2014年08月18日

27万人の満蒙開拓団と中国残留孤児の問題

〜中国残留孤児は、なぜ、このような運命に遭遇することになったのでしょうか〜

1931年、日本の関東軍が満州事変を起こし、満州(現在の中国東北部)を占領しました。翌32年から45年7月まで、「満蒙開拓団」と呼ばれる移民政策が展開され、27万にも及ぶ人たちが中国に渡りました。

45年8月、ソ連軍が、突然国境を越えて侵攻して来たため、彼らはソ連軍の蹂躙にさらされることになります。多くの人が避難する途中で力尽き、虐殺されました。「日本という国はもうなくなった」というデマが飛び交い、前途を悲観して集団自決をした人も多数います。守ってくれるはずの関東軍は、いち早く日本に帰還し、男性は招集されて戦地に赴任していたので、置き去りにされた移民のほとんどは老人と女性、子どもでした。

この混乱の中で、幼児を抱えた母親が、生きるために子どもを捨てたり、中国人に子どもを託したりする悲惨な状況が数限りなく起こったのです。


終戦直後から始まった中国からの集団引き揚げは、58年に打ち切りとなり、さらに59年、日本政府は、13,600人余りの未帰還者に対し「戦時死亡宣告」すら出してしまったのです。これにより、残留孤児は日本国籍を失い、その後の肉親捜しは非常に困難になりました。その後72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。

日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられ、永住帰国する人も増えてきました。

こうして九死に一生を得て、おおらかな中国人に育てられてきたのが「中国残留孤児」です。また、当時13歳以上の女性を「中国残留婦人」と呼んでいます。その中には生き残るために心ならずも中国人と結婚した人もいました。

72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。
日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられました。

一方で、帰国者は帰国を果たした後にも、さらなる苦しみに遭います。なじめない日本の生活状況も重なって、実に9割が全国15カ所で国家賠償訴訟を起こしました。しかし、先日大阪地裁は、帰国者が国家賠償を求めた訴訟で、「戦争損害は国民が等しく受忍すべきだ」として、国家支援義務を認めませんでした。


参照;
日中友好手をつなぐ会
http://www.avance-corp.com/hand/index.html
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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