第二次世界大戦の開戦によって島の北半分が日本によって占領される。東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万未満に過ぎなかった。
犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。
ニューギニア南部の拠点(ポートモレスビー)確保のために、北部沿岸に飛行場の建設など東部ニューギニアで戦いが行われ、日本軍とオーストラリア軍が戦闘を繰り広げた。アメリカ軍がオーストラリアを拠点に空輸作戦や上陸作戦を実施し、北部沿岸一帯での激戦の末に日本が敗退すると、各国が植民地経営を再開した。
残存部隊も、それまでの戦闘と補給途絶による飢餓と病気で、消耗した状態だった。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。
7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗した。安達軍司令官は攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210008_00000
ビヤク島
東部ニューギニア アイタペの戦い
1944年6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、補給途絶による飢餓と病気で消耗した。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。しかし、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、5万4,000名を養うことは不可能だと判断、結果、無謀な進軍を決行した。
7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗、攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い
アイタペ決戦に敗れた第18軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、1944年秋にアメリカ軍と交代したオーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ、昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。毒のある植物を食べて中毒死したものも少なくない。4000メートル級の山地越えでは貧弱な装備と低下した体力のために凍死者も続出している。後の証言によれば、日本兵が日本兵を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。1944年12月に第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。
掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永事件)。第18軍主力の食料・弾薬は1945年9月までには尽き果てると予想され、1か月後の玉砕全滅を覚悟していた1945年8月15日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。
9月13日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ウェワク沖合いのムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は1万1,197名であった。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に最初の復員船「鹿島」が到着し、1946年1月末までに将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った。
ジャングルの無惨無念で死を遂げた戦友たちに代わってんでいった者たちの為に戦争のむなしさ愚かしさを伝えていく義務がある。それが戦友たちの唯一の鎮魂だった。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210008_00000
●西部ニューギニア イドレ死の行軍
フォーヘルコップ半島における日本軍の兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があった。
ソロンの陸海軍部隊は孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。一方マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万名の自活は不可能と判断、1万5,000名に対して、南方200キロのベラウ湾奥のイドレへ転進しそこで自活するよう命じた。1万5,000名の将兵は1944年7月1日に出発、食糧補給の全くない熱帯雨林を横断し1か月を費やしてイドレにたどり着いたとき、人数は6,000から7,000名にまで減っていた。さらにイドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在しなかった。将兵は終戦までの1年間、飢えとマラリアの生活を送った。戦後イドレ地区からの生還者は3,000名に満たなかった。
●ドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげる原作『総員玉砕せよ!』は実体験による〜
2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番とした』が放送された。
戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。
水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。
また、貸本漫画家時代の一時期、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。敗色濃厚になる末期につれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。
『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。
曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。てっきり九州など国内の南の連隊への配属になると思っていたが、軍から南方のラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。
水木をパラオ基地からラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の信濃丸だった。敵の潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の所属した部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、茂には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、指令本部への総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射をされた。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海にとびこんで逃げた。水木は短剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した。
九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、上官から国から与えられた武器を捨てて逃げた事を咎められ、「何故死ななかったのか」と詰問された。この経験から虚無主義的な考え方をするようになった。また帰還してまもなく水木はマラリアを発症、追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負った。軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。傷病兵部隊に送られるが、そこで島の原住民との交流がはじまる。住民はとても親切で水木に果物などの差し入れをしてくれた。
1945年、戦地で敗戦の報告を受ける。周りの上官達は泣き崩れて敗北を悔しがったが、水木は「生き延びられた事への喜び」を抱いたという。連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、現地除隊して永住することを考えたこともあったが、家族に会った方が良いという助言から帰国を決意した。1946年、24歳の時に駆逐艦雪風で日本へ復員した。
片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。