2014年10月31日

茶話:A Cup of Tea

どこの国もコーヒーの一杯を好むようになったとは言え、お茶の一服も大事にされています。あのアメリカですら、ボストン茶会事件が起こりアメリカ独立戦争につながったというような歴史をもっています。

さて、日本と言えば、お茶、お茶と言えば、茶道の抹茶。これがお菓子になって、海外の観光客にも大人気の土産だともいうのですから、捨て置けません。

日本でお茶に凝ったのが、安土桃山時代の時代の大茶会の席主となった豊臣秀吉。淀君は「茶々」と言れ、その懐刀の石田三成は「三献茶」の逸話があり、それぞれが色々な意味で「茶」にかかわった事から、結局は身を滅ぼす羽目になったとも言えます。

お茶は世界の歴史文化に欠かせないものと言えますが、世界でもっとも古いお茶の本といわれるのは、さすが中国にあり、『茶経(ちゃきょう)』という記録です。唐の時代に陸羽(りくう)によって書かれ、3巻10章から成っていて、茶の起源、歴史、製造具、茶道具、いれ方、飲み方、産地、心得にまで及びます。こうした中国と国境を接するインド、ロシアではチャイと呼ばれているのも、中国語の茶から伝播してきた証拠です。

中国でも最初は、固形茶を焼いて削り出すという方法を用いて、茶葉本来の風味を引き出す固形茶を挽いて、粉末を煮出す方法でした。煎じ薬のような扱われ方で嗜好品ではありませんでした。漢の時代から飲茶されるようになっていましたが、唐の時代(618〜907年)に、お茶を飲む習慣は全国に広がります。このころのお茶は、茶葉を粉々にして固形にし、乾燥させた緊圧茶(固形茶)が主流でした。中国全土で栽培されるようになって、消費地への運搬には固形茶が便利でした。このころ、固形の緊圧茶を「餅茶(びんちゃ)」と呼んでいました。

宋の時代になると、お茶は貴族から役人や文人など富裕な市民のものへと変遷していき、お茶を飲みながら詩を吟じ、書をたしなみ、絵を描き、哲学を論じたと言われます。時に遊びとして「闘茶」と称してお茶の良し悪しを鑑定し、茶器の良否を競うこともあったそうです。飲み方も、緊圧茶の茶葉をすった粉末を茶碗に入れてお湯とかき混ぜるという、日本の抹茶のような飲み方が行われていました。このころには、日本の茶道と同じような竹製の茶筅が使われています。また「餅茶」の呼び方が変わって「団茶」と呼ばれるようになりました。

明の時代になると、お茶は大変動の時代を迎え、貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、一般市民へと普及していきました。清の時代になると、中国茶葉や茶具はほぼ完成し、茶文化は最盛期を迎えます。福建省では青茶(烏龍茶)が開発され、「花茶」とともに愛飲されるようになりました。また、青茶ならではの香りを追求する過程で、工夫茶(くんふうちゃ)の手法が開発されました。

工夫茶とは、時間と手間をかけてゆっくりと丁寧にいれるお茶を意味します。お茶の魅力を引き出す茶器を使っていれ、まず聞香杯(もんこうはい)で「香り」を楽しみ、次に茶杯で「味」を楽しみます。中国茶が香りを大切にし、「花茶」が大いに普及しているのは、このころからの習慣といえるでしょう。

清の時代になると、中国茶葉や茶具はほぼ完成し、茶文化は最盛期を迎えます。福建省では青茶(烏龍茶)が開発され、「花茶」とともに愛飲されるようになりました。また、青茶ならではのすばらしい香りを追求する過程で、工夫茶(くんふうちゃ)の手法が開発された。工夫茶とは、時間と手間をかけてゆっくりと丁寧にいれるお茶を意味します。お茶の魅力を引き出す茶器を使っていれ、まず聞香杯(もんこうはい)で「香り」を楽しみ、次に茶杯で「味」を楽しみます。中国茶が香りを大切にし、「花茶」が大いに普及しているのは、このころからの習慣といえるでしょう。

清が崩壊すると、中国は列国の侵略を受けますが、茶壷製作や茶葉の栽培はより発展しました。中華人民共和国の建国(1951年)後、中国茶は順調に発展を続けていましたが、毛沢東の文化大革命(1966〜1976年)により、お茶は贅沢の象徴として弾圧され、栽培は制限されました。代わって台湾や香港で茶芸とお茶の栽培がより発展し、現在では台湾茶は世界的に有名になりました。



参照:
伊藤園HP http://ocha.tv/history/chinese_tea_history/
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2014年10月30日

おもてなしの抹茶茶碗(国宝)は六点中、二点のみ国産

陶磁器の焼き方は、いくつかの技術革新が重ねられ、芸術性も加えられていきます。特徴的なのは、5世紀に朝鮮半島から伝来した「須恵器」で、『窖窯(あながま)』で作られました。
『窖窯』とは、斜面に大きな溝を舟形に縦に堀り、天井を土で覆っただけの簡単なものをいいます。この時期に同じく朝鮮半島から「瓦」、陶器・須恵器、唐三彩(緑・茶色・白)、轆轤の技術が伝わっています。奈良・天平には、奈良三彩(三色釉薬)、色付きを良くする為に、陶磁器に釉薬をかけるスタイルが始まります。 これらの生産技術は、各地に広まっていきましたが、その過程で施釉技術のみが失われ、窯で硬質の無釉陶器をつくる技術が 各地域に根付くことになりました。その後、陶器は一般庶民も用いるようになったため、実用的な無釉のお椀や皿を大量生産するようになりました。これが『山茶碗』です。

中国・北宋王朝(960年〜1270年)時代の青磁と緑釉が日本へと広がる。
備前焼、漆器が伝わる。朝鮮の高麗茶碗の技法(象嵌)が伝わる。

鎌倉・室町時代には現在六古窯と呼ばれる愛知県の常滑窯・瀬戸窯、福井県の越前窯、滋賀県の信楽窯、兵庫県の丹波窯、岡山県の備前窯の六窯をはじめ各地で製陶が盛んになりました。

信楽焼、瀬戸焼が鎌倉時代に伝来。 瀬戸焼は、室町・戦国時代の14世紀始めの黄金期に一気に広がったとされます。備前焼は、室町時代終わり頃の黄金期に一気に広まりました。〜安土・桃山時代の陶芸、 瀬戸や美濃地方で、志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部と呼ぶ釉薬を施した茶碗、水指、香合など優れた茶陶の製作が盛んに行われ、京都ではいよいよ楽焼が始まります。1639年から1717年まで釜山にある窯で、高麗茶碗と呼ばれる日本の茶人向け(輸出用)の茶器が焼かれました。

三島焼は、日本の記録として一番最初に書かれている陶磁器。備前焼や丹波焼、信楽焼、また越前焼の抹茶茶碗に対する評価に加えて、日本のお茶会が、禅を含め日本の文化の主要なものになてていきます。萩焼が伝わる。安土桃山終わり頃には茶道具が広がっていきます。伊賀焼や唐津焼、高取焼、阿賀野焼、また薩摩焼が伝わる。美濃焼が始まる(志野焼、織部焼、黄瀬戸焼、瀬戸黒焼)。

江戸(元禄)には、伊万里焼、黒谷焼、鍋島焼、九谷焼、染付焼などの磁器が伝わる。野々村仁清と尾形乾山らによって京焼が広まる。

〜江戸時代初期、元和二年【1616】、現在の朝鮮からきた陶工である李参平が、磁器の原料となる磁土を有田で発見しました。かれはこれを用いて日本ではじめて白磁を作ったとされ、磁祖といわれています。九州有田ではすでに桃山時代にやきものが作られていますが、朝鮮人李参平により本格的な磁器の生産がはじめられたといわれています。

明治時代 〜明治時代の陶芸、 明治以降はゴットフリード・ワグネルなどからヨーロッパの科学技術を取り入れて、生産効率が飛躍的に向上した。20世紀に入ると国力の低下と共に陶芸、陶磁器の質も低下して、アヘン戦争後、輸出も無くなって、日本がそれに代わります。

志野焼は茶人・志野宗信が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ、滋賀県可児市久々利から土岐市泉町久尻にかけて産出する、耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土やもぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉(長石釉)と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけ焼かれる。そして、この志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、国産茶陶としては2つしかない国宝(昭和34年指定)の一つなのです(他の一つは本阿弥光悦の楽焼白片身変茶碗で銘不二山)。 

他に四茶碗が国宝になっていますが、じつは朝鮮および中国で焼成のいわゆる唐来ものなのです。
おもてなしの最たる茶碗の国宝は、こういう歴史があり、それが日本文化たるゆえんです。
日本文化は到来物を重んじて、そこに良さや美を認める寛容さ、融合の美があります。
なんで国境や海峡にこだわって、いいものが生まれるでしょう、和の心は交わる心であるようです。


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2014年10月29日

朝鮮出兵とやきもの(茶碗)戦争、窯場の盛衰

大河ドラマ「軍師官兵衛」では、秀吉の朝鮮出兵の前後も語られて、クロスを手にするようになった黒田官兵衛の苦悩が見えます。そして、国会でも女性閣僚の政治資金にまつわる金の問題で去就が問われています。政治の難しさ、多くの関係者によってなされる選挙など、不確かな政治資金の収支報告書の出し方では次々に政治家の名前が挙がり、弁明をもとめられていますが、その点は男女、老若に容赦はありません。

で、話は戻って、秀吉の朝鮮出兵ですが、その目的の一つであったのが、焼き物であったともいわれました。日本人が陶磁器を珍重するようになったのは茶の湯の文化であり、遂には茶碗を領地と取り替えたいとばかりの熱の入れようとなったことが、ドラマでも伝わってきました。

◆唐津と名護屋城
日本の陶器(焼き物)の歴史は、12000年前に遡ると言われ、世界でも最も古い伝統があります。唐津焼は、朝鮮の陶工たちによってもたらされた蹴轆轤(けろくろ)と連房式登り窯によって、たくさんの焼き物を作られ、それらは唐津港から全国に売り出されるようになって藩財政を潤すことになります。それでも、磁器の方法は会得されておらず、中国や朝鮮からに遅れること1000年ともなっていました。唐津焼の創始期である16世紀後半から、慶長元和年間の最盛期を経て、衰退期に転ずる17世紀半ば頃まで、約70年間にわたって生産された唐津焼をとくに古唐津(こがらつ)と呼び、古唐津窯跡が現在も残っています。

唐津焼は玄界灘沿岸の唐津から西へ伊万里、武雄、さらに南西へ有田、その南の藤津郡、県境を越えて三川内などは、古唐津の古窯跡が散在する一大窯業地です。唐津とは、唐へ渡る津(港)であり、対馬や壱岐を通じて陶工たちがこの地で焼き物を始めたのが、室町末期でした。そのころに茶道は、武人や富裕な商人の間における不可欠の教養であったといわれ、当然、陶器の水差しや茶碗に関心が集まり、高度な技術を持った朝鮮陶工が必要でした。朝鮮の陶工は、それまで使われていた穴窯に替わって連房階段式の半地上窯、施釉陶(せゆうとう)の器が唐津市の南方、岸岳(きしたけ)山麓で焼かれるようになります。ところが、1594年(文禄3年)、築城に関して豊臣秀吉の怒りにふれた領主波多(はた)氏は滅ぼされ、岸岳の陶工もこの地を追われます。古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在しています。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産されたもの。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存しています。

戦乱に明け暮れた豊臣秀吉の時代には、武将たちの間に利休の導いた茶の湯が流行し、秀吉も、当時珍重された高麗茶碗の故郷である朝鮮半島へ関心を深めていきました。秀吉出兵の折に唐津に築かれた名護屋城はわずか5ヶ月で誕生した巨大な軍事都市で、最盛期には城下は人口20万人以上と言われ、1592年4月には秀吉も着陣し、唐津にほど近い名護屋の城に留まり、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しみ、近辺の窯々に茶陶を焼かせたとも言われています。この出兵によって、日本の焼き物の歴史は大きく変化していきます。ここから10数万の兵が朝鮮へ渡り、功名合戦の激しい戦いが繰り広げられたのです。

秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、瓜畑で仮装大会を催したりしたともといわれ、こうした秀吉の壮大な野望の半ばで、1598年死去し、日本軍が朝鮮から撤退、6年余でその城が役目を終えることになりました。国の特別史跡に指定されている現在の名護屋城は、当時は大阪城に次ぐ大きさを誇り、城跡から発掘された瓦には金箔辺を見ることからその壮大さを偲ぶことができます。5重7階の天守閣はもちろん、巨大な城の跡形は城壁の一部が広範囲に残ったのみ、後の権力によって壊され、巨大な城郭を造った秀吉の栄枯盛衰を語っています。

◆朝鮮出兵のもう一つの目的、茶碗(やきもの)戦争
豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の明・朝鮮・日本を併合する野望は、秀吉の茶碗に対する思い入れという背景のなかで計画されたものでした。この朝鮮出兵が別名「やきもの(茶碗)戦争」といわれてきた訳です。渡来した李朝の陶工達により、新たな唐津陶器窯が続々と開かれました。このころが唐津焼の最盛期と考えられ、日常雑器を中心に急速に流通圏を広げ、中世以来の伝統を誇る瀬戸美濃と国内陶器市場を二分するまでに成長しました。

時に、茶人に「一井戸、二楽、三唐津」とも言われるほど愛されている唐津焼は、佐賀県の西部から長崎県一帯で焼かれた陶器で、唐津港から出荷されたのが、その名の由来といわれています。秀吉の朝鮮出兵時に、佐賀藩主であった鍋島直茂は、何千人という陶工を連れ帰ります。その中の一人が、李参平でした。来日当初は、佐賀の多久で陶器を焼いていましたが、納得がいかず、磁器の原料である白磁石を求めて歩き回り、1616年、ついに、有田の泉山で良質の白磁石を発見し、窯を構えました。日本で初めて白磁の焼成に成功し、有田焼の祖は朝鮮人だったということです。

その数、約七万人ともいわれる朝鮮人が連れてこられた中で、福岡県内には二つの焼き物の発祥の地が生まれます。両藩境に近く、また、粘土が良い山があり、隣あっています。現在の直方(のおがた)市大字上頓野の鷹取山付近と田川郡福智町(旧、赤池町)大字上野です。この地に陶工を連れてきた黒田長政によって高取焼きの祖を、細川忠興によって上野焼きの祖を誕生させたということです。後に細川氏は、小倉から、熊本へ藩替えとなり、上野焼きの祖は、長男と三男を連れ、熊本で高田(こうだ)焼きを初めました。残った妻と次男と娘婿が、新領主、小笠原氏につかえ、上野焼きを続けました。

朝鮮やきものへの執心は、千利休が堺に輸入されたばかりの朝鮮の焼物の中に大ぶりの高麗茶碗を見つけて大変な感動を覚えた一品がもたらしたものでした。焼物を手にした利休はさっそく秀吉に献上、それ以来大井戸茶碗とよばれ、茶道の世界では第一級の名品となっていきます。

朝鮮では、その茶碗はサバル(沙鉢)といって食事用に使う大ぶりな器でした。日本では後にこれを大井戸茶碗として、国宝や重要文化財になったものが数々あります。 京都大徳寺、狐逢庵にある国宝「大井戸 喜左衛門」は我が国にある茶碗の中でも最高傑作だといわれています。この為、茶道の世界では「一井戸、二楽、三唐津」または「一楽、二萩、三唐津」といわれます。その井戸風の茶碗は萩焼の陶工が歴代の最高のものを作り出してきたので一井戸と一萩が同じ意味となって、時に「一萩、二楽、三唐津」とまで呼ばれるようになってきました。

秀吉は、焼き物戦争によって朝鮮の陶工・李勺光を和議の印に受けるが、それが毛利藩に李勺光が預けられた経緯は定かでありません。その後に李勺光が萩焼の源流を造ることになったのです。その時以降、朝鮮系の製陶技術が九州、山口各地に伝わり、江戸時代の窯業の特徴を産み出しています。このようにして唐津、萩、薩摩、有田、上野、高取、伊万里、その他の窯業地が開かれました。

◆連れてこられた朝鮮人陶工たち
日本で最初に磁器を作った肥前の陶工・李三平(金ケ江参平)は、有田で磁器の陶石を発見するまでは、多久から有田までの山谷で、陶土を求めいくつかの窯を築いている。陶器、磁器と手がけていったこの陶工も、相当の技術を身につけていた陶工と思われるが、肥前・佐賀の領主鍋島家の重臣、多久安順に連行されて来たときは、陶工であることを隠しているむきがある。なにかのきっかけで、多久安順は、陶工であることを聞き知って、その仕事を命じている。有田焼の李三平は金ケ江参平に、武雄の後藤家信に連行された宗伝は深海宗伝に、唐津焼の祖は寺沢志摩守によって連行され、彦右衛門、弥作、又七の日本名となり、さらに大島、福本、中里など苗字までも名のるほど同化していきました。

拉致された朝鮮人はその後、全国に散逸した。「4百年の長い道 朝鮮出兵の痕跡を訪ねて」の著者・伊達世は、彼らのことを被虜人としています。陶工ばかりでなく、僧や医師などの知識人、「位」の高い者(両班=ヤンバン)たちの子女、そして数えきれぬほどの無名の人々を連れてきたことを調べ上げています。異国の地で、ある者は自殺し、逃亡をくわだて切り捨てられ、または名を変えての「日本人」としての生活が始まってと記しています。

元禄十年、椎ノ峰(現伊万里市)の焼物師たちは佐賀藩伊万里の商人から金子を借り、その返済が出来ず、唐津藩へ訴えられる事件が起きた。掛り合った焼物師たちは、椎ノ峰から唐津領の各地に追放された。木場村へ作五衛門、柏崎村へ弥五衛門、福井村へ太郎右衛門、双水村へ弥七郎、佃島村へ、田中村、入野など百姓として入っていったと言われます。

九州の朝鮮陶工のなかで最も悲惨な道を歩んだのが、薩摩・島津義弘に連行された陶工たちでした。1598(慶長三)年冬、串木野島平、市来神之川、鹿児島前之浜の三ヵ所に総計八十名ほどの陶工たちが上陸している。そうして、それぞれ上陸地に住みつき、帰国jを許されたのは朝鮮国王の親族といわれる李金光だけといわれている。これとは逆さらに故国より遠い沖縄へ、安・張の二氏の陶工は連行されている。この二氏以外は、鹿児島上陸後あまり年数を置かずに立野辺に、すべて集められた。藩の保護も薄く農業片手間の陶器作りで、細々と暮しているところへ、土地の住民たちが襲い、土足で小屋に入り家屋をこわしたりした。朝鮮の陶工たちは、立野辺の村人たちに乱暴はやめてくれるよう再三、頼んでみたが、聞き入れてくれないので、その一人をなぐってしまった。 その結果が土地のものが、さらに多数、集団で仕返しに来ると聞き陶工たちは、みな苗代川の方へ移り住んでいったのだということです。しかも、苗代川には異国の陶工たちが雨露をさえ、さける小屋もなく木の下に寄って日を送っていたので、その姿を見かねた苗代川の農民たちは、食料を与え、仕事を与え、陶工たちも小屋をつくり、農民の家の手間仕事をたより、この地に住みついていったということです。その二、三年後、ようやく藩の保護もあり、土地と屋敷を与えられ陶器作りに精を出すようになります。しかし、朝鮮人は薩摩では、他所(日本人)ものとの結婚を禁じ、日本名も禁じ、金宦、大宦、頓宦、勝賢、利訓、可春、龍仙などとつけられて日本人と同化することを許されず、さらに藩主茶屋遊びには呼び寄せられ朝鮮踊りなどみせなければならなかったというような哀話も伝えられています。

江戸時代に入って窯場が林立すると、燃料の薪の切り出して山野の荒廃が深刻な問題となりました。鍋島藩は
朝鮮陶工を除く日本人陶工824 人を追放し、伊万里地域の窯場4カ所すべてと有田地域の窯場7カ所を取り潰し、有田地域東部の13カ所の窯場に統合しました。それによって窯場は有田に集約され、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊されました。それでも、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続しました。その焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津とされます。

しかし、明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭により、多くの窯元が廃窯となりました。

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2014年10月28日

日々の生活の大切さを考えて

 御嶽山の噴火から、27日で一カ月。
 その日は地元で慰霊祭が行われ、噴火が起こった午前11時52分には、皆さんが黙とうしました。

 亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
 捜索はいったん打ち切られていますが、
 行方不明となっている6人の方が
 ご家族のもとへ1日も早く戻れる日がくることを
 願ってやみません。

 九州の硫黄山でも周辺半径1km以内が立ち入り禁止となりました。
 紅葉が美しい今の季節です。自然の恵みをおおく享受できる日本ではありますが
 連日の大雨に見舞われた広島といい火山の影響を受けた御岳の皆さんといい
 各地で悲しい別れを告げる日々がありました。
 日本に100以上あるという活火山、富士山を初めとする休火山のリスク
 私たちは改めて、日本に暮らすという自然環境を自覚し、助け合う大事さを
 確認していきたいです。
 

          *ー*ー*ー*ー*ー*


         11/23(日)、定員20名
         ミニサロン(勉強会)
       「2015へ向けてのスマート市民:少子高齢化社会を考える」
          場所 我孫子北近隣センター 第一会議室

 シニアライフを大切にするお一人でもある、栗原洋子さんによる高齢化、認知症などのお話も充実です。

  参加費無料/(先着順・前申込制・男女問わず参加可)
  チラシ
ミニサロン.pdf
 ぜひお申し込みください!
   tel/Fax 04-7184-9828
    
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2014年10月27日

幸福になる秘訣は笑顔にありという実験

月曜日をブルーマンデーということがある。休みあけの憂鬱な月曜日というところだ。
それでは楽しくするには、どうすればいいか・・・笑ってみると楽しくなるのだとの実験があるのだそう。楽しいから笑うのだけれど、これを利用して、笑ってみると楽しい気になるのだと実証もされている。笑うと、必ず「副交感神経」が優位な状態になっていて、笑いには血糖値の上昇を抑えて動脈硬化を防いだり、血圧の上昇を防いで脳卒中や心筋梗塞を防ぐ効果になる。さらに、笑うとガンやウイルスと闘うインターフェロンというタンパク質が増える。そのため、免疫力が高まり、風邪をひきにくくなって、ガンのリスクも減るとのおまけまでついてくるのだという。

更に、この効果を増幅するのに一番いいのは、おしゃべりしたり、お笑いや笑点をテレビで見たりして、心から思いっきり笑うことだ。しかも最近では、意識的に笑顔を作るだけでも、ポジティブな感情が高まることがわかってきた。 世の中には面白い研究を考えつく人がいるもので、被験者に笑った表情を作ってもらい、その状態でマンガを読み、面白さに得点をつけてもらうという実験をした人がいる。なんと、同じマンガを読んでも、笑った表情で読んだときのほうが高得点がついた。つまり、笑顔は楽しいときに生まれる表情というだけでなく、楽しさを増幅させる力もあることがわかったのだ。

人間は、進化の過程で、どんな表情がどの程度の危険を知らせるものか、どの程度の安全を伝えるものかを学んでDNAに蓄積してきたということだ。その結果、笑顔は最大級の安全だということを、見る者も、脳も学んでいった。そのため、笑顔の表情が作られると、その筋肉の動きが再び脳にフィードバックされて、「楽しい」という情動を感じる部分が刺激され、楽しいという情動が生まれる。すると、その信号が再び筋肉に伝わって、笑顔の表情筋がさらに動かされる。こうして、笑顔はどんどん増幅されていくというわけだ。

 ところで、異常な恐怖を感じたとき、なぜか笑ってしまったという経験はないだろうか。これは、笑顔には肉体的・精神的な痛みやストレスを緩和する働きがあるためだと言われている。ネガティブな気持ちのときほど、作為的に笑顔を作ってでも笑うようにしよう、すると緩和できるのだ。

楽しいときは、大口をあけて大きな表情で笑ってしまおう。そのほうが幸福度も高まるし、ストレス解消にも、健康にもいいのだ。

『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』(ウィリアム・ジェームズ&カール・ランゲ)という有名な心理学の言葉がある。これは逆にいえば、「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる」ということでもある。 笑えば、「面白く」なり、「楽しく」なり、「幸せ」になる。ウソでもいいから、ニッコリと笑ってみる。 「笑う門には福来る」 笑顔は幸せを運んでくる。


参照:
坪田 一男(慶應義塾大学医学部教授)
『ごきげんな人は10年長生きできる』文芸春秋
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2014年10月26日

バターの値上げにまつわる世界事情

 スーパーの店頭などで、バターの品薄と値上がりが目につく。外国料理クッキング第三弾を開催するが、ロシアの留学生が「ブリニ」を教えてもらう。「バターがあると美味しい!」と言うので、久々に買うことにしたけれど、150グラム300円超とは、やはり高い。

 実は、バターは国産がほとんどだとう。明治や森永乳業などのメーカー各社が持つ国産バターの在庫は、8月に1万6500トン(農水省調べ)。昨年8月より3割少ない。メーカー団体が在庫の「最低限」とみる国内消費量の3カ月分を割り、1991年3月末以来、23年ぶりの低い水準だ。明治は昨冬から出荷を調整しており、森永乳業と雪印メグミルクも数カ月前には調整を始めている。

 これは、アジア諸国における中産所得層が増大して、乳製品需要が高まり、日本の場合はエサをほぼ輸入に頼るためエサ代が上昇した。将来的に割安な海外産の乳製品が大量に入る不安もあって酪農家が減り、原料の生乳が不足しているためだという。主産地の北海道の農業協同組合中央会の調査では、離農の理由に「人手が足りない」「環太平洋経済連携協定(TPP)で安い輸入品が入ってくる不安」、そして「輸入に頼るえさの高騰」などが挙がった。

 さらに生産量減の背景には、乳牛数も大きく減っていることがある。昨夏と一昨夏の猛暑が響いて乳牛が妊娠する確率が落ち、乳の出る量にも影響した。北海道別海町の酪農家は「今春以降の生産量は1割減。なかなか元に戻らない」。夫婦2人では体力的にきついこともあり、4年前は70頭いた乳牛も60頭に減らしている。

 乳製品の原料の生乳の生産量が減り、生乳の生産量は14年度は732万トンと、ピーク時の1996年度から15%落ち込む見通し。生乳は、より高く売れる牛乳に優先的に回り、バター向けは不足し、取引価格が上がっている。ふつう、国産が不足すれば海外産を民間企業が輸入して埋めると思うが、バターはそうはいかない。農林水産省は酪農家を守るためバターの輸入を規制しているためだ。高関税をかけて事実上、民間が自由に輸入できないようにして、不足分は国が調整する。そこで、14年度は5月に7千トン、9月に3千トンの緊急輸入を決めたが、同じ年度に複数回の緊急輸入は初めてだ。計1万トンは国内消費の1・5カ月分にあたるが、それでも品不足に追いつかない。バター不足は08、11、12年度にも起きた。やはり農水省が緊急輸入した08年度は結果的にバターは余ったため、農水省は必要な分しか輸入しない考え。乳業業界では、品薄が15年度も続くとみている。十分な量が出回るには時間がかかりそうだ。

 スーパーでは1人1個に販売を制限したり、200グラム400円台のバターが品切れになっていた。かつては198円で買える時もあったから価格が2倍以上、「高過ぎる」と思うとなかなか買えない。影響は中小のパン店やラーメンチェーンにも広がっている。東京の山の手のパン店では、バターをふんだんに使う種類のパンを減らしている。仕入れ先の乳業メーカーが6月ごろから、一方的に販売量を減らしたため、必要量の半分しか手に入らない月もある。「味噌バターラーメン」がメニューにある全国チェーンのラーメン店では、スーパーにバターを買い出しに行く店もある。9月末から買える量が7〜8割減り、割高でも家庭用に頼るしかない。

 品薄に加え、値上げが家計に響いてくる。雪印は7月から、明治や森永は8月から家庭用バターを値上げした。菓子メーカーなどに売る業務用も、農水省の調べでは8月は1キロあたり1309円。前年より5・8%高く、ほぼ30年ぶりの高値だという。

ブリニつくりにも乳製品をたくさん使いました。
@ロシアでは卵を良く洗って、ナイフで殻を割るのだそうです
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Aロシアではブリニ専用のフライパンを用いるそうですが、日本でつくる場合は良く熱してから、油をふき取りながら、出来るだけ薄く焼きます。ロシアでは子供たちもブリニつくりのお手伝いするが大好きだそうです。
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Bコテージチーズの作り方も教えてもらいました。意外に簡単で安上がりです。お得な情報をゲットできました
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C出来上がりました。木漏れ日の木々を窓越しにロシアの話を聞き、談笑しながら、美味しく頂きましたました。(Cは、クリックすると拡大)
CIMG0350.JPG
ロシア料理定番のブリニ(блины)、スモークサーモンをブリニで巻いたり、イクラ(икра)のせたり、ロシア料理に欠かせないハーブであるディル(укроп)と一緒にコテッジチーズも添えると一段と本格的。今回は、ポテトのマッシュに玉ねぎ、キノコのソテーを包んだものとジャムと蜂蜜シロップの二種類でした ハートたち(複数ハート)

参照データ:朝日デジタル (10/24)

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2014年10月25日

赤坂離宮迎賓館(国宝)が3日間だけ間近に自由参観

 今年(平成26年)で開館40周年を迎えました。
 平成26年迎賓館赤坂離宮前庭公開は、11月8日(土)〜10日(月)の3日間を予定しています。館内を御覧いただくことはできませんが、国宝に指定された迎賓館赤坂離宮本館を間近でご覧になれます。

日本最初の西洋風宮殿建築です。 戦後、皇室から行政に移管され、政府の施設として利用されていましたが、わが国の国際社会への復帰に伴い、外国の賓客を国として国際儀礼を尽くして接遇する施設の必要性が高まったため、昭和43年(1968年)から5年余の歳月をかけて旧赤坂離宮の改修が行われ、現在の迎賓館が完成しました。

 赤坂離宮は、当時のわが国の建築、美術、工芸界の総力を結集した建造物であり、明治期の建築界における本格的な近代洋風建築の到達点を示しています。日本が独自の文化を守りながらの西洋化と富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を『武勲の者』という印象を表現するために、正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっています。また、当時電気が珍しかった日本においてイギリス製の自家発電装置を備え付けて照明に電気を使い、アメリカ製の自動温度調節機能付き暖房装置をつけるなどの当時の贅をつくしたもので、東宮御所として利用されました。戦後に、閣議決定を経て国の外交の迎賓施設となりました。

迎賓館の敷地は約11万坪あり、通常の申込参観はわずかな人数ですが、この時期の庭園側よりの赤坂離宮参観は、事前の申込みは不要で年齢制限もありませんので、お気軽にご来館ください。

☆赤坂迎賓館前庭 一般公開
http://www8.cao.go.jp/geihinkan/sankan/zenteikoukai.html
日時:11月8日(土)〜10日(月)午前10時〜午後3時半
最寄り駅:JR四谷
管轄:内閣府
予約不要、当日並べば入れます。
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2014年10月24日

特攻、許されなかった帰還

太平洋戦争の末期、海軍の特攻隊が初めて米艦船に体当たりしてから25日で70年だということです。なぜ多くの若者が死ななければならなかったのか。生き残った元隊員は戦略の非人間性、死に逝く追い詰めるやり方であったことを証言して、いまも戦争の罪を問い続けています。

http://digital.asahi.com/articles/ASGBM02JJGBLTIPE01V.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGBM02JJGBLTIPE01V

太平洋戦争の末期には爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たり、自爆する戦死を前提とするものが中心となりました。

数年前に中央学院の文化祭で、たまたま映画上映があった。上映時間に間に合ったので席に座ってみたのが、『月光の夏』(1993、毛利恒之の小説の映画化)でした。実話などを元に創作したドキュメンタリー・ノベルによって、帰還特攻隊員の収容施設「振武寮」の存在が明らかにされるようになりました。特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容されていた施設だったということえす。エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃での不時着など外的要因から、内的要因などでしたが、帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、即座に振武寮にて事実上の軟禁状態です。死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたというのです。振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もでたということです。

振武寮に関する公的資料はいまだ発見されず(私文書で「振武寮」という言葉のあるものは存在する)、また振武寮の存在は当時の軍の機密事項に属したため、今でも知る人は少ないという場所です。後にNHKスペシャルで特集が組まれました。http://d.hatena.ne.jp/dj19/20090420/p1

歴史は語られないままで終わる部分も多々あり、実はそのほうが多いのかもしれません。風化させないように、努力されたり、偶然の出会い、語りによって、新たな歴史認識がされていくこともおきています。今月、知覧に行ってきましたが、Web、Twitterを利用できる時代に暮らしている者として、多くの人の良識と努力で平和な世界の構築へと向かうように願っています。


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2014年10月23日

台湾にも感謝報恩

あの大震災の時に、世界中の国々が日本に応援をしてくれていました。そのことについて、「世界中へありがとうと」というサイトがあるのを見つけました。中でも、台湾は震災の翌日に、世界のどこよりも早く援助隊を派遣してくれていたのです。200億円を超える義援金と400トンを超える援助物資を送ってくれました。これは世界中で最も多い支援だというのも改めて知りました。 http://thanks.afuse.jp/TWN

そのことに気付いていた野球ファンが、2013年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本対台湾(チャイニーズタイペイ)戦で、その感謝が形を表しました。東京ドームで3月8日に行われた試合は9回ツーアウトまで負けていた日本が奇跡的に同点に追いつき、延長戦、4時間37分の激闘の末、日本チームが13-11逆転勝利をつかんで話題になった試合です。

試合のテレビ中継も終わった後に、不思議な事が起こりました。なんと台湾チームの選手たちが、ピッチャーが立つマウンドに集まり、全員が客席の方を向くと、スタンドのお客さんに向かって、深々と頭を下げたのです。スタンドの日本人の観客全員に対して、「応援を感謝した」のです。その感謝の心は、スタンドにいる台湾人のお客さんにではなく、日本人のお客さんたちに向かってだったのです。そして、気が付けば、中には台湾のファンが掲げていた旗には、「日本おめでとう」の文字があったというのです。感動の日台友好があったのを知る人は球場にいない人にはあまりしられていないのです。

事のはじまりは、日本対台湾戦を2日後に控えた3月6日、 1人の日本人のツイッターでのつぶやきでした。
「WBC、日本の初戦は台湾に決定。この試合を応援に行かれる方、先般の東日本大震災への台湾からの多大な支援のお礼の横断幕やプラカードをお願いします。 WBCを通じ、日本と台湾の信頼関係を深め、私たちが本当に台湾に感謝している事を伝えてください」 つまり、試合の前から、日本人のツイッターのつぶやきによって、「この時の支援へお礼をしよう」という呼びかけが広がっていたのです。このつぶやきは、実は、 翌日には中国語に翻訳され、台湾の人たちの間でも話題になっていきました。

そして、試合の当日、ツイッターに応じたスタンドには「台湾に感謝」と書かれたたくさんのメッセージが掲げられていたのでした。台湾チームの選手たちは、スタンドのこれらのプラカードを見て感動したのです。試合後に台湾の選手たちは観客全員へ向かって感謝の一礼をしたということだったのです。ついには、その姿に対しても、スタンドからも惜しみない拍手が贈られました。

「ありがとう」によって親愛の情が深まり、人と人の間、国と国の間にもとても大きな大切なものが生まれるのを、そしてアジアの友が親愛の情を欧米以上に示してくれていたことを、もっと知るべきと思いました。

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2014年10月22日

三陸鉄道の開通はクエート国の支援大、観光客増で21年ぶりの黒字に

岩手県の沿岸を走る三陸鉄道は、今年4月に全線で運行再開したことを当ブログ(4/7)でも取り上げました。国内だけでなく海外からの支援も受け、2013年4月3日に盛〜-吉浜の運転再開がされたことも報道されました。

 東北地方太平洋沖地震に伴う津波によって、三陸鉄道に甚大な被害をもたらしました。路線各所で駅舎や路盤が流出し、車両も3両が使用不能となってしまいました。しかしながら、地震発生後のわずか5日後には久慈駅 - 陸中野田駅で運行を再開、被害が軽微な他の区間についても3月末までに運転再開し、被災者を勇気づけてきました。

 新車両の導入には、なかなか動かない日本の対応をしり目に、イスラム圏のクウェート国が即決の多額支援を申し出てくれて、当地の人々も感動を呼びました。その恩-を忘れないようにと車体の前面にはクウェート国の国章、運転席ドア横にはクウェート国に対-する感謝の文章が日本語・英語・アラビア語で書かれています。

 NHKドラマ「あまちゃん」(2013)に取り上げられ、「三鉄」のモデルとなったのが三陸鉄道だと知られて全国の注目を集めました。先に開通した北リアス線と共に、南リアス線吉浜〜釜石も開通し、被害が大きい区間についても、岩手県の補正予算や国土交通省の第3次補正予算から復旧費用が拠出される目処がついたため復旧工事が進められ、2014年4月6日、全線で運転を再開したものです。本数はまだ以前より少ないものの、地-域の足として、観光客の足として、そして復興の足がかりとして活躍しはじめました。

 駅周辺の被災によって定期利用者は震災前の半分の水準にとどまっているものの、観光客の乗車が去年の倍近くに達し、9月末までの上半期で黒字が6000万円を超える見込みとなりました。実は、三陸鉄道の半期決算が黒字となるのは、1993年以来、21年ぶりです。魅せるものがある地域は、人の関心が集まる観光の影響で、復活する例といえそうです。東北の多くの土地柄からしてアクセスが復旧すればこれまでにない人の流れが生まれてくる可能性が感じられます。

参照:
TBSニュース 10月22日
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2014年10月21日

賢いママ、スマート市民たち@我孫子(放射能ホットスポット)

子育てママたちの日頃の不安解消や身近な出来事などを、お茶を飲みながらのんびりお話してみようと『我孫子の子どもたちを放射能汚染から守る会』が、見る知るカフェ@あびこ(無料)を開催します。

10月26日(日)10時-11時半
リーフレット「そうだ!!保養に行こう」(関東ネット作成)のプレゼントあり。
子連れOK、興味ありそうなお友達にも、是非お声かけして参加して下さい。

我孫子近隣センター こもれび 和室(2F) 
http://ameblo.jp/abiko-mamorukai/

お母さんたちの会の他にも我孫子では、原発のない社会にむけての運動や手賀沼終末処理場への高濃度放射能廃棄物の搬入ストップの運動をしている市民グループのブログもあります。「原発のない社会をめざす会」は、震災後の原発関連の動きを整理して分かり易いので、ご紹介。
http://chiko123.blog.fc2.com/

最近の様子が分かる新聞記事:
千葉県は、2012年6月の地元住民説明会の時点で、2015年3月末までに原状復帰と約束し、その後の対応については次のような進展が記事になっていました。

●産経新聞 2014年8月5日の記事(部分↓)
県は4日、柏市内で関係5市の担当部長らによる会議を開催。ごみ焼却灰を同処理場に搬入した松戸、柏、流山の3市に対し、来年3月末までに国の指定廃棄物の最終処分場が完成しなかった場合に備え、各市で一時保管の準備を進めるよう要請した。

●2014 10/15の東京新聞に3市(柏、流山、松戸)で一時保管決定の記事掲載(部分↓)
東京電力福島第一原発事故による高濃度の放射性物質を含む焼却灰(指定廃棄物)を保管する国の最終処分場の選定が遅れている問題で、県は十四日、柏、松戸、流山の三市に、県の手賀沼終末処理場(我孫子市、印西市)で一時保管している焼却灰を来年三月末までに運び出し、各市で一時保管することを正式に要請した。
平成24年12月からごみ焼却灰の搬入が始まり、約526トンを一時保管している。搬入した3市の内訳は柏市が約296トン▽流山市が約178トン▽松戸市が約52トン−となっている。


手賀沼終末処理場への放射能汚染灰搬入に関しての裁判の傍聴にもご参加ください。
公判 第5回 12月19日(金)10:00〜11:00
千葉地方裁判所 松戸支部 第101号法廷

なお、千葉県弁護士会では、啓発のための講演会を開催し、講師に崎山比佐子氏をお呼びしていました。崎山は、国会事故調査委員 として低線量被爆の調査を担当した元放射線医学総合研究所主任研究官、医学博士。
Youtube に公開された講演(32分ごろから)があるので、ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=L7PfwAUPx78&list=UUhjEbWVGnGHhghoHLfaQOtA

多くの地域でのまなざしのあるお蔭で、知恵が生まれ、生活の基盤、安心が守られます。
それぞれのブログに連絡先がありますので、アクセスして繋がって、市民力になってださい。


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2014年10月20日

シンポジウム:”開かれた政府”はどう作られるのか?

 世界的に取り組まれているOpen Government Partnership(OGP)。
政府と市民社会のパートナーシップにより開かれた政府を推進するというこの枠組みには、64か国が加入し、それぞれが国内アクションプランを公表し、国内改革を進めています。そして、このプロセス全体を通じて、市民社会の参加を重視していますが、日本は未加入です。
 開かれた政府は、継続した改革のもとでつくっていくもの。OGPでの各国の取り組みは、このことを示していると考えられます。そして、OGPの枠組みを通じてこの取り組みが共有されることで、改革や改善が促進されていくとも言えます。さまざまな問題、課題はあり、すべてが解決できるわけではありませんが、開かれた政府を実現するための具体的な政策や仕組みをオープンに議論をすることは重要です。
 これまで日本は、「開かれた政府」のために何に取り組んでいるのか。政府での事例について聞き、また世界手の取り組みについて聞き、今後の取り組みについて展望したいと思います。


 日時:2014年10月27日(月) 17時半〜19時(開場 17時)
 場所:衆議院第二議員会館多目的会議室
 参加:事前申込不要、無料
 主催:開かれた政府をつくるプロジェクト
      日本ペンクラブ×自由人権協会
        ×情報公開クリアリングハウスの共同プロジェクト
  PDF版の案内→ http://bit.ly/1xYEzzc

◆プログラム(内容が一部変更されることがあります)

 開かれた政府をつくるプロジェクトが目指すもの
    三木 由希子(情報公開クリアリングハウス理事長)

【報告】
 オープンデータの取り組み: 内閣官房IT戦略本部(予定)
 予算執行の情報公開の取り組み: 内閣官房行革推進本部


 Open Government Partnershipの官民協働の取り組み
   Open Government Partnership サポートユニット(skype参加)

 コメント 日本のオープンガバメントとOGP
   ローレンス・レペタさん(明治大学特任教授)

【連絡先】
 特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス
  〒160-0008 東京都新宿区三栄町16-4 芝本マンション604
  TEL.03-5269-1846 FAX.03-5269-0944 携帯 080-3714-7257
  e-mail icj@clearing-house.org


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2014年10月19日

ひと儲けより、人儲け

ひと儲けでなく、「人儲け」なんて言葉、あまり聞いたことがないと思うが、もちろんこれは「人を使って、お金を儲けること」ではない。ヨシダソースの吉田グループ会長、吉田潤喜氏の名言だ。その説明によると、人とのつながり、いろんな人が集まってくれること。簡単に言えば「人に好かれること」=「人儲け」だという。

実はこの「人儲け」こそ、人生でも、仕事でも、一番大事だという。自身の人生を振り返っても、周りの人たちを眺めてみても、結局、人儲けのできる人が仕事もプライベートも充実するし、楽しくハッピーな人生を送っている。ただし、ここで誤解して欲しくないのは「人儲け」と「人脈・ネットワーク」はまったく違うという点だ。そんな「つながっているだけの関係」に意味はないのだと言われる。

本当に大事なのは、そんなものではない。
「自分の利益のための人脈、ネットワーク」なんて底が知れているし、つまらない。

一時的にうまくいったところで、そんな下心は必ず後でバレてしまい、本当の成功、本当のハッピーは決して得られないのだ。「人儲け」とは、もっと本質的に「人に好かれ、人が集まってくる」ということだ。

人に好かれて「ああ、あの人は素敵だな、チャーミングだな」「あんな人と一緒にいたいな」「仕事がしたいな」「あの人のためにひと肌脱いだろうか!」と思われること。 結局、これが一番大事。

これさえあれば、あなたの仕事も、人生も、最高にハッピーになること間違いなしだ。
考えてみて欲しい。たしかに世の中には、難しい理屈や戦略、ノウハウ、メソッドなどいろんなものがあふれている。でも、どんなに賢く、能力にあふれた人だとしても「あんなヤツと一緒にはいたくない」と感じる人とビジネスをやりたいと思うだろうか。

お互いのことが大好きで「この人のためになりたい」と本気で思える関係。それが「人儲け」なのだ。

それから、見栄がコントロールできていない人の周りからは、どんどん人がいなくなっていく。
まさに「人儲け」とは真逆の生き方だ。 高級車に乗ったり、偉そうな態度を示したり、周囲の人間に「すごいですね」とおべっかを言わせるなど、見栄の張り出した人の周りには、一時的に人が集まってきたとしても、決してそれは本物ではないし、長続きはしない。

人に嫌われる人の特徴は、「人に与えず、もらうばかりの人」、「人を傷つけるようなことを平気でいう人」、「人の話は聞かず、オレがオレがの人」、「謙虚さとは真逆の、偉そうで見栄っ張りの人」等々。
そうはいっても、この世で一番難しいことは、「いばっちゃいけない」が、「なめられちゃいけない」ことだという。「なめられる人」すなわち、下手に見られやすい女性などがその対象だった。弱々しい、モノを言わない、遠慮しないと女性らしくない、お嫁にいけないよ、魅力がない、人からは好かれないと言われた続けてきた。

今は、儲けられる女性も魅力的な人生を選択できるようにはなってきた。好かれるには優しいけど、強いということを出しても、女性も世の力になれて、世の中もそれを期待していく時代になってきている。小渕さんは、期待された女性政治家だが、政治は一人じゃできない難しさがある。へたな後援会、がんじがらめになる組織は、なるほどいらないかもしれない。

参照:
『「人儲け」できない人生ほどつまらないものはない!』こう書房

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2014年10月18日

来年を考える「介護保険制度」改正


ミニサロン(無料):
もっと知ろう高齢化社会、介護保険制度の実情


やさしく分かりやすく、気楽に聞ける雰囲気で、参加者と講師が少人数でやり取りしながら話していく形式「ミニサロン」です。介護する人、そして介護される人、誰にでも巡ってくる問題です。まずは、参加して、現状を知っておくキッカケづくりにしてみませんか。
特に我孫子の高齢化問題に精通している講師です、なんでも聞いてみましょう!

<主な内容>
・なかなか聞けない介護のイロハと2015制度改正
・知っていますか?認知症
・我孫子市内外の施設、その他               

講師:栗原洋子さん 
エスポワールわが家 理事長代行
11月23日(日)1時半〜3時
我孫子北近隣センター(並木) 第1会議室
定員:15名
 
申込み先 明日の我孫子をつくる会
Tel/ Fax 7184-9828 (海津にいな)

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2014年10月17日

「医療・介護改革にどう対応する」の講演を聞く  超高齢化の先進市・柏の事例から

辻 哲夫氏(東大高齢社会総合研究機構特任教授、元厚生労働事務次官)が、来年の改革の今後の展開などを見据えて、この大改革に対応して「住み続けられるまちづり 」を進めるにはどうしたらいか、アビイホールでお話しを聞きました。300人入る会場は、ほぼ満席でした。
2014101715090000.jpg

以前に坂の街・長崎の医療体制について視察したが、地域をかかりつけ医が守るという発想を街の医師たちが率先して取り組んで、ITを導入して進めていた。その際に、柏などを含めた全国の5つほどの緩和ケア医療のモデル地区があることを聞いて、隣市としては心強い思いがした。それが、今は高齢化にも先進例として取り組んでいるとの話は、我孫子市民もスマートな選択をしやすいようになっていけると、ちょっと安心になり聞いて良かったと思えました。わが母も、父を亡くしてからもう二十年近くいなり90歳です。最近まで自ら自動車の運転をして趣味のお稽古に余念がなかったが、ロコモの症状が進んでいます。これに対抗するのは難しいのかもしれないが、本人はまだまだ頑張っているし、こういう社会対応の進展があるなら、明るい気持ちでいられる気がしてきました。

◆東大の研究機構で高齢化への明るい「まちづくり」を目指して
東大・柏キャンパス研究開発領域では5年前からプロジェクトとして、全国でも注目の高齢化率40%とされる柏市豊四季台団地を、高齢化対応モデル事業として「柏プロジェクト」を展開しています。柏市、東大研究機構、都市再生機構の三者による柏市豊四季台地域高齢社会総合研究会を組織して取り組んでいるものです。

豊四季台団地は昭和39年にできたURの団地で、ベッドタウンとして人々が最初に移り住んだUR団地は老朽化、高齢化の最たるものといえます。日本では75歳以上人口が増え、85歳以上人口はさらに増え、独り暮らし世帯がどんどん増える傾向です。いっぺんに出来た住宅地には都市の高齢化も起きる典型が柏豊四季団地です。こうした背景の中で、柏市医師会が“立ち上がらなくてはいけない”と決意したことは特筆すべき事です。
 
外来受療率は75〜80歳がピークなので、超高齢社会では外来に来れなくなる人が増えます。団塊の世代が75歳を超えた直後を境に外来患者は当然のことながら減っていきます。今後は「午前外来、午後往診」という方向に転換しなければ患者は減少します。それを、患者が減り始める2025年とか2030年に考えても間に合いません。そこで、年をとっても住み慣れた地域で住み続けることができるまちづくり、地域包括ケアシステムをどう作るか考えなければなりません。

一つには、できる限り元気で活躍できるということでは、慣れ親しんだ生活スタイルである“働く”ということに着目して、「生きがい就労」の創成に取り組んでいます。週5日をワークシェアリングする。たとえば農業などは、収穫期など一定時期に仕事は集中しますがそれ以外は毎日でなくてもいい。あるいは保育所では保育士でなければならない仕事以外に、午睡の見守りや朝の子どもの預かりなど一定時間だけの仕事もある。このような仕事を地域にどんどん埋め込んでいって、お年寄りが生き生きと外に出て働く。しかもグループですからお友達もできる。それによって元気で明るいまちをつくるということです。

◆地域包括ケア、地域を在宅医療で万全に
もう1つは地域包括ケアの具現化ですが、柏の特徴としては“在宅医療を保障する”という覚悟です。人生90年の社会は、長生きさせていただく一方で、最後は多かれ少なかれ虚弱になって人のお世話になる期間になります。そこでは夫婦2人世帯ないしは独り暮らしが基本となるので、本格的な介護システムが必要となります。さらにう1つ重要なのが在宅医療です。多くの場合、医療上の不安から救急車で病院に行ってしまいます。ところが、高齢期の入院は寝たきりにつながりやすく、認知症が出て帰って来れないというのがかなり一般的なケースになっているのです。そこで生活の場に在宅医療が及べば、帰してもらえる。本人・家族が望めば在宅で亡くなることも可能になります。

在宅医療をいかに柏市で普及させるか、そのポイントは病院のかかりつけ医です。在宅医療専門の診療所も必要ですが原則は、かかりつけ医が自分の患者さんが来院できなくなったら往診するという診療スタイルに少しずつ転換しています。医師会が「かかりつけ医は在宅医療をする」という方針を掲げ、柏市との間で合意ができたことは意味が大きかった。市役所が事務局になって、医師会が呼びかけ人になって、歯科医師、薬剤師、訪問看護師、ケアマネジャー、病院の退院時担当者、介護事業者といった多職種みんなが話し合う場をつくっていきました。この連携ワーキングという場を基本にして、連携のルールをつくるために在宅医療を含めたシステムを実際にモデル実践する。かかりつけ医だけでは過重負担となるので主治医−副主治医制を採り入れました。その結果、明らかになったことは、副主治医の出番が少ないことでした。そして、退院する際に病院側からの情報がシステムとして出てきていないことへの対応や、急変時の病院の受入態勢など、ルールを話し合ってつくってきました。

地域包括ケアのいわば出発点となるモデル施設づくりを始めたのが柏豊四季団地です。URの公募により介護棟が70戸、自立棟が35戸のサービス付き高齢者向け住宅を誘致しました。1階には24時間対応の看護・介護サービスがあり、ケアマネ事務所や地域のかかりつけ医、最後をバックアップする在宅医療専門診療所も誘致して、本人・家族が望めば看取りまでできる。さらに公募の条件には、周辺地域に対しても同様の24時間サービスを提供することが含まれます。通常のサ高住は内付けサービスですが、デリバリー型のサービスモデルを基本です。

◆医師会、行政の取り組みが要
そこで考えられたのが、医師会から推薦されたかかりつけの医師と、歯科医師、薬剤師、訪問看護師、ケアマネ等の連携当事者がともに、かなり高度な事例についてグループワークをする方法です。各職種はベテランですが、一方で医師は在宅医療の経験がない人です。訪問看護師や薬剤師が在宅医療についてよくわかっているので医師はそれを知って大変安心し、病院で多様な症例の修練を受けている医師は、他職種と議論する中で「自分にできないわけがない」と、グンとモチベーションが上がっていきます。他職種は、かかりつけ医と本気で議論したことがなかったので親近感を覚える。もちろん各団体の推薦で受講していますので、各団体に情報がフィードバックされることで、どんどん職種間の関係が良くなって市内のチームビルディングが進みます。それを土台に今度は「顔の見える関係会議」で毎回150人くらいの多職種が集まって簡単なグループワークを行う。そのときのファシリテーターは最初に研修を受けた医師が引き受けます。これらを繰り返すと好循環となって一挙に変わり、事実、感動的ともいえる変化が起きました。

柏ではサ高住をベースに周辺地域に開かれたサービスモデルとして、地域包括ケアシステムへの展開が可能にしていこうとしているのです。行政が中心になって調整役を担わないと進んでいかないということでした。徐々に24時間サービスが市内に浸透し、最終的には地域全体が地域包括ケアのシステムにします。がん末期でも病院にいたら、朝から晩まで検査結果に一喜一憂して、病人として暮らしますが、同じ病状でも在宅にいれば生活者としていろんなことが味わえるわけです。隣を気にせず音楽も聴ける、ペットの頭をなでたり、鍋物も一緒に家族と食べられる、お酒を飲むのも可能。痛みは医師や訪問看護師がコントロールしてくれる。生活者として自宅で過ごす選択です。

これまで病院を中心に発展してきた医療ですが、病院医療と在宅医療が並立する事によって高齢化への医療対策が完成するのです。かかりつけ医といっても病院の専門外来を担当していた医師が開業しているのですから、病院システムそのものです。自宅で自分らしい生活をして、友達とも会い、好きなものを食べて、必要なときにはケアに来てもらいたいということであれば、そういう環境のあるところに移り住むことがされていきます。住まうエリアを高齢問題に対応できる病院を中心に変えるモデル事業が始まったのが柏です。地区医師会長が地域における病院長で、市の介護保険課長が事務長です。だから病院のコンサルティングだけでなく地域医療を、在宅医療を含めてシステム化することも視野に入れていく。そのノウハウは、柏で5年間以上かけて丁寧に構築してきていました。国の研究機関が関わり、行政・医師会も積極的に対応を考えていること、ましてそれが柏であるのは頼もしいですし、頼るばかりでなく市民も自ら考えて声を上げてほしいと言われました。我孫子市民であれば、当市の高齢化率も高いので、11月に向けて用意される市内のこの種の講演は、聞いておくべきですし、来月に当方で開催のミニサロンへもお誘いします。

明日のブログをご覧ください。


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2014年10月16日

隣の芝生は緑、そしてひたち野はコキア紅色

世界の美しい紅葉ランキングで一位になったのが、なんとお隣の茨城県・国営ひたち海浜公園のコキアの紅葉です。コキアとは、原産地は南ヨーロッパ(中国より渡来)です。和名をホウキグサといい、昔はこの茎を乾燥させてほうきを作っていました。秋には真っ赤に紅葉し、3万2千本とも言われるコキアが丘一面を深紅に染めあげ、今が一番のみごろだそうです。週末はとても込み合うため、できたら平日に最高の紅葉を狙っていけるといいですね。常磐自動車道〜北関東自動車道経由で常陸那珂有料道路「海浜公園IC(インターチェンジ)」までと想定して、常陸那珂港ICで降りる迂回ルートから西駐車場へ。お帰りの際も混雑に合わないように常陸那珂港ICから乗る迂回ルートがおススメです。迂回ルートにて常陸那珂港ICまでいくのがいいようです。



大好きな人といってみた〜い、などと言ってしまいそう。
  動画をみるだけでも幸せな気分になれます、よね。

画像提供:ディスカバリーニッポン
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2014年10月15日

食欲の秋に、地球サイズで健康長寿を見てみると

世界保健統計2014によると、最も長寿の国は日本で男女平均が84歳。2位以下は、アンドラ、オーストラリア、イタリア、サンマリノ、シンガポール、スイスが続きます。 男女別では、最も寿命が長い国は男性がサンマリノで82歳、女性が日本で87歳。そして、日本の男性は平均寿命80歳で、カナダなどとともに5位(同順位)なのです。

 気になるのは、寿命の男女差です。日本の女性は2位スペインの85.1歳を2歳も引き離していても、男性は5位の80歳で、日本人男女の寿命差は、2000年以降、ほぼ7歳差で変わりません。一方で、アイスランドは3歳差(女性84歳、男性81歳)、ノルウェー、スウェーデンが4歳差(いずれも84歳、80歳)。フィンランドは6歳差(84歳、78歳)。

◆北欧との違いは
つまり「男女格差が少ない」とされたアイスランド、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン各国の24歳〜54歳就業率は80%を超え、日本女性の就業率は69.2%との違いが見られます。その傾向は過去10年以上変わっていません。北欧諸国は、いずれも2012年度のジェンダーギャップ調査で上位を占めてきています。誰が言い出したのか、「亭主元気で外がいい」とのはやり言葉も、結果的にジェンダーギャップを作り、男女の寿命に差をもたらしているだけでは、つまりません。

長寿社会で大きな課題は、自律的な生活ができない高齢者を作らないことです。実のところ、平均寿命と健康寿命の差で男性では10年ですが、女性は男性よりも長生きが高じて非自律的な時期が12年です。日本に住む100歳以上の高齢者は5万4397人(2013年9月15日現在、厚生労働省発表)。うち87.5%超を占めているのが女性で4万7606人です。女性は男性よりも長寿、更に伴侶の男性よりも年下であるということは、核家族の場合に、夫と死別後の支援が必要な時期をどう過ごすか、新たな女性問題とも言えます。

かつては、同居の嫁と娘たちがその手となり足となり、ある意味では結婚した女性たちは家庭婦人であったお蔭で、介護や育児のためのほぼ無料の専属要員でした。女性たちは若くして出産し、平均的な子供の数も今より3-4倍は多かったということです。しかしながら、核家族化して主婦一人で舅姑を看取る状況にもなり、「介護地獄」などとため息まじりの言葉もささやかれました。男性は、教育面でも優遇されてきた分、情報や資産をより有していたともいえます。この点を社会が解消しようとの政策に反映されて、日本は介護保険に踏み切ったものの、すでに財政の荷重、福祉格差とも言われる事情をもどう見直すかが急務になっているというのです。

◆老後対策へ
少子高齢化によって年金減額、介護施設不足などの状況を幸せに生きぬくために「老後対策」を個々人で考えおく必要がありそうです。近々、こうした事を身近な問題から捉えてみたいと思い、ミニサロンを考えてみたいと思っています。

社会の変化、女性の生き方の変化、長寿世界一の日本で、若干男性は第5位にとどまるとは言え、高齢者が晩年を自律的に楽しく生きぬけるよう、健康意識が極めて重要だと改めて気づかされます。国内の先進例に目を向けてみますと、全国主要都市20市別に行った最近の調査では、静岡県の浜松市が健康寿命な期間が長い日本一でした。浜松市は男性72・98歳、女性75・94歳の時点でも平均的に健康を維持しています。最下位は大阪市の男性68・15歳、堺市の女性71・86歳でした。浜松市の場合は最短の健康寿命に対し実に5年も長いのです。

また、いわゆる平均寿命では、長野県がここ数年1位です。男性80.9歳、女性87.2歳です。長野県はその理由として就業率が女性4位、男性5位、中でも65歳以上の男性の就業率が全国1位(いずれも2007年)の特徴をあげ、ピンピンコロリなどの言葉を発明した意識とも結びついた結果を示しているということです。他にも女性の野菜摂取量が全国1位(同)、男性の習慣喫煙率が全国で44位(06年、10年)、と「健康に対する意識の高さ」も特徴的だったとしています。

長野の野菜は冬の冷え込みが厳しいだけでなく、一日単位で見ても、昼夜の温度差がかなりあります。これが、野菜などの植物を強くしているということです。過酷な環境で栽培された植物ほど、抗酸化作用や免疫力を高める栄養素・フィトケミカルをより多く含んでいます。代表的なものには、ポリフェノールやカロテンなど。つまり、厳しい環境で育った野菜のほうが栄養価が高いからです。自給自足できるほどに家庭で野菜を育てており、ちなみに、長野ではファーストフード店もコンビニも非常に少ない。需要がないからだ。

◆ぴんぴんころり
1983年、長野県が日本体育学会で「ピンピンコロリ (PPK) 運動について」と題し発表したのが始まり。病気せず、元気に長生きし、コロリと死のうという意味の標語、略してPPKとも言う。長野県は男性の平均寿命が1位をキープしていることもあいまって、この運動の普及に力を入れている。始まりは、1980年、長野県下伊那郡高森町で、北沢豊治が健康長寿体操を考案したことや、2003年には県内でも有数の長寿を誇る佐久市には「ぴんころ地蔵」が建立されて、他県にない健康意識のほどがうかがえます。

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Photo:Wikipedia

また、ロンドン大学の研究でも野菜果物を毎日5品目とると死亡率が16%下がるということが明らかになっています。どうも、毎日の野菜や果物の選び方、摂取量にも健康長寿の秘訣が見られそうです。低農薬、エコ野菜を推進する直販所を設けている我孫子市、しかも、市民は健診にも積極的に参加して、市民活動も県内有数に活発だと言われる当市ですから、県内長寿ランキングで男性最上位(我孫子市の80.8才)であるのも頷けます。高齢者の就業率、公民館数、博物館数、ボランティア参加率、旅行・行楽に行く人の割合だ。長野ではすべて10位以内に入っている。

◆長野の例
長野県の医療を推進してきた一人である白澤医師は「毎日変化のある生活を送り、感動したりときめいたりすることで脳は若返ります。生きがいが意欲や好奇心の源になって、精神的にも明るくなっていくのですが、高齢者の場合はとくに『日々何かすることがある』という状況そのものが、いつまでも健康でいられる秘訣なんです」という。

そして、幸いにも我孫子市は千葉県内で長寿1位との統計結果があり、長野県に接近するほどなのです。なるほど、当市は女性の議員を多数輩出したことも分かるように、男女共同参画を喜んで受け入れらる頭の柔軟さな男性が多く、社会活動にも積極提起するような男性、両者が長生する地域社会、北欧並みに近いのかもしれないです。


◆各主要都市の統計もあり

平均寿命と健康寿命との差
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/dl/chiiki-gyousei_03_02.pdf
病気知らずの体をつくる5つの最強野菜
http://irorio.jp/asteroid-b-612/20140826/157786/
最強の野菜は何?栄養素密度ランキングで1位に輝いたのは「クレソン」
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52168562.html
いつもの食材に置き換えるべき健康的な食べ物6選
http://irorio.jp/manamisgmt/20140611/138705/
健康寿命、浜松市が1位
http://digital.asahi.com/articles/ASG5R56TQG5RULBJ00M.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG5R56TQG5RULBJ00M
長野県が平均寿命1位の要因
http://digital.asahi.com/articles/ASG525QFMG52UOOB00R.html?_requesturl=articles%2FASG525QFMG52UOOB00R.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG525QFMG52UOOB00R
気になる長寿の男女差
http://thepage.jp/detail/20140614-00000002-wordleaf?page=1
世界の男女平均寿命比較
http://memorva.jp/ranking/unfpa/who_whs_2014_life_expectancy.php
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2014年10月14日

柏がNHK朝ドラの街で地域活性プロジェクト

 ニッカウヰスキーの創業者を取り上げるNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」も高視聴率だ。であれば、「柏をウイスキーのまちに」をテーマに地域活性化に取り組む柏市のバーテンダーらが、動き出した。国際的な品評会で世界最高賞に輝いたニッカウヰスキーのブランド「竹鶴」の生産工場がある宮城県仙台市、北海道余市町のバーテンダーらと連携し、多数のイベントを展開する「We!SKY(ウイスキー)プロジェクト」を展開している。

 9月28日に柏市のマリアチャペルマリベール柏で「かしわウイスキーフォーラム2014」を開催。NBA3支部の代表が各地域をイメージしたカクテルを披露した。同プロジェクトをイメージしたオリジナルカクテル「SKYソニック」を作成し、各支部加盟店舗で販売する。

 柏市の商業施設「ファミリかしわ」は29日から10月13日まで、同プロジェクトの応援キャンペーンを実施。買い物客を対象にスクラッチカードを配布し、結果によってニッカ余市工場や宮城工場の見学ツアーが当たる抽選への応募券などをプレゼントした。

 更に、柏商工会議所青年部は11月16日、ウイスキーの知識を深めるセミナーを開催する。定員100人で、参加料は1千円!!!

 柏市商工振興課は「3市町は竹鶴氏が直接、工場建設地に選んだ場所。官民のネットワークを生かし、地域活性化の取り組みを支援したい」と話す。ドラマが終了する来年3月28日まで、三都市の各地域でイベントを展開。ホームページでの情報発信などでも連携する。合併話のあった柏は、NHK連ドラの街になった、我孫子も話題作りに挑戦していかないといけない。

参照:
千葉日報 9月27日
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2014年10月13日

葺屋葺不合神社(新木)から勾玉が出土!?   

新四国霊場八十八カ所七十七番札所大師堂にもなっている、356号道路に面した新木にある神社だ。写真を撮った時に、きれいな勾玉を見つけたと皆に見せてくれた。我孫子の文化を守る会のプロジェクト報告会では、そんな不思議な話で盛り上がった。
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明神鳥居を入り20〜30mの石畳を進み、一旦20段ほどの石段を下がり、また20〜30mの石畳を進むと、社殿が見える石段の下へ着く。20段ほどの石段を登ると、拝殿(弁天堂)がある。本殿は、明治30年建立でほとんど全体が彫刻で飾られている。彫刻は、北相馬郡北方の後藤藤太郎である。素晴らしい彫刻を保護するため保護屋根がかけられている。他に、 鳥居の左右に庚申塔などの碑類が多数ある。

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2014年10月12日

鹿児島、知覧への旅

台風18号が去った直後に、屋久島での自然・環境ツアーを満喫したものの、その後には台風19号が迫ってきた。一時は、荒れる海路を高速船の方が確実ではなどと、不安な状況もあったが、幸いに予定通りの便で鹿児島空港へ。

空港から、タクシーで薩摩焼の窯元「龍門司焼」の十二代目河原氏を訪ねる。本物が手に入れられる希少な釜場は、ひっそりと分かりにくい小高い山の上にあるのです。民藝の柳宗悦はここの黒もん(照りの美しい黒薩摩)を絶賛している釜場です。

匠は、険しいところがなく、穏やかに丁寧に窯焼きの説明もしてくださって、ファンになってしまいました。
陶工の先祖は朝鮮半島から連れてこられた歴史も知ることが出来ました。日本の陶芸が世界に名を馳せる過程には、秀吉の朝鮮出兵がなみなみならぬ陶磁器への執着で起きたことも理解できます。各藩が競い合って、釜場も技術を門外不出にしていたのです。
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次に向かったのは、鹿児島市にある教育文化研究所です
鹿児島駅で下車して、桜島を背景(といっても噴火の煙灰がかすむ)に数分行くと赤羽王郎(白樺派)の遺品を保存展示しています。 
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柳宗悦のところに仮寓したバーナード・リーチの釜場の手伝いもしていたことのある赤羽王郎は、信州白樺の中心人物。そのため、志賀、武者小路とも手紙のやり取りを行っていたことが分かります。

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鹿児島中央駅に降り立つと、若き薩摩の群像が迎えてくれました。
直行バスで、一時間十九分、知覧にも足を延ばしてみました。
特攻隊の半数(約500人)がここから飛び立って若い命を散らすことに。
『ホタル』の映画の舞台になった福屋食堂を営んでいた島濱トメさんの遺言で食堂は記念館になって「ホタル館」の名称になっているので、まずはそこを訪ねることにしました。
http://www.chiran.co.jp/

ホタル館は撮影できないので、写真はご覧にいれられませんが、上記のホームページでアクセスの仕方がわかります。展示には石原慎太郎がトメさんの功績に敬服して始終、健康を気遣っていたというのを知りました。他に、航空隊の跡地に建つ知覧特攻記念館もありますが、時間が足りないこともあって見ることはしませんでしたが、記念館については内外・周辺の様子が幾つもの動画で十分に分かります。記念館の参道には我孫子の三樹荘の現在の主人である村山さんが建立した「アリラン」碑があり、検索すると動画でも見られるので探してみてください。

ホタル館の他に、武家屋敷の面影を保つ伝統建築物保全地区の史跡、薩摩英国館も至近なので寄ってきました。
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2014年10月11日

鹿児島・屋久島研修視察ツアー 第3日目

海から山から、川上り(下り)、温泉まで何でもあり、自然満喫型観光研修!!!
3日目は島の醍醐味を体感する屋久杉の生い立つ森林をトレッキング、そして温泉です。CIMG0162.JPG CIMG0153.JPG CIMG0164.JPG CIMG0140.JPG CIMG0135.JPG CIMG0138.JPG CIMG0163.JPG CIMG0176.JPG 

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熱めの温泉は、体がほてってしまうので、長湯はできませんが、浸かるだけでツルツルお肌に。

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☆3日間のカフェ・のらのランチ特集☆
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絶対、一度は屋久島にいかないと損ですよ ♪
カフェ・のらから歩いて50歩ほどのお隣さんはゲストハウス(気楽な民宿)Pole Poleを運営して、オランダや米国からも日本語のweb案内を読んで外国人も(素泊まり、3500円〜)安く、ファミリー気分で滞在できると人気だそう。これからは、朝食/ランチ/夕食はカフェのらを利用すると更に美味しい旅になっていくこと請け合い。島中が観光を介在して連携していくため、特に若い人の転入が多いというのは、羨ましい話だ。
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2014年10月10日

屋久島環境探察 第二日目

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CIMG0090.JPG CIMG0097.JPG CIMG0118.JPG CIMG0114.JPG CIMG0116.JPG CIMG0106.JPG  そして、リバーカヤック !CIMG0121.JPG
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2014年10月09日

屋久島で自然農法などの取り組みを見分する

台風18号の影響を心配したが、運よく予定通り早朝に出発。快晴!鹿児島に着く。屋久島へのフライトを2時間待って、南国ムードの小島の空港に到着した。ともかく、メモを握りしめて目的地へとタクシーの運転手に行先を告げる。
「カフェ・のら」は、我孫子から移住したTさんが心を込めて作るお料理を提供する、アットホームなお店。間もなくの開店準備に向けて、今夜はちょっとしたプレ・イベント。お店のお手伝いをしたいなどとは言ったものの、着いたら早速ランチを作ってくれていて、木陰に腰かけて頂くことに。
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地元のお仲間との交流の中で、有機農法の様々な取り組みを進展させているのは、さすがもTさん。次々に若い仲間が集まって・・・
自然農の若者たちとも既知となっているので、アメリカに行って人気の農研修パーマカルチャーの報告会が始まる。プロジェクターで映し出される最新の情報をスライドで見て説明を受けるので、皆さんが食い入るようにみている。3.11の後に香港駐在員だったご一家は、心機一転、それまでの仕事を辞めて、屋久島にIターンしてきたという。家族の会話を聞いていると奥様が外国人なので英語が飛び交う・・・。その向かいに座っていたオッサンは突発参加のアメリカ人だった。
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ユネスコエコパークは、自然と人との関わりがテーマであり、ナチュラリストの外国人や屋久島で新しい生き方を模索する若者たちの生の声がきけたのも有意義だった。隣のゲストハウスの若夫婦、ヒカル君と春ちゃんも参加。Polepoleと名付けたハウスも覗きにきませんかと声をかけられ、まさしくスープの冷めない距離のお隣さん。

そこで、Tさんに連載で寄稿してもらった「ちきゅうTALK」について、皆さんにご紹介したり、して大盛り上がり、第二部の懇親会に突入!!!

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昔、地元で使われていたという二段弁当を見つけ出したと見せてくださった方がいて、手作りの木の温かみを感じる一コマもあり、次々に珍しいお話を聞いている間に数時間があっという間だった。
しかし、なんといっても、山盛りにあったお料理が今日は本当の主役だった。我孫子から行った私たちも食べるほうで参加して、事実上、三杯目も遠慮なくおかわりする「お客様」になって、気が付いたらお皿洗いもすっかり済んで・・・・。
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ああ、宴たけなわで皆既月食を見損なった。第一日目おやすみなさい。
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2014年10月08日

ノーベル物理学賞、三人の日本人学者

 ノーベル賞は、三人の日本人物理学者に決まった。赤崎勇、天野浩、中村修二の3氏が開発した青色発光ダイオード(LED)は、LED照明の普及による省エネ化への貢献にとどまらず、ITや電力制御など、さまざまな技術分野で世界を変える可能性を秘めているという。
 今回も、名古屋大出身者が受賞者だ。天野浩さん(54)は学生時代、赤崎勇さん(85)の研究室で取り組んだ青色発光ダイオード(LED)に関する研究テーマを「まさにこれが世の人の役に立つこと」と感じ、30年以上にわたって研究に没頭してきたという。
 名大の教員紹介サイトで、天野さんは「中学生までは勉強嫌いで、何のために勉強しているのかほとんど理解していませんでした」と意外なエピソードを披露。大学の講義で、ある教授が話した「工という字は、人(一)と人(一)をつなぐ学問だ」との言葉に感動したことがきっかけで、「勉強とは人の役に立つためにすることだ」と初めて実感したという。
 青色LEDの開発は「まさに人の世の役に立つこと」と確信し、研究に取り組んできた。名大サイトでは、自身の研究成果が照明の省エネ化などに貢献していることについて、「皆さまのお役に立てたことはこの上ない誇りです」とし、「自分の体験を次の世代の若い人たちに伝え、さまざまな分野で自分以上の素晴らしい経験をしてもらいたい」と記している。
 また、受験生に向けたメッセージとして「将来の目標を持っている人と持っていない人は、大きく異なります。たとえ未来ビジョンを持っていても、夢のままで終わらせたら何も起こりません」と指摘。「不安に負けないで、(夢に)正面から取り組んでください」と呼び掛けている。
 若い人にあらずとも「世の中に役にたつこと」「夢のままで終わらせない」「成せるかどうか不安に負けないで、取り組んでいく」ことにしましょう、人間は力を合わせると思わぬ力が生まれるということも今回におしえられましたから。
 日本人は”皆で”頑張れる、下地があります。信じて、進んで、世の中を日本から良くしていくと住み善い世界に変えていけるかもしれません。武器を持たない平和な21世紀!周りを見渡すと勇気がいりますが、20世紀に大東亜戦争を起して、欧米を敵に回し、特攻作戦を敢行したことを思い出せば、平和へ進む勇気「平和憲法」に誇りを持つべきです。日本人なら皆で考えれば出来る!

参照:
時事ダイジェスト
posted by Nina at 02:12| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月07日

香港の今昔物語

我孫子に住んでいた柳宗悦に誘われて、常住するようなことになったリーチは、実は香港生まれだった。生まれて直ぐにおに母がなくなり、母方の祖父母が日本で英語教師として赴任してきていたことで、預けられていたのだった。その後に再婚した父の赴任地シンガポールでの暮らし、10歳になったリーチは、英国での教育を身につけさせようとした父の計らいで、寄宿学校に入学する。が、海外の異文化のことなど何も知らずに、ヴィクトリア朝末期の大英帝国の繁栄の中に育つ生徒からは、アジアでの暮らしが長かったリーチは「Chink」などと呼ばれていた。日本人でいう「Jap」に等しい中国人の蔑称。いわゆるイジメを受け、阻害感を感じて育つが、アジアへの憧憬の念は消えない。ついに、ロンドンの美術学校で知り合った高村光太郎に掲示を受け日本に向かうことになる。白樺派の柳も2歳になったばかりで父を亡くしていたこともあってか、グループの中でもっとも親しく交流(同居)、理想主義者/芸術家という性格は共通する。

さて、その香港が学生たちが民主化を求めて大デモを敢行している。
香港中心部を占拠する若者のリーダーの一人は8月まで高校生だった大学1年生。今月4日夜、路上の演説で「武装革命じゃない。制度改革を求める民主運動だ。暴力に反対しよう。平和的に闘おう」と呼びかけ、大歓声を浴びた。

9月26日夜は、政府庁舎内に突入しようとしたグループの先頭に立ち、警察に逮捕された。2日後に釈放され、再び活動に合流している。おかっぱ頭に黒ぶち眼鏡。演説のうまさと行動力で参加者の心をつかむのが巧みだと言われる。早熟な柳宗悦は白樺グループの中で最年少だったし、リーチも美術学校では最年少だったという。

17歳の中国人学生も15歳から政治活動にかかわっている。2年前、愛国心を育てる「国民教育科」の導入を巡り、中学・高校生によるグループ「学民思潮」の世話人の一人として保護者団体と反対運動を繰り広げ、導入延期を勝ち取った。生徒たちが政治に関心を持つきっかけとなり、今回の運動にもつながった。

「占拠で経済的損失があるという批判は分かるが、真の普通選挙はそれと引き換えるに値する」。
17歳の学生は、5日夜、朝日新聞の取材に対して、「香港政府が民意に応えなかったり、再び催涙弾を使ったりすれば、参加者はますます増える。北京は局面を収拾できなくなるだろう」と指摘したという。中国政府を牽制した。

参照:
朝日デジタル10/7(香港=小山謙太郎)
posted by Nina at 19:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月06日

千葉はリサイクル先進県   千葉に誇れる企業あり ハイパーサイクルシステムズ 未来型環境企業  千葉視察 その2

使用済み大型家電製品を「再生素材」する生産工場として、高品質な素材のリサイクルして環境を守ります。限りある地球の資源を有効活用して高度な循環型社会にしていきます。埋立て場や焼却場への排出物をなくし、ゼロエミッション工場を実現、周辺地域に対しては景観や騒音などに最大限の配慮した建物と作業基準で運営しています。

株式会社ハイバーサイクルシステムズ(千葉市)
http://www.h-rc.co.jp/environmental/index.html

粉塵対策もしっかり、粉塵監視モニター粉塵測定器で検査、働く人にとっても負荷を極力低減しています。
•テレビ台は一台ずつ密閉したブース内で、強力なエアブローにより埃を徹底的に分離して集塵。埃の出やすい解体ポジションには集塵フードを設け、作業者が誇りに暴露されない風の流れを設計しています。
•三菱電機がリサイクル工場のために開発した粉塵監視モニターを設置して、職場内の粉塵量を常時監視。自主基準で1m3当たり0.6mg以上の粉塵量になるとマスクを着用しますが、通常はこれよりもはるかに低い粉塵量のため、マスクは必要ありません。

素材リサイクルによる環境貢献のほかにも地球環境にやさしい取り組みをしています。ハイパーサイクルシステムズは電力の節約とCO2排出削減に貢献するため、三菱電機製の高効率太陽光発電システムを導入しています。出力は、本社工場が430kW、千葉工場は150kW。これにより、年間の発電量は58万kwh、年間のエネルギー節約は18リットル灯油缶換算で約7300缶、CO2削減はくすの木換算で約630本になります。
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2014年10月05日

外国料理クッキング Part II&III 参加しませんか

皆が楽しく食卓を囲むことが、幸せの原点です。
世界の料理を作りながら、味わいながら、国内外に社会の視野も広げましょう。
美味しい料理はきっとお友達の輪も広げます!

@ロシア家庭料理  ブリニ
    10/26(日) 11時〜 
     講師 ナターシャ
    スナックにも、おかずにもなる応用範囲が広い料理です。

   近隣センター こもれび 調理室
            参加費 500円

教えてくれる人は違い、食べ方も違いますが、↓
           雰囲気を楽しんでください

●簡単おいしい ブリニ  
https://www.youtube.com/watch?v=EcrC_5bOMtY&feature=player_detailpage#t=3

 ●ロシア女子は、ヘルシーな日本料理(にもの)も大好き
http://youtube.gunblues.com/jp/getvideo?&m=1&v=1&fancy=youtubeZuqGM6Oya2s

A北欧家庭料理  ポーク・ノルベジャン
   ホームパーティ、大事なお客様やイザと言う時にも
    オシャレに簡単に見栄え良く、野菜もたっぷりの美味しい料理です。

     11月22日(土)2時から
     講師 K.カツマタ

      我孫子南近隣センター(我孫子駅南口駅前) 調理室
        参加費 800円 
       
レストランレストラン喫茶店ハートたち(複数ハート)るんるんファーストフード

関心のある方は、まずはメールください (*^_^*)
申し込み締め切りは、各2日前まで。
お待ちしています  ninakaizu●gmail.com

レストラン


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2014年10月04日

過疎から観光の町に変身、富浦町(千葉)

千葉県富浦町は人口5,700人、面積25.69kuの小さな過疎の町、特産品といえば、皇室に献上される房州枇杷や花卉など温暖な気候を活かした農産物です。大きな観光施設はないが風光明媚で、東京湾に面した砂浜はかつては海水浴客で賑わい、また避寒の観光地としても知られていた。

しかし、農産物の輸入自由化、さらにバブル経済の破綻で、基幹産業である観光や農業、漁業の衰退に拍車がかかり、少子高齢化の進展による過疎化はさらに深刻化し、持続的な雇用と経済効果をもたらす活性化事業の展開が叫ばれたが、町には大規模な観光施設を整備していく体力はなかった。なんだか、我孫子市の事情を先読みしているような・・・・

それでも、地域振興策の模索は続いていた。1980年代前半(昭和50年代後半)、東京湾アクアラインや東関東自動車道館山線の整備計画が発表されたこともあり、町長の「座して衰退を待つのではなく、一気果敢に打って出る」との決断により、 1990年(平成2年)、富浦町に「産業振興プロジェクトチーム」が設立された。

後に観光カリスマとして知られるようになる役場職員の加藤文雄氏はその指揮をとり、商工会や農業団体、観光団体との協議を重ねた。1991年(平成3年)、地域の資源を活用し広域的な産業と文化、情報化の振興拠点となりうる施設整備の事業化が決定となり、1993年(平成5年)11月、千葉県で初の「道の駅とみうら・枇杷倶楽部」がオープンし、運営母体として町が全額出資した「(株)とみうら」も発足した。同氏は初代所長となり、混沌とした時期に、あえて、町が取り組んだことのない事業の現場責任者となった。

☆「エコ・ミュージアムの手法による地域活性化
つまり、中小規模の財政力が弱く体力のない町では、集客力の強い大規模施設の建設はできず、運営法人の赤字を補填する力もない。「第3セクターの赤字は、地域を疲弊させる」ことにもなる。拠点開発ではなく、町全域での事業効果も求められる。こうした厳しい条件の中、施設整備を最小限で、ソフトで地域全域での活性化を図ることを進めていくことにした。

そこで、フランスの自然公園地域での活性化手法である「エコ・ミュージアム」をいち早く研究し、事業地域に点在する集客につながる資源や事業を結びつけ、面として活用して観光客の誘致を進めてゆく町活性化の手法の導入を図った。

エコ・ミュージアムは「生活環境博物館」と訳されているが、資源の「保存・育成・展示・研究」という機能ももっている。地域を支える産業の健全化を図ること(保存)、新しい取り組みを育てていくインキュベーションであること(育成・研究)、また個性的な文化づくりをしていくこと(展示・活用)といった手法である。我孫子にもエコミュージアムがある、湖北の谷津がそれだが、知る人ぞ知る、環境派の関心のある人だけが関わって、自然保護をしている。富浦では観光振興として、また過疎地域の地域振興策に置き換え、さらに「分散配置資源(事業)の統合理論」として取り入れたのである。


☆「活きた捨石」となる振興拠点
一方で産業・文化・情報の振興に真に寄与し、運営体を自活させて雇用を創出し、さらに大きな地域の礎に進化する富浦は、枇杷倶楽部がリーダー役で、地域の誇りである枇杷や花などの資源を活用し広域で連携した集客システムをつくり、都市との交流を進め、観光農業のための品種改良や受け入れシステムの構築、特産の枇杷を活用した商品開発、文化事業による人材育成や情報化による地域振興など、ソフト面での充実を図った。また富浦町をはじめとする周辺地域の創意工夫を促進し、自己完結せずに周辺地域に事業や経済効果が広がる、公正で力強いインキュベーションであることに努めた。

☆観光農業の振興
枇杷倶楽部のオープンとともに、集客装置と試験研究の機能をもった花摘み園、苺園、枇杷園などの整備も進めた。温暖な気候に着目し、冬から早春にかけての花摘みの観光化や富浦町では栽培していなかった苺栽培の導入を図り、それまで夏季型であった観光シーズンから、「冬・春の観光シーズン化」も実現させ周年型へと移行させた。

特に1993年(平成5年)、道の駅と同時にオープンさせた観光花摘み園「花倶楽部」は、後継者不足で悩む地域の耕作放棄地の有効活用と、周辺農家の農産物の直売所として大きな効果をもたらした。また、農場に農業技術者2名を配置し、直売に適した品種の改良や観光農業に対応した作付け体系の試験研究も併せて実施し、成果を地域に提供するシステムも構築した。

また、特産品である枇杷の出荷規格外品を活用して商品開発をする加工事業にも取り組み、観光客への販売や周辺観光施設への卸販売、ネット販売などの展開を図った。加工事業は枇杷の付加価値を高め、40アイテム以上の枇杷倶楽部オリジナルの枇杷関連商品を生み出した。さらには地域の卸業者の商品開発にも影響を与え、枇杷は「南房総みやげ」として定着した。

☆「一括受発注システム」の開発
南房総は、観光バスツアーなど大量の観光客の受け皿が無いことが大きな課題となっていた。そこで、広域的な連携によって資源を束ね、集客を図る必要性を感じ、南房総に点在する小規模な既存の農園や食事会場などの観光資源を束ね、一つの大きな農園、レストランに見立て、メニューや料金、サービスを規格化し、枇杷倶楽部が観光会社に対して企画営業を行い、観光会社からの集客の配分、代金の清算、クレーム処理までを一貫して行う「一括受発注システム」の開発に携わり、南房総のランド・オペレーターとしての役割を道の駅に持たせた。

このシステムの稼働によって、周辺市町村の飲食店や民宿、農園、観光事業者などが連携して強い集客力を持つこととなり、ピーク時では観光バスを年間4千台、12万人のツアー誘致に成功し、これまで閑散期といわれていた南房総の冬に観光バスツアーが定着し、著しい地域波及効果があがった。またこの業務の効率化をさらに図るため、当時の通産省の助成を受け、電算システム化も図り、そのノウハウを全国に積極的に公開した。さらに、この仕組みを応用し、JR東日本と協働して個人ツアーのパック商品の開発やレンタカーの配備、南房総マップの作成などを進め、広域的な資源の結びつきによる、個人やグループ客誘致による地域振興を推進した。

出典:
http://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/jinzai/charisma/mr_kato.html
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2014年10月03日

「ふしぎな岬の物語」、千葉の良さを伝える

千葉県がスポットライトを浴びることになる映画は、鋸南(きょなん)町の明鐘(みょうがね)岬、国道から脇に入った絶壁の上に小さな喫茶店「岬」がある。ここをモデルにした映画「ふしぎな岬の物語」が、海外の映画賞を受賞で注目される。

モデルになったプレハブづくりの小さな店には、店主の入れる一杯のコーヒーを求めて人が絶えない。店が編んできた人間模様を題材にした映画はカナダで開かれているモントリオール世界映画祭で最高賞に次ぐ審査員特別グランプリに輝いた。  

女優の吉永小百合さんが主役の喫茶店主を演じるとともに、初めてプロデューサーを務めた。吉永さんが「岬」を訪れたのは昨年暮れで、コーヒーを飲み『ずっといたくなるようなお店ですね』と言っていたのだという。両親が経営していた食堂のそばに、木造の建物で喫茶店を開業した1978年よりずっと一人で切り盛りして、定休日はない。ジャズが流れる店内は十三席。狭いが隠れ家のような雰囲気がある。晴天時は夕日が沈む富士山を見ることもできる。地元の常連客からトラック運転手にバイク愛好家…。裏手にある鋸山のわき水を利用したコーヒーの味は、次第に知られるようになった。しかし店は2011年の震災前一月、火事で一夜のうちに焼失。玉木さんは「やめるという気は起きなかった。お客さんから『コーヒーを飲みたい』と言われて勇気づけられた」と振り返る。常連客もボランティアで再建作業にかかわった。開業当初から、趣味のダイビングをした時にはいつも立ち寄る機械修理関連の会社員、佐藤晴彦さん(60)は、ブラインドや換気扇などを取りつけた。「客はみんな実家へ行くつもりで店に来ている」

 ダイビングインストラクターで、二級建築士の鳥居奈々さんは店外にブロック造りのトイレを建てた。十年ほど前からの常連客で「いつまでも元気で店を続けてほしい」と語る。

 映画の中の「岬カフェ」のセットは、「岬」の横に建てられた。映画の中でも、カフェは火災に見舞われる。常連客らの助けを得ながら、女性店主が再建にこぎつけるエピソードは、玉木さんらの人間模様と重なる。

 公開は10月11日の間もなく。ちばらきけんでも千葉がぐっと近くなる!?
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2014年10月02日

治安維持法の34年間って、「白樺」派には何だったのか

皇国史観研究会(国士舘大学の学生が中心)のブログに「特高警察が守ろうとしたもの」と言う表題で次のことが書かれていた。今、我孫子の白樺派の時代を研究していくなかで、個の自由な発想を主張する彼らが当局から睨まれる存在になっていくのが分かってきました。特に我孫子時代において、行動も具体性を帯びて、特高に尾行されることもおきてくるので、興味を持ったところです。市の図書館にも、最近の研究本も蔵書されているのが分かったので、皆さんにはブログのリンクを紹介しておきます。

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人権擁護法案、共謀罪などが話題に上る時代となった。そうすると、戦前に存在した治安維持法、特高警察の存在と絡めて論じられる向きがある。同世代の保守主義を標榜する学生などと話していると、「特高や治安維持法が今一度必要だ」と論じる者が少なくないが果たしそうか。

 戦前戦中を通して、特別高等警察は治安維持法等の法律により、思想運動などへの取締り活動を行った事で知られている。戦後、特高警察に対しては毀誉褒貶を含めた様々な論評が為されて来たが、その中でも主立った批判を行ってきたものとして、日本共産党が挙げられる。日本共産党は結成以来、特高警察による取締りに遭って来た。
 党の出版物では、特高による取り締まりについて、次のように記している。

「日本共産党は創立の当初から、絶対主義的天皇制反対、侵略戦争反対を主張していた。そして暗黒政治に反対して国民の自由と民主主義を守るために、その先頭に立ってたたかってきた。それゆえに、党は天皇制政府の憎悪の的になり、なによりもまず過酷に弾圧された。」
  (「赤旗」社会部編『証言特高警察』56頁)

「特高警察は侵略戦争の拡大と呼応し、“自由主義思想も共産主義の「温床」になる“天皇中心”の「国体」とあいいれない「邪宗」を取り締まる”などの口実で共産党と無関係な団体や個人、宗教団体なども弾圧し、国民の疑問や反戦・厭戦(えんせん)感情などを封じて、戦争体制の一翼を担いました。」
  (機関紙『しんぶん赤旗』平成15年2月20日付け)

 つまり、特高警察とは、国体、天皇制政府を守るために活動し、自分達を一方的に弾圧して来たというのが、日本共産党などをはじめとする、取り締まられた共産主義者達の言い分である。
 しかし、当時の日本共産党はコミンテルンの日本支部として、『共産党宣言』に「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。」(マルクス・エンゲルス『新訳・共産党宣言』72頁)とあるように、一時期などは全員が軍用拳銃や匕首で武装し、逮捕に来た特高刑事達と銃撃戦を繰り広げ、双方に死傷者が出る事も度々であったから、このように恰も一方的に弾圧されたかのように主張するのは事実の歪曲である。

 ただ、「天皇制打倒」を主張してきた彼らに取って、特高警察の活動が国体を守るために活動しているように見えたのは、否定しようのない事実である。
 しかし、それが全てであったのだろうか。つまり、国体を守る事が特高の本質であったのか。そこで、次に彼らを取り締まった当の特高警察自体は、当時の活動をどのように捉えているのかを見てみたい。

 大東亜戦争開戦直前の昭和16年5月に刊行され、数人の元警視総監が序文を書き、特高警察官に精神修養的参考書として読まれた本には、次のように書かれている。

「併し不穏思想と認定さるべきものは何と言つても国体観念に背反する思想なるが故に、之が現はれた限り直ちに抹殺しなければならない。とは言へ出来得べくば不穏思想の現はれる以前、既に其の徴候見えしときに之れを防ぐ事が肝要である。最早実践運動として発展し来たりし限りに於いては、論なく之れを弾圧して根絶することの正当なるは火を見るよりも明かである。」
  (村瀬武比古『特高警察大義』120頁)

 そして、当の特高警官自体へも、警察幹部が次のように訓示している。

「先づ日本人たることを忘れてはならぬ。職業としてではなく、陛下の臣民たる日本人として建国の本義に目覚める事が第一である。然る後此の悪むべき国体への反逆者を殲滅するのだと云ふ一大覚悟の下に起つべきである。」
  (大日方純夫『天皇制警察と民衆』195頁)

 先の日本共産党が主張する様に、特高警察自体にも、国体を守るために、国体に背く不穏思想などは行為以前に「徴候」が見えただけでも取り締まる事が自らの活動であると捉えていたであろう事が伺える。そうした意味で、特高警察が、国体の内実をどれほど理解していたかは疑問の残るところではあるが、幾分か意識して守ろうとしたものが国体であったことは否定できない。

 特高警察を指揮した元警視総監で、内務大臣まで上り詰めた安倍源基は、戦後、特高の働きについて次のように述べている。

「多数の警察官の中には行き過ぎをした者もあるであろうが、結局は治安維持法その他の取締法規を制定した政府や国会が、之を負うべきものではあるまいか。特高の取締は極右分子に対しても峻厳であつた。内乱予備其他の非合法行為を未然に防御した事件は枚挙に遑がないが、是も特高の犯した悪事であり人民の敵であつたのであろうか。」
  (小林五郎『特高警察秘録』2頁)

 特高の活動は政府などの指導により、治安維持法などの諸法規に基づいて行われたものであると主張しているが、筆者は本稿に於いては、当時の政府権力者の思惑と諸々の法規の“実行部隊”の代表として特高を捉え、そこに表れた意志を汲み取りたい。
 つまり、当時の時の権力の思惑の表れの一つの形として特高を定義し、彼らの本当に守ろうとしたものを照らし出す事によって、現代における各種の「特高論」に対して新たな視点を提するものである。

 特高警察が活動したのは、明治44年から昭和20年の大東亜戦争敗戦までの間、約34年間。その間に国家を左右する多くの重大事件にも対処してきた。

 往々にして特高は、日本の国体を守るために動いていたと言われるが、果たしてそうだったのだろうか。恐らく、現代の大半の日本人は国体と聞いても何の事か正しく認識できない。そもそも、現代は元より、特高が活動していた戦前の時代に於いてすら、世間一般が認知していた国体観念は曖昧であり、不明確に認識されることも多かった。ましてや、戦後、国体観念をGHQに一掃されてしまった現代の者が、「特高は国体を守るために活動していた」と言う事に如何程の説得力があるというのか。

 現在において、国体を守ろうとしたとされる特高の活動に対する評価の中には、国体と政体を混同した物が多く見受けられる。

「天皇裕仁の即位大礼の警備に特高警察は総動員され、要注意人物の発見、監視と予防検束に従事していく。守るべき国体とは、この天皇を中心とした政治体制なのであった。」
(大日方純夫『天皇制警察と民衆』192頁)

 これなどは、国体と政体を完全に同一視した顕著な例であるが、このように国体と政体を混同し、あたかも「国体=政体」であるとの見方が、特高に関する論文には多い。

 大正11年に、内務省警保局が、第45議会に提出し、廃案になった過激社会運動取締法案という、治安維持法の前身となった法案の第一案には「国体又ハ政体ヲ変革スル事項」「政体ヲ変壊シ国憲ヲ紊乱スル事項」という様に、字の上においては、国体と政体を分けて記している。

 筆者は、当時の明文化された諸法規と、社会情勢、国体の観念、そして実際の特高の行った活動などを検証して、国体と政体の相違を論証する。
 そして、創設から、大東亜戦争敗戦による解体まで、特高の34年間に亘る活動を俯瞰した時、彼らが本当に守ろうとしたものは、時の政体であったのではないか。その実証のために論を進めて行く。
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月01日

千葉県の誇れる企業あり! 千葉視察 その1

我孫子市消費者の会でのバス見学会に参加した。
食のトレイサビリティー「見える化」無添加と日本初のゼロミッション家電リサイクルに取り組む会社が千葉にあるのだとは知らなかった。

ミートボールで知られる大手食品メーカーのイシイ食品株式会社は、八千代工場の見学にこれも以前に消費者の会で参加して行ったことがあったが、船橋市が本社だった。そして、イシイ会長自らが待ち受けて、ご挨拶頂いたのには、和田さん(消費者の会の代表として、我孫子から全国へ発信、提言を続けている)の実績の重みゆえではないかなどと思いながら、会長の話や説明の女性の話を聞く。

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この会社は佃煮、煮豆の製造から業を起こし、調理済み惣菜、特にレトルト食品のシリーズなどで人気がある。実は製造過程においてうま味調味料などの食品添加物を使わない無添加調理に取り組むとともに、原材料の徹底した履歴管理システムを構築してきたのは、知らないままではないか。例えば、「チキンハンバーグ」や「ミートボール」などの製品について、製品に印刷された品質保証番号と賞味期限を自社ウェブサイトの「OPEN ISHII」に入力すると、鶏肉やタマネギなど原材料の産地や加工地、加工日などの情報が表示される。アレルギー対応の乳・卵製品を除去しているなど、学校給食の分野、独居高齢化社会の対応も視野に生産管理している。

石井食品のトレーサ ビリティの仕組みは、日本屈指のレベルにある。
製品 パッケージに印字された「品質保証番号」をインター ネット経由で同社のサイトに入力すると、その製品に 使われている原料の産地や品種、遺伝子組み換えの 有無、アレルギー成分などについて詳しい情報を入手 することができるまでになっている。これらの厳しい食品工程の管理は、2010年7月12日、同社が製造した杏仁豆腐に使用している原材料である杏仁霜(台湾から商社を通じて輸入した)に添加物として表示義務のある香料が使用されていたことを把握せず、原材料欄に表示せずに販売を行った反省にもあった。

この事実の把握がされた時点で、同社自らの申し出により、消費者庁は改善指示を出した。JAS法違反にあたったのが、原材料の一部(杏仁霜)に表示義務のある香料が含まれていたが、それが把握できず【無添加調理】と表示して販売した事が不適切となっていた。同社の国内での製造過程では食品添加物は使用していなかったが、特に同社は【無添加調理当社での、製造過程においては食品添加物を使用しておりません】と併記してきてるように、その後、こうした海外での生産体制には土地、堆肥、無農薬除草の管理などまでも徹底して、情報公開する体制にしている。

加工食品メーカーは、自社の製品を購入した消費 者の問い合わせに応える社会的な義務を負っている。もち ろん興味本位の質問や企業秘密について回答する 必要はないが、安全にかかわる疑問にきちんと対応で きなければ企業としての信頼を失う。「食の安心・安 全」に対して世界一神経質〞と言われる日本市場 では、とりわけ慎重な対応が欠かせない。

こうした、国内での消費者の食の安全意識が一段と尖鋭化したのは、2000年6月に発生した雪印の食中毒事件、翌2001年9月に日本で初めてBSE感染した牛が千葉で報告された頃からだ。既に、病原性大腸菌O157の流行の頃より、食に対する衛生管理は強く企業に求められるようになっていたが、いよいよ官庁が厳しく対策に乗り出し、トレーサビリティ(履歴管理)という耳慣れない言葉が言われ、その後にも製品偽装、産地偽装、賞味期限偽装が連日のようにマスコミを賑わすようになった。

このような国内の状況下で、石井食品は雪印事件の二カ月前からトレーサビリティのシステムの運用をスタートしていた。当初は、同社が構築したシステムが、電話の問い合わせに口頭で回答する仕組みだったが、それでも一部の情報処理の専門家に高く評価され、注目が集まるようになった。それが、BSE騒動の勃発からわずか三カ月後には、ネット経由で情報公開を始め、全国的に脚光を浴びるようになった。

当時は社長だった石井健太郎氏は、農薬やアレルゲンの問題などもあったため、前々からトレーサビリティに取り組みたいと思っていたため、覚悟を決めたのだと話している。一昔前であれば、食品メーカーにとって、製品に使った原料の履歴を一般公開することなど、手間ばかり掛かって何のメリットにもつながらないものだった。逆に、開示情報に誤りがあれば嘘つき会社〞と非難されかねないリスクすらある。「無添加調理」へのこだわりで、自らの首をしめかねない行為だった。

しかも公開すべき情報を準備するのは難しい。元来、食品メーカーは自社製品について購入者に説明する義務があるため、どんな素材を使っているか紙媒体ではデーターを持っている。公開するに当たっては、素材情報をデータベース管理できる体制を構築していなければ出来ない話だった。どこもやっていない時期から、真摯に取り組んでいたのがイシイの強みになった。つまり、無添加調理〞へのこだわりが、トレーサビリティをいち早く実現する素地になったのだ。

同社によると無添加調理とは、「(石井食品の)製造 工程において食品添加物を使用しないで調理・加工す ること」を意味している。本当は完全な〞無添加をめざしているのだが、原材料の一 部にどうしても添加 物をゼロにできないものがあるのだという。たとえば 醤油を精製する際に欠かせない濾過材などに使う添加 物は、石井食品の努力だけでは無くしようがない。それでも同社は、原料、調理ともほとん ど添加物を使わない体制を整えてきた。

無添加の追求を決断した理由は主に二つあった。
まず添加物というのが不安定なことがある。過去に法律 で認められていた添加物が、ある時点から使用禁止になったケースは多い。もう一つ、非常に便利なもので ある添加物に対する疑問も感じていた。色素を使えば 製品を新鮮に見せることが可能だし、味を調整するのも容易だ。しかし、家庭では昔から添加物を使わずに料理を作ってきた。それが企業の工場で作るとなると、一転して大量の添加物を使いはじめる。コクを出すために添加物を使い、見た目が悪ければ合成着色料を加える。このような食品製造に疑問を持った石井社長は、添加物との決別という経営判断を下した。

このとき石井氏の頭には、70〜80年代に盛んに議論された食品の安全・衛生問題があった。大手メーカーと差別化していくうえでも、すべての消費者に理解してもらえるかたちで安全〞をアピールできれば、同社の特色につながる。そのためには口で言うだけでなく、作り方や材料まで含めて家庭〞という原点に戻ろうと考えた。

そう目標を定めた同社は、1995年から無添加路線へと本格的にカジを切ったのだった。素材次第で最終製品の味は変わってしまう。同じブランド名の製品の味が均一でないという事態は、加食メーカーとして許されない。必然的に素材の質や鮮度にこだわる必要が生じる。同社サイトにデータを入力すると製品情報が表示される

例:石井食品トップページ→「OPEN ISHII」→「品質保証番号検索」→「おべんとクン」→「テリヤキお弁当ミートボール」→品質保証番号87805777、賞味期限2005年12月27日と入力 石井食品トップページ

そうして、会長はこういう、「無添加によって社内のモラル が高まったことが最大の収穫」。実際、社員の笑顔を育て、ご自身も72歳とは見えない。頭もスタイルも誠にスマート、見習いたいと思うのだった。大鵬親方(船橋で治療を受けたさいに、ちゃんこのスープを商品化)もファンになったことはうなづけた。

このように、現代では、企業の行動はサイズの大小にかかわらず、企業が行おうと目指していることが社会に影響を与えるのだ。わけても、生活者の日々の活動にとって、特に食は重要だ。

生活者が自分で判断するためには、あるがままの情報が必要だ。そうはいっても、なかなか到達できないと諦めてきていた。しかし、時代は、多くの試練を与えつつも、人々が賢い選択をするようになっていくのをイシイ食品の姿をみせてもらって、少なからず信頼は相互理解して得られると思えた。

だから、正しく情報発信することを心掛ける会社が千葉にあったことは、嬉しかった。お互いに分かち合える、その会社の製品を食べることが楽しいと思える結果は意識の転換になり、なんだか日本に暮らすことの内なる自信になった。そして、千葉県人として、そうした地域に住めることを選べると東京にない楽しさが見つけられるのかもしれないと考え方の転換が出来た。

秋の最中、こうした発見を満喫できる千葉ならではをウオッチしていこうと思う。

つづく

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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