終戦記念日が近い。千葉も大空襲で壊滅的な被害を受け、そこから戦後復興を果たしていったという歴史があるが、この際に戦後の千葉県政史を振り返ってみた。
終戦から6年後、1951年に柴田等千葉県知事に、元は厚生官僚だった友納武人招かれて副知事に就任した。このことから、千葉県の様々な政治の裏表のドラマが起きていた。その次に知事となった加納久朗県政においても副知事として留任したが、1963年に加納久朗知事(1955年日本住宅公団初代総裁に就任。 1958年、東京湾の埋め立て開発を提唱し、自民党や財界の推挙により、農漁民の生活を守ろうとする柴田等前知事を破り、千葉県知事となるが在任110日で急逝。)の急死に伴い後任を決める知事選に出馬し当選、以降1975年まで3選を果たした。
友納知事には、東京湾を大規模に埋め立てて京葉工業地帯の礎を築き、当時は農業県だった千葉県民の大きな雇用や東京ディズニーランドを含む今日に至る千葉県の発展を築くなど、「開発大明神」の異名をとり「千葉県中興の祖」という評価が根強い。その一方で、東京湾埋め立てをめぐる三井不動産社長・江戸英雄との繋がりを始めとした土建業との癒着や川鉄公害訴訟などの環境破壊が起き住民からの反発も招くなど、房総半島の破壊をもたらした人物という批判も強い。
他方、千葉ニュータウンの建設は1966年に千葉県が構想を発表し、1969年に都市計画を決定した。1970年に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。成田空港の三里塚変更にも関与。1971年、成田闘争のヤマ場となった土地収用に伴う行政代執行を指揮した(我孫子の井手口県議は1967年頃より、県会に関わり、我孫子はディズニーランド用地の候補にもなって、画策、濡れ手に粟との状況があったとされるため、友納ー川上の知事争奪戦の一件は政治的な影響に尾をひくことに)。
1964年に当時の友納によって副知事に任命された川上紀一が、1974年に川上は自由民主党と結託して友納知事を排斥、自らの知事選出馬を画策する。その際に支援を要請したある都内の不動産業者から5,000万円の献金を受けた際に“当選の暁には弊社の千葉県における事業発展に協力を惜しまない”旨が記されたとされている「念書」を交わした。翌1975年に千葉県知事選挙に無所属で出馬した川上は自由民主党の推薦を受けて初当選を果たした。1978年の新東京国際空港の開港を実現させ、またオリエンタルランドが東京ディズニーランドの建設を巡って親会社の三井不動産と対立した際にはオリエンタルランドの社長である高橋政知を支援して三井側に対して譲歩を迫って、東京ディズニーランドの浦安町(当時)への誘致を実現させた。
こうした成果を追い風として1979年の知事選挙でも再選された。ところが、1981年1月に1974年の5,000万円の献金とともに交わされた「念書」の存在が明らかとなり、スキャンダル化したため、2月16日には知事辞任に追い込まれた(川上五千万円念書事件)。その後に、1983年の第37回衆議院議員総選挙に故郷のある千葉3区からの出馬を表明する。ところが、この選挙区は元々定員5人のうち4人までが自民党議員で残り1つもラスベガス賭博事件で一時逼塞を余儀なくされた前議員浜田幸一が再起をかけて異例の5人目の公認を得たために川上が長年支援を受けてきた自民党の公認を貰う余地はなく、無所属での出馬を余儀なくされた。その結果、最下位当選の中村正三郎に5,000票差にまで迫ったものの7位で落選し、その政治生命は絶たれる
この時、沼田武は副知事を務めていた1981年に、いわゆる「5000万円念書事件」で辞任に追い込まれた川上紀一の後任を選ぶ千葉県知事選挙に自由民主党系無所属として出馬し、以後5期20年務める。任期中には成田国際空港問題への対応、幕張新都心計画の推進などを手掛けた。初当選は総得票の半数近くを集め圧勝したが、県知事選挙の投票率(25.4%)は平成23年に行われた埼玉県知事選挙(投票率24.9%)によって破られるまで全国ワーストワンの記録だった。当時CMで流行していたヱスビー食品の「8分の5チップ」にかけて、当選当初は「8分の1知事」と揶揄された。沼田の治政は、土建屋の友納が戻ってきたと言われた状況だったと言われる。
この長い時代にあとに、女性が声を上げた市民運動から女性知事・堂本暁子が誕生したのは、首都圏でも画期的な事であった。