08年秋のリーマン・ショックで、ホテル業界は長い冬の時代を迎えた。空前の開設ラッシュで供給過多に陥っているところに外国人観光客が減少したため、値下げ競争となったからだ。さらに11年の東日本大震災が追い討ちをかけ、外国人観光客は激減した。
前回1964年の東京五輪に帝国ホテル、ホテルオークラ東京、ホテルニューオータニが「ホテル御三家」と呼ばれるようになった。ホテルニューオータニは東京オリンピックに際し、訪れる外国人観光客を受け入れるホテルとして、大谷重工業社長の大谷米太郎が建設した。帝国ホテルは、近代化を目指す日本に、本格的な西洋式ホテルを誕生させようという国を挙げての願いを受け、渋沢栄一や大倉喜八郎によって設立された。戦後の公職追放で帝国ホテルを離れた大倉財閥の2代目、大倉喜七郎が日本にマッチしたオリジナルなホテルとして構想したものがホテルオークラだ。
東京での外資系ホテルの誘致合戦を主導したのは、大手不動産会社だった。大規模複合ビルに「超高級ホテルが入ればビルの格が上がり、高い賃料収入が得られる」との思惑からだ。地価が高く採算が合わないと尻込みしていた外資系も「ビル全体ではなく、中高層階だけの運営なら収益が出る」と見込んだ。
バブル崩壊でホテルの勢力図は塗り替わった。第1次ホテル戦争は1990年代前半。フォーシーズンズホテル椿山荘東京(現ホテル椿山荘東京)、パークハイアット東京、ウェスティンホテル東京といった外資系ホテルが相次いで進出した。この3つのホテルに、94年に「新御三家」の称号がついた。
2000年代に入っても、外資系の勢いは止まらない。第2次ホテル戦争は05〜07年にかけて。マンダリンオリエンタル東京、ザ・リッツ・カールトン東京、ザ・ペニンシュラ東京は「新・新御三家」と称された。
政府は30年までに訪日外国人数を3000万人(12年は836万人)とする目標を掲げる。20年の東京五輪の開催も追い風となった。政府は観光立国を掲げる中で、訪日外国人観光客の呼び込みに力を入れる。13年の訪日外国人旅行者数を12年の836万人から1000万人に増やすため、タイ、マレーシアからの観光客のビザを免除した。格安航空会社(LCC)を含む航空ネットワークの拡充、成田空港や羽田空港へのアクセス改善も提示した。
観光立国に向けたインフラの整備を横目ににらみながら、外資系ホテルは中断していた東京進出プロジェクトを相次いで再開させ、いよいよ第3次東京ホテル戦争の様相を呈しつつある。外資系の攻勢に対し国内勢はどのような手を打つのか、攻勢をはねのけ、ブランドを維持することができるのか、その行方にホテル業界の注目が集まっているといわれる。