加瀬俊一 『「男の生き方」四〇選 上』(城山三郎編 文藝春秋)に、敗戦後、吉田茂は五次にわたって内閣を組閣した新生日本の首相となった人物として紹介がある。終戦記念日を前に、すこし触れてみたい。
1906年(明治39年)7月、東京帝大政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格する。合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。広田は、戦後、極東裁判においてただ一人の文官出身首相として処刑された。
吉田茂は大久保利通の姻戚ということもあるのだろうか、強靱な保守の思想があり、開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討していた。書生として吉田邸に潜入した東輝次によって、1945年(昭和20年)2月には、敗戦必至の形勢を説いた吉田の内奏文が憲兵に押収され、投獄。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。憲法改正、農地改革を実施。昭和26年9月サンフランシスコ講和会議に首席全権委員として出席し、講和条約・日米安保条約を締結。
昭和22年(1947年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。その際に社会党の西尾末広は吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。GHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂だけである。内閣総理大臣在任期間は2616日。
吉田茂は、戦後に伊勢神宮を参拝した最初の首相であり、純真に皇室を崇敬し、引退後には神宮皇學館を再興して現にその総長になっている。終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。
保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊嫌いであった。
不世出の外交官といわれたタレイランの金言パ・トロ・ド・ゼール(ムキになるな)を好んで引用する。つまり、宰相たるものは些事に超然として、常に余裕綽々でなくてはならぬ、と戒めるのである。第一級の政治家は、愛国の信念と不屈の勇気を持っている。一国の宰相に限らず、リーダーは大事件や難問に対しては、余裕を持って対しなければ判断を誤る。切羽詰った場面であればあるほど、ユーモアや、人を食ったようなふてぶてしさが必要だと考えていた。ましてや、危急存亡のときに、現場で必死に戦っている人たちを、ねぎらいこそすれ、怒鳴り散らしたり、滅茶苦茶な指示を出して混乱させるなら、最低の指揮官といわざるをえない。
真骨頂は、憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、“Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。しかも、終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。
実は、吉田茂の貴族的趣味を裏返すと、意外にも庶民的気質がひそんでいる。落語が好きである。
テレビは捕物帖を見る。ターザン映画なら決して飽きない。庶民的な一面もある人だった。