しかし、歴史のページに足跡を残すことはありませんでした。女性が男性の前に出て活躍するなどは憚られた時代で、兎に角、嫁に行くことが一番の女の花道でした。ところが、おえいはそうそう簡単に当時の女性の慣習に従わなかったのですが、自らを作り上げる基盤となった父・北斎の前では、いつまでも弟子であるしかなかったということになります。同様に、ジャポニズムによってヨーロッパ社会に与えた影響も僅かばかりにしか認識されていません。女性たちが培っていたものを取り立てて認める意識が働かなかったように、日本文化に対する見方がスル―してしまっていたからでしょう。
生涯に3万点を超える作品を残したと言われている北斎が、なぜそんなに莫大な数の作品を描けたのか、その陰には北斎の娘・おえいが代筆していた、となるとシェークスピアにも女性の弟子がいたのかもしれないなどと思いめぐらすこともできます。
描くことができる、書くこと、創作することが許される、ということで甘んじて弟子の立場で終わったのは、ロダンの膨大な作品にもカ―ミュという女性の才能あふれる弟子がいたことに類似性が見られます。
それにしても、北斎以上と筆だったとの評価もあり、つまり、英才教育を受けていたわけですから、北斎に一歩も譲らぬもう一人の天才画家だったということかもしれません。現存する北斎の絵の中には、実はおえいが一人で描いた作品も多数あるそうです。
歴史に語られない人々、文化の秋に女性の芸術性にも目をむけて見て、日本文化の醸成に女性の手も加わっていたことも合わせて、日本社会の深みを知ってもらうのも良いのではないでしょうか。何分、中世日本の女性たちの識字率は既に世界一だったともいわれます。もっと、日本人が日本についても知って伝えていくべきでしょう。
2013年10月11日
語られないで終わる女性たちの歴史のように
最近、カナダ人のKatherine Govierという女流作家が、北斎の娘”Oei"を題材にした、”The Ghost Brush"と云う小説を最近出版して、北斎の娘・おえいの話しが知られるようになりました。
江戸の頃、おえいはしっかり者で男みたいな気性だったそうで、しかも父親譲りの才能があリ、年を取って来た頃の北斎(89歳没)の殆どの作品に手を加えていたらしいのです。