その日本民芸館には、戦後間もなくの1947年に民芸館への皇族の訪問が二度あったという。10月3日には昭和天皇と皇后が、12月10日には皇太后だったという。
柳宗悦は創設者であることから、皇族の訪問に先立ち、宮内庁から宮中で説明するように求められた。ところが、民芸館の説明ならこちらに来られた時にやればよいと断り、特別扱いはしない(『工芸』119号)。
近所の人達が並んで出迎えようとするのも嫌がった。
幼少中と学習院(大学は東京帝大)で過ごし、主席で通した人だったが、宗悦の権力に媚びない態度は、変わらなかった。それは、声楽家である妻の兼子も同様だった。たとえ皇族であろうと、対等な個人である来館者に節度ある接し方をして遇するのが当然だとする考えの持ち主で、それが戦前と変わらないというのは筋金入りだ。
参考:楷書の絶唱『柳兼子伝』松橋桂子著 256ページ。
皇族の年間経費は6億円だそうで、宮内庁(修学院離宮、桂離宮など含む)の維持費などを合わせると年間170億円以上となるという。『日本国憲法』の第1条では、象徴という天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く、とされ、「主権者の総意」を条件としているので、戦前とは大きな違いであり、時代の意識、世界観は変わるということです。そうしたことを世界でもっとも意識していたからこそ、皇室は残ってきたのかもしれない。
戦後生まれが8割となったとされるが、戦前の天皇への崇拝の程度を改めて知る場もないままだたのを夏休みに行った開智学校(長野県。全国で最も古い校舎が保存されて記念館になっている)で改めて考えるところとなった。