芦屋の友人は、震災2年の間に出された芦屋の記録を残そうと、書物、資料256件が整理されて纏めていった。そして、文の最後に「今は打ちひしがれている人たちも、またこのホームベースに立って打って出ていったて欲しい。そんな願いを込めています。」とある。彼女自身、震災の直前にマンションのローンを組んでいたのだから、打ちひしがれた気持ちになった一人だったのだろうし、その気持ちを振り切るのにはそうはを簡単ではなかったろうと分かる。実のところ、たまに電話をかけても、自分が出来ることに限界があると分かっているので、適切な話題をみつけるのも難しい。そうした状況を自らが乗り越えるために、忘れるために当時はパソコンに向かっていたのだったのが分かったから、この冊子が出来た時には後方支援よろしく、量販を引き受け、新聞にも紹介されたものだった・・・・。
震災はその人の人生を変えてしまう。人生設計を狂わせてしまう。頑張りきれない人も多くいる。そして、忘れる前に取り上げられない面がたくさんあるということだ。TVの取材に映るのは復興の様子だけれど、分かりにくい心の部分は画像にはできない。ストレスは癌を誘引するというのだから、併発した方も多いだろうし、福島では自殺者の報道がいくつかあったが、阪神淡路大震災でも少なくはなかっただろうと思う。忘れないでいるより、辛さを忘れるほうが人の心理としては救われる。今でも亡くなってしまった友人のことを思い返すと私自身も辛いのだから、当事者のご家族は乗り越えなくてはならないものが幾重にも大きい。だから、行政はその役割として過去を教訓にして、常に安全な備えをして、率先いくべきだ。
震災への備えを出来るだけして、震災に強いまちにしておきたいと私が市議になっている間に考え、しつこく議会で質疑を繰り返したのは、阪神間に住んでいた経験によって、震災後にもその影響が続くことが大きいのを知っていたからだった。減災に極力つながるように多様な調査と情報収集に努め、質疑をし、自分でもしつこいくらいだったろうと思うけれど、判断は間違っていなかった。3.11の後にある職員から、ああした質問を繰り返しておいてくれたのは良かったよと言われ、そう評価していてくれた人がいたとも知った。役所で働く職員の方々は市民への奉仕と言うことを常に考えて最前線で働く人たちだから、究極の事態には行政の役割は大きい。そんなことを、思い返した3年目の3.11だった。