我孫子の文化を守る会の会員になったこともあって、バス旅行にご一緒した方から念願の布佐の史跡をご案内いただいた。
今回の目的の一つは、柳田国男(当時は松岡姓)の初恋の人であるとされる薄幸の事少女・イネさんの住んでいた家(成魚業)とお墓を特定することと、柳田の友人であった田山花袋、島崎藤村、国木田独歩が集い歩いたであろう、利根川が美しく見える高台の絶景ポイントを見つけることだった。
そのお宅で、柳田が花袋に出したイネさんへの絶てぬ思いを綴った手紙(コピー?)を見せて戴いて、いつもは閉っている室内も見せて戴いた。
イネや国男の家、岡田武松(当時は恋敵ともいえる、後の気象学の大御所)が住んでいた街道の位置関係を確認できた。
当地の郷土史諸先輩から色々なお教えをいただくたびに、我孫子を再認識している。
おかげで、我孫子に残される自然に点在するお宝を発見する日々だ。
国木田独歩(銚子生れ)は『武蔵野』を書いて、小説家として名を挙げる以前の苦節する時期にこうした抒情詩人の20代の仲間たちと恋を語り、未来を語っていた。実は、武蔵野を読むとその中で西洋婦人が乗馬をするさまを記しているが、それは当時、布佐にドイツ女性・ユリアさん(夫は帝大出の医者学者大沢岳太郎)の別荘があって、趣味の乗馬を楽しんでいたことに起因するのではないかと私は考えている。来月の学会で、旧別荘地・我孫子における芸術家交流についての発表をしようと準備しているが、確信を得た思いだ。要するに、当時、独歩は、いよいよの離婚と仕事においても絶望状態であったので、生まれ故郷銚子を旅する前に布佐にきて仲間との交流と田舎の自然に癒されていたに違いない。『武蔵野』は自然主義文学のシンボルでもあるが、絶望する若者が武蔵野の林をさまよって再起する話になっているが、実は我孫子は独歩の心の癒しを与えた場所だともいえるのではないかと仮説を立ててそれを論拠した。
私が想像していた通り、帰省のたびに父母のお墓詣りをしていたという松岡家のお墓のすぐ向かいにイネさんの墓碑があった。
ユリア夫人の別荘のあったあたりからみえる利根川の光景は、故国の学生街・ハイデルベルグに流れるマイン川に酷似していたのだろう。
こうなってみると、布佐は我孫子のロマンチック街道ともいえるのではないだろうか。
ゆったり流れる利根川の向こうの中央に筑波山が見えのが分かる(写真はクリック拡大可)