2014年08月10日

日本民藝協会夏期学校が我孫子で開催

 9、10日の二日間でアビスタを中心に日本民藝協会夏期学校が開催された。民藝の言葉を作ったのは、柳宗悦であり、我孫子においては白樺文学館に関わる人物なので、勉強の為に参加した。三樹荘といわれる柳夫妻が新婚で住んだ場所(叔父・嘉納治五郎別荘の向い)へ転居した年から今年は100年目だと言う。 

 ところで、受験生の中で柳宗悦のことをどのていど知っているのだろうか。私自身も民藝の人と言う以外は知らなかった。我孫子に来て、新たな白樺の側面を知って、しかもその思想的中枢にいたのが柳宗悦であり、民芸活動を広める意図を理解した伴侶である兼子と共に日本のみならず世界の平和友好にも尽力したことをもっと日本人が知るべきだと実感してきた。

 柳宗悦は民芸運動で名を残したが、活動の本領は宗教哲学者としてのスタートであり、そこに収れんしていったと考える。 欧米人に劣等感や被圧迫感を持たず、朝鮮人に対して優越感や支配者意識を持たない、戦前の日本人(今の日本人でも?)としては珍しい人物だった。

 しかし柳は、西洋文明を否定していたのではない。それどころかわずか26歳で『ヰリアム・ブレーク』という英文学研究史上に残る作品を書き上げている。柳が朝鮮人に対して差別意識を持たなかったのは、朝鮮の工芸を美しいと感じ、それを産み出す人々を敬愛したからであった。特に三・一独立運動(万歳事件)(1919)について新聞に連載した『朝鮮人を想う』を見ても、柳が常に自分を朝鮮人の立場に置き換えて、日本の植民地政策に憤りを感じていたことが分かる。

 この姿勢は、アイヌ文化や沖縄文化に対しても貫かれている。満州事変(1931)が勃発すると、沖縄やアイヌの人々に対する「ヤマト化政策」が強化されていった。柳は「他府県では行われない標準語奨励の運動を、なぜ沖縄でのみ行うのか。何か沖縄の言語を野蛮視しているのではないか。」とこれを批判し、日本国内の異質なものを尊重せよと主張した。

 柳は東洋と西洋、中央と地方(方言の価値を含む)を対等に見ていた。『朝鮮人を想う』の連載の最後に、柳宗悦は次のように結んでいる。

「 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を罵り又御身等を苦める事があっても、彼等の中に此一文を草した者のゐる事を知ってほしい。否、余のみならず、余の愛する凡ての余の知友は同じ愛情を御身等に感じてゐる事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでゐないと云ふ明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい」

 戦後69年にもなったが、この言葉と認識をもっと多くの日本人がはっきりと持ち、口にしていたなら、21世紀の今になってなお、日韓の教科書問題や従軍慰安婦問題にこじれずに残さずに済んだように思う。 この時期に日韓の歴史問題である従軍慰安婦のことが再炎しているが、偏らずに、未来志向に考えてもらいたい。 

講師の志賀直邦氏、多胡吉郎氏と(9日)
民藝.JPG

手賀沼船上見学で、船戸の森の武者小路邸あたりを臨む(10日)
手賀沼から1.JPG

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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