2013年10月14日

21世紀、王道は市民の力によって築かれる

三田渡(さんでんと)の盟約は、清と李氏朝鮮との間で行われた丙子の役(丙子胡乱)の終戦講和条約である。
1637年1月30日に李氏朝鮮の首都漢城の郊外三田渡(現ソウル特別市松坡区蚕室洞)で締結された。この記念に大清皇帝功徳碑が建てられた。 李氏朝鮮は、初代国王である李成桂が1393年に明の初代皇帝朱元璋から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられて以降、一貫して明の属国であり続けたが、三田渡の盟約をもって、明の属国から清の属国へとかわった。1895年4月17日に締結された日清戦争後の講和会議である下関条約まで、李氏朝鮮は清の属国であり続けた。 
丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年に清が李氏朝鮮(朝鮮)に侵入し、朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。中国では丙子之役と呼ばれている。朝鮮の呼称にある胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。韓国では朝鮮王朝実録以来、敵対感が込められた用語である丙子胡乱が用いられたが自国中心主義であるとして丙子戦争とする呼称も使用されている。 17世紀はじめ、中国全土を支配していた明が衰えを見せ、それに変わり後金が台頭してきた。1627年、後金は反後金親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。 
1636年、後金のホンタイジ(皇太極、太宗)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。しかし朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占めたため、仁祖は要求を拒絶し、清と戦う準備に入った。清は朝鮮が謝罪しなければ攻撃すると脅したが朝鮮はこれを黙殺した。これに激怒したホンタイジは朝鮮侵攻を決意する。 1636年12月2日、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて首都盛京(瀋陽)を発ち、9日には鴨緑江を渡って朝鮮に侵入した。義州府尹の林慶業は白馬山城を固めて清軍に備えたが、清軍はこれを避けて漢城に向けて進撃した。13日、朝鮮の朝廷は清軍侵入の事実を知ったが、14日には清軍がすでに開城を通過していた。朝鮮朝廷は急遽漢城と江華島の守備を固め、宗室を江華島に避難させた。14日夜には仁祖も江華島へ逃れようとするが清軍に道をふさがれ、やむなく1万3000人の将兵と共に南漢山城に逃れたが城を包囲され、40日余りの篭城の末に降伏、和議が結ばれた(三田渡の盟約)。 
1637年1月30日、仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭(三回土下座をするごとに三回頭を地面に擦りつけてお辞儀をする)の礼による臣下の礼を行い、許しを乞うたという。
こうした 中国からの役人の送迎の際の門は、下関条約の後には独立門とし直して記念した。ところが、韓国の人々は中国との長きにわたる隷属関係からの独立の記念碑であることは正確には認識していないようだ(つまり、日本からの独立と歴史的な誤解をしている節がある)。こうした、誤解を正していこうとするのは市民による交流が遠くても王道なのかもしれない。
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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