終戦記念日の昨日、武道館での慰霊祭の報道の他、靖国神社参拝の内外の反応、また下記のような特別番組の報道があった。
●知覧平和記念館についての報道番組
大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの犠牲によって今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、特攻隊員達が二度と帰ることのない出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうことを後世の人々の胸に刻むよう、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設したとあります。
http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1022938-d1545999-Reviews-Chiran_Peace_Museum_for_Kamikaze_Pilots-Minamikyushu_Kagoshima_Prefecture_Kyushu.html
●アンビリバボー シベリアの「収容所からきた遺書」の報道番組
現在、リゾート地として多くの観光客で賑わう、ロシア・ハバロフスク。だが、かつてこのあたり一帯には『ラーゲリ』と呼ばれる強制収容所が立ち並んでいた。
冬場は雪が吹きつけ、気温はマイナス30度にも及ぶ極寒の地で・・・1日10時間を超える重労働。しかも・・朝夕の食事は、わずかなお粥と粗末な黒パンが一切れ支給されるだけ。そんな地獄のような生活を、およそ65万人もの日本人が強いられたと言われている。
終戦から4年後。ソ連政府は、『捕虜全員の帰国を完了した』と公式に発表したのだが・・現実はそうではなかった。ハバロフスクの収容所『第21分所』には・・まだ多くの日本人が残されていた。彼らは『ソ連に対するスパイ行為を働いた反乱分子』とみなされ『20年以上の強制労働』という、言われなき罪を着せられた者たちだった。
『ソ連に忠誠を誓えば、帰国できる』そんな根も葉もないウワサも流れ、日本人同士の密告、裏切りも日常茶飯事。彼らの脳裏には『絶望』の二文字以外、何もなかった。
野島信介も、そんな地獄に送られた一人だった。野島はハバロフスクに移送された直後、知り合いの折田から手製の本を渡された。著者は山本北瞑子。
収容所内では、日本語のメモ書きを持っているだけで重大なスパイ行為とみなされ、『営倉』と呼ばれる独房に監禁されてしまう。『営倉』に入れられ、命を落とす者少なくなかった。
そんな環境の中で、手製の本を発行することなど、自殺行為に思われた。野島は、恐怖心から本を読むことができなかった。
そして・・その夜、野島は山本に声をかけられた。山本北瞑子とは、あの山本幡男のペンネームだったのだ。山本は、野島を俳句の句会に誘った。野島はなぜそんな危険なことをしているのかと山本に訪ねた。山本はの答えは「みんなでダモイ(帰国)した時、日本語を忘れてたらかっこ悪いでしょ」というものだった。
数日後、野島は句会の様子を覗き見していた。それは、初めて見る光景だった。山本を中心に、仲良く笑い合う面々。当然、見つかったら、ただでは済まない・・。
山本は、なぜ危険を冒してまで、句会を開くのか?野島は、隠し持っていた山本の本を、読んでみることにした。
その本には『故郷への想い』が、切々と綴られていた。終わりの見えない、過酷な収容所生活の中で、野島は空を見上げることなどなかった。しかし、山本の本を読んではじめて空を見上げる気持ちになった。
山本の本を渡してくれた折田は、希望を持つことが大切だと野島に言った。それでも希望を持てない野島に折田は「まあ、そのうちわかりますよ、あの人に毎日ダモイダモイって耳元で言われてたら…」と言った。
折田の言葉通り、その後も・・山本は「昨日、現場に政府の高官が来てたんです。これは間違いなくダモイが近いってことですよ」と言い続けた。だが、地獄を見て来た野島は、山本の言う夢のような話を簡単に信じる気にはならなかった。
そんなある日、彼らの運命を変える出来事が起こる。 1953年3月、ソ連の首相(独裁者)スターリンが死去。国家体制がにわかに大きく変化し始めたのだ!
それから3か月後。ついに戦犯として収容されていた長期抑留者が日本に送還されることが決定した。ところが、なぜか帰国が許された者は全体のおよそ半数。山本をはじめ、句会のメンバーの大半は、ソ連の収容所に残された。
それでも山本は希望を捨てず、残ったメンバーを励まし続けた。だが・・・この時、山本の身体には、すでに異変が起きていた。
当初、中耳炎かと思われた病状はどんどん悪化。そして検査の結果、末期の咽頭癌だと判明。すでに手遅れだった。山本は、気丈に振るまっていたが・・・一人になると家族の写真を見ながら涙を流していた。
このままでは、大切な家族に何も伝えられないまま山本は死んでしまう。句会のメンバーは山本に遺書を書いてもらおうと決意した。
そして、「万一の時のため、ご家族に伝えたいことがあれば、書いて下さい。」と一冊のノートを渡した。山本は長い間何も答えようとはしなかった。だが・・翌朝、彼が仲間たちに返したノートには、知力を振り絞り、家族に向けた切々たる思いが、15ページにも渡って記されていた。
遺書を書いてから、わずか2週間後、山本は45歳という若さでこの世を去った。句会のメンバーたちは、『山本の思いを必ず日本に届けよう』、そう決意した!
だが、その死から、わずか1ケ月後。突然行われた所内の抜き打ち検査により遺書は発見され、消却処分されてしまった!!
処分されてしまった遺書が一体なぜ、日本のモジミさんの元に届けられたのか?時は、山本が遺書を書く前まで遡る。
収容所内では、頻繁に抜き打ち検査が行われ、許可されたもの以外のメモや手紙などは全て没収され、処分される。安全な隠し場所など、この収容所内のどこにもなかった。 その時、野島がみんなで分担して全て記憶しようと提案したのだ!そして、自分もそれに参加したいと申し出たのだ。
それぞれが山本さんの4つに分かれた15ページにも渡る遺書を書き写した。自分が担当した部分を一言一句、全て暗記するために。
だが、それは危険な賭けだった。もし、遺書の写しが発見されたが最後、その持ち主はスパイ行為を働いたとして、一生帰国できなくなる恐れがあったのだ!しかし、彼らはさらに、それぞれが信頼できる人間に秘密を明かし、作戦への協力を頼んだ。全ては、絶対に遺書を、日本に届けなければならないという信念だった。
帰国できるとしても、それが何年先になるか、何十年先になるかは誰も分からない。ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても、その日は訪れなかった。もし見つかれば、一生帰国できないかもしれない。
そして半年が過ぎ、1年が過ぎた。それは、まさに、命がけの闘いだった。すでに、シベリアに連行されて10年あまり。その頃、日本では急速に戦後復興が進み、『もはや戦後ではない』が流行語となっていた。だが、1500キロ離れただけの北の大地で、未だ戦い続けている男たちがいた。
そして、山本幡男さんの死から2年、ついにその時はやってきた! 1956年10月、日ソ共同宣言が調印され、戦犯として収容されていた日本人抑留者全員の釈放と帰国が急きょ決定!
その年のクリスマスイブ。最後のシベリア抑留者を乗せた帰還船が、日本に向けて出港したのだ。終戦から、実に11年が経っていた。