2014年05月06日

白樺派の大正時代を我孫子から研究すると何かが見えてくる?!

世界的な芸術活動を見据えていた白樺派、そのきっかけはやはり「我孫子」に芸術家村をつくったことによるのだ、と仮説をたてて研究を進めているので、大正の時代背景を柳宗悦・兼子夫妻を中心に据えて振り返ってみている。教科書で教えられてはいない色々な事実に気づかされ、驚くことのころなので、もし、このブログを継続して読んでくださる人がいたら、我孫子の時代背景でご存知のことをお教え願いたい。

Y、S、M夫妻、リーチのいた大正時代
1919
独立運動(3/1)を知って、「朝鮮人を想う」連載(読売新聞5/20−24)、朝鮮留学生たちが柳邸を訪れる。(官立音楽学校では朝鮮留学生を受け入れず、兼子は朝鮮人留学生の個人レッスンなどを続ける)。夫妻に官憲の尾行が激しくなる。当時、我孫子は陸軍行軍演習地だった??(志賀『十一月三日の事』)。
兼子、白樺社主催「柳兼子独唱会」(植民地化曲目厳選)
バーナード・リーチの窯のための工房(柳邸内)が全焼失(5月当日は無風との記録あり)。

1920
「朝鮮人の友に贈る書」(東亜日報4/19-20掲載、途中で中止)柳夫妻、リーチと朝鮮訪問。兼子、ソウルで独唱会開催(6回)。リーチが英国帰国、濱田もセントアイブスへ

1921
朝鮮民族美術館計画を発表(1月)、兼子の朝鮮での独唱会。我孫子から赤坂へ移る(3月)

1922
私版本『朝鮮の美術』、『失われんとする一朝鮮建築のために』(8月末、東亜日報掲載)妹・今村千枝子、三男・宗法を続けて亡くす。(1927年、四男・宗民誕生)

先月末にも、「我孫子東西の芸術家村」の話を数人の勉強会で話したが、「お坊ちゃんの白樺同人」とは違う面が多々浮かび上がってくる。皆さんも白樺の活動について、新たな新事実が多いと感じられて頂けたようだったので、なぜそうなっていったのかなど、さらに調査を続けてみようとGWに図書館で本をあさったり、考えていた。


posted by Nina at 00:00| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ
日記(3399)
ニオュ(0)
歴史(0)
chiba(60)