2014年06月30日

平和憲法があってこそ、守られて69年

 男子サッカー・ワールドカップで、日本は敗退したが、日本とも対戦したギリシャが今朝はコスタリカとの決戦に臨んだ。そのコスタリカは平和憲法(常備軍を持たないが、非常時徴兵を規定している)を持つ国だとしても知られている。米国による対ニカラグア作戦の基地になった時期があって、中立原則も一時揺らいだ。そこで、1983年にモンへ大統領政権下に「コスタリカの永世的、積極的、非武装的中立に関する大統領宣言」を行っている。しかも、1986年にモンヘ大統領を破り就任したアリアス大統領が、米国の対ニカラグア強硬政策に追随することを良しとせず、アリアス大統領によって国内のARDEの基地は撤去された。さらに中米紛争そのものの解決のためにも尽力し、中米和平実現のために努力に対して、アリアスには1987年ノーベル平和賞が送られていた。


日本は、戦後の平和憲法によって、70年近くになるが、今や永田町では戦争の悲惨さを知る人がもうあまり残っていない時代を反映し、強大与党政権下では憲法解釈による集団的自衛権で武力行使までもの解釈ができるとの方向に進んできているため、このような憲法の解釈で閣議決定することにも疑問視する声は多い。
 
 その展開をみて、「自衛権、という言葉はまやかしだ」と、作家・早乙女勝元さん(82)は言う。「戦闘権、というべきです。これはいつか来た道。歴史に学ばなくてはいけません」と訴える。我孫子には弟・早乙女菊王がおられたので、我孫子の方々も注目度が高い作家であり、東京大空襲の裁判をされる方を応援してきたことでも知られる。実娘もコスタリカの平和憲法の研究をして、講話活動をされる。

 「若い人に『銃後』と言っても通じませんよ。数字の十五と勘違いされる」と苦笑する。今も「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)の館長を務め、戦争体験の継承に力を注ぐ。だが、実際に継承していくことの難しさを感じてもいる。戦争になれば、戦場から離れた場所はすべて「銃後」となる。そこで何が起きたか。

 12歳だった1945年3月10日、父に起こされて外に出ると、真っ赤な火の海が見えた。リヤカーに家財道具を縛り付け、焼夷弾が降る中を両親たちと逃げ回った。電柱がマッチのように火を噴き、人が火だるまになっていた。死が目の前にあった。この空襲で10万人が死んだ。

 「聖戦を行う神国・日本」「神風が吹いて必ず勝つ」と教えられていたが、町は焦土と化し、戦争の実態を知らされないまま民間人が犠牲になった。どうして戦争を止められなかったのか。当時、女性に参政権はなかった、決定権はすべてお上にあった。「いつの間にか始まって、いつの間にか火の粉が降ってくるようになった」と母の記憶だった。「見えざる、聞けざる、言えざる」の状態で国民は戦争に動員されたのだ、と思った。

 戦後は工場勤務の傍ら戦争体験を本にまとめ、戦災資料センターの開設に尽力した。戦争で大切な人を亡くした遺族たちの証言を集め、講演などで「(戦争を)知っているなら伝えよう。知らないなら学ぼう」と訴え続けてきた。「戦争が恐ろしいのは、その本質が隠蔽、お国のためにと美化されることです」。議論が尽くされぬまま、美しい、日本の誇りだと言い逃れで、集団的自衛権の行使へと向かう今が、当時と重なって見える。

 安倍晋三首相は、集団的自衛権の類型を説明する際、パネルで母子を守るイメージを前面に出した。早乙女さんは、「戦闘に加わり、外国人を殺傷し、自国民である隊員からも死者が出るかもしれない。日本は、米軍基地もあるので、攻撃目標となって狙われる可能性が出てくると言うべきです。歴史を知らないと道を誤ります。そうして犠牲になるのはいつも市民、民間人。戦乱になってしまえば、女・子供が逃げそびれる可能性が高まるのだと、そのことを私は死ぬまで証言し続けます。」と言う。


出典:
毎日新聞 2014年06月28日 22時45分(最終更新 06月29日 01時39分)



posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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