昭和20年(1945年)、広島の原爆が投下された8月6日、9日の長崎の原爆投下の間には、八幡大空襲が8日(水曜日)昼間(AM10時頃から12時まで)があった。この日の爆撃は焼夷弾が中心で旧八幡市の中央町から桃園にかけて、雨・あられの如く投下された。瞬く間に火災が起こり、総て焼き尽くしてしまった。
焼夷弾を投下直前に、高空からキラキラする金属片(錫テープのようなものか)を撒いて高射砲のレーダーをかく乱したり、密集した木造家屋が燃えやすいように油のようなものも空から撒かれたとの記録もある。
死傷者約2500人。製鉄所の構内でも一部被害が及び労働者の犠牲が出た。中でも平野社宅は全滅に等しかった。罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸。
こうした、原爆以前に行なわれた大空襲は特に1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。
こうした空襲は、1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだ。原爆以前に既に原爆被害と同等な数の民間人が無差別攻撃の目標となって犠牲となっていた。その被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。
千葉では千葉市内が空襲によって230ヘクタール、1600人の犠牲者があったことが標された慰霊碑が、中央公園に設置されているが知る人はすくない。私も元県議の女性から、師範学校の学生が空襲にあって多くの若い命が失われたのだというのを教えてもらって、千葉空襲の無差別攻撃の様子に驚いたが、こうした慰霊碑についても木陰にひっそりとあるだけでは気が付く人は少ないのだと思う。
日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。