2014年01月12日

ハワイの日系人社会の祖

日本人のハワイ移住が始まって昨年が145年目、ホノルルのペンサコーラ通りとワイルダー通りの高台にある日系人の先祖が葬られた「マキキ・セメタリー 」に連れて行ってくれたのは、40年もペンパルとして家族ぐるみの交流をしてきたアイリーン(日系三世)だった。

昔は街はずれ丘からは海を見下ろせたと思われるが、現在は周囲を住宅に囲まれってしまっている。一角には、先住民や西欧人の名前のエリアもあるが、日系人のお墓がそのほんどを占めていた。一方、ハワイの日系人組織であるハワイ日系人連合協会(通称連協)は、先駆者たちの墓が荒廃していくのを懸念して、連協の会員やオアフ官約移民百年祭委員会が中心となり、無縁仏を集めて寄せ墓を建立することを決め、そのために約七万ドルの募金を集め、墓碑を建立した。高さ約四メートルの花崗岩の寄せ墓碑は、岡山県から運ばれ、官約移民がハワイに到着した101周年に当る1986年2月8日に「ハワイ日本人移民慰霊碑」が設置された。この寄せ墓碑の下には、289柱が眠り、毎年、お盆の時期には、連協の会員らが中心となり供養が行われているという。

墓地の大半は一般の人のものだが、ひと際大きな碑が高い位置に4基が建っている。「明治元年渡航者之碑」、「ハワイ日本人移民慰霊碑」、「日本海軍軍人鎮魂碑」、「三界万霊碑」と刻まれたものだ。この日本海軍墓地は、海外に初めてできたものであり、明治9年、日本海軍創設当時の水兵ほか明治32年までの没者16柱の英霊が埋葬されている。日本海軍が日本海上自衛隊となった今でも艦隊がホノルルに寄港する際には、必ずこの地を訪れ、この「日本海軍軍人鎮魂碑」に参拝や献花をおこなっているということで、私が行ったときもつい最近に手向けられた花輪が置いてあった。

「明治元年渡航者之碑」は、「元年者」のことを指し、1868年(明治元年)に最初に渡った集団移住者(153人)のことで、明治新政府から正式な「移民」と認められていないため、「渡航者」と書かれているのではないかと考えられる。当時を記録したものによると、最初の「官約移民」は1885年横浜港から944人を乗せて出港した。その頃のハワイの人口約8万人に対して在留邦人は元年者の残留者を中心に百十数人、そこに9倍もの日本人が到着したのです。それ以降ハワイに日本人は急速に増加して行き、官約移民が廃止される1994年までの約10年間に2万9千人もの日本人移民がハワイに渡り、ハワイ総人口の27%を占めるまでになりますが、日米開戦によって移民の歴史は幕を閉じます。

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以下に、「ハワイ日本移民慰霊碑」に刻まれた碑文を掲載します。

[建碑の辞]
遠く萬延元年4月、1860年、日米修交条約批准交換の遣米使節護衛艦咸臨丸が帰国の途次、初めてハワイに寄港して以来、日本軍艦の来航は五十数回を重ね、在留邦人の権益擁護と、日布親善に寄与した功績はまことに大なるものがあった。これら旧帝国海軍は各々その任務を全うしたが、中には不運にも任務半ばに病のため斃れた将兵もあった。当マキキ日本人墓地は明治元年、1868年以来ハワイ開拓日本人移民の縮図ともいうべき由緒ある日本人最古の墓地である。

また、この日本海軍墓地には、明治9年、1876年、日本海軍創設当時の帝国海軍、軍艦初代筑波二等若水兵荒川又十郎ほか、明治32年までの間に病没者16柱の英霊が埋葬されている。これが海外に於ける日本海軍最初の墓地であるが、爾来星霜、茲に幾百年、墓標は傾き霊域は荒廃し、見るに偲びないものがあった。

依って我々同志相はかり、日本朝野関係各位の賛同と、当地日系有志諸氏の協力の下に「明治元年渡航者の碑」と共に墓地改修を発願し、ハワイ海域に眠る無名諸英霊をも招魂合祀し、茲に鎮魂碑を建立、史跡を保存し、記録を永く後世に伝え、以って太平洋永遠の平和とこれら諸英霊の冥福を祈念するものである。   合掌            1971年10月

発願:ハワイ明治会
実行:修復委員会 

協賛:日本国総領事館・日本海上自衛隊・水交会・呉市役所・ハワイ日本人墓地
協会・ハワイ仏教各宗務長会・ハワイ神道連盟・有志一同

[参考:ハワイ移民の略史]

「日本人の布哇(ハワイ)移民」は1868年に始まる。それ以前にハワイへ日本人が渡ったというのは、ジョン万次郎 等がアメリカの捕鯨船に救われて立ち寄った例などを除いて記録に残るものは少なく、それらは「移住」という形態を取るものではないものだった。1868年は日本の明治元年ということだ。ハワイでは砂糖キビ産業の労働力が必要だったが、先に大量に移住した中国人に対し排斥運動が起こったため、替わりに日本に移民を要請してきたのです。

時代の転換点であったため、幕府がハワイ政府の要請を受け入れたものを、明治新政府は移民を認めなかったため、募集に応じた一行は無許可のまま渡航するということになったという。最初に渡ったのは153人と伝えられていて、この人たちのことを「元年者」と呼んだ。

ハワイに渡った「元年者」は砂糖キビ栽培に従事した。この人達は農家出身者ではなく都市生活者であったため、農業に慣れておらず、長時間労働や賃金の支払い方法の行き違い、言葉が通じないなどの問題が絡み、雇用会社側との間にトラブルが起きていた。「元年者」は移民の先駆者でありながら「海外出稼ぎ」とか「厄介者」などと云われながら、苦難に満ちた日々に明け暮れた。一方、ハワイでは温徳で勤勉な日本人移民の評価が高く、引き続き移民を送ることを要請したが、日本政府はこれをすぎには認めなかった。ようやく、1881年ハワイ王朝7代目のカラカウア王が世界周遊の途次日本に立ち寄り、あらためて移民再開の要請をしたことにより、「日本布哇労働移民条約」が取り交わされ、最初の渡航者から17年後に「官約移民」が始まったということだった。

こうした先人たちのご苦労を日本の本土にいる人々はなかなか思い至らずではないだろうか、現地の日系人もあえて観光の場所にこのようなところは案内しないが、私が戦艦アリゾナ記念館(見学は午後三時まで)を訪問することが出来ずに残念がっていたので、連れて行ってくれたのかもしれない。

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posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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