着物は日本の文化の象徴の一つだ。その生地の模様を染色する際の形紙の代表が伊勢形紙と言わる。単に染色用の形紙だけではなく、図柄の芸術性が評価され、美術工芸品や家具などのデザインにも使用されてきた。この型紙のデザイン性の高いことを認めた欧米の芸術家、デザイナーも多数いたことは、ジャポニズムの展開かれも、実は浮世絵ばかりではなかったことが明らかになってきている。
型染めに必要な材料と行程は次のとおりである。楮を原料とする手漉き和紙による型地紙、それを張り合わせるための接着剤の役目をする柿渋 そして防染糊とする糯米。これらの良質な材料に日本の気候風土が条件として加わる。型染めで重要な型紙の生産地は三重県鈴鹿市の白子、寺家町とされ伊勢型紙として知られている。応仁の乱で京都が荒廃したときに型紙職人がこの地に移り住み、藩が特権を与え保護して現在まで知られている。型染めの行程は非常に多くそれぞれに高度な技術を有する職人が担っていた。
その伊勢型紙は、伊勢市ではなく、三重県鈴鹿市で主に生産されており、現在流通している90%以上の伊勢形紙はこの地区で生産されている。最盛期の関東大震災(1923年)の頃には、当時の小学校教師が月給50円の時代に、良質の型紙を生産する職人は月300円をもらっていたほど景気が良かったそうだ。戦中、戦後に着物を着る機会は減少して、着物の生産がへっているために伝統を継承できる技術者も減ってきている。その中で、女性が伝統の技に魅せられて頑張っているというのも驚きだが、私たちの文化の奥深さを知るのにもうってつけなので、Youtubeで紹介の動像をご覧いただければとご紹介したい。
我孫子も着物の似合うまちではないかなと思う。大正ロマンの白樺派の本拠地でもあっただけのことはあって、そこかしこにゆかしい旧道がのこっている。暑さがすぎたら、皆さんも着物を虫干しがてら出して、着て散策などしてみてはどうでしょう。
型紙を彫る研ぎかた、
型紙のつなぎ目の処理(おくり口)
1000年前に伊勢の地の不断桜(国の天然記念物となっている一年中花をつける桜)の虫食い葉から型紙を発想したと言われる
このように、型紙 (柿渋で防水加工した和紙を防染したいところを切り抜いて図柄を作ったもの)を布の上に密着させ、その上から糯米と糠で作った糊をおき、型紙を取る。糊の乾燥後染料が滲むのを防ぐため大豆の絞り汁とふのりで地入れをする。その後刷毛で染色し染料を定着するため高温の蒸気で蒸し、水洗いをして糊を落とす。糊を落とすと糊をおいた部分は染まらず染色した部分がくっきりと図柄となって現れる。数々の工程に日本の精緻な技が継承されて高められてきたのを知って、驚くばかりだ。
2014年08月31日
2014年08月30日
「認知症」予備軍チェックリスト
アルツハイマー病」の名は、最初の症例報告を行ったドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーに由来している。老年期(60歳以上)に発症するアルツハイマー型認知症(dementia of Alzheimer type、DAT)がアルツハイマー病の中でほとんどを占める。マサチューセッツ州ボストン東部での調査では、年間発症率は、0.6%(65 - 69歳)、1.0%(70 - 74歳)、2.0%(75 - 79歳)、3.3%(80 - 84歳)、8.4%(85歳 -)と言うことだ。
高齢化に伴い、日本の認知症患者は増加の一途をたどっている。教育、職業経験の多寡で発病の有無がきまるのではなさそうだ、サッチャー元首相、レーガン大統領も、認知症を患ったのは良く知られており、さらに近年では、40〜50代で発症する『若年性認知症』も増加傾向といわれている。もはや認知症は老後の問題とばかりもいえなくなってきている。
アルツハイマー病の発症因子は糖尿病の他にも高血圧、喫煙、高脂血症などがあるが、その傾向があっても必ずなるというわけでもないのです。原因と考えられるのは、脳内にアミロイドβと呼ばれるタンパク質が蓄積し神経細胞を破壊することによって脳が萎縮し記憶力や思考力が低下、認知機能に支障をきたす病で、発症すると考えられている、とのこと。
最近の研究で、アルツハイマー型認知症になりにくい生活習慣が分かってきている。
(糖尿病U型によって、血液中のブドウ糖を摂りいれにくくなり血糖値が異常に高くなる。糖尿病の肥満リスクとアルツハイマーの関連が大であるという)
1.食習慣 野菜・果物(ビタミンC、E、βカロチン)をよく食べる
米国の加齢研究所は「精製された炭水化物(例:白砂糖、薄力粉⇒ケーキ)は問題を起こす可能性がある」と言われる。
また、 1日に1回以上魚を食べる人はアルツハイマー病の発症率が5分の1だそうで、食べ方は池谷敏郎医師によれば「できれば生」「サバ缶詰でもよい」とのこと。不飽和脂肪酸の多いバランスのとれた食事を心がける。魚の脂には、「高度不飽和脂肪酸」といわれる二重結合を五つ持つEPA(エイコサペンタエン酸)や二重結合を六つ持つDHA(ドコサヘキサエン酸)などの、高度不飽和脂肪酸が豊富に含まれる。マグロのトロは融点の低い高度不飽和脂肪酸を多く含むので、生のさしみで食べても口溶けがよく感じる。EPA・DHAは中性脂肪とコレステロール減らして、しかも痩せて、スギ花粉症の緩和や予防に効果があって、アルツハイマー病の予防もなる、缶詰は手軽で安価な助っ人!
他方、近年になって欧米では、マーガリン、ショートニングなどトランス酸の過剰な摂取は血中LDLコレステロール(悪玉)を上昇させ、またHDLコレステロール(善玉)を低下させて、虚血性心疾患発症のリスクを高めることが明らかにされ、食品中トランス酸の表示義務化や摂取量勧告などが行われ始めた。
2.抗酸化作用があるオリーブ油・ワイン(たけしの家庭の医学では日本人男性は2杯、女性は1杯)・緑黄色野菜はポリフェノールが摂取できアルツハイマー病の危険性が4分の1だそうです。
3.運動習慣 2週30分以上の有酸素運動をすると発症は半減する
4.知的行動習慣 (文章を書く・活字を読むのでも良い)や音楽鑑賞(楽器演奏やカラオケでもよい)、ラジオの視聴、トランプ・チェス・麻雀などのゲームをする、博物館に行く、名所旧跡を散策 など アルツハイマー病のリスクを60%軽減するとのこと。
5.ドイツの国立精神・神経医療研究センターの調べでは、昼寝を定期的に行っている人はアルツハイマー病の発症リスクが5分の1に低下するとのこと。
6.対人接触 人と仲よくおつきあいをしている、ダンスなどをよく行う人は、本症の発症の危険が減少するという研究がある。
※尚、森田医師によれば、対人接触が乏しい人 (具体的には一人暮らしや、夫婦で全然会話がない等)のアルツハイマー病発症率は8倍だそうでう。
長谷川式認知症スケールの検査項目では、次のようなことを調べているので参考にしてみては?
自己の見当識
「年齢を問う」
時間に関する見当識
「月、日、曜日、年」
場所に関する見当識
「ここはどこか」
作業記憶
「3単語の直後再生」、「数字を100から逆唱」
計算
「計算」および近時記憶の干渉課題
近時記憶
「3単語の遅延再生」
非言語性記銘
「5品の視覚的記銘」
前頭葉機能
「野菜語想起、サブカテゴリーの連想」
もう一つ、『認知症』危険度を知るためのチェックリストをご紹介。11個以上当てはまる人は”要注意”だそうです! このチェックをするのを忘れないように!?
□外出時はすぐクルマに乗ってしまい、ほとんど歩かない
(運動しないと、脳の前頭葉の活性化が失われていく)
□深酒、喫煙をしている
(どちらも、脳にダメージを与える動脈硬化の引き金になる)
□お洒落や化粧などに興味がなくなった
(鏡を見て、手や体を動かすほうが脳は活性化される)
□映画やテレビ番組を見ても感動できない
(ボーッとテレビを見ているのは脳を動かせていない証拠)
□几帳面でいい加減なことが許せない性格だ
(柔軟性がないと、脳に与えられる刺激も少なくなる)
□失敗をイメージしてしまう。また結果に対し、くよくよしてしまう
(マイナスの感情は、記憶力の低下につながる)
□生活がパターン化されていて、趣味がない
(変化のない画一的な生活は脳を急速に衰えさせる)
□偏食で、好き嫌いが多い
(動脈硬化になる可能性が高いという点では要注意)
□健康診断で指摘された項目を放置したままにしている
(健康管理の不徹底から脳障害→認知症というケースも)
□他人とひと言もしゃべらない日が週1回以上ある
(『会話』は脳に刺激を与えるために必要なもの)
□パズルやクイズなどの答えをすぐ見てしまう
(『すぐに楽をしてしまおう』という発想は脳の衰えにつながる)
□新聞やテレビのニュースなどの情報をすぐに信じてしまう
(情報を鵜呑みにせず、背景や原因を考えることで脳の活性化を)
□頭をぶつけることが多い
(頭をぶつけることで、脳に細かい傷が付く危険がある)
□「面倒くさい」が口癖だ
(行動的な性格でない人は脳が衰えるのも早い)
□他人の意見を聞かず、決まったものしか認めない
(固定観念がある人は自ら創造的なことをしにくい傾向が)
該当項目が3個以内:
危険度0%「今のところ問題なし。このままの日常生活をキープしましょう」
該当項目が4〜6個:
危険度30%「該当する項目を意識しながら、日常生活を少し見直しましょう」
該当項目が7〜10個:
危険度60%「危険水域です。危機意識を持って生活改善したほうがいいでしょう」
該当項目が11個以上:
危険度90%「今のままでは認知症の危険性大! 根本的な生活改善を!」
///////////////////////////
64歳以下で発症した認知症を若年性認知症という。症状に高齢者と大きな違いはないが、子育て中の30代の主婦がなる場合もあり、伴侶は子育て及び妻の介護も加わるという悲愴な状況で、自らも仕事では中堅の立場なので、家族の発病によるマイナスは大きい。
若年性アルツハイマー病をテーマにしたドラマ『ビューティフルレイン』の医療監修も手がけた精神科医の吉田勝明院長(横浜相原病院)は、最近では、こうした60代前で発症する『若年性認知症』が増加して、関心が高まっているという。
【本人の自覚症状】
(1)仕事がはかどらなくなった。
(2)書類の書き間違いや計算ミスが多くなった。
(3)受発注漏れや繰り返しが増えた。
(4)二重請求や請求漏れを繰り返すようになった。
(5)約束の日にちや時間を忘れてしまう。
(6)電話の取次ぎがスムーズにできなくなった。
(7)家事の段取りがうまくできなくなり、時間がかかるようになった。
(8)料理のレパートリーが減った。
(9)昨日の夕食が思い出せなくなった。
【家族から見たチェック項目】
(1)約束の時間に遅れることが増えた。
(2)おしゃれだったはずなのに服装にかまわなくなった。
(3)好きだった物事に興味を示さなくなった。
(4)ぼんやりするようになった。
(5)物忘れが激しくなった。
(6)物忘れを認めず、言いわけを繰り返す。
(7)怒りっぽくなった。
高齢化に伴い、日本の認知症患者は増加の一途をたどっている。教育、職業経験の多寡で発病の有無がきまるのではなさそうだ、サッチャー元首相、レーガン大統領も、認知症を患ったのは良く知られており、さらに近年では、40〜50代で発症する『若年性認知症』も増加傾向といわれている。もはや認知症は老後の問題とばかりもいえなくなってきている。
アルツハイマー病の発症因子は糖尿病の他にも高血圧、喫煙、高脂血症などがあるが、その傾向があっても必ずなるというわけでもないのです。原因と考えられるのは、脳内にアミロイドβと呼ばれるタンパク質が蓄積し神経細胞を破壊することによって脳が萎縮し記憶力や思考力が低下、認知機能に支障をきたす病で、発症すると考えられている、とのこと。
最近の研究で、アルツハイマー型認知症になりにくい生活習慣が分かってきている。
(糖尿病U型によって、血液中のブドウ糖を摂りいれにくくなり血糖値が異常に高くなる。糖尿病の肥満リスクとアルツハイマーの関連が大であるという)
1.食習慣 野菜・果物(ビタミンC、E、βカロチン)をよく食べる
米国の加齢研究所は「精製された炭水化物(例:白砂糖、薄力粉⇒ケーキ)は問題を起こす可能性がある」と言われる。
また、 1日に1回以上魚を食べる人はアルツハイマー病の発症率が5分の1だそうで、食べ方は池谷敏郎医師によれば「できれば生」「サバ缶詰でもよい」とのこと。不飽和脂肪酸の多いバランスのとれた食事を心がける。魚の脂には、「高度不飽和脂肪酸」といわれる二重結合を五つ持つEPA(エイコサペンタエン酸)や二重結合を六つ持つDHA(ドコサヘキサエン酸)などの、高度不飽和脂肪酸が豊富に含まれる。マグロのトロは融点の低い高度不飽和脂肪酸を多く含むので、生のさしみで食べても口溶けがよく感じる。EPA・DHAは中性脂肪とコレステロール減らして、しかも痩せて、スギ花粉症の緩和や予防に効果があって、アルツハイマー病の予防もなる、缶詰は手軽で安価な助っ人!
他方、近年になって欧米では、マーガリン、ショートニングなどトランス酸の過剰な摂取は血中LDLコレステロール(悪玉)を上昇させ、またHDLコレステロール(善玉)を低下させて、虚血性心疾患発症のリスクを高めることが明らかにされ、食品中トランス酸の表示義務化や摂取量勧告などが行われ始めた。
2.抗酸化作用があるオリーブ油・ワイン(たけしの家庭の医学では日本人男性は2杯、女性は1杯)・緑黄色野菜はポリフェノールが摂取できアルツハイマー病の危険性が4分の1だそうです。
3.運動習慣 2週30分以上の有酸素運動をすると発症は半減する
4.知的行動習慣 (文章を書く・活字を読むのでも良い)や音楽鑑賞(楽器演奏やカラオケでもよい)、ラジオの視聴、トランプ・チェス・麻雀などのゲームをする、博物館に行く、名所旧跡を散策 など アルツハイマー病のリスクを60%軽減するとのこと。
5.ドイツの国立精神・神経医療研究センターの調べでは、昼寝を定期的に行っている人はアルツハイマー病の発症リスクが5分の1に低下するとのこと。
6.対人接触 人と仲よくおつきあいをしている、ダンスなどをよく行う人は、本症の発症の危険が減少するという研究がある。
※尚、森田医師によれば、対人接触が乏しい人 (具体的には一人暮らしや、夫婦で全然会話がない等)のアルツハイマー病発症率は8倍だそうでう。
長谷川式認知症スケールの検査項目では、次のようなことを調べているので参考にしてみては?
自己の見当識
「年齢を問う」
時間に関する見当識
「月、日、曜日、年」
場所に関する見当識
「ここはどこか」
作業記憶
「3単語の直後再生」、「数字を100から逆唱」
計算
「計算」および近時記憶の干渉課題
近時記憶
「3単語の遅延再生」
非言語性記銘
「5品の視覚的記銘」
前頭葉機能
「野菜語想起、サブカテゴリーの連想」
もう一つ、『認知症』危険度を知るためのチェックリストをご紹介。11個以上当てはまる人は”要注意”だそうです! このチェックをするのを忘れないように!?
□外出時はすぐクルマに乗ってしまい、ほとんど歩かない
(運動しないと、脳の前頭葉の活性化が失われていく)
□深酒、喫煙をしている
(どちらも、脳にダメージを与える動脈硬化の引き金になる)
□お洒落や化粧などに興味がなくなった
(鏡を見て、手や体を動かすほうが脳は活性化される)
□映画やテレビ番組を見ても感動できない
(ボーッとテレビを見ているのは脳を動かせていない証拠)
□几帳面でいい加減なことが許せない性格だ
(柔軟性がないと、脳に与えられる刺激も少なくなる)
□失敗をイメージしてしまう。また結果に対し、くよくよしてしまう
(マイナスの感情は、記憶力の低下につながる)
□生活がパターン化されていて、趣味がない
(変化のない画一的な生活は脳を急速に衰えさせる)
□偏食で、好き嫌いが多い
(動脈硬化になる可能性が高いという点では要注意)
□健康診断で指摘された項目を放置したままにしている
(健康管理の不徹底から脳障害→認知症というケースも)
□他人とひと言もしゃべらない日が週1回以上ある
(『会話』は脳に刺激を与えるために必要なもの)
□パズルやクイズなどの答えをすぐ見てしまう
(『すぐに楽をしてしまおう』という発想は脳の衰えにつながる)
□新聞やテレビのニュースなどの情報をすぐに信じてしまう
(情報を鵜呑みにせず、背景や原因を考えることで脳の活性化を)
□頭をぶつけることが多い
(頭をぶつけることで、脳に細かい傷が付く危険がある)
□「面倒くさい」が口癖だ
(行動的な性格でない人は脳が衰えるのも早い)
□他人の意見を聞かず、決まったものしか認めない
(固定観念がある人は自ら創造的なことをしにくい傾向が)
該当項目が3個以内:
危険度0%「今のところ問題なし。このままの日常生活をキープしましょう」
該当項目が4〜6個:
危険度30%「該当する項目を意識しながら、日常生活を少し見直しましょう」
該当項目が7〜10個:
危険度60%「危険水域です。危機意識を持って生活改善したほうがいいでしょう」
該当項目が11個以上:
危険度90%「今のままでは認知症の危険性大! 根本的な生活改善を!」
///////////////////////////
64歳以下で発症した認知症を若年性認知症という。症状に高齢者と大きな違いはないが、子育て中の30代の主婦がなる場合もあり、伴侶は子育て及び妻の介護も加わるという悲愴な状況で、自らも仕事では中堅の立場なので、家族の発病によるマイナスは大きい。
若年性アルツハイマー病をテーマにしたドラマ『ビューティフルレイン』の医療監修も手がけた精神科医の吉田勝明院長(横浜相原病院)は、最近では、こうした60代前で発症する『若年性認知症』が増加して、関心が高まっているという。
【本人の自覚症状】
(1)仕事がはかどらなくなった。
(2)書類の書き間違いや計算ミスが多くなった。
(3)受発注漏れや繰り返しが増えた。
(4)二重請求や請求漏れを繰り返すようになった。
(5)約束の日にちや時間を忘れてしまう。
(6)電話の取次ぎがスムーズにできなくなった。
(7)家事の段取りがうまくできなくなり、時間がかかるようになった。
(8)料理のレパートリーが減った。
(9)昨日の夕食が思い出せなくなった。
【家族から見たチェック項目】
(1)約束の時間に遅れることが増えた。
(2)おしゃれだったはずなのに服装にかまわなくなった。
(3)好きだった物事に興味を示さなくなった。
(4)ぼんやりするようになった。
(5)物忘れが激しくなった。
(6)物忘れを認めず、言いわけを繰り返す。
(7)怒りっぽくなった。
2014年08月29日
ランニングを通じて交流
第4回国際大使館フレンドリーラン
http://www.sportsentry.ne.jp/event/t/43508
・日時:11月9日(日) 8:00〜13:00
・会場:お台場海浜公園(港区)潮風公園太陽の広場ー開閉会式(品川区)
・主催:「国際大使館フレンドリーラン2014」実行委員会
「アクティブミドル国際協会」
・後援:(予定)外務省 東京都 港区教育委員会
・対象者:一般ランニング愛好家、大使館外交官、職員、外国人ランナー
21km、10km、5km、ファミリーラン2km、のランニング大会
・募集期間:2012年7月〜10月26日 ※定員に達し次第締め切り
・申込方法:エントリーサイト各社
・表彰:年代別(29歳以下、30歳代、40歳代、50歳以上 男女各3位まで)
(全員に完走証、2km除く)
*本大会は国際親善を目的としたランニング大会です。
スポーツを通じた国際交流を目指すファンランです。
各国大使館の外交官も一般ランナーと一緒に走ります。
(スピード競争する方や記録を狙う方は公式大会をお勧めします。)
主旨:
・「ランニングを通じて交流」
自然環境、安全に走れる環境を必要とし、健康づくりや生き甲斐づくりに貢献するランニングは、色々な年代や国籍を超えて参加出来るスポーツです。それらの理念をランニングを通じて交流をします。
・「東日本大震災復興及び教育支援チャリティイベント」
参加費の一部を東日本大震災復興及び教育支援の義捐金とします。
・「各国駐日大使館との交流を深める」
大使館員、関係者、個人で参加出来るランニング大会を開催。
毎年行われている大使館対抗「東京国際フットサル大会」に加え、
スポーツを通じて「アクティブミドル国際協会」会員と各国駐日大使館
の理解を深める。また一般の方へ広く各国大使館のPRをする。
*(参加応募エントリーサイト)
http://www.sportsentry.ne.jp/event/t/43508
スポーツエントリー<日本語版>
http://www.sportsentry.ne.jp/entry/t/43520/e
スポーツエントリー<英語版>
https://jtbsports.jp/events/events-detail.php?id=3451
JTBスポーツステーション
http://www.sportsone.jp/srt/stocks/srt20141109_106348.html
スポーツワン
http://lawson-ds.jp/marathon/friendlyrun/
ローソンスポーツ
http://form1.fc2.com/form/?id=217920
アクティブミドル国際協会 事務局
http://www.sportsentry.ne.jp/event/t/43508
・日時:11月9日(日) 8:00〜13:00
・会場:お台場海浜公園(港区)潮風公園太陽の広場ー開閉会式(品川区)
・主催:「国際大使館フレンドリーラン2014」実行委員会
「アクティブミドル国際協会」
・後援:(予定)外務省 東京都 港区教育委員会
・対象者:一般ランニング愛好家、大使館外交官、職員、外国人ランナー
21km、10km、5km、ファミリーラン2km、のランニング大会
・募集期間:2012年7月〜10月26日 ※定員に達し次第締め切り
・申込方法:エントリーサイト各社
・表彰:年代別(29歳以下、30歳代、40歳代、50歳以上 男女各3位まで)
(全員に完走証、2km除く)
*本大会は国際親善を目的としたランニング大会です。
スポーツを通じた国際交流を目指すファンランです。
各国大使館の外交官も一般ランナーと一緒に走ります。
(スピード競争する方や記録を狙う方は公式大会をお勧めします。)
主旨:
・「ランニングを通じて交流」
自然環境、安全に走れる環境を必要とし、健康づくりや生き甲斐づくりに貢献するランニングは、色々な年代や国籍を超えて参加出来るスポーツです。それらの理念をランニングを通じて交流をします。
・「東日本大震災復興及び教育支援チャリティイベント」
参加費の一部を東日本大震災復興及び教育支援の義捐金とします。
・「各国駐日大使館との交流を深める」
大使館員、関係者、個人で参加出来るランニング大会を開催。
毎年行われている大使館対抗「東京国際フットサル大会」に加え、
スポーツを通じて「アクティブミドル国際協会」会員と各国駐日大使館
の理解を深める。また一般の方へ広く各国大使館のPRをする。
*(参加応募エントリーサイト)
http://www.sportsentry.ne.jp/event/t/43508
スポーツエントリー<日本語版>
http://www.sportsentry.ne.jp/entry/t/43520/e
スポーツエントリー<英語版>
https://jtbsports.jp/events/events-detail.php?id=3451
JTBスポーツステーション
http://www.sportsone.jp/srt/stocks/srt20141109_106348.html
スポーツワン
http://lawson-ds.jp/marathon/friendlyrun/
ローソンスポーツ
http://form1.fc2.com/form/?id=217920
アクティブミドル国際協会 事務局
2014年08月28日
振り返って、25年
水ギョウザを初めてご馳走してもらったのは、青山台に住んでいたころだった。
中国人のご夫婦が作ってくれた水ギョウザはほんとに美味しかった。
粉をボールで寝かして、こねて、棒状にまとめてトントンと切るって、小さくのして皮をから手作りする。小さな棒でくるくると廻して薄い手作りの側を百枚くらいつくる。そこに大きなボールでこねたギョウザの具を上手にひだを寄せながら包んでしまう。
えも言われないくらいに美味しい何種類かのたれがあって、それにつけて食べると何個でも欲しくなってしまう。そして、ご飯は食べないのが決まりだ。料理上手の奥さんが何種類かの手料理をつくってくれて、どれも美味しかった。あの中国家庭料理が私の中で一番おいしかった思い出だ。お土産に冷凍したのを持たせてくれて、家に帰っては翌日かに湯でて食べた。
それから、小さな娘さんエイちゃんを呼び寄せて、小学校、中学校と地元の日本の学校に通わせた。この地域の風習(?)で中学校はジャージを一日を過ごすので、ほとんど着ないで過ごす制服は誰かにあげることになるので、ウチのはエイちゃんに渡すことになった。
当時はまだ、博士論文が途中だったと言うけれど、頑張って書き上げて、実業に力をいれて、会社をたちあげて、社長になったのを聞いていた。そして、事業のかたわらで、遂には日本語学校を開設したのだという。http://www.tria.jp/message.html#staff01
このところ、日本と中国の関係は悪化の一途だけれど、現代に至る日中韓露の関係史を振り返りながら、ネット検索していたところ、中国残留孤児を扱ったドキュメンタリー小説をTVドラマ化した「大地の子」が映像がyoutubeで連続視聴できると知った。しかも、中国語の字幕までがつけられているものもあるのだった。多分、日本に留学している中国人学生などが手掛けていたのではなか、日中の言葉を勉強中の人にはなかなかいい教材だと言えそうだ。
この数日、連続シリーズを立て続けにみながら、親子関係の国境を越えた深い愛情に感動し、時に感極まって涙していた。このシリーズには新日鉄がモデルになった木更津工場が出てくるのも、最近に工場の前を通りながらドライブに行ったところなので感慨深かった。(画像をワイドにクリックすると、よく見えます)
あのドラマは、日中国交正常化によって開かれた、文革も最中の時期に、中国での戦乱をくぐりぬけて日本に戻った日本人が、どれほど待ちわびた中国との友好関係だったのか、そして亡くした多くの命や、悔やんでも悔やみきれない数々の思いがあるのかと知らせるものだった。戦争はけしてしてはいけない、それを文字にして、刻んだ山崎豊子の『大地の子』の原作は力強かったし、それに入れ込んだNHKも今とは違って、報道姿勢は硬派で純粋なところがあったとのだと思う。
今から20年前に、夏は敗戦の日本の戦争への反省を促す数々のドラマが各民放局から流れていたし、中国残留孤児の親探しの写真が新聞に何十人と掲載されて、親が見つからないままに帰国する孤児たち、再会できる人は限られており、名乗り出てこられない親の事情が匿名の手紙などから分かるのだったが、親がみつからずに日本に帰国することを決めた孤児たちも、日本の言葉や生活になじめずに、苦難がつきまとうということが繰り返されていることも報道があったものだった。
当時、シリーズの11回のドラマをほぼ見る機会がなかった。あまりに切なくて、見られなかったのであったが、今回見てみて、原作者が女性であったこと、そうした女性ならではの目線がこの作品を丁寧に仕上げることに影響したのではないかと思えた。母親の想いは作品の中で亡くなった存在になって、父親を演じる仲代達也によって親の思いが静かに語られるし、中国人の養父も慈愛に満ちた姿勢を貫いている所がウマく描かれている。母親の愛を強く前面に出さないことによって、ドラマの映像に深みが出たのではないか。製鉄所という国家プロジェクトを推進する中国共産党の背景なども絡ませて、当時を生き抜く中国人の辛辣さもそこはかとなく表現されて凄いと感じさせる。
あれから、日中韓露の関係は、大きく振幅しながら、複雑化している。
戦争、国境、そうしたものを超えて、人の気持ちの暖かに流れる親愛の情を信じて繋がっていきたいと願う。
今年で「ちきゅうTALK」の活動が25周年、四半世紀なのだ。
戦争で引き裂かれるような思いをしないで、生きてこられたことに感謝しつつ、少しでもこうした友好親善につながる国際理解の活動を続けていかなくてはと、劉さんと偶然にギョウザつくりのイベントで再会して旧交を温めることが出来て、交流の大切さを改めて思った。留学生だった彼は、今は立派な学校経営者になって、交流の礎を作っていこうとしているのはとても嬉しい。
中国人のご夫婦が作ってくれた水ギョウザはほんとに美味しかった。
粉をボールで寝かして、こねて、棒状にまとめてトントンと切るって、小さくのして皮をから手作りする。小さな棒でくるくると廻して薄い手作りの側を百枚くらいつくる。そこに大きなボールでこねたギョウザの具を上手にひだを寄せながら包んでしまう。
えも言われないくらいに美味しい何種類かのたれがあって、それにつけて食べると何個でも欲しくなってしまう。そして、ご飯は食べないのが決まりだ。料理上手の奥さんが何種類かの手料理をつくってくれて、どれも美味しかった。あの中国家庭料理が私の中で一番おいしかった思い出だ。お土産に冷凍したのを持たせてくれて、家に帰っては翌日かに湯でて食べた。
それから、小さな娘さんエイちゃんを呼び寄せて、小学校、中学校と地元の日本の学校に通わせた。この地域の風習(?)で中学校はジャージを一日を過ごすので、ほとんど着ないで過ごす制服は誰かにあげることになるので、ウチのはエイちゃんに渡すことになった。
当時はまだ、博士論文が途中だったと言うけれど、頑張って書き上げて、実業に力をいれて、会社をたちあげて、社長になったのを聞いていた。そして、事業のかたわらで、遂には日本語学校を開設したのだという。http://www.tria.jp/message.html#staff01
このところ、日本と中国の関係は悪化の一途だけれど、現代に至る日中韓露の関係史を振り返りながら、ネット検索していたところ、中国残留孤児を扱ったドキュメンタリー小説をTVドラマ化した「大地の子」が映像がyoutubeで連続視聴できると知った。しかも、中国語の字幕までがつけられているものもあるのだった。多分、日本に留学している中国人学生などが手掛けていたのではなか、日中の言葉を勉強中の人にはなかなかいい教材だと言えそうだ。
この数日、連続シリーズを立て続けにみながら、親子関係の国境を越えた深い愛情に感動し、時に感極まって涙していた。このシリーズには新日鉄がモデルになった木更津工場が出てくるのも、最近に工場の前を通りながらドライブに行ったところなので感慨深かった。(画像をワイドにクリックすると、よく見えます)
あのドラマは、日中国交正常化によって開かれた、文革も最中の時期に、中国での戦乱をくぐりぬけて日本に戻った日本人が、どれほど待ちわびた中国との友好関係だったのか、そして亡くした多くの命や、悔やんでも悔やみきれない数々の思いがあるのかと知らせるものだった。戦争はけしてしてはいけない、それを文字にして、刻んだ山崎豊子の『大地の子』の原作は力強かったし、それに入れ込んだNHKも今とは違って、報道姿勢は硬派で純粋なところがあったとのだと思う。
今から20年前に、夏は敗戦の日本の戦争への反省を促す数々のドラマが各民放局から流れていたし、中国残留孤児の親探しの写真が新聞に何十人と掲載されて、親が見つからないままに帰国する孤児たち、再会できる人は限られており、名乗り出てこられない親の事情が匿名の手紙などから分かるのだったが、親がみつからずに日本に帰国することを決めた孤児たちも、日本の言葉や生活になじめずに、苦難がつきまとうということが繰り返されていることも報道があったものだった。
当時、シリーズの11回のドラマをほぼ見る機会がなかった。あまりに切なくて、見られなかったのであったが、今回見てみて、原作者が女性であったこと、そうした女性ならではの目線がこの作品を丁寧に仕上げることに影響したのではないかと思えた。母親の想いは作品の中で亡くなった存在になって、父親を演じる仲代達也によって親の思いが静かに語られるし、中国人の養父も慈愛に満ちた姿勢を貫いている所がウマく描かれている。母親の愛を強く前面に出さないことによって、ドラマの映像に深みが出たのではないか。製鉄所という国家プロジェクトを推進する中国共産党の背景なども絡ませて、当時を生き抜く中国人の辛辣さもそこはかとなく表現されて凄いと感じさせる。
あれから、日中韓露の関係は、大きく振幅しながら、複雑化している。
戦争、国境、そうしたものを超えて、人の気持ちの暖かに流れる親愛の情を信じて繋がっていきたいと願う。
今年で「ちきゅうTALK」の活動が25周年、四半世紀なのだ。
戦争で引き裂かれるような思いをしないで、生きてこられたことに感謝しつつ、少しでもこうした友好親善につながる国際理解の活動を続けていかなくてはと、劉さんと偶然にギョウザつくりのイベントで再会して旧交を温めることが出来て、交流の大切さを改めて思った。留学生だった彼は、今は立派な学校経営者になって、交流の礎を作っていこうとしているのはとても嬉しい。
2014年08月27日
「ちきゅうTALK」25周年記念イベント −その5− 日中友好のギョウザつくり 超旨焼き餃子:皮から手作り水餃子
2014年08月26日
残暑お見舞い申し上げます
プランター栽培のスイカが成りましたので取れたて画像をご覧にいれます。

今年は異常な天候で、思わぬ事故が多発しています。
皆さまのご家族、ご親戚にも、関係各所の方がおられるに違いありません。
私の友人にも広島出身の方が多く、状況を知らせくれます。
我孫子の方には、ご同居の家族が増えて賑やかに佳き夏をお過ごしになっているメールを頂くことも多くなりました、嬉しいことだと存じます。
さて、今日 2-3時 はけやきプラザ((8F 調理室)で 超旨ギョウザを作る講座を致します。
ビールもあり、ジュースもありで、暑気払いです!
よろしければ覗きに来てみてくださいませ。
(ひとり男性の欠員がでましたので、講習参加でもOKです)
特性焼きギョウザの作り方を伝授するのは日本人(女性)ですが、中国人も特別参加で水餃子を皮から作ってくれることになっています。
「ちきゅうTALK」発行25周年記念のイベントの一環(笑)です。
今年は異常な天候で、思わぬ事故が多発しています。
皆さまのご家族、ご親戚にも、関係各所の方がおられるに違いありません。
私の友人にも広島出身の方が多く、状況を知らせくれます。
我孫子の方には、ご同居の家族が増えて賑やかに佳き夏をお過ごしになっているメールを頂くことも多くなりました、嬉しいことだと存じます。
さて、今日 2-3時 はけやきプラザ((8F 調理室)で 超旨ギョウザを作る講座を致します。
ビールもあり、ジュースもありで、暑気払いです!
よろしければ覗きに来てみてくださいませ。
(ひとり男性の欠員がでましたので、講習参加でもOKです)
特性焼きギョウザの作り方を伝授するのは日本人(女性)ですが、中国人も特別参加で水餃子を皮から作ってくれることになっています。
「ちきゅうTALK」発行25周年記念のイベントの一環(笑)です。
2014年08月25日
アクアラインの値下げ効果は?
夏休みなので房総の旅に行ってきました。そして、アウトレットの話題の木更津にも寄って、帰りはアクアラインを通ってきました。
この無用の長物のようになりかかった海の橋は、総工費は約1兆4,409億円と莫大な予算がつぎ込まれて、採算が見合わないわずかな利用しかありませんでした。推定交通量を実際の利用が大幅に下回り、財政の無駄使いの代名詞との批判がある。これは料金が非常に高いために利用しにくかったと言われ、数回の料金改定を経て普通車料金で開通当時は4,000円の通行料金は3,000円となる(アクアライン開通前は普通車料金で5,000円を予定していた)。つまり、もともとの推定交通量の見通しがでたらめだったという指摘の通りになってきていたのだ。ただし、森田知事となってからは社会実験と称して国から助成をうけることになったからだった。



我孫子の将来を考えてみると、千葉県をよく知っておくことは不可欠です。財政再建団体にもなる恐れを抱えていったのは、膨大な不良債権でしょうが、それは民間企業と県財政の政治の闇が産んだところによると思われます。しかも、幸か不幸か、バブリーな時代によって、夕張市の破たんが起きるまで、そうしたことに市民感覚はついていかなかったし、まして県民意識はさらに県庁に遠い千葉東葛住民は疎い状況があった。
その不良財政のツケをバケツどころか巨大コンテナで積み増してきたのが東京湾アクアライン道路だった。そこで、森田知事のツルの一声で、2009年からの社会実験による引き下げが行われ、ET利用による値下げで交通量を増やす試みがなされるようになった。2012年度は4月に開業した三井アウトレットパーク 木更津も開設されて、この夏には首都圏最大の店舗数との呼び声で客寄せすることになった。よって、開通前の2008年度全日比で、1.5倍〜約1.8倍(2005年度道路交通センサス平日24時間交通量比では約3倍)と通行量が増大した。
その嬉しくない渋滞さえも、とんとなかったアクアラインに、ようやくの活気の産声に見立てられるのかとも思えた。近年には週末・休日の夕方に上り線川崎浮島JCTからアクア連絡道の木更津JCTまで全線に亘る渋滞が頻繁に発生するようになった。休日の日中は海ほたるPAへの入庫待ちのために分岐手前付近で渋滞を起こす事もある。しかし、問題はその程度では解決には繋がりそうもないのだ。台数の増加による収入によっても値下げ分を補填できていない。結果として社会実験前よりも減収となっている(台数の増加が値下げ分を補填できていない)。更にいえば、アクアラインを利用するタクシーが増加する一方で、競合する東京湾フェリーの輸送台数が2008年度に比べて約3割減少したり、特急さざなみ・わかしお利用者が木更津・茂原以南で減少する(後のダイヤ改正で区間短縮や本数削減)といった影響があらわれている。
こういう話に目を耳を凝らす市民(県民)は今まで派生しなかった。企業の側で踊っていた団塊の世代は市民税、固定資産税を天引きで払う側であって、年金の破たんなども夢々考えたりすることもなかった、拡大の世代だった。よく考えるより、先に行く方策をもてるかどうか、それによって解決していくのだと考える生活習慣できていた。しかし、国民年金、地方財政、企業年金までも危うくなってみてみると、コスト対効果をしっかり見据え、つまらない建設、投資を抑制しなくてはいけないと反省しないといけない。
てなことで、アクアラインを800円で通行してきました。いずれ、最低でも2-3倍に値上げをしなくては、かえって財政負担を増すだけでしょう。千葉の皆さまは特に要注意、政治のお任せは千葉に住んで千葉知らずでよろしくありません。特に女性県民の皆さん、県議会には0.8%しか女性県議がいないのです、細やかな目配り、地に足をつけた生活の見直しをする視点が欠けていますから、よくよくウオッチしてくださいね。
この無用の長物のようになりかかった海の橋は、総工費は約1兆4,409億円と莫大な予算がつぎ込まれて、採算が見合わないわずかな利用しかありませんでした。推定交通量を実際の利用が大幅に下回り、財政の無駄使いの代名詞との批判がある。これは料金が非常に高いために利用しにくかったと言われ、数回の料金改定を経て普通車料金で開通当時は4,000円の通行料金は3,000円となる(アクアライン開通前は普通車料金で5,000円を予定していた)。つまり、もともとの推定交通量の見通しがでたらめだったという指摘の通りになってきていたのだ。ただし、森田知事となってからは社会実験と称して国から助成をうけることになったからだった。
我孫子の将来を考えてみると、千葉県をよく知っておくことは不可欠です。財政再建団体にもなる恐れを抱えていったのは、膨大な不良債権でしょうが、それは民間企業と県財政の政治の闇が産んだところによると思われます。しかも、幸か不幸か、バブリーな時代によって、夕張市の破たんが起きるまで、そうしたことに市民感覚はついていかなかったし、まして県民意識はさらに県庁に遠い千葉東葛住民は疎い状況があった。
その不良財政のツケをバケツどころか巨大コンテナで積み増してきたのが東京湾アクアライン道路だった。そこで、森田知事のツルの一声で、2009年からの社会実験による引き下げが行われ、ET利用による値下げで交通量を増やす試みがなされるようになった。2012年度は4月に開業した三井アウトレットパーク 木更津も開設されて、この夏には首都圏最大の店舗数との呼び声で客寄せすることになった。よって、開通前の2008年度全日比で、1.5倍〜約1.8倍(2005年度道路交通センサス平日24時間交通量比では約3倍)と通行量が増大した。
その嬉しくない渋滞さえも、とんとなかったアクアラインに、ようやくの活気の産声に見立てられるのかとも思えた。近年には週末・休日の夕方に上り線川崎浮島JCTからアクア連絡道の木更津JCTまで全線に亘る渋滞が頻繁に発生するようになった。休日の日中は海ほたるPAへの入庫待ちのために分岐手前付近で渋滞を起こす事もある。しかし、問題はその程度では解決には繋がりそうもないのだ。台数の増加による収入によっても値下げ分を補填できていない。結果として社会実験前よりも減収となっている(台数の増加が値下げ分を補填できていない)。更にいえば、アクアラインを利用するタクシーが増加する一方で、競合する東京湾フェリーの輸送台数が2008年度に比べて約3割減少したり、特急さざなみ・わかしお利用者が木更津・茂原以南で減少する(後のダイヤ改正で区間短縮や本数削減)といった影響があらわれている。
こういう話に目を耳を凝らす市民(県民)は今まで派生しなかった。企業の側で踊っていた団塊の世代は市民税、固定資産税を天引きで払う側であって、年金の破たんなども夢々考えたりすることもなかった、拡大の世代だった。よく考えるより、先に行く方策をもてるかどうか、それによって解決していくのだと考える生活習慣できていた。しかし、国民年金、地方財政、企業年金までも危うくなってみてみると、コスト対効果をしっかり見据え、つまらない建設、投資を抑制しなくてはいけないと反省しないといけない。
てなことで、アクアラインを800円で通行してきました。いずれ、最低でも2-3倍に値上げをしなくては、かえって財政負担を増すだけでしょう。千葉の皆さまは特に要注意、政治のお任せは千葉に住んで千葉知らずでよろしくありません。特に女性県民の皆さん、県議会には0.8%しか女性県議がいないのです、細やかな目配り、地に足をつけた生活の見直しをする視点が欠けていますから、よくよくウオッチしてくださいね。
2014年08月24日
秋吉敏子(84歳)、NYで活躍するジャズピアニスト
秋吉敏子について、TV番組「ソロモン流」としてニューヨーク在住のジャズピアニスト、作編曲家。ジャズ界の最高のジャズマスター賞を受賞。
1929年12月12日、遼陽(旧満州国)に日本人の両親の元に生まれる。
小学1年生のときにピアノを習い始め、終戦後に大分県に引き揚げると、別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でジャズピアニストとして演奏を開始。1953年に来日したオスカー・ピーターソンに才能を見出され、1956年に日本人として初めてバークリー音楽院に奨学生として渡米。
1973年に自身がリーダーを務めるビッグバンドを立ち上げると、ジャズと日本古来の和楽を融合した新しいサウンドが高く評価され、以後様々な賞を受賞、米国のジャス殿堂入りは日本人で初めて。
1929年12月12日、遼陽(旧満州国)に日本人の両親の元に生まれる。
小学1年生のときにピアノを習い始め、終戦後に大分県に引き揚げると、別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でジャズピアニストとして演奏を開始。1953年に来日したオスカー・ピーターソンに才能を見出され、1956年に日本人として初めてバークリー音楽院に奨学生として渡米。
1973年に自身がリーダーを務めるビッグバンドを立ち上げると、ジャズと日本古来の和楽を融合した新しいサウンドが高く評価され、以後様々な賞を受賞、米国のジャス殿堂入りは日本人で初めて。
2014年08月23日
第7回あびこカッパまつり
我孫子カッパ祭りが23(土)、24(日)に開催中です!
http://abikosetsubi.com/kappa/pg136.html
上記、ホームページにプログラム詳細がありますので、ご覧ください。
◆竹で製作した灯籠で我孫子駅南口ロータリーが華やかです。
今年は大型の竹宵も登場!あびこの竹職人おじさんの丹精した光のモニュメントが見られます。
点灯されているのは、17時00分〜21時予定です。ほんのりとした明かりを見て、懐かしい気分にひたり、涼を取ることができます。





◆あびこカッパまつり当日は次の区間が通行止めになります。
我孫子駅南口駅前大通り・・・正午から午後9時30分
我孫子駅南口ロータリー・・・午後4時から午後9時30分
公園坂通り・・・午後4時から午後6時
http://abikosetsubi.com/kappa/pg136.html
上記、ホームページにプログラム詳細がありますので、ご覧ください。
◆竹で製作した灯籠で我孫子駅南口ロータリーが華やかです。
今年は大型の竹宵も登場!あびこの竹職人おじさんの丹精した光のモニュメントが見られます。
点灯されているのは、17時00分〜21時予定です。ほんのりとした明かりを見て、懐かしい気分にひたり、涼を取ることができます。
◆あびこカッパまつり当日は次の区間が通行止めになります。
我孫子駅南口駅前大通り・・・正午から午後9時30分
我孫子駅南口ロータリー・・・午後4時から午後9時30分
公園坂通り・・・午後4時から午後6時
2014年08月22日
ローマ法王と元従軍慰安婦がソウルで対面
韓国訪問中のローマ法王は、最終日の18日、ソウル中心部にある明洞(ミョンドン)聖堂で朝鮮半島の平和と和解を祈願するミサを開き、ミサの中で、南北に分断されている朝鮮半島について「一つの家族、民族だ」と強調し、韓国と北朝鮮の融和を訴えた。法王は14日からの訪韓中だったが、双方が「非難合戦や不毛な批判、力の誇示」に終止符を打つよう呼びかけた。韓国カトリック教会は北朝鮮信徒をミサに招待したが、参加は実現しなかった。
また、ミサに参列した元慰安婦7名との対面もした。元慰安婦の参列はバチカン(ローマ法王庁)でなく、韓国カトリック教会の招待であり、個別の会談はなかった。対面は慰安婦問題を国際社会にアピールしようとする韓国側の思惑を反映したものと言え、対面の模様が海外で報じられることによって、慰安婦問題が国際社会の注目を浴びる形となった。ミサには韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が出席した。
法王は昨年3月の就任以来、社会的弱者に支援の手を差し伸べる「貧者の教会」路線を掲げ、難民や障害者などと面会を重ねてきた。バチカンは元慰安婦を「苦しみを抱え、法王が励ましや慰めを与えることができる人々」(報道官)と形容、韓国カトリック教会の広報担当者は「対面は苦痛を受けた人々を慰めることに焦点を絞った行動」と説明している。
慰安婦問題を巡っては朴大統領が15日、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の式典で、元慰安婦が納得する解決策を日韓国交正常化50年となる来年までに日本が提示するよう求めた。
また、ミサに参列した元慰安婦7名との対面もした。元慰安婦の参列はバチカン(ローマ法王庁)でなく、韓国カトリック教会の招待であり、個別の会談はなかった。対面は慰安婦問題を国際社会にアピールしようとする韓国側の思惑を反映したものと言え、対面の模様が海外で報じられることによって、慰安婦問題が国際社会の注目を浴びる形となった。ミサには韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が出席した。
法王は昨年3月の就任以来、社会的弱者に支援の手を差し伸べる「貧者の教会」路線を掲げ、難民や障害者などと面会を重ねてきた。バチカンは元慰安婦を「苦しみを抱え、法王が励ましや慰めを与えることができる人々」(報道官)と形容、韓国カトリック教会の広報担当者は「対面は苦痛を受けた人々を慰めることに焦点を絞った行動」と説明している。
慰安婦問題を巡っては朴大統領が15日、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の式典で、元慰安婦が納得する解決策を日韓国交正常化50年となる来年までに日本が提示するよう求めた。
2014年08月21日
政府予算、拉致被害者の早期帰国へむける
横田夫妻をお招きしてお話をきく講演会にも参加したことがあり、娘をもつ私としても関心を強く持っていた。日本全国が拉致被害者の早期帰国を願うのは同じ思いなだとおもう。そして、帰国後の生活再建にむけての予算の増額も検討が始められたということで、安倍内閣の強い覚悟を打ち出したものだと期待している。
政府は北朝鮮による拉致被害者の再調査に向けて、被害者支援の関連予算として、約3億円を2015年度予算の概算要求に盛り込む方針を固めた。北朝鮮からの最初の再調査報告は9月上旬の見通し。政府認定被害者のうち、残る全12人分の予算を計上し、被害者全員の早期帰国を目指す安倍政権の姿勢を示す。
【政府認定の拉致被害者の方々一覧】http://mainichi.jp/graph/2014/05/30/20140530ddm041040169000c/001.html
認定被害者は17人おり、うち5人(3世帯)はすでに帰国。政府は05年から拉致被害者支援法に基づき、生活再建のため被害者等給付金を支給してきた。北朝鮮側の調査次第では新たな被害者の帰国も見込まれ、15年度予算の概算要求で全認定被害者分を確保。今年度予算に比べ、約9倍の大幅増となる。
政府・自民党は被害者が帰国する場合の受け入れ態勢に万全を期す方針だ。被害者等給付金の支給は開始から10年間で、その後も支援を続けるため、議員立法で拉致被害者支援法の改正を検討。改正案は新たに「老齢給付金」を設け、支給額も現行の被害者等給付金(2人世帯月額24万円)より高い、月額28万円前後で調整している。
拉致の疑いが排除できない特定失踪者も帰国し認定されれば、支援法に基づく支援を受けることができる。
政府は認定被害者や特定失踪者が見つかれば速やかに帰国させる考えで、12人を超えた場合などでも、別項目の予算を使って帰国費用や通訳援助などについて柔軟に対応する方針だ。【村尾哲】
出典:
毎日新聞 8月18日(月)7時20分配信
政府は北朝鮮による拉致被害者の再調査に向けて、被害者支援の関連予算として、約3億円を2015年度予算の概算要求に盛り込む方針を固めた。北朝鮮からの最初の再調査報告は9月上旬の見通し。政府認定被害者のうち、残る全12人分の予算を計上し、被害者全員の早期帰国を目指す安倍政権の姿勢を示す。
【政府認定の拉致被害者の方々一覧】http://mainichi.jp/graph/2014/05/30/20140530ddm041040169000c/001.html
認定被害者は17人おり、うち5人(3世帯)はすでに帰国。政府は05年から拉致被害者支援法に基づき、生活再建のため被害者等給付金を支給してきた。北朝鮮側の調査次第では新たな被害者の帰国も見込まれ、15年度予算の概算要求で全認定被害者分を確保。今年度予算に比べ、約9倍の大幅増となる。
政府・自民党は被害者が帰国する場合の受け入れ態勢に万全を期す方針だ。被害者等給付金の支給は開始から10年間で、その後も支援を続けるため、議員立法で拉致被害者支援法の改正を検討。改正案は新たに「老齢給付金」を設け、支給額も現行の被害者等給付金(2人世帯月額24万円)より高い、月額28万円前後で調整している。
拉致の疑いが排除できない特定失踪者も帰国し認定されれば、支援法に基づく支援を受けることができる。
政府は認定被害者や特定失踪者が見つかれば速やかに帰国させる考えで、12人を超えた場合などでも、別項目の予算を使って帰国費用や通訳援助などについて柔軟に対応する方針だ。【村尾哲】
出典:
毎日新聞 8月18日(月)7時20分配信
2014年08月20日
シベリア抑留と戦後、作曲家・吉田正
8月17日、NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で 「いつでも夢を〜作曲家・吉田正の戦争〜」が放送された。こうした戦争の悲惨さを語る番組も戦中世代が亡くなっていくので、私たちが気づく機会も減少してきたので、改めてブログに紹介することにした。
吉田 正(1921年1月20日 - 1998年6月10日)は、国民歌謡の澄明な作曲家だったが、常磐線沿線の日立市(茨城県)出身だとは知らなかった。生涯作曲数は2400曲を越える日本歌謡史の黎明期を支えた。没年7月に国民栄誉賞受賞。
戦後を代表する名曲「いつでも夢を」などで、人々を励まし続けてきた。4年前、都内のレコード会社にカセットテープが送られてきたことから、吉田の新たに発見された曲などによって、没後CDが作られた。テープには70年近く前、シベリアで歌っていたという男性の歌が吹き込まれ、歌詞にそえられていたのは吉田正の名前だった。終戦直後、吉田正は3年の長きに渡ってシベリアに抑留されれいたが、シベリアでの体験やそこで歌を作っていたことは生前ほ語っていなかった。シベリア抑留では57万人を超える日本人が拘束され、少なくとも5万5000人が命を落とした。
レコード会社にカセットテープを送ったのは秋田県八郎潟町に住む北嶋鉄之助(89歳)、70年近く前にシベリアで聞いた歌を克明に覚えていた。昭和20年、旧満州の歩兵部隊に配属された北嶋は、終戦後すぐにシベリアに送られ3年間に及ぶ過酷な抑留生活を耐えた。いつ帰国できるかも分からず、収容所を転々とする日々。ある時、別の収容所から来た抑留者たちが口にした歌を耳にした。吉田正という抑留者が作った歌だと聞かされた。家族にすらシベリアでの体験を話したことがなかった北嶋は85歳を超え、命をつないでくれた歌を後世に残したいと思うようになったと言う。
テープを受け取ったレコード会社の谷田郷士(75歳)は吉田正の担当ディレクターを長くつとめた。「帰還の日まで」と題された歌が吉田の歌だという決め手になったのは、その旋律だった。旋律が昭和24年に作られた「異国の月」と酷似していたのです。谷田は吉田から「シベリアで歌を作ったか忘れてしまった」と聞かされたことがあったが、吉田の思いつめた表情に、それ以上聞くことは出来なかったと言う。
顔も知らない吉田の歌に励まされシベリアから生還した北嶋は、農業や干拓地の整備の仕事をしながら3人の子供を育てた。仕事の合間、シベリアで亡くなった仲間を思いながら一人で歌を歌い続けてきたと言うことだった。「いつでも夢を」が街にあふれていた時も、北嶋にとっての吉田の歌は「帰還の日まで」だった。
吉田は「私の歌を私の歌と知らないでみんなが歌っている、そんな光景に出会いたいものです。歌はいつか詠み人知らずになっていきます。そうして本当のいい歌は永遠の命を持つのではないでしょうか。私の作った曲の中からひとつでも詠み人知らずになり、それを聞く日を楽しみにこれからも作曲を続けたいと思います」と語っていた。吉田の戦時中からシベリア抑留時代を知る手がかりが、遺品を管理する事務所の倉庫から見つかった。それは身上申告書で、シベリアから復員した時、国に提出した文書です。
音楽家を夢見ていた吉田は昭和17年(1942年)に陸軍歩兵第2連隊に入隊。当時、満州に駐留していた関東軍の中でも最強といわれていた部隊で厳しい軍隊生活を送る。そして、終戦直後から3年に渡るシベリアでの抑留生活後、昭和23年8月に帰還。
日本人が抑留された最初の冬、シベリアは強烈な寒波に襲われ一冬で2万人以上の抑留者が命を落とした。吉田の抑留生活も常に死と隣り合わせだった。生き残った者も飢えに苦しみ、森の中で血眼になって食料を探した。終戦を満州で迎えた吉田は120kmの道のりを歩かされ、たどり着いたのは旧ソビエトの極東地クラスキー、アルチョーム、ウオロシロフ、ソフガワニ、スーチャン、ナホトカなど6ッ箇所もを移動した。収容される先々で森林伐採や石炭の採掘など、過酷な労働を強いられ、常に緊張を強いられ精神的にも疲れ果てて次々に仲間が亡くなった。
昭和22年、ソフガワニの収容所で吉田と一緒だった染谷鷹治(94歳)も「帰還の日まで」を覚えていた。さらに、吉田の作った7曲の歌も記憶していた。染谷は夕食時、重労働を終えたばかりの吉田が仲間たちに必死に歌を教えていた姿が忘れられないという。「生きるんだ生きるんだ」と合言葉にして皆を励ましていたと言う。吉田は、そんな仲間たちのために歌劇団も作って、衣装や楽器も仲間と手作りし、歌は抑留者たちを元気づけていった。
角田フサ江(89歳)は、夫(勘吾)が吉田と同じ旧満州に駐屯し、歩兵部隊に所属していた。吉田は体を壊した勘吾が日本に帰国できるように上官に働きかけてくれたと言う。夫が靴底におさめ戦地から持ち帰った手帳には、吉田が部隊にいた頃に作った歌が記されていた。昭和19年の秋、吉田が所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられた。日本軍約1万人余のうち、最後まで戦って生き残ったのは34人。吉田正さんは部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まったことによって生き残った。この年の8月、別の歩兵部隊に転属となるが、そこでも歌を作っていた。昭和20年8月13日、吉田は機関銃中隊の分隊長として出撃した。ソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻し、この戦いで日本軍将兵8万人以上が戦死したとされる。吉田も大腿部貫通など瀕死の重傷を負い、生死をさまよいながらまた生き残った。
吉田の遺品の中に、当時の心境をうかがえるものが残されていた。終戦から39年後に書かれていた手記だった。「私が生きる意味について考えるようになったのは、何時からだったろうか。昭和20年8月16日、国境の戦闘で傷つき、身動き出来ぬ塹壕の中で満点の星空を仰ぎ私は生きていると実感した日からです。あの日から作曲家として自分の道を歩いてきたつもりです」あまりに多くの戦友を失った吉田は歌に生きる希望を託そうと決意した。
昭和23年、スーチャンの収容所で一緒だった関谷空道さん(88歳)によると、この頃の収容所では帰還が近いという噂が出ては消えていたと言う。関谷もそのたびごとに日本へ帰ることを諦めかけたが、吉田が作った歌をずっと大切にしてきた。それは仲間と共に生きて帰還し、日本を自分たちの手で再建したいという吉田の夢を歌った「湧きたつ血潮」という歌だった。祖国再建の夢を歌った歌は仲間たちの心の支えになったからだ。そして帰国を果たすと、、故郷に住む家族6人全員が空襲で亡くなっていた。多くの死を背負い、吉田の作曲家としての戦後が始まった。吉田がシベリアで夢見た祖国の再建。希望や夢をのせた歌と歩調を合わせるように日本は復興を果たしていくのを見守った。過酷な体験を経て吉田が歌にたくした生きる希望。吉田正の歌は今も未来を照らし続けている。
日立市内のJR常磐線の各駅では、2005年(日立駅は10月6日、日立駅以外は11月1日)から発車メロディーに吉田の代表曲を使用している。
上り(全駅共通、ただし小木津駅と十王駅は音色違い):いつでも夢を(吉永小百合・橋幸夫)
下り 大甕駅:恋のメキシカン・ロック(橋幸夫)
常陸多賀駅:公園の手品師(フランク永井)
日立駅:寒い朝(吉永小百合)
小木津駅:明日は咲こう花咲こう(吉永小百合・三田明)
十王駅:若い港(三田明)
吉田正記念館が日立市宮田町5-2-25にある。
吉田 正(1921年1月20日 - 1998年6月10日)は、国民歌謡の澄明な作曲家だったが、常磐線沿線の日立市(茨城県)出身だとは知らなかった。生涯作曲数は2400曲を越える日本歌謡史の黎明期を支えた。没年7月に国民栄誉賞受賞。
戦後を代表する名曲「いつでも夢を」などで、人々を励まし続けてきた。4年前、都内のレコード会社にカセットテープが送られてきたことから、吉田の新たに発見された曲などによって、没後CDが作られた。テープには70年近く前、シベリアで歌っていたという男性の歌が吹き込まれ、歌詞にそえられていたのは吉田正の名前だった。終戦直後、吉田正は3年の長きに渡ってシベリアに抑留されれいたが、シベリアでの体験やそこで歌を作っていたことは生前ほ語っていなかった。シベリア抑留では57万人を超える日本人が拘束され、少なくとも5万5000人が命を落とした。
レコード会社にカセットテープを送ったのは秋田県八郎潟町に住む北嶋鉄之助(89歳)、70年近く前にシベリアで聞いた歌を克明に覚えていた。昭和20年、旧満州の歩兵部隊に配属された北嶋は、終戦後すぐにシベリアに送られ3年間に及ぶ過酷な抑留生活を耐えた。いつ帰国できるかも分からず、収容所を転々とする日々。ある時、別の収容所から来た抑留者たちが口にした歌を耳にした。吉田正という抑留者が作った歌だと聞かされた。家族にすらシベリアでの体験を話したことがなかった北嶋は85歳を超え、命をつないでくれた歌を後世に残したいと思うようになったと言う。
テープを受け取ったレコード会社の谷田郷士(75歳)は吉田正の担当ディレクターを長くつとめた。「帰還の日まで」と題された歌が吉田の歌だという決め手になったのは、その旋律だった。旋律が昭和24年に作られた「異国の月」と酷似していたのです。谷田は吉田から「シベリアで歌を作ったか忘れてしまった」と聞かされたことがあったが、吉田の思いつめた表情に、それ以上聞くことは出来なかったと言う。
顔も知らない吉田の歌に励まされシベリアから生還した北嶋は、農業や干拓地の整備の仕事をしながら3人の子供を育てた。仕事の合間、シベリアで亡くなった仲間を思いながら一人で歌を歌い続けてきたと言うことだった。「いつでも夢を」が街にあふれていた時も、北嶋にとっての吉田の歌は「帰還の日まで」だった。
吉田は「私の歌を私の歌と知らないでみんなが歌っている、そんな光景に出会いたいものです。歌はいつか詠み人知らずになっていきます。そうして本当のいい歌は永遠の命を持つのではないでしょうか。私の作った曲の中からひとつでも詠み人知らずになり、それを聞く日を楽しみにこれからも作曲を続けたいと思います」と語っていた。吉田の戦時中からシベリア抑留時代を知る手がかりが、遺品を管理する事務所の倉庫から見つかった。それは身上申告書で、シベリアから復員した時、国に提出した文書です。
音楽家を夢見ていた吉田は昭和17年(1942年)に陸軍歩兵第2連隊に入隊。当時、満州に駐留していた関東軍の中でも最強といわれていた部隊で厳しい軍隊生活を送る。そして、終戦直後から3年に渡るシベリアでの抑留生活後、昭和23年8月に帰還。
日本人が抑留された最初の冬、シベリアは強烈な寒波に襲われ一冬で2万人以上の抑留者が命を落とした。吉田の抑留生活も常に死と隣り合わせだった。生き残った者も飢えに苦しみ、森の中で血眼になって食料を探した。終戦を満州で迎えた吉田は120kmの道のりを歩かされ、たどり着いたのは旧ソビエトの極東地クラスキー、アルチョーム、ウオロシロフ、ソフガワニ、スーチャン、ナホトカなど6ッ箇所もを移動した。収容される先々で森林伐採や石炭の採掘など、過酷な労働を強いられ、常に緊張を強いられ精神的にも疲れ果てて次々に仲間が亡くなった。
昭和22年、ソフガワニの収容所で吉田と一緒だった染谷鷹治(94歳)も「帰還の日まで」を覚えていた。さらに、吉田の作った7曲の歌も記憶していた。染谷は夕食時、重労働を終えたばかりの吉田が仲間たちに必死に歌を教えていた姿が忘れられないという。「生きるんだ生きるんだ」と合言葉にして皆を励ましていたと言う。吉田は、そんな仲間たちのために歌劇団も作って、衣装や楽器も仲間と手作りし、歌は抑留者たちを元気づけていった。
角田フサ江(89歳)は、夫(勘吾)が吉田と同じ旧満州に駐屯し、歩兵部隊に所属していた。吉田は体を壊した勘吾が日本に帰国できるように上官に働きかけてくれたと言う。夫が靴底におさめ戦地から持ち帰った手帳には、吉田が部隊にいた頃に作った歌が記されていた。昭和19年の秋、吉田が所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられた。日本軍約1万人余のうち、最後まで戦って生き残ったのは34人。吉田正さんは部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まったことによって生き残った。この年の8月、別の歩兵部隊に転属となるが、そこでも歌を作っていた。昭和20年8月13日、吉田は機関銃中隊の分隊長として出撃した。ソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻し、この戦いで日本軍将兵8万人以上が戦死したとされる。吉田も大腿部貫通など瀕死の重傷を負い、生死をさまよいながらまた生き残った。
吉田の遺品の中に、当時の心境をうかがえるものが残されていた。終戦から39年後に書かれていた手記だった。「私が生きる意味について考えるようになったのは、何時からだったろうか。昭和20年8月16日、国境の戦闘で傷つき、身動き出来ぬ塹壕の中で満点の星空を仰ぎ私は生きていると実感した日からです。あの日から作曲家として自分の道を歩いてきたつもりです」あまりに多くの戦友を失った吉田は歌に生きる希望を託そうと決意した。
昭和23年、スーチャンの収容所で一緒だった関谷空道さん(88歳)によると、この頃の収容所では帰還が近いという噂が出ては消えていたと言う。関谷もそのたびごとに日本へ帰ることを諦めかけたが、吉田が作った歌をずっと大切にしてきた。それは仲間と共に生きて帰還し、日本を自分たちの手で再建したいという吉田の夢を歌った「湧きたつ血潮」という歌だった。祖国再建の夢を歌った歌は仲間たちの心の支えになったからだ。そして帰国を果たすと、、故郷に住む家族6人全員が空襲で亡くなっていた。多くの死を背負い、吉田の作曲家としての戦後が始まった。吉田がシベリアで夢見た祖国の再建。希望や夢をのせた歌と歩調を合わせるように日本は復興を果たしていくのを見守った。過酷な体験を経て吉田が歌にたくした生きる希望。吉田正の歌は今も未来を照らし続けている。
日立市内のJR常磐線の各駅では、2005年(日立駅は10月6日、日立駅以外は11月1日)から発車メロディーに吉田の代表曲を使用している。
上り(全駅共通、ただし小木津駅と十王駅は音色違い):いつでも夢を(吉永小百合・橋幸夫)
下り 大甕駅:恋のメキシカン・ロック(橋幸夫)
常陸多賀駅:公園の手品師(フランク永井)
日立駅:寒い朝(吉永小百合)
小木津駅:明日は咲こう花咲こう(吉永小百合・三田明)
十王駅:若い港(三田明)
吉田正記念館が日立市宮田町5-2-25にある。
2014年08月19日
頤和園の石碑にみた欧州列強の中国侵略
頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区、北京大学に隣接する庭園公園。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。キャンパス住所:北京市海澱区頤和園路5号、地下鉄の路線:地下鉄4号線北京大学東門駅で降りて徒歩すぐ。北京大学へ「ちきゅうTALK」を30冊贈呈して、大変に喜ばれたことがあった。日中友好30周年の2002年だった。大学の隣に有名な庭園・頤和園があると聞いていたので、帰りに寄った。
1884年から1895年(光緒9年から10年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく、光緒帝の名により清漪園の再建が命令された。しかし経費の問題より修復は前山建築群に限定されたが、その造営は日本と軍事的緊張が高まり軍備増強の歳出を必要としていた清朝には大きな負担となった。しかし、北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用して、贅をつくし再建され庭園は頤和園と改称、西太后の離宮とされ、避暑に利用された。1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年(光緒28年)に修復されている。こうした国庫を圧迫する造園は、日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われた。
中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。
1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置された。その後に、江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。庭園内を歩いてみてみると、1860年、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった歴史についても書いてある石碑があった。つまり、中国の近代化の歴史の中でアヘン戦争によって中国が失った部分も多いのだ。反日に注力されるが、その前からの歴史的な観点で、ヨーロッパ列強と関わっていたことなど中国全体を見ようとする意識が中国国民には希薄ではないだろうか。
出典;
Wikipedia
1884年から1895年(光緒9年から10年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく、光緒帝の名により清漪園の再建が命令された。しかし経費の問題より修復は前山建築群に限定されたが、その造営は日本と軍事的緊張が高まり軍備増強の歳出を必要としていた清朝には大きな負担となった。しかし、北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用して、贅をつくし再建され庭園は頤和園と改称、西太后の離宮とされ、避暑に利用された。1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年(光緒28年)に修復されている。こうした国庫を圧迫する造園は、日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われた。
中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。
1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置された。その後に、江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。庭園内を歩いてみてみると、1860年、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった歴史についても書いてある石碑があった。つまり、中国の近代化の歴史の中でアヘン戦争によって中国が失った部分も多いのだ。反日に注力されるが、その前からの歴史的な観点で、ヨーロッパ列強と関わっていたことなど中国全体を見ようとする意識が中国国民には希薄ではないだろうか。
出典;
Wikipedia
2014年08月18日
27万人の満蒙開拓団と中国残留孤児の問題
〜中国残留孤児は、なぜ、このような運命に遭遇することになったのでしょうか〜
1931年、日本の関東軍が満州事変を起こし、満州(現在の中国東北部)を占領しました。翌32年から45年7月まで、「満蒙開拓団」と呼ばれる移民政策が展開され、27万にも及ぶ人たちが中国に渡りました。
45年8月、ソ連軍が、突然国境を越えて侵攻して来たため、彼らはソ連軍の蹂躙にさらされることになります。多くの人が避難する途中で力尽き、虐殺されました。「日本という国はもうなくなった」というデマが飛び交い、前途を悲観して集団自決をした人も多数います。守ってくれるはずの関東軍は、いち早く日本に帰還し、男性は招集されて戦地に赴任していたので、置き去りにされた移民のほとんどは老人と女性、子どもでした。
この混乱の中で、幼児を抱えた母親が、生きるために子どもを捨てたり、中国人に子どもを託したりする悲惨な状況が数限りなく起こったのです。
終戦直後から始まった中国からの集団引き揚げは、58年に打ち切りとなり、さらに59年、日本政府は、13,600人余りの未帰還者に対し「戦時死亡宣告」すら出してしまったのです。これにより、残留孤児は日本国籍を失い、その後の肉親捜しは非常に困難になりました。その後72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。
日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられ、永住帰国する人も増えてきました。
こうして九死に一生を得て、おおらかな中国人に育てられてきたのが「中国残留孤児」です。また、当時13歳以上の女性を「中国残留婦人」と呼んでいます。その中には生き残るために心ならずも中国人と結婚した人もいました。
72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。
日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられました。
一方で、帰国者は帰国を果たした後にも、さらなる苦しみに遭います。なじめない日本の生活状況も重なって、実に9割が全国15カ所で国家賠償訴訟を起こしました。しかし、先日大阪地裁は、帰国者が国家賠償を求めた訴訟で、「戦争損害は国民が等しく受忍すべきだ」として、国家支援義務を認めませんでした。
参照;
日中友好手をつなぐ会
http://www.avance-corp.com/hand/index.html
1931年、日本の関東軍が満州事変を起こし、満州(現在の中国東北部)を占領しました。翌32年から45年7月まで、「満蒙開拓団」と呼ばれる移民政策が展開され、27万にも及ぶ人たちが中国に渡りました。
45年8月、ソ連軍が、突然国境を越えて侵攻して来たため、彼らはソ連軍の蹂躙にさらされることになります。多くの人が避難する途中で力尽き、虐殺されました。「日本という国はもうなくなった」というデマが飛び交い、前途を悲観して集団自決をした人も多数います。守ってくれるはずの関東軍は、いち早く日本に帰還し、男性は招集されて戦地に赴任していたので、置き去りにされた移民のほとんどは老人と女性、子どもでした。
この混乱の中で、幼児を抱えた母親が、生きるために子どもを捨てたり、中国人に子どもを託したりする悲惨な状況が数限りなく起こったのです。
終戦直後から始まった中国からの集団引き揚げは、58年に打ち切りとなり、さらに59年、日本政府は、13,600人余りの未帰還者に対し「戦時死亡宣告」すら出してしまったのです。これにより、残留孤児は日本国籍を失い、その後の肉親捜しは非常に困難になりました。その後72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。
日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられ、永住帰国する人も増えてきました。
こうして九死に一生を得て、おおらかな中国人に育てられてきたのが「中国残留孤児」です。また、当時13歳以上の女性を「中国残留婦人」と呼んでいます。その中には生き残るために心ならずも中国人と結婚した人もいました。
72年に国交が正常化され事業が再開された後も、文革の最中とあって肉親探しはなかなか進みませんでした。
日本政府は、国交正常化後10年近く経った81年3月、メディアなどの協力のもとに中国残留孤児47人を肉親探しのために招きました。この様子が全国にTV放映されてから、こうした問題への日本社会の関心が急速に高まっていったのです。以後毎年、来日した中国残留孤児による肉親探しが重ねられました。
一方で、帰国者は帰国を果たした後にも、さらなる苦しみに遭います。なじめない日本の生活状況も重なって、実に9割が全国15カ所で国家賠償訴訟を起こしました。しかし、先日大阪地裁は、帰国者が国家賠償を求めた訴訟で、「戦争損害は国民が等しく受忍すべきだ」として、国家支援義務を認めませんでした。
参照;
日中友好手をつなぐ会
http://www.avance-corp.com/hand/index.html
2014年08月17日
日中合作ドラマ「大地の子」
動画で過去のTVドラマが視られる。戦争によって引き起こされる人々の苦しみ、悲しみを捉えたドラマ『大地の子』も今では、動画サイトで見ることが出来る。山崎豊子の小説で、中国残留孤児についてNHKがドラマ化、放映当時に日本中の感涙をさそった陸一心(りくいっしん)を主人公にした波乱万丈の物語だ。
当時は日中友好のムードが盛り上がろうとの機運であり、共同制作により3分の2が中国で、通算128日間という長期ロケを行った(ドラマ化され、1995年11月11日から12月23日まで放送)。日本では名作ドラマと日中友好への呼び水ともなったが、省略されていた40分が新たに加え、再編集したアンコール版が1996年3月11日から3月20日まで放送された(全11回)。また、中国側への配慮から、主人公が文化大革命中に受けた拷問や、主人公の妹が夫と姑から虐待される描写がカットされたり、一心の訪日時に彼を陥れる同僚にも言い分や立場があるようなフォローなど、全体的に原作よりもソフトに修正されている。中国では反日愛国教育に適わないこともあって一般に放映されず、一部でのみ評価を得るにとどまった。しかし、今後、こうした日本人の姿を動画などで知る中国人留学生も増えると思うので、日本への反日攻勢も少しずつ変わっていくと思うし、当然、日本人もこうした戦争によっておこった日中の人々の葛藤を知るべきだろう。
原作者の山崎豊子は、本作品を書くために、1984年から胡耀邦総書記に3回面会し、取材許可を取り、当時外国人に開放されていない農村地区をまわり300人以上の戦争孤児から取材した。山崎は「中国大陸のそこここで、自分が日本人であることも分からず、小学校にも行かせてもらえず牛馬の如く酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと・・・、私はこれまでの色々な取材をしましたが、泣きながら取材したのは初めてです。敗戦で置き去りにされた子どもたちが、その幼い背に大人たちの罪業を一身に背負わされて小日本鬼子(シアリーペンクイツ)日本帝国主義の民といじめられ耐えてきた事実、日本の現在の繁栄は戦争孤児の上に成り立っているものである事を知ってほしい。大地の子だけは私は命を懸けて書いてまいりました。」とも話している。
第一回のドラマの動画
<あらすじ>
信濃郷満州開拓団の長男・松本勝男は、日本の敗戦後、ソ連軍の攻撃などにより祖父と母を失い、妹とも生き別れになってしまう。父親は徴兵されており、勝男のいる満州にはいなかった。
過酷な体験のあまり、自分の身分や言葉など全ての記憶を失った勝男は、放浪中に人買いに捕まり、中国人農家に売られて酷使される日々を送ることになる。度重なる虐待に耐えかねて逃げ出したものの、再び人買いの手にかかり売られそうになった勝男を助けたのは、小学校教師の陸徳志(りくとくし)であった。子供のない陸徳志夫妻は勝男に一心という名を与え、貧しいながらも実の子のように愛情をこめて育てる。
優秀な青年に育った一心は大連にある大学に進学。恋人である趙丹青に日本人であるがゆえに別れを切り出される等差別を受けながらも、中国の発展のため尽くそうと決心する。しかし、彼の背後には文化大革命の嵐が押し寄せつつあった。やがて一心は、日本人であるという理由で槍玉に挙げられ、囚人として労働改造所に送られる。初めダム建設の苛酷な労働を強いられたが、黄河の氾濫により全て徒労に終わる。そして更に奥地の労改に送られ、そこで日本語を話す羊飼いの黄書海と知り合い、母国語である日本語を習得する。日本語というかすかな生きがいを見つけたのもつかの間、他の囚人の脱走幇助の冤罪を着せられ懲役刑が確定してしまう。更にふとした怪我から破傷風にかかり生命の危機にさらされるも後に妻となる江月梅に命を救われる。また彼女は匿名で徳志に音信不通となっていた一心の所在を知らせる手紙を送り、徳志ははじめて一心の置かれている悲惨な境遇を知るに至った。徳志の命がけの嘆願と、共産党幹部となった親友袁力本の奔走の甲斐あり釈放された一心は、労働改造所時代の命の恩人である看護師・江月梅と結婚、日中共同の一大プロジェクトである製鉄所建設チームの一員として働くことになる。
一方、中国に協力を要請された日本の東洋製鉄では、一心(勝男)の実父である松本耕次を上海事務所長に派遣する。松本はかつて自分の徴兵中に満州で消息を絶った妻子の行方を今も求め続けていた。苦労の末、ようやく一心の妹であるあつ子(中国名:張玉花)を見つけ出した松本だが、寒村の農家に嫁がされた彼女は過労の果てに病(脊椎カリエス)を得て、すでに死の床にあった。同じ頃、一心もまた唯一の肉親である妹を探し、村にたどりついていた。あつ子の死を契機に、間近にいながら親子とは気づかなかった一心と松本は、ここで初めて互いの関係を知り、確執を越えて数十年ぶりの再会を喜び合う。
その後、プロジェクトの一環で日本に出張した一心は、松本の家を訪れる。しかし、この訪問が原因で、一心はほどなくして以前から彼を快く思っていなかった同僚(趙丹青の夫)の策略により産業スパイとして告発され、プロジェクトから外された上に内蒙古の製鉄所へ左遷させられてしまう。初めは失意に暮れていた一心だったが、やがて製品の改良などを通じて内蒙古の仲間達と深い絆で結ばれる。
時を経て、丹青は一心を陥れた夫の策謀を知り、共産党幹部に告発。冤罪が解けた一心は再びプロジェクトに復帰、7年がかりで完成した製鉄所の高炉に火が入り、日中の参画者の心は一つになる。
プロジェクト終了後、一心は徳志の勧めで松本と父子水入らずの長江下りの旅行に出かける。雄大な長江を下る船の上で、松本は一心に日本へ来て一緒に暮らさないかと持ちかけた。日本の父と、中国の父。二人の父への愛情に一心の心は揺れ動くが、彼は苦悩の末、涙ながらに「私はこの大地の子です。」と答え、中国に残ることを決意することになるが、日中の家族に心が篤く繋がっているのを視聴者は涙して見守ったのである。
当時は日中友好のムードが盛り上がろうとの機運であり、共同制作により3分の2が中国で、通算128日間という長期ロケを行った(ドラマ化され、1995年11月11日から12月23日まで放送)。日本では名作ドラマと日中友好への呼び水ともなったが、省略されていた40分が新たに加え、再編集したアンコール版が1996年3月11日から3月20日まで放送された(全11回)。また、中国側への配慮から、主人公が文化大革命中に受けた拷問や、主人公の妹が夫と姑から虐待される描写がカットされたり、一心の訪日時に彼を陥れる同僚にも言い分や立場があるようなフォローなど、全体的に原作よりもソフトに修正されている。中国では反日愛国教育に適わないこともあって一般に放映されず、一部でのみ評価を得るにとどまった。しかし、今後、こうした日本人の姿を動画などで知る中国人留学生も増えると思うので、日本への反日攻勢も少しずつ変わっていくと思うし、当然、日本人もこうした戦争によっておこった日中の人々の葛藤を知るべきだろう。
原作者の山崎豊子は、本作品を書くために、1984年から胡耀邦総書記に3回面会し、取材許可を取り、当時外国人に開放されていない農村地区をまわり300人以上の戦争孤児から取材した。山崎は「中国大陸のそこここで、自分が日本人であることも分からず、小学校にも行かせてもらえず牛馬の如く酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと・・・、私はこれまでの色々な取材をしましたが、泣きながら取材したのは初めてです。敗戦で置き去りにされた子どもたちが、その幼い背に大人たちの罪業を一身に背負わされて小日本鬼子(シアリーペンクイツ)日本帝国主義の民といじめられ耐えてきた事実、日本の現在の繁栄は戦争孤児の上に成り立っているものである事を知ってほしい。大地の子だけは私は命を懸けて書いてまいりました。」とも話している。
第一回のドラマの動画
<あらすじ>
信濃郷満州開拓団の長男・松本勝男は、日本の敗戦後、ソ連軍の攻撃などにより祖父と母を失い、妹とも生き別れになってしまう。父親は徴兵されており、勝男のいる満州にはいなかった。
過酷な体験のあまり、自分の身分や言葉など全ての記憶を失った勝男は、放浪中に人買いに捕まり、中国人農家に売られて酷使される日々を送ることになる。度重なる虐待に耐えかねて逃げ出したものの、再び人買いの手にかかり売られそうになった勝男を助けたのは、小学校教師の陸徳志(りくとくし)であった。子供のない陸徳志夫妻は勝男に一心という名を与え、貧しいながらも実の子のように愛情をこめて育てる。
優秀な青年に育った一心は大連にある大学に進学。恋人である趙丹青に日本人であるがゆえに別れを切り出される等差別を受けながらも、中国の発展のため尽くそうと決心する。しかし、彼の背後には文化大革命の嵐が押し寄せつつあった。やがて一心は、日本人であるという理由で槍玉に挙げられ、囚人として労働改造所に送られる。初めダム建設の苛酷な労働を強いられたが、黄河の氾濫により全て徒労に終わる。そして更に奥地の労改に送られ、そこで日本語を話す羊飼いの黄書海と知り合い、母国語である日本語を習得する。日本語というかすかな生きがいを見つけたのもつかの間、他の囚人の脱走幇助の冤罪を着せられ懲役刑が確定してしまう。更にふとした怪我から破傷風にかかり生命の危機にさらされるも後に妻となる江月梅に命を救われる。また彼女は匿名で徳志に音信不通となっていた一心の所在を知らせる手紙を送り、徳志ははじめて一心の置かれている悲惨な境遇を知るに至った。徳志の命がけの嘆願と、共産党幹部となった親友袁力本の奔走の甲斐あり釈放された一心は、労働改造所時代の命の恩人である看護師・江月梅と結婚、日中共同の一大プロジェクトである製鉄所建設チームの一員として働くことになる。
一方、中国に協力を要請された日本の東洋製鉄では、一心(勝男)の実父である松本耕次を上海事務所長に派遣する。松本はかつて自分の徴兵中に満州で消息を絶った妻子の行方を今も求め続けていた。苦労の末、ようやく一心の妹であるあつ子(中国名:張玉花)を見つけ出した松本だが、寒村の農家に嫁がされた彼女は過労の果てに病(脊椎カリエス)を得て、すでに死の床にあった。同じ頃、一心もまた唯一の肉親である妹を探し、村にたどりついていた。あつ子の死を契機に、間近にいながら親子とは気づかなかった一心と松本は、ここで初めて互いの関係を知り、確執を越えて数十年ぶりの再会を喜び合う。
その後、プロジェクトの一環で日本に出張した一心は、松本の家を訪れる。しかし、この訪問が原因で、一心はほどなくして以前から彼を快く思っていなかった同僚(趙丹青の夫)の策略により産業スパイとして告発され、プロジェクトから外された上に内蒙古の製鉄所へ左遷させられてしまう。初めは失意に暮れていた一心だったが、やがて製品の改良などを通じて内蒙古の仲間達と深い絆で結ばれる。
時を経て、丹青は一心を陥れた夫の策謀を知り、共産党幹部に告発。冤罪が解けた一心は再びプロジェクトに復帰、7年がかりで完成した製鉄所の高炉に火が入り、日中の参画者の心は一つになる。
プロジェクト終了後、一心は徳志の勧めで松本と父子水入らずの長江下りの旅行に出かける。雄大な長江を下る船の上で、松本は一心に日本へ来て一緒に暮らさないかと持ちかけた。日本の父と、中国の父。二人の父への愛情に一心の心は揺れ動くが、彼は苦悩の末、涙ながらに「私はこの大地の子です。」と答え、中国に残ることを決意することになるが、日中の家族に心が篤く繋がっているのを視聴者は涙して見守ったのである。
2014年08月16日
我孫子市の平和事業へのとりくみ
夏に終戦記念日の慰霊祭が武道館で行われ、TVでは各局が戦争に関するドラマを夏休みの始まるころから放送していたのを覚えている人も多いのではないでしょうか。しかし、終戦60年を境に全国放送のキー局すべてが揃って終戦関連のドラマを8月15日前後に放送するということはなくなっています。大規模なドラマの撮影には当然それだけ莫大な経費がかかります。しかし、終戦記念などの特別な場合、局は採算を度外視してドラマを制作します。それがメディアとしての役割ですから。震災直後にCMをほとんど流さなかったというのと同じ理屈ですよね。そんなことに構っていては局の信用をなくしてしまいます。ただ、長く続いた不況下の今ではどこの局もできるだけ経費を抑えようとしたはずです。」(業界関係者)
その60周年終戦記念日を境に、我孫子では中学生の広島・長崎派遣を行うようになり、昨年からは各校代表2名ずつと派遣人数が倍になった。派遣の第一回には中学生と同行して広島にいったことがあるが、それも今年で、その派遣を始めて10回目になる。星野市長になってからは、市長も生徒たちに同行して広島での学びを共にしているし、私も議会と長年の案件にしていた我孫子市平和条例が制定になったのも市長が代わった年だったので、現市長の取り組みの篤いことには感謝を覚えている。
今朝早く、今回は知人ら、娘にも声をかけて第69回我孫子市平和記念式典に参列した。年々、被爆者の方たちのお姿は数が減っているけれど、その中からは生き証人として声を伝えていきたいとの意思が示された。来年は70周年、「今まで以上に力をいれてやりたい」との声は、大勢に流されない我孫子の姿があって、好ましいと思うところだった。
その60周年終戦記念日を境に、我孫子では中学生の広島・長崎派遣を行うようになり、昨年からは各校代表2名ずつと派遣人数が倍になった。派遣の第一回には中学生と同行して広島にいったことがあるが、それも今年で、その派遣を始めて10回目になる。星野市長になってからは、市長も生徒たちに同行して広島での学びを共にしているし、私も議会と長年の案件にしていた我孫子市平和条例が制定になったのも市長が代わった年だったので、現市長の取り組みの篤いことには感謝を覚えている。
今朝早く、今回は知人ら、娘にも声をかけて第69回我孫子市平和記念式典に参列した。年々、被爆者の方たちのお姿は数が減っているけれど、その中からは生き証人として声を伝えていきたいとの意思が示された。来年は70周年、「今まで以上に力をいれてやりたい」との声は、大勢に流されない我孫子の姿があって、好ましいと思うところだった。
2014年08月15日
中国共産党機関紙が、“異例”の反日ドラマ批判
日中の関係悪化となる要因には、尖閣諸島を含むの領海問題、日中戦争中の1937年(昭和12年)12月に起きた南京事件に関して、事件の存否、規模(誇大に表現されている場合があること)を論点とした論争、国政を預かる政治家の靖国参拝が取り上げられるたびに溝が大きくなる。
その一つの要因となる、南京大虐殺記念館に関しては、またいろいろな諸説があって、別の意味で気になっていた。それは、Wikipediaで「日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。」との驚愕の内容が記述されてあった。そもそもが、戦後のの中国では南京虐殺の事件があったかどうかすら認識がさほどはなかったが、日中も国交が回復されていない時期が長くあり、その後に日本のジャーナリストの取材で話が掘り起こされていくうちに、中国共産党の発表する南京での死者の数が莫大になっていく。そこへ、上記のような社会党と中国共産党の関係構築が密であったころに、社会党書記長からの申し出で、記念館創設の申し入れとその諸費用についてお金の流れが出来たとのことなのだ。
私は、ムルロア環礁での未臨界核実験への反対の声が世界から高まる中で、広島の原爆被爆者について関心を深めていた頃だったが、実は華僑ネットワークでは、原爆被爆者については中国での虐殺行為の数からすれば、当然の報いだとの書き込みが多くされていることを調査の中でしって、驚いた。実は、南京の虐殺数が30万人とも喧伝されて巨大な石碑までが立って反日愛国教育が続いていることを認識していなかったこともある。そこに、上記のような社会党云々の記述を見つけて、事実関係を確かめる方法はないものかと考えていた。しかし、昨年には社民党ビルの移転もされるとなると事実関係を記す記録もうやむやになるのではとと考えて、移転する前に確認しておこうとメールを出してみた。しかし、ナシの礫であった。
しかし、最近に改めてWikipediaを見直してみると、「(そういう)話が流布されているが、話の出所とされている浜田幸一『日本をダメにした九人の政治家』の中では実際にはそのような言及は一切なされておらず、現在までのところこの話が事実かどうかも話の出所もはっきりしていない。」と書き改められていたのに気付いた。私の質問のメールが読まれ、なんらかの気づきに繋がったのかもしれない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E7%B4%80%E5%BF%B5%E9%A4%A8
社会党がある時期、中国共産党や北朝鮮に人的な連絡の出来るパイプを持っていたのは知られているので、さもありなんとは思っても、田辺が浜田にどう話したかの実証はないという事なのだから闇の中である。もしも、当時の社会党員らが日本のした事に自責の念での申し入れのだったら、それを受けて中国共産党は逆に問題を拡大したのだとしたら、当初にあったことは日中関係の再構築ではなくて、互いの党の宣伝と強化にしかなっていなかったとなる。この辺のことの事実関係は、きっと研究者がなんらかの手がかりを探しだして、進めていってくれるよう、終戦の日に期待したい。
下記のような報道も多少とも改善の兆しになってほしい、一つなので紹介しておきたい。
・・・・・・・・・・・・・
15日の「終戦の日」を前に中国共産党の若手エリート組織の機関紙が、中国で大量に制作されている反日ドラマについて批判する異例の記事を掲載した。
14日付の中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」には、紙面全体に中国各地で制作されている反日ドラマの撮影シーンなどが掲載された。中には日本兵役の男性に子供が刀を向ける写真も。中国青年報は反日ドラマについて、「歴史を忘れた娯楽に成り下がっていて、若い世代が本当にあの歴史を認識しているのか心配させる」と論評。さらに「我々が日本側に歴史を忘れるなと批判するなら、自らの文化・歴史を遊び事にしてはならない」と、事実を逸脱してまで反日感情をあおる現状を戒めた。
中国青年報は共産党の若手エリートを養成する組織の機関紙で、中国国内に浸透している反日ドラマの状況を批判するのは異例のこと。
出典:
日本テレビ系(NNN) 8月14日(木)21時35分配信
その一つの要因となる、南京大虐殺記念館に関しては、またいろいろな諸説があって、別の意味で気になっていた。それは、Wikipediaで「日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。」との驚愕の内容が記述されてあった。そもそもが、戦後のの中国では南京虐殺の事件があったかどうかすら認識がさほどはなかったが、日中も国交が回復されていない時期が長くあり、その後に日本のジャーナリストの取材で話が掘り起こされていくうちに、中国共産党の発表する南京での死者の数が莫大になっていく。そこへ、上記のような社会党と中国共産党の関係構築が密であったころに、社会党書記長からの申し出で、記念館創設の申し入れとその諸費用についてお金の流れが出来たとのことなのだ。
私は、ムルロア環礁での未臨界核実験への反対の声が世界から高まる中で、広島の原爆被爆者について関心を深めていた頃だったが、実は華僑ネットワークでは、原爆被爆者については中国での虐殺行為の数からすれば、当然の報いだとの書き込みが多くされていることを調査の中でしって、驚いた。実は、南京の虐殺数が30万人とも喧伝されて巨大な石碑までが立って反日愛国教育が続いていることを認識していなかったこともある。そこに、上記のような社会党云々の記述を見つけて、事実関係を確かめる方法はないものかと考えていた。しかし、昨年には社民党ビルの移転もされるとなると事実関係を記す記録もうやむやになるのではとと考えて、移転する前に確認しておこうとメールを出してみた。しかし、ナシの礫であった。
しかし、最近に改めてWikipediaを見直してみると、「(そういう)話が流布されているが、話の出所とされている浜田幸一『日本をダメにした九人の政治家』の中では実際にはそのような言及は一切なされておらず、現在までのところこの話が事実かどうかも話の出所もはっきりしていない。」と書き改められていたのに気付いた。私の質問のメールが読まれ、なんらかの気づきに繋がったのかもしれない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E7%B4%80%E5%BF%B5%E9%A4%A8
社会党がある時期、中国共産党や北朝鮮に人的な連絡の出来るパイプを持っていたのは知られているので、さもありなんとは思っても、田辺が浜田にどう話したかの実証はないという事なのだから闇の中である。もしも、当時の社会党員らが日本のした事に自責の念での申し入れのだったら、それを受けて中国共産党は逆に問題を拡大したのだとしたら、当初にあったことは日中関係の再構築ではなくて、互いの党の宣伝と強化にしかなっていなかったとなる。この辺のことの事実関係は、きっと研究者がなんらかの手がかりを探しだして、進めていってくれるよう、終戦の日に期待したい。
下記のような報道も多少とも改善の兆しになってほしい、一つなので紹介しておきたい。
・・・・・・・・・・・・・
15日の「終戦の日」を前に中国共産党の若手エリート組織の機関紙が、中国で大量に制作されている反日ドラマについて批判する異例の記事を掲載した。
14日付の中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」には、紙面全体に中国各地で制作されている反日ドラマの撮影シーンなどが掲載された。中には日本兵役の男性に子供が刀を向ける写真も。中国青年報は反日ドラマについて、「歴史を忘れた娯楽に成り下がっていて、若い世代が本当にあの歴史を認識しているのか心配させる」と論評。さらに「我々が日本側に歴史を忘れるなと批判するなら、自らの文化・歴史を遊び事にしてはならない」と、事実を逸脱してまで反日感情をあおる現状を戒めた。
中国青年報は共産党の若手エリートを養成する組織の機関紙で、中国国内に浸透している反日ドラマの状況を批判するのは異例のこと。
出典:
日本テレビ系(NNN) 8月14日(木)21時35分配信
2014年08月14日
映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』
戦後69年目の夏になる間に日本は、戦地に兵士を送ることはなかった。しかし、その間にも世界各地で多くの紛争・戦争がおきて、日本が関わった戦争のそれ以上の人々が命を落としてきているのも現実としておきていた。その時代を告発する映画が、カンボジアの監督の手によってつくられ、話題になっている。
映画監督リティ・パニュは、幼少期にポル・ポト率いるクメール・ルージュによる粛清で最愛の父母や友人たちを失った。クメール・ルージュ(フランス語: Khmer Rouge、クメール語: ខ្មែរក្រហម、中国語:红色高棉)は、正式名称はカンボジア共産党で、かつて存在したカンボジアの政党。シハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称だ。その後、内戦時代を経て、他の共産党系勢力の名称との類似から混乱を避けるために指導者の氏名からポル・ポト派と言われた。
数百万人の市民がクメール・ルージュ支配下に虐殺され、奇跡的に収容所を脱出し映画監督になったリティ・パニュは「記憶は再生されるのか」というテーマを追求し、あの体験をいまに伝えることを自らに課してきた。2013年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉で上映、監督自らの過酷な人生を、土人形に託して描いた作品として絶賛されグランプリを受賞作『消えた画 クメール・ルージュの真実』。カンボジアの幸せな家庭に育ちながら、クメール・ルージュの支配により、たったひとり13歳でカンボジアを脱出するという、誰も経験したことのない人生を本作で初めて描いた。
「すべてのファシズムはウソから始まる」との言葉は、なぜ陰惨な歴史は繰り返されるのだろうかとの人類への問答である。リティ・パニュとフランス人作家、クリストフ・バタイユによって書かれたことばによって、犯罪と歴史の記憶を辿りながら、暴いていく。
冷戦が過熱する中で、中立主義をかかげるシハヌークの統治体制にかげりが見られ、ロン・ノルら体制内の右派勢力が台頭してくる。1970年3月18日、シハヌークの外遊中を狙い、米国を後ろ盾としたロン・ノルがクーデタを起こした。ロン・ノルの統治下、カンボジアは汚職による政治腐敗、内戦による国土の疲弊に苦しんだ。農村部ではベトナム戦争の余波による米軍の空爆によって村々は破壊され、反米反政府の立場からクメール・ルージュに参加する人々が増えた。特に若者の参加が急増した。都市は農村部からの避難民であふれかえった。クメール・ルージュは解放区を徐々に拡大し、ロン・ノル政府の支配域は都市部に限定された。1975年4月17日、首都プノンペンが陥落し、クメール・ルージュが政権を握る。
クメール・ルージュが統治した民主カンプチア体制は、当時のカンボジアの人口約700万人の内、約150万人が犠牲になったとして、その被害規模の大きさから国際社会の耳目を集めてきた。ポル・ポトを筆頭とするカンプチア共産党中央委員会は、毛沢東主義に基づいた政策を実施し、カンボジア経済を停滞させた。知識人は排斥され、私的所有権はなく、様々な伝統文化が禁じられた。クメール・ルージュが都市部に入城すると、都市部にいた人々は、すぐに農村部へ強制移動させられた。この時に都市部から移住させられた人々は「新人民」と呼ばれ、多くが過酷な労働条件の地域に送られた。一方4月17日時点でクメール・ルージュの支配地域に住んでいた人々は「旧人民」と呼ばれ、新人民と比べて被害は小さかったと言われるが、被害の規模は管区ごとに異なっているために一概には言えない。農村部では、性別と年齢に応じて集団化が進められた。これらは共産党を母体とし、国家諸機関を包括する組織「オンカー(クメール語で組織という意)」によって担われた。「オンカー」は子どもスパイを配置するなど、人々の生活を監視した。各地に政治犯収容所が行政単位に応じて作られ、「内部の敵」に対する粛清を行った。「内部の敵」には旧体制関係者だけでなく、知識人や「オンカー」を裏切ったとみなされた一般人も含まれていた。「S21」と呼ばれる首都プノンペンにある最高位の政治犯収容所では、ポル・ポトの側近はもとより、クメール・ルージュに長年参加してきた古参革命家も、「裏切り者」として殺害された。対外的には、親中・反越政策をとり、中国から多額の軍事支援や経済支援を獲得した。ベトナムに対しては、政権獲得の直後から度々国境衝突を繰り返した。全国で内部粛清が横行し、各地でクメール・ルージュから離反する幹部が増えた。1979年1月7日、ポル・ポトらによる粛清から逃れるためベトナムに渡ったベトナム国境付近の東部管区出身者を中心とするカンプチア救国団結戦線とベトナム軍の進攻により、民主カンプチア体制は崩壊した。
体制崩壊後、国外退避を求める人々はタイ国境沿いの難民キャンプへ向かった。これらの人びとも含めたインドシナ難民の受け入れは世界中で行われた。日本も定住枠を徐々に拡大し、インドシナ難民の受け入れを2005年末まで継続した。
上映映画館 http://www.u-picc.com/kietae/theater.html
映画監督リティ・パニュは、幼少期にポル・ポト率いるクメール・ルージュによる粛清で最愛の父母や友人たちを失った。クメール・ルージュ(フランス語: Khmer Rouge、クメール語: ខ្មែរក្រហម、中国語:红色高棉)は、正式名称はカンボジア共産党で、かつて存在したカンボジアの政党。シハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称だ。その後、内戦時代を経て、他の共産党系勢力の名称との類似から混乱を避けるために指導者の氏名からポル・ポト派と言われた。
数百万人の市民がクメール・ルージュ支配下に虐殺され、奇跡的に収容所を脱出し映画監督になったリティ・パニュは「記憶は再生されるのか」というテーマを追求し、あの体験をいまに伝えることを自らに課してきた。2013年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉で上映、監督自らの過酷な人生を、土人形に託して描いた作品として絶賛されグランプリを受賞作『消えた画 クメール・ルージュの真実』。カンボジアの幸せな家庭に育ちながら、クメール・ルージュの支配により、たったひとり13歳でカンボジアを脱出するという、誰も経験したことのない人生を本作で初めて描いた。
「すべてのファシズムはウソから始まる」との言葉は、なぜ陰惨な歴史は繰り返されるのだろうかとの人類への問答である。リティ・パニュとフランス人作家、クリストフ・バタイユによって書かれたことばによって、犯罪と歴史の記憶を辿りながら、暴いていく。
冷戦が過熱する中で、中立主義をかかげるシハヌークの統治体制にかげりが見られ、ロン・ノルら体制内の右派勢力が台頭してくる。1970年3月18日、シハヌークの外遊中を狙い、米国を後ろ盾としたロン・ノルがクーデタを起こした。ロン・ノルの統治下、カンボジアは汚職による政治腐敗、内戦による国土の疲弊に苦しんだ。農村部ではベトナム戦争の余波による米軍の空爆によって村々は破壊され、反米反政府の立場からクメール・ルージュに参加する人々が増えた。特に若者の参加が急増した。都市は農村部からの避難民であふれかえった。クメール・ルージュは解放区を徐々に拡大し、ロン・ノル政府の支配域は都市部に限定された。1975年4月17日、首都プノンペンが陥落し、クメール・ルージュが政権を握る。
クメール・ルージュが統治した民主カンプチア体制は、当時のカンボジアの人口約700万人の内、約150万人が犠牲になったとして、その被害規模の大きさから国際社会の耳目を集めてきた。ポル・ポトを筆頭とするカンプチア共産党中央委員会は、毛沢東主義に基づいた政策を実施し、カンボジア経済を停滞させた。知識人は排斥され、私的所有権はなく、様々な伝統文化が禁じられた。クメール・ルージュが都市部に入城すると、都市部にいた人々は、すぐに農村部へ強制移動させられた。この時に都市部から移住させられた人々は「新人民」と呼ばれ、多くが過酷な労働条件の地域に送られた。一方4月17日時点でクメール・ルージュの支配地域に住んでいた人々は「旧人民」と呼ばれ、新人民と比べて被害は小さかったと言われるが、被害の規模は管区ごとに異なっているために一概には言えない。農村部では、性別と年齢に応じて集団化が進められた。これらは共産党を母体とし、国家諸機関を包括する組織「オンカー(クメール語で組織という意)」によって担われた。「オンカー」は子どもスパイを配置するなど、人々の生活を監視した。各地に政治犯収容所が行政単位に応じて作られ、「内部の敵」に対する粛清を行った。「内部の敵」には旧体制関係者だけでなく、知識人や「オンカー」を裏切ったとみなされた一般人も含まれていた。「S21」と呼ばれる首都プノンペンにある最高位の政治犯収容所では、ポル・ポトの側近はもとより、クメール・ルージュに長年参加してきた古参革命家も、「裏切り者」として殺害された。対外的には、親中・反越政策をとり、中国から多額の軍事支援や経済支援を獲得した。ベトナムに対しては、政権獲得の直後から度々国境衝突を繰り返した。全国で内部粛清が横行し、各地でクメール・ルージュから離反する幹部が増えた。1979年1月7日、ポル・ポトらによる粛清から逃れるためベトナムに渡ったベトナム国境付近の東部管区出身者を中心とするカンプチア救国団結戦線とベトナム軍の進攻により、民主カンプチア体制は崩壊した。
体制崩壊後、国外退避を求める人々はタイ国境沿いの難民キャンプへ向かった。これらの人びとも含めたインドシナ難民の受け入れは世界中で行われた。日本も定住枠を徐々に拡大し、インドシナ難民の受け入れを2005年末まで継続した。
上映映画館 http://www.u-picc.com/kietae/theater.html
2014年08月13日
8月15日に向けて
2007年、アメリカ議会で開かれていた従軍慰安婦関係の公聴会について、米国人知日家のマイケル・グリーン氏(元米国国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長)は「米議会がこの問題に関与するのは大きな間違い」であり「反日、反米、親北朝鮮の民間活動団体(NGO)などが絡んでいる」ことを指摘しつつ、慰安婦問題自体は「歴史家に任せるべき」であり、「日米とも政治家がこの問題に関与すれば国益を損なう」と断じています。さらに、「強制性があろうとなかろうと、被害者の経験は悲劇で、現在の感性では誰もが同情を禁じ得ない。強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判が良くなるという話ではない」のであり、本質的には「慰安婦問題で同情されるのは被害者女性だけで、日本が政治的に勝利することはない」ともいっています。まさに正論でしょう。
この問題は政治問題化させるのではなく、両国、または第三国の歴史学者を加えて真摯な事実検証にゆだね解決していくべきでしょう。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
マイケル・グリーン氏に聞く 「慰安婦」歴史家に任せよ
-2007年3月4日付けの読売新聞4面より当該部分を抜粋-
(中略)
−−−米下院では、民主党のマイケル・ホンダ議員らが慰安婦問題で日本に公式な謝罪を求める決議案を提出し、外交委員会の小委員会で公聴会が行われた。
「米議会がこの問題に関与するのは大きな間違いだ。特に外交委員会は、北朝鮮の人権侵害、台頭する中国の挑戦など、対応すべき問題が山積している」
−−−日本政府は公式に謝罪しているにもかかわらず、決議が繰り返し米議会に提出されるのは、なぜか。
「韓国系の住民の多いカリフォルニア州出身議員らが推進しているからだ。反日、反米、親北朝鮮の民間活動団体(NGO)などが絡んでいることもある」
−−−自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が河野官房長官談話の見直しを議論しているのをどう受け止めるか。
「仮に決議案が採択されたとしても、米国の日米同盟に関する政策に与える影響はゼロだ。米メディアの報道も今のところ低調だ。しかし、日本が反発すれば事態は悪化する。共和党や民主党の一部議員が、決議案の問題点に気づき、修正や廃案をめざして動き始めたが、日本の政治家が反発すると収拾が難しくなる。日米とも政治家がこの問題に関与すれば国益を損なう。歴史家に任せるべきだ」
−−−安倍首相は「(旧日本軍の)強制性を裏付ける証拠は無かったのは事実だ」と発言している。
「安倍政権の外交政策、特に国連での対北朝鮮制裁決議採択や、中韓との関係改善に向けた首相の指導力は、ワシントンでも高く評価されている。ただ、慰安婦問題は、高いレベルが政治介入すればかえって複雑化する。強制性があろうとなかろうと、被害者の経験は悲劇で、現在の感性では誰もが同情を禁じ得ない。強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判が良くなるという話ではない」
−−−昨秋、下院で開かれた公聴会で靖国神社問題について証言し、日本の立場に理解を示したが、この問題では批判的なのか。
「慰安婦問題で議会に呼ばれたら、残念ながら日本を擁護できない。靖国問題と慰安婦問題は違う。どの国にも戦争で亡くなった英霊に敬意を表す権利があり、中国に介入する権利はない。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』がヒットしたのは、米国人だけでなく日本人の犠牲者に対する同情を呼んだからだ。しかし、慰安婦問題で同情されるのは被害者女性だけで、日本が政治的に勝利することはない」
上記について、2007年3月19日付けの各紙が、社説でこれを一斉に取り上げています。
民主政権末期の2011年12月、当時の野田首相との日韓首脳会談において、李明博大統領は旧日本軍の従軍慰安婦問題を集中的にとりあげ、日本側に優先的な解決を求めるという継続的な問題の要素でした。 会談では首相は「わが国の法的立場は決着済み」としながら、「これからも人道的見地から知恵を絞ろう」と応じたことに対し、日本の新聞各紙の評価は賛否が割れていました。つまり、取り組んでも埒があかな、場合によっては険悪化する、誤解の上塗りになるようなことだったのです。
ことここまで来てしまった以上は、日韓の歴史問題をまずは、両国の学術的研究レベルで協力し、真摯に検証してしかるべきではないか。8月15日は日本の終戦記念日であると共に、韓国では独立記念日であった。
私自身、このことに気づいたのは米国に短期留学していた際に、授業で自分の国について発表するということが課題になって、「韓国は8月15日が独立記念日」と言う話を聞いた時だった。どこから、独立したのだろうと考えて我に返った、そんなことも思いもよらない日本人だったこと足を踏んだ方は痛くないが、踏まれた方は「スミマセン」の一言がない場合はたまらなく不愉快であるというのは事実だった。
参考HP:http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20111219/1324269081
この問題は政治問題化させるのではなく、両国、または第三国の歴史学者を加えて真摯な事実検証にゆだね解決していくべきでしょう。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
マイケル・グリーン氏に聞く 「慰安婦」歴史家に任せよ
-2007年3月4日付けの読売新聞4面より当該部分を抜粋-
(中略)
−−−米下院では、民主党のマイケル・ホンダ議員らが慰安婦問題で日本に公式な謝罪を求める決議案を提出し、外交委員会の小委員会で公聴会が行われた。
「米議会がこの問題に関与するのは大きな間違いだ。特に外交委員会は、北朝鮮の人権侵害、台頭する中国の挑戦など、対応すべき問題が山積している」
−−−日本政府は公式に謝罪しているにもかかわらず、決議が繰り返し米議会に提出されるのは、なぜか。
「韓国系の住民の多いカリフォルニア州出身議員らが推進しているからだ。反日、反米、親北朝鮮の民間活動団体(NGO)などが絡んでいることもある」
−−−自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が河野官房長官談話の見直しを議論しているのをどう受け止めるか。
「仮に決議案が採択されたとしても、米国の日米同盟に関する政策に与える影響はゼロだ。米メディアの報道も今のところ低調だ。しかし、日本が反発すれば事態は悪化する。共和党や民主党の一部議員が、決議案の問題点に気づき、修正や廃案をめざして動き始めたが、日本の政治家が反発すると収拾が難しくなる。日米とも政治家がこの問題に関与すれば国益を損なう。歴史家に任せるべきだ」
−−−安倍首相は「(旧日本軍の)強制性を裏付ける証拠は無かったのは事実だ」と発言している。
「安倍政権の外交政策、特に国連での対北朝鮮制裁決議採択や、中韓との関係改善に向けた首相の指導力は、ワシントンでも高く評価されている。ただ、慰安婦問題は、高いレベルが政治介入すればかえって複雑化する。強制性があろうとなかろうと、被害者の経験は悲劇で、現在の感性では誰もが同情を禁じ得ない。強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判が良くなるという話ではない」
−−−昨秋、下院で開かれた公聴会で靖国神社問題について証言し、日本の立場に理解を示したが、この問題では批判的なのか。
「慰安婦問題で議会に呼ばれたら、残念ながら日本を擁護できない。靖国問題と慰安婦問題は違う。どの国にも戦争で亡くなった英霊に敬意を表す権利があり、中国に介入する権利はない。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』がヒットしたのは、米国人だけでなく日本人の犠牲者に対する同情を呼んだからだ。しかし、慰安婦問題で同情されるのは被害者女性だけで、日本が政治的に勝利することはない」
上記について、2007年3月19日付けの各紙が、社説でこれを一斉に取り上げています。
民主政権末期の2011年12月、当時の野田首相との日韓首脳会談において、李明博大統領は旧日本軍の従軍慰安婦問題を集中的にとりあげ、日本側に優先的な解決を求めるという継続的な問題の要素でした。 会談では首相は「わが国の法的立場は決着済み」としながら、「これからも人道的見地から知恵を絞ろう」と応じたことに対し、日本の新聞各紙の評価は賛否が割れていました。つまり、取り組んでも埒があかな、場合によっては険悪化する、誤解の上塗りになるようなことだったのです。
ことここまで来てしまった以上は、日韓の歴史問題をまずは、両国の学術的研究レベルで協力し、真摯に検証してしかるべきではないか。8月15日は日本の終戦記念日であると共に、韓国では独立記念日であった。
私自身、このことに気づいたのは米国に短期留学していた際に、授業で自分の国について発表するということが課題になって、「韓国は8月15日が独立記念日」と言う話を聞いた時だった。どこから、独立したのだろうと考えて我に返った、そんなことも思いもよらない日本人だったこと足を踏んだ方は痛くないが、踏まれた方は「スミマセン」の一言がない場合はたまらなく不愉快であるというのは事実だった。
参考HP:http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20111219/1324269081
2014年08月12日
福岡のネグレクト18年間監禁、 現実の多様な諸問題
NHKニュース845で、18年間監禁されて、学校へも通わせてもらえないネグレクトを受けて、実母の目を盗んで脱出したが、そのご9年たっても社会生活になじめないで苦しんでいる女性(仮名・ナミさん。福岡)が勇気をもって取材に応えている姿が報道された。学校にも通わせてもらえていなかったのだという。
ナミさんは母親のすきをついて、家から飛び出て保護されたが18際の発見時は身長130センチ、体重が28キロだったという。しかも、生まれてから18年間にわたって、わが子を家の中で監禁状態、母親は娘を小学校にも中学校にも通わせていなかった。学齢になったことで、福岡の教育委員会の把握によって、担任らはくりかえし家庭訪問するが、母親は、学校に行かせない理由を「障がいと、それにともなう症状があるため」と述べた。
明らかなことは、この虚偽の理由がプライバシーの壁と一つになって、18年年間、教員も教育委員会も、児童相談所の職員も、地域の民生委員も児童委員さえも誰ひとり、子どもの無事な姿をたったの一度も確認できないという異様な結果につながったということだ。現代日本の暗部で苦しむ子供たち、母親の抱える問題の氷山の一角ではないか。ニュースをみていて救いだったのは、福岡の職員らがネグレクトを発見できずにナミさんには申し訳なかったと行政の責務が果たせていなかったとの反省の表情と、ナミさんが伏し目がちながらも自分の意思でしっかりと話をしていることだった。逃げ出すことで、親から殺されるかもしれないとの恐怖の中で暮らしていたと言う。教育を受ける機会がなかったにも関わらず、しっかりと自分をもって受け答えしているのが却って驚きなくらいだが、彼女が大学にも進学していたら、聡明な心優しい学者にもなる可能性があるのにと感じさせる。人生の中でも最も大事な18年間を母親によって奪われた喪失感、彼女はそれを恨む言葉を母親に発することはなかった。どうして、このような事が放置されてきたのか、さらに調査をして、一人でも子供たちを救うべきだ。
今年、日本テレビの連続ドラマ「明日、ママがいない」という番組に放送すべきでないと批判に挙がって、CMスポンサーが降りてしまい、テレビ局が民間CMなしで放映の意思を貫いて9話を放送、その放送姿勢に賞讃の声がもたらされたことがあった。熊本の赤ちゃんポストにヒントを得た物語なので、まずはそのに預けられた経緯を持つ、ポストという渾名を自ら名乗っている主人公を名子役の浅田愛菜が演じ話題になった。
一般家庭の子供だけではなく、児童養護施設へ入所する前に家庭で虐待を受けた子供の、傷ついた心のケアの問題にもなるからだ。虐待を受けた中には、トラウマ(心的外傷)の影響から脱却できないケースがあります。友達が冗談で投げかけた「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などの言葉も、虐待を受けた子どもの心には刃物のように突き刺さり、フラッシュバックの引き金になりかねない、面白さを狙っただけの心ない番組であってはならないと、全国児童養護施設協議会は放送以前から内容を問題視し、12月に内容変更の申し入れをしたという。身体的虐待、ネグレクト(育児放棄)、性的虐待、心理的虐待の形で子どもを襲います。何も分からない子供たちが、大人の想像を絶するストレスを受けている現実があるが当事者でなければ気が付かない。子供は、誰に助けを求めていいのか分かりません。 家庭で恐怖と絶望を味わえば、ストレスに耐える力の弱い子供なら、なおさらです。精神が崩壊するとともに、後々に深いダメージが残ってしまいがちだ。弱者である子供に目を向けて、手を尽くすのは社会の責任だ。
そして、イラクでの爆撃のしたで、子供とともに避難できた母親たちが涙ながらに訴えるシーンが同番組で報道された。自分での国の事ではないけれど、皆でよい方向を考える必要があるのだけは間違いない。
ナミさんは母親のすきをついて、家から飛び出て保護されたが18際の発見時は身長130センチ、体重が28キロだったという。しかも、生まれてから18年間にわたって、わが子を家の中で監禁状態、母親は娘を小学校にも中学校にも通わせていなかった。学齢になったことで、福岡の教育委員会の把握によって、担任らはくりかえし家庭訪問するが、母親は、学校に行かせない理由を「障がいと、それにともなう症状があるため」と述べた。
明らかなことは、この虚偽の理由がプライバシーの壁と一つになって、18年年間、教員も教育委員会も、児童相談所の職員も、地域の民生委員も児童委員さえも誰ひとり、子どもの無事な姿をたったの一度も確認できないという異様な結果につながったということだ。現代日本の暗部で苦しむ子供たち、母親の抱える問題の氷山の一角ではないか。ニュースをみていて救いだったのは、福岡の職員らがネグレクトを発見できずにナミさんには申し訳なかったと行政の責務が果たせていなかったとの反省の表情と、ナミさんが伏し目がちながらも自分の意思でしっかりと話をしていることだった。逃げ出すことで、親から殺されるかもしれないとの恐怖の中で暮らしていたと言う。教育を受ける機会がなかったにも関わらず、しっかりと自分をもって受け答えしているのが却って驚きなくらいだが、彼女が大学にも進学していたら、聡明な心優しい学者にもなる可能性があるのにと感じさせる。人生の中でも最も大事な18年間を母親によって奪われた喪失感、彼女はそれを恨む言葉を母親に発することはなかった。どうして、このような事が放置されてきたのか、さらに調査をして、一人でも子供たちを救うべきだ。
今年、日本テレビの連続ドラマ「明日、ママがいない」という番組に放送すべきでないと批判に挙がって、CMスポンサーが降りてしまい、テレビ局が民間CMなしで放映の意思を貫いて9話を放送、その放送姿勢に賞讃の声がもたらされたことがあった。熊本の赤ちゃんポストにヒントを得た物語なので、まずはそのに預けられた経緯を持つ、ポストという渾名を自ら名乗っている主人公を名子役の浅田愛菜が演じ話題になった。
一般家庭の子供だけではなく、児童養護施設へ入所する前に家庭で虐待を受けた子供の、傷ついた心のケアの問題にもなるからだ。虐待を受けた中には、トラウマ(心的外傷)の影響から脱却できないケースがあります。友達が冗談で投げかけた「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などの言葉も、虐待を受けた子どもの心には刃物のように突き刺さり、フラッシュバックの引き金になりかねない、面白さを狙っただけの心ない番組であってはならないと、全国児童養護施設協議会は放送以前から内容を問題視し、12月に内容変更の申し入れをしたという。身体的虐待、ネグレクト(育児放棄)、性的虐待、心理的虐待の形で子どもを襲います。何も分からない子供たちが、大人の想像を絶するストレスを受けている現実があるが当事者でなければ気が付かない。子供は、誰に助けを求めていいのか分かりません。 家庭で恐怖と絶望を味わえば、ストレスに耐える力の弱い子供なら、なおさらです。精神が崩壊するとともに、後々に深いダメージが残ってしまいがちだ。弱者である子供に目を向けて、手を尽くすのは社会の責任だ。
そして、イラクでの爆撃のしたで、子供とともに避難できた母親たちが涙ながらに訴えるシーンが同番組で報道された。自分での国の事ではないけれど、皆でよい方向を考える必要があるのだけは間違いない。
2014年08月11日
Sex Slaves から military sexual lavery、日本人弁護士らの影響も
8月10日フジテレビの「2001新報道」で、番組側は「朝日新聞が韓国・済州島で慰安婦を強制連行した」という吉田清治氏の証言をもとに報道し、32年後になって証言が「虚偽」だったとする検証記事を掲載した経緯を説明。その上で朝日が番組の取材に対して、長年にわたり報道を訂正してこなかった理由について朝日新聞は「答えは差し控える。理由は言えない」と回答した。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=kjl0X0TcQRs
そこでさらに、吉田証言をもとにした済州島で200人の女性を強制連行したとの事件の虚偽性について、番組はスタッフを派遣して取材した。こうしたことの事件の有無については地元新聞でも調べたこともあったというが、当時を知る地元の数人にきいても強制連行された島の女性がいるなら耳に入らないわけがないし、事件性は認められなかった。番組ではボタン工場で女性が働いていた女性を連行との話について取材を試みたが、それも現地の人々がありえない(ボタンをつくる作業は相当な力仕事で女性には到底無理と断言された)との断言するのを映し出したのだった。吉田証言に基づいて慰安婦問題が動き出してきた国連の勧告を受けるまでになった経緯も分かってきて、いざ国連文書などを見て真偽のほどを追ってみるというのは、一般にはできないが、この番組だけでも敗戦国の国民となった日本人の一人から韓国の女性を強制連行したとのフィクションを事実だと講演していたことから「歴史が作られた」というのは、驚きであった。戦争の引き起こす傷はより、弱者に大きいのはどの国においても起きるのだから、その経験をした被害者・加害者としての両国はこの関係を乗り越え未来を気づいて行かなくてはいけない、その為にしっかりと過去を見つめて前進していきたい。
吉田発言に基づいて、さらに韓国人慰安婦の対日補償請求運動を支援し、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO「国際教育開発」の代表として初の提起をおこない、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請するなどの積極的なロビー活動をしたのが、戸塚 悦朗(2003年まで弁護士)で、今日の慰安婦問題を国際的に提起し、こうした日韓の関係以外にも国際的に大きな影響をもたらしたとされる。
この背景は、吉田清司によって、済州島から従軍慰安婦を強制的に徴用したとの話が出てきた1992年に、日弁連は戸塚悦朗を海外調査特別委員に任命した。1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していく。
1993年5月小委員会で日本政府に対して、元慰安婦に対して個人補償を勧告するIEDの最終報告書が正式に採托され、日本政府に留意事項として通達された。1993年7月国連人権委員会の「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」で「戦時奴隷制問題」の特別報告者を任命する決議が採択され、スリランカのラディカ・クマーラスワーミーが特別報告官に任命された。日弁連による国連ロビー活動について当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたとている。その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され、そのことから1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual lavery)」と明記される。
この報告書に関して、済州島での調査を行った秦郁彦元千葉大学教授は、クマラスワミ報告書には事実誤認が甚だしい評している。アジア女性基金理事の大沼保昭東京大学名誉教授も、慰安婦問題の部分について「学問的に水準が低く、信頼できない情報源に依存している。法的な議論にも問題点がある」と総評している。クマラスワミの訪問を受け、持論が採用された吉見義明は「一部に事実誤認があるがその点を修正すればしっかりした報告書である」と評価をした(ただし、後に「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めた)。
1993年5月国連人権委員会で日本政府に対して、元慰安婦に対して個人補償を勧告するIEDの最終報告書が正式に採托され、日本政府に留意事項として通達された。この時期日本政府はアジア女性基金を設置し元慰安婦個人への補償を行う方針を決めていたが、アジア女性基金の理事大沼保昭と運営審議会委員横田洋三は、日本の新聞やNGOは、国連の報告書は国連人権委員会の審議をするための材料であり、国連の立場を示すものではないことを理解した上で、外圧のために報告書の意図を捻じ曲げた報道をしていると批判している。
1994年国連人権委員会の「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」で「戦時奴隷制問題」の特別報告者にリンダ・チャペス委員が任命され、その後マクドゥーガル委員に代わった。
1995年4月の現代奴隷制作業部会は「第二次世界大戦中に性奴隷とされた女性の問題に関して」初めて日本政府を名指しし、行政的審査会設置による解決を勧告した。1995年8月国連人権小委員会はこの勧告を受け入れる決議をしている。この段階で「軍隊による性奴隷」が日本の問題であることが国連決議となった。
アジア女性基金がその寄付金の分配(慰安婦の名乗りでた女性たちを支援する団体が、日本の民間基金からでは受け取りを拒否するとした)などの終了にあたって、2004年にまとめた「「慰安婦」問題とアジア女性基金」によれば、慰安所を等しくレイプセンターと呼び、慰安婦20万のうち14万人以上の朝鮮人慰安婦が死亡したという内容は根拠がないとしている。(『「慰安婦」問題とアジア女性基金』参照)。
戸塚弁護士らの政治的活動は日弁連内部から目的外・職務外行為であるとして批判され、戸塚弁護士は1998年には日弁連から解嘱された。
こうした経過をみてみても、真実をどこに求めるのか疑問になってくる。教科書問題にも発展し、日本の教科書では事実としての記載をするかいなか紛糾し、またそのことで教育委員会を始め社会一般にも波紋をなげかけ、日韓の問題を複雑険悪化させた。嫌韓、反日を煽った
どの地域でも戦争・地域紛争によって、性的被害、虐待、殺傷を受ける女性たちが昔もそして現在も多い。こうしたことを未然に防ぐためにも戦争の防止にむけて一致協力していくようになることが重要なのだとおもうが、話は強力よりも批難ばかりが強くなる傾向にある。これを乗り越えるアジアの知恵を示すことをしなくてはならない、そのヒントは柳宗悦の思想の中にあるのではないかと、心ある人たちと研究をしている。皆さまにも加わって頂きたく呼びかけようと思う、我孫子来訪から100年の夏です。
国連報告書などの出典:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%9F%E5%A0%B1%E5%91%8A
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=kjl0X0TcQRs
そこでさらに、吉田証言をもとにした済州島で200人の女性を強制連行したとの事件の虚偽性について、番組はスタッフを派遣して取材した。こうしたことの事件の有無については地元新聞でも調べたこともあったというが、当時を知る地元の数人にきいても強制連行された島の女性がいるなら耳に入らないわけがないし、事件性は認められなかった。番組ではボタン工場で女性が働いていた女性を連行との話について取材を試みたが、それも現地の人々がありえない(ボタンをつくる作業は相当な力仕事で女性には到底無理と断言された)との断言するのを映し出したのだった。吉田証言に基づいて慰安婦問題が動き出してきた国連の勧告を受けるまでになった経緯も分かってきて、いざ国連文書などを見て真偽のほどを追ってみるというのは、一般にはできないが、この番組だけでも敗戦国の国民となった日本人の一人から韓国の女性を強制連行したとのフィクションを事実だと講演していたことから「歴史が作られた」というのは、驚きであった。戦争の引き起こす傷はより、弱者に大きいのはどの国においても起きるのだから、その経験をした被害者・加害者としての両国はこの関係を乗り越え未来を気づいて行かなくてはいけない、その為にしっかりと過去を見つめて前進していきたい。
吉田発言に基づいて、さらに韓国人慰安婦の対日補償請求運動を支援し、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO「国際教育開発」の代表として初の提起をおこない、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請するなどの積極的なロビー活動をしたのが、戸塚 悦朗(2003年まで弁護士)で、今日の慰安婦問題を国際的に提起し、こうした日韓の関係以外にも国際的に大きな影響をもたらしたとされる。
この背景は、吉田清司によって、済州島から従軍慰安婦を強制的に徴用したとの話が出てきた1992年に、日弁連は戸塚悦朗を海外調査特別委員に任命した。1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していく。
1993年5月小委員会で日本政府に対して、元慰安婦に対して個人補償を勧告するIEDの最終報告書が正式に採托され、日本政府に留意事項として通達された。1993年7月国連人権委員会の「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」で「戦時奴隷制問題」の特別報告者を任命する決議が採択され、スリランカのラディカ・クマーラスワーミーが特別報告官に任命された。日弁連による国連ロビー活動について当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたとている。その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され、そのことから1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual lavery)」と明記される。
この報告書に関して、済州島での調査を行った秦郁彦元千葉大学教授は、クマラスワミ報告書には事実誤認が甚だしい評している。アジア女性基金理事の大沼保昭東京大学名誉教授も、慰安婦問題の部分について「学問的に水準が低く、信頼できない情報源に依存している。法的な議論にも問題点がある」と総評している。クマラスワミの訪問を受け、持論が採用された吉見義明は「一部に事実誤認があるがその点を修正すればしっかりした報告書である」と評価をした(ただし、後に「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めた)。
1993年5月国連人権委員会で日本政府に対して、元慰安婦に対して個人補償を勧告するIEDの最終報告書が正式に採托され、日本政府に留意事項として通達された。この時期日本政府はアジア女性基金を設置し元慰安婦個人への補償を行う方針を決めていたが、アジア女性基金の理事大沼保昭と運営審議会委員横田洋三は、日本の新聞やNGOは、国連の報告書は国連人権委員会の審議をするための材料であり、国連の立場を示すものではないことを理解した上で、外圧のために報告書の意図を捻じ曲げた報道をしていると批判している。
1994年国連人権委員会の「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」で「戦時奴隷制問題」の特別報告者にリンダ・チャペス委員が任命され、その後マクドゥーガル委員に代わった。
1995年4月の現代奴隷制作業部会は「第二次世界大戦中に性奴隷とされた女性の問題に関して」初めて日本政府を名指しし、行政的審査会設置による解決を勧告した。1995年8月国連人権小委員会はこの勧告を受け入れる決議をしている。この段階で「軍隊による性奴隷」が日本の問題であることが国連決議となった。
アジア女性基金がその寄付金の分配(慰安婦の名乗りでた女性たちを支援する団体が、日本の民間基金からでは受け取りを拒否するとした)などの終了にあたって、2004年にまとめた「「慰安婦」問題とアジア女性基金」によれば、慰安所を等しくレイプセンターと呼び、慰安婦20万のうち14万人以上の朝鮮人慰安婦が死亡したという内容は根拠がないとしている。(『「慰安婦」問題とアジア女性基金』参照)。
戸塚弁護士らの政治的活動は日弁連内部から目的外・職務外行為であるとして批判され、戸塚弁護士は1998年には日弁連から解嘱された。
こうした経過をみてみても、真実をどこに求めるのか疑問になってくる。教科書問題にも発展し、日本の教科書では事実としての記載をするかいなか紛糾し、またそのことで教育委員会を始め社会一般にも波紋をなげかけ、日韓の問題を複雑険悪化させた。嫌韓、反日を煽った
どの地域でも戦争・地域紛争によって、性的被害、虐待、殺傷を受ける女性たちが昔もそして現在も多い。こうしたことを未然に防ぐためにも戦争の防止にむけて一致協力していくようになることが重要なのだとおもうが、話は強力よりも批難ばかりが強くなる傾向にある。これを乗り越えるアジアの知恵を示すことをしなくてはならない、そのヒントは柳宗悦の思想の中にあるのではないかと、心ある人たちと研究をしている。皆さまにも加わって頂きたく呼びかけようと思う、我孫子来訪から100年の夏です。
国連報告書などの出典:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%9F%E5%A0%B1%E5%91%8A
2014年08月10日
日本民藝協会夏期学校が我孫子で開催
9、10日の二日間でアビスタを中心に日本民藝協会夏期学校が開催された。民藝の言葉を作ったのは、柳宗悦であり、我孫子においては白樺文学館に関わる人物なので、勉強の為に参加した。三樹荘といわれる柳夫妻が新婚で住んだ場所(叔父・嘉納治五郎別荘の向い)へ転居した年から今年は100年目だと言う。
ところで、受験生の中で柳宗悦のことをどのていど知っているのだろうか。私自身も民藝の人と言う以外は知らなかった。我孫子に来て、新たな白樺の側面を知って、しかもその思想的中枢にいたのが柳宗悦であり、民芸活動を広める意図を理解した伴侶である兼子と共に日本のみならず世界の平和友好にも尽力したことをもっと日本人が知るべきだと実感してきた。
柳宗悦は民芸運動で名を残したが、活動の本領は宗教哲学者としてのスタートであり、そこに収れんしていったと考える。 欧米人に劣等感や被圧迫感を持たず、朝鮮人に対して優越感や支配者意識を持たない、戦前の日本人(今の日本人でも?)としては珍しい人物だった。
しかし柳は、西洋文明を否定していたのではない。それどころかわずか26歳で『ヰリアム・ブレーク』という英文学研究史上に残る作品を書き上げている。柳が朝鮮人に対して差別意識を持たなかったのは、朝鮮の工芸を美しいと感じ、それを産み出す人々を敬愛したからであった。特に三・一独立運動(万歳事件)(1919)について新聞に連載した『朝鮮人を想う』を見ても、柳が常に自分を朝鮮人の立場に置き換えて、日本の植民地政策に憤りを感じていたことが分かる。
この姿勢は、アイヌ文化や沖縄文化に対しても貫かれている。満州事変(1931)が勃発すると、沖縄やアイヌの人々に対する「ヤマト化政策」が強化されていった。柳は「他府県では行われない標準語奨励の運動を、なぜ沖縄でのみ行うのか。何か沖縄の言語を野蛮視しているのではないか。」とこれを批判し、日本国内の異質なものを尊重せよと主張した。
柳は東洋と西洋、中央と地方(方言の価値を含む)を対等に見ていた。『朝鮮人を想う』の連載の最後に、柳宗悦は次のように結んでいる。
「 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を罵り又御身等を苦める事があっても、彼等の中に此一文を草した者のゐる事を知ってほしい。否、余のみならず、余の愛する凡ての余の知友は同じ愛情を御身等に感じてゐる事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでゐないと云ふ明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい」
戦後69年にもなったが、この言葉と認識をもっと多くの日本人がはっきりと持ち、口にしていたなら、21世紀の今になってなお、日韓の教科書問題や従軍慰安婦問題にこじれずに残さずに済んだように思う。 この時期に日韓の歴史問題である従軍慰安婦のことが再炎しているが、偏らずに、未来志向に考えてもらいたい。
講師の志賀直邦氏、多胡吉郎氏と(9日)

手賀沼船上見学で、船戸の森の武者小路邸あたりを臨む(10日)

ところで、受験生の中で柳宗悦のことをどのていど知っているのだろうか。私自身も民藝の人と言う以外は知らなかった。我孫子に来て、新たな白樺の側面を知って、しかもその思想的中枢にいたのが柳宗悦であり、民芸活動を広める意図を理解した伴侶である兼子と共に日本のみならず世界の平和友好にも尽力したことをもっと日本人が知るべきだと実感してきた。
柳宗悦は民芸運動で名を残したが、活動の本領は宗教哲学者としてのスタートであり、そこに収れんしていったと考える。 欧米人に劣等感や被圧迫感を持たず、朝鮮人に対して優越感や支配者意識を持たない、戦前の日本人(今の日本人でも?)としては珍しい人物だった。
しかし柳は、西洋文明を否定していたのではない。それどころかわずか26歳で『ヰリアム・ブレーク』という英文学研究史上に残る作品を書き上げている。柳が朝鮮人に対して差別意識を持たなかったのは、朝鮮の工芸を美しいと感じ、それを産み出す人々を敬愛したからであった。特に三・一独立運動(万歳事件)(1919)について新聞に連載した『朝鮮人を想う』を見ても、柳が常に自分を朝鮮人の立場に置き換えて、日本の植民地政策に憤りを感じていたことが分かる。
この姿勢は、アイヌ文化や沖縄文化に対しても貫かれている。満州事変(1931)が勃発すると、沖縄やアイヌの人々に対する「ヤマト化政策」が強化されていった。柳は「他府県では行われない標準語奨励の運動を、なぜ沖縄でのみ行うのか。何か沖縄の言語を野蛮視しているのではないか。」とこれを批判し、日本国内の異質なものを尊重せよと主張した。
柳は東洋と西洋、中央と地方(方言の価値を含む)を対等に見ていた。『朝鮮人を想う』の連載の最後に、柳宗悦は次のように結んでいる。
「 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を罵り又御身等を苦める事があっても、彼等の中に此一文を草した者のゐる事を知ってほしい。否、余のみならず、余の愛する凡ての余の知友は同じ愛情を御身等に感じてゐる事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでゐないと云ふ明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい」
戦後69年にもなったが、この言葉と認識をもっと多くの日本人がはっきりと持ち、口にしていたなら、21世紀の今になってなお、日韓の教科書問題や従軍慰安婦問題にこじれずに残さずに済んだように思う。 この時期に日韓の歴史問題である従軍慰安婦のことが再炎しているが、偏らずに、未来志向に考えてもらいたい。
講師の志賀直邦氏、多胡吉郎氏と(9日)
手賀沼船上見学で、船戸の森の武者小路邸あたりを臨む(10日)
2014年08月09日
成功脳について
文明が進めば進むほど、女性は長生きする、その点のタフさも必要だ。
贅肉にならないよう、筋力だ!
支援してもらったら、支援費が膨張する
昔の女性はみんな腰がまがっていた、身を粉にして働いた
社会に対しても優しくタフでありたい。それはボランティアでももちろんいい。
そのためには、出歩くし、働くし、骨粗しょう症にならないよう
家族だけじゃなく人の為になろうと、考えること。
外に出ることが重要
あなたの中の目標に向かって動くこと
それは、介護保険料も減らす
自分だけ支えてもらう、動かないでいようではなく、
若い世代へ借金を背負わせるだけでは
尻つぼみの若い世代は荷が重い
苫米地英人著の『成功脳』(KKロングセラーズ)では、認知科学と機能脳科学の最新の研究成果をもとに脳のメカニズムを解明し、無意識のうちに夢を実現する方法やテクニックを痛快に解説している。新・自己実現プログラムだという「TPIE」の内容も公開した。 著者は、カーネギーメロン大学大学院で言語学の博士号を取得。脳機能学者、認知心理学者、分析哲学者で実業家でもある 。
そこで、 肉をたべよと説明する。
野菜ばっかりで、ダイエットをしてる人が多い。
うつの人も、野菜ばっかりが多い。
自殺する人って、肉を食べない人が多い。
「日本人が肉食したのは最近だ、明治になってからだ、その前はずっと米食た、穀菜食だった」って言うけど、その前は何だったの? 鴨とか、鶏、ウサギ、イノシシとか、鹿とか、
密猟してでも病気の母親に食べさせ、精をつけさせたいとか、そういう話があったのじゃないのか。
ウシみたいに大きいのは手がでないけど、イノシシとか、それこそ庭先でニワトリ飼って卵とって、手を合わせて、時には「いただきます」と口にいれていた。
いまみたいにストレスの多い社会で、野菜ばっかり食ってると、びくびくびくびくするようになる。
食べてるもので、違う。
もちろん肉ばっかり食べててもダメ。
肉も野菜も食べるの。バランスっていうのがあるから。
そこで、「狩りに行こうよ」って話になる。
生きていると、やりたくないことは多い。 嫌なことも山盛りある。
でも仕事だけはしなくちゃ生きられない。
だから、ひきこもってないで狩場にいこようね、という。
奥さんだけ働かしてるって、考えだけじゃだめ、夫だけ働かなきゃって、考えるのもダメだって。
レイモンド・チャンドラーの最後の作品『プレイバック』の中で、
主人公の私立探偵、フィリップ・マーロウがいうせりふは誰もが一度は聞いたことがある
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
だからストレスの多い現代は、タフでなければ生きていけない。
タフとは原始の時代の、「狩りをする能力」と考えてもいい。
長い人生では、時にだまされたり、いわれなき非難やはずかしめを受けることもある。
タフでなければ食われれてしまう。タフな人は太古の狩りをする人と同じように、危険を察知したり、自分の食い扶持を取ってくる、取ってきてもらうという、野生のサバイバル能力を持っている。
最近、そういえば確かにアンチエイジングに肉を食べていると言う人の話をきく。
肉食はコレステロールだと心配するけれど、バラスを考えていろいろ食することは大事なようで、肉を拒否するのは考えもの、卵も2,3個/一日とるほうが血管を強くするという。
善玉コレステロールは却って大事なのだと言うものだ。
この猛暑、暑さに負けないよう、兎も角、そうめんだけではいけませんよね。
私は、カテキンが粉砕されているという有機の粉末茶を茶筅で立てて、一服してます。
アーモンドとカカオたっぷりのチョコを一口。それと手作りギリシャヨーグルトにベリーソースを混ぜて。
ホエイプロテインの粉末を冷たいミルクにいれたり、バナナシェーキも美味しいし、体にいいです。
玄米と納豆、ゴーヤは夏でなくても手に入るようになりましたが、この時とばかりに楽しんでいます。
元気でいることこそで、いつか成功へつながる、そういう事ではないでしょうか。
くれぐれもご自愛ください。
贅肉にならないよう、筋力だ!
支援してもらったら、支援費が膨張する
昔の女性はみんな腰がまがっていた、身を粉にして働いた
社会に対しても優しくタフでありたい。それはボランティアでももちろんいい。
そのためには、出歩くし、働くし、骨粗しょう症にならないよう
家族だけじゃなく人の為になろうと、考えること。
外に出ることが重要
あなたの中の目標に向かって動くこと
それは、介護保険料も減らす
自分だけ支えてもらう、動かないでいようではなく、
若い世代へ借金を背負わせるだけでは
尻つぼみの若い世代は荷が重い
苫米地英人著の『成功脳』(KKロングセラーズ)では、認知科学と機能脳科学の最新の研究成果をもとに脳のメカニズムを解明し、無意識のうちに夢を実現する方法やテクニックを痛快に解説している。新・自己実現プログラムだという「TPIE」の内容も公開した。 著者は、カーネギーメロン大学大学院で言語学の博士号を取得。脳機能学者、認知心理学者、分析哲学者で実業家でもある 。
そこで、 肉をたべよと説明する。
野菜ばっかりで、ダイエットをしてる人が多い。
うつの人も、野菜ばっかりが多い。
自殺する人って、肉を食べない人が多い。
「日本人が肉食したのは最近だ、明治になってからだ、その前はずっと米食た、穀菜食だった」って言うけど、その前は何だったの? 鴨とか、鶏、ウサギ、イノシシとか、鹿とか、
密猟してでも病気の母親に食べさせ、精をつけさせたいとか、そういう話があったのじゃないのか。
ウシみたいに大きいのは手がでないけど、イノシシとか、それこそ庭先でニワトリ飼って卵とって、手を合わせて、時には「いただきます」と口にいれていた。
いまみたいにストレスの多い社会で、野菜ばっかり食ってると、びくびくびくびくするようになる。
食べてるもので、違う。
もちろん肉ばっかり食べててもダメ。
肉も野菜も食べるの。バランスっていうのがあるから。
そこで、「狩りに行こうよ」って話になる。
生きていると、やりたくないことは多い。 嫌なことも山盛りある。
でも仕事だけはしなくちゃ生きられない。
だから、ひきこもってないで狩場にいこようね、という。
奥さんだけ働かしてるって、考えだけじゃだめ、夫だけ働かなきゃって、考えるのもダメだって。
レイモンド・チャンドラーの最後の作品『プレイバック』の中で、
主人公の私立探偵、フィリップ・マーロウがいうせりふは誰もが一度は聞いたことがある
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
だからストレスの多い現代は、タフでなければ生きていけない。
タフとは原始の時代の、「狩りをする能力」と考えてもいい。
長い人生では、時にだまされたり、いわれなき非難やはずかしめを受けることもある。
タフでなければ食われれてしまう。タフな人は太古の狩りをする人と同じように、危険を察知したり、自分の食い扶持を取ってくる、取ってきてもらうという、野生のサバイバル能力を持っている。
最近、そういえば確かにアンチエイジングに肉を食べていると言う人の話をきく。
肉食はコレステロールだと心配するけれど、バラスを考えていろいろ食することは大事なようで、肉を拒否するのは考えもの、卵も2,3個/一日とるほうが血管を強くするという。
善玉コレステロールは却って大事なのだと言うものだ。
この猛暑、暑さに負けないよう、兎も角、そうめんだけではいけませんよね。
私は、カテキンが粉砕されているという有機の粉末茶を茶筅で立てて、一服してます。
アーモンドとカカオたっぷりのチョコを一口。それと手作りギリシャヨーグルトにベリーソースを混ぜて。
ホエイプロテインの粉末を冷たいミルクにいれたり、バナナシェーキも美味しいし、体にいいです。
玄米と納豆、ゴーヤは夏でなくても手に入るようになりましたが、この時とばかりに楽しんでいます。
元気でいることこそで、いつか成功へつながる、そういう事ではないでしょうか。
くれぐれもご自愛ください。
2014年08月08日
迷宮入りではいけない、深刻化した問題の解決は交流促進していくこと
「慰安婦問題」についは、1982年まで事実として認識されていなかったと西岡 力(にしおかつとむ。東京国際基督教大学教授・現代挑戦研究者。「救う会」会長)は書いています。
西岡は1982年から1984年までソウルに住んでいましたが、その時、吉田清治は韓国 のテレビに出演して、自分の戦争犯罪を謝ったりしていたのを見てはいましたが、それほ ど韓国では大きな問題になっていなかったと話しています。
整理しておくと、1983年に今日の「慰安婦問題」のきっかけとなる吉田清治という人が書いた 『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』という本が出ます。この中で、1943年に韓国の済州島で、日本の軍人が赤ん坊を抱いたお母さんや若い未婚の女性を狩り立 てトラックで連行したという、いま一般に流布している「強制連行」が初めて出てきました。吉田清治がテレビに出た後、街に出て知り合いの食堂の女の子たちと話をしました、女の子たちにあのテレビを見たかと訊ねたら見たと言う。そして、「我々韓国人にとっては謝ってくれてありがたいけれど、あの人は帰国して大丈夫なんですか?外国に来て自国の悪口を言ったらよくないでしょう?帰国したら袋叩 きに合うのではないか」と言っていました。
西岡は、それぞれの国がそれぞれに愛国心を持っているのだという、当時の韓国人には当たり前のバランス感覚があったのです。 戦争中を知っている韓国の年寄りは「慰安婦問題」で日本を責められると思っていないし、若い人たちも常識があるので日本にまで行って裁判を起こすというのはおかしいと思っていたのです。
1989年に吉田清治の本は韓国で翻訳出版され、これを読んだ韓国の済州新聞の女性記者がその本に出てくる日時と場所について現地取材をします。すると、吉田の証言は全くのデタラメであることが判明し、女性記者は吉田証言を全面的に否定する記事を書いています。
82年の第一次教科書問題の後、在日朝鮮人の指紋押捺の問題、韓国の大統領が 来日した際の天皇陛下の謝罪のお言葉の問題があり、そういう中で92年に宮沢 首相が訪韓することになりました。
その宮澤首相訪韓の二年前(1989)、大分県に住んでいる青柳敦子という一主婦が韓国に行って「原告募集」というビラをまきます。西岡は、この主婦に実際にも会うが、「強制連行された人たち、慰安婦だった人たち、日本を相手に裁判をしませんか。費用は全部私がもってあげます」という内容です。
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/77.html
その主婦は韓国では「原告」に出会えなかったのですが、帰国後、国際電話がか かってきて「やりたい」という人が出てきました。最初は徴用された人たちの遺族でした。しかし、徴用された人たちの遣族が裁判を始めたら、それをテレビで 見ていた元慰安婦の金学順というおばあさんが私も出たいと言ってきたのです。
一方で、韓国では全斗換政権以降、対日歴史糾弾外交を進める中で、十年間教育 を受けてきた人たちがいます。その人たちは日本の植民地時代について、事実を 知っている人からすればバランスを欠いた、まるで暗黒の時代であったかのような印象を持っている。そういう若者たちは、日本の軍隊が突然、村に現れて十代 の少女を強姦して連れていったというイメージをすんなり受け人れてしまいます 。
そういう中で、日本から火をつけたかたちでの裁判が始まり、慰安婦だったと名乗り出る金 学順が出てきたのです。 しかし、この金学順は四十円でキーセンに売られたと後にわかる(金学順の訴状には「十四歳の時に四十円でキーセンに売られた」と経緯が書いてある)。 つまり、「軍に強制的に連れて行かれた人」ではなかったのです。
ここで問題なのは、この金学順のことを最初に報道したのは朝日新聞だったということです。朝日新聞の植村隆記者が、世界初のスクープとして報じました 。
1991年8月11日付の朝日新聞(大阪版)は、金学順の名前はまだ出していませんが、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人が 」名乗り出たと報じたのです。
韓国の一番左派のハンギョレ新聞では、「生活が苦しくなった母親によって十四歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」と書いてあり ます。 植村記者は韓国語もできるので、当然、こういう事実を知っていたはずなのに、書かなかった。
さらに提訴後の記事の見出しには、「従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の『恨』提訴へ」、「問われる人権感覚 制度の枠超え真の補償を韓国人従軍慰安婦の提訴」と打ち、朝日新聞は「わずか 17歳で慰安婦にさせられた」という展開にしていきました。
最初の朝日新聞のスクープは、金学順が韓国で記者会見する三日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順も加わっている訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任という常任理事の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順の単独インタビューがとれたという事情です。
朝日新聞は、親に「身売り」された事実隠し、同じく朝日新聞の「慰安所への軍関与」という捏造記事という流れの中で、まず、当時の加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」を発表しました。1992年1月13日です。 そして、宮沢首相が17日に訪韓し、盧泰愚大統領に8回も謝りました。
その後、西岡 力は「文塾春秋」の取材で、外務省の北東アジア課の担当課に面会を求め、次のような重要な点を訊ねたということです。
「宮沢首相は、権力による強制連行があったということを認めて謝罪したのか。 それとも、当時、日本にもたくさんいた貧乏のために身売りされた人たちの悲劇 に対して謝ったのか。どちらなのか。」と。 すると、担当者は「それは、これから調べる」と言ったのです。
「では、吉田清治の証言については、外務省はどう思っているのか」と訊ねたら 、「これから調べることだけれども、加害者が嘘をつくことがありますかね」と 言う。
問題なのは、「これから調べる」ということについて、加藤官房長官、宮沢首相 が先に謝ってしまったということです。 韓国の一般の人たちは、大新聞である朝日新聞が報道し、テレビが毎日のように 報道し、日本の総理が韓国に來て謝ったわけですから、そんな事実があったと思ってしまう。年寄りの人たちが「慰安婦は問題にできない」と言っても、そちら のほうが説得力がなくなります。
こうした流れが作られて、韓国のテレビドラマでは、平和な村に憲兵など(憲兵というのは軍を取り締まる 役割ですから、なぜ憲兵なのかわからないが)が現れて十代の女性を強姦し、ジープに乗せてさらっていったという内容のものがドラマのシーンで演出されるようになりました。
他方、その当時、十二歳で慰安婦にさせられた人がいたと韓国の新聞が報道しました。 彼女は勤労挺身隊で日本に働きに来た人です。その彼女を送り出した教師が自分が送り出した子たちの何人かが終戦後、帰ってこないのでどうなったかと手紙を出して調べたら、京城に戻らないで田舎に行き全員無事だった。それを韓国の新聞が、「十二歳の少女も挺身隊に動員された」という記事にしたのです。題字はセンセーショナルに、印象付けられて想像をかき立て、事実から離れた想像の部分が色濃く刷り込まれていくようになります。
当時、韓国では「挺身隊」=「慰安婦」となってしまっていた。十二 歳の少女まで性奴隷にしていた、けしからん、と韓国人は怒らせたのです。
そこで、西岡 力は、その記事を書いた記者に会いに行って「あなたは勤労動員だと知っていたで しょう?なぜあなたの記事に勤労という言葉が一言もないのか」と聞いたら、彼 は「この問題には闇がある。だから私はこの問題はもう書かない」と言う。 その記者は「最初はけしからんと思って調べた。インタビューもたくさんした。すると、連れて行かれた後、ひどい目にあったという話は皆、たくさんする。しかし、どのように連れて行かれたのかという話になると、はっきりとしたことを言わない。よく聞いてみると女衒が絡んでいる。当時の朝鮮の農村に日本人が入れたと思いますか?」と言うのです。 記者は「だんだん調べていくうちに、戦争であれば起きるようなことなのだと思った」と言うのです。つまり、「慰安婦」に接見すると「強制」ではないことがわかってきたのです。
また、金学順というおばあさんがなぜ出てきたのか、ということにも盲点があります。日本のテレビ局が何度も金学順にインタビューした時に、日本語のわかる女性コーディネーターがつきました。 西岡はそのコーディネーターの女性に会って話を聞いたのですが、彼女が「おばあちゃん、なんで出てきたの?」と聞いたら、金は「寂しかったんや。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら、徴用された人が裁判を起こしたと報じられていたから、私も入るのかなと思った」と言ったそうです。
このようなおばあさんに接した高木健一弁護士は、その話を聞いているのですから、「あなたは当てはまりません。出ないほうがいいですよ」とかアドバイスしてあげるのが親切だったのではないでしょうか。相手は純粋な田舎のおばあさんです。何もわからない状態なのです。金学順は大変に率直な人だから、訴状にも「キーセンに四十円で売られた」と最初は書いているのです。
このような中で、西岡が『文藝春秋』でそのことを指摘した後は、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」と証言を変えたのです。
本当に韓国人女性のことを思っているのなら、日本から賠償をとれるかどうか本気で見てあげて、恥をさらさないようにしてあげるべきです。金学順のよう に、一度表に出てきてしまった人は、韓国社会にも偏見がありますから、そういう目で見られる。すると、出てきた人はとにかく「強制された」と言わざるを得なくなるのです。 自分の履歴を公開し、日本の反日運動家に利用され、批判され 、それによって証言を変えると嘘をついているんじゃないか、と言われる。西岡は朝日新聞に一番問いたいのはこの点だといいます。弱者の立場に立つと言いながら、女性の人権を守ろうというのではなく、弱者を貶めことをしたからです。
西岡が『文塾春秋」で書き、秦郁彦が済州島で取材をし、さまざまな事実が発掘されて、段々に朝日新聞が「強制」と主張する根拠がなくなっていきました。
◆韓国の調査によって、挺身隊と慰安婦の違いが明らかに
人間の記憶というの はいい加減なものです。聞き取り調査が事実を証明するためには裏付けが必要です。たとえば「挺身隊という制度で連行された」と彼女たちが言えば、「挺身隊というのはそういう制度ではありません」とか、「今は 挺身隊という言葉がありますが、当時はそういうふうには言っていなかったんじゃありませんか」と確認し、記憶を呼び起こしてもらわなければいけない。そういう聞き取り調査をしたのは、政府も含めて日本人にはいません。そこまで徹底した調査は韓国の学者がしていました。
韓国のソウル大学の韓国史学者として著名な安乗直教授(現名誉教授)がキャップ となって挺身隊研究会というプロジェクトができ、当時「慰安婦」として名乗り出ていた四十数人の人たちに本格的な聞き取り調査を行いました。 その後、安教授らは調査の結果を「証言集」として本にまとめますが、その中に こう書いています。
「調査を検討するにあたってとても難しかった点は、証言者の陳述が論理的に前と後ろが合わない場合がめずらしくなかったことだ。このような点は、すでに五十年近く前のことであって記憶の錯誤から来ることもありうるし、証言したくな いことを省略したり適当にまぜこぜにしたりすることから来ることもありうるし 、またその時代の事情が我々の想像を超越するものかもしれないという点もあった。
この中でも調査者たちをたいへん困難にさせたのは、証言者が意図的に事実を歪曲していると感じられるケースだ。我々はこのような場合に備えて、調査者一人一人が証言者に人間的に密接になることによってそのような困難を克服しようと努力し、大部分の場合に意図した通りの成果を上げはしたが、ある場合には調査を中断せざるを得ないケースもあった。このような場合は次の機会に再調査することを約束するしかなかった」
92年、93年に日本が謝罪している最中でも韓国の学者は、「意図的に(証言者が)事実を歪曲していると感じられるケース」があったと書いているのです。
これは四十人を対象にしている調査でしたが、本にまとめることができたのは十九人でしかなかった。半分以上の人はは辞退したのです。しかも、その中でも自分で「強制」だったと言っている人は四人です。よくきけば、四人のうち、一人は韓国の釜山で「強制」され、もう一人は日本の富山県で「強制」されたと言っている。戦地でない所に軍の「慰安所」はありませんから、それだけでこの証言が成立しないことがわかります。
後の一人は、日本政府を相手どった裁判で訴状を出しているのですが、訴状では いずれもキーセンなどとして「身売り」されたと書いている。つまり、過去の証言と違うことを、言っているのです。この二人の証言者のうち、一人は金学順です。
この「証言集」と日本政府が行った聞き取り調査とは、だぶっている部分もあります。しかし、日本政府は誰に聞き取り調査を行ったかということを明らかにしていません。安教授の行った聞き取り調査の「証言集」を韓国の外務省の課長が日本の外務省の課長に「これに全部入っています」と、いわばお墨付きで渡しています。韓国が自信を持って渡した「証言」でさえ、このようなものです。
そして、吉見教授も和田春樹教授さえも、こうした調査によって、朝鮮人に対する公権力による強制連行は証明されていないと、後に書いてもいます。
加藤紘一官房長官が謝罪をし、宮沢首相が謝罪をした後、韓国で「慰安婦問題」が過熱する中で、西岡は言い方があったはずだと考えます。「(民間に)慰安所というものがあって、貧困に窮する人たちが業者によって人身売買 させられたということはあった。そのような人権侵害については、道義的な責任は感じるし、当事者に対しては同情もする」と言えばよかったのです。
安倍総理は、「(軍が)家まで乗り込んでいって人狩りをするような『強制』は証明されていません」ときちっと言っています。「河野談話」を継承すると、言っている中で、安倍総理はギリギリのことを言っているのです。もっとも、政府は新しい談話を出す前であれば、前の談話を踏襲しなければなりません。「 加藤談話」があり、「河野談話」があったので、政府見解を引き継ぐと言っているのです。
西岡は「河野談話」を読んだ時、「強制」の定義を拡大したのだと感じましたが、 まだ片足は土俵に残っていると思っていました。 しかし、「河野談話」の中には、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた 業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たち の意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担 したこともあったことが明らかになった」という一文があった。 これは権力による「強制」を認めたことになるのではないか。安倍総理はきちんとそこを説明しなければいけない。
「河野談話」が出て五年くらいたった時、中川昭一さんが会長となった「日本の 歴史教育を考える若手議員の会」が「慰安婦問題」の検証作業をしました。西岡も 出席していたが、外政審議室の人が出てきていたのでその人に、「この『 河野談話』の官憲等という記述は何なのか。この記述が問題だと思う」と話すと、「これはインドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例だ」と説明がされました。
オランダ人を数カ月、慰安婦にした事例があり、その軍人らはインドネシア駐留軍の上部から「軍規違反で処罰され、慰安所は閉鎖」された。処罰されたということは、組織としての「軍の強制 」でないということです。しかも戦後には、その軍人らはBC級戦犯として死刑などになっています。 調べてみると、インドネシアでのオランダ人の事例が一件で、しかもそれは戦争犯罪だったということです。ですから、この一件しかなかったのだと、むしろ談話にも明記すべでした。 この事例であたかも組織だって「強制」したかのように受け取られるのは、正しくない解釈です。
その後は、日本の民間グループが国連の場にこの問題を持ち込み、国連の公式文書で「性奴隷」ということになっていきます。 ここでも国連の人権委員会で吉田清治証言が引用されたのです。日本は国連加盟国ですから、きちんと公式に反論すればいいのにそれをやっていません。話が既成事実化して、それがアメリカに飛び火しました。アメリカの華僑と在米韓国人の反日ネットワークがまたたく間にできて、その後ろには韓国 北朝鮮と中国共産党があります。日本の国内にも、反日勢力との連携があるという関係です。
今回のアメリカ、下院の決議について言うと、事実が証明されていないことにつ いて、アメリカの保守派までもが誤解をし、決議がされようとしているのに、加藤大使は決議を通さないでくれと根回しをしてはいるが、事実に踏み込んだ説明はできていないのです。
「日本は歴代の総理が謝っているということに対する事実誤認がある」ということを言っている。つまり、「謝ってない」と思われているのが事実誤認 だと言っているのです。「河野談話」から「村山談話」、歴代の総理がアジア女性基金にお金を出す時につけた謝罪の手紙を英訳して配っている。 しかし、安倍総理は「慰安婦問題」の事情をよく知って、「狭い意味での強制はなかった」と言っているので、このままでは他国から見れば歴代の総理は謝っているが、安倍総理から論旨を変えたと見えるようになります。公使館などの出先機関と安倍総理の発言がここまで食い違ってしまったら、ここは、やはり新しい談話を出して、国際的な誤解を解くべきだと西岡は主張するのです。
安倍総理は、ここまで来た以上は政府一体となって問題を先送 りするのをやめて、国際的誤解を解くために全力をあげるべきだとの主張です。
出典:西岡 力 http://www.ianfu.net/opinion/nisioka.html
*上記の文章での敬称省略
**元朝日新聞記者の植村氏は、取材の経緯について、「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母(妻・韓国人)からの情報提供はなかった」と話す。元慰安婦はその後、裁判の原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。当時、8月11日に記事が掲載された翌日、植村氏は帰国した。14日に北海道新聞のソウル特派員が元慰安婦の単独会見に成功し、金学順(キムハクスン)さんだと特報。韓国主要紙も15日の紙面で大きく報じた。
植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり、金学順との取材の詳しい経緯は、朝鮮半島問題を扱う月刊誌「MILE(ミレ)」(91年11月号)に書いていました。この時期、植村氏の記事への批判はまだ出ていなかった。活字が出版されて注目されることによって、購読部数をのばしたが、問題を複雑な溝をつくったことに対して、両国の関係をあくまでも改善していく意図や努力を続けていかなくては、片手落ちではないか。
http://ch.nicovideo.jp/ooguchib/blomaga/ar594152
西岡は1982年から1984年までソウルに住んでいましたが、その時、吉田清治は韓国 のテレビに出演して、自分の戦争犯罪を謝ったりしていたのを見てはいましたが、それほ ど韓国では大きな問題になっていなかったと話しています。
整理しておくと、1983年に今日の「慰安婦問題」のきっかけとなる吉田清治という人が書いた 『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』という本が出ます。この中で、1943年に韓国の済州島で、日本の軍人が赤ん坊を抱いたお母さんや若い未婚の女性を狩り立 てトラックで連行したという、いま一般に流布している「強制連行」が初めて出てきました。吉田清治がテレビに出た後、街に出て知り合いの食堂の女の子たちと話をしました、女の子たちにあのテレビを見たかと訊ねたら見たと言う。そして、「我々韓国人にとっては謝ってくれてありがたいけれど、あの人は帰国して大丈夫なんですか?外国に来て自国の悪口を言ったらよくないでしょう?帰国したら袋叩 きに合うのではないか」と言っていました。
西岡は、それぞれの国がそれぞれに愛国心を持っているのだという、当時の韓国人には当たり前のバランス感覚があったのです。 戦争中を知っている韓国の年寄りは「慰安婦問題」で日本を責められると思っていないし、若い人たちも常識があるので日本にまで行って裁判を起こすというのはおかしいと思っていたのです。
1989年に吉田清治の本は韓国で翻訳出版され、これを読んだ韓国の済州新聞の女性記者がその本に出てくる日時と場所について現地取材をします。すると、吉田の証言は全くのデタラメであることが判明し、女性記者は吉田証言を全面的に否定する記事を書いています。
82年の第一次教科書問題の後、在日朝鮮人の指紋押捺の問題、韓国の大統領が 来日した際の天皇陛下の謝罪のお言葉の問題があり、そういう中で92年に宮沢 首相が訪韓することになりました。
その宮澤首相訪韓の二年前(1989)、大分県に住んでいる青柳敦子という一主婦が韓国に行って「原告募集」というビラをまきます。西岡は、この主婦に実際にも会うが、「強制連行された人たち、慰安婦だった人たち、日本を相手に裁判をしませんか。費用は全部私がもってあげます」という内容です。
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/77.html
その主婦は韓国では「原告」に出会えなかったのですが、帰国後、国際電話がか かってきて「やりたい」という人が出てきました。最初は徴用された人たちの遺族でした。しかし、徴用された人たちの遣族が裁判を始めたら、それをテレビで 見ていた元慰安婦の金学順というおばあさんが私も出たいと言ってきたのです。
一方で、韓国では全斗換政権以降、対日歴史糾弾外交を進める中で、十年間教育 を受けてきた人たちがいます。その人たちは日本の植民地時代について、事実を 知っている人からすればバランスを欠いた、まるで暗黒の時代であったかのような印象を持っている。そういう若者たちは、日本の軍隊が突然、村に現れて十代 の少女を強姦して連れていったというイメージをすんなり受け人れてしまいます 。
そういう中で、日本から火をつけたかたちでの裁判が始まり、慰安婦だったと名乗り出る金 学順が出てきたのです。 しかし、この金学順は四十円でキーセンに売られたと後にわかる(金学順の訴状には「十四歳の時に四十円でキーセンに売られた」と経緯が書いてある)。 つまり、「軍に強制的に連れて行かれた人」ではなかったのです。
ここで問題なのは、この金学順のことを最初に報道したのは朝日新聞だったということです。朝日新聞の植村隆記者が、世界初のスクープとして報じました 。
1991年8月11日付の朝日新聞(大阪版)は、金学順の名前はまだ出していませんが、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人が 」名乗り出たと報じたのです。
韓国の一番左派のハンギョレ新聞では、「生活が苦しくなった母親によって十四歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」と書いてあり ます。 植村記者は韓国語もできるので、当然、こういう事実を知っていたはずなのに、書かなかった。
さらに提訴後の記事の見出しには、「従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の『恨』提訴へ」、「問われる人権感覚 制度の枠超え真の補償を韓国人従軍慰安婦の提訴」と打ち、朝日新聞は「わずか 17歳で慰安婦にさせられた」という展開にしていきました。
最初の朝日新聞のスクープは、金学順が韓国で記者会見する三日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順も加わっている訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任という常任理事の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順の単独インタビューがとれたという事情です。
朝日新聞は、親に「身売り」された事実隠し、同じく朝日新聞の「慰安所への軍関与」という捏造記事という流れの中で、まず、当時の加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」を発表しました。1992年1月13日です。 そして、宮沢首相が17日に訪韓し、盧泰愚大統領に8回も謝りました。
その後、西岡 力は「文塾春秋」の取材で、外務省の北東アジア課の担当課に面会を求め、次のような重要な点を訊ねたということです。
「宮沢首相は、権力による強制連行があったということを認めて謝罪したのか。 それとも、当時、日本にもたくさんいた貧乏のために身売りされた人たちの悲劇 に対して謝ったのか。どちらなのか。」と。 すると、担当者は「それは、これから調べる」と言ったのです。
「では、吉田清治の証言については、外務省はどう思っているのか」と訊ねたら 、「これから調べることだけれども、加害者が嘘をつくことがありますかね」と 言う。
問題なのは、「これから調べる」ということについて、加藤官房長官、宮沢首相 が先に謝ってしまったということです。 韓国の一般の人たちは、大新聞である朝日新聞が報道し、テレビが毎日のように 報道し、日本の総理が韓国に來て謝ったわけですから、そんな事実があったと思ってしまう。年寄りの人たちが「慰安婦は問題にできない」と言っても、そちら のほうが説得力がなくなります。
こうした流れが作られて、韓国のテレビドラマでは、平和な村に憲兵など(憲兵というのは軍を取り締まる 役割ですから、なぜ憲兵なのかわからないが)が現れて十代の女性を強姦し、ジープに乗せてさらっていったという内容のものがドラマのシーンで演出されるようになりました。
他方、その当時、十二歳で慰安婦にさせられた人がいたと韓国の新聞が報道しました。 彼女は勤労挺身隊で日本に働きに来た人です。その彼女を送り出した教師が自分が送り出した子たちの何人かが終戦後、帰ってこないのでどうなったかと手紙を出して調べたら、京城に戻らないで田舎に行き全員無事だった。それを韓国の新聞が、「十二歳の少女も挺身隊に動員された」という記事にしたのです。題字はセンセーショナルに、印象付けられて想像をかき立て、事実から離れた想像の部分が色濃く刷り込まれていくようになります。
当時、韓国では「挺身隊」=「慰安婦」となってしまっていた。十二 歳の少女まで性奴隷にしていた、けしからん、と韓国人は怒らせたのです。
そこで、西岡 力は、その記事を書いた記者に会いに行って「あなたは勤労動員だと知っていたで しょう?なぜあなたの記事に勤労という言葉が一言もないのか」と聞いたら、彼 は「この問題には闇がある。だから私はこの問題はもう書かない」と言う。 その記者は「最初はけしからんと思って調べた。インタビューもたくさんした。すると、連れて行かれた後、ひどい目にあったという話は皆、たくさんする。しかし、どのように連れて行かれたのかという話になると、はっきりとしたことを言わない。よく聞いてみると女衒が絡んでいる。当時の朝鮮の農村に日本人が入れたと思いますか?」と言うのです。 記者は「だんだん調べていくうちに、戦争であれば起きるようなことなのだと思った」と言うのです。つまり、「慰安婦」に接見すると「強制」ではないことがわかってきたのです。
また、金学順というおばあさんがなぜ出てきたのか、ということにも盲点があります。日本のテレビ局が何度も金学順にインタビューした時に、日本語のわかる女性コーディネーターがつきました。 西岡はそのコーディネーターの女性に会って話を聞いたのですが、彼女が「おばあちゃん、なんで出てきたの?」と聞いたら、金は「寂しかったんや。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら、徴用された人が裁判を起こしたと報じられていたから、私も入るのかなと思った」と言ったそうです。
このようなおばあさんに接した高木健一弁護士は、その話を聞いているのですから、「あなたは当てはまりません。出ないほうがいいですよ」とかアドバイスしてあげるのが親切だったのではないでしょうか。相手は純粋な田舎のおばあさんです。何もわからない状態なのです。金学順は大変に率直な人だから、訴状にも「キーセンに四十円で売られた」と最初は書いているのです。
このような中で、西岡が『文藝春秋』でそのことを指摘した後は、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」と証言を変えたのです。
本当に韓国人女性のことを思っているのなら、日本から賠償をとれるかどうか本気で見てあげて、恥をさらさないようにしてあげるべきです。金学順のよう に、一度表に出てきてしまった人は、韓国社会にも偏見がありますから、そういう目で見られる。すると、出てきた人はとにかく「強制された」と言わざるを得なくなるのです。 自分の履歴を公開し、日本の反日運動家に利用され、批判され 、それによって証言を変えると嘘をついているんじゃないか、と言われる。西岡は朝日新聞に一番問いたいのはこの点だといいます。弱者の立場に立つと言いながら、女性の人権を守ろうというのではなく、弱者を貶めことをしたからです。
西岡が『文塾春秋」で書き、秦郁彦が済州島で取材をし、さまざまな事実が発掘されて、段々に朝日新聞が「強制」と主張する根拠がなくなっていきました。
◆韓国の調査によって、挺身隊と慰安婦の違いが明らかに
人間の記憶というの はいい加減なものです。聞き取り調査が事実を証明するためには裏付けが必要です。たとえば「挺身隊という制度で連行された」と彼女たちが言えば、「挺身隊というのはそういう制度ではありません」とか、「今は 挺身隊という言葉がありますが、当時はそういうふうには言っていなかったんじゃありませんか」と確認し、記憶を呼び起こしてもらわなければいけない。そういう聞き取り調査をしたのは、政府も含めて日本人にはいません。そこまで徹底した調査は韓国の学者がしていました。
韓国のソウル大学の韓国史学者として著名な安乗直教授(現名誉教授)がキャップ となって挺身隊研究会というプロジェクトができ、当時「慰安婦」として名乗り出ていた四十数人の人たちに本格的な聞き取り調査を行いました。 その後、安教授らは調査の結果を「証言集」として本にまとめますが、その中に こう書いています。
「調査を検討するにあたってとても難しかった点は、証言者の陳述が論理的に前と後ろが合わない場合がめずらしくなかったことだ。このような点は、すでに五十年近く前のことであって記憶の錯誤から来ることもありうるし、証言したくな いことを省略したり適当にまぜこぜにしたりすることから来ることもありうるし 、またその時代の事情が我々の想像を超越するものかもしれないという点もあった。
この中でも調査者たちをたいへん困難にさせたのは、証言者が意図的に事実を歪曲していると感じられるケースだ。我々はこのような場合に備えて、調査者一人一人が証言者に人間的に密接になることによってそのような困難を克服しようと努力し、大部分の場合に意図した通りの成果を上げはしたが、ある場合には調査を中断せざるを得ないケースもあった。このような場合は次の機会に再調査することを約束するしかなかった」
92年、93年に日本が謝罪している最中でも韓国の学者は、「意図的に(証言者が)事実を歪曲していると感じられるケース」があったと書いているのです。
これは四十人を対象にしている調査でしたが、本にまとめることができたのは十九人でしかなかった。半分以上の人はは辞退したのです。しかも、その中でも自分で「強制」だったと言っている人は四人です。よくきけば、四人のうち、一人は韓国の釜山で「強制」され、もう一人は日本の富山県で「強制」されたと言っている。戦地でない所に軍の「慰安所」はありませんから、それだけでこの証言が成立しないことがわかります。
後の一人は、日本政府を相手どった裁判で訴状を出しているのですが、訴状では いずれもキーセンなどとして「身売り」されたと書いている。つまり、過去の証言と違うことを、言っているのです。この二人の証言者のうち、一人は金学順です。
この「証言集」と日本政府が行った聞き取り調査とは、だぶっている部分もあります。しかし、日本政府は誰に聞き取り調査を行ったかということを明らかにしていません。安教授の行った聞き取り調査の「証言集」を韓国の外務省の課長が日本の外務省の課長に「これに全部入っています」と、いわばお墨付きで渡しています。韓国が自信を持って渡した「証言」でさえ、このようなものです。
そして、吉見教授も和田春樹教授さえも、こうした調査によって、朝鮮人に対する公権力による強制連行は証明されていないと、後に書いてもいます。
加藤紘一官房長官が謝罪をし、宮沢首相が謝罪をした後、韓国で「慰安婦問題」が過熱する中で、西岡は言い方があったはずだと考えます。「(民間に)慰安所というものがあって、貧困に窮する人たちが業者によって人身売買 させられたということはあった。そのような人権侵害については、道義的な責任は感じるし、当事者に対しては同情もする」と言えばよかったのです。
安倍総理は、「(軍が)家まで乗り込んでいって人狩りをするような『強制』は証明されていません」ときちっと言っています。「河野談話」を継承すると、言っている中で、安倍総理はギリギリのことを言っているのです。もっとも、政府は新しい談話を出す前であれば、前の談話を踏襲しなければなりません。「 加藤談話」があり、「河野談話」があったので、政府見解を引き継ぐと言っているのです。
西岡は「河野談話」を読んだ時、「強制」の定義を拡大したのだと感じましたが、 まだ片足は土俵に残っていると思っていました。 しかし、「河野談話」の中には、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた 業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たち の意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担 したこともあったことが明らかになった」という一文があった。 これは権力による「強制」を認めたことになるのではないか。安倍総理はきちんとそこを説明しなければいけない。
「河野談話」が出て五年くらいたった時、中川昭一さんが会長となった「日本の 歴史教育を考える若手議員の会」が「慰安婦問題」の検証作業をしました。西岡も 出席していたが、外政審議室の人が出てきていたのでその人に、「この『 河野談話』の官憲等という記述は何なのか。この記述が問題だと思う」と話すと、「これはインドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例だ」と説明がされました。
オランダ人を数カ月、慰安婦にした事例があり、その軍人らはインドネシア駐留軍の上部から「軍規違反で処罰され、慰安所は閉鎖」された。処罰されたということは、組織としての「軍の強制 」でないということです。しかも戦後には、その軍人らはBC級戦犯として死刑などになっています。 調べてみると、インドネシアでのオランダ人の事例が一件で、しかもそれは戦争犯罪だったということです。ですから、この一件しかなかったのだと、むしろ談話にも明記すべでした。 この事例であたかも組織だって「強制」したかのように受け取られるのは、正しくない解釈です。
その後は、日本の民間グループが国連の場にこの問題を持ち込み、国連の公式文書で「性奴隷」ということになっていきます。 ここでも国連の人権委員会で吉田清治証言が引用されたのです。日本は国連加盟国ですから、きちんと公式に反論すればいいのにそれをやっていません。話が既成事実化して、それがアメリカに飛び火しました。アメリカの華僑と在米韓国人の反日ネットワークがまたたく間にできて、その後ろには韓国 北朝鮮と中国共産党があります。日本の国内にも、反日勢力との連携があるという関係です。
今回のアメリカ、下院の決議について言うと、事実が証明されていないことにつ いて、アメリカの保守派までもが誤解をし、決議がされようとしているのに、加藤大使は決議を通さないでくれと根回しをしてはいるが、事実に踏み込んだ説明はできていないのです。
「日本は歴代の総理が謝っているということに対する事実誤認がある」ということを言っている。つまり、「謝ってない」と思われているのが事実誤認 だと言っているのです。「河野談話」から「村山談話」、歴代の総理がアジア女性基金にお金を出す時につけた謝罪の手紙を英訳して配っている。 しかし、安倍総理は「慰安婦問題」の事情をよく知って、「狭い意味での強制はなかった」と言っているので、このままでは他国から見れば歴代の総理は謝っているが、安倍総理から論旨を変えたと見えるようになります。公使館などの出先機関と安倍総理の発言がここまで食い違ってしまったら、ここは、やはり新しい談話を出して、国際的な誤解を解くべきだと西岡は主張するのです。
安倍総理は、ここまで来た以上は政府一体となって問題を先送 りするのをやめて、国際的誤解を解くために全力をあげるべきだとの主張です。
出典:西岡 力 http://www.ianfu.net/opinion/nisioka.html
*上記の文章での敬称省略
**元朝日新聞記者の植村氏は、取材の経緯について、「挺対協から元慰安婦の証言のことを聞いた、当時のソウル支局長からの連絡で韓国に向かった。義母(妻・韓国人)からの情報提供はなかった」と話す。元慰安婦はその後、裁判の原告となるため梁氏が幹部を務める遺族会のメンバーとなったが、植村氏は「戦後補償問題の取材を続けており、元慰安婦の取材もその一つ。義母らを利する目的で報道をしたことはない」と説明する。当時、8月11日に記事が掲載された翌日、植村氏は帰国した。14日に北海道新聞のソウル特派員が元慰安婦の単独会見に成功し、金学順(キムハクスン)さんだと特報。韓国主要紙も15日の紙面で大きく報じた。
植村氏は前年の夏、元慰安婦の証言を得るため韓国を取材したが、話を聞けずに帰国した経緯もあり、金学順との取材の詳しい経緯は、朝鮮半島問題を扱う月刊誌「MILE(ミレ)」(91年11月号)に書いていました。この時期、植村氏の記事への批判はまだ出ていなかった。活字が出版されて注目されることによって、購読部数をのばしたが、問題を複雑な溝をつくったことに対して、両国の関係をあくまでも改善していく意図や努力を続けていかなくては、片手落ちではないか。
http://ch.nicovideo.jp/ooguchib/blomaga/ar594152
2014年08月07日
米国にも複数の従軍慰安婦像
米国でも広がっている従軍慰安婦の像の設置だが、日本人や、米市民権をもつ日本生まれの住民らでつくるNPO「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」が設置の中止を訴えていたのが、却下された。
原告側は、「市が像設置を通して外交上の問題に関与し、米連邦政府の外交権を侵害したのは違憲だ」と主張し、像は撤去されなければならない、と求めていた。判決は、原告が被った被害と、市が越権行為をしたとされる慰安婦像の設置との関連が希薄である、などとして、求めを退けた。GAHT代表で南カリフォルニア大学元教授の目良浩一氏は「上告を含め、他の法的な手段も検討する」などと声明文を発表した。
朝日新聞 8/5(ロサンゼルス=平山亜理)
:::::::::::::::
一方、 8/5の朝日の記事では、これまでの従軍慰安婦の誤報の一部を認めたが、それに関して連載するが、今後、何を出してくるのか。実は、この話の元凶となった吉田清治氏は強制連行で慰安婦の話をつくったのだと後日に本人も認めるところとなるが。朝日の記者はこのことをもとにバイアスが増幅されていった。
さらに悪いことに、韓国はこうした報道が続くことによって強制連行した韓国人女性を慰安婦にしたとの話から、国家賠償を要求するようになった。下記に青山繁晴氏が解説をしている・
◆検証して訂正する機会があったが放置?
池田信夫氏は、朝日新聞がやっと慰安婦を誤報と認めたとブログに下記のような感想を書いている。
朝日新聞の根底に資本主義を否定する思想があったこと、かえって軍に利用された。当時に新聞他社との競争の中で新聞を売ろうとする熱意と、天下国家のためには多少の事は許されるという意識によって、大本営発表を報道し続けた。国家の経済介入を肯定するリベラリズムは、総動員体制と親和性が強く、そういう「空気」に弱かった。戦前のリベラルが結果的には近衛の総動員体制に合流して戦争に協力した歴史を、丸山眞男は「重臣リベラリズムの限界」と呼んだ。戦前の朝日新聞の脱線の原因は、治安維持法でも利益誘導でもない。そして慰安婦報道でも原子力報道でも、リベラルな「革新」の側に立とうとする朝日の姿勢は戦前と同じだ。そこに最大の落とし穴があると、未だに気づいていないようだと指摘した。池田氏は更に「NY タイムズのための「慰安婦問題」入門」 として、従軍慰安婦問題の経緯など詳細を整理している。
http://agora-web.jp/nyt.pdf
「強制連行」という言葉を最初に使った朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』で、軍や官憲が国家権力によって徴用したことを指しており、この意味での強制連行は245人の男性について確認されたが、女性の徴用は制度としてなかったので、この意味での強制連行はありえない。
しかし、民間の商行為に政府が謝罪するにはおよばないが、1992年の加藤談話で公権力による強制の有無、「軍の関与」を日本政府が認めて謝罪した。1992年1月の植村隆記者の記事で特に問題なのは、「挺身隊の名で強制連行」という言葉を使ったところから問題を混乱させ、その直後に宮沢首相が訪韓して謝罪したために、強制連行が既成事実になったのだ。今ごろ「訪韓の直前をねらったわけではない」などと、朝日は弁明も忘れない。読売も産経も、のちに吉田の「慰安婦狩り」が架空だったことを認めた。朝日のように、 本筋ではない吉田証言だけ誤報を認め、政治的責任を問われている1992年の記事を守ったという印象が強いと池田氏は指摘する。好意的にみて最初は誤報だったとしても、これが河野談話で日韓問題になったあとも訂正せず、くり返し「強制連行」を糾弾した朝日の責任はまぬがれない。
第2次大戦当時の朝鮮半島は日本の領土であり、戦争犯罪をおかすことは構造としてない。旧植民地に謝罪した宗主国はなく、日韓条約でも謝罪はしていないのだ。
つまり、なげかわしいが女性の人身売買があったことは、いかんせん貧しい時代、日本国内、世界どこにでも起きた周知の事実だ。この問題の争点は、周知の事実の認定ではなくて、強制連行による女性の性的強制が焦点だった。
こうしたことに無知な記者が、問題を混乱させて「アジアへの責任」を大きく語ることで、中韓が「歴史問題」を蒸し返す原因を逆につくった。日本政府は韓国に対する戦争犯罪を未来永劫に謝罪しなければならないという朝日の錯覚によって、サッカーや韓流ブームで改善された日韓関係になりつつあったものを深い溝にしてしまったといえる。
原告側は、「市が像設置を通して外交上の問題に関与し、米連邦政府の外交権を侵害したのは違憲だ」と主張し、像は撤去されなければならない、と求めていた。判決は、原告が被った被害と、市が越権行為をしたとされる慰安婦像の設置との関連が希薄である、などとして、求めを退けた。GAHT代表で南カリフォルニア大学元教授の目良浩一氏は「上告を含め、他の法的な手段も検討する」などと声明文を発表した。
朝日新聞 8/5(ロサンゼルス=平山亜理)
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一方、 8/5の朝日の記事では、これまでの従軍慰安婦の誤報の一部を認めたが、それに関して連載するが、今後、何を出してくるのか。実は、この話の元凶となった吉田清治氏は強制連行で慰安婦の話をつくったのだと後日に本人も認めるところとなるが。朝日の記者はこのことをもとにバイアスが増幅されていった。
さらに悪いことに、韓国はこうした報道が続くことによって強制連行した韓国人女性を慰安婦にしたとの話から、国家賠償を要求するようになった。下記に青山繁晴氏が解説をしている・
◆検証して訂正する機会があったが放置?
池田信夫氏は、朝日新聞がやっと慰安婦を誤報と認めたとブログに下記のような感想を書いている。
朝日新聞の根底に資本主義を否定する思想があったこと、かえって軍に利用された。当時に新聞他社との競争の中で新聞を売ろうとする熱意と、天下国家のためには多少の事は許されるという意識によって、大本営発表を報道し続けた。国家の経済介入を肯定するリベラリズムは、総動員体制と親和性が強く、そういう「空気」に弱かった。戦前のリベラルが結果的には近衛の総動員体制に合流して戦争に協力した歴史を、丸山眞男は「重臣リベラリズムの限界」と呼んだ。戦前の朝日新聞の脱線の原因は、治安維持法でも利益誘導でもない。そして慰安婦報道でも原子力報道でも、リベラルな「革新」の側に立とうとする朝日の姿勢は戦前と同じだ。そこに最大の落とし穴があると、未だに気づいていないようだと指摘した。池田氏は更に「NY タイムズのための「慰安婦問題」入門」 として、従軍慰安婦問題の経緯など詳細を整理している。
http://agora-web.jp/nyt.pdf
「強制連行」という言葉を最初に使った朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』で、軍や官憲が国家権力によって徴用したことを指しており、この意味での強制連行は245人の男性について確認されたが、女性の徴用は制度としてなかったので、この意味での強制連行はありえない。
しかし、民間の商行為に政府が謝罪するにはおよばないが、1992年の加藤談話で公権力による強制の有無、「軍の関与」を日本政府が認めて謝罪した。1992年1月の植村隆記者の記事で特に問題なのは、「挺身隊の名で強制連行」という言葉を使ったところから問題を混乱させ、その直後に宮沢首相が訪韓して謝罪したために、強制連行が既成事実になったのだ。今ごろ「訪韓の直前をねらったわけではない」などと、朝日は弁明も忘れない。読売も産経も、のちに吉田の「慰安婦狩り」が架空だったことを認めた。朝日のように、 本筋ではない吉田証言だけ誤報を認め、政治的責任を問われている1992年の記事を守ったという印象が強いと池田氏は指摘する。好意的にみて最初は誤報だったとしても、これが河野談話で日韓問題になったあとも訂正せず、くり返し「強制連行」を糾弾した朝日の責任はまぬがれない。
第2次大戦当時の朝鮮半島は日本の領土であり、戦争犯罪をおかすことは構造としてない。旧植民地に謝罪した宗主国はなく、日韓条約でも謝罪はしていないのだ。
つまり、なげかわしいが女性の人身売買があったことは、いかんせん貧しい時代、日本国内、世界どこにでも起きた周知の事実だ。この問題の争点は、周知の事実の認定ではなくて、強制連行による女性の性的強制が焦点だった。
こうしたことに無知な記者が、問題を混乱させて「アジアへの責任」を大きく語ることで、中韓が「歴史問題」を蒸し返す原因を逆につくった。日本政府は韓国に対する戦争犯罪を未来永劫に謝罪しなければならないという朝日の錯覚によって、サッカーや韓流ブームで改善された日韓関係になりつつあったものを深い溝にしてしまったといえる。
2014年08月06日
猛暑ツアー@布佐・新木・湖北
沸騰したような外界で爽やかに過ごすには、旅行気分に浸ることも一つです。
お金をかけずに目標を達成できると、ちょっぴり得して愉快です。
そこで、かねてより関心をそそられていた噂の布佐のカフェ「リバーサイド」にいってきました。
ブランチのお時間に計画して行ったので、完食しました。
ナポリタン、厚切りトースト、目玉焼き、サラダ、バナナがこんもり盛られて、ほどよい味わいの紅茶まであって650円! また、行きたい!!とお奨めです。
今度はクリームてんこ盛りのウインナーコーヒーを試してみなくてはと、我孫子の新名所を見つけたような気分で意欲満々!?

新木ではブルーベリー農園、酵母発酵の手作りパン工房などにも寄り、それぞれで美味しい味を購入しました。我孫子には、そのほかにも美味しいパン屋さんの一覧があるサイトもあるので、ご参考まで。
http://pansta.jp/shop/chibaken/abikoshi/
ここ(下記)には映っていませんが、我孫子の香取梨園のナシもたっぷり甘味があってみずみずしくて、冷やして食べたらサイコーでした。
次回は、ご一緒に我孫子ツアーしませんか?


写真:上/ リバーサイド(布佐)
手作りケーキ 茶豆(布佐) 酵母パン工房 Mari(新木)
ブルーベリー摘み(新木) 創作パン(湖北)
撮影 by Nina
お金をかけずに目標を達成できると、ちょっぴり得して愉快です。
そこで、かねてより関心をそそられていた噂の布佐のカフェ「リバーサイド」にいってきました。
ブランチのお時間に計画して行ったので、完食しました。
ナポリタン、厚切りトースト、目玉焼き、サラダ、バナナがこんもり盛られて、ほどよい味わいの紅茶まであって650円! また、行きたい!!とお奨めです。
今度はクリームてんこ盛りのウインナーコーヒーを試してみなくてはと、我孫子の新名所を見つけたような気分で意欲満々!?
新木ではブルーベリー農園、酵母発酵の手作りパン工房などにも寄り、それぞれで美味しい味を購入しました。我孫子には、そのほかにも美味しいパン屋さんの一覧があるサイトもあるので、ご参考まで。
http://pansta.jp/shop/chibaken/abikoshi/
ここ(下記)には映っていませんが、我孫子の香取梨園のナシもたっぷり甘味があってみずみずしくて、冷やして食べたらサイコーでした。
次回は、ご一緒に我孫子ツアーしませんか?

写真:上/ リバーサイド(布佐)
手作りケーキ 茶豆(布佐) 酵母パン工房 Mari(新木)
ブルーベリー摘み(新木) 創作パン(湖北)
撮影 by Nina
2014年08月05日
男女雇用機会均等法の制定前、女性のみがキャリアダウンは社会の損失
旧住友銀行や野村証券では1987年に採用した女性総合職1期生から、初の女性執行役が誕生したと話題だ。
邦銀初の女性トップとなった野村信託銀行社長の真保(しんぽ)(旧姓・鳥海)智絵さん(48)はフェリス出身で、同様に住友で女性執行役役員になった工藤さんの一つ後輩だ。
野村証券に入社の女性総合職2期生だ。300人以上の同期で女性は7人。男性ばかりの世界に飛び込むことにちゅうちょはなかった。「女子校育ちだから、男性に頼るということを知らなかった」
でも仕事では葛藤の連続だった。初めて課長を務めたとき、部下2人が会社を辞めた。管理職に向いていないと悩んだ。仕事を正当に評価してもらいたいと思うものの、ポストを誰かと争うことにはためらいを感じながら、ここまできた。
均等法の恩恵を受けたとの思いがある。自分より上の世代は、女性というだけで総合職になれなかった。
5月、安倍晋三首相も参加した会合で「男性が変わる必要がある」と訴えた。総合職の女性が出産や介護で仕事を諦めざるを得ない現実は相変わらずだから。「男性と同化することで生き延びてきた。私自身も、変わらないといけない」
社長就任が発表されるとネットを通じて同級生たちから「おめでとう」のメッセージが次々に届いた。「率直に言うと悔しい」。中にはそんな声もあった。
■子持ちの気配消している
ともにフェリスに通い、それぞれ大学へ進み、社会に出た均等法第1世代がみな、工藤さんや真保さんのようなキャリアを歩んできたわけではない。
「あの智絵が社長になるなんて。強くなったんですね」。フェリスで真保さんと器楽部に所属し、早大でも一緒だった女性(49)は感慨深げに言う。朝の礼拝を抜け出し、教室でおしゃべりしたことも。「智絵は強いリーダーシップというより、自然と周りに人が集まるタイプだった」
女性も総合職として金融系コンサルタント会社に入社した。男性なら2年目から行く海外出張の機会がなかなか与えられなかった。理由は「海外は危ない」。結婚すると「辞める?」と上司に問われ、「続けます」と即答した。専門性を積むことに限界を感じるようになり、入社10年を前に退職。別の研究機関に移った。
女子大に進み、民間の調査会社に入った女性(48)はいま、「子持ちであることの気配を出来るだけ消している」という。
市場調査を担当し、残業も多かったが、バリバリ働けることがうれしかった。何かが違うと思い始めたのは出産してから。入社15年目の管理職に昇格するタイミングと育休が重なった。半年後に復帰したが同期に3年遅れ、責任ある仕事は任されなくなった。
社内報で家族を紹介する記事の掲載も断った。「子どもがいると企業の中ではマイナス50点だから」
■主婦選択、娘は社会で可能性を
主婦という生き方を選んだ人もいる。テニス部で三井住友銀行の工藤さんと一緒だった小粥(おかい)育子さん(48)は東大で応用物理を学んだ。大手IT企業に入り、ソフトウエア開発を担当。入社3年目に結婚、出産後に夫が海外転勤に。一緒に英国へ行き、まもなくして会社を辞めた。「専業主婦になるとは考えてもみなかったが、子育ては思った以上に面白かった」。2人目、3人目が生まれ、両親の介護も重なった。「私が働いていたら3人育てるのは無理だったし、子育てが私の天職だと思う」
やはりフェリスから東大へ進んだ長女に「あれだけ勉強して、スパッと専業主婦になるなんて、お母さんて変わってる」と最近言われた。「娘には、社会で可能性を試してもらいたい」
井谷美穂子さん(49)は慶大を出て大手飲料メーカーに10年勤め、結婚を機に退職した。「働きながらせわしなく子育てをするよりはと、けじめをつける気持ちだった」。翌年、子どもに恵まれたが、突然、母でしかなくなってしまったことがつらかった。粉ミルクのスプーンは消毒するのか、考え込んだ。「今思えば、育児不安でした」
下の子が小学校に入ってから、フェリスの同級生に誘われ、子育て支援のNPOで働く。「働くことも大事だけど、親であることはもっと大事。出産で辞める選択肢もあっていい。落ち着いたらまたきちんと働ける環境が整うことが大切」
■「夫婦とも80点のキャリアで」
井谷さんをNPOに誘ったのは、横浜を拠点に街づくりを手がけるNPO法人の理事、宮島真希子さん(48)。元は新聞記者だ。大学卒業後、地方紙に入った。同期7人のうち女性は1人。「買春」と書いたら、「需要と供給。ビジネスなんだ」とデスクが「売春」に書き直した。
36歳のとき出産し、1年の育休。子どもと2人の孤立感と、母親になった自分の閉塞(へいそく)感。欲しい情報は新聞にはなかった。記事を書くだけでなく、人のつながりをつくりたい。そんな思いが大きくなり、2010年に新聞社を退職した。
「週刊朝日」の長友佐波子編集長(48)はフェリスから早大卒業後、朝日新聞に入った。同期約100人のうち女性は10人。初任地で男性の先輩から言われた。「女なんていらない。お前が辞めれば男が来る」。当時は女性に泊まり勤務をさせない決まりがあったためだ。
4年間の地方勤務のあと東京本社学芸部に。当時は上司から女性の社会問題を書くなと言われた。週刊誌アエラに移り、女性をめぐる様々な企画を担当した。
総合職女性のキャリアを研究する関西学院大の大内章子准教授も同級生。慶大卒業後、日商岩井(現・双日)に総合職で入社したが、もう一度、経営の勉強をしたいと3年で退職。大学院に進んだ。
均等法成立から来年で30年。時短や育休などの制度も以前よりは整い、仕事を続ける女性は増えたが、平日に男性が育児を担うことはまだまれだ。「女性だけに選択肢が増えているのが問題。『100点満点のキャリアを追求する夫とあきらめる妻』ではなく、『夫婦ともが80点のキャリアを目指す』という考え方がもっと広がってほしい」
出典:
朝日新聞8/2(高橋末菜、岡林佐和)
■子が生まれても共働きできるように
筒井淳也・立命館大教授(家族社会学)の話 日本型雇用の総合職はいつでも、どこでも、どんな仕事でも、会社の命令に従って働く「無限定社員」だ。家事や育児を担う専業主婦かパートの妻がいて初めて可能になる。均等法はそんな働き方に女性を組み込んだに過ぎず、夫婦ともに総合職の場合、育児や家事の多くを誰かに委託しなければ生活は成り立たない。 総合職から一般職などへの転換制度は根本的な解決にならない。本来、男女で能力差はないのに、女性ばかりがキャリアダウンすれば、組織全体の生産性が落ち、企業にとってもデメリットだ。必要なのは、子どもが生まれても共働きが当たり前にできるように変えることだ。仕事のやり方を見直し、労働時間を減らす。転勤は将来経営を担う層に限り、多くの社員は地域限定にする。そんな工夫が求められている。
◆キーワード
<男女雇用機会均等法> 1985年に成立し、翌86年施行。企業に対して採用や昇進、職種の変更などで男女で異なる取り扱いを禁じている。妊娠や出産を理由に退職を強要したり、不当な配置換えをしたりすることも禁止している。今年7月の施行規則改正で、採用、昇進などで転勤を条件にすることは、実質的に女性が不利になる間接差別にあたるとして禁止。セクハラについて、性別による役割分担意識に基づく言動をなくすことが防止につながると明記した。
邦銀初の女性トップとなった野村信託銀行社長の真保(しんぽ)(旧姓・鳥海)智絵さん(48)はフェリス出身で、同様に住友で女性執行役役員になった工藤さんの一つ後輩だ。
野村証券に入社の女性総合職2期生だ。300人以上の同期で女性は7人。男性ばかりの世界に飛び込むことにちゅうちょはなかった。「女子校育ちだから、男性に頼るということを知らなかった」
でも仕事では葛藤の連続だった。初めて課長を務めたとき、部下2人が会社を辞めた。管理職に向いていないと悩んだ。仕事を正当に評価してもらいたいと思うものの、ポストを誰かと争うことにはためらいを感じながら、ここまできた。
均等法の恩恵を受けたとの思いがある。自分より上の世代は、女性というだけで総合職になれなかった。
5月、安倍晋三首相も参加した会合で「男性が変わる必要がある」と訴えた。総合職の女性が出産や介護で仕事を諦めざるを得ない現実は相変わらずだから。「男性と同化することで生き延びてきた。私自身も、変わらないといけない」
社長就任が発表されるとネットを通じて同級生たちから「おめでとう」のメッセージが次々に届いた。「率直に言うと悔しい」。中にはそんな声もあった。
■子持ちの気配消している
ともにフェリスに通い、それぞれ大学へ進み、社会に出た均等法第1世代がみな、工藤さんや真保さんのようなキャリアを歩んできたわけではない。
「あの智絵が社長になるなんて。強くなったんですね」。フェリスで真保さんと器楽部に所属し、早大でも一緒だった女性(49)は感慨深げに言う。朝の礼拝を抜け出し、教室でおしゃべりしたことも。「智絵は強いリーダーシップというより、自然と周りに人が集まるタイプだった」
女性も総合職として金融系コンサルタント会社に入社した。男性なら2年目から行く海外出張の機会がなかなか与えられなかった。理由は「海外は危ない」。結婚すると「辞める?」と上司に問われ、「続けます」と即答した。専門性を積むことに限界を感じるようになり、入社10年を前に退職。別の研究機関に移った。
女子大に進み、民間の調査会社に入った女性(48)はいま、「子持ちであることの気配を出来るだけ消している」という。
市場調査を担当し、残業も多かったが、バリバリ働けることがうれしかった。何かが違うと思い始めたのは出産してから。入社15年目の管理職に昇格するタイミングと育休が重なった。半年後に復帰したが同期に3年遅れ、責任ある仕事は任されなくなった。
社内報で家族を紹介する記事の掲載も断った。「子どもがいると企業の中ではマイナス50点だから」
■主婦選択、娘は社会で可能性を
主婦という生き方を選んだ人もいる。テニス部で三井住友銀行の工藤さんと一緒だった小粥(おかい)育子さん(48)は東大で応用物理を学んだ。大手IT企業に入り、ソフトウエア開発を担当。入社3年目に結婚、出産後に夫が海外転勤に。一緒に英国へ行き、まもなくして会社を辞めた。「専業主婦になるとは考えてもみなかったが、子育ては思った以上に面白かった」。2人目、3人目が生まれ、両親の介護も重なった。「私が働いていたら3人育てるのは無理だったし、子育てが私の天職だと思う」
やはりフェリスから東大へ進んだ長女に「あれだけ勉強して、スパッと専業主婦になるなんて、お母さんて変わってる」と最近言われた。「娘には、社会で可能性を試してもらいたい」
井谷美穂子さん(49)は慶大を出て大手飲料メーカーに10年勤め、結婚を機に退職した。「働きながらせわしなく子育てをするよりはと、けじめをつける気持ちだった」。翌年、子どもに恵まれたが、突然、母でしかなくなってしまったことがつらかった。粉ミルクのスプーンは消毒するのか、考え込んだ。「今思えば、育児不安でした」
下の子が小学校に入ってから、フェリスの同級生に誘われ、子育て支援のNPOで働く。「働くことも大事だけど、親であることはもっと大事。出産で辞める選択肢もあっていい。落ち着いたらまたきちんと働ける環境が整うことが大切」
■「夫婦とも80点のキャリアで」
井谷さんをNPOに誘ったのは、横浜を拠点に街づくりを手がけるNPO法人の理事、宮島真希子さん(48)。元は新聞記者だ。大学卒業後、地方紙に入った。同期7人のうち女性は1人。「買春」と書いたら、「需要と供給。ビジネスなんだ」とデスクが「売春」に書き直した。
36歳のとき出産し、1年の育休。子どもと2人の孤立感と、母親になった自分の閉塞(へいそく)感。欲しい情報は新聞にはなかった。記事を書くだけでなく、人のつながりをつくりたい。そんな思いが大きくなり、2010年に新聞社を退職した。
「週刊朝日」の長友佐波子編集長(48)はフェリスから早大卒業後、朝日新聞に入った。同期約100人のうち女性は10人。初任地で男性の先輩から言われた。「女なんていらない。お前が辞めれば男が来る」。当時は女性に泊まり勤務をさせない決まりがあったためだ。
4年間の地方勤務のあと東京本社学芸部に。当時は上司から女性の社会問題を書くなと言われた。週刊誌アエラに移り、女性をめぐる様々な企画を担当した。
総合職女性のキャリアを研究する関西学院大の大内章子准教授も同級生。慶大卒業後、日商岩井(現・双日)に総合職で入社したが、もう一度、経営の勉強をしたいと3年で退職。大学院に進んだ。
均等法成立から来年で30年。時短や育休などの制度も以前よりは整い、仕事を続ける女性は増えたが、平日に男性が育児を担うことはまだまれだ。「女性だけに選択肢が増えているのが問題。『100点満点のキャリアを追求する夫とあきらめる妻』ではなく、『夫婦ともが80点のキャリアを目指す』という考え方がもっと広がってほしい」
出典:
朝日新聞8/2(高橋末菜、岡林佐和)
■子が生まれても共働きできるように
筒井淳也・立命館大教授(家族社会学)の話 日本型雇用の総合職はいつでも、どこでも、どんな仕事でも、会社の命令に従って働く「無限定社員」だ。家事や育児を担う専業主婦かパートの妻がいて初めて可能になる。均等法はそんな働き方に女性を組み込んだに過ぎず、夫婦ともに総合職の場合、育児や家事の多くを誰かに委託しなければ生活は成り立たない。 総合職から一般職などへの転換制度は根本的な解決にならない。本来、男女で能力差はないのに、女性ばかりがキャリアダウンすれば、組織全体の生産性が落ち、企業にとってもデメリットだ。必要なのは、子どもが生まれても共働きが当たり前にできるように変えることだ。仕事のやり方を見直し、労働時間を減らす。転勤は将来経営を担う層に限り、多くの社員は地域限定にする。そんな工夫が求められている。
◆キーワード
<男女雇用機会均等法> 1985年に成立し、翌86年施行。企業に対して採用や昇進、職種の変更などで男女で異なる取り扱いを禁じている。妊娠や出産を理由に退職を強要したり、不当な配置換えをしたりすることも禁止している。今年7月の施行規則改正で、採用、昇進などで転勤を条件にすることは、実質的に女性が不利になる間接差別にあたるとして禁止。セクハラについて、性別による役割分担意識に基づく言動をなくすことが防止につながると明記した。
2014年08月04日
お遍路さんの今日的事情
「お遍路さん」で知られる四国八十八カ所霊場ができて、今年で1200年。空海(774〜835)ゆかりの寺院を修行僧が巡礼した遍路道は近年、外国人からの注目が急速に高まっている。
「南アフリカ、香港、オランダ……。こんなに多くの外国人がお遍路に来るのは初めてだ」。四国の遍路文化を英語で発信する徳島文理大のデイビッド・モートン講師(45)が話す。30人ほどの外国人から「今年は四国遍路に行く」とメールが届いたという。
モートンさんは日本の歩き遍路用ガイドを英訳し、出版。すでに3版を重ね、約3千部が売れた。この本を手に、外国人が遍路に訪れるようになった。「遍路を歩いた外国人が『お接待』などの経験を口コミで広め、徐々に人気が高まってきた」。ユーチューブで遍路の動画を見て、フェイスブックで情報交換してから来日するのが、今の主流という。
88番札所・大窪寺近くの「前山おへんろ交流サロン」(香川県さぬき市)には昨秋、歩き遍路の外国人がほぼ毎日訪れた。昨年11月にはフランスの雑誌「フィガロマガジン」の記者が来日し、今年1月、スペインの世界遺産でキリスト教の「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」と四国遍路の共通点を探る特集記事が掲載された。
「お接待文化の素晴らしさや人と人との絆を描きたい」とドキュメンタリー映画の制作を始めたのは、フランス人女性映像作家エミリ・ベルトさん(35)だ。11年4月から49日かけて88カ所の札所を歩いたときには、道中でおにぎりやミカンのお接待を受けたり、励ましの言葉を掛けられたり……。泊まる場所がなくて困っていると、車遍路の男性が一緒に宿を探してくれたこともあった。「出身も年齢も異なる多くの人たちと出会い、温かい心に触れることができた」
今年2月下旬から、再び札所を巡りながらカメラを回している。約2カ月かけて88カ所を歩いて撮影し、今秋に完成させる予定だ。日仏での上映をめざすベルトさんは「遍路を通じて日本の歴史や日本人の心を語りたい」と話す。
高松市のNPO法人「遍路とおもてなしのネットワーク」は06年からスペインやフランス、ブラジルの巡礼路と交流し、10年には「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」沿いにあるスペイン・モリナセカ町に四国遍路の資料室を設けた。
他方、3月28日朝、高松市一宮町のお遍路休憩所を管理する男性(71)が、壁に無断で貼られた紙を見つけた。紙には「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを、四国中に貼り回っています。『日本の遍路道』を守る為、見つけ次第、はがしましょう」と書かれ、「日本の遍路道を守ろう会」という団体名が記されていた。
通学路も近く、男性は「子供たちが見たら大変だ」とすぐにはがしたといい、「なぜ、わざわざこんなことをするのか。海外の人を排除しようとする人がいることが情けない」と憤る。他で見つかった貼り紙も同様の文章が書かれ、休憩所に置かれた寄せ書きノートに書かれていたケースもあった。執拗な外国人排斥の文言の矛先は、お遍路を続けながら道しるべシールを貼っていたソウル市在住の女性への中傷とみられ、施設の管理者などが見つけ次第はがしている。
お遍路は、弘法大師とともに歩く「同行二人(どうぎょうににん)」の思いのもと、巡礼者を広く受け入れてきたお接待の心に支えられてきた。香川県内の札所寺院の男性僧侶は「貼り紙は、日本の誇れる遍路文化を汚すことにもなる。悲しいです」と話した。
道しるべシール貼りは、最近にパソコンの利用でこうした作業がやりやすくなったこともあって、増加していた事情がある。しかし、排斥文の貼り紙のキッカケは、昨年12月には、四国八十八ヶ所霊場会から外国人女性として初めてお遍路さんの「先達」に公認されてからだった。その女性は、もっと韓国でも、友好的に日本を理解できるお遍路にきてもらおうと、矢印で方向を示すなどの道案内シールを、休憩所などで許可をもらい貼っていた。そのことはネット上で電柱などに貼られたシールの画像が公開され批判の標的となった。さらには、四国4県の屋外広告物条例の担当課にメールやファクスで「このシールは条例違反ではないか」という意見が寄せられた。
ソウルの女性は平成22年3月に、インターネットなどで四国遍路を知り、亡くなった父の供養をしようとお遍路に挑戦。優しく声をかけてくれる地元の「お接待」に感動し、春の四国遍路が恒例となった。交流を通じて日本語も上達し、さらに韓国人にもお遍路さんについて知らせたいと考えての事だった。香川県都市計画課は条例対象区域で女性のシールを確認し、昨年8月、メールを通じ注意。女性は「ほかのシールもあったので貼ってしまった。条例違反とは知らなかった、もう貼らない」と返答したという。
これまでこうした道しるべの貼り紙は問題になったことはなかったが、ネットでこの女性だけが狙い撃ちにされた形だ。その貼り紙の排斥文については、各県知事や関係団体が批判。各県警も軽犯罪法違反の可能性があるとみて調べており、各地の法務局は人権侵犯の疑いがあるとして、貼り紙をした人物が判明すれば注意や告発の措置をとることを検討している。現在、四国はお遍路の世界遺産登録を目指していることから、「一定の基準を作らないと、登録にマイナスになる」といった危惧が寄せられた。一方、香川県の文化振興課によると、お遍路の案内について、世界遺産登録に備えて統一サインを作ることを現在協議しているということだ。
参照:
朝日デジタル 4/6
産経ニュース 4/24 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140424/waf14042407000002-n1.htm
「南アフリカ、香港、オランダ……。こんなに多くの外国人がお遍路に来るのは初めてだ」。四国の遍路文化を英語で発信する徳島文理大のデイビッド・モートン講師(45)が話す。30人ほどの外国人から「今年は四国遍路に行く」とメールが届いたという。
モートンさんは日本の歩き遍路用ガイドを英訳し、出版。すでに3版を重ね、約3千部が売れた。この本を手に、外国人が遍路に訪れるようになった。「遍路を歩いた外国人が『お接待』などの経験を口コミで広め、徐々に人気が高まってきた」。ユーチューブで遍路の動画を見て、フェイスブックで情報交換してから来日するのが、今の主流という。
88番札所・大窪寺近くの「前山おへんろ交流サロン」(香川県さぬき市)には昨秋、歩き遍路の外国人がほぼ毎日訪れた。昨年11月にはフランスの雑誌「フィガロマガジン」の記者が来日し、今年1月、スペインの世界遺産でキリスト教の「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」と四国遍路の共通点を探る特集記事が掲載された。
「お接待文化の素晴らしさや人と人との絆を描きたい」とドキュメンタリー映画の制作を始めたのは、フランス人女性映像作家エミリ・ベルトさん(35)だ。11年4月から49日かけて88カ所の札所を歩いたときには、道中でおにぎりやミカンのお接待を受けたり、励ましの言葉を掛けられたり……。泊まる場所がなくて困っていると、車遍路の男性が一緒に宿を探してくれたこともあった。「出身も年齢も異なる多くの人たちと出会い、温かい心に触れることができた」
今年2月下旬から、再び札所を巡りながらカメラを回している。約2カ月かけて88カ所を歩いて撮影し、今秋に完成させる予定だ。日仏での上映をめざすベルトさんは「遍路を通じて日本の歴史や日本人の心を語りたい」と話す。
高松市のNPO法人「遍路とおもてなしのネットワーク」は06年からスペインやフランス、ブラジルの巡礼路と交流し、10年には「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」沿いにあるスペイン・モリナセカ町に四国遍路の資料室を設けた。
他方、3月28日朝、高松市一宮町のお遍路休憩所を管理する男性(71)が、壁に無断で貼られた紙を見つけた。紙には「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを、四国中に貼り回っています。『日本の遍路道』を守る為、見つけ次第、はがしましょう」と書かれ、「日本の遍路道を守ろう会」という団体名が記されていた。
通学路も近く、男性は「子供たちが見たら大変だ」とすぐにはがしたといい、「なぜ、わざわざこんなことをするのか。海外の人を排除しようとする人がいることが情けない」と憤る。他で見つかった貼り紙も同様の文章が書かれ、休憩所に置かれた寄せ書きノートに書かれていたケースもあった。執拗な外国人排斥の文言の矛先は、お遍路を続けながら道しるべシールを貼っていたソウル市在住の女性への中傷とみられ、施設の管理者などが見つけ次第はがしている。
お遍路は、弘法大師とともに歩く「同行二人(どうぎょうににん)」の思いのもと、巡礼者を広く受け入れてきたお接待の心に支えられてきた。香川県内の札所寺院の男性僧侶は「貼り紙は、日本の誇れる遍路文化を汚すことにもなる。悲しいです」と話した。
道しるべシール貼りは、最近にパソコンの利用でこうした作業がやりやすくなったこともあって、増加していた事情がある。しかし、排斥文の貼り紙のキッカケは、昨年12月には、四国八十八ヶ所霊場会から外国人女性として初めてお遍路さんの「先達」に公認されてからだった。その女性は、もっと韓国でも、友好的に日本を理解できるお遍路にきてもらおうと、矢印で方向を示すなどの道案内シールを、休憩所などで許可をもらい貼っていた。そのことはネット上で電柱などに貼られたシールの画像が公開され批判の標的となった。さらには、四国4県の屋外広告物条例の担当課にメールやファクスで「このシールは条例違反ではないか」という意見が寄せられた。
ソウルの女性は平成22年3月に、インターネットなどで四国遍路を知り、亡くなった父の供養をしようとお遍路に挑戦。優しく声をかけてくれる地元の「お接待」に感動し、春の四国遍路が恒例となった。交流を通じて日本語も上達し、さらに韓国人にもお遍路さんについて知らせたいと考えての事だった。香川県都市計画課は条例対象区域で女性のシールを確認し、昨年8月、メールを通じ注意。女性は「ほかのシールもあったので貼ってしまった。条例違反とは知らなかった、もう貼らない」と返答したという。
これまでこうした道しるべの貼り紙は問題になったことはなかったが、ネットでこの女性だけが狙い撃ちにされた形だ。その貼り紙の排斥文については、各県知事や関係団体が批判。各県警も軽犯罪法違反の可能性があるとみて調べており、各地の法務局は人権侵犯の疑いがあるとして、貼り紙をした人物が判明すれば注意や告発の措置をとることを検討している。現在、四国はお遍路の世界遺産登録を目指していることから、「一定の基準を作らないと、登録にマイナスになる」といった危惧が寄せられた。一方、香川県の文化振興課によると、お遍路の案内について、世界遺産登録に備えて統一サインを作ることを現在協議しているということだ。
参照:
朝日デジタル 4/6
産経ニュース 4/24 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140424/waf14042407000002-n1.htm
2014年08月03日
JAPAN CHINA KOREA HAPPY、 日韓中ダンスで友愛
冨田さんは今年4月、来日したオバマ米大統領のTOMODACHIプログラムに参加した。オバマ大統領の言葉の中で冨田さんがとても勇気づけられ、今でもお守りのように大切にしている言葉がある。
「あなたたちが成し遂げられることに限界はない。私は信じている。あなたたちの一人ひとりが違いをもたらすことができる、と。あなたたちが全身全霊を捧げれば、必ず成し遂げることができる」
オバマ大統領と握手した際、冨田さんは「あなたの夢は何か」と尋ねられた。その時、オバマ大統領に伝えた夢を達成しようと、大統領の言葉をお守りに努力している。冨田さんにテレビ電話サービスを使ってインタビューした。
――オバマ大統領の言葉は日中韓Happyを作るのに影響を与えましたか?
「米国史上初のアフリカ系大統領。そこまで辿り着くにはたくさんの障壁があったでしょう。それらをすべて乗り越えて来た彼にこそ言える言葉であったと思います。だからこそ私も、自分に自分で制限を課さず、こんな自分でも少しずつ小さな努力を重ねて行けば世界を変えれるんだと信じて努力したいと考えています」
「日中韓Happyもその一つであったのではないかと思います。以前から写真や映像を通して伝え、そしてきっかけを作りたいと言ってきましたが、やっとHappyで少しだけ一歩を踏み出せたのではと思います」
「オバマ大統領と出会った経験を通し、すべては一つ一つの経験や努力の積み重ねであり、人と人とのつながりであるということを再確認しました。今まで自分を支え、巡り合わせてくれた周囲の人々に感謝することを忘れてはならないと思いました。私が今、学生として享受しているすべての経験は、将来の自分のキャリアに活かして社会に貢献し、還元するために存在すると強く感じました」
――なぜ、日中韓Happyの動画をつくろうと思ったのですか?
「ずっと日中韓の政府同士の関係は難しかった。最近、日本でも市民レベルでのヘイトスピーチが起きています。韓国や中国でも反日の動きが高まっています。歴史問題や政治問題の難しさはありますが、それぞれの国の市民同士が仲良くできるよう、どうにかしたいなと思ってHappyをつくりました」
――日本、韓国、中国それぞれの若者の反応はどうでしたか?
「すごく良い反応が返ってきました。反対の声も返ってくるかと最初は思いましたが、やろう、やろうと言ってくれました。ダンスをするのが恥ずかしいから私やめとくという子はいましたが、日中韓Happyというコンセプトに対する反対意見はありませんでした」
「日本に来ている留学生なので親日の子が多かったということがあったのかもしれません。自分たちがどうにかしていこうという気持ちがあると感じました」
――製作で苦労されたことは?
「Happyに合わせて踊ろうというのは、米国発、ヨーロッパ、南米など世界に広がりました。日本ではご当地Happyとして3〜4月ごろに広まりました」
「そのうちテーマを持ったHappyが出てきて、その例がパレスチナ自治区のガザや、福島第一原発事故のあった福島のHappyです。この曲に合わせてたくさんの人が踊る動画が広がり、困難な状況でも明るく生きる姿を世界にアピールしていました」
「福島Happyでは、福島から連想されがちな原発の話や、メディアで扱われるとき、福島は暗い話題が多いですが、実際に福島で暮らす人たちは少し違うなと感じています。それを言葉でなくて音楽やダンスで表現しているのがHappyかなと思います」
「だから言葉で表現せずに、テロップも入れたり、説明を動画の中に入れたりすることもできましたが、それをあえてせずに笑顔とダンスだけで伝えるというのがHappyのできることかなと考えました」
「最初は私の友達で、国際会議やセミナーに参加して日中韓の問題を解決したいという思いを描いている人たちに声をかけたり、純粋にダンスを趣味としてやっていたり、部活としてやっていたりする子たちに声掛けしたりしました」
「そこからつながって友達の友達で、韓国、中国の留学生、私が米国に留学していたときの韓国、中国の留学生に頼んで韓国や中国から踊っている動画をメールで送ってもらいました」
「参加してくれたのは100人ぐらい。5月末に撮影をし始めて、7月真ん中に編集が終わりましたので1カ月半ぐらいかかりました。私1人で企画、撮影、編集をしたので自分が違うことに集中してしまうと滞ってしまう。強い思いを持っていないとやり通すことは難しかったと思います」
「やはり悩みますよね、ナショナリズムの問題であったりとか、国旗を使う、使わないでずっと意見の食い違いがあったりして悩んだこともたくさんあったんですね。センシティブな問題なのでかなりバッシングを受けることは最初から覚悟していました」
「それで私がバッシングされるのは良いんですが、参加者に被害が及んだりすれば、私は責任を取れないし、私の望むことではありません。みなさんに顔出しで踊っていただいているので、少し怖くなったりとか、途中で悩んでどうしようかなと思ったりすることもありました」
「みなさんの理解があって撮影も編集も最後まですることができました。ナショナリズムの問題が一番深く悩んだところではあります」
――ナショナリズムをどうとらえていますか?
「難しい問題ですね。すべての国がそうだと思いますが、自国へのナショナリズムであったり、誇り、愛情を持っていたりします。ナショナリズムと歴史問題は深くかかわっていると思うんです。それぞれの国の人たちはそれぞれの国の視点を持っていて、歴史教育を受けて育ってくるわけなんです」
「3カ国の若者が1つのものをつくる上で意見の食い違いは出てくると思うので、そういうのをとっぱらってHappyを作りたかったのですが、そういうものを無視できないところもありますので、難しいですよね」
「歴史問題以前に、若者たちだけではなくて日中韓の人々全員が何で人間として相手をとらえて、ちゃんと仲良くできないのかなと思います。相手が韓国人だからとか中国人だからとかという理由だけで嫌ったりするのは、それは違うなと1人の人間として思うので、だから日中韓Happyの形でまとめたんです」
――大阪では人権教育が熱心に行われていました。僕が中学校のとき、不良の男の子が卒業式に日本名ではなく、本名で呼ばれて、大きな声で返事して卒業していきました。もう37年も前の話なんですが、今でも鮮明に覚えています
「私は小学校のときに韓国名を持った友達がいて、その子のお母さんが非常に熱心に私たちに韓国の文化を教えてくれました。トックとかチヂミを配ってくださったりとか、韓国のオモチャをみんなでつくったりとか、お母さんは彼が馴染めるように一生懸命やってくださっていたんです」
「それをすごく鮮明に覚えていて、学校で韓国語の歌とか歌っていました。そういう教育を受けてきたので、小学校からみんなで仲良くしようという気持ちがあったと思います。本当に小さい頃からの考え方だと思います」
――高校のころ参加された日韓青少年平和討論会ではどんな議論をしましたか?
「高校3年のときが初めてでした。韓国と日本のグループがそれぞれプレゼンテーションを行うんです。フォーラムが始まる前に自国で研究をしてくるんですが、私のグループは教科書問題についてやりました」
「私が持っていた小学校や中学校の教科書や他の中学、高校の教科書を徹底的に調べて、慰安婦に関する記述が何文あるかとかページ数をどれだけ割いているのか調べて、それを韓国の教科書と比べて、どうあるべきなのかという点について発表しました」
「韓国の高校生も歴史問題、教科書問題など本当にさまざまなことを発表しました。トピックスは自分で決められます。その後、質問プラス討議になりました」
――教科書はセンシティブな問題ですね
「本当に議論が止まらないぐらい白熱しました。韓国の高校生は感情的になってしまうことがあるので、大変でした。私たち冷めすぎているのかなという感情を抱くときもありました。私たちこんなので大丈夫なのかな、何も知らないぞというのが日本側の感想でした」
「そのときはそう思いましたが、おそらく韓国の若者がそう思っていたのだと思います。知っていることと知っていてほしいことは違います。だから韓国の若者は日本の若者は何も知らないなとなってしまうんだと思います」
――議論を通して解決の糸口は見えましたか?
「みんなが真剣になって、感情的になってまで議論していることが希望に見えました。私は楽観的な人間なのかもしれませんが、これだけ日韓の若者が真剣になって自分たちの国と相手国の未来を議論できるというのなら、これを続けていったら状況はすごく良い方向に行くんじゃないかなと私は思いました」
「しかし、それはフォーラムの中だけのことなので、それを歴史問題の解決に持っていくのはかなり難しいところはありますが、私は議論を続けていったら状況はすごく良い方向に行くんじゃないかと思いました」
――韓国の若者は日本の若者のどこが問題だと感じていると思いますか?
「日本の若者が知らない、国が教えていないことが問題だと思っています。そして知ろうとしていないと彼らは感じていると思うんです。プロパガンダだったり、歴史教育だったりしますけれど、被害者側として彼らはこういうことがあった、こういうことがあった、絶対に忘れちゃあいけないんだ、繰り返しちゃあいけないんだというのはあるんです。しかし、日本の若者としてはもう少し冷静になって話し合おうと感じます」
「私が小さいときと今でかなり状況が変わってきていると感じています。文化的な交流の面で小学生のときにサッカーの日韓W杯があった。音楽とかドラマの文化面での交流が盛んになりました。以前と以後では日韓関係は形を変えていると思います」
「日韓の討論会に参加したときは、韓国の歌手やドラマが毎日のように流れていたので、文化的な交流を超えたいというのは韓国の若者の中には強くありました」
「文化的な交流はもうたくさんだ。本質的なところを変えていかないと何も変わらないから、もっと真剣に歴史問題に向き合ってくれというのがあったと思います」
――韓国の側に日本の若者に歴史責任を求める声はあると思いますか?
「たくさん韓国の友達がいますが、歴史問題にすごく関心があったり、まったくなかったりという子もいます。一概に韓国の若者がこうだとまとめることはできませんが、歴史責任を求めているように感じます。やはり責任を求める声はあります」
「私たち日本の若者にも知る責任はあると思います。私たちは学ばなければいけないし、自分の国が何をしたかはしっかり学ばなければいけないんですが、私たちが謝罪をするかは別問題です」
――韓国の朴槿恵大統領と日本の安倍晋三首相は音信不通になり、日本の主要メディアは右と左が激しく対立しています
「日本の主要メディアがお互いの悪口を言い合うというのは、はっきり言ってすごくみっともないです。1面で他社の批判を堂々と書くぐらいなら、他にもっと書くことがあるんじゃないのと思います」
「1面でわざわざ悪口を言い合う必要がありますかと私は思いますね。ヘイトに笑顔で立ち向かうではないですけど、日本のメディアが忌み嫌い合ってもしょうがないです」
――韓国メディアが極端に書いたことに日本メディアが反応する。悪循環ですね
「そうですね。人に影響を与えるのがメディアですので、メディアももっと協力して日中韓問題を解決しようとしていかないとダメですよね。韓国や中国がダメだと書いていても、それをあおるだけで、ダメですね」
――日中韓Happyの反響はどうですか? 日本の若者の間に関係改善をさぐる動きが出てきた理由は何だと思いますか? このまま政治や主要メディアに任せたままにしておくと、どこまで悪くなるかわからないという危機感があるのでしょうか?
「最初、ページビューはまったく上がりませんでした。2千ぐらいしかなくて、ハフィントン・ポストに取り上げられてからPVは10倍になりました。しかし、ユーチューブのコメントや個人のツイッターに否定的な書き込みがありました」
「もちろん批判もありますが、日中韓Happyにはかなりサポートの声もいただいていて、だからこそ私は日中韓Happyをお話しようと思ったんです」
「私の友人だけでなく、初めての人からもありがとう、本当に頑張ってくださいとか応援されたりしています。日本だけじゃないと思うんですね、韓国も中国もいい加減、忌み嫌い合っていてもしょうがないぞと絶対思っていると思うので、そこで手を組んでいけたら良いなと思います。日中韓Happyがそのきっかけになれば良いと思います」
出典:
木村 正人コラム (在英国際ジャーナリスト) http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140801-00037897/
2014年08月02日
我孫子市:被爆69周年平和記念式典 「原爆写真展・折り鶴展」
戦後(被爆後)69周年となる今年も、我孫子市原爆被爆者の会と我孫子市では、平和祈念式典を開催します。 式典に先立ち「原爆に関する写真展」と「平和祈念の折り鶴展」の開催(アビスタ内の図書館手前の通路)しています。式典および「平和のアニメ」上映会もあわせて開催します。
恒久平和と核兵器の廃絶を願い、ぜひお誘いあわせのうえご来場ください。
◆平和祈念式典
日程:平成26年8月16日(土曜日) 午前9時30分開式
会場:手賀沼公園内 「平和の記念碑」前(雨天実施)
内容
(1)祈念式典
(2)献花・黙祷(参加者全員による)
(3)広島市派遣中学生の報告等
※ノー上着、ノーネクタイでご参加ください。
※暑さ対策として飲み物とおしぼりを用意します。
参加費 無料 申込み 不要
◆平和のアニメ上映会
日程 同日午前11時から
会場 アビスタ・ホール(入場無料 先着150人)
内容 はだしのゲン
<ストーリー> 原爆で家族を失った主人公が戦中戦後の激動の時代を必死に生きぬこうとする物語で、世界的にも知られるようになってきたアニメです。
・・・・・・・趣旨・・・・・・・・
我孫子市は、昭和60年に「平和都市宣言」を行い、市民の生命と安全を守るため、いかなる核兵器に対してもその廃絶を求めることを宣言しました。翌年には、被爆した旧広島市庁舎の側壁と敷石を譲り受け、手賀沼公園内に「平和記念碑」を建立しました。
問合せ
社会福祉課(内線649)、原爆被爆者の会・大久保(7183−1591)
恒久平和と核兵器の廃絶を願い、ぜひお誘いあわせのうえご来場ください。
◆平和祈念式典
日程:平成26年8月16日(土曜日) 午前9時30分開式
会場:手賀沼公園内 「平和の記念碑」前(雨天実施)
内容
(1)祈念式典
(2)献花・黙祷(参加者全員による)
(3)広島市派遣中学生の報告等
※ノー上着、ノーネクタイでご参加ください。
※暑さ対策として飲み物とおしぼりを用意します。
参加費 無料 申込み 不要
◆平和のアニメ上映会
日程 同日午前11時から
会場 アビスタ・ホール(入場無料 先着150人)
内容 はだしのゲン
<ストーリー> 原爆で家族を失った主人公が戦中戦後の激動の時代を必死に生きぬこうとする物語で、世界的にも知られるようになってきたアニメです。
・・・・・・・趣旨・・・・・・・・
我孫子市は、昭和60年に「平和都市宣言」を行い、市民の生命と安全を守るため、いかなる核兵器に対してもその廃絶を求めることを宣言しました。翌年には、被爆した旧広島市庁舎の側壁と敷石を譲り受け、手賀沼公園内に「平和記念碑」を建立しました。
問合せ
社会福祉課(内線649)、原爆被爆者の会・大久保(7183−1591)
2014年08月01日
自民党の本気度が問われる女性登用
安倍晋三首相が9月第1週に行う方針の内閣改造・自民党役員人事は、女性の登用が焦点の一つだ。
ところが、女性議員は限られ、首相には難しい判断となる。
安倍政権は成長戦略の中核に「女性の活躍推進」を据えており、いよいよ首相の手腕、これまでの政府が着手することもできなかったゾーンへの取り組みの真剣さ問われることになる。
30日、首相が衆院当選3回の稲田朋美行政改革担当相を党三役に起用する方向で、政調会長が有力視されていると一部メディアが報じた。党内の反応は「無理だ」「政調会長はこんなにも軽いのか」などと早速、批判ばかりで、「男性が嫉妬する」との声も漏れた。
首相は2012年12月の政権発足時、政調会長に高市早苗氏、総務会長に野田聖子氏を起用した。党三役への女性2人の起用は与党自民党として初めて。首相には党の刷新をアピールする狙いがあったが、当時も女性の重用に対し、党内の多くは複雑に受け止めた。
現在の女性閣僚は稲田氏と森雅子少子化担当相の2人。政府は秋の臨時国会に「女性の活躍推進」関連の法案を提出する方針のため、今回の改造について、政府・自民党内では「女性閣僚を増やさなければならない」(首相周辺)との認識が支配的だ。
欧米各国では、国務長官に女性やもちろん大統領、首相もいるから、女性が役職についたからと「軽い」などとの反応はない。そのため、女性の登用が進まないと考えてある一定の割合での男女比にならない政党には助成金を出さないとしたところ、当然のように野々村県議のような男性議員は選挙に出られないし、やる気のある女性は立候補すれば当選できるという構図になったきた。変えるとはやはりそういうことだろう!
ところが、女性議員は限られ、首相には難しい判断となる。
安倍政権は成長戦略の中核に「女性の活躍推進」を据えており、いよいよ首相の手腕、これまでの政府が着手することもできなかったゾーンへの取り組みの真剣さ問われることになる。
30日、首相が衆院当選3回の稲田朋美行政改革担当相を党三役に起用する方向で、政調会長が有力視されていると一部メディアが報じた。党内の反応は「無理だ」「政調会長はこんなにも軽いのか」などと早速、批判ばかりで、「男性が嫉妬する」との声も漏れた。
首相は2012年12月の政権発足時、政調会長に高市早苗氏、総務会長に野田聖子氏を起用した。党三役への女性2人の起用は与党自民党として初めて。首相には党の刷新をアピールする狙いがあったが、当時も女性の重用に対し、党内の多くは複雑に受け止めた。
現在の女性閣僚は稲田氏と森雅子少子化担当相の2人。政府は秋の臨時国会に「女性の活躍推進」関連の法案を提出する方針のため、今回の改造について、政府・自民党内では「女性閣僚を増やさなければならない」(首相周辺)との認識が支配的だ。
欧米各国では、国務長官に女性やもちろん大統領、首相もいるから、女性が役職についたからと「軽い」などとの反応はない。そのため、女性の登用が進まないと考えてある一定の割合での男女比にならない政党には助成金を出さないとしたところ、当然のように野々村県議のような男性議員は選挙に出られないし、やる気のある女性は立候補すれば当選できるという構図になったきた。変えるとはやはりそういうことだろう!