2014年08月19日

頤和園の石碑にみた欧州列強の中国侵略

頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区、北京大学に隣接する庭園公園。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。キャンパス住所:北京市海澱区頤和園路5号、地下鉄の路線:地下鉄4号線北京大学東門駅で降りて徒歩すぐ。北京大学へ「ちきゅうTALK」を30冊贈呈して、大変に喜ばれたことがあった。日中友好30周年の2002年だった。大学の隣に有名な庭園・頤和園があると聞いていたので、帰りに寄った。

1884年から1895年(光緒9年から10年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく、光緒帝の名により清漪園の再建が命令された。しかし経費の問題より修復は前山建築群に限定されたが、その造営は日本と軍事的緊張が高まり軍備増強の歳出を必要としていた清朝には大きな負担となった。しかし、北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用して、贅をつくし再建され庭園は頤和園と改称、西太后の離宮とされ、避暑に利用された。1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年(光緒28年)に修復されている。こうした国庫を圧迫する造園は、日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われた。

中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。

1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置された。その後に、江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。庭園内を歩いてみてみると、1860年、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった歴史についても書いてある石碑があった。つまり、中国の近代化の歴史の中でアヘン戦争によって中国が失った部分も多いのだ。反日に注力されるが、その前からの歴史的な観点で、ヨーロッパ列強と関わっていたことなど中国全体を見ようとする意識が中国国民には希薄ではないだろうか。

出典;
Wikipedia 


posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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