2014年01月31日

どうなる世界衛生

一年前、1月 南米メキシコで豚インフルエンザが猛威を振い、世界的大流行(パンデミック)になる恐れがあると、WHOから表明されました。

乳幼児死亡率がアメリカやイギリスでも1000人あたり11人であるのに、キューバは6.5人(日本は1,000人当たり2.8人)。南米諸国の平均寿命を見てみると、グアテマラ57歳、メキシコ47歳、アルゼンチン36歳、チリ32歳なのに、キューバは76歳である。 死亡原因も心臓病、悪性腫瘍、脳血管疾患、不慮の事故という順になっており、先進国と同レベル、エイズワクチンの研究水準でも他の先進諸国と肩を並べる。住民169人あたり一人の医師がいる換算で、アメリカでも405人、日本も520人に1人なのだから、世界最高水準の医療といっても過言ではない。特に、プライマリ・ヘルス・ケア、健康教育と予防が重視されたのだ。その為、医学部は無料で留学生(アメリカ人も含む)も無料である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。これらは、マイケル・ムーア監督の映画『Sickoシッコ』で紹介された。映画の中で、米国の医療制度に見捨てられた患者さんたちを引き連れてムーアが向かうのが、キューバの病院です。保険金の支払拒否をおこない、利益を上げる営利主義一辺倒の医療保険会社や製薬会社。映画では、それに癒着、取り込まれた政治家(アメリカではかつて民主党のヒラリー・クリントン議員がファーストレディとしての立場(当時)から公的医療皆保険制度の整備を求め、議会の反対により頓挫したことがある)という構造を暴き、事実上、崩壊に瀕している状況のアメリカ医療制度に対して、イギリス、フランス、カナダ、キューバなどの医療制度と対比させるなど、これまで公然と触れられることの少なかった米国医療の暗部を赤裸々に描き出している。

今、キューバでは、ヘルス・ツーリズムが主要な外貨獲得源になっています。ラテンアメリカ人のみならず、ヨーロッパ人までもが、キューバ人医師の優れた評判やその治療費の安さ、そして美しいビーチを要した保養地に魅了されキューバにやって来る。 その他、福祉施設、老人ホームも次々に作られて、21世紀の高齢化社会へ向けての準備も着々と進められている。キューバ革命後に最も力を注いだのはこうした悲惨な医療事情、とりわけ恩恵に与かれなかった貧しい農村注民に医療サービスを提供することであった。カストロも語っている。 1959年訪日した際は、広島の平和記念碑を訪れている。

国境なき医師団は独立・中立・公平の原則に基づく人道援助活動が評価され、1999年度のノーベル平和賞を受賞した。このため、遺産や相続財産を有意義に活用するために、国境なき医師団日本への寄付をする方も増えているのだという。http://www.msf.or.jp/donate/donate.html


一方で、メキシコは貧富の差が大きい。新型インフルエンザにも対応できるようなメキシコ市内の設備の整った私立病院では、救急車で運ばれると、まず3000ペソ(約2万3000円)を支払わないと治療してくれない例もある。月収6000ペソ程度の人も多く、手が届かない。政府は、いまだに感染の全体像をつかめていない。政府の対応が遅いとの記者の批判に保健相は「世界初のケースだからだ」と話す。情報提供も混乱している。メキシコ市長が独自に市内の新たな死者数を発表。政府発表と食い違いが起こった。また、保健相が記者会見を開かず、地元テレビ1社に患者・死者数を明らかにするケースが続いている。

今年、メキシコ・アメリカを始めとして新型(ブタ)インフルエンザの感染は、欧州、ニュージーランド、中東、南米にも広がり、WHO(世界保健機構)においては警戒レベル「フェーズ5」(人から人への感染が2か国以上でおきている状態)とし、「フェーズ6」(世界的な大流行《パンデミック》)への可能性もあり得ると言われているというが、マスメディアではさほど報道がないように思うがどうなのだろう。
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2014年01月30日

Spring has come 

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駅に行く道にはいつの間にか春がきていた。
うちの子供たちが大好きなケーキ屋さんがある通り道、道は変わらないようでいて、いろいろな生活の変化があると思う。
聞けば、この通り道は団塊の世代が現役だった頃、頻繁に人の行きかうさまがあったので、店を開くことにしたが、めっきり減ったのだとケーキ屋の店主はいう。
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2014年01月29日

それぞれの言い分

 中国外務省の華春瑩副報道局長は27日の記者会見で、1950年作成の中国政府の外交文書に沖縄県・尖閣諸島が琉球(沖縄)に含まれるとの記述があるとの報道について「よく分からない」と述べるにとどめた。釣魚島(尖閣諸島の中国名)は中国固有の領土だと主張した上で「日本政府の史料にも(中国側の主張を)裏付けるものは少なくない」と反論した。 

 出典:
日経新聞 2012年 12月27日
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2014年01月28日

韓国「慰安婦事業」新年度予算を2・3倍に増額

 韓国の女性家族省は27日、いわゆる従軍慰安婦関連の事業予算を2014年度(1〜12月)、昨年度比2・3倍の45億8700万ウォン(約4億3400万円)に増額したと発表した。 ここ数年では最多。広報予算を大幅に増やし、慰安婦問題を国内外でアピールする狙いがある。

 同省によると、「被害者の名誉回復、歴史意識の向上事業」に、予算全体の約7割に当たる33億8300万ウォン(約3億2000万円)を配分した。主な事業としては、国内2か所の慰安婦関連施設の建設に7億ウォン(約6600万円)を投じる。


出典:
 yomiuri onlaine 1月28日(火)10時10分配信

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  翌28日、日本の文部科学省は沖縄県の尖閣諸島と島根県の竹島について、中学校と高校の教科書編集や指導の指針となる学習指導要領の解説書を改訂し、「わが国固有の領土」と明記した。同日中に全国の教育委員会などに通知し、中学校は2016年度から、高校は17年度から使用する教科書に反映させる。

 下村博文文部科学相は同日の閣議後記者会見で「固有の領土を子どもたちに正しく教えることは国家として当然。近隣諸国には外務省と協力して丁寧に説明していきたいが、友好関係を保つことと改訂は別問題だ」と述べた。今後、学習指導要領を同内容に改める意向も示した。
 

  解説書は約10年ごとに行われる指導要領の改定に合わせて変更されるのが通例。次回は中学が16年度の予定で、前倒しは異例なこと。

出典
jiji 2014/01/28-11:50



 

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2014年01月27日

隣国を知るために

韓流ドラマ「チャングムの誓い」は、朝鮮王朝時代の人物をモデルに創作したヒロイン・チャングムのサクセス・ストーリーだ。TVドラマとして韓国では56%の視聴率を記録した。私もこのドラマは時々目にしていて、宮廷衣装の美しさに目を見張った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%BB%B7%E5%A5%B3%E5%AE%98%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%AA%93%E3%81%84
 
楊州(ヤンジュ)MBC「チャングムの誓いテーマパーク」では、済州島で撮影当時のオープンセットがそのまま残っているという。マッコリの試飲、監獄や昔の刑罰の体験ツアーがあり、日本人観光客も多くくる場所だと言う。
http://www.konest.com/tour/tour_detail.html?t_id=D9_ChangGeum

こうした、日韓文化交流が盛んになったのはサッカーワールドカップの共同主催や「冬のソナタ」に始まる韓流ブームが主導したと思われる。

しかし、国交がない間に鬱積した日本の帝国主義、軍国主義に対しての歴史から、国交樹立後も戦前の植民地時代の先入観は色濃く残っていた。例えば、次のような新聞記事からも分かる。

********2002年02月26日[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] ******

  「柳寛順(ユ・クァンスン)烈士について誤って理解されている点を正してみたかった」と、この4年間、柳寛順研究に没頭してきた郷土史家の任明淳(イム・ミョンスン、55、忠清南道天安市社稷洞)さんは語った。

天安大学にある柳寛順研究所の客員研究員でもある任さんは「柳寛順に関連した内容が、1945年8月15日の解放以後、植民地時代に日本が行った蛮行を糾弾するという意味合いから、誇張され過ぎてしまった感がある」と主張する。

「三一運動=柳寛順」というイメージを持つ柳寛順だが、出生・死亡年月日は記録によってまちまちだ。名前の漢字表記や兄弟の数、梨花(イファ)学堂に入学した年度も、やはりそれぞれ異なっている。

天安一帯で起った「己未年万歳示威」では、20人余りが殉国した。だが、死亡して80年が経てば、戸籍が整理され、記録から完全に抹消される。 

これを知った任さんは、99年から柳寛順ら殉国した先烈の除籍謄本をすべて集め、研究を行ってきた。

謄本によって任さんは、柳寛順の出生年が1904年ではなく1902年で、1人娘ではなく姉が1人いたという事実を確認した。任さんは昨年10月、天安大学が主催した「柳寛順烈士追慕学術大会」で、我々が知る柳寛順の殉国月日と生年月日が事実とは異なる、と指摘した。

任さんは、柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だったと主張した。京城(キョンソン)復審裁判所(控訴審)の判決文と受刑者記録表によると、柳寛順は小学校の教科書にあるように「検事に椅子を投げつけたため法廷冒とく罪が追加され、7年の刑を宣告された」のではなく、3年の刑を受けたという。その後、柳寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、これが最終刑量になったという。

「梨花学堂時代、柳寛順の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言によると、死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうです。その時、死体は腐っていましたが、四肢は切断されてはいなかったという話です」。

任さんは「柳寛順への盲目的な思い込みから、こうしたいい加減な話が広まり、子供向けの伝記にまで掲載された」とし、「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」と話した。

大学で農学を専攻した任さんは、農村振興庁で勤めた経験があり、20年余り自営業(農薬販売)を営んできた。だが現在は、天安地域の郷土史研究に没頭している。

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梨花女子高等学校(柳寛順記念館)
http://homepage2.nifty.com/hashim/seoul/seoul005.htm

柳寛順(ユン・グアンス1902ー1920)という少女が、朝鮮支配を受けていたころ、こつ然と立ち上がり独立を訴えてデモを先導(、そして、時の政府によって投獄されてしまう。しかし、獄中で意思を曲げることなく亡くなったことから、アジアのジャンヌ・ダルクとも言われている。忠清南道天安(チョンアン)郡(現在の天安市:ソウルの南約90キロ)に生れたので、この近くには天安抗日記念館がある。

私も視察にいったことがあるが、韓国の小中学生の見学者が多く来ていたので、日本語で話すのは憚られる雰囲気だった。しかし、最近は日韓の関係を正視して見直すべきとの研究者の声も反映して、展示の方法を訂正していくよう試みがみられているという。日韓研究者らの真摯な調査研究で、無駄な隣国同士の摩擦は解消していくべきだ。
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2014年01月26日

アジアの中の意識差

   2013年7月にアメリカの調査機関ビュー・リサーチ・センターが発表したアジア諸国への世論調査で、衝撃の数字が出た。 日本に対する印象が、「非常に悪い」と「良くない」を合わせると、実に韓国人で77%、中国人で90%が、日本に対して「良くない印象」を持っていると回答したのだ。

 また、「過去の軍事行動に対する日本の謝罪は不十分」だとする回答は、韓国で98%、中国で78%。大半が不十分とする回答だった。

 他国ではおおむね日本への好印象が8割を超えており、謝罪に関しても他のアジア諸国では「不十分」との意見は少数派だった。

 つまりこの調査でわかったことは、韓国人と中国人だけが圧倒的に「日本嫌い」だという現実である。 

参考: 週刊ポスト2013年8月16・23日号
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2014年01月25日

食物になるまでを考えると・・・・

国産畜産物安心確保等支援事業

「アニマルウェルフェアの考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」では「除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な生後2か月以内に実施すること」が推奨されている。
去勢雄牛を去勢しないで肥育した場合、キメが粗くて硬い、消費者に好まれない牛肉に仕上がる。また去勢しない雄牛を群飼すると、牛同士の闘争が激しくなり、ケガが発生しやすく肉質の低下にもつながる。このため、日本の肉牛の雄は、77%が去勢される。去勢は3か月齢以上で行われることが多く、基本的に麻酔なしで実施される。牛の移動をスムーズにするなど、牛を調教しやすくすることができる。日本の農家では約84%で鼻環の装着が行われている。鼻環通しは麻酔なしで行われる。国産畜産物安心確保等支援事業「アニマルウェルフェア(動物福祉)の考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」では「牛へのストレスを極力減らし、可能な限り苦痛を生じさせないよう、素早く適切な位置に装着すること」とされている。

子牛は生まれてすぐに母牛から離され、母牛から取った乳が人間の手で与えられる。但し、乳を牛乳の生産ラインにのせるために、できるだけ早く母乳から代用乳(粉ミルク)への切り替えが行われる。母牛から離された子牛の多くは、繋ぎ飼いか単頭飼いのストール(囲い)で飼育され、1か月 - 1か月半にわたって代用乳や人工乳(離乳食)を与えられる。徐々にやわらかい乾草や濃厚飼料(配合飼料)へ慣らしていき、離乳後は群飼にうつされることが多い。
生まれた子牛が雄ならば生後2 - 3週間後、肉牛にするため肥育農家へ売りに出される(国産牛肉の1/4は、乳牛から生まれた雄子牛を28か月程肥育してからと殺したものである)か、子牛肉として18週 - 20週飼育されてからと殺される。

子牛は生後3 - 6か月ほどで除角が行われる。牛舎内での過密飼いをする場合には、牛の攻撃性を抑えるためや管理者の角による怪我を防ぐために除角をすることが望ましいとされている。放牧主体の酪農がほとんど行われていない日本では、乳牛の93%以上に除角が行われている。農林水産省の委託を受けて社団法人 畜産技術協会が策定した「アニマルウェルフェア(動物福祉)に対応した乳用牛の飼養管理指針」では「除角を行う際は、牛への過剰なストレスを防止し、可能な限り苦痛を生じさせない方法をとることとする。(中略)除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な生後2ヵ月以内に実施することが推奨される」とされている。

出産後約300日間搾乳される。日本の搾乳牛の飼養方法はつなぎ飼い (73.9%) 、牛舎内での放し飼い (24.8%) が主流であり、自然放牧による飼養は2%に満たない。なお、出産しなければ乳は出ないため、経済効率を上げるために、出産後2か月ほどで次の人工授精が行われる。

乾乳:乳牛は出産後約1年間乳を出し続けるが、次産後の搾乳に向けた乳腺組織の回復・母体の体力回復を目的として、次の出産前の約2か月間、搾乳を中止する乾乳が行われる。
乳の泌乳量は3-4回目の出産後がピークであり、その後徐々に泌乳量は下がる。乳量が下がったり繁殖ができなくなり、と殺された乳牛のことを「乳廃牛」という。乳廃牛は食肉に利用されるほか、肥料や革製品などにも利用される。牛の寿命は自然界では20年ほどだが、乳牛は6-7年で廃牛とされる。

繁殖農家で生まれた子牛は、250〜300kgになる10か月齢〜12か月齢まで育成され、「素牛」(6か月齢〜12か月齢の牛)市場に出荷され(2〜4か月齢で出荷されるスモール牛市場もある)、肥育農家に競り落とされる。生まれてすぐに母牛から離されることが舌遊びの原因となっている。「子牛は自然哺乳の場合1時間に6000回母牛の乳頭を吸うといわれている。その半分は単なるおしゃぶりにすぎないが、子牛の精神の安定に大きな意味をもつ。子牛は母牛の乳頭に吸い付きたいという強い欲求を持っているが、それが満たされないため、子牛は乳頭に似たものに向かっていく。成牛になっても満たされなかった欲求が葛藤行動として「舌遊び」にあらわれる」 。実態調査では、種付け用黒毛和牛の雄牛の100%、同ホルスタイン種の雄牛の6%、食肉用に肥育されている去勢黒毛和牛の雄牛の76%、黒毛和牛の雌牛の89%、ホルスタイン種の17%で舌遊び行動が認められた。その後、「肥育牛」として肥育される。飼育方法は、繋ぎ飼い方式・放牧方式など多くの選択肢があるが、数頭ずつをまとめて牛舎に入れて(追い込み式牛舎)飼う、群飼方式が一般的である(日本の農家の約80%)。また、牛を放牧又は運動場などに放して運動させることは、運動不足による関節炎の予防や蹄の正常な状態を保つために必要であるが、日本の農家では約6%しか行われていない。そのため、1年に1〜2回程度の削蹄を実施している農家が多い。

肥育前期(7か月程度)は牛の内臓(特に胃)と骨格の成長に気をつけ、良質の粗飼料を給餌される。肥育中期〜後期(8〜20か月程度)にかけては高カロリーの濃厚飼料を給餌され、筋肉の中に脂肪をつけられる。霜降り肉を作るためには、筋肉繊維の中へに脂肪を交雑させる、という通常ではない状態を作り出さなければならない。そのため、肥育中期から高カロリーの濃厚飼料が与えられる一方で、脂肪細胞の増殖を抑える働きのあるビタミンAの給与制限が行われる。(筋肉の中の脂肪は「さし」とよばれ、さしにより霜降り肉ができる) 肉用牛は、生後2年半〜3年、体重が700kg前後で出荷され、と殺される。

繁殖用として飼育される雌牛は生後14か月〜16か月で初めての人工授精(1950年に家畜改良増殖法が制定され、人工授精普及の基盤が確立し、今日では日本の牛の繁殖は99%が凍結精液を用いた人工授精によってなされている)が行われ、約9か月で分娩する。経済効率を上げるため、1年1産を目標に、分娩後約80日程度で次の人工授精が行われる。8産以上となると、生まれた子牛の市場価格が低くなり、また繁殖用雌牛の経産牛の肉としての価格も低くなる場合があるため標準的には6〜8産で廃用となり、と殺される。 また、受胎率が悪い、生まれた子牛の発育が悪いなどの繁殖用雌牛は経済効率が低いため、早目に廃用される。

牛舎内での高密度の群飼い(狭い時で1頭当たり5u前後)ではケガが発生しやすく、肉質の低下に繋がることもある。また管理者が死傷することを防止するためにも有効な手段と考えられており、日本の農家の約半数が除角を実施している。除角は3か月齢以上でおこなう農家が多く(日本の農家の約88%)、断角器や焼きごてで実施され、そのうち83%は麻酔なしで除角される。

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2014年01月24日

安倍政権の今後を占う、米NPO/USJI

日米研究インスティテュート(USJI)主催で、昨年12月12日に開催した国際シンポジウム「安倍政権の一年と今後の方向:外交・安全保障戦略」では、約460名が参加した。筑波大の中国人留学生に案内をもらったので、知人と共に聴講したが、アベノミックスの年を振り返るには興味深い内容だった。

 当日のサマリー、映像が下記URLのホームページに掲載されたので、皆さまにもご紹介です。

  ・日本語版
  http://www.us-jpri.org/seminar_20131212.html

 ・英語版
  http://www.us-jpri.org/en/seminar_20131212.html

 
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2014年01月23日

中国に最も友好的だった国は日本!?「たしかに日本はいつもそうだった」―中国

中国のネットユーザーのやり取りは、自由闊達で共産党の貼り出す壁新聞しか情報がない時代と比べて、天安門事件があったものの、一国二制度の大転換を図って以来、いかにも言論の自由も容認されている感があるが、そうはいっても党による牽制であって、民主主義とは遠い。それだから、中国の若者、ネットユーザーの中には日本の市民社会と政治は切り離したほうがいいと、やけに納得している人達もいるようで微笑ましいともいうべき声があったというのを翻訳している日本人(たぶん中国への日本人留学生?)もかなり居るのでご紹介。
日本からの中国留学も増え、中国からの日本留学も倍増しているのは、今後の救いだと私は思うのですが・・・・。

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釣魚島(日本語名称:尖閣諸島)の問題などをめぐって中国と日本の関係は過去数十年で最も冷え込んでいると言われる。しかし中国旅游研究院(観光研究院)がこのほど発表した2013年の中国人観光客満足度調査によれば、日本を訪問した中国人の満足度は依然として高かった。多くの中国人が「観光などの経済と政治は切り離して考えるべきであり、日本の一般市民はとても友好的だ」と指摘している。

【その他の写真】

こうした中、中国のインターネット掲示板には18日、「実は日本は地球上で最も中国に友好的な国だ」とする書き込みが現れた。その根拠としているのは、以下のような9つの点だ。

(1)日本の指導者はこれまでに中国が会うべきでないとする人物と会っていない
(2)中国の内政について勝手気ままに論じたことがない
(3)人権問題などで中国を攻撃したことがない
(4)長期にわたって世界最大の対中援助国、対中投資国である
(5)台湾問題など敏感な問題で中国を攻めたことがない
(6)何が起こっても、米国に追随して反中的な訴えをしたことがない
(7)世界各国が中国を制裁しても加わらなかった
(8)中国に対して表明したことは実行する
(9)在日中国人に対して差別や制限、攻撃をしたことがない

書き込みの主はさらに、「中国に対してこれほど友好的な国は日本以外にない」とも指摘した。

こうした意見に対して他のユーザーからは共感の声が続々と上がった。

「そういう気がする」
「米国やインドネシアでは中国人排斥の運動があったけど、日本では戦争の時期も通じて、ないな」
「昔あったネギ騒動以外、中国製品への貿易障壁もない」
「世界が中国を制裁した時に日本は参加しないで、高官が中国を訪問したりしたな」
「大昔の元寇の時、日本人はモンゴル人を殺し、漢族は労働させたものの殺さなかった」
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2014年01月22日

靖国参拝による、国際的な舌戦展開

安倍晋三首相の靖国神社参拝を巡って、米国や英国に続きドイツでも日中両国大使が自らの立場を世論に訴える外交戦が続いている。これなどは、まさに国際日本研究のテーマだろうと、現在、籍を置く専攻科の重要性を感じます。日米地理協定、日米安保などの実際的な有効性に懸念の声を発する学者もおられるので、このところの米国のパワーシフト(ダウン)や、確かに周辺諸国との関係はドイツとは立場が違っているのです。

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  中根猛駐独大使が21日付のフランクフルター・アルゲマイネ紙に「中国の対日キャンペーン」と題して投稿。中国の史明徳大使が14日付同紙で「平和を危うくする日本」との寄稿で安倍政権を批判したのに対し、「日本が第2次大戦の結果と戦後の国際秩序に疑問を呈したことはない」と反論する一方、中国が「力」を用いて現状に挑戦することをやめるよう求めた。

 また、史大使が戦後ドイツの「過去の克服」を称賛し、「もし日本がドイツのように振る舞っていたならば、日本も和解と各国の信頼を得ていただろう」と主張したのに対し、中根大使は「ドイツの隣国はドイツに和解の手をさしのべ、欧州連合という偉大なプロジェクトに共に取り組んできたが、残念ながら日本を取り巻く地域はそのような状況にない」と指摘し、そうした状況だからこそ安倍政権との対話に応じるよう中国側に求めた。

(ベルリン=松井健)

朝日新聞社

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 にち中根猛・駐ドイツ大使は21日付の独主要紙フランクフルター・アルゲマイネに寄稿し、安倍晋三首相の靖国神社参拝ついて「過去への痛烈な反省に立ち、不戦の誓いを行った」ものと主張した。史明徳・駐ドイツ中国大使が14日付同紙への寄稿で靖国参拝を批判したことへの反論。

 史大使は参拝は「日本の軍国主義に対する戦後の国際社会の断罪を破棄するのが目的」で「戦後秩序への明白な挑戦」と批判。「日本政府の態度はドイツと対照的」と主張していた。

 中根大使は「『軍国主義の復活』の言辞で事実と異なるレッテルを日本にはろうとしている」とし、「わが国は戦後国際秩序に疑問を呈したことはない」と反論。中国側の軍拡や東・南シナ海での行為こそが現状への「挑戦」であり、周辺国の「大きな懸念」になっていると主張した。

 ドイツを引き合いにしたことに対しては、「ドイツには近隣国が和解の手をさしのべたが、日本を取り巻く地域はそのような状況にない」と反論。首相が対話姿勢であることを踏まえ、「このような状況だからこそ、中国が対話に応じることを願う」と強調した。


【ベルリン=宮下日出男】
産経新聞 1月21日(火) 
   

 

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2014年01月21日

日中韓の関係はさらに複雑化

 安重根記念館の開設は、昨年6月に韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が中国の習近平国家主席に記念碑設置への協力を要請したのがきっかけだった。日本外務省は韓国側の動きが表面化に対して、両国に日本の立場を説明し、計画の撤回を求めてきた。ハルビン駅に設置されるため、黒竜江省を管轄する在瀋陽の日本総領事館員も、地元関係者に日本の国民感情が悪化する懸念を伝えていたという。

 もっとも、当初は中国側が記念碑建立に消極的な姿勢だったこともあり、「先手を打った大規模な抗議活動は行わなかった」(政府関係者)。結果は、「記念碑」どころか記念館の建設となり、外務省幹部は「情報入手が遅くなったことは否めない」と情報収集が後手に回ったことを認めた。外務省は各国に駐在する日本大使に中韓両国の誤った主張に積極的に反論するよう指示を出している。今年に入り、米英両国駐在大使が現地メディアで、中国大使による対日批判に反論するなどその機会は増えつつある。ただ省内には「目立ちすぎるとかえって反日活動に火を付けかねない」との消極論も消えず、日本の対外発信は中韓両国に比べ、なお及び腰だ。

 中国外務省の洪報道官は安重根を「著名な抗日義士で、中国人民の尊敬を受けている」と言い切った上で、安倍晋三首相の靖国神社参拝と関連づけて「歴史を適切に正視して反省し、参拝問題に関する誤った立場を修正するよう、日本側に要求する」と訴えた。菅官房長官は20日の会見で、「安重根はわが国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだ。(中韓両国の動きは)地域の平和と協力関係の構築に資するものではない」と両国に抗議した。

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2014年01月20日

中国と日本

春らしい陽光の朝です

ある時、「ワイルド・スワン」という幹部家族の娘がみた党の実態と自分の家族のことをノンフィクションで書いたベストセラーを読んだことがあり、そのことを思い出しました。これがきっかけで、中国への意識を新たにしました。激動の中国近代史を背景に、清朝末期の錦州で祖母の誕生からユン・チアンの1978年のイギリス留学までの一族の苦難の歴史を冷静な目でとらえています。文化大革命の混乱と狂気なかに青春を過ごし一族への迫害に耐え毛沢東の真実の姿に目覚めていく自分自身を描いた本です。

多少とも、中国で人権などと言えるのは、現代になってからで、文化大革命、それ以前の中国で何が起きていたか、どうやって人民への罪を断罪するのか と思います。多くの人民を貶めたことも党の体勢にもあったのを 誰も裁けないできている。日本軍(徴兵された兵隊の実態は農家の若者、侵略するなど及びもつかないが、無事に帰省したい気持ちの人たちが実態だとしても)のやったことはドイツのやったことと同類の感で欧米諸国は見ているのですが、文化大革命へいたる国民党と共産党の闘争のすさまじさ、それ以前に西欧列強の帝国主義、植民地という政策がされていた時代についても、斟酌すべきではなどと思うのです。日本よりも先に、英国では産業革命、フランス革命がおきて、欧米諸国は国際政治にしたたかで、欧米諸国の諜報活動も世界戦略も上回っていたでしょう。

悪いことをしたら謝るのは人間の道ですが、蛇の道はへびなどというドグマの国際政治の中で、純真に頭を下げる人に、悪びれずにすべての罪を着せて終わりにされることはないのでしょうか。お人よしで、悪者にだけされたりしないでしょうか。

かといって、現地の中国の人も、日本人(私のようなNGO)に中国への国家批判めいた気持ちを吐露する人もいますから、自国でなにが起きてきたかも、分かっているが、中国国内でうっかり言うはタブーもまだまだあるでしょう。

こうしたことを考えながら、世界の政治の流れを見据えて、日本人として賢く判断できないものかと日夜考えています。
その解決のキーワードには日本の庶民の普通の想いというものが、解決の糸口になるのではと思うのです。
その普通の日本の見識ある庶民の代表が我孫子市民、もちろん女性を含めて、少年少女たちも真摯な考え、傾聴すべき考えを持っているのではなかろうかと、私は思うのです。

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2014年01月19日

稲嶺氏が再選確実 名護市長選

  任期満了に伴う19日投開票の名護市長選挙は、現職の稲嶺進氏(68)=無所属、社民、共産、社大、生活推薦=の2期目の当選が確実となった。前県議で新人の末松文信氏(65)=無所属、自民推薦=との一騎打ちを制した。
  稲嶺氏は、最大の争点となった米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題に「断固反対」し、保革を問わず幅広い支持層から票を集めた。基地受け入れに伴う再編交付金に頼らないまちづくりを訴え、受け入れられた。
  1996年に移設問題が浮上して以来、5度目の市長選。対立軸が鮮明になる初めての選挙で、反対派が勝利した。
  
  稲嶺進(いなみね・すすむ) 1945年7月生まれ。名護市三原出身。琉球大卒。72年に名護市役所入り。総務部長、収入役などを歴任。2004年から08年まで市教育長を務めた。10年1月の市長選に初当選。
 
 
名護市長選:午後6時投票率は35%
南城市長選 古謝氏が無投票当選
午後4時投票率は30% 名護市長選
党首ら続々 国政選挙並み


出典:
沖縄タイムス 最終更新:1月19日(日)20時4分
http://www.okinawatimes.co.jp/pdf/20140119G001.pdf
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2014年01月18日

小野ヨーコとレディーガガ 平和への想い

 
 レディー・ガガ ( Lady Gaga)の本名はStefani Joanne Angelina Germanotta(1986年3月28日生れ米国のアーティスト)。ガガの名前は、千葉大学大学院工学研究科の斎藤恭一教授と環境浄化研究所が開発した、放射性セシウムを吸着するナイロン繊維を「ガガ」と名付けられたことでも記憶される。レディー・ガガの髪型と商品の見た目が似ていることからだと言われる。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災に対し、ガガは即座に「WE PRAY FOR JAPAN 日本の為に祈りを」とデザインしたブレスレットを作成し販売。「収益はすべて日本に寄付する。」と自身のツイッターでコメントした。その後ブレスレットは2週間で1億2000万円以上売り上げ、全額寄付された。さらにチャリティー以外で個人的にも1億2000万円寄付したことを明かした。また、ガガなど38組のトップアーティストの楽曲が収録されたチャリティーアルバム『SONGS FOR JAPAN』が世界18ヵ国のiTunesチャートで1位を獲得した。その年の3月26日にガガは「アイシテイマス」と日本にビデオメッセージを送り、日本記者のインタヴューでも「日本のファンとは強い絆を感じる。だからニュースを観るのが辛かった。何かを口にするより、まず行動すべきだと思った」とコメントし、再び日本で歌うことを約束した。 そして2011年6月21日、多くの海外スターが来日をキャンセルする中、ガガは4回目の来日を果たした。放射能は怖くないのかという質問に「平気よ。世界のみんなに日本という美しい国を見てほしいわ」と語った。ガガは10日間の滞在で多くのメディアに出演し、記者会見では自身の手書きで「日本の為に祈りを」と書かれたティーカップに口紅の跡を付け、オークションに出品した。売り上げは全額震災の寄付に充てられる。このカップは宮城県の歯科医師が落札し、3年2月に宮城県に寄贈された(寄贈の翌日に死去)。同年5月1日から6月30日までの予定で同県博物館で展示され、今後は保存処理を行い、他施設への貸出も行う予定である。また、ジョン・V・ルース駐日米大使から「よく来てくれた」と感謝され、日本政府からは震災支援に対して観光庁長官から感謝状と福島の玩具「起き上がり小法師」がプレゼントされた。ガガは涙を流し小法師にキスすると「本当はこんなもの(感謝状)、いらないの。だって私の日本への愛は無償のものだから。でもこの感謝状は一生大切にするわ」と語った。

 復興支援イベントの「MTV VIDEO MUSIC AID JAPAN」では、日本が苦境から脱出することをイメージした蜘蛛の巣パフォーマンスを行った。ガガは次の訪問地へ出発の際、当時の総理からガガをイメージした緑色のバラをプレゼントされ「この名誉をありがとう。日本への支援は継続的に行っていきます」とコメントした。その後2011年12月21日にガガは5度目の来日をした。

 ガガは6つのタトゥーをいれていることが確認されている。手首にあるピースシンボルのタトゥーはイギリスのミュージシャン、ジョン・レノンに影響を受けたもので、ガガは『ガーディアン』において彼を「英雄」だと語っている。ガガは「このタトゥーを入れた理由は2つあるの。ひとつはもちろん反戦の意思表示として。そしてもうひとつは……ジョンとヨーコが“Give peace a chance(平和にチャンスを与えて)”と宣言した時、それが具体的に何を意味するのか2人は詳しく説明しようとしなかった。“それだけのシンプルなこと”としか言わなかったわ。つまり、このタトゥーはシンプリシティのパワーを私に思い出させてくれるの。シンプルであれば魔法の薬がなくても誰にでも理解できて、チャンスを与えてあげさえすればいいんだってことを」と語っている。また、オノ・ヨーコとは個人的に親交あり、飼っている柴犬にも「ヨーコ」と名付けて可愛がっている。



 他に詩人のライナー・マリア・リルケの詩が引用されている。ガガはリルケを「一番好きな哲学者」と評しており、毎日その詩のタトゥーを見ることによって、「書き手(ソング・ライター)」としての励みにしているという。2009年の訪日時に競演した写真家の荒木経惟に感銘を受けて「TOKYO LOVE」というタトゥーを左肩に入れた。なお、父親の頼みにより、タトゥーは体の左側だけに入れるようにしている野だと言う。

 
 
  
 生い立ちは、イタリア系米国人の家系で、父親はインターネット企業の実業家で、ニューヨーク州に生誕。裕福な家庭で育つ。4歳で楽譜なしでピアノが演奏できるようになった。多くの有名アーティストを手掛けた先生からレッスンを受けるようになり、13歳になるころには初のピアノ曲を自分自身で作曲。11歳当時には音楽の名門ジュリアードの音楽部門に合格するも、当時は音楽にさほど興味が無く入学を辞退し、マンハッタンのカトリック系私立学校、パリス・ヒルトンなどが超お嬢様学校で知られる聖心女子学院(Convent of the Sacred Heart)へ進学。

14歳からニューヨークのクラブでパフォーマンスを開始し、17歳で、それまで世界で20人しか早期入学が許されていなかったニューヨークのティッシュ・スクール・オブ・アート(ニューヨーク大学の芸術学部)に入学。そこで音楽を本格的に学び、エッセイや論文を書くことによって作詞作曲技術を改善した。この頃から地味だったクラブのパフォーマンスも個性を追求するたびに派手になってゆき、大学でも奇抜なスタイルにより周囲から煙たがられる存在となっていた。19歳、ニューヨーク市の近郊のクラブでダンサーをしながら生計を立てた。ソングライターとして契約をし、複数のミュージシャンに楽曲提供を行っていた。その後に歌手としての才能を認められ、レコード契約し、歌手としてのキャリアをスタートさせた。2010年5月、アメリカの雑誌『Time』の世界で最も影響力のある有名人を選出する「タイム100」のアーティスト部門の1位に選ばれたほか、ツイッターのフォロワー数が2010年8月に約568万人に達しは世界1位となった、2012年には3000万人を超えた。

 ガガは彼女の経歴を通して、いくつかの慈善団体に関与した。2011年、若者たちのボランティア活動を支援する非営利団DoSomething.org」が「Top 20 Celebs Gone Good for 2011」と題した慈善活動に貢献したセレブリティのランキングを発表、ガガは2年連続の一位にランクされた


http://www.cinematoday.jp/page/N0047683

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2014年01月17日

都政における、猪瀬直樹と原発とのかかわり

 2012年12月16日都知事になって1年2カ月後、猪瀬直樹は選挙資金の徳州会からの借用問題が追求されて辞任となった。
 
 東日本大震災の際には、気仙沼市社会福祉協議会マザーズホーム園長から「火の海 ダメかも がんばる」という携帯電話からのメールを受け取った園長の子息(イギリス在住)が、地上からの接近は難しいと言って空からの救出を求めることを、Twitterにてツイートをした。それが猪瀬宛にも届いていた。当時は東京都副知事だった猪瀬が、救助が必要と判断すると直ちに東京消防庁の防災部長を呼び出し、直接ヘリ出動を命じた。このことによって、気仙沼市中央公民館で孤立した446人が救出された。ヘリコプターが到着して現場を確認するまで、公民館に取り残されたのは十数名と見られていた。地元からの出動要請がない中でのヘリ出動は極めて異例だった。この時の様子のほか、東日本大震災後、副知事としてどのような陣頭指揮を取ったかを、翌2012年3月に刊行した『決断する力』(PHP新書)にまとめられている。

 2011年12月、東京電力の西沢俊夫社長が会見して企業向け大口料金の値上げ方針を発表し、翌年1月17日に一律2.6円値上げが明らかにされた。大口需要家であり、中小企業を所管する行政主体であり、筆頭株主である東京都を代表して、猪瀬直樹は1月26日に会見、東電、原子力損害賠償支援機構、経済産業相に対し、「燃料費等負担増、経営合理化の具体的内容について明確な情報開示を求める」と石原慎太郎知事名の緊急アピールを明らかにし「待った」をかけた。アピールのなかで、都内の東電ファミリー企業の本社を整理するだけで1年で100億円を捻出できるとの独自分析を発表。値上げの根拠にしている燃料費増加の内訳を示さなければ値上げに応じられない、と指摘した。このことから、東電は3月に値上げ緩和策を発表し、当時の経済産業大臣・枝野幸男を訪ね、東京電力のさらなる合理化策としてファミリー企業などとの随意契約の割合を3割削減することを提案させるに至った。11月に公表されていた緊急特別事業計画では10年間で2.6兆円とされていたリストラ額をさらに5000億円上乗せできると指摘。経産相はこれを受け入れ、総合特別事業計画に反映させるように原子力損害賠償支援機構と東京電力に指示すると言わしめた。5月に公表された総合特別事業計画では合理化額は3.3兆円に増額されることに繋がった。

 2012年4月27日には、東京都として東京電力に対して5つの株主提案を発表。法人株主に呼びかけ文を送付したほか、個人株主にも賛同を呼びかけた。この第一項目として社外取締役に公認会計士樫谷隆夫氏を推薦、東京電力は5月14日に発表した新役員体制のなかで7人の社外取締役のうちの一人として樫谷氏を内定となったなど、東電の姿勢を正した。

 2007年より実務派の副知事として活躍し、更に石原都知事の突然の辞任で後継指名を受けたことから、初の選挙に臨み、選挙史上で最多の得票数を得て当選した。次々に迅速な判断、規制事実にメスを入れるなどしてきたが、徳洲会がらみの猪瀬辞任劇をうけての都知事選が23日より告示ときまった。戦後に都知事が民選となってから2011年の前々回選挙までは統一地方選挙のなかで行われ、2012年の前回選挙は衆院選と同日に行われたが、今回は初めて都知事選単独で行われることとなった。2月9日が投票日となる。




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2014年01月16日

靖国神社の在り方を考える時


靖国神社は幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬は祀られているが、維新に多大な功績があったものの西南の役の指導者となった西郷隆盛は祀られていない。他方、西南の役での熊本城籠城の戦いは、高く評価されている。 つまり、祀られるのは、基本的に天皇のために戦って亡くなった人々なのである。

1月17日付熊本日日新聞に江川紹子の一文が掲載され、それを加筆したもの。もっと国民自身の問題として考えるべきではないか。同神社は、戦時中そのままの価値観が展開されていた場所だという。

昭和10年代の価値観が今も


靖国神社の遊就館遊就館には、同神社の歴史観に則って様々な資料が展示されている。それは、日本が対外的に行った戦いはすべて正当である、という全肯定の精神に貫かれ、日中戦争は「支那事変」、太平洋戦争は「大東亜戦争」と戦時中の名称で呼ばれる。

靖国神社の価値観は、この遊就館で上映されている映画を見ると分かりやすい。次のようなことが語られている。

日本は満州に「五族協和の王道楽土」を築こうとし、軍事行動を慎んでいたのに、中国の「過激な排日運動」や「テロ」「不当な攻撃」のために、やむなく「支那事変」に至った。そして、「日本民族の息の根を止めようとするアメリカ」に対する「自存自衛の戦い」としての「大東亜戦争」があった。この日本の戦いは、白人たちの植民地支配を受けていた「アジアの国々に勇気と希望を与えた」…。

昭和の初めから戦時中にかけての政府・軍部の宣伝そのものだ。靖国神社では、先の大戦は今なお聖戦扱い。まるで時間が止まったように、戦前の価値観が支配している。

太平洋戦争においては、日本兵の多くが餓死・病死した。その数は死者の6割に上る、との指摘もある。だが、そうした武勇にそぐわない事実や戦争指導者の責任は、ここでは一切無視されている。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓のために、捕虜になって生還することができず、民間人まで「自決」せざるを得なかった理不尽さも記されない。戦争指導者に対して批判的な考えを記した学徒兵の手記なども、示されない。

映画では、「黒船以来の総決算の時が来た」との書き出しで始まる、高村光太郎の詩「鮮明な冬」が紹介されている。そこには日米開戦の時の高揚した気持ちと当時の一国民としての使命感が高らかにうたわれている。高村は、その後も勇ましい戦争賛美、戦意高揚の詩をいくつも書いた。しかし、遊就館の映画は、その後の高村については一切触れない。


高村光太郎「暗愚小伝」より彼は終戦後、己の責任と真摯に向かい合いながら、岩手の山小屋で独居生活を送った。そして、戦前戦中の「おのれの暗愚」を見つめた「暗愚小伝」を書いた。それには全く目を向けずに、「暗愚」の時代の作品だけが高らかに取り上げられ、今なお戦争賛美に使われていることは、泉下の高村の本意ではあるまい。

国民を戦争に動員するシステムの頂点にあった靖国神社
遊就館の展示は、すべてこうした価値観の下にある。展示物を見ている限り、軍隊の上官はすべて部下思いであり、責任感に溢れ、一人ひとりの兵士は皆、国のために喜んで命を投げ出したかのようである。中国においても、「厳正な軍紀、不法行為の絶無」が示達され、民間人の殺害など一切なかったかのようである。

過去の失敗や過ちから学ぶ視点は、まるでない。あるのは、国に命を捧げることへの称賛。しかも、国のために命がけで何かを成し遂げるというより、ただただ命を捨てる尊さが称えられている。

この点でも、靖国神社の時間は、昭和20年8月以前の段階で止まっているようだ。

国のために死ねば、靖国神社に祀られ、現人神である天皇陛下が参拝して下さる。それが日本国民として最高の名誉であり、喜びであるーー戦時中の国民に叩き込まれていた、この精神構造の頂上に、靖国神社は存在した。

少女時代に戦争を体験した作家の故上坂冬子さんは、『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)で、こう書いている。

〈死がこれほどまでに単純化されるのが、戦時体制なのだ。国家の為に命を捨てることに、まったく無抵抗にならなければ戦争などできるものではない。その意味で当時の日本は見事といえる体制を組んでいた。その頂点にあったのが、良くも悪くも靖国神社であ(った)〉

上坂さんは、A級戦犯の合祀や首相の靖国参拝に肯定的な論者だった。その方にして、同神社が国民を戦争に動員するシステムの頂点に位置したことは認めている。

感動を戦争肯定に導いて教化する
そのような仕組みが分かっていても、遊就館での展示物を見ていると、いつの間にか心が引き込まれる。絶対国防圏と言われた南洋での戦いに敗れ、自決した司令官が最後に打った「我、身を以て太平洋の防波堤たらん」との決別電。家族に対する愛情と国のために命を投げ出す覚悟を綴った兵士たちの手紙。そして、壁に貼られた九千枚以上の顔写真…。

国のために己を犠牲にするひたむきな心情に感動し、国を思う悲壮感には思わず居住まいを正さずにはいられない。その思いを否定したり押さえ込む必要はない、と思う。多くの犠牲に対して、私も自然と頭を垂れ、哀悼の思いを捧げた。


遊就館に入るとすぐに零戦の展示があるただ、そのような思いを、戦争やそれを招いた国策、戦争指導者への肯定に導いていこうとするところに、この神社の危うさがある。

戦後日本の体制づくりの土台には、戦争への反省があった。そのうえに、日本の復興があり、その後の発展があった。この土台を、靖国神社の価値観はそっくり否定してみせる。

反省する必要はない。あの戦いは間違っていなかった。国のために命を投げ出すことこそ尊いのだーーこのような価値観を、感動や感銘と共に心に注ぎ込み、人々の教化に努める。こうした機能を今なお維持している靖国神社は、慰霊のためだけの施設とは言えないだろう。

価値観の共鳴
それでも、遺族や個人が戦没者を偲んで参拝するのは、まったく自由である。しかし、日本政府のトップにいる首相が、同神社の価値観を全く否定せずに参拝したことは、国民にとってどういう意味を持つのかは、よく考えるべきだ。

「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相の歴史観は、村山談話よりも、靖国神社の価値観と、共鳴し合っているように見える。また、安倍首相は憲法改正に意欲を示すが、自民党の「改憲草案」では、憲法の基本的な理念である「個人尊重」が消され、「国民の権利」より「公益及び公の秩序」が優越する。個より全体、個人より国が優先される考え方は、これもまた、国のために命を捧げることを称揚する靖国神社の精神と整合する。

それでも安倍首相は、対外的な批判を気にしてか、参拝の目的の1つとして「二度と戦争の惨禍で人々が苦しむことがない時代をつくるとの誓いの決意をお伝えするため」と述べた。

ところが自民党は、今年の運動方針案の中で、「靖国神社の参拝を受け継ぐ」と決めた際、従来の文章から「不戦の誓いと平和国家の理念を貫くことを決意」の一節を削除した。代わりに「日本の歴史、伝統、文化を尊重」を挿入。だが、我が国の長い歴史や伝統を考えれば、明治以降の歴史しか持たない靖国神社が「日本の歴史、伝統、文化」を体現しているとは言い難い。それでも敢えて、靖国神社の価値観を「日本の歴史、伝統、文化」にしようというのだろうか。

これには、自民党関係者からも不安の声が聞こえてくる。同党の衆院議員だった早川忠孝弁護士は、自身のブログで「不戦の誓いをしないで、靖国参拝で何を祈ろうというのか」「靖国参拝から不戦の誓いを外してしまえば、うっかりすると必勝祈願になってしまいかねない」と書いている。

「快感」の虜にならないために
さらに早川氏は、こうした重要な決定が、党内で十分に議論されずに決まってしまう今の自民党について、こう述べている。

〈自民党には真正保守の人やリベラル色の強い人など色々な人がいて、全体としてバランスのとれた穏健保守の政党だったはずなのに、段々リベラル色の強い国会議員の発言力が低下して、勇ましいラッパを吹く真正保守の人たちの声が大きくなっている、という証左だと思う。実に危うい〉

危うい、と私も思う。とりわけ、このような状況に対して大きな批判が起こらず、むしろ喝采を送り批判者を罵る人たちが少なくない今の社会の空気が、実に危うい。

上坂さんは、先の本の中でこうも書いている。

〈国中が一丸となって突撃していた時代の一種の危険をはらんだ快感が、戦争という二文字の裏側にある〉

「勇ましいラッパ」を吹き鳴らすのも、それに喝采の声で応えるのにも、「快感」がありそうだ。この「快感」の先に何があるのだろうか……。

靖国神社の後、私は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かった。ここには、身元が分からなかったり、引き取り手がない戦没者の遺骨が納められている。その数、35万8253柱(昨年12年26日現在)。ふるさとに戻ることができなかった軍人・軍属たちだ。さらに、海外での戦没者約240万人のうちの半数近くにあたる113万人の遺骨が、未だ日本に帰ることができないでいる、という。ちなみに、現在の新潟県の総人口は237万余人、宮崎県が113万余人。海外戦没者と未帰還者の多さに、あらためて愕然とする。

こうした多くの犠牲があったことを忘れまい。そして、「快感」の誘惑には、精一杯抗いたい。勇ましいラッパに心を躍らせるのではなく、正確な知識と情報を得て冷静に考える努力をしたい。理性が本当に大切な時代になった、と思う。
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2014年01月15日

The 12th Annual International Conference on Arts and Humanities in Hawaii

M2250013.JPGI had attended the conference in Hawaii, Jan10-13. 
Our panel is " Film Representations of the Body in the Asia-Pacific Region".
  My presemtation is "A Study of Artists's Colony Abiko".
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Kyenote Adress by Dr.Samuel M.7Ohukani7ohi7a Gib,III
https://www.regonline.com/builder/site/Default.aspx?EventId=1202413

           Breakfast meetings at Marriote Hotel and presentations at Hilton Hotel.
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2014年01月14日

汚染水をどうするか、そして・・・

 都知事選挙の争点が脱原発になるようですが、確かに東京都には原発はなく、福島と新潟の原発からの送電で東京都民は繁栄を謳歌してきたわけで、これでいいのかの反省は都民に投げかけられているという論点も成り立つわけです。果たして、候補者の主張がどのように都民の投票行動に結びつくか、国内外が注目します。2020年のオリンピック招致には、ホットスポット放射能、被災地復興についてそれなりの結論が導き出されている必要があります。

 むろん政府も東電に任せるのではなく巨額の予算を投じて、汚染水漏れ凍土遮水壁の建設で汚染水を閉じ込めるというプロジェクトも推進していますが、現実問題として解決には遠い。

日本は科学技術立国を標榜してきました。今、日本の科学技術の人材と知識を汚染水の処理というイノベーションに集中して解決すれば、間違いなく成長戦略にもなります。関連するすべての科学者、技術者がこの1点に集中すべきでしょう。

ニューズウィークに寄稿された米国の専門家の助言は聞くに値すると思います。それによれば、日本のマスコミが報道しているほど事態は悪くない”との指摘です。“マスコミの偏った報道がたびたび世間を騒がせ、国民の不安に拍車を掛けている。”といいます。

つまり、“汚染水漏れや現場作業員の被曝、近海の魚から検出された放射能など数値はこれまでと数段に変化が観られるのは事実だが、冷静に見つめると案外、状況は最悪ではない。首相の肩を持つわけではないが、9月のIOC総会で状況は「コントロールできている」と宣言したのも、あながち根拠なき主張ではない。”

特に言及すべきは、“当面の重要問題は汚染水漏れだ。しばしば混同されていることだが、地下水によって運ばれる放射能汚染の問題と、タンクなどからの漏水問題は性質が異なる問題なのだ。地下水、雨、潮の干満など天然の水の作用で引き起こされる水の汚染は通常、放射能の濃度が比較的低いが、水の総量は非常に多い。一方、タンクや処理システムからの漏水では、汚染水の量は少ないが、放射能の濃度は前出の天然の水のケースより高い。この2つの問題には異なる種類の困難があり、別々の解決法で対処しなくてはならない。”続けて、“タンク内の汚染水のほとんどは、セシウム除去のフィルターを通して(完全な除去はできないにしても)放射能のレベルを大幅に減少させた後のものだ。それにこれらのタンクは海から何百メートルも離れて
いるから、タンクからの漏水で海水が汚染される可能性も低い。”とあります。

凍土遮水壁の建設については、“そのコストおよび必要となる労働力を勘案して総合的に評価すると、日本政府が320億円を投じようとしている凍土遮水壁の建設には疑問を呈さざるを得ない。遮水壁がこれほどの規模で造られた例は過去になく、その有効性を疑う専門家もいる。”と指摘しています。

さらに続けて、“もう1つ、議論が必要なのは汚染水をためておくか、それとも海に放出するかという問題だ。政府は国民を安心させるために厳しい環境基準を設定したが、結果として期待値を非現実的なレベルにまで上げることになった。現行基準の達成には、大変な困難と莫大な出費が伴うだろう。”

つまり、他国のマスコミのいうところ、安全安心の議論も重要だが、国際基準から見ても厳しすぎる基準が問題を大きくしているとも指摘しています。“期待値をあまりに高く設定すると実現が困難になるし、そこまで達成しない限り失敗とされてしまう。現状では、飲料水と同じくらい厳しい基準を満たさないと汚染水を放出することは許されない。日本の飲料水のセシウムの安全基準は、1リットルにつき10ベクレル以下となっている。ところが、福島の地下水を海に放出するためには、セシウムの量が1リットル当たり1ベクレ
ル以下でなくてはならない。それ以外の水の放出基準は、25ベクレル/リットル以下に設定されている。”

要するに、“地下水の放出基準を国際的な基準に合う程度まで緩和することを議論してもいいだろう。それによって少しは汚染水対策の重荷を減らせる。労働力をもっと重要なプロジェクトに集中させることで、水漏れを防ぐ役に立つかもしれない。”“日本政府は汚染水対策への技術的提案について国際社会に助言を求めた。
だが、他の汚染された地域における研究を基に、福島のケースに適合するように考慮されたより合理的な放出基準を設定するための勧告を求めたほうが、ずっと役に立つかもしれない。”というものだった。

それでは、現在、政策としても語られないホットスポット地区の放射能廃棄物について、どのような取り組みをすることが、荷重ではない負荷として地域が受け止め、今後の対処をどう期待したらいいのであろうか?
今、我孫子では国との調停が進まずに裁判への準備も進められている。


汚染水の語られざる現実
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/12/post-3140.php
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/12/post-3141.php
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2014年01月13日

Obama and Hawaii

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Photos by N.Kaizu 2014


Brak Obama was born on August 4, 1961, at Kapiʻolani Maternity & Gynecological Hospital (now Kapiʻolani Medical Center for Women and Children) in Honolulu, Hawaii. Obama is the first President to have been born in Hawaii. His mother, Stanley Ann Dunham, was born in Wichita, Kansas, and was of mostly English ancestry. His father, Barack Obama, Sr., was a Luo from Nyang’oma Kogelo, Kenya. Obama's parents met in 1960 in a Russian class at the University of Hawaiʻi at Mānoa, where his father was a foreign student on scholarship. The couple married in Wailuku on Maui on February 2, 1961,and separated when Obama's mother moved with their newborn son to Seattle, Washington, in late August 1961, to attend the University of Washington for one year. In the meantime, Obama, Sr. completed his undergraduate economics degree in Hawaii in June 1962, then left to attend graduate school at Harvard University on a scholarship. Obama's parents divorced in March 1964. Obama Sr. returned to Kenya in 1964 where he remarried; he visited Barack in Hawaii only once, in 1971. He died in an automobile accident in 1982 when his son was 21 years old.

In 1963, Dunham met Lolo Soetoro, an Indonesian East–West Center graduate student in geography at the University of Hawaii, and the couple were married on Molokai on March 15, 1965. After two one-year extensions of his J-1 visa, Lolo returned to Indonesia in 1966, followed sixteen months later by his wife and stepson in 1967, with the family initially living in a Menteng Dalam neighborhood in the Tebet subdistrict of south Jakarta, then from 1970 in a wealthier neighborhood in the Menteng subdistrict of central Jakarta. From ages six to ten, Obama attended local Indonesian-language schools: St. Francis of Assisi Catholic School for two years and Besuki Public School for one and a half years, supplemented by English-language Calvert School homeschooling by his mother.


A young boy (preteen), a younger girl (toddler), a woman (about age thirty) and a man (in his mid-fifties) sit on a lawn wearing contemporary c.-1970 attire. The adults wear sunglasses and the boy wears sandals.


 Obama with his half-sister Maya Soetoro-Ng, mother Ann Dunham and grandfather Stanley Dunham, in Honolulu, Hawaii
In 1971, Obama returned to Honolulu to live with his maternal grandparents, Madelyn and Stanley Dunham, and with the aid of a scholarship attended Punahou School, a private college preparatory school, from fifth grade until his graduation from high school in 1979.


Obama lived with his mother and sister in Hawaii for three years from 1972 to 1975 while his mother was a graduate student in anthropology at the University of Hawaii. Obama chose to stay in Hawaii with his grandparents for high school at Punahou when his mother and sister returned to Indonesia in 1975 to begin anthropology field work. His mother spent most of the next two decades in Indonesia, divorcing Lolo in 1980 and earning a PhD in 1992, before dying in 1995 in Hawaii following treatment for ovarian cancer and uterine cancer.

Of his early childhood, Obama recalled, "That my father looked nothing like the people around me−that he was black as pitch, my mother white as milk−barely registered in my mind." He described his struggles as a young adult to reconcile social perceptions of his multiracial heritage.Reflecting later on his years in Honolulu, Obama wrote: "The opportunity that Hawaii offered−to experience a variety of cultures in a climate of mutual respect−became an integral part of my world view, and a basis for the values that I hold most dear." Obama has also written and talked about using alcohol, marijuana, and cocaine during his teenage years to "push questions of who I was out of my mind". Obama was also a member of the "choom gang", a self-named group of friends that spent time together and occasionally smoked marijuana.

Following high school, Obama moved to Los Angeles in 1979 to attend Occidental College. In February 1981, he made his first public speech, calling for Occidental to participate in the disinvestment from South Africa in response to its policy of apartheid. In mid-1981, Obama traveled to Indonesia to visit his mother and half-sister Maya, and visited the families of college friends in Pakistan and India for three weeks. Later in 1981, he transferred as a junior to Columbia College, Columbia University in New York City, where he majored in political science with a specialty in international relations and graduated with a Bachelor of Arts in 1983. He worked for a year at the Business International Corporation, then at the New York Public Interest Research Group.

Re: http://en.wikipedia.org/wiki/Barack_Obama#Early_life_and_career

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2014年01月12日

ハワイの日系人社会の祖

日本人のハワイ移住が始まって昨年が145年目、ホノルルのペンサコーラ通りとワイルダー通りの高台にある日系人の先祖が葬られた「マキキ・セメタリー 」に連れて行ってくれたのは、40年もペンパルとして家族ぐるみの交流をしてきたアイリーン(日系三世)だった。

昔は街はずれ丘からは海を見下ろせたと思われるが、現在は周囲を住宅に囲まれってしまっている。一角には、先住民や西欧人の名前のエリアもあるが、日系人のお墓がそのほんどを占めていた。一方、ハワイの日系人組織であるハワイ日系人連合協会(通称連協)は、先駆者たちの墓が荒廃していくのを懸念して、連協の会員やオアフ官約移民百年祭委員会が中心となり、無縁仏を集めて寄せ墓を建立することを決め、そのために約七万ドルの募金を集め、墓碑を建立した。高さ約四メートルの花崗岩の寄せ墓碑は、岡山県から運ばれ、官約移民がハワイに到着した101周年に当る1986年2月8日に「ハワイ日本人移民慰霊碑」が設置された。この寄せ墓碑の下には、289柱が眠り、毎年、お盆の時期には、連協の会員らが中心となり供養が行われているという。

墓地の大半は一般の人のものだが、ひと際大きな碑が高い位置に4基が建っている。「明治元年渡航者之碑」、「ハワイ日本人移民慰霊碑」、「日本海軍軍人鎮魂碑」、「三界万霊碑」と刻まれたものだ。この日本海軍墓地は、海外に初めてできたものであり、明治9年、日本海軍創設当時の水兵ほか明治32年までの没者16柱の英霊が埋葬されている。日本海軍が日本海上自衛隊となった今でも艦隊がホノルルに寄港する際には、必ずこの地を訪れ、この「日本海軍軍人鎮魂碑」に参拝や献花をおこなっているということで、私が行ったときもつい最近に手向けられた花輪が置いてあった。

「明治元年渡航者之碑」は、「元年者」のことを指し、1868年(明治元年)に最初に渡った集団移住者(153人)のことで、明治新政府から正式な「移民」と認められていないため、「渡航者」と書かれているのではないかと考えられる。当時を記録したものによると、最初の「官約移民」は1885年横浜港から944人を乗せて出港した。その頃のハワイの人口約8万人に対して在留邦人は元年者の残留者を中心に百十数人、そこに9倍もの日本人が到着したのです。それ以降ハワイに日本人は急速に増加して行き、官約移民が廃止される1994年までの約10年間に2万9千人もの日本人移民がハワイに渡り、ハワイ総人口の27%を占めるまでになりますが、日米開戦によって移民の歴史は幕を閉じます。

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以下に、「ハワイ日本移民慰霊碑」に刻まれた碑文を掲載します。

[建碑の辞]
遠く萬延元年4月、1860年、日米修交条約批准交換の遣米使節護衛艦咸臨丸が帰国の途次、初めてハワイに寄港して以来、日本軍艦の来航は五十数回を重ね、在留邦人の権益擁護と、日布親善に寄与した功績はまことに大なるものがあった。これら旧帝国海軍は各々その任務を全うしたが、中には不運にも任務半ばに病のため斃れた将兵もあった。当マキキ日本人墓地は明治元年、1868年以来ハワイ開拓日本人移民の縮図ともいうべき由緒ある日本人最古の墓地である。

また、この日本海軍墓地には、明治9年、1876年、日本海軍創設当時の帝国海軍、軍艦初代筑波二等若水兵荒川又十郎ほか、明治32年までの間に病没者16柱の英霊が埋葬されている。これが海外に於ける日本海軍最初の墓地であるが、爾来星霜、茲に幾百年、墓標は傾き霊域は荒廃し、見るに偲びないものがあった。

依って我々同志相はかり、日本朝野関係各位の賛同と、当地日系有志諸氏の協力の下に「明治元年渡航者の碑」と共に墓地改修を発願し、ハワイ海域に眠る無名諸英霊をも招魂合祀し、茲に鎮魂碑を建立、史跡を保存し、記録を永く後世に伝え、以って太平洋永遠の平和とこれら諸英霊の冥福を祈念するものである。   合掌            1971年10月

発願:ハワイ明治会
実行:修復委員会 

協賛:日本国総領事館・日本海上自衛隊・水交会・呉市役所・ハワイ日本人墓地
協会・ハワイ仏教各宗務長会・ハワイ神道連盟・有志一同

[参考:ハワイ移民の略史]

「日本人の布哇(ハワイ)移民」は1868年に始まる。それ以前にハワイへ日本人が渡ったというのは、ジョン万次郎 等がアメリカの捕鯨船に救われて立ち寄った例などを除いて記録に残るものは少なく、それらは「移住」という形態を取るものではないものだった。1868年は日本の明治元年ということだ。ハワイでは砂糖キビ産業の労働力が必要だったが、先に大量に移住した中国人に対し排斥運動が起こったため、替わりに日本に移民を要請してきたのです。

時代の転換点であったため、幕府がハワイ政府の要請を受け入れたものを、明治新政府は移民を認めなかったため、募集に応じた一行は無許可のまま渡航するということになったという。最初に渡ったのは153人と伝えられていて、この人たちのことを「元年者」と呼んだ。

ハワイに渡った「元年者」は砂糖キビ栽培に従事した。この人達は農家出身者ではなく都市生活者であったため、農業に慣れておらず、長時間労働や賃金の支払い方法の行き違い、言葉が通じないなどの問題が絡み、雇用会社側との間にトラブルが起きていた。「元年者」は移民の先駆者でありながら「海外出稼ぎ」とか「厄介者」などと云われながら、苦難に満ちた日々に明け暮れた。一方、ハワイでは温徳で勤勉な日本人移民の評価が高く、引き続き移民を送ることを要請したが、日本政府はこれをすぎには認めなかった。ようやく、1881年ハワイ王朝7代目のカラカウア王が世界周遊の途次日本に立ち寄り、あらためて移民再開の要請をしたことにより、「日本布哇労働移民条約」が取り交わされ、最初の渡航者から17年後に「官約移民」が始まったということだった。

こうした先人たちのご苦労を日本の本土にいる人々はなかなか思い至らずではないだろうか、現地の日系人もあえて観光の場所にこのようなところは案内しないが、私が戦艦アリゾナ記念館(見学は午後三時まで)を訪問することが出来ずに残念がっていたので、連れて行ってくれたのかもしれない。

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2014年01月11日

観光に行政が関わる時代に

千葉県の中でも、観光に熱心な自治体がある。その一つが鴨川市で、海の見える恵まれた景観、東京に直通の高速バス、イルカの水族館もある。そして、H16には 鴨川市議会議長から市長に「太海多目的公益用地への城西国際大学観光系学部の誘致促進について」というのも出されていた。 さらに、鴨川市在住の者が城西国際大学観光学部に入学した場合に入学奨励金10万円が交付されるという。その授与式では、市長より観光学部ウェルネスツーリズム学科1年生6名に奨励金が授与するなどだ。

おもてなし(観光でいうところのホスピタリティ)には、相手に対する「やさしさ」という点を考えて、身体と心ばかりでなく、魂(スピリット)のよりどころにまで配慮したものであり、広い意味のヘルスツーリズム(心身の健康につながる旅)を含むとする。さらにいえば、地球にやさしいという観点からは、エコ(生態系や環境)を考えることにもつながるという。鴨川市の観光学部では、このようにヘルスツーリズム、エコツーリズムという3つのキーワードに推進している。

また、香取市、佐原市なども地元の伝統、産物を活用して観光施策に積極的にかかわっている。

http://www.sawara.mydns.jp/ids/hp/index.jsp
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2014年01月10日

来てみてください !



 陽春のお話し会


オリンピック誘致、近隣諸国との問題、景気回復、消費税UP、震災復興など等に、今年はウマく対応をと祈念します。さて、我孫子の活性・PRにと、日本観光研究学会、ハワイでの国際学会で発表をしましたことをスライドを使って「ふさの風」にてご紹介します。


  我孫子西地区の『白樺』だけでなく、東地区の布佐には、青年詩人(国木田独歩、島崎藤村、田山花袋が布佐の松岡家に宿泊)の芸術家交流も盛んでした。松岡国男は、後の文化人類学、民俗学の租と言われる人物になりますが、布佐に住んでいたころは帝大(現・東大)へ通う学生であり、森鴎外の歌会にも出入りする、青年詩人として注目されていました。


  こうした芸術家たちが我孫子に住んでいたのは大正デモクラシーを前後する時期でしたが、その後は関東大震災、大戦という激動の時代になります。それでは、特に我孫子での日々とは彼らにとってどのようなものだったのか、ここ数年に調査から論文に纏め、学会発表でも各界の皆さまに関心をもっていただけました。そこで、我孫子の芸術家村について「陽春のお話し会」を催すことに致しました。お誘いでのお越しをお待ちしています。  


日時:2月22日(土) 11 12


 (開場:1045分)

場所 :近隣センター・ふさの風(2F会議室1







 



       我孫子市布佐2972-1、ナリタヤ至近。


参加費 :  200円(資料代) 


お問合・申込み:我孫子カルチャー&トーク     

  /Fax  04-7184-9828 (海津にいな)


主催:ACTの会 協賛:きもの愛好会  カッパレット(着付け講習会)

 

お着物でのご参加を歓迎します。参加費半額!



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2014年01月09日

一方的でなく、多面的に理解することが必要

これまでに、カリフォルニア州ブエナビスタやミシガン州サウスフィールドなどで、慰安婦碑・像の建造計画がそれぞれ撤回された。ニュージャージー州フォートリーでも建造直前まで来て計画が中断状態に陥り、またニューヨークで通りに「慰安婦ストリート」と命名する案も出ていた。

さらには、ロサンゼルス近郊にあるカリフォルニア州ブエナパークの動向は、多くの韓国メディアの注目を集めていた。慰安婦碑建造が発案された当初、地元議会は好意的な反応を見せていたが、橋下大阪市長の従軍慰安婦発言によって、別の側面から見直すことも起きてきた。
8月27日にアーサー・ブラウン市議が、「日本はアジア女性基金などを通じて元慰安婦女性に補償を行っており、当時の村山富市首相もお詫びしている。碑の建造は日韓関係に悪影響を及ぼすし、公共の場所に建てられる碑は地域と住民に関係するものでなくてはならない」と声明を出すなど、公共の場に建てるものは寄付されるというだけでなく、その意味合いも考えられるようになって、鵜呑みに設置するというのが出来ないムードが強まり始めたというのだ。

グレンデールの現市長・ウィーヴァー氏は慰安婦像の設置後に市長に就任し、設置をめぐる市議会の投票では反対票を投じた。ウィーヴァー氏は反対の理由について、「国際問題に巻き込まれることはすべきではないと考えていたからだ」と説明し、「グレンデール市が日本からもっとも嫌われる都市になってしまい大変遺憾」と述べた。  少女像については「見たこともない」とし、除幕式にも出席しなかったことを明かした。また、「グレンデールには韓国人が1万2000人も暮らしているが日本人は少ない」とし、「誰が勢力を持つかお分かりですよね」と述べ、韓国系住民の圧力があったことを示唆した。

池上彰のYOUTUBEでの解説もネット上に開設されていた。
もともと戦時中は「慰安婦」と呼ばれていたが、それが「従軍慰安婦」とよべれるようになったきっかけがそれまでの「慰安婦」から『従軍慰安婦正編』(千田 夏光1973出版という語を戦後の文書ではじめて使用した本からだった。

その出版によってで、韓国をはじめとする慰安婦問題が起きて、補償を要求する運動に広まっていたというわけだ。

池上さんが解説していた。
慰安婦とは、かつての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことである。
(出典:慰安婦問題とアジア女性基金HP)

民間の業者が1932年に最初の慰安所を上海に開設。
戦線の拡大に伴い400箇所まで増えていった。

戦後、しばらくたった1991年12月、韓国の元慰安婦・金学順さんが提訴。
なぜこの時期になったかというと、1987年まで韓国は軍事政権で、戒厳令が敷かれるなど、言論の自由はなかった。

当初、日本政府は、軍の関与を否定していたが、1992年1月、中央大学の教授が防衛庁の図書館で旧日本軍が慰安所を統制したことを示す資料が見つかったとして、朝日新聞が報道。これについては解釈が違うとか、この報道自体が誤報だと言ってる人もいる。しかし、無視できない内容に政府の見解が動く。とうとう1992年、韓国でも報道され、抗議運動が活発化する。
そこで、宮澤内閣は徹底的な調査を開始。

そして1993年、当時の河野洋平官房長官(当時)が談話を発表した。
日本軍の一定の関与を認め、日本政府としてお詫びスル内容だ。

しかし、日本の謝罪によって、韓国は責任を認めたのなら、個人に対して賠償すべきだと攻撃的になっていった。
これに対して、日本政府は、この問題は両国間で既に解決済みであるとした。

1965年に日韓基本条約が結ばれ、ここから日本と韓国が国交を結んだわけだが、このときに、韓国は、日本が朝鮮半島を支配していたときのことに関する請求権を放棄している。一方、日本は、韓国がこれから発展するように約5億ドルの経済協力している。
韓国はこれをもとに大きく経済発展を進めることが出来た。

だから、日本にしてみれば、韓国にしてみれば、最初の話し合いの時には慰安婦問題は出てこなかった。
日本は、韓国が基本条約の締結に際して請求権を放棄しているのだから、慰安婦問題も解決済みということだが、韓国は納得していない。新たに出てきた話だから未解決だと主張。日本政府は1995年、アジア女性基金という組織を設立、日韓関係を解決しようと、民間からお金を集めて元慰安婦の人たちに渡している。
一人あたり約200万円。
そして一人一人に総理大臣がお詫びの手紙も書いている。
これは周知されてないとの事。

韓国以外(オランダ、台湾、インドネシア、フィリピンなど)はすんなり受け取ってくれたが、韓国だけは、民間からお金を集めたことで日本は国の責任を回避したと主張。

そうこうしているうちに、2007年、第一次安倍内閣の閣議決定で「軍の強制連行を示す資料なし」ということで、政府の風向きが変わった。

謝って、賠償したら、筋違いだ受け取らないし。どの国でもやっていたといえば反省してないと言われるし、証拠はなかったと言えば責任逃れと言われる。従軍慰安婦問題はどっちにしても、一刻も早く真相を明らかにして日韓両国のためにも解決して欲しい問題である。

片や、南カリフォルニア州地域の日系コミュニティ・メディア「ジャパニーズ・デイリー・サン」は6月12日、太極旗とグレンデール市の模様がつけられた‘グレンデール慰安婦キリム碑撤去を要求しよう’という内容の寄稿文を掲載されたという。

この寄稿文の内容は、日本帝国主義当時の日本または日本軍が慰安婦を運営しなかったと主張し、日系住民たちが立ち上がってグレンデール市に強力に抗議しなければなければならないと主張だった。
7月30日に予定されたグレンデール市慰安婦キリム平和少女像除幕を組織的に反対し日本からグレンデール市側に抗議電話とEメールがずっと続いていると伝えた。 

また、ホワイトハウスへの署名は11万人を超えた。
Remove offensive state in Glendale, CA public park Please remove the statue in a public park in Glendale, California. It is a statue of a Comfort Women masquerading as a peace statue while in essence after reading the inscription it is promoting hate towards the people and nation of Japan.

https://petitions.whitehouse.gov/petition/remove-offensive-state-glendale-ca-public-park/3zLr8dZh

 
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2014年01月08日

片付けが、集中力を高める!?

七草粥で、お腹がすっきり、新たに始動の時期です。

『脳に悪い7つの習慣』がベストセラーになり、著者の林成之氏は、競泳、体操のオリンピック日本代表チームに「勝つための脳=勝負脳」の指導をしていましいたが、『何歳になっても脳は進化する!』(林成之・著 三笠書房)が出版されました。

 年を取っても脳は衰えないと主張する、その理由と脳を活性化する行動、生活習慣を伝授しているので、興味深い一冊です。

 仕事や勉強、それこそ受験などに役立つのはもちろん、「年を取るほど頭がよくなる」方法を指南した本なので、全天候型ターゲットにしたところが、頭をフル回転させている著者ならではです。

知っておくと良いのは、脳はネガティブな情報を嫌い、ポジティブな情報を好むということです。
なかでも脳が一番喜ぶのは、<自分がやろうとしたことを達成すること>なのだそうです。

そういう意味で、仕事には老化防止の効果がある。
また、同じ仕事をするのでも、目標を立てるのと立てないのとでは、大きな差が生まれるようです。

また、かのマキャベリが、「報酬は小出しに」と言ったことは、まさに脳の働きを熟知したかのようにやはり正しいようです。
 <自己報酬神経群がよく働くのは、「ごほうびが得られた」ときではなく、「ごほうびがもらえそうだ!」という期待があるとき>

 更に興味深かったのは、損得を考えることがマイナスに働くことと、片づけが集中力を高める、という点。

人間は、損得を考えると、得なときだけやるようになるのでマイナス。
何かに集中したいときは、新しい情報をシャットダウンするのが一番なので、机は片づけた方がいい、ということだそうです。

読むと、いかに脳を活性出来るか、ちょっとした工夫で効果が出て、それをどれだけ継続するかでさが出てくるとならば、ご長寿社会には必読の書であるわけです。アスリートも、受験生も、そうでないない人も、お年始を過ごしたこの時期に、ご自分の習慣、ぜひ、チェックしてみてはいかがでしょう。脳をウマく使って、人生の波を乗りこなす秘訣が見つかりそうです。まずは、片づけの習慣ということは、やってみましょう!
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2014年01月07日

オメガ3系、6系脂肪酸への期待

オメガ脂肪酸と知力の関係が注目されたのは、1989年にイギリスのクロフォード博士が著書の中で「日本の子供の知能指数が高いのは、魚をよく食べるためではないか」と述べたことが、きっかけだったとご存知でしたか。それ以来、魚に含まれる油(DHA・EPA)に一気に注目が集まり、世界中で研究が盛んになりました。

 2014年をウマく駆けていくために、基本は健康を左右する食習慣を再設計をしませんか。食事と運動が健康の元です。
これまで何回か食事の内容の要点を紹介してきましたが、ここで改めてまとめてご紹介しましょう。

まず、1990年「デザイナーズフーズ」が発表されています。
3段階に分かれていますが、最上位のランクは、ニンニク、キャベツ、甘草、大豆、生姜、セリ科(人参、セロリ、バースニップ)です。甘草は漢方で有名です。バースニップはヨーロッパで栽培されている白人参です。第2ランクは玉ねぎ、茶、ターメリック、玄米、全粒小麦、亜麻、柑橘類(オレンジ、レモン、グレープフルーツ)、ナス科(トマト、ナス、ピーマン)、アブラナ科(ブロッコリー、カリフラワー、芽キャベツ)です。
第3レベルはハーブ類です。

次は「食べるべき」上位10位」、第1位はリンゴです。第2位はアーモンド、第3位はブロッコリー、第4位はブルーベリー、第5位は魚油、第6位は緑の葉菜、第7位はサツマイモ、第8位は小麦胚芽、第9位はアボガド、第10位はオートミールです。

要注意の油について、摂取してはいけない油があります。マーガリン、ショートニング(安いケーキやクッキー)酸化した油(外食等の古い油の揚げ物)これらトランス脂肪酸は動脈硬化を引き起こし心臓や血管に有害です。次に、摂取を避ける油:動物性脂肪(ラードなど)、乳脂肪、ヤシ油、ココナッツ油、これらは飽和脂肪酸でコレステロールを増やし動脈硬化を引き起こします。

摂取しても良い油:大豆油、コーン油、綿実油、ごま油、菜種油、紅花油、ひまわり油。これらは多不飽和脂肪酸で、いわゆるオメガ6のリノール酸が多く含まれています。一時は摂取が推奨されましたが、これが多すぎるとアトピーの原因とか、酸化しやすい上、悪玉コレステロールを減らしますが善玉コレステロールも減らすといわれています。
また精製の過程で化学品を使用するので少量有害なトランス脂肪酸を含むのが、要注意です

特に摂取お勧めの油が、オメガ9のオレイン酸が多いとされる、キャノーラ油、オリーブ油です。出来ればエクストラバージンオリーブ油(化学品で抽出したオリーブ油は避ける)。

積極的に摂取すべき油:オメガ3脂肪酸です。オメガ3脂肪酸は限られた植物油にしか含まれません。現代人には不足してこれが色々問題を起こしていると言われています。この不足するオメガ3脂肪酸を含む油は、エゴマ油、シソ油、亜麻仁油です。ただし酸化に敏感なため決して加熱しないで、生で摂取すると同時に冷暗所に保存する事。
食物ではクルミ、そしてサケ、サバ、イワシ、ニシンという冷たい海の魚はオメガ3脂肪酸を造り、「血液サラサラ効果」のEPAやDHAを豊富に含みます

注意、菜種油とキャノーラ油は別物でキャノーラ油は品種改良されて有害なエルカ酸を無くしたものでこれは摂取してもよいと言われています。青森産の菜種油は品種改良されたものです。紅花油も品種改良されてオレイン酸を多く含むものは摂取していいです。ピーナッツ油は避けます、これは発がん物質のアフラトキシンを含んでいる可能性がありますので。サラダオイルとしては
バージンオリーブオイルを複数、品種改良された缶入りの紅花油、生野菜用にエゴマ油、シソ油、亜麻仁油です。ゴマ油は香りづけに少し。

ではどの魚種にあるのかを調べてみました。多くは頭や内臓、皮にありますが殆ど捨てられていますから、可食部の含有量で比較した情報が日本食品脂溶成分表というものにあるようですが、それを引用しているニッスイのサイトで見てみました。圧倒的に多いのは本マグロのトロですが、これはあまり口に入りませんね。赤身になるとガックリ下がります。

EPAとDHAの多い魚は(可食部100gに含まれるmg)、

本マグロ(トロ) EPA1288 DHA2877 計4165
サバ       EPA1214 DHA1781 計2995
マダイ      EPA1085 DHA1830 計2915
ブリ       EPA
899 DHA1785 計2684
マイワシ     EPA1381 DHA1136 計2517
サンマ      EPA 844 DHA1398 計2242
サケ       EPA 492 DHA 820 
計1312
アジ       EPA 408 DHA 748 
計1156

です。あとの魚種、カレイ(計412)、ヒラメ(計284)、マグロの赤身(計142)・・
はかなり落ちます。サケはこれとは別に強力な抗酸化成分のアスタキサンチンがありますから積極的に食すべき魚です。
特に紅鮭は養殖がなく天然ですから養殖魚の抗生物質のリスクがありませんね。


有名な順天堂大学の白澤教授は5つのルールを提案しています。
1. 炭水化物を制限、
2.良質のタンパク質をしっかりとる、
3.質の良い脂質を取る、
4.
.野菜を多く取る、
5.甘いお菓子は絶対ダメ。
そして朝食に野菜ジュースを勧めています。

癌の治療で有名な西台クリニック院長の済陽先生は、リンゴ、はちみつ、レモン、ヨーグルトを勧めていますが特に野菜ジュースを勧めています。癌治療に大きな効果を上げているといいます。そして食材としてキノコ、卵、玄米、ニラ、あしたば、モロヘイヤなどクセのある野菜、海藻、タマネギ、ネギ、魚介類、大豆食品、芋類、ニンニク、鶏肉を「癌を防ぐスープ」の食材として勧めています。

新宿溝口クリニック院長の溝口先生は50代以降足りなくなる栄養素として、オメガ3脂肪酸系の良い油、肉魚豆というタンパク質、ビタミンB、ミネラルを上げています。

ここまで、お付き合いいただいた方には、オメガ脂肪酸は、脳機能の発達や維持に重要な役割を果たしているということを、もう少しお伝えします。
昔の日本人は、習慣的にかなり良い食習慣を作り上げ、それが脳にも良い影響を与えていました。EPA(エイコサペンタエン酸。いわし、さば、きんき等に含有)を含むオメガ脂肪酸はもともと全身に存在して、健康を支えていますが、しかし、加齢とともに減少するとは知っていなかったでしょう。


現代人の私たちは、長寿になった上に、脳の若々しさを維持したいものです。
若さを測定する方法のひとつに「情報処理速度」をみる手法があります。
脳が一定の情報を処理するのに要する速度をチェックするものですが、高年齢者がオメガ脂肪酸(1日当たりARA120 mg、DHA300 mg、EPA100 mg)を約1ヵ月間摂取したところ、情報処理速度に対する有効性を確認することができました。

金沢大学大学院医学系研究科の山嶋哲盛先生は、軽度認知障害の人にARA(アラキドン酸。卵、豚肉、豚レバーなどに含有)とDHAを90日間摂取してもらい、その前後で神経心理テストを実施しました。その結果、5項目のうち「即時記憶」と「注意(集中力)」の2項目が有意に改善。もの忘れという症状を、ARAのオメガ6系脂肪酸とオメガ3系脂肪酸であるDHA(ドコサヘキサエン酸、マグロ脂身、鯖など)の継続摂取によって改善できる可能性が示されました。

また、軽度認知障害の人12名にARAとDHAを90日間摂取してもらい、摂取する前と後に、この3項目について神経心理テストを行いました。その結果、「即時記憶」と「注意(集中力)」の2項目について有意な改善が認められ、ARAとDHAを摂取することで、もの忘れを改善できる可能性が示唆されました。その他、ARAが老齢ラットの学習記憶脳を改善することを示した、興味深い研究報告もあります。
歳をとると気になってくる一つが「記憶力の低下」ですが、食の面から脳の老化予防に役立つ健康成分であるオメガ脂肪酸を毎日とるということが望まれます。なにか、サントリーセサミンのおすすめのようになってきましたが、脳の老化によって、情報を分析したり、記憶したりする機能が落ちないようにするのも意外と食事の心がけが大きく効くようです。

さらに、記憶を司る脳の海馬は、中高年になると1年で1〜2%縮小するといわれています。そこで、どうするかです。
手軽に日常生活で脳トレに有効だとされるのが、インターバル速歩です。3分歩いて、3分速足に歩くと言う方法です。また、新聞社説の内容を理解しながら、同時に別の作業をして、脳のワーキングメモリー機能をフル活用させる。たとえば、読みながら「の」の数を数えるなど、二股(?)をかけて読むというような事をすると良いそうです。脳を楽しく刺激する、ジグソーパズルやゲーム、俳句・短歌などは頭を使い脳を活性化させます。特に対戦型の囲碁や将棋などは、人との交流する楽しさも加わり、効果があります。負けて悔しがるより、会話しながら相手を意識して褒めると、ワーキングメモリー機能が改善するとの報告もあります。相手も気持ちがよく、よりよい人間関係につながり、効果倍増です。よく言われるのが、ボランティアなどに参加することですが、高い目的意識を持って地位に役立つことが、自分のためになっている、認知機能の維持に役立つ一石二鳥なのです。私たちの脳は思っている以上に社会的です。世のため、人のためを考えた行動はモチベーションが維持し、とにかく続けることで高い達成感も得られます。

日本の子供たちの知能指数に着目して、研究が始まったことから、オメガ3系脂肪酸の摂取が、脳の老化を防ぎ、認知症発症リスク低減が見られるとのことが分かったということ、そして今も研究が続けれているというのは、人類の未来にも日本人は好ましい影響を与えたといます。それでは、今年も春からウマくいきますよう!


参考:「美感遊創」Vol.134



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2014年01月06日

白菜と唐辛子

「キムチのルーツは日本だと分かった」と英国人の東洋史学者ホールデン教授(日本・中国の歴史専攻)の研究結果があるそうです。キムチに不可欠の唐辛子は、15世紀 にポルトガルから南蛮貿易で日本の長崎にもたらされ、その後、九州で栽培に成功し薬剤として普及します。
16世紀後期になり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本水軍の九州兵が保存食・滋養食として携行し、この戦争において、日本水軍兵が白菜漬けにして、朝鮮兵と朝鮮の人達に伝わり、その保存性・滋養が 注目され、朝鮮でも食されるようになったということです。秀吉の朝鮮出兵の頃に、白菜はまだ日本に存在してはいませんでした。

本州に白菜がもたらされたのは意外と遅く明治初期でしたが、本格的に白菜が栽培されるようになったのは、日清、日露戦争の際に種を持ち帰った後とされています。つまり、唐辛子が日本から朝鮮半島に伝わり、そこで白菜と出遭い、美味しいキムチになっていた。

英語名で Chinese Cabbage と言われる白菜は、その名が示す通り中国北部が栽培種の原産地です。2000年以上前にヨーロッパから中国へと伝わった菜種が、蕪と漬け菜に分化し、更に中国南部原産のチンゲン菜と交雑して誕生したと考えられています。その後、「唐辛子を白菜と漬け込んだ食品」が、九州の漁師達の保存食として用いられるようになり、漁師や漁民たちの持病である脚気の防止に大変効能があったといわれます。最近のような、韓国食のブームになる前は日本では匂いが嫌われていましたが、欧米ではむしろ納豆の臭みとネバネバよりは好まれる傾向でした。日本では、それまで韓国の料理と言えば焼肉のみが名称でビビンバやチゲスープなども売られていませんでした。それが一大変化をするきっかけは、FIFAワールドカップの同時開催です。スポーツと韓流ブームが、ワッと日本に押し寄せて、韓国の安いエステや整形美容、美容大国などとマスコミでもてはやされて、ファッション性も知れていきました。おかげで、日韓の文化交流は本格化しました。

そうして、臭いと言われたキムチは発酵食品の王者として健康食品にはなくてはならない売れ筋になってきたというわけです。 
美味しいもの、健康にいいもの、嬉しいものは垣根はありません。お互いに、汗をかいて、一緒に食べて、笑って泣いて、感動できれば、必ず乗り越えられる歴史の襞を私たちの知恵で一緒に作り上げる、そういう年にしたいものです。
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2014年01月05日

追い風と向かい風について

私たちの人生には、出発点と折り返し点があります。

ちょうどマラソンコースが、一本道ではなく大体折り返し点が設定されているように。

なぜマラソンのコースに一本道ではなく折り返し点を設けるかというと、追い風と向かい風が同時に有利不利に働くようにできているからです。


行きが追い風なら、帰りは向い風、行きが向い風なら、帰りは追い風、というように往復で風を受けることで、有利不利が相殺されるようになっています。

上り坂があれば、同じだけ下り坂がある。

有利不利を平均化するためには、折り返しを作らなければならないわけです。


そして人間の人生というのも、仮に寿命が80歳だとすると折り返し点が40歳です。

70歳の方なら35歳が折り返し点になります。


往路の場合、求める心が強いほど追い風になります。

後半は、執着(しゅうちゃく)を捨てる心が追い風になります。


人生の前半生は、折り返しまでの半分は求める心が強いほど、それが追い風になります。

ところが、人生前半の追い風が強ければ強いほど、人生の後半は向かい風になります。


もし自分が人生の折り返しを過ぎているな、と感じる人は、この復路に入っています。

人生の後半生は、こだわりや執着を捨てていく作業の過程なのです。

若さや美しさ、体力、気力に対するこだわりの心を捨てていく。


実際に体力や気力も若い頃ほどもたないので、「ああ、そんなに若い頃と同じには頑張れないよね」と執着を捨てざるを得ません。

親や配偶者、長年の友人との決別、子どもの独立など、人生の後半は決別の連続です。

それに対していかに執着しないか、ということを自分の中に作っていくことでしょう。


そして、人生の後半生で執着を捨てる心が強ければ強いほど、人生が楽しい。

向かい風がなくなるからです。


求める心が強くて、あれが欲しいこれが欲しい、と言っている力が強ければ強いほど、逆風が強くなる。

幸せの構造というのはこのように簡単になっているらしいのです。

出典: 『人生を楽しむ」ための30法則』小林正観  講談社
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2014年01月04日

海外駐在の日本人子弟にも苛めの影響

従軍慰安婦問題には強力なロビー組織がある。
1992年1月8日にソウルの日本大使館前から始まった水曜集会は20年以上を経て、日本、アメリカ、台湾、フィリピン、インドネシアなど世界各地に広がった。これまでヨーロッパでは、戦犯国であったドイツと、日本軍慰安婦被害者がいるとされるオランダを中心に連携しているという。
この団体の代表が刊行した「20年間の水曜日」(東方出版、2010)は裏付ける資料的証拠を示さないまま、元慰安婦女性の証言が事実として書かれているなどと西岡力教授(ICU)から批判もされているが、この日本語訳は、日本図書館協会の選定図書に指定を受けている。

尹代表は、2012年に渡米し、国連人権理事会で米国など各国代表が日本軍慰安婦問題を提起することを要求する要請書を米国大使館側に手渡していた。

また、昨秋にはパリでも日本軍従軍慰安婦の問題に抗議するイベントが開催された。

 


慰安婦の碑は、2011年に韓国の日本大使館前(公道)に無許可で元慰安婦の少女時代を題材にしたというブロンズ像(平和碑)が立てられたのが始まりで、道路法では違法とはいえ黙認されてきていた。 すでに、米国系韓国市民団体によって、同様の像がカリフォルニア州のものを含め4か所に建てられており、今後全米で20か所ほど設置する計画がある。 

米国内で盛んになっていた従軍慰安婦の問題で、現地校に通う日本人子弟がイジメにあうことも頻発するようになってきていたという。

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2014年01月03日

歴史認識の必要とは

米カリフォルニア州グレンデールの公園に韓国系団体が建てたいわゆる従軍慰安婦を象徴する少女像について、テキサス州に住む米国人男性(64)が、ホワイトハウスの請願受け付けを通じ、像の撤去を求める署名集めを行い、署名数が、受理に必要な10万8000人を超えた。

請願は「像は日本人への憎悪を助長する」として撤去を求めており、ホワイトハウスは請願を受理して対応を検討するとみられる。 (2014年1月3日21時49分 読売新聞) 

 これまでにも、韓国の団体による抗議活動が盛んに行なわれていたが、日本国内ではあまり知られてこなかった。

昨年、9月18日には、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)はパリ・シャイヨー宮のエッフェル塔広場で18日(現地時間)、水曜集会を開催した。従軍慰安婦婦問題の解決を促す水曜デモがフランスのパリで開催されるのは、初めてだと複数の韓国メディアが報じた。

  挺対協は、スイスのジュネーブで開かれた第24回国連人権理事会でアムネスティ・インターナショナルと共同で「日本軍性奴隷の生存者に正義を」というイベントを開催したのに続き、14日からフランスでキャンペーンを行った。

  ミシェル・アンドレ上院議員と約1時間の面談を行い、フランス議会で従軍慰安婦問題の解決を促す決議の採択などを要求した。

  挺対協関係者は、「パリ市民や観光客に従軍慰安婦問題を知らせ、解決に向けて参加を呼びかける」と述べたという。


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2014年01月02日

新しい関係を構築するには

日中経済関係について                        

1.国と国との関係は、個人と同じように、「目の前の損得」だけを考えて、処理すべきではなく、過去の歴史(過去に恩恵を受けたこと、相手に被害を与えたことなどを含め)と今後のビジョンや長期戦略に基づき対処すべきと思います。今、日本は島国根性を捨て、また重箱の隅をつつくような議論はやめて、もっと大局的に、懐を大きく持った対応をすべきです。


2.そして何より基本は、一定のリスクを回避しつつも、相互の信頼関係を築き、友好関係を維持することに、最大の努力をすべきと思います。中国を敵視することに偏重した石原前都知事は昔、故渡辺美智雄らと一緒に、青嵐会を作り、日中正常化も問題外としてきた人でした。多くの日本人が、それに振り回されていることは日本として不幸です。


3.領土問題は、‘72年の国交正常化の折の周恩来と田中角栄・大平正芳の面談時、またその後のケ小平との会談時も、尖閣問題が話題に出て、相手から「棚上げ」が提案され、ことの深刻化は避けられました(外務省の記録に残っている)。しかし、日本側は、その後には忘れ去ったように国民に問題の前後を伝えてきませんでした、そのことが問題であり、一念の強い政治家の思うつぼになって、国交正常化40年の思いは水泡に帰そうとしています。


4.その前提には中国が、対日戦後賠償を放棄してくれた事実に対して、節度ある儀礼を忘れないということがあるはずです。


終戦後、1972年日中国交正常化交渉の際、周恩来首相は、中国は日本に対する賠償を放棄しました。これで、当時最貧に喘ぐ日本国がどれだけ助かったか、という事実です。日本が中国に戦争で与えた損害は、計り知れず(一説では、6000億ドル=48兆円)とも言われています。その後賠償の代わりに、円借その他で、払ったではないかと考える向きもありますが、円借他で日本が中国に出した金が合計で350億ドル程度と考えられ、試算の仕方にもよりますが、日本としては自省すべきです。


一方、日本は先の日清戦争で勝利したときに、中国から台湾、澎湖列島、遼東半島(その後三国干渉で返却)を割譲させた他、3.5億円、中国の国家予算の3年半分に相当する巨額な賠償金をとっている。


こういう点から歴史的経過を見れば、仮に尖閣諸島の領有が歴史的、または法的に日本の領有だと言うような点を強調するだけで礼儀に反すると言えまいか。上記の賠償放棄の歴史を考え、将来の日中関係の重要さを考えて、共同開発の道を探るなど、前向きに、柔軟に、まずは対話の試みをすべきと思います。


中日新聞は、次の社説を掲げていますが、私は全く同感です。


日中国交正常化から昨日(2013年)でちょうど四十年。尖閣諸島の国有化をめぐって、戦後最大の危機に直面する今、原点を考えてみる。日清戦争で巨額の賠償金を払った中国は日中戦争での賠償金請求を放棄した。強い反日感情が残る民衆を「日本人民も被害者」「賠償金は日本国民の負担になる」という理屈を立て、説得した。


 先人たちの覚悟と知恵から学ぶ必要がある。互いに欠かせない隣国である以上、新たな関係を築く努力  を重ねるしかない。政治だけでなく、日中の国民が試されている。


5.尖閣問題だけでなく、今後、全般的に日中関係正常化のするためには、次のことを実現すべきと思います。


A.
歴史認識問題を解決するため、日本は「日本の中国侵略」への事実関係を、教科書でも学べるようにすること。中国侵略が、当時の関東軍の暴走により始まったことは、中国の加担もあったなしかと言われる状況も含めて、事実を知っていこうと態度は大事です。さらに言えば、襟を正してわが身を振り返る姿勢を政治家がしっかりもってこそ、国民全体が国際的に信頼されるのです。


B.
靖国神社から、A級戦犯慰霊は、外す。客観的に見て、今のままでは、「太平洋戦争」を是認していると思われても仕方がない。中国や韓国から言われなくても、日本人から見ても疑問だらけの経緯が靖国神社にはあるのが明白です。


C.
領土問題は、棚上げを両国で誠意をもって合意し、周辺の資源利用に関しては、共同利用を協議する。最終的には、中露の領土解決成功のように、ピースゾーン(どちらにも含まないが平和に運航する)などで解決を目指す方向性を見出していく。



干支を生み出した知恵は、中国に起源があるのは先刻周知です。臥薪嘗胆、塞翁が馬、これらの知恵もさすずかりました。
あとは、今年こそ ウマく やるだけです。






posted by Nina at 19:26| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月01日

ウマく行く年に!

あけましておめでとうございます

日本にも野生馬が生息している場所があるのを知ったのは、宮崎県串間市に視察に行った時だった。親切にも市役所の職員が案内してくれたのだ。最近は動画でも紹介するようになっていた。


 
日南海岸の最南端にある都井岬(宮崎県串間市)の自然の中で、野生馬と共に時間がゆっくりと流れていく-。午年のお正月にみてみる動画としてもぴったりです。海に突き出た岬を柵とゲートで囲った、約550ヘクタールの広大な森と草原に、のんびりと野生馬が暮らす。野生馬に近寄って実際にみられるのは、日本でもここだけだというが、来る人もいない、天敵もないとなると、まったく警戒心もないようだ。北海道の「道産子」や長野県の「木曽馬」などとともに、日本在来馬の-ひとつに数えられる「御崎馬(みさきうま)」の、のんびりと暮らす様子をみてみるのも楽しい。 
 ウマく行く年に、皆で力を合わせていきましょう。

M2300001.JPG
 
                                   Flower arranged by Kaizu
posted by Nina at 01:45| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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