2014年08月20日

シベリア抑留と戦後、作曲家・吉田正

8月17日、NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で 「いつでも夢を〜作曲家・吉田正の戦争〜」が放送された。こうした戦争の悲惨さを語る番組も戦中世代が亡くなっていくので、私たちが気づく機会も減少してきたので、改めてブログに紹介することにした。

吉田 正(1921年1月20日 - 1998年6月10日)は、国民歌謡の澄明な作曲家だったが、常磐線沿線の日立市(茨城県)出身だとは知らなかった。生涯作曲数は2400曲を越える日本歌謡史の黎明期を支えた。没年7月に国民栄誉賞受賞。

 戦後を代表する名曲「いつでも夢を」などで、人々を励まし続けてきた。4年前、都内のレコード会社にカセットテープが送られてきたことから、吉田の新たに発見された曲などによって、没後CDが作られた。テープには70年近く前、シベリアで歌っていたという男性の歌が吹き込まれ、歌詞にそえられていたのは吉田正の名前だった。終戦直後、吉田正は3年の長きに渡ってシベリアに抑留されれいたが、シベリアでの体験やそこで歌を作っていたことは生前ほ語っていなかった。シベリア抑留では57万人を超える日本人が拘束され、少なくとも5万5000人が命を落とした。

 レコード会社にカセットテープを送ったのは秋田県八郎潟町に住む北嶋鉄之助(89歳)、70年近く前にシベリアで聞いた歌を克明に覚えていた。昭和20年、旧満州の歩兵部隊に配属された北嶋は、終戦後すぐにシベリアに送られ3年間に及ぶ過酷な抑留生活を耐えた。いつ帰国できるかも分からず、収容所を転々とする日々。ある時、別の収容所から来た抑留者たちが口にした歌を耳にした。吉田正という抑留者が作った歌だと聞かされた。家族にすらシベリアでの体験を話したことがなかった北嶋は85歳を超え、命をつないでくれた歌を後世に残したいと思うようになったと言う。

テープを受け取ったレコード会社の谷田郷士(75歳)は吉田正の担当ディレクターを長くつとめた。「帰還の日まで」と題された歌が吉田の歌だという決め手になったのは、その旋律だった。旋律が昭和24年に作られた「異国の月」と酷似していたのです。谷田は吉田から「シベリアで歌を作ったか忘れてしまった」と聞かされたことがあったが、吉田の思いつめた表情に、それ以上聞くことは出来なかったと言う。

顔も知らない吉田の歌に励まされシベリアから生還した北嶋は、農業や干拓地の整備の仕事をしながら3人の子供を育てた。仕事の合間、シベリアで亡くなった仲間を思いながら一人で歌を歌い続けてきたと言うことだった。「いつでも夢を」が街にあふれていた時も、北嶋にとっての吉田の歌は「帰還の日まで」だった。

吉田は「私の歌を私の歌と知らないでみんなが歌っている、そんな光景に出会いたいものです。歌はいつか詠み人知らずになっていきます。そうして本当のいい歌は永遠の命を持つのではないでしょうか。私の作った曲の中からひとつでも詠み人知らずになり、それを聞く日を楽しみにこれからも作曲を続けたいと思います」と語っていた。吉田の戦時中からシベリア抑留時代を知る手がかりが、遺品を管理する事務所の倉庫から見つかった。それは身上申告書で、シベリアから復員した時、国に提出した文書です。

 音楽家を夢見ていた吉田は昭和17年(1942年)に陸軍歩兵第2連隊に入隊。当時、満州に駐留していた関東軍の中でも最強といわれていた部隊で厳しい軍隊生活を送る。そして、終戦直後から3年に渡るシベリアでの抑留生活後、昭和23年8月に帰還。
 
 日本人が抑留された最初の冬、シベリアは強烈な寒波に襲われ一冬で2万人以上の抑留者が命を落とした。吉田の抑留生活も常に死と隣り合わせだった。生き残った者も飢えに苦しみ、森の中で血眼になって食料を探した。終戦を満州で迎えた吉田は120kmの道のりを歩かされ、たどり着いたのは旧ソビエトの極東地クラスキー、アルチョーム、ウオロシロフ、ソフガワニ、スーチャン、ナホトカなど6ッ箇所もを移動した。収容される先々で森林伐採や石炭の採掘など、過酷な労働を強いられ、常に緊張を強いられ精神的にも疲れ果てて次々に仲間が亡くなった。

昭和22年、ソフガワニの収容所で吉田と一緒だった染谷鷹治(94歳)も「帰還の日まで」を覚えていた。さらに、吉田の作った7曲の歌も記憶していた。染谷は夕食時、重労働を終えたばかりの吉田が仲間たちに必死に歌を教えていた姿が忘れられないという。「生きるんだ生きるんだ」と合言葉にして皆を励ましていたと言う。吉田は、そんな仲間たちのために歌劇団も作って、衣装や楽器も仲間と手作りし、歌は抑留者たちを元気づけていった。

 角田フサ江(89歳)は、夫(勘吾)が吉田と同じ旧満州に駐屯し、歩兵部隊に所属していた。吉田は体を壊した勘吾が日本に帰国できるように上官に働きかけてくれたと言う。夫が靴底におさめ戦地から持ち帰った手帳には、吉田が部隊にいた頃に作った歌が記されていた。昭和19年の秋、吉田が所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられた。日本軍約1万人余のうち、最後まで戦って生き残ったのは34人。吉田正さんは部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まったことによって生き残った。この年の8月、別の歩兵部隊に転属となるが、そこでも歌を作っていた。昭和20年8月13日、吉田は機関銃中隊の分隊長として出撃した。ソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻し、この戦いで日本軍将兵8万人以上が戦死したとされる。吉田も大腿部貫通など瀕死の重傷を負い、生死をさまよいながらまた生き残った。

吉田の遺品の中に、当時の心境をうかがえるものが残されていた。終戦から39年後に書かれていた手記だった。「私が生きる意味について考えるようになったのは、何時からだったろうか。昭和20年8月16日、国境の戦闘で傷つき、身動き出来ぬ塹壕の中で満点の星空を仰ぎ私は生きていると実感した日からです。あの日から作曲家として自分の道を歩いてきたつもりです」あまりに多くの戦友を失った吉田は歌に生きる希望を託そうと決意した。

昭和23年、スーチャンの収容所で一緒だった関谷空道さん(88歳)によると、この頃の収容所では帰還が近いという噂が出ては消えていたと言う。関谷もそのたびごとに日本へ帰ることを諦めかけたが、吉田が作った歌をずっと大切にしてきた。それは仲間と共に生きて帰還し、日本を自分たちの手で再建したいという吉田の夢を歌った「湧きたつ血潮」という歌だった。祖国再建の夢を歌った歌は仲間たちの心の支えになったからだ。そして帰国を果たすと、、故郷に住む家族6人全員が空襲で亡くなっていた。多くの死を背負い、吉田の作曲家としての戦後が始まった。吉田がシベリアで夢見た祖国の再建。希望や夢をのせた歌と歩調を合わせるように日本は復興を果たしていくのを見守った。過酷な体験を経て吉田が歌にたくした生きる希望。吉田正の歌は今も未来を照らし続けている。

日立市内のJR常磐線の各駅では、2005年(日立駅は10月6日、日立駅以外は11月1日)から発車メロディーに吉田の代表曲を使用している。
上り(全駅共通、ただし小木津駅と十王駅は音色違い):いつでも夢を(吉永小百合・橋幸夫)
下り 大甕駅:恋のメキシカン・ロック(橋幸夫)
常陸多賀駅:公園の手品師(フランク永井)
日立駅:寒い朝(吉永小百合)
小木津駅:明日は咲こう花咲こう(吉永小百合・三田明)
十王駅:若い港(三田明)

吉田正記念館が日立市宮田町5-2-25にある。
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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