我孫子は「白樺」と「民藝」に関わりのある人々が100年前の時代に関わりをもち、その中はバーナード・リーチ(英国の陶芸家)や濱田庄司(陶芸家として文化勲章受章)がいます。
その益子では、今も外国人作家らが往来して、陶芸の町として内外に知られていますので、我孫子の参考にもしたいと考えて足を延ばして行ってみました。今は、高速バスが秋葉原から笠間を回って焼き物バスを運行していますし、海外からの作家の招へいにも熱心で、地元篤志家が国際交流館を寄付したことでも話題になりました。
下記の動画は英語ですが、益子の濱田庄司邸の登り窯の様子もわかります(6分あたりから)。
さて、問題の登り窯ですが、これも窯と天井が近いです。百年前の我孫子のリーチの窯が出火して工房を焼失するという事がありましたが、写真から推測するのに、我孫子での窯の作りに特に問題があったのかとも言えないように思いました。なぜ、風のない日、槇を焚きこむ作業も終わった一服の時期に燃え出して、屋根が壊れて窯までもが壊れ、工房共々て焼けてしまったのか、幾分、不自然な気もします。
窯はどんどん加熱してしまうので、火事にならないように見張りをおくというよりは、実は高温を維持するには槇をくべ続ける、その温度管理が難しいというのです。燃やし続けるために番をするのであって、消えないように番をしていた。だから、温度が高くなって、見張っていないと燃え移るというのではなく、見張っていないと温度が下がってしまうから、番をしているということで、素人考えとはむしろ逆でした。
そういえば、柳も兼子も槇をわったり、火にくべる手伝いを代わる代わるしたとの記述ものこっていたから、消えないように、温度を上げるようにすることに当時は心血を注いでいたらしいのです。そして、いい加減の
ところまで来たので後は火が消えるに任せて後は寝て待てばいい、ところが目が覚めてみたら工房までもが燃え尽きていた!!!
なにしろ、窯からの出火で工房が焼失した前日には濱田庄司が我孫子にきていたのだから、むしろ、万全な体制だったろうと思えます。
さらには、信州の小学校で教員をしていた赤羽王郎が柳邸に来ていてリーチの窯の手伝いをしていた時期(3-5月)です。そのような中でのリーチの窯の焼失事件はどのような語られ方をしていたかというと志賀直哉の日記に「その日は風のない日だった」という短い記録と後に民藝に関わる式場隆三郎(山下清を見出した医師。市川病院院長)の「ふしぎな事件だった」という短い印象記だけです。大正8年の5月26日に起きた火事によって、リーチは我孫子を去ることになり、その約一年後に柳夫妻も我孫子を去ることになります。
想像力をかき立てて、大正時代の我孫子を想像してみるのも面白いものです。民藝は今も日本各地に色々な手仕事の産業を繋いで、都会からも離れた思わぬ場所で貴重な町おこしをしています。柳宗悦・兼子夫妻の撒いた種はあちこちに広がり、その価値を静かに訴え続けているのです。二人を囲む人々の協力と共に白樺の活動が我孫子で盛んになっていた時代を100年後の私たちが思い起こすのは、新たな文化を繋いでいくことになるでしょう。皆さんも友人、親戚、そしてまだまだ地元でも知らない人も多いので我孫子を「旅」してみてください。