中国が新しい国家に生まれ変わろうとする19世紀終わり頃から20世紀前半にかけて、中国と日本で、互いに親密な交わりを持ちながら活躍した日中の若者二人の友情がありました。中国の革命運動に生涯をささげた孫文(1866-1925)と、日本の映画産業の地盤を築きつつ、孫文を物心両面にわたって手厚く支援した梅屋庄吉(1868-1934)です。
梅屋庄吉が生まれたのは明治元年。長崎の貿易商・梅屋商店の跡取り息子だったが、破天荒な性格ゆえに25歳の頃家を飛び出したまま行方知れずとなっていました。息子に愛想を尽かした父・吉五郎は、明治27年、壱岐で生まれ育ったトクを養女に迎え入れ跡取りと決めるが、その2年後、庄吉は香港からひょっこり帰宅しました。そんな庄吉に吉五郎は自分が死ぬ前にトクと結婚して欲しいと遺言、出会ったばかりの二人は夫婦となるのです。しかし、吉五郎が亡くなると、葬儀の直後、庄吉は再び一人で香港に旅立ってしまいます。
庄吉は香港で写真館を始めて大繁盛していた。そんな明治28年、医学博士で牧師のジェームスカントリーの紹介で、庄吉は孫文が運命の出会いをします。二人はすぐに意気投合、清朝の皇帝支配により苦しい生活を強いられている民衆のために、革命に情熱を傾ける孫文は、庄吉に支援を頼みます。孫文の思いに触れた庄吉はそれに応じ、資金援助をすることに。孫文はすぐに兵を挙げるが幾度となく失敗が続きます。しかし、庄吉はその後も資金を送り続ける。一方、日本で9年間も待たされ続けたトクは、明治36年のある日、とうとう香港に押し掛けていきます。
香港で、庄吉が引き取った身寄りのない3人の子供たちと、トクもに暮らし始めると、庄吉が孫文を支援していることを知ります。その理由を尋ねたトクに、庄吉は「同仁」という言葉が書かれた紙を差して示しました。同仁とは、わけへだてなく広く平等に愛すること。庄吉の思いを受け止めたトクは、庄吉の秘密の支援活動を支えていくことを決意するのでした。後に、トクによって、孫文は宋美鈴と結婚の意思を伝えることが叶い、さらにはトクが梅屋の屋敷で結婚披露宴を取り仕切ります。
孫文が中心的な役割を果たした辛亥革命(1911)から百年が経過して、孫文と梅屋庄吉は長崎、香港などで親交を持ちました。いずれも歴史の実像を物語るきわめて貴重な資料でありながら、これまで一般にはほとんど目に触れることがなかったのです。激動の時代における中国や日本の様相はテレビドラマとして来月3日に再放送が予定されます。百年の記念の時期に上野の東京博物館でも記念展が開催されました。
参照:
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1398&lang=ja