で、日本が提案していた「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」が、2009年に先行登録していた島根県浜田市の「石州半紙」の無形文化遺産に一括登録し直しが承認された。今回のユネスコ登録は、埼玉県小川町と東秩父村の「細川紙」、岐阜県美濃市の「本美濃紙」の2件を加えて再登録したもの。国内の登録件数は22件で変わらない。
島根県は東部の出雲地方と西部の石見(いわみ)地方とに分かれており、それぞれ雲州、石州ともいう。そしてその地方で漉かれている紙を出雲和紙(出雲紙 いずものかみ)、石州和紙(石見紙 いわみのかみ)と総称する。米子駅からJR山陰本線10:45発(おき 3号)に乗って、すぐの安来(やすぎ)は島根県の最東部にある。これから島根県の南西部にある津和野まで約三時間半である。
出雲和紙には出雲民芸紙(八束郡八雲村)、広瀬和紙(能義郡広瀬町)、斐伊川和紙(飯石郡三刀屋町)がある。また、石州和紙には、那賀(なか)郡三隅町を中心に、津和野町(鹿足郡)、桜江町(邑智(おうち)郡)がその紙郷である。
歴史上、平安時代の927年(延長5)に撰進された律令の施行細則「延喜式」で、古代の製紙事情が多く収められている貴重な文献などから、約1300年もの間、手漉き和紙が漉き続き守られてきていることがわかる。江戸時代の浜田、津和野両藩は徹底した紙専売制を行い、石見紙のうちとくに石州半紙の名は広く知られた。かつては大坂商人が石州半紙を帳簿(大福帳)に使い、火災の時にいち早く井戸に投げ込んで保存を図ったといわれが、それほどその強靭な品質には信頼がおかれている証として語られている。生産の最も多い石州半紙(楮紙)は、地元で栽培された良質の楮を使用して漉かれ、その色彩はほのかな薄茶色を帯びており、緻密で強靭で光沢のある和紙である。
和紙はその上に絵や書がえがかれて始めて完成品であってそれ自体は単なる消耗品にすぎないという、和紙そのものの持つ美しさを認めない考えや、誰が漉いても同じだという、紙すき職人の技術の優劣や地方的社会の常識的な和紙の見方に対し、書きやすく、美しい紙をつくることを推奨し「楮紙は楮紙らしく」という、いわば和紙の美学をはっきり意識して明文化したのは、柳宗悦によってだといわれる。このため、和紙職人らが和紙の美しさ、真価を主張する努力を重ねてきた。
石見地方に盛んであった和紙づくりも、現在は三隅町あたりを中心にわずかに残る程度となった。しかし、先人たちから引き継がれた技術・技法を守ることの重要性を柳が説くと、それに呼応した安部栄四郎が「出雲民芸紙」として昭和43(1968)年に国の重要無形文化財の指定を受けると石州半紙技術者会(会長久保田保一・会員7名)が製造している「石州半紙」も翌年に指定されることになる。さらに、重要無形文化財の「石州半紙」を代表とする石州和紙の技術・技法を保持し、総合的振興を図ろうと、三隅町に住む職人の手で石州和紙協同組合が設立された。平成元(1989)年には、その「石州和紙」が経済産業大臣指定の「伝統的工芸品」の指定を受けている。
国際日本研究の一人である私としても、日本文化が世界的な文化遺産として認証されるかは気になるテーマだった。特に、和紙は柳宗悦も拘りの装丁本を出していて、和紙の職人らとのかかわりも深かったからだ。
以下は、時事デジタルなどのニュースから
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「和紙」のユネスコ無形文化遺産の正式登録の知らせは午前3時前。それを受け、埼玉、岐阜両県の生産地では27日、未明まで決定を待ちわびた関係者らが喜びを分かち合った。「技術が世界に認められた」「力になる」。守り続けた伝統が世界に認められ、歓喜の輪が広がった。
本美濃紙を生産する岐阜県美濃市では、登録が決まると和紙を染めた色とりどりの紙吹雪がまかれ、武藤鉄弘市長(62)や職人ら、市の施設に集まった数十人が笑顔で万歳を繰り返した。正倉院にも残る日本最古の紙の一つで、高級障子紙などに使われてきた本美濃紙。保存会の鈴木豊美副会長(62)は「両親の跡を継ぎ、伝統を残す一念でやってきた。うれしくて言葉がない。ただ先人に感謝です」と破顔した。武藤市長は「1300年続いた技を1000年先まで残すため、後継者育成の基金を作りたい」と抱負を述べた。
埼玉県東秩父村や小川町で作られる細川紙は丈夫な特性を生かし商家の大福帳やふすま紙に重用された。同村の工房では、登録の連絡を受けた技術者協会の鷹野禎三会長(79)が松本恒夫町長(67)らと固く握手し、職人らがくす玉を割った。会見した鷹野会長は「登録は宝物だ。受け継いできた技術が認められ、大変ありがたい」と、顔をほころばせた。松本町長は「登録は暮らしの中から姿を消しつつある和紙の良さを知ってもらう大きな力になる」と意気込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「民芸紙」・・・民芸運動のなかから生まれてきた各種の手漉和紙の総称。
近代の手漉和紙は二つの大きな流れをもつ。一つは、工業紙として高価に輸出された紙として、タイプライター原紙(典具帖紙(てんぐじょうし)、謄写版原紙(雁皮の薄様)、図引紙(三椏紙)である。それらは、わずかな厚さのむらや、一つのピンホールも許さない厳重な規格によって、漉く技術は限界まで洗練されたが、和紙の美しさは失われた。他の一つは障子紙、傘紙などとして日常生活に供給されたが、生産能率を上げ価格を安くし、さらに都会趣味に応じるため鉄板乾燥などの改良策を行い、原料に木材パルプなどを混入し、薬品漂白などで紙を真っ白にするなどの工法が製紙試験場等の指導で普及していった。
http://abe-eishirou.jp/index.php?id=7
このように手漉和紙本来の特色が失われる傾向に対し、知識人の間で批判はあったが、とくに昭和初期から民芸運動を活発に指導していた柳宗悦は強い危惧を示した。柳は1931年に島根県松江市で開催した新作民芸品の展示会のおりに、当時、29歳の安部栄四郎(1902‐84)の漉いた厚手の雁皮紙を賞賛したのが機縁となって、安部の東京における紙の個展や雑誌『工芸』の和紙特集(1933)などを通じ、民芸紙の指導を行った。それは、コウゾ、ガンピ、ミツマタの未晒紙、植物染紙、粗い繊維の筋などを入れた素朴な装飾の紙などで装丁、襖紙、色紙、短冊、封筒、案内状などの用途を配慮したものであった。柳はこれらの実践をもとに、自然の素材の美を発揮した和紙を主張する「和紙の美」(1933)、「和紙の教え」(1942)等を発表、この民芸紙の論考にそって寿岳文章らとの研究と実践を続けた。その後、民芸紙の試みは八尾民芸紙(富山県八尾町)、因州民芸紙(鳥取県青谷町)、琉球民芸紙(沖縄県那覇市)などと広がり、現在の和紙産地では多かれ少なかれ、民芸紙が生産されるほど一般にも普及している。
・・・・・・・・・・・・・・・
中韓の反応は・・・・悲喜こもごも
和紙の無形文化遺産登録は、紙を発明した中国、技術を伝えた韓国でも報じられた。「つまり韓国の伝統紙『楮紙』が無形文化遺産に登録されるってことだよね?」、「楮を原料とする紙は韓国固有のものだ。中国の学者たちが昔、『韓紙が一番使いやすい』と注文していた記録も残っている」「紙といえばエジプトか中国が発明したので、和紙は知らない」など、 ネット上では和紙の無形文化遺産登録を祝福する声も聞こえたが、紙を発明した国、伝播した国としては嫉妬交じりのコメントも多く見られた。
中国人学生を日本へ正式な留学生として受けいれる学校を作ったのは、柳宗悦の叔父・嘉納治五郎であった、柳自身は妻・兼子とともに朝鮮の人々に西洋音楽を演奏を通して伝え、また朝鮮手工芸の美を讃え、保持する重要性を説いた。この三者が我孫子の地に別荘を構えて両隣に住んでいたというのは、もっと知られてもいいことだろう。
参照:
・時事デジタル(2014/11/27-05:36)
・RecordChina http://www.recordchina.co.jp/a96581.html
・世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社
島根県は東部の出雲地方と西部の石見(いわみ)地方とに分かれており、それぞれ雲州、石州ともいう。そしてその地方で漉かれている紙を出雲和紙(出雲紙 いずものかみ)、石州和紙(石見紙 いわみのかみ)と総称する。米子駅からJR山陰本線10:45発(おき 3号)に乗って、すぐの安来(やすぎ)は島根県の最東部にある。これから島根県の南西部にある津和野まで約三時間半である。
出雲和紙には出雲民芸紙(八束郡八雲村)、広瀬和紙(能義郡広瀬町)、斐伊川和紙(飯石郡三刀屋町)がある。また、石州和紙には、那賀(なか)郡三隅町を中心に、津和野町(鹿足郡)、桜江町(邑智(おうち)郡)がその紙郷である。
歴史上、平安時代の927年(延長5)に撰進された律令の施行細則「延喜式」で、古代の製紙事情が多く収められている貴重な文献などから、約1300年もの間、手漉き和紙が漉き続き守られてきていることがわかる。江戸時代の浜田、津和野両藩は徹底した紙専売制を行い、石見紙のうちとくに石州半紙の名は広く知られた。かつては大坂商人が石州半紙を帳簿(大福帳)に使い、火災の時にいち早く井戸に投げ込んで保存を図ったといわれが、それほどその強靭な品質には信頼がおかれている証として語られている。生産の最も多い石州半紙(楮紙)は、地元で栽培された良質の楮を使用して漉かれ、その色彩はほのかな薄茶色を帯びており、緻密で強靭で光沢のある和紙である。
和紙はその上に絵や書がえがかれて始めて完成品であってそれ自体は単なる消耗品にすぎないという、和紙そのものの持つ美しさを認めない考えや、誰が漉いても同じだという、紙すき職人の技術の優劣や地方的社会の常識的な和紙の見方に対し、書きやすく、美しい紙をつくることを推奨し「楮紙は楮紙らしく」という、いわば和紙の美学をはっきり意識して明文化したのは、柳宗悦によってだといわれる。このため、和紙職人らが和紙の美しさ、真価を主張する努力を重ねてきた。
石見地方に盛んであった和紙づくりも、現在は三隅町あたりを中心にわずかに残る程度となった。しかし、先人たちから引き継がれた技術・技法を守ることの重要性を柳が説くと、それに呼応した安部栄四郎が「出雲民芸紙」として昭和43(1968)年に国の重要無形文化財の指定を受けると石州半紙技術者会(会長久保田保一・会員7名)が製造している「石州半紙」も翌年に指定されることになる。さらに、重要無形文化財の「石州半紙」を代表とする石州和紙の技術・技法を保持し、総合的振興を図ろうと、三隅町に住む職人の手で石州和紙協同組合が設立された。平成元(1989)年には、その「石州和紙」が経済産業大臣指定の「伝統的工芸品」の指定を受けている。
国際日本研究の一人である私としても、日本文化が世界的な文化遺産として認証されるかは気になるテーマだった。特に、和紙は柳宗悦も拘りの装丁本を出していて、和紙の職人らとのかかわりも深かったからだ。
以下は、時事デジタルなどのニュースから
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「和紙」のユネスコ無形文化遺産の正式登録の知らせは午前3時前。それを受け、埼玉、岐阜両県の生産地では27日、未明まで決定を待ちわびた関係者らが喜びを分かち合った。「技術が世界に認められた」「力になる」。守り続けた伝統が世界に認められ、歓喜の輪が広がった。
本美濃紙を生産する岐阜県美濃市では、登録が決まると和紙を染めた色とりどりの紙吹雪がまかれ、武藤鉄弘市長(62)や職人ら、市の施設に集まった数十人が笑顔で万歳を繰り返した。正倉院にも残る日本最古の紙の一つで、高級障子紙などに使われてきた本美濃紙。保存会の鈴木豊美副会長(62)は「両親の跡を継ぎ、伝統を残す一念でやってきた。うれしくて言葉がない。ただ先人に感謝です」と破顔した。武藤市長は「1300年続いた技を1000年先まで残すため、後継者育成の基金を作りたい」と抱負を述べた。
埼玉県東秩父村や小川町で作られる細川紙は丈夫な特性を生かし商家の大福帳やふすま紙に重用された。同村の工房では、登録の連絡を受けた技術者協会の鷹野禎三会長(79)が松本恒夫町長(67)らと固く握手し、職人らがくす玉を割った。会見した鷹野会長は「登録は宝物だ。受け継いできた技術が認められ、大変ありがたい」と、顔をほころばせた。松本町長は「登録は暮らしの中から姿を消しつつある和紙の良さを知ってもらう大きな力になる」と意気込んだ。
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「民芸紙」・・・民芸運動のなかから生まれてきた各種の手漉和紙の総称。
近代の手漉和紙は二つの大きな流れをもつ。一つは、工業紙として高価に輸出された紙として、タイプライター原紙(典具帖紙(てんぐじょうし)、謄写版原紙(雁皮の薄様)、図引紙(三椏紙)である。それらは、わずかな厚さのむらや、一つのピンホールも許さない厳重な規格によって、漉く技術は限界まで洗練されたが、和紙の美しさは失われた。他の一つは障子紙、傘紙などとして日常生活に供給されたが、生産能率を上げ価格を安くし、さらに都会趣味に応じるため鉄板乾燥などの改良策を行い、原料に木材パルプなどを混入し、薬品漂白などで紙を真っ白にするなどの工法が製紙試験場等の指導で普及していった。
http://abe-eishirou.jp/index.php?id=7
このように手漉和紙本来の特色が失われる傾向に対し、知識人の間で批判はあったが、とくに昭和初期から民芸運動を活発に指導していた柳宗悦は強い危惧を示した。柳は1931年に島根県松江市で開催した新作民芸品の展示会のおりに、当時、29歳の安部栄四郎(1902‐84)の漉いた厚手の雁皮紙を賞賛したのが機縁となって、安部の東京における紙の個展や雑誌『工芸』の和紙特集(1933)などを通じ、民芸紙の指導を行った。それは、コウゾ、ガンピ、ミツマタの未晒紙、植物染紙、粗い繊維の筋などを入れた素朴な装飾の紙などで装丁、襖紙、色紙、短冊、封筒、案内状などの用途を配慮したものであった。柳はこれらの実践をもとに、自然の素材の美を発揮した和紙を主張する「和紙の美」(1933)、「和紙の教え」(1942)等を発表、この民芸紙の論考にそって寿岳文章らとの研究と実践を続けた。その後、民芸紙の試みは八尾民芸紙(富山県八尾町)、因州民芸紙(鳥取県青谷町)、琉球民芸紙(沖縄県那覇市)などと広がり、現在の和紙産地では多かれ少なかれ、民芸紙が生産されるほど一般にも普及している。
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中韓の反応は・・・・悲喜こもごも
和紙の無形文化遺産登録は、紙を発明した中国、技術を伝えた韓国でも報じられた。「つまり韓国の伝統紙『楮紙』が無形文化遺産に登録されるってことだよね?」、「楮を原料とする紙は韓国固有のものだ。中国の学者たちが昔、『韓紙が一番使いやすい』と注文していた記録も残っている」「紙といえばエジプトか中国が発明したので、和紙は知らない」など、 ネット上では和紙の無形文化遺産登録を祝福する声も聞こえたが、紙を発明した国、伝播した国としては嫉妬交じりのコメントも多く見られた。
中国人学生を日本へ正式な留学生として受けいれる学校を作ったのは、柳宗悦の叔父・嘉納治五郎であった、柳自身は妻・兼子とともに朝鮮の人々に西洋音楽を演奏を通して伝え、また朝鮮手工芸の美を讃え、保持する重要性を説いた。この三者が我孫子の地に別荘を構えて両隣に住んでいたというのは、もっと知られてもいいことだろう。
参照:
・時事デジタル(2014/11/27-05:36)
・RecordChina http://www.recordchina.co.jp/a96581.html
・世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社
2014年11月27日
和紙の世界無形文化遺産登録、その陰に柳宗悦の民藝運動
昨年の「和食」に続き「和紙 日本の手漉和紙技術」を無形文化遺産に登録されることが27日早朝に登録決定した。2年連続、国連教育科学文化機関(フランス・パリのユネスコ本部)が政府間委員会を開き、日本政府が推薦した「和紙」を登録決定した。文化庁は「日本の文化や伝統工芸の水準の高さを国際社会にアピールする原動力にしたい」と期待している。
今回登録された「和紙」は、国の重要無形文化財に指定されている「石州半紙(せきしゅうばんし)」(島根県浜田市)と「本美濃紙」(岐阜県美濃市)、「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)の3紙の技術で構成。職人らでつくる保存団体が、原料にクワ科の植物である「楮(こうぞ)」の樹皮のみを用いる伝統的な製法を守り伝えている。
石州半紙は、背でに2009年に単独で無形文化遺産になっていたのは、柳宗悦の民藝運動の努力があったとも私などは考える。江戸時代に入ってからは津和野・浜田両藩において徹底した紙専売制を行い、石州和紙の中で特に石州半紙の名は広く知られるようになった。初期の頃は様々な材料を用い、紙の大きさも様々であったが、江戸時代に入って材料、大きさともに統一されるようになり、生産性が飛躍的に向上した。一時期は6377戸を数えるほどであった和紙製造も戦中戦後にかけて急速に衰えていった。柳は、先人から代々伝わってきた文化だと評価、その指導にも力をいれた。特に、「出雲民芸紙」との繋がりが知られており、和紙研究家の寿岳文章らとともに調査研究をおこない、和紙の原点ともいえる正倉院宝物紙を復元して漉くことにも成功した。1968年、重要無形文化財に認定されました。この伝統技術をもつ安部栄四郎は、文化庁から雁皮紙を漉く伝統的技術を高く評価、「人間国宝」に指定された。なお、重要無形文化財の和紙には、他に、石州半紙(島根県)、本美濃紙(岐阜県)、細川紙(埼玉県)があった。石州半紙では石州和紙協同組合を設立、1969年に重要無形文化財、1989年に伝統的工芸品の指定を受けることに繋がった。2009年、ユネスコの無形文化遺産の登録が開始された初年に先行登録されていた。
http://abe-eishirou.jp/index.php?id=11
本美濃紙は2011年に登録を目指したが、石州半紙との類似性を指摘され登録が見送られた。そこで、政府は13年に本美濃紙と細川紙を追加し、名称を「和紙」として推薦し直した。ユネスコの補助機関が事前審査を行い、無形文化遺産に登録するよう今年10月に勧告していた。そのため、今回の「和紙」は石州半紙を拡張した形になるため、件数としては増えない。
文化庁によると、政府間委員会では、丈夫で柔らかい和紙の特質だけでなく、(1)後継者の育成(2)学校での体験事業(3)楮の栽培促進−など地域で保存活動が進められていることも、高く評価されたとみられる。
無形文化遺産は「世界遺産」や「記憶遺産」と並ぶユネスコの遺産事業の一つで、11月25日現在、世界で281件が登録。日本では「能楽」「歌舞伎」「京都祇園祭の山鉾(ぼこ)行事」と昨年の「和食」で22件となった。
「京都絞り工芸館」(京都市中京区)運営の吉岡信昌さん(45)は、日本料理アカデミーの活動を参考に 平成24年12月から「絞り染め」の無形文化遺産登録を目指し始めた。「夢はかなえるものだと教えてくれた。私たちも登録に向けた動きを続けたい」と意気込む。
「無形文化遺産」は「世界遺産」「記憶遺産」と並ぶユネスコの遺産事業の一つで、芸能、社会的慣習、祭礼行事、伝統工芸技術などが対象とする。2009年9月から登録が始まり、ユネスコの「無形文化遺産の保護に関する条約」に基づき登録して保護する。昨年12月時点で世界で281件が登録されている。「世界遺産」は建築物や自然など有形資産、「記憶遺産」は古文書など記録が対象。
今回登録された「和紙」は、国の重要無形文化財に指定されている「石州半紙(せきしゅうばんし)」(島根県浜田市)と「本美濃紙」(岐阜県美濃市)、「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)の3紙の技術で構成。職人らでつくる保存団体が、原料にクワ科の植物である「楮(こうぞ)」の樹皮のみを用いる伝統的な製法を守り伝えている。
石州半紙は、背でに2009年に単独で無形文化遺産になっていたのは、柳宗悦の民藝運動の努力があったとも私などは考える。江戸時代に入ってからは津和野・浜田両藩において徹底した紙専売制を行い、石州和紙の中で特に石州半紙の名は広く知られるようになった。初期の頃は様々な材料を用い、紙の大きさも様々であったが、江戸時代に入って材料、大きさともに統一されるようになり、生産性が飛躍的に向上した。一時期は6377戸を数えるほどであった和紙製造も戦中戦後にかけて急速に衰えていった。柳は、先人から代々伝わってきた文化だと評価、その指導にも力をいれた。特に、「出雲民芸紙」との繋がりが知られており、和紙研究家の寿岳文章らとともに調査研究をおこない、和紙の原点ともいえる正倉院宝物紙を復元して漉くことにも成功した。1968年、重要無形文化財に認定されました。この伝統技術をもつ安部栄四郎は、文化庁から雁皮紙を漉く伝統的技術を高く評価、「人間国宝」に指定された。なお、重要無形文化財の和紙には、他に、石州半紙(島根県)、本美濃紙(岐阜県)、細川紙(埼玉県)があった。石州半紙では石州和紙協同組合を設立、1969年に重要無形文化財、1989年に伝統的工芸品の指定を受けることに繋がった。2009年、ユネスコの無形文化遺産の登録が開始された初年に先行登録されていた。
http://abe-eishirou.jp/index.php?id=11
本美濃紙は2011年に登録を目指したが、石州半紙との類似性を指摘され登録が見送られた。そこで、政府は13年に本美濃紙と細川紙を追加し、名称を「和紙」として推薦し直した。ユネスコの補助機関が事前審査を行い、無形文化遺産に登録するよう今年10月に勧告していた。そのため、今回の「和紙」は石州半紙を拡張した形になるため、件数としては増えない。
文化庁によると、政府間委員会では、丈夫で柔らかい和紙の特質だけでなく、(1)後継者の育成(2)学校での体験事業(3)楮の栽培促進−など地域で保存活動が進められていることも、高く評価されたとみられる。
無形文化遺産は「世界遺産」や「記憶遺産」と並ぶユネスコの遺産事業の一つで、11月25日現在、世界で281件が登録。日本では「能楽」「歌舞伎」「京都祇園祭の山鉾(ぼこ)行事」と昨年の「和食」で22件となった。
「京都絞り工芸館」(京都市中京区)運営の吉岡信昌さん(45)は、日本料理アカデミーの活動を参考に 平成24年12月から「絞り染め」の無形文化遺産登録を目指し始めた。「夢はかなえるものだと教えてくれた。私たちも登録に向けた動きを続けたい」と意気込む。
「無形文化遺産」は「世界遺産」「記憶遺産」と並ぶユネスコの遺産事業の一つで、芸能、社会的慣習、祭礼行事、伝統工芸技術などが対象とする。2009年9月から登録が始まり、ユネスコの「無形文化遺産の保護に関する条約」に基づき登録して保護する。昨年12月時点で世界で281件が登録されている。「世界遺産」は建築物や自然など有形資産、「記憶遺産」は古文書など記録が対象。
2014年11月26日
あびこマルシェ
あびこエコマルシェが始まります!
人と人を繋ぐマルシェを作りたい!
心を込めて作った地元の野菜、手作りのお菓子やジャム、手打ちのうどんなどもあります。
売る人も買う人も顔が見えて、会話も弾む!
そこに新しい人と人との関係が生まれる!
そんなマルシェに、お誘いあわせのうえ、ぜひ、お越しください。
記
日時:平成26年12月13日(土) 10:00〜14:00
場所:我孫子市我孫子1丁目6番 グランレジデンス入口近く
アクセス:我孫子駅北口ロータリーを出て突き当りを左に曲がり、
郵便局や京葉銀行の前を進み、坂を降り切った左側。駅から徒歩5分程度
出店者プロフィール:
・我孫子や手賀沼周辺で、環境にやさしい農業に取り組んでいる農家さん、これからちばエコ認証に取り組もうとしている農家さん達・障害を持つ方たちも一緒に活動しているグループ
・手づくりにこだわったお菓子や加工品を作っている人たち などなど
*店者も募集しています*
たいと思っている方!ぜひ、ご一緒にいかがですか?
問合せ先:あびこ型「地産地消」推進協議会
エコ農産物普及推進部会: kazenoiro_farm@yahoo.co.jp
人と人を繋ぐマルシェを作りたい!
心を込めて作った地元の野菜、手作りのお菓子やジャム、手打ちのうどんなどもあります。
売る人も買う人も顔が見えて、会話も弾む!
そこに新しい人と人との関係が生まれる!
そんなマルシェに、お誘いあわせのうえ、ぜひ、お越しください。
記
日時:平成26年12月13日(土) 10:00〜14:00
場所:我孫子市我孫子1丁目6番 グランレジデンス入口近く
アクセス:我孫子駅北口ロータリーを出て突き当りを左に曲がり、
郵便局や京葉銀行の前を進み、坂を降り切った左側。駅から徒歩5分程度
出店者プロフィール:
・我孫子や手賀沼周辺で、環境にやさしい農業に取り組んでいる農家さん、これからちばエコ認証に取り組もうとしている農家さん達・障害を持つ方たちも一緒に活動しているグループ
・手づくりにこだわったお菓子や加工品を作っている人たち などなど
*店者も募集しています*
たいと思っている方!ぜひ、ご一緒にいかがですか?
問合せ先:あびこ型「地産地消」推進協議会
エコ農産物普及推進部会: kazenoiro_farm@yahoo.co.jp
2014年11月25日
ACT 25周年記念:外国料理クッキング へ どうぞご参加を!
クリスマスが年中行事として定着して久しいところです。外国料理クッキングでも、そんな家庭のイベントを楽しくできる、簡単でそして野菜をたっぷりあしらったクリスマスを楽しくするメニューを用意しました。
12月11日(木)2時から 我孫子北近隣センター 調理室
欧風料理:ホワイト・ロールキャベツ
参加費 1000円
男女共歓迎です、お誘いでご参加ください。
お申込みは、2日前までです。
Tel/Fax 04-7184-9828 ACT(我孫子カルチャー&トーク)
下記は、11月に行った「ポークノルベジャン」の北欧料理を楽しむワンシーン(何分、食べるのに夢中でした)です。
無農薬・有機コーヒー生豆(コロンビア)を 「煎り上手」 での煎りたてを、挽きたてで、香と味も堪能しました。
今後は、フランス留学の方から「キッシュとクスクスのサラダ」、「スリランカのカレー」、「春の五目御飯」など、次回、次々回も予定され、3月までの期間限定でお楽しみ満載です!
12月11日(木)2時から 我孫子北近隣センター 調理室
欧風料理:ホワイト・ロールキャベツ
参加費 1000円
男女共歓迎です、お誘いでご参加ください。
お申込みは、2日前までです。
Tel/Fax 04-7184-9828 ACT(我孫子カルチャー&トーク)
下記は、11月に行った「ポークノルベジャン」の北欧料理を楽しむワンシーン(何分、食べるのに夢中でした)です。
無農薬・有機コーヒー生豆(コロンビア)を 「煎り上手」 での煎りたてを、挽きたてで、香と味も堪能しました。
今後は、フランス留学の方から「キッシュとクスクスのサラダ」、「スリランカのカレー」、「春の五目御飯」など、次回、次々回も予定され、3月までの期間限定でお楽しみ満載です!
2014年11月24日
World loves Christmas Songs
丁度一か月後がクリスマス・イブにあたります。クリスマスのシーズンにあわせ、音楽情報誌『CD&DLでーた』では、10〜60代の男女を対象に調査して、一番好きな“クリスマスソング”は?のTOP20が分かりました。
■<設問:あなたがいちばん好きな“クリスマスソング”を1曲、教えてください。>
有効回答者数 n=12427人
1位 クリスマス・イブ/山下達郎
2位 ラスト・クリスマス/ワム!
3位 恋人たちのクリスマス/マライア・キャリー
4位 いつかのメリークリスマス/B'z
5位 恋人がサンタクロース/松任谷由実
6位 クリスマスキャロルの頃には/稲垣潤一
7位 ハッピー・クリスマス(戦争は終った)/ジョン・レノン&オノ・ヨーコ
8位 白い恋人達/桑田佳祐
9位 メリクリ/BoA
10位 すてきなホリデイ/竹内まりや
11位 サイレント・イヴ/辛島美登里
12位 Hurry Xmas/L'Arc〜en〜Ciel
13位 LAST CHRISTMAS/EXILE
14位 Merry Christmas Mr.Lawrence/坂本龍一
15位 WINTER SONG/DREAMS COME TRUE
16位 Merry Christmas/BUMP OF CHICKEN
17位 WISH/嵐
18位 シンデレラ・クリスマス/KinKi Kids
19位 サンタさん/ももいろクローバーZ
20位 White Love/SPEED
20位 チキンライス/浜田雅功と槇原敬之
■調査結果について
10〜60代の男女を対象とした、一番好きな“クリスマスソング”(ランキング調査はポピュラー・ミュージックが対象となります)で、総合ランキング1位は、『クリスマス・イブ』(山下達郎)でした。性別・年齢を問わず圧倒的な得票を集めていました。1983年にリリースされたこの曲は、1988年当初はオリコンシングルチャート最高位44位でした。JR東海「ホームタウン・エクスプレス(X'mas編)」のCMソングに使用されたことで知名度が上昇、1989年になってチャート1位を獲得したのです。その後、英語バージョンも現れました。1991年発売のミュージック・ビデオ『TATS YAMASHITA PRESENTS CHRISTMAS IN NEWYORK』の素材として作られて1993年、冬の季節向けアルバム『SEASON'S GREETINGS』に収録されたものでした。このように、ロング・ヒットの楽曲のため合算で伸びて、1980年代に国内で発売された楽曲で売上が最も多いシングルとなっている曲です。いかにクリスマスが日本人に定着してきたかを物語っています。
http://www.dailymotion.com/video/xg92av_%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E-christmas-eve-dj-t-hiroyuki-g-snow-remix_music
総合2位の『ラスト・クリスマス』(ワム!)は、20〜30代を中心に、“中学生時代、英語の授業でよく聴いた"といったコメントも挙げられました。 総合3位は『恋人たちのクリスマス』(マライア・キャリー)で、しっとりしたクリスマスソングが多い中、アップテンポな曲調がクリスマスのわくわく感やドキドキ感を演出してくれるということもあり、特に女性からの高い支持を集めました。
上位3位にランクインした曲以外でも、『ハッピー・クリスマス (戦争は終った)』(ジョン・レノン&オノ・ヨーコ/1971年リリース)、『恋人がサンタクロース』(松任谷由実/1980年リリース)、『Merry Christmas Mr.Lawrence』(坂本龍一/1983年リリース)のように、長く愛され続けている楽曲が選出されました。
今回のランキングでは、クリスマスシーズンに街中で耳にすることの多い、いわゆる定番の“クリスマスソング”が並ぶ結果となりました。性別・世代別で上位にランクインしている曲そのものに大きな違いはありませんでしたが、世代別の傾向としては、『メリクリ』(BoA)が10〜20代、『いつかのメリークリスマス』(B'z)は20〜40代、『恋人がサンタクロース』(松任谷由実)は 40〜50代、『ハッピー・クリスマス (戦争は終った)』(ジョン・レノン&オノ・ヨーコ)が50〜60代でそれぞれ上位にランクインしています。
■調査概要
・調査対象:自社で運営するeb-iの20万人のパネルを基に、全国47都道府県の10歳から69歳までの エンタメ接触ユーザーを抽出し、12427人(男性6247人、女性6180人)から回答を得た。
・調査手法:インターネットによるWeb調査
・調査期間:2014年10月6日〜10月7日
参照:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141119-00000025-famitsu-game
■<設問:あなたがいちばん好きな“クリスマスソング”を1曲、教えてください。>
有効回答者数 n=12427人
1位 クリスマス・イブ/山下達郎
2位 ラスト・クリスマス/ワム!
3位 恋人たちのクリスマス/マライア・キャリー
4位 いつかのメリークリスマス/B'z
5位 恋人がサンタクロース/松任谷由実
6位 クリスマスキャロルの頃には/稲垣潤一
7位 ハッピー・クリスマス(戦争は終った)/ジョン・レノン&オノ・ヨーコ
8位 白い恋人達/桑田佳祐
9位 メリクリ/BoA
10位 すてきなホリデイ/竹内まりや
11位 サイレント・イヴ/辛島美登里
12位 Hurry Xmas/L'Arc〜en〜Ciel
13位 LAST CHRISTMAS/EXILE
14位 Merry Christmas Mr.Lawrence/坂本龍一
15位 WINTER SONG/DREAMS COME TRUE
16位 Merry Christmas/BUMP OF CHICKEN
17位 WISH/嵐
18位 シンデレラ・クリスマス/KinKi Kids
19位 サンタさん/ももいろクローバーZ
20位 White Love/SPEED
20位 チキンライス/浜田雅功と槇原敬之
■調査結果について
10〜60代の男女を対象とした、一番好きな“クリスマスソング”(ランキング調査はポピュラー・ミュージックが対象となります)で、総合ランキング1位は、『クリスマス・イブ』(山下達郎)でした。性別・年齢を問わず圧倒的な得票を集めていました。1983年にリリースされたこの曲は、1988年当初はオリコンシングルチャート最高位44位でした。JR東海「ホームタウン・エクスプレス(X'mas編)」のCMソングに使用されたことで知名度が上昇、1989年になってチャート1位を獲得したのです。その後、英語バージョンも現れました。1991年発売のミュージック・ビデオ『TATS YAMASHITA PRESENTS CHRISTMAS IN NEWYORK』の素材として作られて1993年、冬の季節向けアルバム『SEASON'S GREETINGS』に収録されたものでした。このように、ロング・ヒットの楽曲のため合算で伸びて、1980年代に国内で発売された楽曲で売上が最も多いシングルとなっている曲です。いかにクリスマスが日本人に定着してきたかを物語っています。
http://www.dailymotion.com/video/xg92av_%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E-christmas-eve-dj-t-hiroyuki-g-snow-remix_music
総合2位の『ラスト・クリスマス』(ワム!)は、20〜30代を中心に、“中学生時代、英語の授業でよく聴いた"といったコメントも挙げられました。 総合3位は『恋人たちのクリスマス』(マライア・キャリー)で、しっとりしたクリスマスソングが多い中、アップテンポな曲調がクリスマスのわくわく感やドキドキ感を演出してくれるということもあり、特に女性からの高い支持を集めました。
上位3位にランクインした曲以外でも、『ハッピー・クリスマス (戦争は終った)』(ジョン・レノン&オノ・ヨーコ/1971年リリース)、『恋人がサンタクロース』(松任谷由実/1980年リリース)、『Merry Christmas Mr.Lawrence』(坂本龍一/1983年リリース)のように、長く愛され続けている楽曲が選出されました。
今回のランキングでは、クリスマスシーズンに街中で耳にすることの多い、いわゆる定番の“クリスマスソング”が並ぶ結果となりました。性別・世代別で上位にランクインしている曲そのものに大きな違いはありませんでしたが、世代別の傾向としては、『メリクリ』(BoA)が10〜20代、『いつかのメリークリスマス』(B'z)は20〜40代、『恋人がサンタクロース』(松任谷由実)は 40〜50代、『ハッピー・クリスマス (戦争は終った)』(ジョン・レノン&オノ・ヨーコ)が50〜60代でそれぞれ上位にランクインしています。
■調査概要
・調査対象:自社で運営するeb-iの20万人のパネルを基に、全国47都道府県の10歳から69歳までの エンタメ接触ユーザーを抽出し、12427人(男性6247人、女性6180人)から回答を得た。
・調査手法:インターネットによるWeb調査
・調査期間:2014年10月6日〜10月7日
参照:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141119-00000025-famitsu-game
2014年11月23日
選挙の大義、市民(国民)の為になるのか
総選挙の告示日程も21日午後の本会議で決まり、解散された。衆院選の日程を12月2日公示―同14日投開票と決定した。
解散総選挙がないとすれば、野田政権で決定されていた消費増税10%は、来年4月の実施予定だったが、また景気回復が十分ではないと見た安倍政権は一年半後に繰り延べたいと考え、議会対策、来年度予算案への影響など等を勘案して、国民に信を問うという総選挙の結果を持って、財務省対策も考えられたのだといわれる。確かに、予算編成作業も見込まれる時期にぐずぐずするようでは、日本経済のデフレ脱却jに水をさすことになりかねない。与野党の政治闘争がこれから更に展開されるが、国民生活の向上、復興を目指すという事に大義のあらんことを願うものだ。
こうした中、安倍首相は、現在294議席を有している自民党議席が50議席は減らないと踏んでいるのだろうと言われ、公明党は現有の31議席が現状維持できることは堅いとして、解散を決断してといわれる。低投票率が予想の12月選挙では、組織票が見込める政党が強い。つまり、過半数は確保できるとい踏んでいるのだ。
政権交代を実現した2009年の衆院選では、反自民の一点で結集した選挙だったが、政策の違いから政権運営がうまくいかず、崩壊の道をたどっていった。そして、前々回の総選挙では”イカサマのマニュフェスト”を根拠とした「民主党への大風」が吹いていた。
益々、野党の選挙協力が進まない。政策や方針が違う政党が選挙の時だけ協力するのはけしからんという考えもあるが、国民のためにも選択肢受け皿がないのは不幸なことだから、野党の選挙協力も一党多弱のアンバランスは望ましくない。党内の論議で終わらせず、国民に向けてきちっと説明する姿勢をどの議会であってもやっていってほしい。
国民はこの機会を、国民の意思表示するチャンスととらえ、低投票のなどしないことだ。日本の未来図を決めるのは、国民であって、お任せの時代は終わったと確認していくべきだ。選挙費用も税金で出されるのはご存知の通りで、突発解散だった二年前の衆院選では、約650億円の税金が使われている。
費用の内訳を見てみると、最も大きい割合を占めるのは都道府県や市町村などの自治体に委託する選挙執行管理費用で、これだけで9割以上を占める。投票用紙の印刷や投票所の運営、開票作業に携わる人件費のほか、候補者のための選挙カーの費用や選挙ポスターの作成にも、公費が使われる。なかでも最も費用がかかっているのが、事務費用だ。この費用は選挙執行経費基準法などに基づき国が負担することとされており、2012年12月に行われた衆議院選挙では、約588億円が使われたとされる。
解散総選挙がないとすれば、野田政権で決定されていた消費増税10%は、来年4月の実施予定だったが、また景気回復が十分ではないと見た安倍政権は一年半後に繰り延べたいと考え、議会対策、来年度予算案への影響など等を勘案して、国民に信を問うという総選挙の結果を持って、財務省対策も考えられたのだといわれる。確かに、予算編成作業も見込まれる時期にぐずぐずするようでは、日本経済のデフレ脱却jに水をさすことになりかねない。与野党の政治闘争がこれから更に展開されるが、国民生活の向上、復興を目指すという事に大義のあらんことを願うものだ。
こうした中、安倍首相は、現在294議席を有している自民党議席が50議席は減らないと踏んでいるのだろうと言われ、公明党は現有の31議席が現状維持できることは堅いとして、解散を決断してといわれる。低投票率が予想の12月選挙では、組織票が見込める政党が強い。つまり、過半数は確保できるとい踏んでいるのだ。
政権交代を実現した2009年の衆院選では、反自民の一点で結集した選挙だったが、政策の違いから政権運営がうまくいかず、崩壊の道をたどっていった。そして、前々回の総選挙では”イカサマのマニュフェスト”を根拠とした「民主党への大風」が吹いていた。
益々、野党の選挙協力が進まない。政策や方針が違う政党が選挙の時だけ協力するのはけしからんという考えもあるが、国民のためにも選択肢受け皿がないのは不幸なことだから、野党の選挙協力も一党多弱のアンバランスは望ましくない。党内の論議で終わらせず、国民に向けてきちっと説明する姿勢をどの議会であってもやっていってほしい。
国民はこの機会を、国民の意思表示するチャンスととらえ、低投票のなどしないことだ。日本の未来図を決めるのは、国民であって、お任せの時代は終わったと確認していくべきだ。選挙費用も税金で出されるのはご存知の通りで、突発解散だった二年前の衆院選では、約650億円の税金が使われている。
費用の内訳を見てみると、最も大きい割合を占めるのは都道府県や市町村などの自治体に委託する選挙執行管理費用で、これだけで9割以上を占める。投票用紙の印刷や投票所の運営、開票作業に携わる人件費のほか、候補者のための選挙カーの費用や選挙ポスターの作成にも、公費が使われる。なかでも最も費用がかかっているのが、事務費用だ。この費用は選挙執行経費基準法などに基づき国が負担することとされており、2012年12月に行われた衆議院選挙では、約588億円が使われたとされる。
2014年11月22日
「追加緩和でどう変わる? 日本経済の展望」
量的緩和第3弾(QE3)を終了したアメリカ。追加金融緩和を決定した日本。量的緩和の可能性を示唆した欧州など、それらによって日本の経済がどのように変わっていくのか。
今後の潮流を探るポイントとして、東京大学大学院経済学研究科教授の伊藤元重氏は、日本と海外の経済関係のあり方から、日本経済の現状と展望するということで講演があります。併せて、日本FP協会理事長の白根壽晴氏が、インフレ時代に備える資産運用の在り方を講演します。
〜セミナー詳細〜
◆日時
12月7日(日)開場13:00 開演13:30 (15:50終了予定)
◇会場
東京コンベンションホール
(東京スクエアガーデン5F 東京・京橋)
http://tokyo.conventionhall.jp/access.html
◆スケジュール
「日本経済の行方」
東京大学大学院経済学研究科教授 伊藤元重
「個人資産を取り巻く環境変化と資産運用
〜インフレに備えた分散投資を考える〜」
日本ファイナンシャル・プランナーズ協会理事長 白根壽晴
◇定員:500名(無料ご招待・申込多数の際は抽選となります)
◆申込締切:11月26日(水)
◇詳細・お申し込み
http://www.nikkei-cnbc.co.jp/event/141207_01/
今後の潮流を探るポイントとして、東京大学大学院経済学研究科教授の伊藤元重氏は、日本と海外の経済関係のあり方から、日本経済の現状と展望するということで講演があります。併せて、日本FP協会理事長の白根壽晴氏が、インフレ時代に備える資産運用の在り方を講演します。
〜セミナー詳細〜
◆日時
12月7日(日)開場13:00 開演13:30 (15:50終了予定)
◇会場
東京コンベンションホール
(東京スクエアガーデン5F 東京・京橋)
http://tokyo.conventionhall.jp/access.html
◆スケジュール
「日本経済の行方」
東京大学大学院経済学研究科教授 伊藤元重
「個人資産を取り巻く環境変化と資産運用
〜インフレに備えた分散投資を考える〜」
日本ファイナンシャル・プランナーズ協会理事長 白根壽晴
◇定員:500名(無料ご招待・申込多数の際は抽選となります)
◆申込締切:11月26日(水)
◇詳細・お申し込み
http://www.nikkei-cnbc.co.jp/event/141207_01/
2014年11月21日
年金が減るマクロ経済スライド
衆議院議員 河野太郎 マンスリー ニュースレター(11月号)に気になることが書いてありました、そういうことだったのか、と気づかされることもありましたので、コピペしてみます。
・・・・・・・・・・・・
あなたが会長をしている自治会が、公民館で炊き出しをやることになりました。
大きな釜でご飯を炊いて、おむすびを握ります。
そして自治会のメンバーを全員、年齢順に並んでもらって大きなおむすびを二つずつ配っていきます。
しばらくして、あなたはふと心配になりました。釜の中のご飯が思ったよりもずいぶん早くなくなっていきます。
このままでは行列の最後までおむすびを配ることはできません。
あなたは配るおむすびを一つずつにしようかと思いましたが、行列の最初のほうの人たちがおむすびを二つもらっていたのをみんなが見ています。
そこであなたは配るおむすびの大きさを少しずつ小さくしていこうと思いました。
おむすびを握っている自治会の役員さんたちに、おむすびを少しずつ小さくしてくださいと頼みました。これでお釜のご飯はなんとか行列の最後までもつでしょうか。
このおむすびを小さくするのが「マクロ経済スライド」というやつです。
年金は、本来、インフレに合わせて金額が調整されます。1%のインフレの時に年金の金額を1%増やさないと実質的な購買力は1%小さくなってしまいます。
しかし、来年の4月からマクロ経済スライドが始まると、こうなりません。
例えば物価上昇率が2%だったとしたら、来年4月からの年金の引き上げは2%−(スライド調整率)になります。スライド調整率は当初、0.9%と想定されていましたが、年金再検証の結果引き上げられ1.3%とされています。
スライド調整率とは、はやくいえば、現役世代の人口減少率と平均余命の伸び率を足したものです。
物価上昇率が2%なら、そこから1.3%を差し引いた0.7%分、年金が引き上げられます。(*1)
名目の年金額は増えますが、実質的な年金の購買力は1.3%分減ることになります。
こうしたマクロ経済スライドは、最新の年金再検証によれば2043年ごろまで、つまり今後、30年間続くことになります。
「えっ、そんなの聞いてないよ」とおっしゃるかもしれませんが、これは2004年の小泉政権の時に決まった政策です。
マクロ経済スライドは、厚生年金、国民年金ともに適用されますが、国民年金のほうが大きく影響を受けることになります。
しかし、この「おむすびを小さくする」ことをやらなければ、行列の後ろのほうまでおむすびを配れないのです。
本来、このマクロ経済スライドはもっと早くから発動されるべきでした。しかし、マクロ経済スライドはデフレ経済では発動されないことになっていたため、マクロ経済スライドの仕組みはあっても発動されませんでした。つまりおむすびが大きすぎることに気がついていたのにおむすびを小さくしてこなかったのです。そのため、お釜の中のご飯は、どんどん減ってしまいました。
そこで、デフレでもマクロ経済スライドを発動できるようにしようという議論があります。
その場合は、物価の下落に合わせて年金額が削減されると同時にスライド調整率分がさらに差し引かれることになります。ただし、そのためには法律の改正が必要です。
さて、このおむすびを小さくしていくことに、あなたは賛成してくださいますか。
(*1)これまでの年金は、物価が下落したにもかかわらず、年金額が引き下げられなかったことがあり、本来支給されるべき年金額よりも2.5%年金額が上回っていました。ここ2年間、毎年1%ずつこの差が解消されてきましたが、まだ0.5%本来支給されるべき金額を上回っています。この分は、来年の4月に引き下げられます。
そのため、もし2%の物価上昇率の場合、そのまま物価調整をすれば年金は2%引き上げられるはずですが、まず、この0.5%の解消が行われます。そしてそこに1.3%のマクロ経済スライドが適用されます。つまり2%の物価上昇率の場合、来年の4月の年金額の引き上げは0.2%ということになります。その後は、1.3%のマクロ経済スライドだけが適用されることになります。
/////////////
確かに、バターもチーズも厚さが薄くなっている。小田原かまぼこも笹かまぼこも小型化している、なっとうもコンビニおにぎりも、年々、一個のパックののりしろが広がってきていた。マクロ/ミクロ経済などの話ではなくて、マイクロ経済スライドという傾向を認識していく時代のようだ。成人病の予防には食べ過ぎは禁物であるし、孤食の人も増えて、多くて食べ残すより、無駄がないと歓迎される時代なのです。
・・・・・・・・・・・・
あなたが会長をしている自治会が、公民館で炊き出しをやることになりました。
大きな釜でご飯を炊いて、おむすびを握ります。
そして自治会のメンバーを全員、年齢順に並んでもらって大きなおむすびを二つずつ配っていきます。
しばらくして、あなたはふと心配になりました。釜の中のご飯が思ったよりもずいぶん早くなくなっていきます。
このままでは行列の最後までおむすびを配ることはできません。
あなたは配るおむすびを一つずつにしようかと思いましたが、行列の最初のほうの人たちがおむすびを二つもらっていたのをみんなが見ています。
そこであなたは配るおむすびの大きさを少しずつ小さくしていこうと思いました。
おむすびを握っている自治会の役員さんたちに、おむすびを少しずつ小さくしてくださいと頼みました。これでお釜のご飯はなんとか行列の最後までもつでしょうか。
このおむすびを小さくするのが「マクロ経済スライド」というやつです。
年金は、本来、インフレに合わせて金額が調整されます。1%のインフレの時に年金の金額を1%増やさないと実質的な購買力は1%小さくなってしまいます。
しかし、来年の4月からマクロ経済スライドが始まると、こうなりません。
例えば物価上昇率が2%だったとしたら、来年4月からの年金の引き上げは2%−(スライド調整率)になります。スライド調整率は当初、0.9%と想定されていましたが、年金再検証の結果引き上げられ1.3%とされています。
スライド調整率とは、はやくいえば、現役世代の人口減少率と平均余命の伸び率を足したものです。
物価上昇率が2%なら、そこから1.3%を差し引いた0.7%分、年金が引き上げられます。(*1)
名目の年金額は増えますが、実質的な年金の購買力は1.3%分減ることになります。
こうしたマクロ経済スライドは、最新の年金再検証によれば2043年ごろまで、つまり今後、30年間続くことになります。
「えっ、そんなの聞いてないよ」とおっしゃるかもしれませんが、これは2004年の小泉政権の時に決まった政策です。
マクロ経済スライドは、厚生年金、国民年金ともに適用されますが、国民年金のほうが大きく影響を受けることになります。
しかし、この「おむすびを小さくする」ことをやらなければ、行列の後ろのほうまでおむすびを配れないのです。
本来、このマクロ経済スライドはもっと早くから発動されるべきでした。しかし、マクロ経済スライドはデフレ経済では発動されないことになっていたため、マクロ経済スライドの仕組みはあっても発動されませんでした。つまりおむすびが大きすぎることに気がついていたのにおむすびを小さくしてこなかったのです。そのため、お釜の中のご飯は、どんどん減ってしまいました。
そこで、デフレでもマクロ経済スライドを発動できるようにしようという議論があります。
その場合は、物価の下落に合わせて年金額が削減されると同時にスライド調整率分がさらに差し引かれることになります。ただし、そのためには法律の改正が必要です。
さて、このおむすびを小さくしていくことに、あなたは賛成してくださいますか。
(*1)これまでの年金は、物価が下落したにもかかわらず、年金額が引き下げられなかったことがあり、本来支給されるべき年金額よりも2.5%年金額が上回っていました。ここ2年間、毎年1%ずつこの差が解消されてきましたが、まだ0.5%本来支給されるべき金額を上回っています。この分は、来年の4月に引き下げられます。
そのため、もし2%の物価上昇率の場合、そのまま物価調整をすれば年金は2%引き上げられるはずですが、まず、この0.5%の解消が行われます。そしてそこに1.3%のマクロ経済スライドが適用されます。つまり2%の物価上昇率の場合、来年の4月の年金額の引き上げは0.2%ということになります。その後は、1.3%のマクロ経済スライドだけが適用されることになります。
/////////////
確かに、バターもチーズも厚さが薄くなっている。小田原かまぼこも笹かまぼこも小型化している、なっとうもコンビニおにぎりも、年々、一個のパックののりしろが広がってきていた。マクロ/ミクロ経済などの話ではなくて、マイクロ経済スライドという傾向を認識していく時代のようだ。成人病の予防には食べ過ぎは禁物であるし、孤食の人も増えて、多くて食べ残すより、無駄がないと歓迎される時代なのです。
2014年11月20日
首相の意向とは
一昨日7時からのLiveで、首相の会見を視た。政権の信を得るために、民意を問う総選挙だと首相の面持ちは真剣に見えた。この道しかないという、消費税増税の期日を29年4月へ延期したいとの見解が示された。その際の記者会見で、個別事項も含めてかとの質問には明快な答えはなかったように思えた。中でも、原発再稼働、高濃度放射能廃棄物の処理問題もどうなるのか、政権に一任するということにもなりかねない、というかそういうことになる。靖国参拝については、中国などの近隣諸国からの反発や米国からの牽制があって、急展開はなさそうだが・・・。
たまたま、調べてみたところ、各国にも英霊の慰霊施設は当然ながらある。戦争の戦火が、世界大戦を背景に各国に及んだ歴史としてわかる。具体的な例として名前を挙げれば米国のアーリントン墓地、英領のウェストミンスター寺院、フランスの凱旋門等だ。この分野の専門である、小堀桂一郎教授と長谷川三千子教授との対談では、次の事のような慰霊参拝がされてきたことが明らかになっていた。
昭和60年レーガン大統領がドイツを訪問した時、コール首相がビットブルグの墓地に大統領を案内し、ユダヤ人団体から大変な反発があった。第2次大戦終結40周年という節目における「ドイツとの和解」といった意味があったが、ナチ親衛隊(SS)も埋葬されていることから、それを敢行したことによって、欧米で批判が起き、問題視されていた。献花式の後、レーガンは和解とホロコーストの忘却につながるものではないことを強調するの演説を行った。
ドイツでは11月の第3日曜日(暦により第2日曜日の場合も)を国民哀悼の日として慰霊行事が行われる。旧西ドイツ時代はボンにある北墓地追悼所で行われていた。ちなみに第2次大戦の終戦記念日は「解放記念日」として4月末になる。ドイツ・ベルリンのウンター・デン・リンデンにある追悼所。建造物自体はプロイセン時代の1818年に衛兵所として建てられたものだが、東西ドイツ統一後の1993年に閣議決定によって国立中央戦没者追悼所となった。ナチス時代は戦没兵士追悼所として、また戦後東ドイツ施政下ではファシズムと軍国主義の犠牲者の碑とされていた。要人はこの日に追悼所で行われる式典に参加し悼辞を述べる。
第8代サルディーニャ国王にして初代イタリア国王、ビットリオ・エマヌエレ2世。彼を記念して建造されたローマのビットリオ・エマヌエレ2世記念堂に「祖国の祭壇」と呼ばれるものがある。第1次世界大戦の戦没者を悼むために祭壇が造られ、無名戦士の棺が祭壇部分に埋葬された。現在は国防省の管理下となっている。
日独伊の対応も様々、周辺の事情がさまざまに違うことが分かるが、日本のような毎回の論争にはなっていないようだ。
たまたま、調べてみたところ、各国にも英霊の慰霊施設は当然ながらある。戦争の戦火が、世界大戦を背景に各国に及んだ歴史としてわかる。具体的な例として名前を挙げれば米国のアーリントン墓地、英領のウェストミンスター寺院、フランスの凱旋門等だ。この分野の専門である、小堀桂一郎教授と長谷川三千子教授との対談では、次の事のような慰霊参拝がされてきたことが明らかになっていた。
昭和60年レーガン大統領がドイツを訪問した時、コール首相がビットブルグの墓地に大統領を案内し、ユダヤ人団体から大変な反発があった。第2次大戦終結40周年という節目における「ドイツとの和解」といった意味があったが、ナチ親衛隊(SS)も埋葬されていることから、それを敢行したことによって、欧米で批判が起き、問題視されていた。献花式の後、レーガンは和解とホロコーストの忘却につながるものではないことを強調するの演説を行った。
ドイツでは11月の第3日曜日(暦により第2日曜日の場合も)を国民哀悼の日として慰霊行事が行われる。旧西ドイツ時代はボンにある北墓地追悼所で行われていた。ちなみに第2次大戦の終戦記念日は「解放記念日」として4月末になる。ドイツ・ベルリンのウンター・デン・リンデンにある追悼所。建造物自体はプロイセン時代の1818年に衛兵所として建てられたものだが、東西ドイツ統一後の1993年に閣議決定によって国立中央戦没者追悼所となった。ナチス時代は戦没兵士追悼所として、また戦後東ドイツ施政下ではファシズムと軍国主義の犠牲者の碑とされていた。要人はこの日に追悼所で行われる式典に参加し悼辞を述べる。
第8代サルディーニャ国王にして初代イタリア国王、ビットリオ・エマヌエレ2世。彼を記念して建造されたローマのビットリオ・エマヌエレ2世記念堂に「祖国の祭壇」と呼ばれるものがある。第1次世界大戦の戦没者を悼むために祭壇が造られ、無名戦士の棺が祭壇部分に埋葬された。現在は国防省の管理下となっている。
日独伊の対応も様々、周辺の事情がさまざまに違うことが分かるが、日本のような毎回の論争にはなっていないようだ。
2014年11月19日
幸福の黄色いハンカチ
2014年11月18日
2014年総選挙、野党は小新党ばかり、維新は分党、そしてみんなの党は解党も。
政治はやるか、やらないか。どう乗るか、反るか、難しいけれど。私事だが無所属での市議活動において、国政にも繋がる姿勢を、色々と試みがんばったこともあった。そんな時に、統一地方選挙。県議候補の公認を得て、その活動の矢先、公認一か月後に3.11だった。党代表が選挙をしてる場合じゃないというのももっともだと思いながら、党の指示は募金活動も目立ってやるとなると誤解を生むから自粛などと、微細にわたって指示だされていたので、それに従って自粛、自粛。選挙活動も駅頭活動の自粛・・・・・。
それ以降は、無所属に戻って、新党、野党の動きをみてきた。
流石に昨年末の国会騒動をみて、2013年暮れには、正式に決別して意思表示しておくべきとの考えになった。結党時の第三極を目指す姿勢も、触媒政党になると言う話も、遠のいていくばかりだったからだ。いよいよの離党届も出して意思表示をした。(詳細、昨年末のブログに)
幾つもの等に分かれ、合流したりとしてきたので、総選挙間際に、これ以上の動きもないものと思っていたら、解党をするというのがみんなの党だった。
自民党政権としては手堅く日銀とも政策を練磨しているが、株と為替でこれも立たない顔も立つ瀬もあったりなかったり。人の世の常とはいえば、言えるがそれでも将来の日本、ひいては世界の為にを考えて皆が考えをめぐらさなくてはならない、と私は思う。
政治の難しさを改めておもうところだ。
今日の午前中には最後の有識者会合が終わり、夕方の経済財政諮問会議で17年4月までの増税延期を決めて、その後に例の記者会見で、安部首相が三党合意を修正する決断をするというシナリオになっていくわけだ。この際、国民に信を問うため、首相の権限で解散総選が本決まりになります。
言われている選挙日程は12月14日、このままの状況で新党の出る幕、野党の盛り返しもないまま、与党が勝つというのが大方の予想。で、自民党が260ー270、公明党が30合わせて300弱とか。これで、また株価も上がるとしたら日経平均が18000円まで行くので、首相の挽回劇もありそうだ。アベノミックスの掛け声のわりには、7-9のGDP速報値が対前期比年率1.6%減と想定外の悪さ。増税延期は期限を明示するのでなく3-4%の安定した名目成長が実現するまで、据え置きじゃないかとの声まであがっているので、選挙の結果で日程の修正幅をとるのだろう。
それ以降は、無所属に戻って、新党、野党の動きをみてきた。
流石に昨年末の国会騒動をみて、2013年暮れには、正式に決別して意思表示しておくべきとの考えになった。結党時の第三極を目指す姿勢も、触媒政党になると言う話も、遠のいていくばかりだったからだ。いよいよの離党届も出して意思表示をした。(詳細、昨年末のブログに)
幾つもの等に分かれ、合流したりとしてきたので、総選挙間際に、これ以上の動きもないものと思っていたら、解党をするというのがみんなの党だった。
自民党政権としては手堅く日銀とも政策を練磨しているが、株と為替でこれも立たない顔も立つ瀬もあったりなかったり。人の世の常とはいえば、言えるがそれでも将来の日本、ひいては世界の為にを考えて皆が考えをめぐらさなくてはならない、と私は思う。
政治の難しさを改めておもうところだ。
今日の午前中には最後の有識者会合が終わり、夕方の経済財政諮問会議で17年4月までの増税延期を決めて、その後に例の記者会見で、安部首相が三党合意を修正する決断をするというシナリオになっていくわけだ。この際、国民に信を問うため、首相の権限で解散総選が本決まりになります。
言われている選挙日程は12月14日、このままの状況で新党の出る幕、野党の盛り返しもないまま、与党が勝つというのが大方の予想。で、自民党が260ー270、公明党が30合わせて300弱とか。これで、また株価も上がるとしたら日経平均が18000円まで行くので、首相の挽回劇もありそうだ。アベノミックスの掛け声のわりには、7-9のGDP速報値が対前期比年率1.6%減と想定外の悪さ。増税延期は期限を明示するのでなく3-4%の安定した名目成長が実現するまで、据え置きじゃないかとの声まであがっているので、選挙の結果で日程の修正幅をとるのだろう。
2014年11月17日
「ちきゅうTALK」25周年
1989年、6月4日には中国・北京市にある天安門広場に民主化を求め、夜を徹して集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧事件が起きていました。しかし、中国は次第にその進む道を変えました。経済開放を推進する中国市場には一国二制度の経済活動が出現しました。
同年、11月10日、ベルリンの壁崩壊がおきます。ゴルバチョフの推進していたペレストロイカという時代の流れと、社会主義をとっていたハンガリーが西側への国境を解放する動きに乗じて東ドイツ市民が西ドイツヘ流入、ついにはベルリンの壁が民衆によって壊され、世界を変えていきました。ソ連がロシアになり、冷戦が終わりました。
当時のベルリンは周囲を高い壁で囲まれた陸の孤島ともいえるものでした。数百キロをアウトバーンで走ると、やっと自由の西ドイツに入ることができる状態です。東西ベルリン分断の象徴はブランデンブルク門でした。ブランデンブルク門を挟むように壁が築かれていたのを民衆がハンマーで打ち崩す映像は、今でも鮮明に記憶しています。
そのブランデンブルク門はベルリンの壁の時代には通行はできませんでした。この門から先はウンター・デン・リンデンというドイツ帝国の栄華を残す菩提樹の大通りで、進んでいくと森鴎外、鈴木梅太郎、北里柴三郎たちがドイツ医学を習得したベルリン大学(フンボルト大学)があります。その先にはシュタット・オペラ、そして、鴎外の”舞姫”エリスと主人公が出会ったとされるマリエン教会が右にあり、往時のベルリンの中心のアレキサンダー広場も“舞姫”の舞台となった場所です。
そんな時期に創刊した「ちきゅうTALK」も25周年、単なるミニコミ誌つくりを楽しんでいたつもりが、世界中の変化に遭遇しつつ、平和への思いを強くして、国際理解を目指すようになりました。各ページを振り返っても、色々なことがあったのを思い出します。そこで、読者となってくださった皆さまに感謝の意を込めて、今年はいくつかイベントを企画してきました。外国料理クッキング、国際交流セミナー、我孫子学講座、などです。
「ちきゅうTALK」秋号、是非、読んでみたい方はご連絡ください。お手元にもお届けします。
お問い合わせ: ninakaizu●gmail.com
同年、11月10日、ベルリンの壁崩壊がおきます。ゴルバチョフの推進していたペレストロイカという時代の流れと、社会主義をとっていたハンガリーが西側への国境を解放する動きに乗じて東ドイツ市民が西ドイツヘ流入、ついにはベルリンの壁が民衆によって壊され、世界を変えていきました。ソ連がロシアになり、冷戦が終わりました。
当時のベルリンは周囲を高い壁で囲まれた陸の孤島ともいえるものでした。数百キロをアウトバーンで走ると、やっと自由の西ドイツに入ることができる状態です。東西ベルリン分断の象徴はブランデンブルク門でした。ブランデンブルク門を挟むように壁が築かれていたのを民衆がハンマーで打ち崩す映像は、今でも鮮明に記憶しています。
そのブランデンブルク門はベルリンの壁の時代には通行はできませんでした。この門から先はウンター・デン・リンデンというドイツ帝国の栄華を残す菩提樹の大通りで、進んでいくと森鴎外、鈴木梅太郎、北里柴三郎たちがドイツ医学を習得したベルリン大学(フンボルト大学)があります。その先にはシュタット・オペラ、そして、鴎外の”舞姫”エリスと主人公が出会ったとされるマリエン教会が右にあり、往時のベルリンの中心のアレキサンダー広場も“舞姫”の舞台となった場所です。
そんな時期に創刊した「ちきゅうTALK」も25周年、単なるミニコミ誌つくりを楽しんでいたつもりが、世界中の変化に遭遇しつつ、平和への思いを強くして、国際理解を目指すようになりました。各ページを振り返っても、色々なことがあったのを思い出します。そこで、読者となってくださった皆さまに感謝の意を込めて、今年はいくつかイベントを企画してきました。外国料理クッキング、国際交流セミナー、我孫子学講座、などです。
「ちきゅうTALK」秋号、是非、読んでみたい方はご連絡ください。お手元にもお届けします。
お問い合わせ: ninakaizu●gmail.com
2014年11月16日
政治と選挙。沖縄のゆくへ
2014年沖縄県知事選挙は最大の争点となる米軍普天間飛行場返還について主張の違いが鮮明になっていた。従来の沖縄県内の選挙でよく見られる保革対立から一転し、普天間基地の辺野古移設や県内のオスプレイ配備などをめぐる仲井眞県政の姿勢に対する評価を争点として、3選を目指す仲井眞に対し旧自民党系市議が野党との統一候補を擁立するなど4人が立候補した。
また、同選挙への候補者支援をめぐって自民、民主、維新の各党が地元県連と党本部で対応が分かれ、自民党市議や県議が除名や離党となったり、民主県連幹部が党本部から除名を示唆される事態となっている。
在日米軍普天間基地の辺野古移設に反対し続けてきた翁長雄志(那覇市長)に対して社民・共産両党など野党陣営が候補者の検討を絞りつつあったなか、6月に自由民主党(以下、自民党)の那覇市議会会派「自民党新風会」所属議員11名が翁長市長に出馬要請した他、前回選挙で仲井眞を支援した地元企業の一部も翁長支援を表明するなど、普天間基地移設問題への対応が保守政界内でも分かれており、複雑な様相を呈することが必至とみられている。なお、那覇市長選挙が同日におこなわれる。
すでに、出口調査で結果の予測はされている知事選(16日投開票)は、前那覇市長の翁長雄志(おながたけし)氏(64)の当確が言われていたため、これからの米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対する民意が示されることになる。政府にはこの時点で移設計画を進める政府に断念するよう求めていくことになれば、一転二点ということだ。
安倍内閣で、解散総選挙を探るのもこの点でも民意を問いたいとの見解なのだという。
また、同選挙への候補者支援をめぐって自民、民主、維新の各党が地元県連と党本部で対応が分かれ、自民党市議や県議が除名や離党となったり、民主県連幹部が党本部から除名を示唆される事態となっている。
在日米軍普天間基地の辺野古移設に反対し続けてきた翁長雄志(那覇市長)に対して社民・共産両党など野党陣営が候補者の検討を絞りつつあったなか、6月に自由民主党(以下、自民党)の那覇市議会会派「自民党新風会」所属議員11名が翁長市長に出馬要請した他、前回選挙で仲井眞を支援した地元企業の一部も翁長支援を表明するなど、普天間基地移設問題への対応が保守政界内でも分かれており、複雑な様相を呈することが必至とみられている。なお、那覇市長選挙が同日におこなわれる。
すでに、出口調査で結果の予測はされている知事選(16日投開票)は、前那覇市長の翁長雄志(おながたけし)氏(64)の当確が言われていたため、これからの米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対する民意が示されることになる。政府にはこの時点で移設計画を進める政府に断念するよう求めていくことになれば、一転二点ということだ。
安倍内閣で、解散総選挙を探るのもこの点でも民意を問いたいとの見解なのだという。
2014年11月15日
ジャポニズムへの始動、日本陶磁器
芸術の秋、我孫子の研究をすることは、面白い。
それは別荘地であった頃に、白樺派の活動があったと言う所で文化的な日本の中心、ピークとなるようだ。そのお蔭で、我孫子にバーナード・リーチの窯が作られることにもなった。
つらつら、調べていくとリーチは陶芸を世界的な近代アートに認知させた人物なではと思う。分野は違うが、我孫子発信で「ちきゅうTALK」を通じて、日本の良さを伝えていこうとの私の考えても相通じるとまでに思うようになっている。それで、焼き物にも関心を持つようになってしまった。今取り組んでいる論文を書くのに、避けて通れないこともあるからだ。そういうわけで、このブログでも、大河ドラマ「軍師・官兵衛」を見ながら、秀吉の朝鮮出兵を思い返しては調べたことをブログにも綴っている。
磁器発見前の有田焼は、白い素地に呉須(コバルト)で文様を描いた藍の染付が多かったが、酒井田柿右衛門が赤絵の技法を生み出し、色絵の磁器が盛んに焼けるようになる。それが、1650年代に入ると、オランダの東インド会社を通じて、ヨーロッパ諸国に輸出されるまでに成長、ヨーロッパの販路を広がっていく。当時、伊万里の港から荷を積んで船が出たため、有田焼は海外ではIMARIと呼ばれ、豪華な色絵や金襴手は、王侯貴族の羨望の的になっていたという。
●古伊万里 江戸時代に焼かれた濃い染付と、赤絵の具を贅沢に使った金襴手と呼ばれる様式のことを指す。伊万里の名は、前述のように、伊万里の港から船積みされたものなので、特に17世紀前半に焼かれた器を初期伊万里と区別される。
●有田焼の系譜 現在の有田焼といえば、佐賀県有田町の周辺で焼かれた磁器のことである。つまり、その総称だ。透明感のある白磁に、藍色の染付、赤、黄、緑などの色絵を施したものが多い。これらは、400年近い有田の歴史の上に立つものだが、歴史的に論じられる有田焼とは、古伊万里、柿右衛門様式、鍋島藩窯の3つの様式の総称です。柿右衛門様式には「濁手(にごして)」と呼ばれる、乳白色の肌を多く残しながら赤絵を描く手法が特徴。
● 鍋島藩窯様式
有田焼は藩で擁護されていたが、なかでも、鍋島藩窯様式は、献上用の極上品のみが焼かれ、それを特に、鍋島様式と区別している。さらに、皇室に納められたものは「禁裏様式」と呼ばれた。その為、1675(延宝3)年、鍋島藩は有田から優秀な陶工を集め、藩窯をこの山深い大川内山に移すということまでした。当時の高度な技法の秘密は厳守され、不良品の破片さえ外に持ち出すことは禁じられていたという。有田から伊万里の海へといたる途中、狭い谷間に31軒もの窯元が肩を寄せるように軒を連ねる山里「大川内山(おおかわちやま)」は秘窯の里と呼ばれた。現在の鍋島焼といわれるもののほとんどは、この大川内山で焼かれている。染付と赤、青、緑の3色を基調にした色鍋島、精緻な染付の藍鍋島、青磁の3タイプあり、青みがかかった地肌や、縦に縞の入ったくし高台、裏文様に特徴がある。
もともと、西洋には中国の景徳鎮の陶器が多くもたらされていたが、明と清の政権交代期の混乱によってそのルートが途絶。次にオランダ人が目をつけたのが日本だった。丁度、初代柿右衛門が長崎で中国人から赤絵の技法を学び、有田に戻って柿右衛門様式と呼ばれる独特の美を持つやきものを完成させた頃だった。東インド会社を設立したオランダ人は、柿右衛門のやきものを世界中に伝えた。柿右衛門様式は海外でも高く評価されるようになり、今でもドイツやベルギーの城に行くと柿右衛門の名品が残されている。ドイツのマイセンの白磁は西洋磁器の頂点とも言われるように、柿右衛門を再現しようとして生まれたものだ。このように西洋の人々を魅了した柿右衛門様式の特色は余白の美。中国絵画の絵画的構図を手本にしながら、日本人独特の余白を生かした美しさが特徴となった。
そうして、陶磁器は西と東をむすぶ、美の伝道師としてリーチと柳宗悦は友情を深め、東から西へ文化の融合を試みた、その出発点が我孫子だったとは、凄い事じゃないか、とワクワクしてくるのだ。先週の大河ドラマで、秀吉は亡くなった。脚本によって、歴史上の人物も色々に描かれ変わってしまうものだなあと、であれば、自分たちの歴史、我孫子のみんなが知るべきであろう事を明らかにしていき、論文にしていきたい。
それは別荘地であった頃に、白樺派の活動があったと言う所で文化的な日本の中心、ピークとなるようだ。そのお蔭で、我孫子にバーナード・リーチの窯が作られることにもなった。
つらつら、調べていくとリーチは陶芸を世界的な近代アートに認知させた人物なではと思う。分野は違うが、我孫子発信で「ちきゅうTALK」を通じて、日本の良さを伝えていこうとの私の考えても相通じるとまでに思うようになっている。それで、焼き物にも関心を持つようになってしまった。今取り組んでいる論文を書くのに、避けて通れないこともあるからだ。そういうわけで、このブログでも、大河ドラマ「軍師・官兵衛」を見ながら、秀吉の朝鮮出兵を思い返しては調べたことをブログにも綴っている。
磁器発見前の有田焼は、白い素地に呉須(コバルト)で文様を描いた藍の染付が多かったが、酒井田柿右衛門が赤絵の技法を生み出し、色絵の磁器が盛んに焼けるようになる。それが、1650年代に入ると、オランダの東インド会社を通じて、ヨーロッパ諸国に輸出されるまでに成長、ヨーロッパの販路を広がっていく。当時、伊万里の港から荷を積んで船が出たため、有田焼は海外ではIMARIと呼ばれ、豪華な色絵や金襴手は、王侯貴族の羨望の的になっていたという。
●古伊万里 江戸時代に焼かれた濃い染付と、赤絵の具を贅沢に使った金襴手と呼ばれる様式のことを指す。伊万里の名は、前述のように、伊万里の港から船積みされたものなので、特に17世紀前半に焼かれた器を初期伊万里と区別される。
●有田焼の系譜 現在の有田焼といえば、佐賀県有田町の周辺で焼かれた磁器のことである。つまり、その総称だ。透明感のある白磁に、藍色の染付、赤、黄、緑などの色絵を施したものが多い。これらは、400年近い有田の歴史の上に立つものだが、歴史的に論じられる有田焼とは、古伊万里、柿右衛門様式、鍋島藩窯の3つの様式の総称です。柿右衛門様式には「濁手(にごして)」と呼ばれる、乳白色の肌を多く残しながら赤絵を描く手法が特徴。
● 鍋島藩窯様式
有田焼は藩で擁護されていたが、なかでも、鍋島藩窯様式は、献上用の極上品のみが焼かれ、それを特に、鍋島様式と区別している。さらに、皇室に納められたものは「禁裏様式」と呼ばれた。その為、1675(延宝3)年、鍋島藩は有田から優秀な陶工を集め、藩窯をこの山深い大川内山に移すということまでした。当時の高度な技法の秘密は厳守され、不良品の破片さえ外に持ち出すことは禁じられていたという。有田から伊万里の海へといたる途中、狭い谷間に31軒もの窯元が肩を寄せるように軒を連ねる山里「大川内山(おおかわちやま)」は秘窯の里と呼ばれた。現在の鍋島焼といわれるもののほとんどは、この大川内山で焼かれている。染付と赤、青、緑の3色を基調にした色鍋島、精緻な染付の藍鍋島、青磁の3タイプあり、青みがかかった地肌や、縦に縞の入ったくし高台、裏文様に特徴がある。
もともと、西洋には中国の景徳鎮の陶器が多くもたらされていたが、明と清の政権交代期の混乱によってそのルートが途絶。次にオランダ人が目をつけたのが日本だった。丁度、初代柿右衛門が長崎で中国人から赤絵の技法を学び、有田に戻って柿右衛門様式と呼ばれる独特の美を持つやきものを完成させた頃だった。東インド会社を設立したオランダ人は、柿右衛門のやきものを世界中に伝えた。柿右衛門様式は海外でも高く評価されるようになり、今でもドイツやベルギーの城に行くと柿右衛門の名品が残されている。ドイツのマイセンの白磁は西洋磁器の頂点とも言われるように、柿右衛門を再現しようとして生まれたものだ。このように西洋の人々を魅了した柿右衛門様式の特色は余白の美。中国絵画の絵画的構図を手本にしながら、日本人独特の余白を生かした美しさが特徴となった。
そうして、陶磁器は西と東をむすぶ、美の伝道師としてリーチと柳宗悦は友情を深め、東から西へ文化の融合を試みた、その出発点が我孫子だったとは、凄い事じゃないか、とワクワクしてくるのだ。先週の大河ドラマで、秀吉は亡くなった。脚本によって、歴史上の人物も色々に描かれ変わってしまうものだなあと、であれば、自分たちの歴史、我孫子のみんなが知るべきであろう事を明らかにしていき、論文にしていきたい。
2014年11月14日
80歳で宇宙飛行士になる!?
欧州宇宙機関(ESA)は日本時間13日1時ごろに、火星と木星の間になるチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に人類初の着陸したと発表しました。小型探査機フィラエが観測調査とデータ送信を完了したが、彗星近くにとどまる親機ロゼッタを経由しての通信は、日本時間15日午前9時半すぎに途切れた。今後は機体に張った太陽電池パネルに太陽光が当たる時間を長くしてバッテリーを充電し、観測再開を目指す。
ところで「八十歳で宇宙飛行士になる!」と学生にハッパをかけている先生がいます。「学生たちの遺伝子を目覚めさせるには、ワクワクすることに取り組むことが一番です。ですから私は大学でもしょっちゅう、そういうことを言う。すると目の色が変わる学生もいるんです。その中の何分の一かでも大化けしてくれれば世の中を引っ張っていけるはずで、そういうきっかけをどんどん与えていくことが、教育者としての私の使命だと考えているのです。」と公言するのは、大同大学学長の澤岡昭氏でした。ご自身の過去を振り返って、ひとは飢餓状態になるとスイッチが入るという、しかも不登校の時期もあったというのだけれど、マイナスに思えることも人生には役にたったようだと言われました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は私は小学校六年になる頃、朝学校に行く時間になると頭が痛くなり、いまでいう登校拒否になりました。
その時に母から言われて、一年間休学したのです。
病院に行っても原因が分からなくて、母は私が心の病になっていることに気づいたのですね。
母は校長に呼ばれて随分叱られたようでしたけれども、頑として行かなくていいと。
でもそのおかげで、私はもともと勉強のできる子供ではなかったのですが、活字を読む習慣が身につきました。家にいても何もやることがないのですから、母の書棚にあった婦人雑誌や本を読んで過ごしたのです。
そして一年遅れて六年になりましたが、友達もいないので毎日問題集を眺めて過ごしていたら、中学校に入って受けた実力試験でクラス二番になりましてね。 友達から口々に「勉強ができるんだね」なんて言われて、それをきっかけに人間がガラッと変わったのです。
高校では生徒会長や文化祭委員長まで務める活発な人間になりましたが、あの不登校の一年がなければそういうことはあり得ませんでした。あの一年間は私にとってまさしく飢餓状態でした。その不登校の体験から確信したことは、人間は変われるということです。それは私の教育の原点でもあります。
月並みかとは思いますが、人生では決して遅すぎるということはない、いくつになっても変われるチャンスはあると私は信じています。ただ、それは何の努力もせずにある日突然か変われるということではありません。
今日よりは明日、明日よりは明後日、0.1%でも0.5%でも成長する努力を積み重ねている人だけにチャンスは訪れるものです。
年齢は関係ありません。
ですから私も、そういう日々を生涯積み重ねていきたいと考えて「八十歳で宇宙飛行士になる!」と宣言しているわけです。“人間の可能性はいくつになっても開ける”
出典:
『月刊致知 2014年10月号』致知出版社
(大同大学学長、澤岡昭氏 & 筑波大学名誉教授、村上和雄氏対談)
ところで「八十歳で宇宙飛行士になる!」と学生にハッパをかけている先生がいます。「学生たちの遺伝子を目覚めさせるには、ワクワクすることに取り組むことが一番です。ですから私は大学でもしょっちゅう、そういうことを言う。すると目の色が変わる学生もいるんです。その中の何分の一かでも大化けしてくれれば世の中を引っ張っていけるはずで、そういうきっかけをどんどん与えていくことが、教育者としての私の使命だと考えているのです。」と公言するのは、大同大学学長の澤岡昭氏でした。ご自身の過去を振り返って、ひとは飢餓状態になるとスイッチが入るという、しかも不登校の時期もあったというのだけれど、マイナスに思えることも人生には役にたったようだと言われました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は私は小学校六年になる頃、朝学校に行く時間になると頭が痛くなり、いまでいう登校拒否になりました。
その時に母から言われて、一年間休学したのです。
病院に行っても原因が分からなくて、母は私が心の病になっていることに気づいたのですね。
母は校長に呼ばれて随分叱られたようでしたけれども、頑として行かなくていいと。
でもそのおかげで、私はもともと勉強のできる子供ではなかったのですが、活字を読む習慣が身につきました。家にいても何もやることがないのですから、母の書棚にあった婦人雑誌や本を読んで過ごしたのです。
そして一年遅れて六年になりましたが、友達もいないので毎日問題集を眺めて過ごしていたら、中学校に入って受けた実力試験でクラス二番になりましてね。 友達から口々に「勉強ができるんだね」なんて言われて、それをきっかけに人間がガラッと変わったのです。
高校では生徒会長や文化祭委員長まで務める活発な人間になりましたが、あの不登校の一年がなければそういうことはあり得ませんでした。あの一年間は私にとってまさしく飢餓状態でした。その不登校の体験から確信したことは、人間は変われるということです。それは私の教育の原点でもあります。
月並みかとは思いますが、人生では決して遅すぎるということはない、いくつになっても変われるチャンスはあると私は信じています。ただ、それは何の努力もせずにある日突然か変われるということではありません。
今日よりは明日、明日よりは明後日、0.1%でも0.5%でも成長する努力を積み重ねている人だけにチャンスは訪れるものです。
年齢は関係ありません。
ですから私も、そういう日々を生涯積み重ねていきたいと考えて「八十歳で宇宙飛行士になる!」と宣言しているわけです。“人間の可能性はいくつになっても開ける”
出典:
『月刊致知 2014年10月号』致知出版社
(大同大学学長、澤岡昭氏 & 筑波大学名誉教授、村上和雄氏対談)
2014年11月13日
ふなっしーのケーキ登場
千葉県でダントツ人気は、言わずと知れたTDL/TDSのミッキーたちだけれど、Tokyoと冠している所が県民にはスッキリしない。そして、ようやく船橋の梨の妖精だと名乗る「ふなっしー」が認知されてきた。国内はおろか、インターナショナル(アジアのみならず、ロンドンも)になっているところが、船橋も良く知る千葉県民の私としても嬉しい。
ふなっしーのデビューは自発的なものだった。船橋を元気づけようと、ゆるきゃらという現代の新たな親善大使・観光産業大使になって、地元を盛り上げようとスタートした。しかし、お役所的、組織による発案でなかったという出自のために、目立ちたがり屋だと叩かれ続け、公式な場にはそっぽを向かれた。船橋住民であるだけが強みのふなっしーは、明るいキャラを曇らせることなく、何度叩かれても腐らずに、まさしく飛び回っていたら・・・・。
当初は、船橋市役所でも公認(既にオフィシャルな公認ゆるきゃらが存在していた)していないと非難されたが、今や市からも表彰されるは、感謝状をもらうは、大奮闘となっている。外国にも招待されて、中国語も英語も流暢にスピーチするは、歌って踊るエンターテイナー性もあると実力をネットの画像で展開して、モテモテになっていったからだった。
そして、遂に、その人気ぶりの証ともいうべき、ゆるきゃらグッズが生まれた。前人(?)未到のゆるきゃらケーキになったのだ。フナッシー公認のオリジナルケーキは、下記の写真のような「ふなっしーのバスタイム なし風呂でブシャー!!」として販売された。(船橋経済新聞)
ケーキは、2014年度の船橋のナシ購入客を対象とし、10月13日に船橋グランドホテルで行われたふなっしーディナーのデザートとして登場したもの。ケーキ店オーナーで、パティシエの高木康裕さん(テレビチャンピオンで優勝)と「ふなっしー」がコラボした食の秋にむけた話題の作品(!)で、年内いっぱいの期間限定で販売する。10月中旬から販売を始めたが、1日15個限定で毎日すぐに完売してしまうという。
頭部はアプリコットのムース、ふなっしーのフワフワ感を演出するためパウダーをまとっている。胴体部分は船橋のナシコンポートで満たされた「ナシ風呂」に漬かって、あたかもバスタイムを楽しんでいるような「ふなっしー」を表現している。そのバスタブの中身は洋梨のケーキを使用。「一つのケーキで3つの味を楽しめる」と高木さん。
ホテルでのスペシャルディナーの直前に「ふなっしー」自身がツイッターで紹介したため、各地から購入希望者が増えているという。「かわいいから購入した」「友人へのお土産に」など、購入者が格別なファンというのではなくても、その愛らしさにさまざまな地域から評判で、美味しくて、クマモン(熊本県PRマスコットキャラクター。ゆるキャラグランプリ2011王者なため、全国のスーパー、コンビニでもグッズ販売。現在の肩書は『熊本県しあわせ部長』を名乗る公務員)に負けない人気に急上昇で、新商品がうまれてくるまでになったことを示している。残念だけれど、商品を冷凍すること技術ができないためチルド宅配には対応できないとのこと。幸い、我孫子なら買いに行ける。京成本線の海神駅近くの「菓子工房アントレ」は、
営業時間は10時〜20時。火曜定休。
船橋市海神6、TEL 047-434-8353
フナッシー自らは、なしの妖精というが、そのジャンプ力が並みではなくて、ジャンプをしながらも声のトーンも上がるのだから、尋常じゃなくタフ、魔物だ。クマモンのような公的な職場で働いてきたのとは生れが違うため、筋トレでもしたような筋金入りと、思えるプロ根性があるし、「作詞作曲能力もあるらしくて、昔はともかく、千葉の人気者は一か月にギャラが億単位ではないかとすら噂がとぶほど、自由に出没している。暑い最中、着ぐるみで動くとはどれほど大変かは、知る人ぞ知るだが(?!)、ふなっしーにあっては季節に関係なくホップ・ステップ・ジャンプして、ゆくキャラ界をのしてきた。組織なく知名度を上げていった、ど根性ストリーを持つこともファンが離れない理由かもしれない。ディスニー夢の世界を追えるミッキー、ミニーのUSキャラだけじゃなくて、フナッシーがいる千葉に行こうと言わせるようになってきているようだ。それほどの人気者は、長嶋茂雄氏、Qちゃんに次ぐのではないか、な。みんな、屈託なく明るい、それが千葉のひとつの特徴なるのだろう。頑張れふなっしー、頑張れ千葉、頑張れ我孫子のウナ吉さん!(因みに、ウナ吉バーガーは、我が家のご近所さん「カフェドック」のオーナー妙さんの考案したもの、地元野菜たっぷりに、栄養たっぷり、愛情たっぷり)
ふなっしーのデビューは自発的なものだった。船橋を元気づけようと、ゆるきゃらという現代の新たな親善大使・観光産業大使になって、地元を盛り上げようとスタートした。しかし、お役所的、組織による発案でなかったという出自のために、目立ちたがり屋だと叩かれ続け、公式な場にはそっぽを向かれた。船橋住民であるだけが強みのふなっしーは、明るいキャラを曇らせることなく、何度叩かれても腐らずに、まさしく飛び回っていたら・・・・。
当初は、船橋市役所でも公認(既にオフィシャルな公認ゆるきゃらが存在していた)していないと非難されたが、今や市からも表彰されるは、感謝状をもらうは、大奮闘となっている。外国にも招待されて、中国語も英語も流暢にスピーチするは、歌って踊るエンターテイナー性もあると実力をネットの画像で展開して、モテモテになっていったからだった。
そして、遂に、その人気ぶりの証ともいうべき、ゆるきゃらグッズが生まれた。前人(?)未到のゆるきゃらケーキになったのだ。フナッシー公認のオリジナルケーキは、下記の写真のような「ふなっしーのバスタイム なし風呂でブシャー!!」として販売された。(船橋経済新聞)
ケーキは、2014年度の船橋のナシ購入客を対象とし、10月13日に船橋グランドホテルで行われたふなっしーディナーのデザートとして登場したもの。ケーキ店オーナーで、パティシエの高木康裕さん(テレビチャンピオンで優勝)と「ふなっしー」がコラボした食の秋にむけた話題の作品(!)で、年内いっぱいの期間限定で販売する。10月中旬から販売を始めたが、1日15個限定で毎日すぐに完売してしまうという。
頭部はアプリコットのムース、ふなっしーのフワフワ感を演出するためパウダーをまとっている。胴体部分は船橋のナシコンポートで満たされた「ナシ風呂」に漬かって、あたかもバスタイムを楽しんでいるような「ふなっしー」を表現している。そのバスタブの中身は洋梨のケーキを使用。「一つのケーキで3つの味を楽しめる」と高木さん。
ホテルでのスペシャルディナーの直前に「ふなっしー」自身がツイッターで紹介したため、各地から購入希望者が増えているという。「かわいいから購入した」「友人へのお土産に」など、購入者が格別なファンというのではなくても、その愛らしさにさまざまな地域から評判で、美味しくて、クマモン(熊本県PRマスコットキャラクター。ゆるキャラグランプリ2011王者なため、全国のスーパー、コンビニでもグッズ販売。現在の肩書は『熊本県しあわせ部長』を名乗る公務員)に負けない人気に急上昇で、新商品がうまれてくるまでになったことを示している。残念だけれど、商品を冷凍すること技術ができないためチルド宅配には対応できないとのこと。幸い、我孫子なら買いに行ける。京成本線の海神駅近くの「菓子工房アントレ」は、
営業時間は10時〜20時。火曜定休。
船橋市海神6、TEL 047-434-8353
フナッシー自らは、なしの妖精というが、そのジャンプ力が並みではなくて、ジャンプをしながらも声のトーンも上がるのだから、尋常じゃなくタフ、魔物だ。クマモンのような公的な職場で働いてきたのとは生れが違うため、筋トレでもしたような筋金入りと、思えるプロ根性があるし、「作詞作曲能力もあるらしくて、昔はともかく、千葉の人気者は一か月にギャラが億単位ではないかとすら噂がとぶほど、自由に出没している。暑い最中、着ぐるみで動くとはどれほど大変かは、知る人ぞ知るだが(?!)、ふなっしーにあっては季節に関係なくホップ・ステップ・ジャンプして、ゆくキャラ界をのしてきた。組織なく知名度を上げていった、ど根性ストリーを持つこともファンが離れない理由かもしれない。ディスニー夢の世界を追えるミッキー、ミニーのUSキャラだけじゃなくて、フナッシーがいる千葉に行こうと言わせるようになってきているようだ。それほどの人気者は、長嶋茂雄氏、Qちゃんに次ぐのではないか、な。みんな、屈託なく明るい、それが千葉のひとつの特徴なるのだろう。頑張れふなっしー、頑張れ千葉、頑張れ我孫子のウナ吉さん!(因みに、ウナ吉バーガーは、我が家のご近所さん「カフェドック」のオーナー妙さんの考案したもの、地元野菜たっぷりに、栄養たっぷり、愛情たっぷり)
2014年11月12日
日本の酒づくり そのA、B
***そのA**************
日本酒には、つくればつくるだけ売れる時代があった。現在のようにアルコール飲料に多様な選択肢はなく、慶弔時の振る舞い酒といえば日本酒、進物の需要も多かった。晩酌の習慣は一般的で、外でも日本酒はよく呑まれていた。何より日本人の飲酒量が今よりずっと多かった。だがこの時期、灘、伏見の大手から地酒の蔵にいたるまで、多くが繁栄にあぐらをかき、酒質の研鑽もないがしろだった。日本国中に、まずい酒が横行したのだ。女性たちが「たしなむ程度」と言わずに、食事でアルコールをお洒落に飲むようになると、ワインとチーズも普及した。こぎれいなサイズの輸入ビールも増えた。やがて日本酒は敬遠され始める。最盛期に4000社を数えた日本酒メーカーは、高井幹人がこの世界に入った頃、実際に酒を醸しているのがわずか1463蔵に激減した。09年には1302蔵まで減少している。
都会に流通する地酒は、純米大吟醸酒を頂点に戴く、手の込んだつくりの高価な酒だ。大多数の地方蔵の経営は、醸造アルコールや糖類などを添加し、安価かつ多量に売り捌く普通酒で支えられている。その最たる例は大容量、低価格パック酒だ。高井の蔵でもメインは普通酒。30あるタンクのうち、純米酒のタンクは、たった1つしかなかった。だが彼は、純米酒や吟醸酒づくりを志す。
「ウチの先祖は近江商人です。行商先の群馬で酒蔵を開いたのは290年近くも昔のこと。明治期に6代目が、時のヒーロー大山巌元帥の名をとって巌ブランドを立ち上げました。……10年、なんとか会社を持ちこたえることができたら、社員の厚生年金と社会保険の満額受給要件を満たせる。そのために、蔵を存続させ少量の酒を醸し続けることにしました」酒づくりほど奥深いものはありません。遅まきながら、普通酒じゃない酒を醸すのも方策ではないか。座して死を待つより、新しいことに挑戦してみようという気になりました」
ミイラとりがミイラに─苦笑する高井だが、迷いはなかった。杜氏と二人三脚でうまい酒づくりに邁進した。
巌は最盛期に3000石を産したが、今は500石(一升びん換算で5万本)の小さな蔵でしかない。地元流通が主で、大都会で巌を入手するには苦労する、それこそ手に入れて飲んでみたい日本酒になった。
文学から民俗学、経済学などの学際を行き来する社会学を修めたいと、高校球児での夢半ばだったことから、慶応商学部に合格したのも、好きな野球人生を花開かせたいと翌年には京大文学部に再入学し、野球部にも所属した。
「夢って言葉、青臭いけど自分は大好きです。いずれはウチで人材を育て、日本酒復興を果たしたい」地元、群馬でようやく手に入るかと引っ張りだことなっており、近い将来、日本の銘酒と呼ばれる日が来るだろう。
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130314/businesseliteturnedsakemaker2/page/4
:::::その3:::::::::::::::
酒蔵の人々に、「救世主」「ニューリーダー」「革命児」と期待される若き8代目当主の佐藤卯兵衛だ。5代目は大正期に大阪大の前身・大阪高工醸造科を卒業、原料米の精選と徹底した精米、長期低温発酵など近代的酒造法を採用し、グレードの高い酒を醸し、その卯兵衛の時代に新政の名は全国へ轟く。また、蔵つき酵母が極めて優秀と認められ「きょうかい6号酵母」として全国に頒布されることになった。曽祖父は、うまい日本酒づくりの先駆者であり改革者だったのだ。 保守的で極めて緩やかに時間が流れる日本酒業界において、卯兵衛の曾孫・祐輔の言動は眼をひく。
発酵飲料としての食文化はもちろん、歴史や民俗学、地方文化、嗜好品、農業、コミュニケーション論、社会学、心理学……これらの面からもアプローチし、日本酒文化を確立していきたいという。
少年から青年期を振り返ると、多感な時代の佐藤の輪郭が浮かぶ。志向と嗜好は人を語る。彼は1浪して東大文学部英文学科に合格する。卒業論文は「ボブ・ディランとウイリアム・S・バロウズ」──ビートニクを代表する2人を選んだ。「やりたかったのは心理学や英文学。ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』が一番の愛読書でした。それにサイケデリックな世界にも興味津々で、プログレロックのバンドを組みベースを弾いてました。キング・クリムゾンとかピンク・フロイドみたいな有名どころだけでなく、ドイツ系のカン、アシュ・ラ・テンペルなんかが愛聴盤です。大学時代は自由に、好きなことだけをやらせてもらいました。小説や詩、評論を書き、南米やインドを旅し、音楽を聴き、美術館を巡りました。こういったことが、今の僕の土台をつくってくれました」
こうした学生時代の後、職業人となった彼は、営業先で愛知の「醸し人九平次」と出逢い、思わず居住まいを正す。うまい日本酒は、五感だけでなく五臓六腑に染みわたる。身体に同化し感動させる。とうとう佐藤は酒づくりに従事する決意を固めた。──07年の秋、父に頭を下げ、蔵入りを請う。
「蔵に入って、酒に対する忠誠心は誰にも負けないつもりでいます。だってお酒は人智をこえたところにありますもん。酵母も米も水も発酵も、ぜんぶ自然のたまもの。自然とケンカしちゃダメ。素直に仲よく、でも必死に工夫してやっていかないと」「うまい酒で心地よくトリップしてほしい。それにドラッグだから、カルチャーをからめて論じないと批判や悪口の対象になっちゃう」
「酒づくりと大学で打ち込んだ創作は、精神という意味で何も変わりません。美しいもの、感動するもの、ピュアでカッコよくて、ちょっとクセのあるもの……いや、変わっていないのはクリエイティブなマインドだけじゃなく、僕自身かもしれないですね」
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130311/satoyusuke/page/4
日本酒には、つくればつくるだけ売れる時代があった。現在のようにアルコール飲料に多様な選択肢はなく、慶弔時の振る舞い酒といえば日本酒、進物の需要も多かった。晩酌の習慣は一般的で、外でも日本酒はよく呑まれていた。何より日本人の飲酒量が今よりずっと多かった。だがこの時期、灘、伏見の大手から地酒の蔵にいたるまで、多くが繁栄にあぐらをかき、酒質の研鑽もないがしろだった。日本国中に、まずい酒が横行したのだ。女性たちが「たしなむ程度」と言わずに、食事でアルコールをお洒落に飲むようになると、ワインとチーズも普及した。こぎれいなサイズの輸入ビールも増えた。やがて日本酒は敬遠され始める。最盛期に4000社を数えた日本酒メーカーは、高井幹人がこの世界に入った頃、実際に酒を醸しているのがわずか1463蔵に激減した。09年には1302蔵まで減少している。
都会に流通する地酒は、純米大吟醸酒を頂点に戴く、手の込んだつくりの高価な酒だ。大多数の地方蔵の経営は、醸造アルコールや糖類などを添加し、安価かつ多量に売り捌く普通酒で支えられている。その最たる例は大容量、低価格パック酒だ。高井の蔵でもメインは普通酒。30あるタンクのうち、純米酒のタンクは、たった1つしかなかった。だが彼は、純米酒や吟醸酒づくりを志す。
「ウチの先祖は近江商人です。行商先の群馬で酒蔵を開いたのは290年近くも昔のこと。明治期に6代目が、時のヒーロー大山巌元帥の名をとって巌ブランドを立ち上げました。……10年、なんとか会社を持ちこたえることができたら、社員の厚生年金と社会保険の満額受給要件を満たせる。そのために、蔵を存続させ少量の酒を醸し続けることにしました」酒づくりほど奥深いものはありません。遅まきながら、普通酒じゃない酒を醸すのも方策ではないか。座して死を待つより、新しいことに挑戦してみようという気になりました」
ミイラとりがミイラに─苦笑する高井だが、迷いはなかった。杜氏と二人三脚でうまい酒づくりに邁進した。
巌は最盛期に3000石を産したが、今は500石(一升びん換算で5万本)の小さな蔵でしかない。地元流通が主で、大都会で巌を入手するには苦労する、それこそ手に入れて飲んでみたい日本酒になった。
文学から民俗学、経済学などの学際を行き来する社会学を修めたいと、高校球児での夢半ばだったことから、慶応商学部に合格したのも、好きな野球人生を花開かせたいと翌年には京大文学部に再入学し、野球部にも所属した。
「夢って言葉、青臭いけど自分は大好きです。いずれはウチで人材を育て、日本酒復興を果たしたい」地元、群馬でようやく手に入るかと引っ張りだことなっており、近い将来、日本の銘酒と呼ばれる日が来るだろう。
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130314/businesseliteturnedsakemaker2/page/4
:::::その3:::::::::::::::
酒蔵の人々に、「救世主」「ニューリーダー」「革命児」と期待される若き8代目当主の佐藤卯兵衛だ。5代目は大正期に大阪大の前身・大阪高工醸造科を卒業、原料米の精選と徹底した精米、長期低温発酵など近代的酒造法を採用し、グレードの高い酒を醸し、その卯兵衛の時代に新政の名は全国へ轟く。また、蔵つき酵母が極めて優秀と認められ「きょうかい6号酵母」として全国に頒布されることになった。曽祖父は、うまい日本酒づくりの先駆者であり改革者だったのだ。 保守的で極めて緩やかに時間が流れる日本酒業界において、卯兵衛の曾孫・祐輔の言動は眼をひく。
発酵飲料としての食文化はもちろん、歴史や民俗学、地方文化、嗜好品、農業、コミュニケーション論、社会学、心理学……これらの面からもアプローチし、日本酒文化を確立していきたいという。
少年から青年期を振り返ると、多感な時代の佐藤の輪郭が浮かぶ。志向と嗜好は人を語る。彼は1浪して東大文学部英文学科に合格する。卒業論文は「ボブ・ディランとウイリアム・S・バロウズ」──ビートニクを代表する2人を選んだ。「やりたかったのは心理学や英文学。ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』が一番の愛読書でした。それにサイケデリックな世界にも興味津々で、プログレロックのバンドを組みベースを弾いてました。キング・クリムゾンとかピンク・フロイドみたいな有名どころだけでなく、ドイツ系のカン、アシュ・ラ・テンペルなんかが愛聴盤です。大学時代は自由に、好きなことだけをやらせてもらいました。小説や詩、評論を書き、南米やインドを旅し、音楽を聴き、美術館を巡りました。こういったことが、今の僕の土台をつくってくれました」
こうした学生時代の後、職業人となった彼は、営業先で愛知の「醸し人九平次」と出逢い、思わず居住まいを正す。うまい日本酒は、五感だけでなく五臓六腑に染みわたる。身体に同化し感動させる。とうとう佐藤は酒づくりに従事する決意を固めた。──07年の秋、父に頭を下げ、蔵入りを請う。
「蔵に入って、酒に対する忠誠心は誰にも負けないつもりでいます。だってお酒は人智をこえたところにありますもん。酵母も米も水も発酵も、ぜんぶ自然のたまもの。自然とケンカしちゃダメ。素直に仲よく、でも必死に工夫してやっていかないと」「うまい酒で心地よくトリップしてほしい。それにドラッグだから、カルチャーをからめて論じないと批判や悪口の対象になっちゃう」
「酒づくりと大学で打ち込んだ創作は、精神という意味で何も変わりません。美しいもの、感動するもの、ピュアでカッコよくて、ちょっとクセのあるもの……いや、変わっていないのはクリエイティブなマインドだけじゃなく、僕自身かもしれないですね」
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130311/satoyusuke/page/4
2014年11月11日
日本の酒の魅力、エリート蔵人が受け継ぐ その@
このところ、日本の食に関連して綴ってきましたが、極めつけの「日本酒」のこの頃を鑑みて、秋の夜長も楽しみ、このところの私のテーマである国際日本研究も進めたいなどと思う。そこで、ワイン、発泡酒、輸入ビールと心移りしたところもありますが、じっくり味わう日本の秋に、それらの煽りで日本酒の影が薄くなってきて、酒量に影響していたとは誰も考えなかった。しかし、現実問題、日本酒は1974年を境に生産量と販売量とも下降線を描き続けていた。廃業、転業を余儀なくされた蔵、消えた銘柄は数知れない。
その中で、福島県二本松市に日本酒「大七」を醸す彼の蔵はある。大七は、生酛という昔ながらの手間のかかる醸造法をあえて選び、数年しっかりと熟成させてから出荷する。「大七、生酛、熟成」は連語のように日本酒好きに語られ、銘酒としてのステイタスは揺るぎない。
「私が実家を継ぐ決心を固めたのは、大学卒業を控えた1983年あたりです。幸い実家はまだ安泰でしたが、停滞感が強く保守的な日本酒業界は、若者が喜んで入っていく世界じゃありませんでした。でも、祖父が語ってくれる酒づくりの逸話は、私にとって子守唄やおとぎ話のようなものでした」
秋になると酒づくりが始まり、蔵は賑やかになる。杜氏が蔵人を率いて現れ、ひと冬の間、祖父や父と醸造に邁進する。雪深い季節も人と物の出入りは途絶えない。春が来て酒づくりを終えると、母屋の2間をぶちぬいた広間で大宴会が催される─太田にとっては甘酸っぱさをともなう、懐かしい記憶だ。
祖父は眼を落とし、沈黙した後にぼそりといった。
「……英晴、もうこれ以上は待てないよ」
太田はその横顔に老いと焦燥、家業の重みを見る。
「祖父は80歳を過ぎていました。父が跡を継いでいるとはいえ、たった一人の男の孫が蔵に入るのを見届けたい。酒づくりの神髄を伝えたいという願いがひしひしと伝わってきました」
太田は再び葛藤する。
バブル経済、吟醸酒、生酒などのブームこそありましたが、業界は次第に厳しい状況に落ち込んでいきました」太田は暗闇を抜け出すために模索を続ける。「結局は酒質を高めるしかない。大七の特質は、ほとんどの蔵から、面倒ということでそっぽを向かれた生もとづくりでした。おまけに何年も熟成させてから出荷する。効率の悪い酒づくりですが、この弱点は、必ず強みになる。そう信じてやってきました」
祖父から父、孫へ。90余年にわたる歳月と研鑽を経て、大七は決して派手ではないが、誰もが認める良質と伝統のブランドとなった。近年になって大七の酒づくりは再評価され、追従する蔵も増えた。
太田は苦笑まじりでいった。
「つくづく自分は“二本松人”だと思います」二本松では、「正直に真正面から取り組まないと評価してもらえない」。住民は、「とにかく義理堅い」。かつて、戊辰戦争では「義理ある会津に加担」し、賊軍よばわりされることも厭わなかった─。
太田は東京大学法学部で政治哲学を専攻していた。2人の姉がいて、男子は彼だけだ。幼時から本好きで、青春時代はドストエフスキーやプルースト、サルトルなどを読破した。 「学者になりたい想いは否定できません。でも、今は迷いなどありません。帰るべきところへ帰ってきたと断言できます」 「とりわけロシア文学には耽溺してました。ロシアは独自の文化を花咲かせた国ですが、いわゆる西洋の華々しい文明からはちょっと離れたところにいました。そういう風土で醸された文学や詩に、ロシア人の複雑なコンプレックスを垣間見た─東北人たる私の感性や血が反応し、共鳴したんでしょうね」
蔵の創業は1752(宝暦2)年というから260年をこす歴史を持つ。この歳月の間には山と谷が混在している。ことに太田が経営にタッチしてからは、日本酒業界そのものが苦境と辛酸を味わうことになった。家業と大七の酒づくりのすばらしさ、日本酒という食文化を守る意味、家の伝統の持つ重み……これらをどう語り、説得するか。30数年前の自分に立ち戻りながら、父となり当主でもある太田は、あれこれ思案を続けていた。更に福島震源の大震災である。
幸い、建物自体の被害は軽微で、タンクが少しずれたり、瓶詰め途中の酒が落ちた程度の被害で済んだ。、夕方までには概ね社内は落ち着きを取り戻し、その日の夜に予定されていた会合に出ようかと思った位だった。
地震だけを念頭に置いていたわけではないが、新社屋については、百年後も十分に使える建物を、とできるだけ強固なものにした。生もとづくりには、蔵に棲みついた微生物の存在が欠かせないので、蔵を建て替えるということは、そのたびに微生物にも引越しをしてもらわなければなりません。数十年ごとにやっていたのでは、その手間も大変。実際、新社屋への移転には5年もの時間をかけたとういう。当時としてはあまりなかった外断熱を施した厚いコンクリートの壁を採用するなど、耐震構造も備えた蔵になった。
さらに、毎年秋頃に防災訓練を行っていた。震災前の訓練では地震体験車で、全社員が関東大震災や阪神淡路大震災の揺れを体験者だった。それで、瓶貯蔵の方法を見直し、瓶ケースにかけるバンドを増やしたり、全体をラッピングするなどした。社員も大きな揺れを体験したことで、震災当日もあわてることなく行動したという。停電もない地区だったので、事故発生の第一報を聞き、まずは全社の空調を止め、さらに換気扇にビニールシートを張り目張りをして、外気を遮断しました。ガイガーカウンターを入手して測定したところ、酒蔵の中は0.06マイクロシーベルト程度で、平常値と変わらない状態だった。
また、「杜氏が井戸の水をどんどん汲み上げるよう にと指示、大きな地震によって地下水の水脈が変わり、水が出なくなるのを防ぐためだったんです。水脈がずれて行き場を失いかけた水を導くということです。杜氏によれば、昔から言われてきたことだったそうです。」
その後、換気口などには高性能のフィルターを設置したり、搬出・搬入口にエアカーテンを導入するなど、恒久的な対策に変換した。「事故直後から続けてきたので、社員は今も入室する際には濡れタオルで体の塵やほこりを拭っていますね。たくさんの方に応援や支援をいただき、感激しました。海外の取引先も心配して連絡をくださったのですが、皆さんあまり放射線のことには触れないんです。寝た子を起こしてはいけないというような感じで、聞きにくかったのでしょう。隠せば隠すだけ不安は募ります。だから、詳しい状況を逐一ホームページに掲載して、英文にも訳して。正確な情報が伝われば、皆さん理解してくださいます。」
「FUKUSHIMA」は今、世界で有名になってしまった。海外に行っても注目される。でも、だから得をすることもあったという、フランスで行われた国際アルコール見本市では、これまではいろいろな地酒メーカーの共同ブースで出品していたが、初めて単独ブースで出品しました。福島の蔵元ということで注目され、逆に安全性を訴えることができたと思ったというのだ。
その後、スカイツリーの公式ショップに採用されたり、高野山の開創1200年の際に記念の酒を奉納することが決まったりと、その評価がますます高めた。
「日本酒の国際化が進む中で、日本酒の原点と言いますか、本来の製法が見直されているのだと思います。国内で採れた作物を醸造する。微生物の力や自然の力、さらに人間の知恵や技を積み重ねて個性を生む。それは、まさに日本酒の持つ普遍的な価値だと思います。生もとづくりを大切にしたい」
震災後、「日本回帰」とか「絆」という言葉に象徴されるように、「和」のものが見直されて、塩麹のような伝統調味料が人気となった例もある。日本酒は、シェアとしては小さくなったが、選ばれ続けていく努力は怠ってはならないと語る。
また、政府は「國酒プロジェクト」を立ち上げ、日本酒を応援しようという動きを見せている。日本酒と日本食を組み合わせてその魅力を伝えるということで、期待したい。実は、日本から輸出される食品の中で、日本酒は8位に位置して、海外の市場では日本酒は伸びている。ところが、日本酒とワインを比較してみると、ワインを飲む日本人なら誰でも1つや2つ、ロマネコンティとかワインの銘柄を挙げるが、でも、フランス人に日本酒の銘柄を聞いても、ほとんどは知らない。これからは、日本酒への正当な評価をしてもらえるように、日本人がフランスでワイナリーを訪ねるように、外国からも日本酒ファンが来るような状況をつくることも必要だ。
大七酒造では昨年秋、日本酒専門家を認定する団体「日本酒サービス研究会」と「酒匠研究会連合会」が主催する「地酒大show2011」において、日本酒全2部門とリキュール部門の3部門で最高位となるプラチナ賞を受賞した。しかもこの三冠を2009年、2010年、2011年の3年連続で受賞しているというから、まさに快挙である。生もとづくりという先人が築いた造りにこだわり続けたことで、「かつては変人と呼ばれたこともあるんです」と笑う太田社長だが、そのこだわりこそが今や誰もが認める逸品を生み、高い評価を得ていることは
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130313/businesseliteturnedsakemaker/page/2
その中で、福島県二本松市に日本酒「大七」を醸す彼の蔵はある。大七は、生酛という昔ながらの手間のかかる醸造法をあえて選び、数年しっかりと熟成させてから出荷する。「大七、生酛、熟成」は連語のように日本酒好きに語られ、銘酒としてのステイタスは揺るぎない。
「私が実家を継ぐ決心を固めたのは、大学卒業を控えた1983年あたりです。幸い実家はまだ安泰でしたが、停滞感が強く保守的な日本酒業界は、若者が喜んで入っていく世界じゃありませんでした。でも、祖父が語ってくれる酒づくりの逸話は、私にとって子守唄やおとぎ話のようなものでした」
秋になると酒づくりが始まり、蔵は賑やかになる。杜氏が蔵人を率いて現れ、ひと冬の間、祖父や父と醸造に邁進する。雪深い季節も人と物の出入りは途絶えない。春が来て酒づくりを終えると、母屋の2間をぶちぬいた広間で大宴会が催される─太田にとっては甘酸っぱさをともなう、懐かしい記憶だ。
祖父は眼を落とし、沈黙した後にぼそりといった。
「……英晴、もうこれ以上は待てないよ」
太田はその横顔に老いと焦燥、家業の重みを見る。
「祖父は80歳を過ぎていました。父が跡を継いでいるとはいえ、たった一人の男の孫が蔵に入るのを見届けたい。酒づくりの神髄を伝えたいという願いがひしひしと伝わってきました」
太田は再び葛藤する。
バブル経済、吟醸酒、生酒などのブームこそありましたが、業界は次第に厳しい状況に落ち込んでいきました」太田は暗闇を抜け出すために模索を続ける。「結局は酒質を高めるしかない。大七の特質は、ほとんどの蔵から、面倒ということでそっぽを向かれた生もとづくりでした。おまけに何年も熟成させてから出荷する。効率の悪い酒づくりですが、この弱点は、必ず強みになる。そう信じてやってきました」
祖父から父、孫へ。90余年にわたる歳月と研鑽を経て、大七は決して派手ではないが、誰もが認める良質と伝統のブランドとなった。近年になって大七の酒づくりは再評価され、追従する蔵も増えた。
太田は苦笑まじりでいった。
「つくづく自分は“二本松人”だと思います」二本松では、「正直に真正面から取り組まないと評価してもらえない」。住民は、「とにかく義理堅い」。かつて、戊辰戦争では「義理ある会津に加担」し、賊軍よばわりされることも厭わなかった─。
太田は東京大学法学部で政治哲学を専攻していた。2人の姉がいて、男子は彼だけだ。幼時から本好きで、青春時代はドストエフスキーやプルースト、サルトルなどを読破した。 「学者になりたい想いは否定できません。でも、今は迷いなどありません。帰るべきところへ帰ってきたと断言できます」 「とりわけロシア文学には耽溺してました。ロシアは独自の文化を花咲かせた国ですが、いわゆる西洋の華々しい文明からはちょっと離れたところにいました。そういう風土で醸された文学や詩に、ロシア人の複雑なコンプレックスを垣間見た─東北人たる私の感性や血が反応し、共鳴したんでしょうね」
蔵の創業は1752(宝暦2)年というから260年をこす歴史を持つ。この歳月の間には山と谷が混在している。ことに太田が経営にタッチしてからは、日本酒業界そのものが苦境と辛酸を味わうことになった。家業と大七の酒づくりのすばらしさ、日本酒という食文化を守る意味、家の伝統の持つ重み……これらをどう語り、説得するか。30数年前の自分に立ち戻りながら、父となり当主でもある太田は、あれこれ思案を続けていた。更に福島震源の大震災である。
幸い、建物自体の被害は軽微で、タンクが少しずれたり、瓶詰め途中の酒が落ちた程度の被害で済んだ。、夕方までには概ね社内は落ち着きを取り戻し、その日の夜に予定されていた会合に出ようかと思った位だった。
地震だけを念頭に置いていたわけではないが、新社屋については、百年後も十分に使える建物を、とできるだけ強固なものにした。生もとづくりには、蔵に棲みついた微生物の存在が欠かせないので、蔵を建て替えるということは、そのたびに微生物にも引越しをしてもらわなければなりません。数十年ごとにやっていたのでは、その手間も大変。実際、新社屋への移転には5年もの時間をかけたとういう。当時としてはあまりなかった外断熱を施した厚いコンクリートの壁を採用するなど、耐震構造も備えた蔵になった。
さらに、毎年秋頃に防災訓練を行っていた。震災前の訓練では地震体験車で、全社員が関東大震災や阪神淡路大震災の揺れを体験者だった。それで、瓶貯蔵の方法を見直し、瓶ケースにかけるバンドを増やしたり、全体をラッピングするなどした。社員も大きな揺れを体験したことで、震災当日もあわてることなく行動したという。停電もない地区だったので、事故発生の第一報を聞き、まずは全社の空調を止め、さらに換気扇にビニールシートを張り目張りをして、外気を遮断しました。ガイガーカウンターを入手して測定したところ、酒蔵の中は0.06マイクロシーベルト程度で、平常値と変わらない状態だった。
また、「杜氏が井戸の水をどんどん汲み上げるよう にと指示、大きな地震によって地下水の水脈が変わり、水が出なくなるのを防ぐためだったんです。水脈がずれて行き場を失いかけた水を導くということです。杜氏によれば、昔から言われてきたことだったそうです。」
その後、換気口などには高性能のフィルターを設置したり、搬出・搬入口にエアカーテンを導入するなど、恒久的な対策に変換した。「事故直後から続けてきたので、社員は今も入室する際には濡れタオルで体の塵やほこりを拭っていますね。たくさんの方に応援や支援をいただき、感激しました。海外の取引先も心配して連絡をくださったのですが、皆さんあまり放射線のことには触れないんです。寝た子を起こしてはいけないというような感じで、聞きにくかったのでしょう。隠せば隠すだけ不安は募ります。だから、詳しい状況を逐一ホームページに掲載して、英文にも訳して。正確な情報が伝われば、皆さん理解してくださいます。」
「FUKUSHIMA」は今、世界で有名になってしまった。海外に行っても注目される。でも、だから得をすることもあったという、フランスで行われた国際アルコール見本市では、これまではいろいろな地酒メーカーの共同ブースで出品していたが、初めて単独ブースで出品しました。福島の蔵元ということで注目され、逆に安全性を訴えることができたと思ったというのだ。
その後、スカイツリーの公式ショップに採用されたり、高野山の開創1200年の際に記念の酒を奉納することが決まったりと、その評価がますます高めた。
「日本酒の国際化が進む中で、日本酒の原点と言いますか、本来の製法が見直されているのだと思います。国内で採れた作物を醸造する。微生物の力や自然の力、さらに人間の知恵や技を積み重ねて個性を生む。それは、まさに日本酒の持つ普遍的な価値だと思います。生もとづくりを大切にしたい」
震災後、「日本回帰」とか「絆」という言葉に象徴されるように、「和」のものが見直されて、塩麹のような伝統調味料が人気となった例もある。日本酒は、シェアとしては小さくなったが、選ばれ続けていく努力は怠ってはならないと語る。
また、政府は「國酒プロジェクト」を立ち上げ、日本酒を応援しようという動きを見せている。日本酒と日本食を組み合わせてその魅力を伝えるということで、期待したい。実は、日本から輸出される食品の中で、日本酒は8位に位置して、海外の市場では日本酒は伸びている。ところが、日本酒とワインを比較してみると、ワインを飲む日本人なら誰でも1つや2つ、ロマネコンティとかワインの銘柄を挙げるが、でも、フランス人に日本酒の銘柄を聞いても、ほとんどは知らない。これからは、日本酒への正当な評価をしてもらえるように、日本人がフランスでワイナリーを訪ねるように、外国からも日本酒ファンが来るような状況をつくることも必要だ。
大七酒造では昨年秋、日本酒専門家を認定する団体「日本酒サービス研究会」と「酒匠研究会連合会」が主催する「地酒大show2011」において、日本酒全2部門とリキュール部門の3部門で最高位となるプラチナ賞を受賞した。しかもこの三冠を2009年、2010年、2011年の3年連続で受賞しているというから、まさに快挙である。生もとづくりという先人が築いた造りにこだわり続けたことで、「かつては変人と呼ばれたこともあるんです」と笑う太田社長だが、そのこだわりこそが今や誰もが認める逸品を生み、高い評価を得ていることは
参照HP:
http://gqjapan.jp/more/business/20130313/businesseliteturnedsakemaker/page/2
2014年11月10日
Apple is the finest !
リンゴは医者いらずとも言われる。この時期は、長野のリンゴも手に入りやすい。
朝ドラ「マッサン」を見た後に、朝イチではリンゴの話題だったので、あのワックスのような艶についても解せた。
実は日本国内のりんごにはワックスは使用されていないし、ピカピカの正体は、りんご自体が持つ「ろう物質」でした。自然のものなので安心して食べOK!原因は「脂肪酸」であるリノール酸やオレイン酸が表面に出てきている、有難いものなのです。つまりピカピカとベタベタなのは、りんごの水分が蒸発して乾燥しないようにと工夫された自然の知恵、ピカイチお利口さんな果物。いずれも熟すにつれて現れるので、りんごがおいしくなった目安にしていいし、さらにリンゴのお尻が緑でないほうが密が多い、甘いということでした。
とにかく、体にいいこと朝昼晩どこで食べても効果が多い。成人病にもいいし、ビタミンCでも一緒に食べると倍加するとは、なんと優しい果物だろうか。拙ブログへの読者アクセス上昇へのお礼も兼ねてお知らせです (*^^)v
朝ドラ「マッサン」を見た後に、朝イチではリンゴの話題だったので、あのワックスのような艶についても解せた。
実は日本国内のりんごにはワックスは使用されていないし、ピカピカの正体は、りんご自体が持つ「ろう物質」でした。自然のものなので安心して食べOK!原因は「脂肪酸」であるリノール酸やオレイン酸が表面に出てきている、有難いものなのです。つまりピカピカとベタベタなのは、りんごの水分が蒸発して乾燥しないようにと工夫された自然の知恵、ピカイチお利口さんな果物。いずれも熟すにつれて現れるので、りんごがおいしくなった目安にしていいし、さらにリンゴのお尻が緑でないほうが密が多い、甘いということでした。
とにかく、体にいいこと朝昼晩どこで食べても効果が多い。成人病にもいいし、ビタミンCでも一緒に食べると倍加するとは、なんと優しい果物だろうか。拙ブログへの読者アクセス上昇へのお礼も兼ねてお知らせです (*^^)v
2014年11月09日
ちょといい、芋話。先祖代々の芋が大うけ!
里芋づくりを遡ると400年以上になる山形の農家がある。室町時代から続く屋号は甚五右ヱ門芋を生産する農家は、その屋号でよばれる里芋が、全国にも注目、今や山形の特産品だ。
まずは、山形でさといも料理といえば芋煮。そもそも「芋煮」の定義を地元のお母さんたちに聞くと、「芋が入っている汁っけのあるものなら芋煮。牛肉か豚肉か、しょうゆか味噌かなんかは、家ごとに違う」とのこと。その甚五右ヱ門19代目・佐藤信栄さんは、「家はね、代々、母親が甚五右ヱ門芋を守ってきたの」と語る。 ほぼまるごと、大きいまま入った甚五右ヱ門芋は、柔らかいけど煮崩れないのが特徴。箸をいれると縦にすっと割れる。ねっとりとした歯ざわりだけど、口の中でサラッととろける。「甚五右ヱ門芋は火を通すとつるつるっとしてんめから(うまいから)」と奥さんの清子さん。
代々、稲作農家だった佐藤家では、男性は稲作りが忙しいため、女性たちが甚五右ヱ門芋の栽培を手伝い、種芋を守ってきた。信栄さんの孫の春樹さんで20代目となる。種芋を冬越しする方法は一子相伝で門外不出。普通の里芋よりも子芋、孫芋が細長くなり、ぬめりが多く柔らかい。また親芋も柔らかく食べられる。芋煮は、最近は洋食でも注目されている食材。甚五右ヱ門芋で作ったコロッケ。裏ごしした甚五右ヱ門芋で作ったコロッケは、クリームコロッケのような舌触りになる。都内の料亭でも珍重される食材となっているのは、孫の春樹さんのウリ込みがあったからで、市場商品としても歓迎されたという一家の宝だ
春樹さんは自分の家に伝わるこの芋のことを知り、会社員から転身した。「小さい頃から普通に食べていた芋だったから他の芋を食べるまで、そのおいしさに気づかなかった。ばあちゃんの作った芋煮は本当においしいし、ほめられると自分も嬉しい。この芋を介して地域とつながり、元気になったら楽しいな。」と春樹さんは話す。
我孫子も、千葉県の農家として、収穫高が多いと言われている。某女性農家さんのほうれん草が都内のスーパーに並んでいるとも耳にした。なにしろ、県内でも我孫子の多品目農業はほかに類を見ないほどだというのだから、地産地消に関わる援農ボランティアもしている私としても気になる話だ。
まずは、山形でさといも料理といえば芋煮。そもそも「芋煮」の定義を地元のお母さんたちに聞くと、「芋が入っている汁っけのあるものなら芋煮。牛肉か豚肉か、しょうゆか味噌かなんかは、家ごとに違う」とのこと。その甚五右ヱ門19代目・佐藤信栄さんは、「家はね、代々、母親が甚五右ヱ門芋を守ってきたの」と語る。 ほぼまるごと、大きいまま入った甚五右ヱ門芋は、柔らかいけど煮崩れないのが特徴。箸をいれると縦にすっと割れる。ねっとりとした歯ざわりだけど、口の中でサラッととろける。「甚五右ヱ門芋は火を通すとつるつるっとしてんめから(うまいから)」と奥さんの清子さん。
代々、稲作農家だった佐藤家では、男性は稲作りが忙しいため、女性たちが甚五右ヱ門芋の栽培を手伝い、種芋を守ってきた。信栄さんの孫の春樹さんで20代目となる。種芋を冬越しする方法は一子相伝で門外不出。普通の里芋よりも子芋、孫芋が細長くなり、ぬめりが多く柔らかい。また親芋も柔らかく食べられる。芋煮は、最近は洋食でも注目されている食材。甚五右ヱ門芋で作ったコロッケ。裏ごしした甚五右ヱ門芋で作ったコロッケは、クリームコロッケのような舌触りになる。都内の料亭でも珍重される食材となっているのは、孫の春樹さんのウリ込みがあったからで、市場商品としても歓迎されたという一家の宝だ
春樹さんは自分の家に伝わるこの芋のことを知り、会社員から転身した。「小さい頃から普通に食べていた芋だったから他の芋を食べるまで、そのおいしさに気づかなかった。ばあちゃんの作った芋煮は本当においしいし、ほめられると自分も嬉しい。この芋を介して地域とつながり、元気になったら楽しいな。」と春樹さんは話す。
我孫子も、千葉県の農家として、収穫高が多いと言われている。某女性農家さんのほうれん草が都内のスーパーに並んでいるとも耳にした。なにしろ、県内でも我孫子の多品目農業はほかに類を見ないほどだというのだから、地産地消に関わる援農ボランティアもしている私としても気になる話だ。
2014年11月08日
ためして、カンタン! はいチーズ!! ポールウオーキング@手賀沼
ポールウオーキング(11/16日 手賀沼芝生公園 無料)のお誘いを頂きました。
もとはノルディックウオーキングと言われたフィンランド発祥のスポーツが起こり、ノルディックスキーの夏の練習になると始められて、世界に広がっていき、健康にいいと実証されてきていました。そこに、医療面からも考えてポールを使ったエクササイズウオーキングとして専用ポールを手して、似たようなスタイルで行うのがポールウオーキングです。顕著な違いは、ポールの形状と突き方にあり、またそれに伴うグリップ形状もかなり異なります。どうも、この2つのメソッドは似て非なるものといえます。前から我孫子でも取り組んでほしいなぁと思っていたので、今回その違いも検証できるので楽しみにしています。この際に、皆さまもお試しください。ご一緒に、GO!
さて、秋も深まるスポーツに最適の季節です。最新の研究で筋肉が多い人のほうが、少ない人よりも病気による死亡率(重症患者の場合)が半分になることが明らかになってきました。筋肉は病気になったときに身を守ってくれるとても大切なものだったと分かってきました。
さまざまな病気と大いに関係する筋肉のある成分には秘密があり、筋トレに免疫細胞のリンパ球を増やす働きがあったのです。感染症などと戦う、強い体を作りだします。ただし、リンパ球は筋力がアップしただけでは増えません。じつは、病気のようなピンチの状況になると、筋肉の中からグルタミンという物質が出てきてリンパ球をふやす。グルタミンは、アミノ酸の一種で、リンパ球を増やす働きがあるのです。つまり、筋肉は自らを壊すことで病気と戦える体にしているのです。
命に関わる筋肉量の低下は、「サルコペニア」と呼ばれています。今、健康長寿を考える上で、やっかいな症状です。自分が「サルコペニア」かどうかは、両手の親指と人差し指でふくらはぎの一番太い部分に輪っかを作ったとき、指が重なる場合もサルコペニアの疑いがあると考えられます。65歳以上の場合、片足立ちで靴下がはけない、ビンのふたがあけにくい、横断歩道を渡り切る前に赤信号に変わってしまうなどで見分けることができます。実は、足を前に引き上げる動作には腸腰筋の働きがります。高齢者が何もないフロアでつまずくなどは、この筋肉が低下していることが考えられます。ご長寿時代、筋肉は使わないと衰える(お金も投資して殖やす時代です)ことを知っておきましょう。自立した”健康寿命”を伸ばすために、歩いてどこへでも行ける筋力を維持していくことが秘訣だったのです。筋肉は、年をとるにつれて筋肉細胞の働きが弱まり、ナゼか65歳で急激に減ってします。すると、そこに脂肪が入り込んでしまいます。この脂肪は「異所性脂肪」といい、筋肉がいわば「霜降り肉」のような状態に。
こうなると、筋トレをしても筋力が上がりにくいため、続かないのです。ところが、どんな人でもラクに筋力がアップする最新情報がわかりました。「速歩をしたあと牛乳を飲む」というワザ。きつめの速歩を行うと、筋肉は失った栄養を取り戻すために、30分〜1時間だけアミノ酸などを取り込む穴を開きます。この穴の開いた時間帯にアミノ酸を多く含む牛乳を飲めば、どんどん筋肉にアミノ酸が補充されるため、グルタミンもたくさん作られるのです。牛乳を飲んだ人は、飲まない人に比べて脚の脚力が2倍近く増えるという研究結果も出ています。
そのさいポイントはたったの2つです。
ポイント1:ややきつめの速歩を3分行う
ポイント2:速歩後、30分以内に牛乳200mlを飲む
1週間で速歩の時間が合計60分に目標設定してください。3分間速歩したら、ゆっくり歩き、また速歩というように、交互に繰り返します。例えば、1日に3分の速歩を5回行えば、15分です、これを週4回でOKです! 牛乳でなくても、ヨーグルトやチーズでもかまいません。速歩後すぐに牛乳を飲むほうが効果的です。
そう、カメラを構えて チーズ! というように、家の中でも3分速歩、すぐチーズ、ならば簡単にできます。
ぴんぴん元気!を続けるには、基本的筋トレの要領でハムストリングスと腸腰筋の2つを鍛え続ければいいのです。それは、下記のようなトレーニングなので難しいことではありません。筋肉は減り続けることを知り、歩行や立ち上る力が長く維持できるように意識的にトレーニングするのです。
◎腸腰筋のトレーニング方法(片足ずつ5回)
・椅子に座り膝に手を置いて、ももを上に上げながら、手で上から膝を押す。
ももは手で押す力に抵抗するようにしながら3秒間キープする。
◎ハムストリングスのトレーニング方法(片足ずづ3回)
・立った姿勢で、ベッドの下の部分など50cmくらいの高さのところに足首の後ろ面をひっかけ、足で持ち上げる感じで力を入れて5秒間キープする。
「歩く」という行為には、全身2/3の筋肉が使われています。試しに、手賀沼のポールウオーキングへも,
チーズ持参で、どうぞご参加を!!
参照:
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20140917.html
もとはノルディックウオーキングと言われたフィンランド発祥のスポーツが起こり、ノルディックスキーの夏の練習になると始められて、世界に広がっていき、健康にいいと実証されてきていました。そこに、医療面からも考えてポールを使ったエクササイズウオーキングとして専用ポールを手して、似たようなスタイルで行うのがポールウオーキングです。顕著な違いは、ポールの形状と突き方にあり、またそれに伴うグリップ形状もかなり異なります。どうも、この2つのメソッドは似て非なるものといえます。前から我孫子でも取り組んでほしいなぁと思っていたので、今回その違いも検証できるので楽しみにしています。この際に、皆さまもお試しください。ご一緒に、GO!
さて、秋も深まるスポーツに最適の季節です。最新の研究で筋肉が多い人のほうが、少ない人よりも病気による死亡率(重症患者の場合)が半分になることが明らかになってきました。筋肉は病気になったときに身を守ってくれるとても大切なものだったと分かってきました。
さまざまな病気と大いに関係する筋肉のある成分には秘密があり、筋トレに免疫細胞のリンパ球を増やす働きがあったのです。感染症などと戦う、強い体を作りだします。ただし、リンパ球は筋力がアップしただけでは増えません。じつは、病気のようなピンチの状況になると、筋肉の中からグルタミンという物質が出てきてリンパ球をふやす。グルタミンは、アミノ酸の一種で、リンパ球を増やす働きがあるのです。つまり、筋肉は自らを壊すことで病気と戦える体にしているのです。
命に関わる筋肉量の低下は、「サルコペニア」と呼ばれています。今、健康長寿を考える上で、やっかいな症状です。自分が「サルコペニア」かどうかは、両手の親指と人差し指でふくらはぎの一番太い部分に輪っかを作ったとき、指が重なる場合もサルコペニアの疑いがあると考えられます。65歳以上の場合、片足立ちで靴下がはけない、ビンのふたがあけにくい、横断歩道を渡り切る前に赤信号に変わってしまうなどで見分けることができます。実は、足を前に引き上げる動作には腸腰筋の働きがります。高齢者が何もないフロアでつまずくなどは、この筋肉が低下していることが考えられます。ご長寿時代、筋肉は使わないと衰える(お金も投資して殖やす時代です)ことを知っておきましょう。自立した”健康寿命”を伸ばすために、歩いてどこへでも行ける筋力を維持していくことが秘訣だったのです。筋肉は、年をとるにつれて筋肉細胞の働きが弱まり、ナゼか65歳で急激に減ってします。すると、そこに脂肪が入り込んでしまいます。この脂肪は「異所性脂肪」といい、筋肉がいわば「霜降り肉」のような状態に。
こうなると、筋トレをしても筋力が上がりにくいため、続かないのです。ところが、どんな人でもラクに筋力がアップする最新情報がわかりました。「速歩をしたあと牛乳を飲む」というワザ。きつめの速歩を行うと、筋肉は失った栄養を取り戻すために、30分〜1時間だけアミノ酸などを取り込む穴を開きます。この穴の開いた時間帯にアミノ酸を多く含む牛乳を飲めば、どんどん筋肉にアミノ酸が補充されるため、グルタミンもたくさん作られるのです。牛乳を飲んだ人は、飲まない人に比べて脚の脚力が2倍近く増えるという研究結果も出ています。
そのさいポイントはたったの2つです。
ポイント1:ややきつめの速歩を3分行う
ポイント2:速歩後、30分以内に牛乳200mlを飲む
1週間で速歩の時間が合計60分に目標設定してください。3分間速歩したら、ゆっくり歩き、また速歩というように、交互に繰り返します。例えば、1日に3分の速歩を5回行えば、15分です、これを週4回でOKです! 牛乳でなくても、ヨーグルトやチーズでもかまいません。速歩後すぐに牛乳を飲むほうが効果的です。
そう、カメラを構えて チーズ! というように、家の中でも3分速歩、すぐチーズ、ならば簡単にできます。
ぴんぴん元気!を続けるには、基本的筋トレの要領でハムストリングスと腸腰筋の2つを鍛え続ければいいのです。それは、下記のようなトレーニングなので難しいことではありません。筋肉は減り続けることを知り、歩行や立ち上る力が長く維持できるように意識的にトレーニングするのです。
◎腸腰筋のトレーニング方法(片足ずつ5回)
・椅子に座り膝に手を置いて、ももを上に上げながら、手で上から膝を押す。
ももは手で押す力に抵抗するようにしながら3秒間キープする。
◎ハムストリングスのトレーニング方法(片足ずづ3回)
・立った姿勢で、ベッドの下の部分など50cmくらいの高さのところに足首の後ろ面をひっかけ、足で持ち上げる感じで力を入れて5秒間キープする。
「歩く」という行為には、全身2/3の筋肉が使われています。試しに、手賀沼のポールウオーキングへも,
チーズ持参で、どうぞご参加を!!
参照:
http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20140917.html
2014年11月07日
川内原発、再稼働へ始動か
鹿児島県の伊藤祐一郎知事は7日、記者会見し、九州電力川内原発1、2号機(同県薩摩川内市)の再稼働について「やむを得ないと判断した」として同意を表明した。原子力規制委員会の審査などが残っているが、事実上、全国の停止中の原発の再稼働が確実になった。再稼働は年明け以降の見通しだともいわれる。
自然界にも放射生物質が存在し、私たちは放射線を受けているということも、最近は良くわかってきていた。ブラジルのリゾート地・ガラパリ(大西洋に望む海岸リゾート地として有名)はトリウムを多く含むモナズ石の砂が沈積していることが原因で、一年間に大地から受ける放射線量が、8から15ミリシーベルトくらいになるといわれる。日本では大地から年間0.4ミリシーベルトとされる。
ところが、第二次世界大戦の最中の1940年以降に、核実験により大気圏内から、海上、大地にも舞い落ちる人工放射能が含まれるようになった。ストロンチウム90やセシウム137などがそのころから地球上に降下するようになったのだった。2008年に、各県から採取した土壌(表層5センチまで)検査でも、ストロンチウム90は、乾いた土1キログラム当たり平均2ベクレル、セシウム137は24ベクレル位だったので、当然、農作物などに吸収され、人体に移行していた。
人工放射性物質としては、ストロンチウム90、セシウム137、プルトニウム239なども含まれる。セシウム137は体を直接測定して体内含有量を知ることができるので、測定しやすいが、ストロンチウム90やプルトニウム239の体内量を知るには、人体組織を分析測定しなければ出来ない。最近、測定に利用され、名前をしるようになったホールボディ(全身)カウンタは、20センチもの厚い鉄の壁でできた小型の鉄室の中にベッドを置き、その上に人が30分ほど横たわっている間に、体の上下にあるガンマ線検出器を用いて測定をするものだ。
このようにして測定をされた人体内セシウム137の量は、1960年代には一人当たり500〜600ベクレルにも達していましたが、公に取りたざされることがなかった、私たちに知らされなかったということだ。その後、核実験の頻度が激減し、次第にその体内量も減少した。最近では、一人当たり20ベクレルくらいのレベルだったが、1986年チェルノブイリ事故の直後に少し上昇し、体内量が60ベクレルまで高まった。現在は、再び20ベクレルに戻っている(日本原子力文化振興財団)。
このように体内にあるセシウム137のレベルが、食物中のセシウム137のレベルに比較的よく追随するのは、人体への吸収もよいかわりに、体外への排出も比較的早いからだとされる。1960年代中ごろ、核実験が大気圏内でしばしば行われていた為、1人1日分の食事の中にストロンチウム90は0.5ベクレル、セシウム137は1〜2ベクレルほど入っていたといわれる。
3.11以降、自然放射性物質が食品に含まれると改めて知るようになった。その主なものはカリウム40で、普通のカリウムに0.0117パーセント混在しているとされる。1日に白米300グラム、魚、牛肉、牛乳、ホウレンソウを各200グラムずつ食べると仮定すると、1日に約100ベクレルのカリウム40を食べる計算になるとされる。ただし、カリウムは体内で一定の濃度に調整されるため、それ以上食べても人体のカリウム40の量は増えないとされる。
自然界にも、さまざまな岩石に含まれる放射性物質があり、その量を測定した結果をみると、岩石の種類によって大きく異なっている。カリウム40は、花崗岩1キログラム当たり1000ベクレル含まれているのに対し、石灰岩では90ベクレルほどだ。ウラン238も、花崗岩に60ベクレル、石灰岩に30ベクレルほど含まれる。トリウム232は、花崗岩の80ベクレルに対し、石灰岩では7ベクレル。そのため、花崗岩でできた敷石の上では、放射線の量が高く、石灰岩でできた鍾乳洞の中で、放射線の量が低い。
福島第一原子力発電所の事故で、放射性セシウムなどが海に流出したため地方自治体が海産物の検査をおこなっている。そのため福島県や近隣の県の主要な港で水揚げされる海水産物は、試験漁猟で放射性セシウムの量が国の定めた基準値以下であることが確認できたものが出荷されている。一方で、今も廃棄を余儀なくしている地域、および福島県沖では一部のタコや貝を対象に行っている試験漁猟以外は、全て禁止されている。
自然界にも放射生物質が存在し、私たちは放射線を受けているということも、最近は良くわかってきていた。ブラジルのリゾート地・ガラパリ(大西洋に望む海岸リゾート地として有名)はトリウムを多く含むモナズ石の砂が沈積していることが原因で、一年間に大地から受ける放射線量が、8から15ミリシーベルトくらいになるといわれる。日本では大地から年間0.4ミリシーベルトとされる。
ところが、第二次世界大戦の最中の1940年以降に、核実験により大気圏内から、海上、大地にも舞い落ちる人工放射能が含まれるようになった。ストロンチウム90やセシウム137などがそのころから地球上に降下するようになったのだった。2008年に、各県から採取した土壌(表層5センチまで)検査でも、ストロンチウム90は、乾いた土1キログラム当たり平均2ベクレル、セシウム137は24ベクレル位だったので、当然、農作物などに吸収され、人体に移行していた。
人工放射性物質としては、ストロンチウム90、セシウム137、プルトニウム239なども含まれる。セシウム137は体を直接測定して体内含有量を知ることができるので、測定しやすいが、ストロンチウム90やプルトニウム239の体内量を知るには、人体組織を分析測定しなければ出来ない。最近、測定に利用され、名前をしるようになったホールボディ(全身)カウンタは、20センチもの厚い鉄の壁でできた小型の鉄室の中にベッドを置き、その上に人が30分ほど横たわっている間に、体の上下にあるガンマ線検出器を用いて測定をするものだ。
このようにして測定をされた人体内セシウム137の量は、1960年代には一人当たり500〜600ベクレルにも達していましたが、公に取りたざされることがなかった、私たちに知らされなかったということだ。その後、核実験の頻度が激減し、次第にその体内量も減少した。最近では、一人当たり20ベクレルくらいのレベルだったが、1986年チェルノブイリ事故の直後に少し上昇し、体内量が60ベクレルまで高まった。現在は、再び20ベクレルに戻っている(日本原子力文化振興財団)。
このように体内にあるセシウム137のレベルが、食物中のセシウム137のレベルに比較的よく追随するのは、人体への吸収もよいかわりに、体外への排出も比較的早いからだとされる。1960年代中ごろ、核実験が大気圏内でしばしば行われていた為、1人1日分の食事の中にストロンチウム90は0.5ベクレル、セシウム137は1〜2ベクレルほど入っていたといわれる。
3.11以降、自然放射性物質が食品に含まれると改めて知るようになった。その主なものはカリウム40で、普通のカリウムに0.0117パーセント混在しているとされる。1日に白米300グラム、魚、牛肉、牛乳、ホウレンソウを各200グラムずつ食べると仮定すると、1日に約100ベクレルのカリウム40を食べる計算になるとされる。ただし、カリウムは体内で一定の濃度に調整されるため、それ以上食べても人体のカリウム40の量は増えないとされる。
自然界にも、さまざまな岩石に含まれる放射性物質があり、その量を測定した結果をみると、岩石の種類によって大きく異なっている。カリウム40は、花崗岩1キログラム当たり1000ベクレル含まれているのに対し、石灰岩では90ベクレルほどだ。ウラン238も、花崗岩に60ベクレル、石灰岩に30ベクレルほど含まれる。トリウム232は、花崗岩の80ベクレルに対し、石灰岩では7ベクレル。そのため、花崗岩でできた敷石の上では、放射線の量が高く、石灰岩でできた鍾乳洞の中で、放射線の量が低い。
福島第一原子力発電所の事故で、放射性セシウムなどが海に流出したため地方自治体が海産物の検査をおこなっている。そのため福島県や近隣の県の主要な港で水揚げされる海水産物は、試験漁猟で放射性セシウムの量が国の定めた基準値以下であることが確認できたものが出荷されている。一方で、今も廃棄を余儀なくしている地域、および福島県沖では一部のタコや貝を対象に行っている試験漁猟以外は、全て禁止されている。
2014年11月06日
第17回我孫子国際野外美術展とあちこち
第17回我孫子国際野外美術展が開催中(〜11/9)。
布佐の市民の森を利用して、インスタレーション、海外の招待作家を当初よりアーティストインレジデンスと言う形で、作品制作の間に美術展の開かれる地元に住みながら、作品に取り組むという方式も、回数を重ねています。今年は一段と面白い作品が多く見受けられました。友人を誘っていきましたので、知人の作品の前でパチリ! 撮ってもらいました。
皆さまも、散策がてら、布佐へ足を伸ばして、秋色も楽しんでください。
私たちが、つらつら歩いて回っていたら、道に迷って、人に聞きました。が、地元の人でも「美術展、知らないな〜ァ、ここに引っ越してきたんで」とか、「取手に芸大があるんで、美大生なんです・・・、こっちです。」と、彼女は案内役を引き受けて、美術展に参加した頃の話もきいて、恋バナも聞いてちょっとの刊ですが、ワクワク盛り上がってしまいました。
兎も角、思わぬハプニングがある面白い道(未知)との遭遇が期待できる、野外美術展は今週末まで。案内ブースのある公園へいくと、地図もいただけます。主に、(1)布佐市民の森 (2)宮ノ森公園 (3)旧井上家住宅、図書館布佐分館など布佐周辺を含みます。
さて、布佐でのお昼のおすすめは、話題の大盛り「リバーサイド」か、ログハウスのような「チャズ」(布佐2971)でどうしょう。今日は、大盛りに挑戦して、マイルドさんスペシャル(フルーツ付、サラダてんこ盛り、中華丼たっぷり 860円)を完食しました。今は、ネットで簡単に探せます。
もちろん、気になる手賀沼終末処理場もホットスポットの経緯などを説明して、裏門も見てきました。表門は立ち入り禁止の大看板が据えられ、裏門は鉄の鎖がかけられて入れないように厳重です。
詳細:
http://www.city.abiko.chiba.jp/events/index.cfm/disp.21.133728.0.-.html
布佐の市民の森を利用して、インスタレーション、海外の招待作家を当初よりアーティストインレジデンスと言う形で、作品制作の間に美術展の開かれる地元に住みながら、作品に取り組むという方式も、回数を重ねています。今年は一段と面白い作品が多く見受けられました。友人を誘っていきましたので、知人の作品の前でパチリ! 撮ってもらいました。
皆さまも、散策がてら、布佐へ足を伸ばして、秋色も楽しんでください。
私たちが、つらつら歩いて回っていたら、道に迷って、人に聞きました。が、地元の人でも「美術展、知らないな〜ァ、ここに引っ越してきたんで」とか、「取手に芸大があるんで、美大生なんです・・・、こっちです。」と、彼女は案内役を引き受けて、美術展に参加した頃の話もきいて、恋バナも聞いてちょっとの刊ですが、ワクワク盛り上がってしまいました。
兎も角、思わぬハプニングがある面白い道(未知)との遭遇が期待できる、野外美術展は今週末まで。案内ブースのある公園へいくと、地図もいただけます。主に、(1)布佐市民の森 (2)宮ノ森公園 (3)旧井上家住宅、図書館布佐分館など布佐周辺を含みます。
さて、布佐でのお昼のおすすめは、話題の大盛り「リバーサイド」か、ログハウスのような「チャズ」(布佐2971)でどうしょう。今日は、大盛りに挑戦して、マイルドさんスペシャル(フルーツ付、サラダてんこ盛り、中華丼たっぷり 860円)を完食しました。今は、ネットで簡単に探せます。
もちろん、気になる手賀沼終末処理場もホットスポットの経緯などを説明して、裏門も見てきました。表門は立ち入り禁止の大看板が据えられ、裏門は鉄の鎖がかけられて入れないように厳重です。
詳細:
http://www.city.abiko.chiba.jp/events/index.cfm/disp.21.133728.0.-.html
2014年11月05日
日本のミス代表2015、千葉県出身の女子大生に決定
ミス・インターナショナル世界3大ビューティーページェントの一つで、『ミス・ワールド』『ミス・ユニバース』と並ぶ、『ミス・インターナショナル』の日本代表に千葉県出身の18歳の大学生・中川愛理沙さんが決定した。
和洋女子大1年、中川さんは、モデルでもあり、170pのスレンダーで和装が似合う女性だ。大学では和裁も勉強中だという。他に選ばれた準ミスの皆さんも身長は170p以上で、モデルをしている。ファイナリストを選ぶ31人による着物審査、水着審査、ドレス審査を経て、ファイナリスト10人が決定。スピーチ審査を経て選ばれた。
こうした、経過を中国人のネットユーザーが注目して、言いたい放題のコメントもユニークだった。
「そういえば歯茎が出てる日本の女優は多いな」
「ミス全員の口元が気になってしょうがない」
次に多かったのは美容整形に絡んだコメント。
「どうして整形しないの?」
「韓国で整形してくれば?」
「韓国の整形美女よりは、自然でいいんじゃない?」
このほかに選考基準や日本人の審美眼に疑問を抱くコメントも多く、「美人であることがまず基本条件で、人格や知性、物腰などがそれにプラスされるべきだ」とか、「成人向けビデオに出てくる日本人女性はみんな美人なのに!ミスに選ばれた女性たちは、よっぽど素晴らしい人格なんだね」といった声が相次いでいるところをみると、グラマラスで西洋風の面立ちの女性が美女と映るらしく、どうも日本風の美女は、中国、韓国ではお好みとは言えないようだ。韓国のビューティペイジェントで、並んだファイナリストたちがみな同じような顔立ちだったと言うのは、そうした現状を言い得て妙だ。
『ミス・インターナショナル』は今年54回目を迎える歴史ある美の大会で、外見的美しさを競うだけでなく、国際社会への社会貢献を目指す世界中のミスが、平和と美の親善大使として集い、交流を深めることを目的としている。ミス・インターナショナル2012年では、吉松 育美さんが世界グランプリとなった。
他に、ミス・ユニバースでは、2006世界大会(第55回大会)で、知花くららさんが、民族衣装部門で第1位を獲得し(総合第2位)、特別賞も受賞。同大会2007年には、森理世が世界グランプリ。過去に、同大会へ日本代表は1950年代に合計3人が上位入賞(総合5位以内)、1953年に伊東絹子さんが第3位の評価を受けたほか、1959年)には児島明子さんが日本人、有色人種、アジア人として初の『ミス・ユニバース』の栄冠に輝いた。
和洋女子大1年、中川さんは、モデルでもあり、170pのスレンダーで和装が似合う女性だ。大学では和裁も勉強中だという。他に選ばれた準ミスの皆さんも身長は170p以上で、モデルをしている。ファイナリストを選ぶ31人による着物審査、水着審査、ドレス審査を経て、ファイナリスト10人が決定。スピーチ審査を経て選ばれた。
こうした、経過を中国人のネットユーザーが注目して、言いたい放題のコメントもユニークだった。
「そういえば歯茎が出てる日本の女優は多いな」
「ミス全員の口元が気になってしょうがない」
次に多かったのは美容整形に絡んだコメント。
「どうして整形しないの?」
「韓国で整形してくれば?」
「韓国の整形美女よりは、自然でいいんじゃない?」
このほかに選考基準や日本人の審美眼に疑問を抱くコメントも多く、「美人であることがまず基本条件で、人格や知性、物腰などがそれにプラスされるべきだ」とか、「成人向けビデオに出てくる日本人女性はみんな美人なのに!ミスに選ばれた女性たちは、よっぽど素晴らしい人格なんだね」といった声が相次いでいるところをみると、グラマラスで西洋風の面立ちの女性が美女と映るらしく、どうも日本風の美女は、中国、韓国ではお好みとは言えないようだ。韓国のビューティペイジェントで、並んだファイナリストたちがみな同じような顔立ちだったと言うのは、そうした現状を言い得て妙だ。
『ミス・インターナショナル』は今年54回目を迎える歴史ある美の大会で、外見的美しさを競うだけでなく、国際社会への社会貢献を目指す世界中のミスが、平和と美の親善大使として集い、交流を深めることを目的としている。ミス・インターナショナル2012年では、吉松 育美さんが世界グランプリとなった。
他に、ミス・ユニバースでは、2006世界大会(第55回大会)で、知花くららさんが、民族衣装部門で第1位を獲得し(総合第2位)、特別賞も受賞。同大会2007年には、森理世が世界グランプリ。過去に、同大会へ日本代表は1950年代に合計3人が上位入賞(総合5位以内)、1953年に伊東絹子さんが第3位の評価を受けたほか、1959年)には児島明子さんが日本人、有色人種、アジア人として初の『ミス・ユニバース』の栄冠に輝いた。
2014年11月04日
朝ドラ「マッサン」の人気、演じる外国人女優の日本語が見事
イギリスの食事はまずいという定評になっているが、「それはイングランドのメシが不味いのだ。ウェールズとスコットランドは普通に美味かった」と言う人がいた。スコットランドには数多くの伝統料理をあって、食事にも定評があったので、どうりで一緒にされたくないと言う気分が蔓延してきて、独立云々の住民投票(9/18)になったのか・・・・。
今、NHK朝ドラを久々に見ている。「マッサン」と呼ばれる日本で最初にスコットランドにまで留学して、本格ウイスキーを作った男とその妻・エリーの物語だ。こういう、地球サイズの物語は私にとっては特に興味を引く。放送開始から3週連続で週間平均視聴率が20%超えだそうだ。まして、ストリーのモデルはニッカウヰスキーの創業者夫婦、朝ドラ史上初の外国人ヒロインも視聴者にも抵抗なく受け入れられた。このところ、柏工場は休日返上のフル稼働状態だが注文に応じきれず、10月以降の出荷量を調整せざるを得ないという。 その柏工場と隣り合わせている我孫子だから、毎回欠かさずとはいかないが、よく見ている。
ジャパニーズ・ウイスキーは世界の5大名門ウイスキー生産地だそうで、高評価を受けている。一度ならず、ジャパニーズの(とくに余市と山崎)シングルモルトはスコッチのシングルモルトよりも高い評価を受けている。さらに、2001年にニッカウヰスキーの「シングルカスク余市 10年」がウイスキーマガジンのコンテストで最高得点(ベスト・オブザ・ベスト)の評価を受けた。インターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティション(IWSC)でメルシャンの「軽井沢ピュアモルト12年」が金賞を受賞した。2006年にはベンチャーウイスキーが蒸溜した地ウイスキー「キング オブ ダイヤモンズ」が最高得点(ゴールドアワード)に選ばれている。
先週の放送では、料理が恭しく出てきて、ウイスキーはスコットランドと言う日本に似た、海に囲まれた地域性があり、そのこ郷土料理に合う酒なので、日本人の舌にもなじむ筈だとエリーがマッサンの為に内助の功を示すのだった。しかも、アジの干物や味豆腐がウイスキーにも合うなどとの提案をしていたので、今度は試してみようかなどと、思ったた。慣れない日本で、涙ぐましい努力をするエリー、役の女優はオーディションの際は日本語はできなかったというのに、女優とは演じる点においてさすがプロだ。私など、日本語でもあれほど出番の多い中でセリフを完璧にものにし、相手との間をウマくとりながら会話して、その上に表情、目線、立ち居振る舞いなど、とても出来ない。10月半ばの日曜日に、国際交流協会のスピーチコンテスト(英語)で、柳兼子さんが我孫子に来て100年を記念して話をしようと壇上に上がったが、傍らに原稿を置いておいたから人心地をつけた。表情や動作、相手とのやり取り、演技までを求められたら、気絶してしまったろう。役者は凄い!
エリーの話によると、スコットランドはヒースの花が咲き、その大地を雨になって地下に浸み込んだ水が、良い水となり、それでつくるお酒が美味しくなる。日本と似て、そういう自然環境の豊かな土壌があるという事らしい。朝ドラ効果で、スコットランドへの旅行者が増えるかもしれない。柏では、商工会議所が既にウイスキーの試飲をさせるイベントを組んで盛り上げている。
今、NHK朝ドラを久々に見ている。「マッサン」と呼ばれる日本で最初にスコットランドにまで留学して、本格ウイスキーを作った男とその妻・エリーの物語だ。こういう、地球サイズの物語は私にとっては特に興味を引く。放送開始から3週連続で週間平均視聴率が20%超えだそうだ。まして、ストリーのモデルはニッカウヰスキーの創業者夫婦、朝ドラ史上初の外国人ヒロインも視聴者にも抵抗なく受け入れられた。このところ、柏工場は休日返上のフル稼働状態だが注文に応じきれず、10月以降の出荷量を調整せざるを得ないという。 その柏工場と隣り合わせている我孫子だから、毎回欠かさずとはいかないが、よく見ている。
ジャパニーズ・ウイスキーは世界の5大名門ウイスキー生産地だそうで、高評価を受けている。一度ならず、ジャパニーズの(とくに余市と山崎)シングルモルトはスコッチのシングルモルトよりも高い評価を受けている。さらに、2001年にニッカウヰスキーの「シングルカスク余市 10年」がウイスキーマガジンのコンテストで最高得点(ベスト・オブザ・ベスト)の評価を受けた。インターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティション(IWSC)でメルシャンの「軽井沢ピュアモルト12年」が金賞を受賞した。2006年にはベンチャーウイスキーが蒸溜した地ウイスキー「キング オブ ダイヤモンズ」が最高得点(ゴールドアワード)に選ばれている。
先週の放送では、料理が恭しく出てきて、ウイスキーはスコットランドと言う日本に似た、海に囲まれた地域性があり、そのこ郷土料理に合う酒なので、日本人の舌にもなじむ筈だとエリーがマッサンの為に内助の功を示すのだった。しかも、アジの干物や味豆腐がウイスキーにも合うなどとの提案をしていたので、今度は試してみようかなどと、思ったた。慣れない日本で、涙ぐましい努力をするエリー、役の女優はオーディションの際は日本語はできなかったというのに、女優とは演じる点においてさすがプロだ。私など、日本語でもあれほど出番の多い中でセリフを完璧にものにし、相手との間をウマくとりながら会話して、その上に表情、目線、立ち居振る舞いなど、とても出来ない。10月半ばの日曜日に、国際交流協会のスピーチコンテスト(英語)で、柳兼子さんが我孫子に来て100年を記念して話をしようと壇上に上がったが、傍らに原稿を置いておいたから人心地をつけた。表情や動作、相手とのやり取り、演技までを求められたら、気絶してしまったろう。役者は凄い!
エリーの話によると、スコットランドはヒースの花が咲き、その大地を雨になって地下に浸み込んだ水が、良い水となり、それでつくるお酒が美味しくなる。日本と似て、そういう自然環境の豊かな土壌があるという事らしい。朝ドラ効果で、スコットランドへの旅行者が増えるかもしれない。柏では、商工会議所が既にウイスキーの試飲をさせるイベントを組んで盛り上げている。
2014年11月03日
ノーベル賞学者クルーグマン、日本に謝罪
今日は文化の日。七五三に行きかう人も、和やか、嬉しげ、秋の三連休を満喫されている方も多い事と思います。
この「文化の日」は、1946年に日本国憲法が公布された日。憲法が平和と文化を重視していることから、文化の日が定められたのです。今日一日、そんな豊かな日本の文化を改めて見直し、私たちの日本文化の深さに感謝、やはり二度目のオリンピック開催国にも選ばれたことにアジア人としてのプライドもジワッと感じているところです。
そして、こんな折に「日本は流石!」と見直したのであろう、米国人学者がいます。それが、ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマン博士、日本経済の批判者だから、日本は底堅い、凄い! クルーグマン博士は、10月31日付の米紙ニューヨーク・タイムズに、これまでの日本批判に対して手記を寄稿した。日本政府と日本銀行が1990年代以降にとってきた経済政策をずっと批判してきたが、最近の欧米の政策と比較して「2008年以降は、欧米の方が日本がかすむほどの失敗だ」と認めて謝罪したのだ。これほどの実績を持つ学者が、「我々は、日本に謝らなければならない」と現在の心境を明らかにしたというのは、某新聞の幹部たちも見習うべき素直さ、迅速さだ。こういうところが、米国の強みなのだろう。一時は失礼であっも、率直にきちんと謝罪されると、好感にも代わる。
確かに、このところの思い切った日銀追加緩和など、黒田総裁は今までの総裁にない手腕を発揮している。
それまでの、のらりくらりが代名詞のような日本型官僚とは違い、欧米型エキスパートのような小気味よさがある、といいたいほどだ。その経歴は、大蔵省入省後、オックスフォード大学経済学研究科修士課程修了でもあってか、そして「セントラル・バンカー・オブ・ザ・イヤー2014」賞を受賞した実力もある。2年前に政権が変わり、13年3月に黒田氏が日銀総裁に抜擢されると、15年にもわたる日本のデフレに対して日本銀行を批判してきただけあって、新総裁としてデフレ脱却の舵取りを、これまでと大きく切り替えた。そして、8%消費税増税後の景気のもたつきと物価見通しの鈍化を前に、すかさず、今回のような追加緩和を決定した。その迅速さは、私ごときが流石と言っては失礼だけれど、そういいたくなる。
命がけで国をまもり、民(家臣、妻も)を大事にする、流石の軍師・黒田官兵衛のご子孫だという。
金融市場は一気に円安、株高で動き、追加緩和を歓迎した。
休み明け、世界が国内がどう動くか、日本への注目度が増して、さらに楽しみになってきた!
この「文化の日」は、1946年に日本国憲法が公布された日。憲法が平和と文化を重視していることから、文化の日が定められたのです。今日一日、そんな豊かな日本の文化を改めて見直し、私たちの日本文化の深さに感謝、やはり二度目のオリンピック開催国にも選ばれたことにアジア人としてのプライドもジワッと感じているところです。
そして、こんな折に「日本は流石!」と見直したのであろう、米国人学者がいます。それが、ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマン博士、日本経済の批判者だから、日本は底堅い、凄い! クルーグマン博士は、10月31日付の米紙ニューヨーク・タイムズに、これまでの日本批判に対して手記を寄稿した。日本政府と日本銀行が1990年代以降にとってきた経済政策をずっと批判してきたが、最近の欧米の政策と比較して「2008年以降は、欧米の方が日本がかすむほどの失敗だ」と認めて謝罪したのだ。これほどの実績を持つ学者が、「我々は、日本に謝らなければならない」と現在の心境を明らかにしたというのは、某新聞の幹部たちも見習うべき素直さ、迅速さだ。こういうところが、米国の強みなのだろう。一時は失礼であっも、率直にきちんと謝罪されると、好感にも代わる。
確かに、このところの思い切った日銀追加緩和など、黒田総裁は今までの総裁にない手腕を発揮している。
それまでの、のらりくらりが代名詞のような日本型官僚とは違い、欧米型エキスパートのような小気味よさがある、といいたいほどだ。その経歴は、大蔵省入省後、オックスフォード大学経済学研究科修士課程修了でもあってか、そして「セントラル・バンカー・オブ・ザ・イヤー2014」賞を受賞した実力もある。2年前に政権が変わり、13年3月に黒田氏が日銀総裁に抜擢されると、15年にもわたる日本のデフレに対して日本銀行を批判してきただけあって、新総裁としてデフレ脱却の舵取りを、これまでと大きく切り替えた。そして、8%消費税増税後の景気のもたつきと物価見通しの鈍化を前に、すかさず、今回のような追加緩和を決定した。その迅速さは、私ごときが流石と言っては失礼だけれど、そういいたくなる。
命がけで国をまもり、民(家臣、妻も)を大事にする、流石の軍師・黒田官兵衛のご子孫だという。
金融市場は一気に円安、株高で動き、追加緩和を歓迎した。
休み明け、世界が国内がどう動くか、日本への注目度が増して、さらに楽しみになってきた!
2014年11月02日
シルクロード・アンサンブル
素晴らしい世界の一員として貢献したいという偉大な現代人の一人、チェリスト・ヨーヨーマがシルクロードアンサンブルを率いて日本にきた。何でも、キャロライン・ケネディ駐日大使とチェロの先生が同じだったとか、逸話ばかりの人だ。何だか、柳宗悦の生き方、天才の世界観を想像することが出来て参考になる。アジアから西欧に投げかける目線というのを持っていて、芸術の偉大さを言葉を介さずに伝える。
ヨーヨーマは、フランスのパリで生まれる。父親の馬孝駿(Hiao-tsiun Ma)は中国生まれでオーケストラ指揮者で作曲家。母親の盧雅文(Marina Lu)は香港生まれで台湾国立中央大学出身の声楽家。彼の両親は中国を離れパリに渡りその後、彼が7歳の時にニューヨークに移り住んだ。家族は今もニューヨークに住んでいる。
1960年、4歳でチェロを始める以前の幼少の頃より、ヴァイオリンやヴィオラを習い、5歳にしてすでに観衆を前に演奏を行った。7歳の時にはジョン・F・ケネディの前で演奏した。また、8歳でレナード・バーンスタインが行ったコンサートでアメリカのテレビに出演した。クラシック音楽から現代音楽までの幅広いレパートリーを持ち、デビュー当時のテクニックは世界最高ともいわれていた。
1976年に、ハーバード大学を卒業、人類学の学位を取得した。ジュリアード音楽院でレナード・ローズの下に学んでいたが、教師に「君に教えることはもう何もない」といわれ、コロンビア大学を経てハーバード大学に入学したという逸話がある。それでも1970年代にパブロ・カザルスの偉大さに触れるまではまだ学習を続けるべきか否かを迷っていたという。
1982年にバッハの無伴奏チェロ組曲を、ニューヨークで録音する。1994年-1997年にかけて同曲の再録音を行い、「Inspired by Bach」と題して各国のアーティストとのコラボレーションを映像表現した。室内楽にも熱心であり、ジュリアード音楽院時代から親密にしていたピアニストであるエマニュエル・アックスと共演している。
1991年にハーバード大学から、名誉博士号を授与される。
2000年、テレビドラマ「ザ・ホワイトハウス」(原題:The West Wing)に本人役で出演。
2009年、オバマ大統領の就任式典にて演奏した。
アジアの中で日中韓(朝)の関係は、拉致問題、領土問題で緊張が続くが、芸術・スポーツを通して別の融合・友好の道を探ることを人々が賢く模索すべきだろう。それを芸術・スポーツのスペシャリストたちは自らの使命として活動している。それが超一流の由縁だと言える。
参照:Wikipedia
ヨーヨーマは、フランスのパリで生まれる。父親の馬孝駿(Hiao-tsiun Ma)は中国生まれでオーケストラ指揮者で作曲家。母親の盧雅文(Marina Lu)は香港生まれで台湾国立中央大学出身の声楽家。彼の両親は中国を離れパリに渡りその後、彼が7歳の時にニューヨークに移り住んだ。家族は今もニューヨークに住んでいる。
1960年、4歳でチェロを始める以前の幼少の頃より、ヴァイオリンやヴィオラを習い、5歳にしてすでに観衆を前に演奏を行った。7歳の時にはジョン・F・ケネディの前で演奏した。また、8歳でレナード・バーンスタインが行ったコンサートでアメリカのテレビに出演した。クラシック音楽から現代音楽までの幅広いレパートリーを持ち、デビュー当時のテクニックは世界最高ともいわれていた。
1976年に、ハーバード大学を卒業、人類学の学位を取得した。ジュリアード音楽院でレナード・ローズの下に学んでいたが、教師に「君に教えることはもう何もない」といわれ、コロンビア大学を経てハーバード大学に入学したという逸話がある。それでも1970年代にパブロ・カザルスの偉大さに触れるまではまだ学習を続けるべきか否かを迷っていたという。
1982年にバッハの無伴奏チェロ組曲を、ニューヨークで録音する。1994年-1997年にかけて同曲の再録音を行い、「Inspired by Bach」と題して各国のアーティストとのコラボレーションを映像表現した。室内楽にも熱心であり、ジュリアード音楽院時代から親密にしていたピアニストであるエマニュエル・アックスと共演している。
1991年にハーバード大学から、名誉博士号を授与される。
2000年、テレビドラマ「ザ・ホワイトハウス」(原題:The West Wing)に本人役で出演。
2009年、オバマ大統領の就任式典にて演奏した。
アジアの中で日中韓(朝)の関係は、拉致問題、領土問題で緊張が続くが、芸術・スポーツを通して別の融合・友好の道を探ることを人々が賢く模索すべきだろう。それを芸術・スポーツのスペシャリストたちは自らの使命として活動している。それが超一流の由縁だと言える。
参照:Wikipedia
2014年11月01日
11月1日を紅茶の日、世界に広まるOMOTENASHI
日本紅茶協会が、1983年(昭和58年)に紅茶の日を定めました。
それは、初めて、日本人である大黒屋光太夫という人物が外国での正式(1791年の11月)の茶会で紅茶を飲んだ最初の人になったという史実に基づいています。
茶がヨーロッパに伝わったのは17世紀初頭といわれ、チャールズ二世の妃キャサリンが紅茶を広めます。海難にあってロシアに漂着した日本人(船主・大黒屋光太夫、伊勢の国=現在の三重県)は、ロシアに10年間滞在せざるを得ませんでした。帰国の許可を得るまでの辛苦の生活の中で、ロシアの上流社会にも普及しつつあったお茶会に招かれる幸運に恵まれます。とりわけ1791年の11月には女帝エカテリーナ2世にも接見の栄に浴し、茶会にも招かれたと言われています。そのようにお茶が嗜まれるようになるのをアフタヌーンティーという形にしたのは、イギリスの7代目ベッドフォード侯爵夫人で1840年頃のことです。
一方、日本の茶席の起源については平安初期の「日本後紀」に記述があり、当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられています。鎌倉時代末には相当普及し、禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がり、さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及しました。ところが室町時代なると本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行(唐物数寄)したり、闘茶(飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打)が流行しました。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されました。また、大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したといわれます。
戦国の世が終わる九州平定(7月)後、関白・豊臣秀吉は京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために、聚楽第造営と併行して大規模な茶会を開催しました。7月月末より、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などに10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出し、京都・五条などに触書を出して、北野の森(京都北野天満宮境内)にて天正15年10月1日(1587年11月1日)に茶会を開きます。
その時の触書には、
秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないこと。
日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
などが主な事でした。
北野天満宮の拝殿(12畳分)は3つに区切られ、その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に「似たり茄子」などの秀吉自慢の名物を陳列しました。そこで麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されたとされている。御触れの効果からか当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも大勢の参加者が駆けつけ、総勢1,000人にも達しました。会場では野点が行われ、町人たちも楽しんでいましたが、秀吉にはもっと来るはずだったとの気持ちであったのか、10日の期間を初日だけとされます。(この、新暦11月1日に北野の大茶会があったことも紅茶の日にまつわる決定になったのかもしれません。)
江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶に改めて煎茶の作法を定めた煎茶道も生まれます。明治維新によって、大名の庇護から外れると各宗派が門弟を維持、殖やす試行錯誤で大衆化し、すそ野を広げました。
1906年(明治39年)、ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉天心はアメリカで『THE BOOK OF TEA』(邦題:『茶の本』)を出版紹介します。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般化(欧米人にとっての「茶道」への近似体験として、「ティーパーティでのホストの心遣い」を挙げ理解を促した)させるよう尽力しました。1980年代初め頃には、日本の茶道の所作が、もともとの中国茶(茶芸)にも用いられるようになり、茶芸での「茶巾をたたむ」所作は、日本の茶道の影響の表れではないかと言われます。
それは、初めて、日本人である大黒屋光太夫という人物が外国での正式(1791年の11月)の茶会で紅茶を飲んだ最初の人になったという史実に基づいています。
茶がヨーロッパに伝わったのは17世紀初頭といわれ、チャールズ二世の妃キャサリンが紅茶を広めます。海難にあってロシアに漂着した日本人(船主・大黒屋光太夫、伊勢の国=現在の三重県)は、ロシアに10年間滞在せざるを得ませんでした。帰国の許可を得るまでの辛苦の生活の中で、ロシアの上流社会にも普及しつつあったお茶会に招かれる幸運に恵まれます。とりわけ1791年の11月には女帝エカテリーナ2世にも接見の栄に浴し、茶会にも招かれたと言われています。そのようにお茶が嗜まれるようになるのをアフタヌーンティーという形にしたのは、イギリスの7代目ベッドフォード侯爵夫人で1840年頃のことです。
一方、日本の茶席の起源については平安初期の「日本後紀」に記述があり、当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられています。鎌倉時代末には相当普及し、禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がり、さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及しました。ところが室町時代なると本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行(唐物数寄)したり、闘茶(飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打)が流行しました。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されました。また、大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したといわれます。
戦国の世が終わる九州平定(7月)後、関白・豊臣秀吉は京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために、聚楽第造営と併行して大規模な茶会を開催しました。7月月末より、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などに10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出し、京都・五条などに触書を出して、北野の森(京都北野天満宮境内)にて天正15年10月1日(1587年11月1日)に茶会を開きます。
その時の触書には、
秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないこと。
日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
などが主な事でした。
北野天満宮の拝殿(12畳分)は3つに区切られ、その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に「似たり茄子」などの秀吉自慢の名物を陳列しました。そこで麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されたとされている。御触れの効果からか当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも大勢の参加者が駆けつけ、総勢1,000人にも達しました。会場では野点が行われ、町人たちも楽しんでいましたが、秀吉にはもっと来るはずだったとの気持ちであったのか、10日の期間を初日だけとされます。(この、新暦11月1日に北野の大茶会があったことも紅茶の日にまつわる決定になったのかもしれません。)
江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶に改めて煎茶の作法を定めた煎茶道も生まれます。明治維新によって、大名の庇護から外れると各宗派が門弟を維持、殖やす試行錯誤で大衆化し、すそ野を広げました。
1906年(明治39年)、ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉天心はアメリカで『THE BOOK OF TEA』(邦題:『茶の本』)を出版紹介します。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般化(欧米人にとっての「茶道」への近似体験として、「ティーパーティでのホストの心遣い」を挙げ理解を促した)させるよう尽力しました。1980年代初め頃には、日本の茶道の所作が、もともとの中国茶(茶芸)にも用いられるようになり、茶芸での「茶巾をたたむ」所作は、日本の茶道の影響の表れではないかと言われます。