スティーブ・ジョブズは、亡くなってから2年目の秋となった。スティーブ・ジョブズは生まれながらに常道を逸した形で生をうけて、その為か禅を指針として生きた。それは、今も伝説に満ちて、「僕たちはエンジニアじゃなくて芸術家なんだ」など名言も多く残る。
禅だけではなく日本文化にも深い関心を持ち、晩年まで家族旅行でしばしば京都を訪れ、亡くなる前年には紺碧荘(野村證券の創始者・野村徳七の別荘)も訪ねていたことを、京都旅行で特別に紺碧荘を見学できた際に耳にした。また、新版画のコレクターでもあり、1983年から蒐集を開始している。ジョブスは新版画の中で、特に川瀬巴水の風景がを好んだという。私も浮世絵について調べた際に川瀬巴水に興味をもって画集をかったが、スティーブ・ジョブスがそれほどに日本文化に興味をもっていたことを知って驚いたものだった。なんと、マッキントッシュ発表セレモニーでは、自身が持っていた新版画をスクリーンに映し出すことで、その優れた映像技術を示した。)
となると、日本食が大好きな訳で、とりわけ蕎麦や寿司が好きだったことが知られている。アップル本社の食堂Cafe Macsにはジョブズが考案したという「刺身ソバ」なるメニューがある。Cafe Macsで働く日本人スタッフの女性は、ジョブズのために築地で本格的な蕎麦打ちの修行をしたという。1970年、ジョブズは日本を訪問し、当時大阪で開催された万博において電電公社が発表したワイヤレスホンに興味を示していたという。
その生い立ちだが、カリフォルニア州サンフランシスコで生を受け、数週間後に、同じサンフランシスコに住むポール・ジョブズとクララ・ジョブズ夫妻の養子となった。それだけでは驚くにあたらがない、ジョブズの実の父はシリア人で、米国ウィスコンシン大学の大学院生だった時に、同級生だった米国人との間にできた子どもがジョブズだった。誕生以前からその赤ん坊は養子に出す事が決められていたという。
子どもの頃はかなり貧乏だったが、21歳でアップルを創業し、25歳で上場し巨万の富を得た。しかし、結局業績不振から30歳の時に会社から追放された。42歳で、倒産寸前の会社に舞い戻り、劇的なやり方でアップルを建て直した。
自ら望んで波乱万丈で辛く厳しい人生を歩みたいと思う人など、この世にはあまりいない。しかし、多くの成功者は、過酷な条件をバネにして生きてきた人が多いのも事実だ。ジョブズは、養子であったこと、貧乏であった境遇が「本当に幸運だった」と言っている。松下幸之助翁が、「貧乏、病弱、無学歴」のお陰で成功した、と言うのと同じだ。
養父となったポールは高校中退、しかし、ジョブズの目には押し出しのいい、とにかくすごい父親として映った。大恐慌時代に青年期を迎え、中西部を転々とし、第2次大戦中は沿岸警備隊でパットン将軍の指揮下で働く。ただ、何かとトラブルに巻き込まれてしまうタイプで、軍に残ることはできなかった。
ポールは手先が器用で、沿岸警備隊時代に機関室で技術も身に付け、腕のいい機械工としてよく働いた。趣味は機械いじりで、ポンコツ車を買っては修理し、走れるようにして売っては次の車を買って小銭を稼いでいた。自宅ガレージには専用の作業台が置いてあり、ジョブズが6歳になった頃、ポールはその一部を譲って「ステーブ、今からここがお前の場所だ」と言った。それから小ぶりの金槌やノコギリを渡すと、使い方をこまかく具体的に教えた。
親子はここでよく一緒に機械を組み立てては分解した。「本当にためになった」とジョブズは言う。
しかし、ポールから受け継いだのは機械いじりの能力より、商売のやりとりだったようだ。ポールは、ポンコツ車の修理もうまかったが、それを売買する商売はもっとうまかった。稼いだ小銭がジョブズの大学進学の費用になるほどだった。ジョブズも交渉の仕方や値切り方、捨てられた車の所有者を推理する能力などを身につけていく。
「本当に幸運だった」とポールを父親として持てたことを、ジョブズはそう語っている。血はつながっていないとはいえ、ジョブズにとって、育ててくれたポールとクララは、亡くなった今も最愛の人たちだ。
ジョブズの前で「養父母」という言葉は禁句で、うっかり口にして何人ものジャーナリストがたたき出された。「二人とも私の親だ」そうジョブズは言う。
ビートルズ(特にジョン・レノン)の大ファン。アップルのプレゼンテーションで、ビートルズのジャケット写真を使ったこともある。ちなみに、社名選考でジョブズが「アップルというのはどうか?」と、突然言い出したとされる。ビートルズのレコード会社として有名なAppleから思いついたのかもしれない。探してみれば、私と共通点の多い人だった!?と、秋になると京都の紅葉を思い出し、ちょうどそのころに亡くなったジョブズについて想いを馳せたりする。
『スティブ・ジョブズ 神の遺言』経済界新書