今年は夏からとんだ自然災害に見舞われ、多くの命が突然に奪われる。そんな中、9月20日に、土井たか子さんがなくなれれた。初の女性党首、憲政史上初の女性衆院議長であった。「私は憲法と結婚したのよ」と冗談まじりに言っていた土井さんが、いちばん危惧していた憲法が軽んじられる政治状況が続いているだけに、その死が惜しまれる。85歳。
1969年12月の総選挙の時、社会党が140議席から90議席に後退したその選挙で最後の当選者となったのが土井たか子さんだった。その個性がブームを呼び、数々の名文句が政治の「変化」を体現していた時代があった。
1986年に女性初の社会党委員長に就任し、「やるっきゃない」。88年、政府・自民党が消費税導入を打ち出すと、「だめなものはだめ」と反対姿勢を鮮明にした。89年の参院選、女性候補を前面にたてた「マドンナ旋風」で与野党逆転を実現し、「山が動いた」は、女性の目覚めをうたう与謝野晶子の詩から援用した、決めぜりふだった。
一方で、土井さんの絶頂期は、冷戦構造や成長神話に支えられた自民党とそれに対抗する社会党という55年体制が崩れた。自民党の地盤沈下に伴い、連立と政権交代の時代となり、変化に対応できなかった社会党(のち社民党)は、凋落の道に入り込んでいく。
94年にできた自社さ連立政権で、社会党委員長だった村山富市首相は日米安保を容認するなど政策転換に踏み切ったが、多くの支持者が離れた。失地回復の期待を背負い、土井さんは96年に社民党党首を引き受けたが、リクルート事件、消費税の導入、農政問題は当時「3点セット」と呼ばれる事態には、はっきり「だめなものはだめ」という歯切れのいい言葉が、政治不信を抱える人々の耳に新鮮に響いた。
戦後政治史の中で、演説に数万人の群衆を次々と集め、大きく票を動かしていった政治家は、土井さんが初めてだったと思います。「だめなものはだめ」の姿勢は変わらなかった。
土井さんは初当選以来、衆議院外務委員会に所属した。70年代から80年代にかけて、条約をめぐっての議論を振り返って、「当時、外務委員会で条約をやる時には、時間制限はなかったのよ。憲法と法律の間にある条約については、質問しようとする議員が『わかった、もう聞くことはない』というまで延々と議論したものよ」 委員会で4時間ぶっ続けで質問したこともあったという。
戸井さんは、官僚と闘えるだけの資料を取り寄せる術を磨きあげ、憲法や読み方、使い方だけでなく、その発言の重みというものを教えてくれた、憲法学者でもある女性だったのです。ご冥福をお祈りいたします。