『白樺』派の人々が住んで我孫子を拠点にしていたことから「白樺文学館」が民間主導で設立され、現在は市に移管されたが、このところ日本民芸館と我孫子のつながりが深くなっている。
その日本民芸館には、戦後間もなくの1947年に民芸館への皇族の訪問が二度あったという。10月3日には昭和天皇と皇后が、12月10日には皇太后だったという。
柳宗悦は創設者であることから、皇族の訪問に先立ち、宮内庁から宮中で説明するように求められた。ところが、民芸館の説明ならこちらに来られた時にやればよいと断り、特別扱いはしない(『工芸』119号)。
近所の人達が並んで出迎えようとするのも嫌がった。
幼少中と学習院(大学は東京帝大)で過ごし、主席で通した人だったが、宗悦の権力に媚びない態度は、変わらなかった。それは、声楽家である妻の兼子も同様だった。たとえ皇族であろうと、対等な個人である来館者に節度ある接し方をして遇するのが当然だとする考えの持ち主で、それが戦前と変わらないというのは筋金入りだ。
参考:楷書の絶唱『柳兼子伝』松橋桂子著 256ページ。
皇族の年間経費は6億円だそうで、宮内庁(修学院離宮、桂離宮など含む)の維持費などを合わせると年間170億円以上となるという。『日本国憲法』の第1条では、象徴という天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く、とされ、「主権者の総意」を条件としているので、戦前とは大きな違いであり、時代の意識、世界観は変わるということです。そうしたことを世界でもっとも意識していたからこそ、皇室は残ってきたのかもしれない。
戦後生まれが8割となったとされるが、戦前の天皇への崇拝の程度を改めて知る場もないままだたのを夏休みに行った開智学校(長野県。全国で最も古い校舎が保存されて記念館になっている)で改めて考えるところとなった。
2013年08月31日
2013年08月30日
公のための怒り
西ドイツの名首相であったアデナウアーが、アメリカのアイゼンハウアー大統領に会った時、こんなことを言ったという。
第一は、「人生というものは70歳にしてはじめてわかるものである。だから70歳にならないうちは、ほんとうは人生について語る資格がない」ということ、
第二には、「いくら年をとって老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということである。
第三には、驚いたことに「怒りを持たなくてはいけない」というのである。
日本人は、普通できるだけ腹をたてずに、円満に人と接し、いわば談笑のうちに事を運ぶ、それがいちばん望ましいとだれもが考えるのではないか。ところが、アデナウアーは“怒りを持て”、単なる個人的な感情ではない、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。
まして昨今のように、日本といわず世界といわず、難局に直面し、むずかしい問題が山積している折には、指導者はすべからく私情にかられず、公のための怒りを持って事にあたることが肝要であろう。
英米のシリア情勢が混沌としていた時期、ふとこのような言葉を抱いた英国の政治家がいたのだろうと思った。
参考文献:
松下幸之助『指導者の条件』(PHP研究所)より
第一は、「人生というものは70歳にしてはじめてわかるものである。だから70歳にならないうちは、ほんとうは人生について語る資格がない」ということ、
第二には、「いくら年をとって老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということである。
第三には、驚いたことに「怒りを持たなくてはいけない」というのである。
日本人は、普通できるだけ腹をたてずに、円満に人と接し、いわば談笑のうちに事を運ぶ、それがいちばん望ましいとだれもが考えるのではないか。ところが、アデナウアーは“怒りを持て”、単なる個人的な感情ではない、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。
まして昨今のように、日本といわず世界といわず、難局に直面し、むずかしい問題が山積している折には、指導者はすべからく私情にかられず、公のための怒りを持って事にあたることが肝要であろう。
英米のシリア情勢が混沌としていた時期、ふとこのような言葉を抱いた英国の政治家がいたのだろうと思った。
参考文献:
松下幸之助『指導者の条件』(PHP研究所)より
2013年08月29日
歴史認識、国連総長が「日本だけのことでない」と釈明
外務省によると、国連の潘基文事務総長は28日、オランダのハーグで開かれた会合で松山政司外務副大臣と立ち話をし、「正しい歴史認識が必要だ」などとした自身の記者会見での発言について、「中立的なもので、日本のみについて指摘したものではない」と釈明した。松山氏が発言の真意を確かめたのに対して答えたという。
潘氏は「日中韓3カ国の指導者は過去に起きたことをしっかり理解し、それを克服していくべきだとの趣旨だ」と強調。会見で「日本の政治指導者」と名指ししたことに関しても、「日本の憲法改正について問われたためだ」と説明した。
その上で「歴史認識に関する安倍政権の立場や、平和国家としての日本政府の努力はよく承知している」と表明。「日本で発言の趣旨が誤解され報道されていることは残念だ」と語った。
潘氏は26日にソウルで行った会見で、日本と中韓両国との摩擦について「(北東アジアの)指導者の正しい歴史認識が必要だ」などと発言。これに対し、菅義偉官房長官は「わが国の立場を認識した上で(発言が)行われているのか非常に疑問」と不快感を示し、発言の真意を確認したいと語っていた。
[時事通信社]
潘氏は「日中韓3カ国の指導者は過去に起きたことをしっかり理解し、それを克服していくべきだとの趣旨だ」と強調。会見で「日本の政治指導者」と名指ししたことに関しても、「日本の憲法改正について問われたためだ」と説明した。
その上で「歴史認識に関する安倍政権の立場や、平和国家としての日本政府の努力はよく承知している」と表明。「日本で発言の趣旨が誤解され報道されていることは残念だ」と語った。
潘氏は26日にソウルで行った会見で、日本と中韓両国との摩擦について「(北東アジアの)指導者の正しい歴史認識が必要だ」などと発言。これに対し、菅義偉官房長官は「わが国の立場を認識した上で(発言が)行われているのか非常に疑問」と不快感を示し、発言の真意を確認したいと語っていた。
[時事通信社]
2013年08月28日
森林太郎の恋を紐解いた研究
森鴎外の小説『舞姫』のヒロイン「エリス」のモデルとなった女性は、実際に森林太郎(鷗外)の留学時代の恋人であったエリーゼという女性で、その存在が近年になって明らかになって、TV番組で現地を訪れたり、国家や家族制度が前にあって、個人の意思を貫けず苦悩する林太郎の様子が舞台でも演じられたのを見たことがありました。
明治期、日本からのドイツへ国費留学生として渡った森林太郎の帰国の後を追って船で横浜に来ていたというエリーゼの存在は、多くの鷗外ファンと研究家に衝撃を与えました。作家は、事実の断片をかいま作品に表すことがあります。時代と母親や親族の望みによって翻弄される自らの気持ちを封じ込め、本心をあからさまには語らず、軍医として奉職、後に作家・森鴎外へと転身していった林太郎、そうとは知らないエリーゼは荒波を超えて一人で40日もの船旅をして極東の国・日本へ覚悟をもってきたというのに、毅然と帰国する。卑怯な青年の心を悔みに悔やんだであろう・・・。そう思って、鴎外作品を読んでみるとこれまで見えていなかったことが見えてくるのではないでしょうか。
ところで、我孫子の研究者によって、書かれた本がヒントになり、六草いちか氏がさらなる調査を続け、エリーゼ像の背景を明らかにするために教会に残っていた記録(日本でいう過去帳)を探し当て、出自を割出し、ついにエリーゼの晩年の写真も入手しました。
http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/140/tayori141.htm
http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/140/tayori146.htm
六草氏は、『それからのエリス−いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』の出版を記念して講演会を開きます。
エリーゼは、林太郎と別れてから後、どのような人生を送ったのか、ふたりは二度と会うことがなかったのか、ふたりの愛ははたして本物だったのか。そしてまた、森鷗外にまつわる知られざるエピソードなど・・・今回の講演では、新たに突き止められた驚きの事実の数々をご紹介されます。明治の文豪の思想、時代背景を新たにとらえ直す画期的な一稿となりそうです。
講演会にご興味がある方は、下記へお問い合わせください。
【開催日】2013年9月15日(日)
【会 場】ホテル椿山荘東京 庭園内 料亭「錦水」
【時 間】17:30 受付・会計 ホテル椿山荘東京 料亭「錦水」
18:00 記念講演
19:30 お食事
21:00頃 終了予定
【定 員】60名
【講 師】六草 いちか
【料 金】10,000円(消費税・サービス料込)
【要予約】03-3943-1140(9:00〜21:00)
明治期、日本からのドイツへ国費留学生として渡った森林太郎の帰国の後を追って船で横浜に来ていたというエリーゼの存在は、多くの鷗外ファンと研究家に衝撃を与えました。作家は、事実の断片をかいま作品に表すことがあります。時代と母親や親族の望みによって翻弄される自らの気持ちを封じ込め、本心をあからさまには語らず、軍医として奉職、後に作家・森鴎外へと転身していった林太郎、そうとは知らないエリーゼは荒波を超えて一人で40日もの船旅をして極東の国・日本へ覚悟をもってきたというのに、毅然と帰国する。卑怯な青年の心を悔みに悔やんだであろう・・・。そう思って、鴎外作品を読んでみるとこれまで見えていなかったことが見えてくるのではないでしょうか。
ところで、我孫子の研究者によって、書かれた本がヒントになり、六草いちか氏がさらなる調査を続け、エリーゼ像の背景を明らかにするために教会に残っていた記録(日本でいう過去帳)を探し当て、出自を割出し、ついにエリーゼの晩年の写真も入手しました。
http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/140/tayori141.htm
http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/140/tayori146.htm
六草氏は、『それからのエリス−いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』の出版を記念して講演会を開きます。
エリーゼは、林太郎と別れてから後、どのような人生を送ったのか、ふたりは二度と会うことがなかったのか、ふたりの愛ははたして本物だったのか。そしてまた、森鷗外にまつわる知られざるエピソードなど・・・今回の講演では、新たに突き止められた驚きの事実の数々をご紹介されます。明治の文豪の思想、時代背景を新たにとらえ直す画期的な一稿となりそうです。
講演会にご興味がある方は、下記へお問い合わせください。
【開催日】2013年9月15日(日)
【会 場】ホテル椿山荘東京 庭園内 料亭「錦水」
【時 間】17:30 受付・会計 ホテル椿山荘東京 料亭「錦水」
18:00 記念講演
19:30 お食事
21:00頃 終了予定
【定 員】60名
【講 師】六草 いちか
【料 金】10,000円(消費税・サービス料込)
【要予約】03-3943-1140(9:00〜21:00)
2013年08月27日
フォーラム「原発政策のいま」
こういうのがあります!と、下記のメール情報がありましたのでご案内まで。
> *ニュースに取り上げられた福島原発の汚染水の垂れ流しは世界的にも大きな反響となっています。
> 廃炉をどのようにするか、核廃棄物はどこに貯蔵するのか、問題山積です。原発再稼動にこだわる政府、産業界ですが、発送電分離、自然エネルギーの買い取り制度促進など進めるべき政策も山ほどあります。
> アメリカンクラブの会員誌にMaverick(一匹オオカミ、異端者)と評された衆議院議員河野太郎氏にその政策を伺います。
>
> --------------------------------------------------------
> ★★★★★★☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡★★★★★★
>
> ★NPOフォーラム(例会No.455)
>
> ★『グローバル経済社会研究所』 第9回フォーラム
>
> フォーラム「原発政策のいま」
>
> 福島原発から汚染水が垂れ流されている現実がある
> 安全基準が満たされれば原発を再稼動する政府の方針
> は果たして将来に禍根を残さないか
>
> ◎ゲスト:河野 太郎氏(衆議院議員)
>
> ◎日時:9月26日(木)6:45pm〜9:00pm
> 親睦会9:00pm〜
> ◎会場:表参道 東京ウィメンズ・プラザ
>
> ◎主催:NPOアクティブミドル国際協会
> http://amia.jp/
>
> 原発の代替エネルギーは現在、輸入した天然ガスによる火力発電が主力だが国際収支は赤字になっている。
> 一方、原発の核廃棄物問題をどうするか、10万年とも言われる放射能減衰期間をどう格納するのか、簡単にゼロにならない原発問題。与党議員として原発反対の立場をとるゲストにその政策を伺う。
> --------------------------------------
> ◎ゲスト略歴:河野 太郎(こうの たろう)氏
> 1963年生まれ 米国ジョージタウン大学卒業
> 富士ゼロックス株式会社入社 日本端子株式会社入社
> 1996年第41回衆議院議員総選挙で神奈川県15区初当選
> 以来連続当選(5期目)
> 2005年8月議員立法で臓器移植法改正案を提出(2009年7月成立)
> 2005年11月法務副大臣に就任
> 2008年9月衆議院外務委員長就任
> 2009年9月自民党総裁選挙で次点
> 現在、自由民主党エネルギー政策議員連盟 代表世話人
> 著書に、
> 『原発と日本はこうなる 南に向かうべきか、そこに住み続けるべきか』
> (講談社、2011)、
> 『「原子力ムラ」を超えて―ポスト福島のエネルギー政策』
> (共著、NHK出版、2011)などがある。
>
> --------申し込み方法------------
> ●日時:9月26日(木)午後6時45分〜午後9時
> *フォーラム後午後9時〜別会場にて親睦会あり
> ●会場:表参道 東京ウィメンズ・プラザ
> 東京都渋谷区神宮前5−53−67
> ●会費:amiaクラブ「アクティブミドル国際協会」会員3,000円
> 一般5,000円(amiaに初めての参加者は4000円)
> (事前申し込み・ご入金が必要です)
> ・当日参加はお断りすることがあります。
> ●申込:以下をクリック、申し込み欄に記入、お送りください。
> http://form1.fc2.com/form/?id=217920
> アクティブミドル国際協会 事務局
>
> --------------------------------------------------------
> *スペインフォーラムは参加申し込みが160名になり、 申し込みは締め切りました。
> すでに申し込んだ方も28日までに参加費入金がない場合は申し込み取り消しになります。ご留意ください。
>
> --------------------------------------------------------
> ★★★★★★☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡★★★★★★
> NPOフォーラム(例会No.450)
>
> ★日本スペイン400周年記念フォーラム
> http://amia.jp/forum/spain.html
>
> 慶長年間(1613年)伊達政宗の仙台藩から遣欧使節として支倉常長がスペインに旅立った。それから400年の今年、日本スペイン400周年を祝って両国で様々なセレモニーが行われます。
>
> ◎主賓:駐日スペイン国 ミゲル・ポルテラ大使
> スペイン大使館 サンチアゴ・アミーゴ文化担当参事官
> (通訳つき)
> ◎日時:9月4日(水)18:30〜21:00
>
> ◎会場:駐日スペイン国大使館 港区
>
> ◎主催:NPOアクティブミドル国際協会 http://amia.jp/
>
> ◎後援:駐日スペイン国大使館
> *スペインに関するクイズで正解者に賞品をプレゼント
> ◎協力:航空会社より参加者全員にギフトをプレゼント
> *ニュースに取り上げられた福島原発の汚染水の垂れ流しは世界的にも大きな反響となっています。
> 廃炉をどのようにするか、核廃棄物はどこに貯蔵するのか、問題山積です。原発再稼動にこだわる政府、産業界ですが、発送電分離、自然エネルギーの買い取り制度促進など進めるべき政策も山ほどあります。
> アメリカンクラブの会員誌にMaverick(一匹オオカミ、異端者)と評された衆議院議員河野太郎氏にその政策を伺います。
>
> --------------------------------------------------------
> ★★★★★★☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡★★★★★★
>
> ★NPOフォーラム(例会No.455)
>
> ★『グローバル経済社会研究所』 第9回フォーラム
>
> フォーラム「原発政策のいま」
>
> 福島原発から汚染水が垂れ流されている現実がある
> 安全基準が満たされれば原発を再稼動する政府の方針
> は果たして将来に禍根を残さないか
>
> ◎ゲスト:河野 太郎氏(衆議院議員)
>
> ◎日時:9月26日(木)6:45pm〜9:00pm
> 親睦会9:00pm〜
> ◎会場:表参道 東京ウィメンズ・プラザ
>
> ◎主催:NPOアクティブミドル国際協会
> http://amia.jp/
>
> 原発の代替エネルギーは現在、輸入した天然ガスによる火力発電が主力だが国際収支は赤字になっている。
> 一方、原発の核廃棄物問題をどうするか、10万年とも言われる放射能減衰期間をどう格納するのか、簡単にゼロにならない原発問題。与党議員として原発反対の立場をとるゲストにその政策を伺う。
> --------------------------------------
> ◎ゲスト略歴:河野 太郎(こうの たろう)氏
> 1963年生まれ 米国ジョージタウン大学卒業
> 富士ゼロックス株式会社入社 日本端子株式会社入社
> 1996年第41回衆議院議員総選挙で神奈川県15区初当選
> 以来連続当選(5期目)
> 2005年8月議員立法で臓器移植法改正案を提出(2009年7月成立)
> 2005年11月法務副大臣に就任
> 2008年9月衆議院外務委員長就任
> 2009年9月自民党総裁選挙で次点
> 現在、自由民主党エネルギー政策議員連盟 代表世話人
> 著書に、
> 『原発と日本はこうなる 南に向かうべきか、そこに住み続けるべきか』
> (講談社、2011)、
> 『「原子力ムラ」を超えて―ポスト福島のエネルギー政策』
> (共著、NHK出版、2011)などがある。
>
> --------申し込み方法------------
> ●日時:9月26日(木)午後6時45分〜午後9時
> *フォーラム後午後9時〜別会場にて親睦会あり
> ●会場:表参道 東京ウィメンズ・プラザ
> 東京都渋谷区神宮前5−53−67
> ●会費:amiaクラブ「アクティブミドル国際協会」会員3,000円
> 一般5,000円(amiaに初めての参加者は4000円)
> (事前申し込み・ご入金が必要です)
> ・当日参加はお断りすることがあります。
> ●申込:以下をクリック、申し込み欄に記入、お送りください。
> http://form1.fc2.com/form/?id=217920
> アクティブミドル国際協会 事務局
>
> --------------------------------------------------------
> *スペインフォーラムは参加申し込みが160名になり、 申し込みは締め切りました。
> すでに申し込んだ方も28日までに参加費入金がない場合は申し込み取り消しになります。ご留意ください。
>
> --------------------------------------------------------
> ★★★★★★☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡★★★★★★
> NPOフォーラム(例会No.450)
>
> ★日本スペイン400周年記念フォーラム
> http://amia.jp/forum/spain.html
>
> 慶長年間(1613年)伊達政宗の仙台藩から遣欧使節として支倉常長がスペインに旅立った。それから400年の今年、日本スペイン400周年を祝って両国で様々なセレモニーが行われます。
>
> ◎主賓:駐日スペイン国 ミゲル・ポルテラ大使
> スペイン大使館 サンチアゴ・アミーゴ文化担当参事官
> (通訳つき)
> ◎日時:9月4日(水)18:30〜21:00
>
> ◎会場:駐日スペイン国大使館 港区
>
> ◎主催:NPOアクティブミドル国際協会 http://amia.jp/
>
> ◎後援:駐日スペイン国大使館
> *スペインに関するクイズで正解者に賞品をプレゼント
> ◎協力:航空会社より参加者全員にギフトをプレゼント
2013年08月26日
小泉純一郎の「原発ゼロ=今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しい」
今月中旬、脱原発のドイツと原発推進のフィンランドを視察した小泉純一郎元首相(71)の感想は、
行って見て納得、脱原発を確信したという−−。毎日新聞のインタビューから・・・・
三菱重工業、東芝、日立製作所の原発担当幹部とゼネコン幹部、計5人が同行した。道中、ある社の幹部が小泉にささやいた。「あなたは影響力がある。考えを変えて我々の味方になってくれませんか」
小泉が答えた。
「オレの今までの人生経験から言うとね、重要な問題ってのは、10人いて3人が賛成すれば、2人は反対で、後の5人は『どっちでもいい』というようなケースが多いんだよ」
「いま、オレが現役に戻って、態度未定の国会議員を説得するとしてね、『原発は必要』という線でまとめる自信はない。今回いろいろ見て、『原発ゼロ』という方向なら説得できると思ったな。ますますその自信が深まったよ」
3・11以来、折に触れて脱原発を発信してきた自民党の元首相と、原発護持を求める産業界主流の、さりげなく見えて真剣な探り合いの一幕だった。
呉越同舟の旅の伏線は4月、経団連企業トップと小泉が参加したシンポジウムにあった。経営者が口々に原発維持を求めた後、小泉が「ダメだ」と一喝、一座がシュンとなった。
その直後、小泉はフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」見学を思い立つ。自然エネルギーの地産地消が進むドイツも見る旅程。原発関連企業に声をかけると反応がよく、原発に対する賛否を超えた視察団が編成された。
原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場だ。2020年から一部で利用が始まる。
原発の使用済み核燃料を10万年、「オンカロ」の地中深く保管して毒性を抜くという。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ想像を超えるのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。
帰国した小泉に感想を聞く機会があった。
−−どう見ました?
「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
−−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」
「戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が」
「昭和の戦争だって、満州(中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」
「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック、東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」
もとより脱原発の私は小気味よく聞いた。原発護持派は、小泉節といえども受け入れまい。5割の態度未定者にこそ知っていただきたいと思う。(敬称略)<題字・絵、五十嵐晃>(毎週月曜日に掲載)
行って見て納得、脱原発を確信したという−−。毎日新聞のインタビューから・・・・
三菱重工業、東芝、日立製作所の原発担当幹部とゼネコン幹部、計5人が同行した。道中、ある社の幹部が小泉にささやいた。「あなたは影響力がある。考えを変えて我々の味方になってくれませんか」
小泉が答えた。
「オレの今までの人生経験から言うとね、重要な問題ってのは、10人いて3人が賛成すれば、2人は反対で、後の5人は『どっちでもいい』というようなケースが多いんだよ」
「いま、オレが現役に戻って、態度未定の国会議員を説得するとしてね、『原発は必要』という線でまとめる自信はない。今回いろいろ見て、『原発ゼロ』という方向なら説得できると思ったな。ますますその自信が深まったよ」
3・11以来、折に触れて脱原発を発信してきた自民党の元首相と、原発護持を求める産業界主流の、さりげなく見えて真剣な探り合いの一幕だった。
呉越同舟の旅の伏線は4月、経団連企業トップと小泉が参加したシンポジウムにあった。経営者が口々に原発維持を求めた後、小泉が「ダメだ」と一喝、一座がシュンとなった。
その直後、小泉はフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」見学を思い立つ。自然エネルギーの地産地消が進むドイツも見る旅程。原発関連企業に声をかけると反応がよく、原発に対する賛否を超えた視察団が編成された。
原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場だ。2020年から一部で利用が始まる。
原発の使用済み核燃料を10万年、「オンカロ」の地中深く保管して毒性を抜くという。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ想像を超えるのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。
帰国した小泉に感想を聞く機会があった。
−−どう見ました?
「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
−−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」
「戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が」
「昭和の戦争だって、満州(中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」
「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック、東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」
もとより脱原発の私は小気味よく聞いた。原発護持派は、小泉節といえども受け入れまい。5割の態度未定者にこそ知っていただきたいと思う。(敬称略)<題字・絵、五十嵐晃>(毎週月曜日に掲載)
2013年08月25日
健康にも良いコーヒーを楽しむには
週末、美味しいコーヒーを飲みたいと思うこともあります。美味しく飲む為には、有機の生豆でコーヒー豆を煎り、ひきたてのコーヒー豆を手に入れるとゆったりとした気分になるものです。
しかし、日本のコーヒー市場は、焼き豆を販売しているのがほとんどです。コーヒー豆は焙煎してから、酸素を急激に吸うためにかなりのスピードで酸化してしまいます。自家焙煎店で焙煎仕立ての焼き豆を購入して、3日目ぐらいが一番香も良く、酸素を程よく吸収し、二酸化炭素を吐き出しているので美味しいといわれます。それも購入後密閉の容器にしまっての話ですが、コーヒーは後密閉しても二酸化炭素を出し続け、酸化は止まらないのです・・・・
コーヒーも農作物、生鮮食品ですが、スーパーなどで豆を購入した場合は、何時焙煎したかは公表していませんから、焙煎日時は不明です。何時焙煎したかは公表する義務は無いからです。想像するに、大手メーカーの焙煎豆焙煎してから、店頭に並ぶまで1週間以内でしょうか?
粉状に挽いてあるコーヒーは1ヶ月以上は経過しているのではないでしょうか。
買いたてのコーヒー豆と、買い置きした豆を挽いて飲み比べると、味の違いは直ぐに判ります。
コーヒー豆の酸化も油脂分です。つまり、てんぷら油などの酸化と同じ作用です。低温では酸化が進みにくいので、豆の保存は冷蔵庫で、例えばビニール袋に入れて空気を絞り出すとか出来るだけ密閉するのが良いとされます。
美味しいコーヒーを飲む為には、新鮮でひきたてのコーヒー豆を手に入れる事が大切。
日本のコーヒー市場は、焼き豆を販売しているのがほとんどです。
コーヒー豆は焙煎してから、酸素を急激に吸うためにかなりのスピードで酸化してしまいます。
自家焙煎店で焙煎仕立ての焼き豆を購入して、購入後は密閉の容器にしまって、それで3日目ぐらいが一番香も良い時期です。
・・・・・・・・・・・・
豆を買い置きして日にちが経つと酸化が進み、酸味が出てきますので、少量ずつをマメに購入するようにしています。自家焙煎ショップ以外での焼き豆を購入した場合は、何時焙煎したかは公表していませんから、何時の焙煎かは不明なのです。コーヒーも農作物、生鮮食品ですが、焙煎後の賞味期限を公表する法律は、何時焙煎したかは公表する義務は無いので、せめても二週間以内に使い切れる分量のコーヒー豆を買うようにしていきます。
新鮮なコーヒー豆ほど様々な病気に有効な成分の効果が高いのです。
世間で多く販売されている、よく目にする茶色の豆は焙煎された豆です。
では、焙煎されていない豆は何色かというと、薄緑色をしているのです! その薄緑色の豆のことを生豆(ナママメ)と呼んでいます。生豆は高温多湿・直射日光を避けて保存してください。アルカリ性のまま長期間保存できます。風味が損なわれない期間は2?3年です。
発明工房で取扱っている有機栽培珈琲生豆は、手間ひまかけた極上の逸品です。
http://www.invention.co.jp/coffee/beans/index.html
できたてほやほやのコーヒー豆には、余分な脂肪分を取り除くことのできるペーパードリップによる立て方がおすすめです!
コーヒーの粉は1杯に付き10g。(メジャースプーン1杯)
2杯目以降は8gずつ増やしていきます。
コーヒー豆の粉は、ペーパーを揺すって平らになるように、ならしておきます。
中心からの字を書くように注ぐ。粉全体を蒸らし、珈琲からのエキスの抽出が出来易い状態を作ります。
注ぐお湯が多すぎると、珈琲の粉全体が最大限にむらされなく、珈琲からエキスの抽出が始まってしまう為、お湯の味がした水っぽい珈琲になる、また少なすぎると粉全体にお湯がかからず、蒸らしている所と、蒸らしていない所が出来て、味にバラツキが出来てしまいますので注意してください。 粉が膨らみ始めたら、お湯を注ぐのを止めます。
おいしいコーヒーの入れ方 全体が膨らみます。膨らんだ後、一瞬しぼみます。
この一瞬を見逃さないで! 粉が膨らんでいる間が蒸らし時間です。
蒸らし時間が短いとエキスが十分出ず、お湯の味がした水っぽい珈琲になり、また長過ぎるとエキスが変化して出過ぎる為に、渋くなったり、苦くなったりします。
(目安として、注ぎ終わってから20秒で、珈琲の粉が平行になった時点までか、珈琲のエキスの落下が止まる前が目安となります)
http://www.mamekan.jp/003/index.html
*コーヒー抽出かすは活性炭※以上にアンモニアの脱臭効果が優れていることがわかりました。
コーヒー1杯<約140cc>には約280mgのポリフェノールが含まれ、これは赤ワインと同程度、お茶の約2倍にあたります。ポリフェノールは植物が作り出す抗酸化物質で、赤ワインのアントシアニン、お茶のカテキン、ココアのカカオポリフェノールなどは皆ポリフェノールの仲間。その他野菜や果物にも多く含まれ、その数は5000種類以上にも及びます。
整腸作用などさまざまな健康機能を持ったオリゴ糖「コーヒー豆マンノオリゴ糖<コーヒーオリゴ糖があることをつきとめました。余分な脂肪を燃焼させるのを助ける働きがあることを示す画期的な結果だったというわけです。当然ですが、新鮮なコーヒー豆ほど様々な病気に有効な成分の効果が高いのです。もっとも、最近の研究では一日に4杯以上飲むと癌になりやすいとの報告もl出ているそうで、偏重は過ぎたるは及びがたしでご注意をです!
しかし、日本のコーヒー市場は、焼き豆を販売しているのがほとんどです。コーヒー豆は焙煎してから、酸素を急激に吸うためにかなりのスピードで酸化してしまいます。自家焙煎店で焙煎仕立ての焼き豆を購入して、3日目ぐらいが一番香も良く、酸素を程よく吸収し、二酸化炭素を吐き出しているので美味しいといわれます。それも購入後密閉の容器にしまっての話ですが、コーヒーは後密閉しても二酸化炭素を出し続け、酸化は止まらないのです・・・・
コーヒーも農作物、生鮮食品ですが、スーパーなどで豆を購入した場合は、何時焙煎したかは公表していませんから、焙煎日時は不明です。何時焙煎したかは公表する義務は無いからです。想像するに、大手メーカーの焙煎豆焙煎してから、店頭に並ぶまで1週間以内でしょうか?
粉状に挽いてあるコーヒーは1ヶ月以上は経過しているのではないでしょうか。
買いたてのコーヒー豆と、買い置きした豆を挽いて飲み比べると、味の違いは直ぐに判ります。
コーヒー豆の酸化も油脂分です。つまり、てんぷら油などの酸化と同じ作用です。低温では酸化が進みにくいので、豆の保存は冷蔵庫で、例えばビニール袋に入れて空気を絞り出すとか出来るだけ密閉するのが良いとされます。
美味しいコーヒーを飲む為には、新鮮でひきたてのコーヒー豆を手に入れる事が大切。
日本のコーヒー市場は、焼き豆を販売しているのがほとんどです。
コーヒー豆は焙煎してから、酸素を急激に吸うためにかなりのスピードで酸化してしまいます。
自家焙煎店で焙煎仕立ての焼き豆を購入して、購入後は密閉の容器にしまって、それで3日目ぐらいが一番香も良い時期です。
・・・・・・・・・・・・
豆を買い置きして日にちが経つと酸化が進み、酸味が出てきますので、少量ずつをマメに購入するようにしています。自家焙煎ショップ以外での焼き豆を購入した場合は、何時焙煎したかは公表していませんから、何時の焙煎かは不明なのです。コーヒーも農作物、生鮮食品ですが、焙煎後の賞味期限を公表する法律は、何時焙煎したかは公表する義務は無いので、せめても二週間以内に使い切れる分量のコーヒー豆を買うようにしていきます。
新鮮なコーヒー豆ほど様々な病気に有効な成分の効果が高いのです。
世間で多く販売されている、よく目にする茶色の豆は焙煎された豆です。
では、焙煎されていない豆は何色かというと、薄緑色をしているのです! その薄緑色の豆のことを生豆(ナママメ)と呼んでいます。生豆は高温多湿・直射日光を避けて保存してください。アルカリ性のまま長期間保存できます。風味が損なわれない期間は2?3年です。
発明工房で取扱っている有機栽培珈琲生豆は、手間ひまかけた極上の逸品です。
http://www.invention.co.jp/coffee/beans/index.html
できたてほやほやのコーヒー豆には、余分な脂肪分を取り除くことのできるペーパードリップによる立て方がおすすめです!
コーヒーの粉は1杯に付き10g。(メジャースプーン1杯)
2杯目以降は8gずつ増やしていきます。
コーヒー豆の粉は、ペーパーを揺すって平らになるように、ならしておきます。
中心からの字を書くように注ぐ。粉全体を蒸らし、珈琲からのエキスの抽出が出来易い状態を作ります。
注ぐお湯が多すぎると、珈琲の粉全体が最大限にむらされなく、珈琲からエキスの抽出が始まってしまう為、お湯の味がした水っぽい珈琲になる、また少なすぎると粉全体にお湯がかからず、蒸らしている所と、蒸らしていない所が出来て、味にバラツキが出来てしまいますので注意してください。 粉が膨らみ始めたら、お湯を注ぐのを止めます。
おいしいコーヒーの入れ方 全体が膨らみます。膨らんだ後、一瞬しぼみます。
この一瞬を見逃さないで! 粉が膨らんでいる間が蒸らし時間です。
蒸らし時間が短いとエキスが十分出ず、お湯の味がした水っぽい珈琲になり、また長過ぎるとエキスが変化して出過ぎる為に、渋くなったり、苦くなったりします。
(目安として、注ぎ終わってから20秒で、珈琲の粉が平行になった時点までか、珈琲のエキスの落下が止まる前が目安となります)
http://www.mamekan.jp/003/index.html
*コーヒー抽出かすは活性炭※以上にアンモニアの脱臭効果が優れていることがわかりました。
コーヒー1杯<約140cc>には約280mgのポリフェノールが含まれ、これは赤ワインと同程度、お茶の約2倍にあたります。ポリフェノールは植物が作り出す抗酸化物質で、赤ワインのアントシアニン、お茶のカテキン、ココアのカカオポリフェノールなどは皆ポリフェノールの仲間。その他野菜や果物にも多く含まれ、その数は5000種類以上にも及びます。
整腸作用などさまざまな健康機能を持ったオリゴ糖「コーヒー豆マンノオリゴ糖<コーヒーオリゴ糖があることをつきとめました。余分な脂肪を燃焼させるのを助ける働きがあることを示す画期的な結果だったというわけです。当然ですが、新鮮なコーヒー豆ほど様々な病気に有効な成分の効果が高いのです。もっとも、最近の研究では一日に4杯以上飲むと癌になりやすいとの報告もl出ているそうで、偏重は過ぎたるは及びがたしでご注意をです!
2013年08月24日
世界は日本をどう見ているか、考えることは必要
いつ、どう伝えるか、特に近現代史は難しいことが多いです。
“今でしょ!”と言うことがよく言われるけれど、お互いに間違いを正しながら誠実に向き合うことを重ねることに尽きるのだろうと思います。若い世代だから、新たな見方をすることが出来る場合もあります。その感覚が根本で違っている場合はまた語り合うということを幾度となく繰り返して、納得できる答えを導いて共通理解に達するという方法しかないのではないでしょうか。
投稿日:2012年8月23日
“今でしょ!”と言うことがよく言われるけれど、お互いに間違いを正しながら誠実に向き合うことを重ねることに尽きるのだろうと思います。若い世代だから、新たな見方をすることが出来る場合もあります。その感覚が根本で違っている場合はまた語り合うということを幾度となく繰り返して、納得できる答えを導いて共通理解に達するという方法しかないのではないでしょうか。
投稿日:2012年8月23日
2013年08月23日
参院選から1か月、改めて考えてみたいこと
「原発再稼働」の倫理を問う新潟県知事の覚悟
文 保坂展人(前・世田谷区長)
2013年7月9日
7月5日、東京電力の広瀬直己社長が新潟県の泉田裕彦知事を訪ねて、「柏崎刈羽原発の原子力規制委員会への再稼働審査申請」への理解を求めたところ、物別れに終わったというニュースが大きく伝えられています。
3日後、柏崎刈羽原発の再稼働申請は見送られたものの、北海道電力(泊1、2、3号機)、関西電力(大飯3、4号機、高浜3、4号機)、四国電力(伊方3号機)、九州電力(川内1、2号機)の10基について、原子力規制委員会に再稼働申請が出されました。
参議院選挙が公示された後、梅雨明けの猛暑とともに伝えられてくるのは、福島第1原発事故の記憶が消えたかのような動きです。「経済成長のために原発再稼働やむなし」という原発回帰の流れが強まっているように見えます。
新潟県の泉田知事は、原発再稼働を容認する他の原発立地県とは一線を画し、「再稼働の倫理」を問うています。237万人の県民の生命と健康をあずかる首長として、覚悟を決めた勇気ある指摘だと感じます。
ところが、厳しい基準をつくり、公平に「原発の安全性」を判断するはずの原子力規制委員会の田中俊一委員長の発言には耳を疑いました。田中委員長は3日、泉田知事について、こう述べたというのです。
「他の自治体が納得しているなか、かなり個性的な発言をしている」
規制委員会のトップが、原発再稼働の流れに同調しない泉田知事を記者会見の場で「個性的」と評したことは、中立であるべき規制委員会の公平性が揺らぎかねない発言だと思います。
田中委員長は、泉田知事のどの発言を「個性的」と評しているのでしょうか。その4日前に、毎日新聞が泉田知事のインタビューを掲載していました。少し長くなりますが、重要なので引用します。
〈知事は新規制基準について「福島第1原発事故の検証・総括なしに、(設備面などに特化した)ハードの基準を作っても安全は確保できない。新規制基準は、残念ながら国民の信頼を得られない」と批判。
規制委についても「地方自治行政のことを分かっている人間が1人も入っていない」と指摘、緊急時の住民の避難計画などに関し規制委が県の意見を聞かなかったことを問題視し、「こんなデタラメなやり方は初めて」と厳しく批判した。
7月8日に施行される新規制基準についても「(原発立地自治体の)県の意見に耳を傾けずに作られた。外部に説明するつもりのない基準など評価に値しない」と切り捨てた。
また、万が一過酷事故が起きた際、現行法では、事態の悪化を防ごうにも放射線量の高い事故現場へ作業員を出せないことを課題として指摘。「現行制度では法律違反で誰も行かせられないが、放置すればメルトダウン(炉心溶融)が起きる。そういう問題への対応も用意しないと、事故を総括したことにならない」
と述べ、政府にも法的な整備を求めた〉(毎日新聞)
これが、規制委員会の田中委員長が「個性的」と切り捨てた泉田知事の発言だとしたら、「地方自治行政のことがわからない」ことを自ら裏付けたようなものではないでしょうか。とりわけ緊急時の「住民避難計画」は自治体の責任と判断に帰すもので、原発で重大事故が起きたら、首長は瞬時に決断を迫られるのです。
目をこすってみたくなります。
2007年、中越沖地震により、柏崎刈羽原発の変電施設が黒煙をあげて炎上しました。そればかりでなく、点検中の原子炉の蓋がずれたり、建屋内のクレーンがへし折れたり、使用済み核燃料プールから大量の水が漏れ出したりしたのです。この事故は、次なる重大事故を事前に防ぐ措置をとるための大きな教訓を示していました。
しかし、4年後の2011年、福島第1原発事故が起きてしまいました。国際原子力事故評価尺度(INES)では、チェルノブイリと並び、最も深刻な「レベル7」。2年たった今も、事故の影響はさまざまな形で尾を引いています。
この事故はなぜ起き、なぜ防げなかったのか。それが十分に検証されたとはいえません。そうしたなかで、ふたたびメルトダウンの危険のある重大事故が起きたら、どう対処するのか。
「被爆の危険の大きな現場に作業員を派遣すること」は法令で禁止されていますが、一方で、だれかが現場に行かなければより大きな被害をもたらすという事態が想定されます。そのための法整備も行なわれていない、という泉田知事の指摘は、県民の命をあずかる首長としてきわめてまっとうなものだと思います。
私が泉田知事の名前を聞いたのは、震災直後に「陸の孤島」となっていた福島県南相馬市の桜井勝延市長からでした。泉田知事から直接電話があり、避難を希望する南相馬市民のためのバスを差し向け、県内に受けいれる、と申し出てくれた、というのです。今回の発言も、そうして福島第1原発事故に正面から向き合う姿勢を持っているからこそ出てきたものだと感じます。
参院選での関心は「経済」、そして「衆参のねじれ解消」との報道が続いています。仮に経済という視点で見たとき、福島第1原発事故がどれほどの打撃を与えてきたでしょうか。また、15万人もの人々が住み慣れた故郷を離れて、見通しのない避難生活を続けているのです。
猛暑とともに、ボロボロになったはずの「原発神話」を修繕し、再稼働ありきでひた走ることを「仕方がない」と追認するわけにはいきません。新潟県の泉田知事の毅然とした発言は、私たちが2度と同じ過ちを起こさないために福島第1原発事故から学ぶべき「倫理と覚悟」を伝えています。
このままでは、「3・11」前の電力業界の既得権は温存され、原子力ムラが復活し、報道管制の縛りが強まるばかりです。福島第1原発事故から何も学ばない社会を、子どもたちに見せたくはありません。
猛暑の中で行われた参院選、そしてその後の「再稼働の可否」をめぐる議論をすべき大きなチャンスととらえたいものです。
文 保坂展人(前・世田谷区長)
2013年7月9日
7月5日、東京電力の広瀬直己社長が新潟県の泉田裕彦知事を訪ねて、「柏崎刈羽原発の原子力規制委員会への再稼働審査申請」への理解を求めたところ、物別れに終わったというニュースが大きく伝えられています。
3日後、柏崎刈羽原発の再稼働申請は見送られたものの、北海道電力(泊1、2、3号機)、関西電力(大飯3、4号機、高浜3、4号機)、四国電力(伊方3号機)、九州電力(川内1、2号機)の10基について、原子力規制委員会に再稼働申請が出されました。
参議院選挙が公示された後、梅雨明けの猛暑とともに伝えられてくるのは、福島第1原発事故の記憶が消えたかのような動きです。「経済成長のために原発再稼働やむなし」という原発回帰の流れが強まっているように見えます。
新潟県の泉田知事は、原発再稼働を容認する他の原発立地県とは一線を画し、「再稼働の倫理」を問うています。237万人の県民の生命と健康をあずかる首長として、覚悟を決めた勇気ある指摘だと感じます。
ところが、厳しい基準をつくり、公平に「原発の安全性」を判断するはずの原子力規制委員会の田中俊一委員長の発言には耳を疑いました。田中委員長は3日、泉田知事について、こう述べたというのです。
「他の自治体が納得しているなか、かなり個性的な発言をしている」
規制委員会のトップが、原発再稼働の流れに同調しない泉田知事を記者会見の場で「個性的」と評したことは、中立であるべき規制委員会の公平性が揺らぎかねない発言だと思います。
田中委員長は、泉田知事のどの発言を「個性的」と評しているのでしょうか。その4日前に、毎日新聞が泉田知事のインタビューを掲載していました。少し長くなりますが、重要なので引用します。
〈知事は新規制基準について「福島第1原発事故の検証・総括なしに、(設備面などに特化した)ハードの基準を作っても安全は確保できない。新規制基準は、残念ながら国民の信頼を得られない」と批判。
規制委についても「地方自治行政のことを分かっている人間が1人も入っていない」と指摘、緊急時の住民の避難計画などに関し規制委が県の意見を聞かなかったことを問題視し、「こんなデタラメなやり方は初めて」と厳しく批判した。
7月8日に施行される新規制基準についても「(原発立地自治体の)県の意見に耳を傾けずに作られた。外部に説明するつもりのない基準など評価に値しない」と切り捨てた。
また、万が一過酷事故が起きた際、現行法では、事態の悪化を防ごうにも放射線量の高い事故現場へ作業員を出せないことを課題として指摘。「現行制度では法律違反で誰も行かせられないが、放置すればメルトダウン(炉心溶融)が起きる。そういう問題への対応も用意しないと、事故を総括したことにならない」
と述べ、政府にも法的な整備を求めた〉(毎日新聞)
これが、規制委員会の田中委員長が「個性的」と切り捨てた泉田知事の発言だとしたら、「地方自治行政のことがわからない」ことを自ら裏付けたようなものではないでしょうか。とりわけ緊急時の「住民避難計画」は自治体の責任と判断に帰すもので、原発で重大事故が起きたら、首長は瞬時に決断を迫られるのです。
目をこすってみたくなります。
2007年、中越沖地震により、柏崎刈羽原発の変電施設が黒煙をあげて炎上しました。そればかりでなく、点検中の原子炉の蓋がずれたり、建屋内のクレーンがへし折れたり、使用済み核燃料プールから大量の水が漏れ出したりしたのです。この事故は、次なる重大事故を事前に防ぐ措置をとるための大きな教訓を示していました。
しかし、4年後の2011年、福島第1原発事故が起きてしまいました。国際原子力事故評価尺度(INES)では、チェルノブイリと並び、最も深刻な「レベル7」。2年たった今も、事故の影響はさまざまな形で尾を引いています。
この事故はなぜ起き、なぜ防げなかったのか。それが十分に検証されたとはいえません。そうしたなかで、ふたたびメルトダウンの危険のある重大事故が起きたら、どう対処するのか。
「被爆の危険の大きな現場に作業員を派遣すること」は法令で禁止されていますが、一方で、だれかが現場に行かなければより大きな被害をもたらすという事態が想定されます。そのための法整備も行なわれていない、という泉田知事の指摘は、県民の命をあずかる首長としてきわめてまっとうなものだと思います。
私が泉田知事の名前を聞いたのは、震災直後に「陸の孤島」となっていた福島県南相馬市の桜井勝延市長からでした。泉田知事から直接電話があり、避難を希望する南相馬市民のためのバスを差し向け、県内に受けいれる、と申し出てくれた、というのです。今回の発言も、そうして福島第1原発事故に正面から向き合う姿勢を持っているからこそ出てきたものだと感じます。
参院選での関心は「経済」、そして「衆参のねじれ解消」との報道が続いています。仮に経済という視点で見たとき、福島第1原発事故がどれほどの打撃を与えてきたでしょうか。また、15万人もの人々が住み慣れた故郷を離れて、見通しのない避難生活を続けているのです。
猛暑とともに、ボロボロになったはずの「原発神話」を修繕し、再稼働ありきでひた走ることを「仕方がない」と追認するわけにはいきません。新潟県の泉田知事の毅然とした発言は、私たちが2度と同じ過ちを起こさないために福島第1原発事故から学ぶべき「倫理と覚悟」を伝えています。
このままでは、「3・11」前の電力業界の既得権は温存され、原子力ムラが復活し、報道管制の縛りが強まるばかりです。福島第1原発事故から何も学ばない社会を、子どもたちに見せたくはありません。
猛暑の中で行われた参院選、そしてその後の「再稼働の可否」をめぐる議論をすべき大きなチャンスととらえたいものです。
2013年08月22日
イチロー4000本安打達成、おめでとう!
ヤンキースのイチロー外野手が現地21日、地元で行われたブルージェイズ戦の初回に相手先発R.A.ディッキー投手からレフト前ヒットを放ち、日米通算4000本安打を達成した際の動画がアップされていた。日米通算記録はNPBとMLBでの成績を合算した記録であり、両方の球界でプレー経験のある日本選手によく使用される。当然ながら、NPBとMLBは別リーグであるために公式記録上では各リーグで残した成績を合わせて適用されることはないが、ICHI-METERを掲示するファンがいるほどに、米野球の殿堂入りは間違いないと噂される。
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00994/v00063/v0000000000000009977/
記者会見で、答えるイチローの話も凄かったので、ここに記して起きたとおもう。
4000と言う数字よりも、あんな風にチームメイトやファンの人達が祝福してくれるとは、全く想像していなかったので、その事ですね。それが深く刻まれましたし、結局、4000という数字が特別なものをつくるのではなくて、記録が特別な瞬間を作るのではなくて、自分以外の人たちが特別な瞬間を作ってくれるものだというふうに強く思いました」
─みんながダグアウトから出てきた時、驚いていた
「ちょっと、やめて欲しいと思いましたね。嬉しすぎて。僕のためにゲームを止めて、僕だけのために時間を作ってくれるという行為はとても想像できるわけがないですよね、ヤンキー・スタジアムで。ただただ、感激しました」
─タイ・カッブ、ピート・ローズしかいない4000という大台
「これややこしい数なので、両方のリーグの数字を足しているものですから、なかなか難しいんですけど、ヒットを打ってきた数というよりも、こういう記録、2000とか3000とかあったんですけど、こういうときに思うのは、別にいい結果を生んできたことを誇れる自分では別にないんですよね。誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね」
─1本のヒットの大切さ。現在、1本のヒットを打つということ
「プロの世界でやっている、どの世界でも同じだと思うんですけど、記憶に残っているのは、上手くいったことではなくて、上手くいかなかったことなんですよね。その記憶が強く残るから、ストレスを抱えるわけですよね。これは、アマチュアで楽しく野球をやっていれば、いいことばっか残る。でも、楽しいだけだと思うんですよね。コレはどの世界も同じこと。皆さんも同じだと思うんですよね。そのストレスを抱えた中で、瞬間的に喜びが訪れる、そしてはかなく消えていく、見たいな。それが、プロの世界の醍醐味でもあると思うんですけど、もっと楽しい記憶が残ったらいいのになあというふうに常に思っていますけど、きっとないんだろうなあと思います」
─その1本1本の積み重ねが4000に繋がった
「4000を打つには、3999本が必要なわけで、僕にとっては、4000本目のヒットも、それ以外のヒットも、同じように大切なものであると言えます」
─フィールドに立つ前の準備をきっちり積み重ねてきた
「それは当たり前のことですよね。それにフォーカスが行くこと自体がおかしいと思いますけど。それがあまりにもない、ということじゃないですか。それを証明しているんじゃないですか」
・・・・
もともとは、高校球児になった時点で投手への強いあこがれをもっていたと言われるイチロー、しかし、交通事故(自転車での通学中に車と接触した)による怪我が原因で投手から野手に転向した。打投走総てのプレイにおいて卓越した評価を得ている。 スパイクシューズは山陰アシックス工業が製作している。年々改良が続けられている専用シューズは軽量化に重点が置かれており、2009年モデルは片足約250gという超軽量化を実現している。反面、スパイク部分に使用されている特殊素材は軽量化の代わりに耐久性を犠牲にしており、3試合程度の使用で新品と交換している。同社がイチローのために製造しているシューズは試合用と練習用を合わせて年間150足を超える。
怪我をしないようにするイチローでも、宮崎ではお店の裏の階段や新神戸駅で雨の日に滑って転倒しそうになったいるので細心の注意を払っているというが、私が後楽園に初の日米野球を観戦に行った時、早々に引っ込んでしまったのは、ロッカールームの椅子で転倒して尾てい骨を打ったからだとか聞いて、サルも木から落ちることもあるなと思ったが、うっかり指を車のトランクの蓋に挟んだり、写真をとって足元の根っこにつまずいて捻挫したりの私は未だに気を付けるなどということはなくて行動を起こすので、いよいよ転倒しないためにも見習いたい。
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00994/v00063/v0000000000000009977/
記者会見で、答えるイチローの話も凄かったので、ここに記して起きたとおもう。
4000と言う数字よりも、あんな風にチームメイトやファンの人達が祝福してくれるとは、全く想像していなかったので、その事ですね。それが深く刻まれましたし、結局、4000という数字が特別なものをつくるのではなくて、記録が特別な瞬間を作るのではなくて、自分以外の人たちが特別な瞬間を作ってくれるものだというふうに強く思いました」
─みんながダグアウトから出てきた時、驚いていた
「ちょっと、やめて欲しいと思いましたね。嬉しすぎて。僕のためにゲームを止めて、僕だけのために時間を作ってくれるという行為はとても想像できるわけがないですよね、ヤンキー・スタジアムで。ただただ、感激しました」
─タイ・カッブ、ピート・ローズしかいない4000という大台
「これややこしい数なので、両方のリーグの数字を足しているものですから、なかなか難しいんですけど、ヒットを打ってきた数というよりも、こういう記録、2000とか3000とかあったんですけど、こういうときに思うのは、別にいい結果を生んできたことを誇れる自分では別にないんですよね。誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね」
─1本のヒットの大切さ。現在、1本のヒットを打つということ
「プロの世界でやっている、どの世界でも同じだと思うんですけど、記憶に残っているのは、上手くいったことではなくて、上手くいかなかったことなんですよね。その記憶が強く残るから、ストレスを抱えるわけですよね。これは、アマチュアで楽しく野球をやっていれば、いいことばっか残る。でも、楽しいだけだと思うんですよね。コレはどの世界も同じこと。皆さんも同じだと思うんですよね。そのストレスを抱えた中で、瞬間的に喜びが訪れる、そしてはかなく消えていく、見たいな。それが、プロの世界の醍醐味でもあると思うんですけど、もっと楽しい記憶が残ったらいいのになあというふうに常に思っていますけど、きっとないんだろうなあと思います」
─その1本1本の積み重ねが4000に繋がった
「4000を打つには、3999本が必要なわけで、僕にとっては、4000本目のヒットも、それ以外のヒットも、同じように大切なものであると言えます」
─フィールドに立つ前の準備をきっちり積み重ねてきた
「それは当たり前のことですよね。それにフォーカスが行くこと自体がおかしいと思いますけど。それがあまりにもない、ということじゃないですか。それを証明しているんじゃないですか」
・・・・
もともとは、高校球児になった時点で投手への強いあこがれをもっていたと言われるイチロー、しかし、交通事故(自転車での通学中に車と接触した)による怪我が原因で投手から野手に転向した。打投走総てのプレイにおいて卓越した評価を得ている。 スパイクシューズは山陰アシックス工業が製作している。年々改良が続けられている専用シューズは軽量化に重点が置かれており、2009年モデルは片足約250gという超軽量化を実現している。反面、スパイク部分に使用されている特殊素材は軽量化の代わりに耐久性を犠牲にしており、3試合程度の使用で新品と交換している。同社がイチローのために製造しているシューズは試合用と練習用を合わせて年間150足を超える。
怪我をしないようにするイチローでも、宮崎ではお店の裏の階段や新神戸駅で雨の日に滑って転倒しそうになったいるので細心の注意を払っているというが、私が後楽園に初の日米野球を観戦に行った時、早々に引っ込んでしまったのは、ロッカールームの椅子で転倒して尾てい骨を打ったからだとか聞いて、サルも木から落ちることもあるなと思ったが、うっかり指を車のトランクの蓋に挟んだり、写真をとって足元の根っこにつまずいて捻挫したりの私は未だに気を付けるなどということはなくて行動を起こすので、いよいよ転倒しないためにも見習いたい。
2013年08月21日
2013年08月20日
2013年08月19日
千葉の観光不作、アクラライン
観光道路としての東京湾アクアライン料金引き下げに伴い、観光客増加や物流促進が予想されるため、国の東関東自動車道館山線4車線化の一部(63億7500万円)を負担している。それでアクアラインがようやく使われる道路らしくなってはきたが、その為に県税が相当に投入されていることも県議会では指摘がされていました。
そもそもは、故・浜田幸一(千葉3区自民党より衆議通算7回当選。その間に衆議予算委員長、自民党広報委員長、党副幹事長などを歴任。背任罪の公判は被告人・浜田本人の死亡により2012年公訴棄却)が主に実現させたこの海底トンネル高速道路は、1兆4400億円もの建設費がかかっていました。基礎建設費や有利子負債の返済どころか、保守・維持管理費すら捻出が厳しい日本一論外の超大赤字路線になっていた税金の無駄使いのシンボルです。
その料金は、全車種8000円以上の料金に設定し、見込みの台数が通行するならば、建設費・有利子負債が返せるという水準の路線としていましたが、果たして通行台数は伸びません。あまりに利用されないなら、「社会実験」という名の下に全く収支が合わない特別料金にして、ともかく車を走らせるとどういう効果が表れるかの実験が継続中ということです。普通車が800円、超特大車が2200円、大型車でも4950円、軽自動車やバイクについては640円。
もし、その「800円の維持恒久化」という破滅的な財政負担をもたらすプランを実行することを国に求めるというならば、千葉県や木更津市、袖ヶ浦市、君津市などの税金でその8割以上を維持するという公約とセットでやってもらわなければ、自動車に乗らない人や千葉県民以外には関係のない極端な税金浪費が続くと周辺からは批判が強くなってきています。
森田知事は元々、2期しかやらなともいって立候補していました。若い頃、俳優として「俺は男だ!」に出ていて剣道の名人を演じ剣道二段を称したが、実際は無段だったとの暴露話は有名です。知事選に出馬した選挙戦では「完全無所属」として選挙活動をして、実際は自由民主党支部長だったとの事と共に分かってきたことでしたが・・・。地方・国会議員の特権である「議員年金」の廃止にもかつては賛成していたはずが、自身が国会議員になると態度をひっくり返して維持・賛成にまわったとか・・・・。知事2期目の間にも社会実験は続くものの、その後はどうなるのか?
●アクアラインの利用者は、県外に出る方が多い?!
ところで、千葉県民として県税もこれに当てられていることを考えると、他県で用事を済ませて千葉県に帰って来るのでは、通行料金を安くした意味がありません。造る時には千葉県へ南関東からの来訪者が増えるので、県としての経済効果は莫大であるという触れ込みでしたが、開通当時から県外に出て行く方が多いのではないかという懸念する声があり、結局そのとおりになっています。それでも、森田知事は千葉県の活性化と税収増を目指すと言っています。
それなら、仮に安くするとしても、県外に出て行く方の料金は下げない方法もあります。赤字削減のためには、アクアラインの通行料金を800円に値下げしたからと言って、73億円もの県費負担にみあうよう元が取れるか疑問視されています。
海上の高速道路を1万4000人が走った「ちばアクアラインマラソン」も行われましたが、千葉県は同大会の経済波及効果が15億1000万円に達したとの推計をまとめたものの、6時間に及ぶ通行止めでマイナスの影響も発生したことの検証をすることになりました。今後の開催の継続可否は別として、2013年度は「スケジュール的に難しい」(県教育庁体育課)として開催を見送る方針となっています。
アクアラインマラソンは、2012年10月21日に初めて開いた森田健作知事肝煎りの催し。参加者の半数は県外からの来訪者が占めました。大会による需要増加額は14億7900万円。警備や広報イベントに5億円弱の事業費をかけたほか、参加したランナーや応援者が食事や宿泊などで10億円弱を消費したとみられる。経済波及効果は沿道の応援者が31万人と予想を上回ったため、当初想定より5割多い規模となったされていました。マイナスの経済的な影響とは、会当日は午前8時から6時間、東京湾アクアラインが通行止めになって、大会がなければ訪れていた観光客の消費分を8600万円を重視したということです。
また、海上にかけられた橋の上を走るため、開催日は比較的風が強くない10月に決めていたが、この時期の休日は、ゴルフ場などの観光施設にとっては利用者の多い時期。県内のゴルフ場関係者からは「1年で最も書き入れ時の日なのに」と嘆く声も上がっていました。
運営上の課題も大きくなっており、県は高速上の電波の弱さで連絡体制が十分に整わなかったことなどをあげています。「ノウハウ・人員・予算運用面で多くの課題があることが明確になった」と公表していました。大会当日の気温が高く、未経験ランナーが多かったことから救護を受ける人が続出したため、完走率が74%と低かった。ただ開催後の参加者アンケートでは次回大会に参加したいとの回答が完走者で85%、棄権者でも81%に達していました。千葉の印象は良くなったと考えられます。
ところで、県税による総収入は7165億、うちアクアライン約20ケ月分の施策で73億の投資に対して県税収入がどれだけ増えるのか、アクアラインマラソン大会も始めたものの、継続ならずからして、そろそろ決着をつけなくてはいけない時なのではないでしょうか。森田知事の一声で決まった社会実験は、県民には関心がどうもたれているのか、莫大な税金投入の一方で納税者はそれに気づかないままです。
アクアライン800円の実現に73億円超!とは、森田知事はこれまでにも、千葉県補正予算案などなど、あの手この手で県税の投入で自身の公約実現を推し進めるが、効果はいかがなものなのか、県内の税収割合の多くを占める東葛地域にはどういう評価がくだせるか?? 秋に行われたアクララインマラソンが取りやめになった今年、改めて県税の使われ方、県政を考えてみる必要があるのではないでしょうか。
出典:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090528-00000072-mailo-l12
そもそもは、故・浜田幸一(千葉3区自民党より衆議通算7回当選。その間に衆議予算委員長、自民党広報委員長、党副幹事長などを歴任。背任罪の公判は被告人・浜田本人の死亡により2012年公訴棄却)が主に実現させたこの海底トンネル高速道路は、1兆4400億円もの建設費がかかっていました。基礎建設費や有利子負債の返済どころか、保守・維持管理費すら捻出が厳しい日本一論外の超大赤字路線になっていた税金の無駄使いのシンボルです。
その料金は、全車種8000円以上の料金に設定し、見込みの台数が通行するならば、建設費・有利子負債が返せるという水準の路線としていましたが、果たして通行台数は伸びません。あまりに利用されないなら、「社会実験」という名の下に全く収支が合わない特別料金にして、ともかく車を走らせるとどういう効果が表れるかの実験が継続中ということです。普通車が800円、超特大車が2200円、大型車でも4950円、軽自動車やバイクについては640円。
もし、その「800円の維持恒久化」という破滅的な財政負担をもたらすプランを実行することを国に求めるというならば、千葉県や木更津市、袖ヶ浦市、君津市などの税金でその8割以上を維持するという公約とセットでやってもらわなければ、自動車に乗らない人や千葉県民以外には関係のない極端な税金浪費が続くと周辺からは批判が強くなってきています。
森田知事は元々、2期しかやらなともいって立候補していました。若い頃、俳優として「俺は男だ!」に出ていて剣道の名人を演じ剣道二段を称したが、実際は無段だったとの暴露話は有名です。知事選に出馬した選挙戦では「完全無所属」として選挙活動をして、実際は自由民主党支部長だったとの事と共に分かってきたことでしたが・・・。地方・国会議員の特権である「議員年金」の廃止にもかつては賛成していたはずが、自身が国会議員になると態度をひっくり返して維持・賛成にまわったとか・・・・。知事2期目の間にも社会実験は続くものの、その後はどうなるのか?
●アクアラインの利用者は、県外に出る方が多い?!
ところで、千葉県民として県税もこれに当てられていることを考えると、他県で用事を済ませて千葉県に帰って来るのでは、通行料金を安くした意味がありません。造る時には千葉県へ南関東からの来訪者が増えるので、県としての経済効果は莫大であるという触れ込みでしたが、開通当時から県外に出て行く方が多いのではないかという懸念する声があり、結局そのとおりになっています。それでも、森田知事は千葉県の活性化と税収増を目指すと言っています。
それなら、仮に安くするとしても、県外に出て行く方の料金は下げない方法もあります。赤字削減のためには、アクアラインの通行料金を800円に値下げしたからと言って、73億円もの県費負担にみあうよう元が取れるか疑問視されています。
海上の高速道路を1万4000人が走った「ちばアクアラインマラソン」も行われましたが、千葉県は同大会の経済波及効果が15億1000万円に達したとの推計をまとめたものの、6時間に及ぶ通行止めでマイナスの影響も発生したことの検証をすることになりました。今後の開催の継続可否は別として、2013年度は「スケジュール的に難しい」(県教育庁体育課)として開催を見送る方針となっています。
アクアラインマラソンは、2012年10月21日に初めて開いた森田健作知事肝煎りの催し。参加者の半数は県外からの来訪者が占めました。大会による需要増加額は14億7900万円。警備や広報イベントに5億円弱の事業費をかけたほか、参加したランナーや応援者が食事や宿泊などで10億円弱を消費したとみられる。経済波及効果は沿道の応援者が31万人と予想を上回ったため、当初想定より5割多い規模となったされていました。マイナスの経済的な影響とは、会当日は午前8時から6時間、東京湾アクアラインが通行止めになって、大会がなければ訪れていた観光客の消費分を8600万円を重視したということです。
また、海上にかけられた橋の上を走るため、開催日は比較的風が強くない10月に決めていたが、この時期の休日は、ゴルフ場などの観光施設にとっては利用者の多い時期。県内のゴルフ場関係者からは「1年で最も書き入れ時の日なのに」と嘆く声も上がっていました。
運営上の課題も大きくなっており、県は高速上の電波の弱さで連絡体制が十分に整わなかったことなどをあげています。「ノウハウ・人員・予算運用面で多くの課題があることが明確になった」と公表していました。大会当日の気温が高く、未経験ランナーが多かったことから救護を受ける人が続出したため、完走率が74%と低かった。ただ開催後の参加者アンケートでは次回大会に参加したいとの回答が完走者で85%、棄権者でも81%に達していました。千葉の印象は良くなったと考えられます。
ところで、県税による総収入は7165億、うちアクアライン約20ケ月分の施策で73億の投資に対して県税収入がどれだけ増えるのか、アクアラインマラソン大会も始めたものの、継続ならずからして、そろそろ決着をつけなくてはいけない時なのではないでしょうか。森田知事の一声で決まった社会実験は、県民には関心がどうもたれているのか、莫大な税金投入の一方で納税者はそれに気づかないままです。
アクアライン800円の実現に73億円超!とは、森田知事はこれまでにも、千葉県補正予算案などなど、あの手この手で県税の投入で自身の公約実現を推し進めるが、効果はいかがなものなのか、県内の税収割合の多くを占める東葛地域にはどういう評価がくだせるか?? 秋に行われたアクララインマラソンが取りやめになった今年、改めて県税の使われ方、県政を考えてみる必要があるのではないでしょうか。
出典:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090528-00000072-mailo-l12
2013年08月18日
戦争の知られざる記憶
第二次世界大戦の開戦によって島の北半分が日本によって占領される。東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万未満に過ぎなかった。
犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。
ニューギニア南部の拠点(ポートモレスビー)確保のために、北部沿岸に飛行場の建設など東部ニューギニアで戦いが行われ、日本軍とオーストラリア軍が戦闘を繰り広げた。アメリカ軍がオーストラリアを拠点に空輸作戦や上陸作戦を実施し、北部沿岸一帯での激戦の末に日本が敗退すると、各国が植民地経営を再開した。
残存部隊も、それまでの戦闘と補給途絶による飢餓と病気で、消耗した状態だった。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。
7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗した。安達軍司令官は攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210008_00000
ビヤク島
東部ニューギニア アイタペの戦い
1944年6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、補給途絶による飢餓と病気で消耗した。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。しかし、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、5万4,000名を養うことは不可能だと判断、結果、無謀な進軍を決行した。
7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗、攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い
アイタペ決戦に敗れた第18軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、1944年秋にアメリカ軍と交代したオーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ、昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。毒のある植物を食べて中毒死したものも少なくない。4000メートル級の山地越えでは貧弱な装備と低下した体力のために凍死者も続出している。後の証言によれば、日本兵が日本兵を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。1944年12月に第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。
掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永事件)。第18軍主力の食料・弾薬は1945年9月までには尽き果てると予想され、1か月後の玉砕全滅を覚悟していた1945年8月15日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。
9月13日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ウェワク沖合いのムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は1万1,197名であった。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に最初の復員船「鹿島」が到着し、1946年1月末までに将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った。
ジャングルの無惨無念で死を遂げた戦友たちに代わってんでいった者たちの為に戦争のむなしさ愚かしさを伝えていく義務がある。それが戦友たちの唯一の鎮魂だった。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210008_00000
●西部ニューギニア イドレ死の行軍
フォーヘルコップ半島における日本軍の兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があった。
ソロンの陸海軍部隊は孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。一方マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万名の自活は不可能と判断、1万5,000名に対して、南方200キロのベラウ湾奥のイドレへ転進しそこで自活するよう命じた。1万5,000名の将兵は1944年7月1日に出発、食糧補給の全くない熱帯雨林を横断し1か月を費やしてイドレにたどり着いたとき、人数は6,000から7,000名にまで減っていた。さらにイドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在しなかった。将兵は終戦までの1年間、飢えとマラリアの生活を送った。戦後イドレ地区からの生還者は3,000名に満たなかった。
●ドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげる原作『総員玉砕せよ!』は実体験による〜
2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番とした』が放送された。
戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。
水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。
また、貸本漫画家時代の一時期、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。敗色濃厚になる末期につれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。
『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。
曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。てっきり九州など国内の南の連隊への配属になると思っていたが、軍から南方のラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。
水木をパラオ基地からラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の信濃丸だった。敵の潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の所属した部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、茂には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、指令本部への総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射をされた。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海にとびこんで逃げた。水木は短剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した。
九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、上官から国から与えられた武器を捨てて逃げた事を咎められ、「何故死ななかったのか」と詰問された。この経験から虚無主義的な考え方をするようになった。また帰還してまもなく水木はマラリアを発症、追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負った。軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。傷病兵部隊に送られるが、そこで島の原住民との交流がはじまる。住民はとても親切で水木に果物などの差し入れをしてくれた。
1945年、戦地で敗戦の報告を受ける。周りの上官達は泣き崩れて敗北を悔しがったが、水木は「生き延びられた事への喜び」を抱いたという。連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、現地除隊して永住することを考えたこともあったが、家族に会った方が良いという助言から帰国を決意した。1946年、24歳の時に駆逐艦雪風で日本へ復員した。
片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。
犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。
ニューギニア南部の拠点(ポートモレスビー)確保のために、北部沿岸に飛行場の建設など東部ニューギニアで戦いが行われ、日本軍とオーストラリア軍が戦闘を繰り広げた。アメリカ軍がオーストラリアを拠点に空輸作戦や上陸作戦を実施し、北部沿岸一帯での激戦の末に日本が敗退すると、各国が植民地経営を再開した。
残存部隊も、それまでの戦闘と補給途絶による飢餓と病気で、消耗した状態だった。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。
7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗した。安達軍司令官は攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210008_00000
ビヤク島
東部ニューギニア アイタペの戦い
1944年6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、補給途絶による飢餓と病気で消耗した。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。しかし、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、5万4,000名を養うことは不可能だと判断、結果、無謀な進軍を決行した。
7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗、攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
ウェワク地区での自活とオーストラリア軍との戦い
アイタペ決戦に敗れた第18軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、1944年秋にアメリカ軍と交代したオーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ、昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。毒のある植物を食べて中毒死したものも少なくない。4000メートル級の山地越えでは貧弱な装備と低下した体力のために凍死者も続出している。後の証言によれば、日本兵が日本兵を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。1944年12月に第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。
掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永事件)。第18軍主力の食料・弾薬は1945年9月までには尽き果てると予想され、1か月後の玉砕全滅を覚悟していた1945年8月15日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。
9月13日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ウェワク沖合いのムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は1万1,197名であった。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に最初の復員船「鹿島」が到着し、1946年1月末までに将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った。
ジャングルの無惨無念で死を遂げた戦友たちに代わってんでいった者たちの為に戦争のむなしさ愚かしさを伝えていく義務がある。それが戦友たちの唯一の鎮魂だった。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210008_00000
●西部ニューギニア イドレ死の行軍
フォーヘルコップ半島における日本軍の兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があった。
ソロンの陸海軍部隊は孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。一方マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万名の自活は不可能と判断、1万5,000名に対して、南方200キロのベラウ湾奥のイドレへ転進しそこで自活するよう命じた。1万5,000名の将兵は1944年7月1日に出発、食糧補給の全くない熱帯雨林を横断し1か月を費やしてイドレにたどり着いたとき、人数は6,000から7,000名にまで減っていた。さらにイドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在しなかった。将兵は終戦までの1年間、飢えとマラリアの生活を送った。戦後イドレ地区からの生還者は3,000名に満たなかった。
●ドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげる原作『総員玉砕せよ!』は実体験による〜
2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番とした』が放送された。
戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。
水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。
また、貸本漫画家時代の一時期、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。敗色濃厚になる末期につれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。
『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。
曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。てっきり九州など国内の南の連隊への配属になると思っていたが、軍から南方のラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。
水木をパラオ基地からラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の信濃丸だった。敵の潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の所属した部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、茂には「ビンタの王様」というあだ名がついた。
ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、指令本部への総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射をされた。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海にとびこんで逃げた。水木は短剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した。
九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、上官から国から与えられた武器を捨てて逃げた事を咎められ、「何故死ななかったのか」と詰問された。この経験から虚無主義的な考え方をするようになった。また帰還してまもなく水木はマラリアを発症、追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負った。軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。傷病兵部隊に送られるが、そこで島の原住民との交流がはじまる。住民はとても親切で水木に果物などの差し入れをしてくれた。
1945年、戦地で敗戦の報告を受ける。周りの上官達は泣き崩れて敗北を悔しがったが、水木は「生き延びられた事への喜び」を抱いたという。連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、現地除隊して永住することを考えたこともあったが、家族に会った方が良いという助言から帰国を決意した。1946年、24歳の時に駆逐艦雪風で日本へ復員した。
片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。
2013年08月17日
世界のどこにも戦争を二度と起こさないように
68回目の我孫子市平和祈念式典が、手賀沼公園入り口の平和記念碑の前で行なわれた。今夏から、中学生の広島派遣は各校2名となり、市長も同行したという。式典の後に映画が上映された。その映画では八幡大空襲によって多くの戦禍に焼かれた人々の後裔がどんな辛い状況にあっていたかも描かれていた。
昭和20年(1945年)、広島の原爆が投下された8月6日、9日の長崎の原爆投下の間には、八幡大空襲が8日(水曜日)昼間(AM10時頃から12時まで)があった。この日の爆撃は焼夷弾が中心で旧八幡市の中央町から桃園にかけて、雨・あられの如く投下された。瞬く間に火災が起こり、総て焼き尽くしてしまった。
焼夷弾を投下直前に、高空からキラキラする金属片(錫テープのようなものか)を撒いて高射砲のレーダーをかく乱したり、密集した木造家屋が燃えやすいように油のようなものも空から撒かれたとの記録もある。
死傷者約2500人。製鉄所の構内でも一部被害が及び労働者の犠牲が出た。中でも平野社宅は全滅に等しかった。罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸。
こうした、原爆以前に行なわれた大空襲は特に1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。
こうした空襲は、1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだ。原爆以前に既に原爆被害と同等な数の民間人が無差別攻撃の目標となって犠牲となっていた。その被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。
千葉では千葉市内が空襲によって230ヘクタール、1600人の犠牲者があったことが標された慰霊碑が、中央公園に設置されているが知る人はすくない。私も元県議の女性から、師範学校の学生が空襲にあって多くの若い命が失われたのだというのを教えてもらって、千葉空襲の無差別攻撃の様子に驚いたが、こうした慰霊碑についても木陰にひっそりとあるだけでは気が付く人は少ないのだと思う。
日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。
昭和20年(1945年)、広島の原爆が投下された8月6日、9日の長崎の原爆投下の間には、八幡大空襲が8日(水曜日)昼間(AM10時頃から12時まで)があった。この日の爆撃は焼夷弾が中心で旧八幡市の中央町から桃園にかけて、雨・あられの如く投下された。瞬く間に火災が起こり、総て焼き尽くしてしまった。
焼夷弾を投下直前に、高空からキラキラする金属片(錫テープのようなものか)を撒いて高射砲のレーダーをかく乱したり、密集した木造家屋が燃えやすいように油のようなものも空から撒かれたとの記録もある。
死傷者約2500人。製鉄所の構内でも一部被害が及び労働者の犠牲が出た。中でも平野社宅は全滅に等しかった。罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸。
こうした、原爆以前に行なわれた大空襲は特に1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。
こうした空襲は、1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだ。原爆以前に既に原爆被害と同等な数の民間人が無差別攻撃の目標となって犠牲となっていた。その被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。
千葉では千葉市内が空襲によって230ヘクタール、1600人の犠牲者があったことが標された慰霊碑が、中央公園に設置されているが知る人はすくない。私も元県議の女性から、師範学校の学生が空襲にあって多くの若い命が失われたのだというのを教えてもらって、千葉空襲の無差別攻撃の様子に驚いたが、こうした慰霊碑についても木陰にひっそりとあるだけでは気が付く人は少ないのだと思う。
日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。
2013年08月16日
終戦特集のTV番組
終戦記念日の昨日、武道館での慰霊祭の報道の他、靖国神社参拝の内外の反応、また下記のような特別番組の報道があった。
●知覧平和記念館についての報道番組
大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの犠牲によって今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、特攻隊員達が二度と帰ることのない出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうことを後世の人々の胸に刻むよう、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設したとあります。
http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1022938-d1545999-Reviews-Chiran_Peace_Museum_for_Kamikaze_Pilots-Minamikyushu_Kagoshima_Prefecture_Kyushu.html
●アンビリバボー シベリアの「収容所からきた遺書」の報道番組
現在、リゾート地として多くの観光客で賑わう、ロシア・ハバロフスク。だが、かつてこのあたり一帯には『ラーゲリ』と呼ばれる強制収容所が立ち並んでいた。
冬場は雪が吹きつけ、気温はマイナス30度にも及ぶ極寒の地で・・・1日10時間を超える重労働。しかも・・朝夕の食事は、わずかなお粥と粗末な黒パンが一切れ支給されるだけ。そんな地獄のような生活を、およそ65万人もの日本人が強いられたと言われている。
終戦から4年後。ソ連政府は、『捕虜全員の帰国を完了した』と公式に発表したのだが・・現実はそうではなかった。ハバロフスクの収容所『第21分所』には・・まだ多くの日本人が残されていた。彼らは『ソ連に対するスパイ行為を働いた反乱分子』とみなされ『20年以上の強制労働』という、言われなき罪を着せられた者たちだった。
『ソ連に忠誠を誓えば、帰国できる』そんな根も葉もないウワサも流れ、日本人同士の密告、裏切りも日常茶飯事。彼らの脳裏には『絶望』の二文字以外、何もなかった。
野島信介も、そんな地獄に送られた一人だった。野島はハバロフスクに移送された直後、知り合いの折田から手製の本を渡された。著者は山本北瞑子。
収容所内では、日本語のメモ書きを持っているだけで重大なスパイ行為とみなされ、『営倉』と呼ばれる独房に監禁されてしまう。『営倉』に入れられ、命を落とす者少なくなかった。
そんな環境の中で、手製の本を発行することなど、自殺行為に思われた。野島は、恐怖心から本を読むことができなかった。
そして・・その夜、野島は山本に声をかけられた。山本北瞑子とは、あの山本幡男のペンネームだったのだ。山本は、野島を俳句の句会に誘った。野島はなぜそんな危険なことをしているのかと山本に訪ねた。山本はの答えは「みんなでダモイ(帰国)した時、日本語を忘れてたらかっこ悪いでしょ」というものだった。
数日後、野島は句会の様子を覗き見していた。それは、初めて見る光景だった。山本を中心に、仲良く笑い合う面々。当然、見つかったら、ただでは済まない・・。
山本は、なぜ危険を冒してまで、句会を開くのか?野島は、隠し持っていた山本の本を、読んでみることにした。
その本には『故郷への想い』が、切々と綴られていた。終わりの見えない、過酷な収容所生活の中で、野島は空を見上げることなどなかった。しかし、山本の本を読んではじめて空を見上げる気持ちになった。
山本の本を渡してくれた折田は、希望を持つことが大切だと野島に言った。それでも希望を持てない野島に折田は「まあ、そのうちわかりますよ、あの人に毎日ダモイダモイって耳元で言われてたら…」と言った。
折田の言葉通り、その後も・・山本は「昨日、現場に政府の高官が来てたんです。これは間違いなくダモイが近いってことですよ」と言い続けた。だが、地獄を見て来た野島は、山本の言う夢のような話を簡単に信じる気にはならなかった。
そんなある日、彼らの運命を変える出来事が起こる。 1953年3月、ソ連の首相(独裁者)スターリンが死去。国家体制がにわかに大きく変化し始めたのだ!
それから3か月後。ついに戦犯として収容されていた長期抑留者が日本に送還されることが決定した。ところが、なぜか帰国が許された者は全体のおよそ半数。山本をはじめ、句会のメンバーの大半は、ソ連の収容所に残された。
それでも山本は希望を捨てず、残ったメンバーを励まし続けた。だが・・・この時、山本の身体には、すでに異変が起きていた。
当初、中耳炎かと思われた病状はどんどん悪化。そして検査の結果、末期の咽頭癌だと判明。すでに手遅れだった。山本は、気丈に振るまっていたが・・・一人になると家族の写真を見ながら涙を流していた。
このままでは、大切な家族に何も伝えられないまま山本は死んでしまう。句会のメンバーは山本に遺書を書いてもらおうと決意した。
そして、「万一の時のため、ご家族に伝えたいことがあれば、書いて下さい。」と一冊のノートを渡した。山本は長い間何も答えようとはしなかった。だが・・翌朝、彼が仲間たちに返したノートには、知力を振り絞り、家族に向けた切々たる思いが、15ページにも渡って記されていた。
遺書を書いてから、わずか2週間後、山本は45歳という若さでこの世を去った。句会のメンバーたちは、『山本の思いを必ず日本に届けよう』、そう決意した!
だが、その死から、わずか1ケ月後。突然行われた所内の抜き打ち検査により遺書は発見され、消却処分されてしまった!!
処分されてしまった遺書が一体なぜ、日本のモジミさんの元に届けられたのか?時は、山本が遺書を書く前まで遡る。
収容所内では、頻繁に抜き打ち検査が行われ、許可されたもの以外のメモや手紙などは全て没収され、処分される。安全な隠し場所など、この収容所内のどこにもなかった。 その時、野島がみんなで分担して全て記憶しようと提案したのだ!そして、自分もそれに参加したいと申し出たのだ。
それぞれが山本さんの4つに分かれた15ページにも渡る遺書を書き写した。自分が担当した部分を一言一句、全て暗記するために。
だが、それは危険な賭けだった。もし、遺書の写しが発見されたが最後、その持ち主はスパイ行為を働いたとして、一生帰国できなくなる恐れがあったのだ!しかし、彼らはさらに、それぞれが信頼できる人間に秘密を明かし、作戦への協力を頼んだ。全ては、絶対に遺書を、日本に届けなければならないという信念だった。
帰国できるとしても、それが何年先になるか、何十年先になるかは誰も分からない。ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても、その日は訪れなかった。もし見つかれば、一生帰国できないかもしれない。
そして半年が過ぎ、1年が過ぎた。それは、まさに、命がけの闘いだった。すでに、シベリアに連行されて10年あまり。その頃、日本では急速に戦後復興が進み、『もはや戦後ではない』が流行語となっていた。だが、1500キロ離れただけの北の大地で、未だ戦い続けている男たちがいた。
そして、山本幡男さんの死から2年、ついにその時はやってきた! 1956年10月、日ソ共同宣言が調印され、戦犯として収容されていた日本人抑留者全員の釈放と帰国が急きょ決定!
その年のクリスマスイブ。最後のシベリア抑留者を乗せた帰還船が、日本に向けて出港したのだ。終戦から、実に11年が経っていた。
●知覧平和記念館についての報道番組
大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの犠牲によって今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、特攻隊員達が二度と帰ることのない出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうことを後世の人々の胸に刻むよう、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設したとあります。
http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1022938-d1545999-Reviews-Chiran_Peace_Museum_for_Kamikaze_Pilots-Minamikyushu_Kagoshima_Prefecture_Kyushu.html
●アンビリバボー シベリアの「収容所からきた遺書」の報道番組
現在、リゾート地として多くの観光客で賑わう、ロシア・ハバロフスク。だが、かつてこのあたり一帯には『ラーゲリ』と呼ばれる強制収容所が立ち並んでいた。
冬場は雪が吹きつけ、気温はマイナス30度にも及ぶ極寒の地で・・・1日10時間を超える重労働。しかも・・朝夕の食事は、わずかなお粥と粗末な黒パンが一切れ支給されるだけ。そんな地獄のような生活を、およそ65万人もの日本人が強いられたと言われている。
終戦から4年後。ソ連政府は、『捕虜全員の帰国を完了した』と公式に発表したのだが・・現実はそうではなかった。ハバロフスクの収容所『第21分所』には・・まだ多くの日本人が残されていた。彼らは『ソ連に対するスパイ行為を働いた反乱分子』とみなされ『20年以上の強制労働』という、言われなき罪を着せられた者たちだった。
『ソ連に忠誠を誓えば、帰国できる』そんな根も葉もないウワサも流れ、日本人同士の密告、裏切りも日常茶飯事。彼らの脳裏には『絶望』の二文字以外、何もなかった。
野島信介も、そんな地獄に送られた一人だった。野島はハバロフスクに移送された直後、知り合いの折田から手製の本を渡された。著者は山本北瞑子。
収容所内では、日本語のメモ書きを持っているだけで重大なスパイ行為とみなされ、『営倉』と呼ばれる独房に監禁されてしまう。『営倉』に入れられ、命を落とす者少なくなかった。
そんな環境の中で、手製の本を発行することなど、自殺行為に思われた。野島は、恐怖心から本を読むことができなかった。
そして・・その夜、野島は山本に声をかけられた。山本北瞑子とは、あの山本幡男のペンネームだったのだ。山本は、野島を俳句の句会に誘った。野島はなぜそんな危険なことをしているのかと山本に訪ねた。山本はの答えは「みんなでダモイ(帰国)した時、日本語を忘れてたらかっこ悪いでしょ」というものだった。
数日後、野島は句会の様子を覗き見していた。それは、初めて見る光景だった。山本を中心に、仲良く笑い合う面々。当然、見つかったら、ただでは済まない・・。
山本は、なぜ危険を冒してまで、句会を開くのか?野島は、隠し持っていた山本の本を、読んでみることにした。
その本には『故郷への想い』が、切々と綴られていた。終わりの見えない、過酷な収容所生活の中で、野島は空を見上げることなどなかった。しかし、山本の本を読んではじめて空を見上げる気持ちになった。
山本の本を渡してくれた折田は、希望を持つことが大切だと野島に言った。それでも希望を持てない野島に折田は「まあ、そのうちわかりますよ、あの人に毎日ダモイダモイって耳元で言われてたら…」と言った。
折田の言葉通り、その後も・・山本は「昨日、現場に政府の高官が来てたんです。これは間違いなくダモイが近いってことですよ」と言い続けた。だが、地獄を見て来た野島は、山本の言う夢のような話を簡単に信じる気にはならなかった。
そんなある日、彼らの運命を変える出来事が起こる。 1953年3月、ソ連の首相(独裁者)スターリンが死去。国家体制がにわかに大きく変化し始めたのだ!
それから3か月後。ついに戦犯として収容されていた長期抑留者が日本に送還されることが決定した。ところが、なぜか帰国が許された者は全体のおよそ半数。山本をはじめ、句会のメンバーの大半は、ソ連の収容所に残された。
それでも山本は希望を捨てず、残ったメンバーを励まし続けた。だが・・・この時、山本の身体には、すでに異変が起きていた。
当初、中耳炎かと思われた病状はどんどん悪化。そして検査の結果、末期の咽頭癌だと判明。すでに手遅れだった。山本は、気丈に振るまっていたが・・・一人になると家族の写真を見ながら涙を流していた。
このままでは、大切な家族に何も伝えられないまま山本は死んでしまう。句会のメンバーは山本に遺書を書いてもらおうと決意した。
そして、「万一の時のため、ご家族に伝えたいことがあれば、書いて下さい。」と一冊のノートを渡した。山本は長い間何も答えようとはしなかった。だが・・翌朝、彼が仲間たちに返したノートには、知力を振り絞り、家族に向けた切々たる思いが、15ページにも渡って記されていた。
遺書を書いてから、わずか2週間後、山本は45歳という若さでこの世を去った。句会のメンバーたちは、『山本の思いを必ず日本に届けよう』、そう決意した!
だが、その死から、わずか1ケ月後。突然行われた所内の抜き打ち検査により遺書は発見され、消却処分されてしまった!!
処分されてしまった遺書が一体なぜ、日本のモジミさんの元に届けられたのか?時は、山本が遺書を書く前まで遡る。
収容所内では、頻繁に抜き打ち検査が行われ、許可されたもの以外のメモや手紙などは全て没収され、処分される。安全な隠し場所など、この収容所内のどこにもなかった。 その時、野島がみんなで分担して全て記憶しようと提案したのだ!そして、自分もそれに参加したいと申し出たのだ。
それぞれが山本さんの4つに分かれた15ページにも渡る遺書を書き写した。自分が担当した部分を一言一句、全て暗記するために。
だが、それは危険な賭けだった。もし、遺書の写しが発見されたが最後、その持ち主はスパイ行為を働いたとして、一生帰国できなくなる恐れがあったのだ!しかし、彼らはさらに、それぞれが信頼できる人間に秘密を明かし、作戦への協力を頼んだ。全ては、絶対に遺書を、日本に届けなければならないという信念だった。
帰国できるとしても、それが何年先になるか、何十年先になるかは誰も分からない。ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても、その日は訪れなかった。もし見つかれば、一生帰国できないかもしれない。
そして半年が過ぎ、1年が過ぎた。それは、まさに、命がけの闘いだった。すでに、シベリアに連行されて10年あまり。その頃、日本では急速に戦後復興が進み、『もはや戦後ではない』が流行語となっていた。だが、1500キロ離れただけの北の大地で、未だ戦い続けている男たちがいた。
そして、山本幡男さんの死から2年、ついにその時はやってきた! 1956年10月、日ソ共同宣言が調印され、戦犯として収容されていた日本人抑留者全員の釈放と帰国が急きょ決定!
その年のクリスマスイブ。最後のシベリア抑留者を乗せた帰還船が、日本に向けて出港したのだ。終戦から、実に11年が経っていた。
2013年08月15日
千葉県の歴史と戦争
戦前の徴兵忌避の実態について、ほとんど知られていません。神田文人さん(横浜市立大学 名誉教授)の『昭和・平成現代史年表』(小学館)は、年表のベストセラーにもなっており、徴兵忌避の研究にも目を向けた資料ともなっています。
この文献は、戦前の全国と、千葉県での徴兵忌避の実態を細かい数字を挙げて報告しており、その中で神田さんは、全国的にも、千葉県内をとっても、海に面し、漁港のある地域に徴兵忌避者が特に多いという事実をあげ、「これは徴兵を遁れた者が 海上を船で脱出したことを示している証拠と思える」という興味深い指摘をしています。神田さんは、この徴兵忌避問題に強い関心を抱き、今後の中心的研究テーマとして本格的に取り組もうとしていた方ですが、残念ながらガンで急逝されました。このテーマを引き継いで、調査、研究をされる若い研究者の方が出てくることを強く期待します。
文献は、2004年3月に出た『千葉県史研究』第12号に掲載された 「徴兵忌避と千葉県」 という論文で、脱走兵援助に関する文献 の中の「(4)戦前の兵役拒否・徴兵忌避などの文献」にPDFファイルとして掲載がありました。
この文献は、戦前の全国と、千葉県での徴兵忌避の実態を細かい数字を挙げて報告しており、その中で神田さんは、全国的にも、千葉県内をとっても、海に面し、漁港のある地域に徴兵忌避者が特に多いという事実をあげ、「これは徴兵を遁れた者が 海上を船で脱出したことを示している証拠と思える」という興味深い指摘をしています。神田さんは、この徴兵忌避問題に強い関心を抱き、今後の中心的研究テーマとして本格的に取り組もうとしていた方ですが、残念ながらガンで急逝されました。このテーマを引き継いで、調査、研究をされる若い研究者の方が出てくることを強く期待します。
文献は、2004年3月に出た『千葉県史研究』第12号に掲載された 「徴兵忌避と千葉県」 という論文で、脱走兵援助に関する文献 の中の「(4)戦前の兵役拒否・徴兵忌避などの文献」にPDFファイルとして掲載がありました。
2013年08月14日
戦後、占領下の吉田内閣
加瀬俊一 『「男の生き方」四〇選 上』(城山三郎編 文藝春秋)に、敗戦後、吉田茂は五次にわたって内閣を組閣した新生日本の首相となった人物として紹介がある。終戦記念日を前に、すこし触れてみたい。
1906年(明治39年)7月、東京帝大政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格する。合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。広田は、戦後、極東裁判においてただ一人の文官出身首相として処刑された。
吉田茂は大久保利通の姻戚ということもあるのだろうか、強靱な保守の思想があり、開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討していた。書生として吉田邸に潜入した東輝次によって、1945年(昭和20年)2月には、敗戦必至の形勢を説いた吉田の内奏文が憲兵に押収され、投獄。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。憲法改正、農地改革を実施。昭和26年9月サンフランシスコ講和会議に首席全権委員として出席し、講和条約・日米安保条約を締結。
昭和22年(1947年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。その際に社会党の西尾末広は吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。GHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂だけである。内閣総理大臣在任期間は2616日。
吉田茂は、戦後に伊勢神宮を参拝した最初の首相であり、純真に皇室を崇敬し、引退後には神宮皇學館を再興して現にその総長になっている。終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。
保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊嫌いであった。
不世出の外交官といわれたタレイランの金言パ・トロ・ド・ゼール(ムキになるな)を好んで引用する。つまり、宰相たるものは些事に超然として、常に余裕綽々でなくてはならぬ、と戒めるのである。第一級の政治家は、愛国の信念と不屈の勇気を持っている。一国の宰相に限らず、リーダーは大事件や難問に対しては、余裕を持って対しなければ判断を誤る。切羽詰った場面であればあるほど、ユーモアや、人を食ったようなふてぶてしさが必要だと考えていた。ましてや、危急存亡のときに、現場で必死に戦っている人たちを、ねぎらいこそすれ、怒鳴り散らしたり、滅茶苦茶な指示を出して混乱させるなら、最低の指揮官といわざるをえない。
真骨頂は、憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、“Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。しかも、終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。
実は、吉田茂の貴族的趣味を裏返すと、意外にも庶民的気質がひそんでいる。落語が好きである。
テレビは捕物帖を見る。ターザン映画なら決して飽きない。庶民的な一面もある人だった。
1906年(明治39年)7月、東京帝大政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格する。合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。広田は、戦後、極東裁判においてただ一人の文官出身首相として処刑された。
吉田茂は大久保利通の姻戚ということもあるのだろうか、強靱な保守の思想があり、開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討していた。書生として吉田邸に潜入した東輝次によって、1945年(昭和20年)2月には、敗戦必至の形勢を説いた吉田の内奏文が憲兵に押収され、投獄。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。憲法改正、農地改革を実施。昭和26年9月サンフランシスコ講和会議に首席全権委員として出席し、講和条約・日米安保条約を締結。
昭和22年(1947年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。その際に社会党の西尾末広は吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。GHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂だけである。内閣総理大臣在任期間は2616日。
吉田茂は、戦後に伊勢神宮を参拝した最初の首相であり、純真に皇室を崇敬し、引退後には神宮皇學館を再興して現にその総長になっている。終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。
保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊嫌いであった。
不世出の外交官といわれたタレイランの金言パ・トロ・ド・ゼール(ムキになるな)を好んで引用する。つまり、宰相たるものは些事に超然として、常に余裕綽々でなくてはならぬ、と戒めるのである。第一級の政治家は、愛国の信念と不屈の勇気を持っている。一国の宰相に限らず、リーダーは大事件や難問に対しては、余裕を持って対しなければ判断を誤る。切羽詰った場面であればあるほど、ユーモアや、人を食ったようなふてぶてしさが必要だと考えていた。ましてや、危急存亡のときに、現場で必死に戦っている人たちを、ねぎらいこそすれ、怒鳴り散らしたり、滅茶苦茶な指示を出して混乱させるなら、最低の指揮官といわざるをえない。
真骨頂は、憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、“Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。しかも、終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。
実は、吉田茂の貴族的趣味を裏返すと、意外にも庶民的気質がひそんでいる。落語が好きである。
テレビは捕物帖を見る。ターザン映画なら決して飽きない。庶民的な一面もある人だった。
2013年08月13日
Wikipedia からみる千葉県の政治風土
終戦記念日が近い。千葉も大空襲で壊滅的な被害を受け、そこから戦後復興を果たしていったという歴史があるが、この際に戦後の千葉県政史を振り返ってみた。
終戦から6年後、1951年に柴田等千葉県知事に、元は厚生官僚だった友納武人招かれて副知事に就任した。このことから、千葉県の様々な政治の裏表のドラマが起きていた。その次に知事となった加納久朗県政においても副知事として留任したが、1963年に加納久朗知事(1955年日本住宅公団初代総裁に就任。 1958年、東京湾の埋め立て開発を提唱し、自民党や財界の推挙により、農漁民の生活を守ろうとする柴田等前知事を破り、千葉県知事となるが在任110日で急逝。)の急死に伴い後任を決める知事選に出馬し当選、以降1975年まで3選を果たした。
友納知事には、東京湾を大規模に埋め立てて京葉工業地帯の礎を築き、当時は農業県だった千葉県民の大きな雇用や東京ディズニーランドを含む今日に至る千葉県の発展を築くなど、「開発大明神」の異名をとり「千葉県中興の祖」という評価が根強い。その一方で、東京湾埋め立てをめぐる三井不動産社長・江戸英雄との繋がりを始めとした土建業との癒着や川鉄公害訴訟などの環境破壊が起き住民からの反発も招くなど、房総半島の破壊をもたらした人物という批判も強い。
他方、千葉ニュータウンの建設は1966年に千葉県が構想を発表し、1969年に都市計画を決定した。1970年に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。成田空港の三里塚変更にも関与。1971年、成田闘争のヤマ場となった土地収用に伴う行政代執行を指揮した(我孫子の井手口県議は1967年頃より、県会に関わり、我孫子はディズニーランド用地の候補にもなって、画策、濡れ手に粟との状況があったとされるため、友納ー川上の知事争奪戦の一件は政治的な影響に尾をひくことに)。
1964年に当時の友納によって副知事に任命された川上紀一が、1974年に川上は自由民主党と結託して友納知事を排斥、自らの知事選出馬を画策する。その際に支援を要請したある都内の不動産業者から5,000万円の献金を受けた際に“当選の暁には弊社の千葉県における事業発展に協力を惜しまない”旨が記されたとされている「念書」を交わした。翌1975年に千葉県知事選挙に無所属で出馬した川上は自由民主党の推薦を受けて初当選を果たした。1978年の新東京国際空港の開港を実現させ、またオリエンタルランドが東京ディズニーランドの建設を巡って親会社の三井不動産と対立した際にはオリエンタルランドの社長である高橋政知を支援して三井側に対して譲歩を迫って、東京ディズニーランドの浦安町(当時)への誘致を実現させた。
こうした成果を追い風として1979年の知事選挙でも再選された。ところが、1981年1月に1974年の5,000万円の献金とともに交わされた「念書」の存在が明らかとなり、スキャンダル化したため、2月16日には知事辞任に追い込まれた(川上五千万円念書事件)。その後に、1983年の第37回衆議院議員総選挙に故郷のある千葉3区からの出馬を表明する。ところが、この選挙区は元々定員5人のうち4人までが自民党議員で残り1つもラスベガス賭博事件で一時逼塞を余儀なくされた前議員浜田幸一が再起をかけて異例の5人目の公認を得たために川上が長年支援を受けてきた自民党の公認を貰う余地はなく、無所属での出馬を余儀なくされた。その結果、最下位当選の中村正三郎に5,000票差にまで迫ったものの7位で落選し、その政治生命は絶たれる
この時、沼田武は副知事を務めていた1981年に、いわゆる「5000万円念書事件」で辞任に追い込まれた川上紀一の後任を選ぶ千葉県知事選挙に自由民主党系無所属として出馬し、以後5期20年務める。任期中には成田国際空港問題への対応、幕張新都心計画の推進などを手掛けた。初当選は総得票の半数近くを集め圧勝したが、県知事選挙の投票率(25.4%)は平成23年に行われた埼玉県知事選挙(投票率24.9%)によって破られるまで全国ワーストワンの記録だった。当時CMで流行していたヱスビー食品の「8分の5チップ」にかけて、当選当初は「8分の1知事」と揶揄された。沼田の治政は、土建屋の友納が戻ってきたと言われた状況だったと言われる。
この長い時代にあとに、女性が声を上げた市民運動から女性知事・堂本暁子が誕生したのは、首都圏でも画期的な事であった。
終戦から6年後、1951年に柴田等千葉県知事に、元は厚生官僚だった友納武人招かれて副知事に就任した。このことから、千葉県の様々な政治の裏表のドラマが起きていた。その次に知事となった加納久朗県政においても副知事として留任したが、1963年に加納久朗知事(1955年日本住宅公団初代総裁に就任。 1958年、東京湾の埋め立て開発を提唱し、自民党や財界の推挙により、農漁民の生活を守ろうとする柴田等前知事を破り、千葉県知事となるが在任110日で急逝。)の急死に伴い後任を決める知事選に出馬し当選、以降1975年まで3選を果たした。
友納知事には、東京湾を大規模に埋め立てて京葉工業地帯の礎を築き、当時は農業県だった千葉県民の大きな雇用や東京ディズニーランドを含む今日に至る千葉県の発展を築くなど、「開発大明神」の異名をとり「千葉県中興の祖」という評価が根強い。その一方で、東京湾埋め立てをめぐる三井不動産社長・江戸英雄との繋がりを始めとした土建業との癒着や川鉄公害訴訟などの環境破壊が起き住民からの反発も招くなど、房総半島の破壊をもたらした人物という批判も強い。
他方、千葉ニュータウンの建設は1966年に千葉県が構想を発表し、1969年に都市計画を決定した。1970年に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。成田空港の三里塚変更にも関与。1971年、成田闘争のヤマ場となった土地収用に伴う行政代執行を指揮した(我孫子の井手口県議は1967年頃より、県会に関わり、我孫子はディズニーランド用地の候補にもなって、画策、濡れ手に粟との状況があったとされるため、友納ー川上の知事争奪戦の一件は政治的な影響に尾をひくことに)。
1964年に当時の友納によって副知事に任命された川上紀一が、1974年に川上は自由民主党と結託して友納知事を排斥、自らの知事選出馬を画策する。その際に支援を要請したある都内の不動産業者から5,000万円の献金を受けた際に“当選の暁には弊社の千葉県における事業発展に協力を惜しまない”旨が記されたとされている「念書」を交わした。翌1975年に千葉県知事選挙に無所属で出馬した川上は自由民主党の推薦を受けて初当選を果たした。1978年の新東京国際空港の開港を実現させ、またオリエンタルランドが東京ディズニーランドの建設を巡って親会社の三井不動産と対立した際にはオリエンタルランドの社長である高橋政知を支援して三井側に対して譲歩を迫って、東京ディズニーランドの浦安町(当時)への誘致を実現させた。
こうした成果を追い風として1979年の知事選挙でも再選された。ところが、1981年1月に1974年の5,000万円の献金とともに交わされた「念書」の存在が明らかとなり、スキャンダル化したため、2月16日には知事辞任に追い込まれた(川上五千万円念書事件)。その後に、1983年の第37回衆議院議員総選挙に故郷のある千葉3区からの出馬を表明する。ところが、この選挙区は元々定員5人のうち4人までが自民党議員で残り1つもラスベガス賭博事件で一時逼塞を余儀なくされた前議員浜田幸一が再起をかけて異例の5人目の公認を得たために川上が長年支援を受けてきた自民党の公認を貰う余地はなく、無所属での出馬を余儀なくされた。その結果、最下位当選の中村正三郎に5,000票差にまで迫ったものの7位で落選し、その政治生命は絶たれる
この時、沼田武は副知事を務めていた1981年に、いわゆる「5000万円念書事件」で辞任に追い込まれた川上紀一の後任を選ぶ千葉県知事選挙に自由民主党系無所属として出馬し、以後5期20年務める。任期中には成田国際空港問題への対応、幕張新都心計画の推進などを手掛けた。初当選は総得票の半数近くを集め圧勝したが、県知事選挙の投票率(25.4%)は平成23年に行われた埼玉県知事選挙(投票率24.9%)によって破られるまで全国ワーストワンの記録だった。当時CMで流行していたヱスビー食品の「8分の5チップ」にかけて、当選当初は「8分の1知事」と揶揄された。沼田の治政は、土建屋の友納が戻ってきたと言われた状況だったと言われる。
この長い時代にあとに、女性が声を上げた市民運動から女性知事・堂本暁子が誕生したのは、首都圏でも画期的な事であった。
2013年08月12日
世界中が一緒に、「Sushi]食いねぇ
日本列島は千年に一度の暑さに見舞われたとも言われているこのところ、多くの企業もお盆休みに入ったところでしょう。暑いから、お昼のメニューが思いつかないというような時、あちこちに目にする回転すしに行ってみるのも、良いのではないでしょうか。
ところで、この回転すしを思いついたのは大阪のお寿司屋さんでした。
そのころ、街のお寿司屋さんで大切なことは「うまい」「早い」「安い」の立ち食い寿司。
でも、これは当たり前、それに加えて、「おもしろさ」が大事だと考えた。『常識を疑うことから始めよう』“ひすいこたろう・石井しおり”(サンクチュアリ出版 ) に、ビール工場を見学しに行ったときのこと、ビール瓶が大量にコンベアで運ばれていくのを見て、「そうだ、コンベアで寿司を回してみよう」とひらめいた。職人を囲み、そこに寿司を回して、お客様に自由に取ってもらう。コンベアで回ってくる寿司を見たら絶対に「おもしろい」ので、絶対に人々に「ウケる!」と確信したそうです。
こうして1958年、大阪府布施市(現:東大阪市)の近鉄布施駅北口に、世界最初の回転寿司店である、「元禄寿司」を開いた。そして1962年12月6日、「コンベヤ旋廻食事台」は「コンベヤ附調理食台」として、白石義明名義で実用新案登録(登録第579776号)される。1970年、大阪万博では話題沸騰、1978年までコンベアの特許の関係で回転寿司店は「元禄寿司」チェーン化はしなかったし、それ以降は特許が切れ、全国に様々な回転寿司店が全国に広がったというわけでした。
「寿司が回ったらおもしろい」という、たったひとつのアイデアが、いまや世界20ヶ国以上で楽しまれています。ユーモアや楽しさが加わると、そのアイデアを受け入れやすくなる。新たなアイデアが大成功するかどうかは、ひらめきや努力が大事だが、それを「正当化」されて、受け入れられると一般化して、広まるということになる。驚きの回転ずしが、今や日常的な光景、世界の中へ日本が進出し、「Sushi」として浸透していっています。思わず笑ってしまったり、驚いたりする、「おもしろい発想」だとなると、成功へつながるのだそう、外貨を稼ぎまくる日本製テレビや自動車によってJAPAN AS No1 と言われるようになりながら、エコノミックアニマルと揶揄され、バッシングされた頃からすれば、今やヘルシーで楽しい和食文化、おしゃれなカルチャーに対して、日本への目線は称賛に変わってきていると感じます。
ところで、この回転すしを思いついたのは大阪のお寿司屋さんでした。
そのころ、街のお寿司屋さんで大切なことは「うまい」「早い」「安い」の立ち食い寿司。
でも、これは当たり前、それに加えて、「おもしろさ」が大事だと考えた。『常識を疑うことから始めよう』“ひすいこたろう・石井しおり”(サンクチュアリ出版 ) に、ビール工場を見学しに行ったときのこと、ビール瓶が大量にコンベアで運ばれていくのを見て、「そうだ、コンベアで寿司を回してみよう」とひらめいた。職人を囲み、そこに寿司を回して、お客様に自由に取ってもらう。コンベアで回ってくる寿司を見たら絶対に「おもしろい」ので、絶対に人々に「ウケる!」と確信したそうです。
こうして1958年、大阪府布施市(現:東大阪市)の近鉄布施駅北口に、世界最初の回転寿司店である、「元禄寿司」を開いた。そして1962年12月6日、「コンベヤ旋廻食事台」は「コンベヤ附調理食台」として、白石義明名義で実用新案登録(登録第579776号)される。1970年、大阪万博では話題沸騰、1978年までコンベアの特許の関係で回転寿司店は「元禄寿司」チェーン化はしなかったし、それ以降は特許が切れ、全国に様々な回転寿司店が全国に広がったというわけでした。
「寿司が回ったらおもしろい」という、たったひとつのアイデアが、いまや世界20ヶ国以上で楽しまれています。ユーモアや楽しさが加わると、そのアイデアを受け入れやすくなる。新たなアイデアが大成功するかどうかは、ひらめきや努力が大事だが、それを「正当化」されて、受け入れられると一般化して、広まるということになる。驚きの回転ずしが、今や日常的な光景、世界の中へ日本が進出し、「Sushi」として浸透していっています。思わず笑ってしまったり、驚いたりする、「おもしろい発想」だとなると、成功へつながるのだそう、外貨を稼ぎまくる日本製テレビや自動車によってJAPAN AS No1 と言われるようになりながら、エコノミックアニマルと揶揄され、バッシングされた頃からすれば、今やヘルシーで楽しい和食文化、おしゃれなカルチャーに対して、日本への目線は称賛に変わってきていると感じます。
2013年08月11日
『宇宙兄弟』
久々に、プラネタリウムで星をみて、星座の物語にロマンチックな思いを馳せ、宇宙と言う大きな広がりを見上げていた。筑波大学に来ていた留学とその家族(坊やは5歳)を我孫子に案内した。熱中症対策が必要、そこでクーラが効く水の館の見学とプラネタリウムにいったが、何とか座れたものの夏休みの親子連れで満席だった。「今年の暮に過去最大の彗星が来ます。この前の金環日食と異なりポーランドでも見えると思います。心配なのは近日点が0.0125 AUなので蒸発して無くならないか言う事です。上手くいけば満月より明るい可能性があります。」だそう。
さて、『宇宙兄弟』(小山宙哉/講談社)が、ちょっとした話題になっている。アサヒビールの新商品「アサヒ ふんわり」のCMで、あのローラが寝転がりながら読む漫画のタイトル がそれだ。
ローラの面白いCMもさることながら、それ以上に強烈な印象に残るのが、『宇宙兄弟』作中からピックアップされた「迷ったときはね、どっちが正しいかなんて考えちゃダメ。どっちが楽しいかで決めなさい。」というセリフ。第2弾CMでは、「悩むならなってから悩みなさい。」という新たなセリフも登場したが、ローラも感動するほどのメッセージ性だ。
そんなセリフを発した人物、それは『宇宙兄弟』でも主要な登場人物として挙げられる「シャロンさん」こと金子・シャロン。この人物は、主人公である南波兄弟と幼いころから天体観測所で交流しており、彼らに宇宙や楽器などに関するさまざまな知識を授け、大きな影響を与えた。そして、彼女の発した言葉の数々は、南波兄弟をはじめ、数々の登場人物の心に深く刻まれている。『宇宙兄弟』には数々の名言が存在するが、そのなかでもシャロンさんの名言は群を抜いて輝いているといってもいいし、多くの元気をもらえる言葉といってもいいだろう。
CMでも使われた「迷ったときはね、どっちが正しいかなんて考えちゃダメ。どっちが楽しいかで決めなさい。」というもの。正確には「迷った時はね“どっちが正しいか”なんて考えちゃダメよ 日が暮れちゃうわ頭で考えなきゃいいのよ 答えはもっと下 あなたのことならあなたの胸が知ってるもんよ “どっちが楽しいか”で決めなさい」で、若かりしころのシャロンさんが、幼い六太に対して放った言葉である。これを六太は、第三次試験で、自分の班のうち2人を最終試験に進ませないといけない、その決定方法を悩んでいたときに思い出す。現実でも、人生において選択に迷うことは多い。そんなときに、ふとこの言葉を思い出してほしい。ローラのように、心が軽くなることは間違いないだろう。
また、シャロンさんはこんな言葉も残している。宇宙飛行士になることへの明確な動機がないということを悩む六太からの相談を受けて言うセリフで「最初の動機なんてみんな大差ないわよ 好奇心だったり憧れだったり 入り口は夢見る少年少女よ 悩むなら なってから悩みなさい」。多くの若者に捧げたい名セリフではないだろうか。また、自分が進むべき道を迷っている人にも送りたい、そんな言葉でもある。
若者に向けて捧げたいセリフといえば、こんなものもある。若き日のシャロンさんが放った言葉で「私が夢だった天文学者になれたのはきっと若き日の“ドキドキ”を信じたからです もしあなたが何かの瞬間抑えきれない心臓の高鳴りをきいたら 信じてみてください」。そしてまた、こんな言葉もいいだろう。「上手くなくてもいいし間違ってもいいのよムッタ まずは音を出して 音を出さなきゃ音楽は始まらないのよ」。この2つの言葉は若者たちに、大きな勇気を与えることだろう。なにより、これを読んでいるあなた自身の胸にも刻んでおけば、ここぞというときに、自分の指針を見つけやすくなるはずである。
シャロンさん最大最高の名言といえば「It’s a piece of cake」だろう。幼い日の六太が、子供ながらにも自暴自棄になり、いつか外人の友だちができたらよく使いそうだからという理由で「僕はいざという時、役にもたたないダメ人間です……って英語で何て言うの?」とシャロンさんに訊ねたところ、答えた言葉である。直訳すれば「ケーキ一切れ分」だが、本当の意味は「楽勝だよ」になる。拗ねた子どもに教える大嘘のなかでは、最高ランクに位置づけてもいい言葉ではないだろうか。この「It’s a piece of cake」は作中でもたびたび使われる重要なワードである。後に六太も、シャロンさんへ送る手紙のなかに、元気づける言葉として記している。もしあなたに、悩んでいる友人がいたのなら、この言葉をプレゼントしてあげよう。そのときは、深い意味など教えずに、友人自身に調べさせるのだ。その意味を理解したとき、「It’s a piece of cake」は最高の輝きを放ち、深く心に刻まれることになるはずだ。
いかがだったろうか、今や「地球家族」という標語を超えて『宇宙兄弟』だ。 さあ、これらの地上の息苦しい状況はまだまだ続いているが、暑い下界、現実世界でガンバロウ。
さて、『宇宙兄弟』(小山宙哉/講談社)が、ちょっとした話題になっている。アサヒビールの新商品「アサヒ ふんわり」のCMで、あのローラが寝転がりながら読む漫画のタイトル がそれだ。
ローラの面白いCMもさることながら、それ以上に強烈な印象に残るのが、『宇宙兄弟』作中からピックアップされた「迷ったときはね、どっちが正しいかなんて考えちゃダメ。どっちが楽しいかで決めなさい。」というセリフ。第2弾CMでは、「悩むならなってから悩みなさい。」という新たなセリフも登場したが、ローラも感動するほどのメッセージ性だ。
そんなセリフを発した人物、それは『宇宙兄弟』でも主要な登場人物として挙げられる「シャロンさん」こと金子・シャロン。この人物は、主人公である南波兄弟と幼いころから天体観測所で交流しており、彼らに宇宙や楽器などに関するさまざまな知識を授け、大きな影響を与えた。そして、彼女の発した言葉の数々は、南波兄弟をはじめ、数々の登場人物の心に深く刻まれている。『宇宙兄弟』には数々の名言が存在するが、そのなかでもシャロンさんの名言は群を抜いて輝いているといってもいいし、多くの元気をもらえる言葉といってもいいだろう。
CMでも使われた「迷ったときはね、どっちが正しいかなんて考えちゃダメ。どっちが楽しいかで決めなさい。」というもの。正確には「迷った時はね“どっちが正しいか”なんて考えちゃダメよ 日が暮れちゃうわ頭で考えなきゃいいのよ 答えはもっと下 あなたのことならあなたの胸が知ってるもんよ “どっちが楽しいか”で決めなさい」で、若かりしころのシャロンさんが、幼い六太に対して放った言葉である。これを六太は、第三次試験で、自分の班のうち2人を最終試験に進ませないといけない、その決定方法を悩んでいたときに思い出す。現実でも、人生において選択に迷うことは多い。そんなときに、ふとこの言葉を思い出してほしい。ローラのように、心が軽くなることは間違いないだろう。
また、シャロンさんはこんな言葉も残している。宇宙飛行士になることへの明確な動機がないということを悩む六太からの相談を受けて言うセリフで「最初の動機なんてみんな大差ないわよ 好奇心だったり憧れだったり 入り口は夢見る少年少女よ 悩むなら なってから悩みなさい」。多くの若者に捧げたい名セリフではないだろうか。また、自分が進むべき道を迷っている人にも送りたい、そんな言葉でもある。
若者に向けて捧げたいセリフといえば、こんなものもある。若き日のシャロンさんが放った言葉で「私が夢だった天文学者になれたのはきっと若き日の“ドキドキ”を信じたからです もしあなたが何かの瞬間抑えきれない心臓の高鳴りをきいたら 信じてみてください」。そしてまた、こんな言葉もいいだろう。「上手くなくてもいいし間違ってもいいのよムッタ まずは音を出して 音を出さなきゃ音楽は始まらないのよ」。この2つの言葉は若者たちに、大きな勇気を与えることだろう。なにより、これを読んでいるあなた自身の胸にも刻んでおけば、ここぞというときに、自分の指針を見つけやすくなるはずである。
シャロンさん最大最高の名言といえば「It’s a piece of cake」だろう。幼い日の六太が、子供ながらにも自暴自棄になり、いつか外人の友だちができたらよく使いそうだからという理由で「僕はいざという時、役にもたたないダメ人間です……って英語で何て言うの?」とシャロンさんに訊ねたところ、答えた言葉である。直訳すれば「ケーキ一切れ分」だが、本当の意味は「楽勝だよ」になる。拗ねた子どもに教える大嘘のなかでは、最高ランクに位置づけてもいい言葉ではないだろうか。この「It’s a piece of cake」は作中でもたびたび使われる重要なワードである。後に六太も、シャロンさんへ送る手紙のなかに、元気づける言葉として記している。もしあなたに、悩んでいる友人がいたのなら、この言葉をプレゼントしてあげよう。そのときは、深い意味など教えずに、友人自身に調べさせるのだ。その意味を理解したとき、「It’s a piece of cake」は最高の輝きを放ち、深く心に刻まれることになるはずだ。
いかがだったろうか、今や「地球家族」という標語を超えて『宇宙兄弟』だ。 さあ、これらの地上の息苦しい状況はまだまだ続いているが、暑い下界、現実世界でガンバロウ。
2013年08月10日
熱中症対策、男子の日傘
我孫子の夜も寝苦しく暑くなった。いつもは、夏でも肌がけを手の届くところにおいているが、もうその必要は全くない。千年に一度の猛暑とも言われだしている。
熱中症は他人ごとではなくなっている。ご近所、同年齢、学生も熱中症になっている、つまり、老いも若きも予防を心がける必要がある。服装は、Tシャツ一枚より、むしろ重ね着がいいとのこと、インナーを着て、袖やウエストのゆったりしたアウターを身に着けるほうが、ノースリーブでいるより汗でべたつくことも避けられ、空気の流れができて涼しいのだそう。
お風呂は、シャワーだけより半身浴が良い。40度以下で10分程度にとどめる。入浴の前後には水分を取っておく。汗をかいた身体は乾いた身体、電解質不足になっている。水分だけを補給すると電解質濃度が下がり、体内が必要な電解質濃度を維持しようとさらに水分を外に出そうとします。コップ一杯の水と塩熱飴一粒を取って、汗をかいた身体にすばやく電解質補給をする。最近は、都内の会議にミネラルウオターの脇に塩飴がおいてあったとか・・・。
コーヒーや紅茶などカフェインが多く含まれる飲み物、ビールやワインなどのアルコール類には利尿作用があり、体内の水分が排泄されてしまいがち、これらを飲むときは、いつもより多めにカフェインやアルコールを含まない水分補給をするようにしましょう。
ミネラルやビタミンは、内臓や筋肉など体全体の機能を正常に保つ働きがあり、これらが不足するとめまいや立ちくらみなどの症状につながることもあります。そこで、水分補給に加えて、ミネラルやビタミンもしっかりとることが大切です。ナトリウムやカリウム、マグネシウムといったミネラルや、水溶性ビタミンで、代謝に不可欠なビタミンB群とCをとるように心がけるといいそうです。
夏にもっとも強くなる紫外線には、A波、B波、C波があり、A波はシワやタルミの原因を作ります。そして、地球上に届く紫外線の90%以上がA波です。 B波はサンバーン(皮膚を赤くする)を起こします。C波はオゾン層によって遮られており地球上には 到達しないといわれています。A波とB波の両方を防ぐことがお肌にとって大切なのです。 このごろ紫外線は、白内障も誘発すると分かり、男性もうかうかしていられない。
連日の猛暑、いよいよのこの夏の変化は、メンズの「日傘」だとか…
http://mainichi.jp/select/news/20130807k0000e020159000c.html
3〜9月、特に、太陽が真上に来るお昼時がもっとも紫外線が強い。この猛暑が、これまではミセスの専売特許であった日傘に、若い男女の目もファッションとして捉えられるようになってきているこの際に、ミニパラソルとして、お洒落に携帯してみてください。UVの日焼け止めを塗り、オゾンホールの広がる21世紀の対処しましょう、効果は絶大です!紫外線による皮膚へのダメージは、毎日、顔をそる男性のほうが、より影響を受けやすいのです。うちの夫もこの陽射しの強さに並行して、日傘をさして、日陰を持ち歩ける涼しさを実感「これはいい!」と持ち歩いています。
熱中症は他人ごとではなくなっている。ご近所、同年齢、学生も熱中症になっている、つまり、老いも若きも予防を心がける必要がある。服装は、Tシャツ一枚より、むしろ重ね着がいいとのこと、インナーを着て、袖やウエストのゆったりしたアウターを身に着けるほうが、ノースリーブでいるより汗でべたつくことも避けられ、空気の流れができて涼しいのだそう。
お風呂は、シャワーだけより半身浴が良い。40度以下で10分程度にとどめる。入浴の前後には水分を取っておく。汗をかいた身体は乾いた身体、電解質不足になっている。水分だけを補給すると電解質濃度が下がり、体内が必要な電解質濃度を維持しようとさらに水分を外に出そうとします。コップ一杯の水と塩熱飴一粒を取って、汗をかいた身体にすばやく電解質補給をする。最近は、都内の会議にミネラルウオターの脇に塩飴がおいてあったとか・・・。
コーヒーや紅茶などカフェインが多く含まれる飲み物、ビールやワインなどのアルコール類には利尿作用があり、体内の水分が排泄されてしまいがち、これらを飲むときは、いつもより多めにカフェインやアルコールを含まない水分補給をするようにしましょう。
ミネラルやビタミンは、内臓や筋肉など体全体の機能を正常に保つ働きがあり、これらが不足するとめまいや立ちくらみなどの症状につながることもあります。そこで、水分補給に加えて、ミネラルやビタミンもしっかりとることが大切です。ナトリウムやカリウム、マグネシウムといったミネラルや、水溶性ビタミンで、代謝に不可欠なビタミンB群とCをとるように心がけるといいそうです。
夏にもっとも強くなる紫外線には、A波、B波、C波があり、A波はシワやタルミの原因を作ります。そして、地球上に届く紫外線の90%以上がA波です。 B波はサンバーン(皮膚を赤くする)を起こします。C波はオゾン層によって遮られており地球上には 到達しないといわれています。A波とB波の両方を防ぐことがお肌にとって大切なのです。 このごろ紫外線は、白内障も誘発すると分かり、男性もうかうかしていられない。
連日の猛暑、いよいよのこの夏の変化は、メンズの「日傘」だとか…
http://mainichi.jp/select/news/20130807k0000e020159000c.html
3〜9月、特に、太陽が真上に来るお昼時がもっとも紫外線が強い。この猛暑が、これまではミセスの専売特許であった日傘に、若い男女の目もファッションとして捉えられるようになってきているこの際に、ミニパラソルとして、お洒落に携帯してみてください。UVの日焼け止めを塗り、オゾンホールの広がる21世紀の対処しましょう、効果は絶大です!紫外線による皮膚へのダメージは、毎日、顔をそる男性のほうが、より影響を受けやすいのです。うちの夫もこの陽射しの強さに並行して、日傘をさして、日陰を持ち歩ける涼しさを実感「これはいい!」と持ち歩いています。
2013年08月09日
長崎68回目「平和宣言」
9日、長崎市松山町の平和公園で行なわれた「平和祈念式典」での田上富久長崎市長の「平和宣言」全文を紹介します。
「平和宣言」
68年前の今日、この街の上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていた街は一瞬で廃虚となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち7万4000人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病や癌発病への不安、そして、深い心の傷を抱え続けています。
このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し、地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。
日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80カ国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
2009年4月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで「核兵器が存在する限り私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
しかし、世界には今も1万7000発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に、核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。
核兵器のない世界の実現を国のリーダーだけに任せるのではなく、市民社会を構成する私たちひとりひとりにもできることがあります。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意が込められています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さないという平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。
若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウオー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか、考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。
地域の市民としてできることもあります。わが国では自治体の90%近くが非核宣言をしています。非核宣言は、核兵器の犠牲者になることを拒み、平和を求める市民の決意を示すものです。宣言をした自治体でつくる日本非核宣言自治体協議会は、今月、設立30周年を迎えました。皆さんが宣言を行動に移そうとする時は、協議会も、被爆地も、仲間として力をお貸しします。長崎では、今年11月、「第5回核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」を開催します。市民の力で、核兵器廃絶を被爆地から世界へ発信します。
東京電力福島第一原子力発電所の事故は未だ収束せず、放射能の被害は拡大しています。多くの方々が平穏な日々を突然奪われた上、将来の見通しが立たない暮らしを強いられています。長崎は、福島の一日も早い復興を願い、応援していきます。
先月、核兵器廃絶を訴え、被爆者援護の充実に力を尽くしてきた山口仙二さんが亡くなられました。被爆者はいよいよ少なくなり、平均年齢は78歳を超えました。高齢化する被爆者の援護の充実をあらためて求めます。
原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市と協力して、核兵器のない世界の実現に努力し続けることをここに宣言します。
2013年(平成25年)8月9日
長崎市長 田上富久
「平和宣言」
68年前の今日、この街の上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていた街は一瞬で廃虚となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち7万4000人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病や癌発病への不安、そして、深い心の傷を抱え続けています。
このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し、地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。
日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80カ国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
2009年4月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで「核兵器が存在する限り私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
しかし、世界には今も1万7000発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に、核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。
核兵器のない世界の実現を国のリーダーだけに任せるのではなく、市民社会を構成する私たちひとりひとりにもできることがあります。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意が込められています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さないという平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。
若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウオー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか、考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。
地域の市民としてできることもあります。わが国では自治体の90%近くが非核宣言をしています。非核宣言は、核兵器の犠牲者になることを拒み、平和を求める市民の決意を示すものです。宣言をした自治体でつくる日本非核宣言自治体協議会は、今月、設立30周年を迎えました。皆さんが宣言を行動に移そうとする時は、協議会も、被爆地も、仲間として力をお貸しします。長崎では、今年11月、「第5回核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」を開催します。市民の力で、核兵器廃絶を被爆地から世界へ発信します。
東京電力福島第一原子力発電所の事故は未だ収束せず、放射能の被害は拡大しています。多くの方々が平穏な日々を突然奪われた上、将来の見通しが立たない暮らしを強いられています。長崎は、福島の一日も早い復興を願い、応援していきます。
先月、核兵器廃絶を訴え、被爆者援護の充実に力を尽くしてきた山口仙二さんが亡くなられました。被爆者はいよいよ少なくなり、平均年齢は78歳を超えました。高齢化する被爆者の援護の充実をあらためて求めます。
原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市と協力して、核兵器のない世界の実現に努力し続けることをここに宣言します。
2013年(平成25年)8月9日
長崎市長 田上富久
2013年08月08日
残暑お見舞い、盛夏がつづく
梅雨が戻ったりしたかと思った直後に、暦では立秋(8/7)、しかし連日30度超えする様子は、本州も亜熱帯化したのではないかとさえ思えますが、皆さまはどうお感じになっておられるでしょうか。
本来、地面は土で覆われた、水蒸気で空気を冷やし気温上昇を抑えてくれますが、都市化の進んだエリアはアスファルトに覆われているため、打ち水を水をしても蒸気があっという間に乾いてしまい、ずっと暑いままということになります。さらに、エアコンの室外機などにより、人工的に熱気が出ているので、都市化が進むと、ヒートアイランド現象が起きやすくなります。だから熱が逃げにくいん都市構造ができあがると熱中症が出やすくなるのです。また、アスファルトの地面は昼間の照り返しの光やビルから発せられる熱が放射し合って、熱が空に逃げていきにくいのだそうです。信号待ちなどでも、上からの光だけでなく、下からのまぶしさ、じりじりくる暑さを感じるアレです。ということは、冬はすごしやすい構造になるのかもしれませんが・・・・。高いビルが多いとそれに遮られて風通しが悪いか、ビル風の突風が吹きまくる。風を失った東京の「過ごしにくさ」を避けることが出来る我孫子は朝夕の涼しい風に救われます。
都市化が進んだ最たる地域と言えば、特に東京23区をはじめとする首都圏とは我孫子は気温が3度も違います。東京の昼間の熱い空気は、以前は海風に冷やされ、気温もある程度抑えられていたが、今では高層ビルに遮られ、湾岸からの海風が吹き込まなくなってきているのだと言われます。かつて、江戸の下町では、縁台だして夕涼みとか、しかし、現在の夏の過ごしにくさには、風も関係しているとみる説があります。「1ヵ月平均の風速を見ると、1960年代〜80年代まで東京の8月は3〜4m程度だったのが、1992年〜93年ぐらいから2m台になっています」(森氏)、つまり高度経済成長期が始まった1960年代から、バブルがはじけた1990年代頃までにかけ、新宿の中心部のみならず湾岸部にも次々と高層ビルが建設されていって夕涼みの風情は消えました。
実は、2007年に東京管区気象台の露場が大手町から皇居外苑北の丸公園に移された、その背景には大手町付近の市街地は高層の建物が密集して立ち並び、気象観測に必要な環境が確保できないという理由があったといいます。北の丸公園は森林公園として使用する目的から、建物などの整備が制限されていて、気象観測に必要な環境を将来長く維持できる適切な場所であると判断されたのである。まさにこの例をとっても、都市化によって風が吹かなくなったことを表しているようです。
せめても、郊外型田園都市の我孫子は、自慢じゃないですが、林立するビル群がない! 過ごしやすい夏の避暑地の雰囲気をまだしも残してくれているということに感謝です(自分も、土地開発したエリアに住んでいるのだから、あまり大きい顔が出来ないのです)・・・。ムクドリも我孫子の駅周辺が大好きなのも、そう思えば、少しはフン害への憤慨もおさまります。山階鳥類研究所が渋谷から移転してきたのも、なるほど成るほどですね。
というわけで(?)、これからの残暑の長きを思って、いよいよ塩あめを買いに行った方がいいかなと考えながら、今日のブログを書いています。
*露場 ・・・・・ 降水量・気温・湿度の観測においては、自然風を妨げない柵などで仕切って測器への不慮の障害を避け、芝を植生して日射の照り返し、雨粒の跳ね返りを少なくすることが一般的です。
この観測場所を露場といいます。露場の面積は広い方が望ましく、気象庁の観測所においては原則として一辺の長さが20m以上でおおよそ600平方メートル以上の面積を確保します。
本来、地面は土で覆われた、水蒸気で空気を冷やし気温上昇を抑えてくれますが、都市化の進んだエリアはアスファルトに覆われているため、打ち水を水をしても蒸気があっという間に乾いてしまい、ずっと暑いままということになります。さらに、エアコンの室外機などにより、人工的に熱気が出ているので、都市化が進むと、ヒートアイランド現象が起きやすくなります。だから熱が逃げにくいん都市構造ができあがると熱中症が出やすくなるのです。また、アスファルトの地面は昼間の照り返しの光やビルから発せられる熱が放射し合って、熱が空に逃げていきにくいのだそうです。信号待ちなどでも、上からの光だけでなく、下からのまぶしさ、じりじりくる暑さを感じるアレです。ということは、冬はすごしやすい構造になるのかもしれませんが・・・・。高いビルが多いとそれに遮られて風通しが悪いか、ビル風の突風が吹きまくる。風を失った東京の「過ごしにくさ」を避けることが出来る我孫子は朝夕の涼しい風に救われます。
都市化が進んだ最たる地域と言えば、特に東京23区をはじめとする首都圏とは我孫子は気温が3度も違います。東京の昼間の熱い空気は、以前は海風に冷やされ、気温もある程度抑えられていたが、今では高層ビルに遮られ、湾岸からの海風が吹き込まなくなってきているのだと言われます。かつて、江戸の下町では、縁台だして夕涼みとか、しかし、現在の夏の過ごしにくさには、風も関係しているとみる説があります。「1ヵ月平均の風速を見ると、1960年代〜80年代まで東京の8月は3〜4m程度だったのが、1992年〜93年ぐらいから2m台になっています」(森氏)、つまり高度経済成長期が始まった1960年代から、バブルがはじけた1990年代頃までにかけ、新宿の中心部のみならず湾岸部にも次々と高層ビルが建設されていって夕涼みの風情は消えました。
実は、2007年に東京管区気象台の露場が大手町から皇居外苑北の丸公園に移された、その背景には大手町付近の市街地は高層の建物が密集して立ち並び、気象観測に必要な環境が確保できないという理由があったといいます。北の丸公園は森林公園として使用する目的から、建物などの整備が制限されていて、気象観測に必要な環境を将来長く維持できる適切な場所であると判断されたのである。まさにこの例をとっても、都市化によって風が吹かなくなったことを表しているようです。
せめても、郊外型田園都市の我孫子は、自慢じゃないですが、林立するビル群がない! 過ごしやすい夏の避暑地の雰囲気をまだしも残してくれているということに感謝です(自分も、土地開発したエリアに住んでいるのだから、あまり大きい顔が出来ないのです)・・・。ムクドリも我孫子の駅周辺が大好きなのも、そう思えば、少しはフン害への憤慨もおさまります。山階鳥類研究所が渋谷から移転してきたのも、なるほど成るほどですね。
というわけで(?)、これからの残暑の長きを思って、いよいよ塩あめを買いに行った方がいいかなと考えながら、今日のブログを書いています。
*露場 ・・・・・ 降水量・気温・湿度の観測においては、自然風を妨げない柵などで仕切って測器への不慮の障害を避け、芝を植生して日射の照り返し、雨粒の跳ね返りを少なくすることが一般的です。
この観測場所を露場といいます。露場の面積は広い方が望ましく、気象庁の観測所においては原則として一辺の長さが20m以上でおおよそ600平方メートル以上の面積を確保します。
2013年08月07日
Soraを駆けるとき
夏休みの旅をされる時期、『大空では毎日、奇蹟が起きている』(オープンブックス)より、次のお話をご紹介します。
羽田発、沖縄行きの機内でポーンと軽快な音がして、シートベルト着用のサインが消えた。
窓側に座った妻・友里は、待ちかねたようにバッグの中から写真を二枚、取り出した。
「光穂、真ちゃん。ほら、もう雲の上まで来たよ。飛行機に乗ってるんだよ。 見える?」
目に涙をいっぱいためた妻が、小さな声で二人に語りかける。
妻は3月11日以来、全く笑わなくなってしまった。
家はもちろん、しっかり者の母、穏やかな祖母、そして二人のかわいい子どもたち。夫婦はあの日から抜け殻のようになってしまった。たくさんのものがぽっかり抜け落ちた状態に耐え切れず、「みんなのところに行こう」と言い出したのはどちらだったか、覚えていない。
みんなのところへ行く前に、せめて子どもたちとの約束だけは果たそうと、私たちは沖縄行きを決めた…。
夫婦は海沿いの町から車で30分ほど走った商店街の一角でパン屋をしていた。二人でもやっていけるほどの小さな店で、焼きたてのメロンパンと、妻が改良に改良を重ねたラスクが人気だった。
朝は早い仕事だけれど、仕込みさえ終われば遅くない時間に帰ることができるから、子どもたちと触れ合う時間もちゃん取ることができる。ある日、売れ残ったパンを手に玄関のドアを開けると、バタバタと子どもたちが走ってきた。5歳の娘と3歳の息子がいつものように、「パパ、ママ、あのね…」と口々に話し始める。
光穂と一緒にリビングへ行った。
「ね…、パパ。スカイタイムって知ってる?」
「ええ?なんだろうースカイだから…空に関係してる?」
「あのね、飲み物なんだよ。美味しいジュース!」
「へえ、新しいジュースが出たのか。幼稚園で飲んだの?」
ううん、と光穂は首を振った。
「スーパーとかには売ってないの。飛行機に乗ったら飲めるんだって、リオちゃんが」
リオちゃんというのは、光穂の一番仲のいい友だちだ。
「へえ。じゃあ、リオちゃん、飛行機に乗ったんだ?」
「うん、沖縄に行ったんだって。そのときに、飛行機の中で飲んだスカイタイムっていうジュースが、とっても美味しかったって言ってた。ね、パパ。光穂も飲んでみたい。飛行機、乗ろうよ」
「ジュースを飲むために飛行機ねぇ」
私が苦笑したとき、妻が真を連れて戻って来た。
「あら、何の話?」
「よし、じゃあ、今年の夏休みは沖縄に行くか!」と大声で叫んだ。
毎年、お盆には店を休んで家族で旅行をしている。
「本当?やったぁ」と光穂が飛び上がって喜んだ。
そして、キョトンとしている弟に、「真、飛行機乗れるんだよ!スカイタイム、飲めるよ!」と言ってぎゅっと抱きしめた。
「え、飛行機?乗れるの?やったぁ!ぼくはね、コーラ、コーラがいいの!」
息子は特別な日にしか飲ませてもらえないコーラが大好きだ。
「お客さま、お飲み物はいかがいたしましょうか」
そっと声をかけられ、私は妻の頭ごしに見ていた雲海から機内へ目を戻した。
窓に顔を貼り付けるようにしていた妻がポツリと「スカイタイム」と呟いた。
「スカイタイムと…コーラを」きっと真ならそう頼んだだろうから。
益田という名札をつけたCAさんが、妻のテーブルにスカイタイムを、テーブルにコーラの入ったコップを置いた。そして、スカイタイムの入ったコップを更に二つテーブルに置いた。
不思議に思い、顔を上げると、彼女は
「お子さまの分もと思いまして…よろしければ、どうぞ」と微笑んだ。
妻が手にしている二枚の写真が見えていたらしい。
初めて飲むスカイタイムは爽やかな、柑橘系の味だった。
「スカイタイム、美味しかったです」
「ありがとうございます」
感じのいい笑顔に、
「娘が、幼稚園の友だちからスカイタイムというジュースがすごく美味しいって聞いてきましてね。飲みたがっていたものですから、じゃあ、夏休みに飲みに行こうねって約束してたんたんです」と言った。
過去形で話している自分に気付いて、口をつぐんだ。
そうだ、子どもたちの話はもう、過去形でしか話せないのだ。
「二人とも、去年の震災で」
ぽつんと呟くと、「それはざそかし…」と彼女は言葉を飲み込んだ。
そして、通路にそっとしゃがむと、
「お子さんのお名前、なんとおっしゃるんですか?」
「幼稚園っておっしゃっていましたけれど、光穂ちゃんが…?」
「ええ、そうです、5歳の年中さんで」
「じゃあ、真ちゃんは」
「3歳でした」
気がつけば、私は益田さんに子どもたちの話をたくさんしていた。
思い出すと辛くて、眠れなくなるほど苦しくなる子どもたちのことを、現在形で子どもたちのことを話すと、まだ二人が生きているようにも思えてくる。
そう言うと、益田さんは優しく微笑んだ。
「だって、光穂ちゃんも真ちゃんも、お父さんとお母さんの中で生きておられるから」
私はハッと彼女の顔を見つめた。
いまのいままで、そんなふうに考えたことがなかった。
そんなふうに考えられる余裕がなかった。
益田さんは、手にしていた小さな紙袋を私に手渡した。
「これ、光穂ちゃんと真ちゃんに。どうぞ」
中を覗くと、クリアファイルやシールやボールペン、そして、かわいらしくラッピングされたキャンディの袋が二人分、入っていた。 子供用のノベルティらしい。
「光穂ちゃんと真ちゃんのご搭乗記念です」と益田さんが微笑む。
「光穂。真。飛行機に乗れて、本当によかったね」
妻は二人にそうささやくと、写真をそっと紙袋の中へ入れた。
まるで光穂と真がグッズを嬉しそうに抱きしめているようだった。
一番最後に飛行機を降り、見送りをしてくれている益田さんと手を握りながら、
「ありがとうございました。子どもたちとの約束を果たすことができました」
「よかったですね」と頷いた益田さんは、「次回のご搭乗をお待ちしております」
この旅行が済んだら二人のもとへ行こうと考えていたが、それでも躊躇しながら
「ええ、是非」と頷いた。
この1年間、生きる気力を失い、自分の殻に閉じこもりがちだった妻が、涙をこぼしながら、それでも笑顔で益田さんとしっかり目を合わせていた。 沖縄は快晴だった。
ホテルにチェックイン、「これで光穂と真との約束、果たせたね」と妻に笑いかけた。
子どもたちとの約束を果たし、旅行が終わったら、後を追うつもりだった。
久しぶりの旅行で疲労の見える妻は、それでも家を発ったときよりもはるかに生気に満ちた顔で、首をゆっくり横に振った。 「私たちがいなくなったら、誰があの子たちの話をするの?」と妻は自分の胸に手を当てた。
「ここに生きているあの子たちを、消すわけにはいかないもの」
“スカイタイム”より抜粋引用
羽田発、沖縄行きの機内でポーンと軽快な音がして、シートベルト着用のサインが消えた。
窓側に座った妻・友里は、待ちかねたようにバッグの中から写真を二枚、取り出した。
「光穂、真ちゃん。ほら、もう雲の上まで来たよ。飛行機に乗ってるんだよ。 見える?」
目に涙をいっぱいためた妻が、小さな声で二人に語りかける。
妻は3月11日以来、全く笑わなくなってしまった。
家はもちろん、しっかり者の母、穏やかな祖母、そして二人のかわいい子どもたち。夫婦はあの日から抜け殻のようになってしまった。たくさんのものがぽっかり抜け落ちた状態に耐え切れず、「みんなのところに行こう」と言い出したのはどちらだったか、覚えていない。
みんなのところへ行く前に、せめて子どもたちとの約束だけは果たそうと、私たちは沖縄行きを決めた…。
夫婦は海沿いの町から車で30分ほど走った商店街の一角でパン屋をしていた。二人でもやっていけるほどの小さな店で、焼きたてのメロンパンと、妻が改良に改良を重ねたラスクが人気だった。
朝は早い仕事だけれど、仕込みさえ終われば遅くない時間に帰ることができるから、子どもたちと触れ合う時間もちゃん取ることができる。ある日、売れ残ったパンを手に玄関のドアを開けると、バタバタと子どもたちが走ってきた。5歳の娘と3歳の息子がいつものように、「パパ、ママ、あのね…」と口々に話し始める。
光穂と一緒にリビングへ行った。
「ね…、パパ。スカイタイムって知ってる?」
「ええ?なんだろうースカイだから…空に関係してる?」
「あのね、飲み物なんだよ。美味しいジュース!」
「へえ、新しいジュースが出たのか。幼稚園で飲んだの?」
ううん、と光穂は首を振った。
「スーパーとかには売ってないの。飛行機に乗ったら飲めるんだって、リオちゃんが」
リオちゃんというのは、光穂の一番仲のいい友だちだ。
「へえ。じゃあ、リオちゃん、飛行機に乗ったんだ?」
「うん、沖縄に行ったんだって。そのときに、飛行機の中で飲んだスカイタイムっていうジュースが、とっても美味しかったって言ってた。ね、パパ。光穂も飲んでみたい。飛行機、乗ろうよ」
「ジュースを飲むために飛行機ねぇ」
私が苦笑したとき、妻が真を連れて戻って来た。
「あら、何の話?」
「よし、じゃあ、今年の夏休みは沖縄に行くか!」と大声で叫んだ。
毎年、お盆には店を休んで家族で旅行をしている。
「本当?やったぁ」と光穂が飛び上がって喜んだ。
そして、キョトンとしている弟に、「真、飛行機乗れるんだよ!スカイタイム、飲めるよ!」と言ってぎゅっと抱きしめた。
「え、飛行機?乗れるの?やったぁ!ぼくはね、コーラ、コーラがいいの!」
息子は特別な日にしか飲ませてもらえないコーラが大好きだ。
「お客さま、お飲み物はいかがいたしましょうか」
そっと声をかけられ、私は妻の頭ごしに見ていた雲海から機内へ目を戻した。
窓に顔を貼り付けるようにしていた妻がポツリと「スカイタイム」と呟いた。
「スカイタイムと…コーラを」きっと真ならそう頼んだだろうから。
益田という名札をつけたCAさんが、妻のテーブルにスカイタイムを、テーブルにコーラの入ったコップを置いた。そして、スカイタイムの入ったコップを更に二つテーブルに置いた。
不思議に思い、顔を上げると、彼女は
「お子さまの分もと思いまして…よろしければ、どうぞ」と微笑んだ。
妻が手にしている二枚の写真が見えていたらしい。
初めて飲むスカイタイムは爽やかな、柑橘系の味だった。
「スカイタイム、美味しかったです」
「ありがとうございます」
感じのいい笑顔に、
「娘が、幼稚園の友だちからスカイタイムというジュースがすごく美味しいって聞いてきましてね。飲みたがっていたものですから、じゃあ、夏休みに飲みに行こうねって約束してたんたんです」と言った。
過去形で話している自分に気付いて、口をつぐんだ。
そうだ、子どもたちの話はもう、過去形でしか話せないのだ。
「二人とも、去年の震災で」
ぽつんと呟くと、「それはざそかし…」と彼女は言葉を飲み込んだ。
そして、通路にそっとしゃがむと、
「お子さんのお名前、なんとおっしゃるんですか?」
「幼稚園っておっしゃっていましたけれど、光穂ちゃんが…?」
「ええ、そうです、5歳の年中さんで」
「じゃあ、真ちゃんは」
「3歳でした」
気がつけば、私は益田さんに子どもたちの話をたくさんしていた。
思い出すと辛くて、眠れなくなるほど苦しくなる子どもたちのことを、現在形で子どもたちのことを話すと、まだ二人が生きているようにも思えてくる。
そう言うと、益田さんは優しく微笑んだ。
「だって、光穂ちゃんも真ちゃんも、お父さんとお母さんの中で生きておられるから」
私はハッと彼女の顔を見つめた。
いまのいままで、そんなふうに考えたことがなかった。
そんなふうに考えられる余裕がなかった。
益田さんは、手にしていた小さな紙袋を私に手渡した。
「これ、光穂ちゃんと真ちゃんに。どうぞ」
中を覗くと、クリアファイルやシールやボールペン、そして、かわいらしくラッピングされたキャンディの袋が二人分、入っていた。 子供用のノベルティらしい。
「光穂ちゃんと真ちゃんのご搭乗記念です」と益田さんが微笑む。
「光穂。真。飛行機に乗れて、本当によかったね」
妻は二人にそうささやくと、写真をそっと紙袋の中へ入れた。
まるで光穂と真がグッズを嬉しそうに抱きしめているようだった。
一番最後に飛行機を降り、見送りをしてくれている益田さんと手を握りながら、
「ありがとうございました。子どもたちとの約束を果たすことができました」
「よかったですね」と頷いた益田さんは、「次回のご搭乗をお待ちしております」
この旅行が済んだら二人のもとへ行こうと考えていたが、それでも躊躇しながら
「ええ、是非」と頷いた。
この1年間、生きる気力を失い、自分の殻に閉じこもりがちだった妻が、涙をこぼしながら、それでも笑顔で益田さんとしっかり目を合わせていた。 沖縄は快晴だった。
ホテルにチェックイン、「これで光穂と真との約束、果たせたね」と妻に笑いかけた。
子どもたちとの約束を果たし、旅行が終わったら、後を追うつもりだった。
久しぶりの旅行で疲労の見える妻は、それでも家を発ったときよりもはるかに生気に満ちた顔で、首をゆっくり横に振った。 「私たちがいなくなったら、誰があの子たちの話をするの?」と妻は自分の胸に手を当てた。
「ここに生きているあの子たちを、消すわけにはいかないもの」
“スカイタイム”より抜粋引用
2013年08月06日
沖縄で米軍へり墜落事故の余波
広島被曝68年目の日の前日に、沖縄では米軍ヘリの墜落事故が起きて騒然している。
沖縄県市長会(会長・翁長雄志那覇市長)と県町村会(会長・城間俊安南風原町長)は6日、那覇市の自治会館で垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの追加配備について記者会見を開き、オスプレイの撤去と追加配備中止を訴えた。7月31日に抗議決議をしている町村会の代表は7日から東京を訪れ、首相官邸、防衛省、外務省、駐日米国大使館などを訪れ、オスプレイ全機の撤収を求める。
県町村会は決議で追加配備について「県民の思いを踏みにじる暴挙だ。両政府の対応は言語道断で到底容認できるものではない」と批判している。城間会長は「県民として行動を起こすべきだと抗議決議した」と説明した。決議案には5日宜野座村で発生した米空軍嘉手納基地所属HH60救難ヘリの墜落事故に対する抗議内容も盛り込む。東京での抗議要請行動には嘉手納、金武、中城の町村長も同行する。
一方、県市長会は14日の定例総会でオスプレイの配備撤回と追加配備中止を求める決議をする予定。翁長会長は米軍ヘリ事故の影響でオスプレイの追加配備が先送りされたことについて「当たり前だ。延期ではなく追加配備の断念とすでに配備した機体も撤回してもらいたい」と訴えた。
【琉球新報電子版】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
沖縄県宜野座村(ぎのざそん)の米海兵隊キャンプ・ハンセン内の訓練場で米軍嘉手納基地所属の救難ヘリコプターHH60が墜落、炎上した事故で、米軍嘉手納基地は6日、事故現場付近で遺体の一部を発見したと発表した。行方が分からなくなっていた乗組員の1人とみられる。また、脱出した3人については命に別条はなく、宜野湾市の米海軍病院で治療を受け、回復しているという。
読売新聞:8月6日(火)13時28分
沖縄県市長会(会長・翁長雄志那覇市長)と県町村会(会長・城間俊安南風原町長)は6日、那覇市の自治会館で垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの追加配備について記者会見を開き、オスプレイの撤去と追加配備中止を訴えた。7月31日に抗議決議をしている町村会の代表は7日から東京を訪れ、首相官邸、防衛省、外務省、駐日米国大使館などを訪れ、オスプレイ全機の撤収を求める。
県町村会は決議で追加配備について「県民の思いを踏みにじる暴挙だ。両政府の対応は言語道断で到底容認できるものではない」と批判している。城間会長は「県民として行動を起こすべきだと抗議決議した」と説明した。決議案には5日宜野座村で発生した米空軍嘉手納基地所属HH60救難ヘリの墜落事故に対する抗議内容も盛り込む。東京での抗議要請行動には嘉手納、金武、中城の町村長も同行する。
一方、県市長会は14日の定例総会でオスプレイの配備撤回と追加配備中止を求める決議をする予定。翁長会長は米軍ヘリ事故の影響でオスプレイの追加配備が先送りされたことについて「当たり前だ。延期ではなく追加配備の断念とすでに配備した機体も撤回してもらいたい」と訴えた。
【琉球新報電子版】
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沖縄県宜野座村(ぎのざそん)の米海兵隊キャンプ・ハンセン内の訓練場で米軍嘉手納基地所属の救難ヘリコプターHH60が墜落、炎上した事故で、米軍嘉手納基地は6日、事故現場付近で遺体の一部を発見したと発表した。行方が分からなくなっていた乗組員の1人とみられる。また、脱出した3人については命に別条はなく、宜野湾市の米海軍病院で治療を受け、回復しているという。
読売新聞:8月6日(火)13時28分
2013年08月05日
民藝の調査 −その2−
柳宗悦は民藝運動の一環として、各地にある工芸の調査をしています。さらに進めて木喰仏の調査にも手を染めるようになっていきました。それは、我孫子を離れたあたりからでしたが、柳宗悦・兼子夫妻の活動については、なるべく多くの調査をしておこうと考えています。(非常に、興味深い歴史探索でもありますので、ご一緒にお奨めしたいです)ひいては、我孫子のまちのことも良くわかってくるのではと考えます。
さて、日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られているそうです。円空の仏像は荒削りで野性的な作風だが、木喰上人が全国を遊行して、残した仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色と言われます。
木喰上人の作が確認できる最初期の仏像は1778年(安永7年)、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものだといわれます。全国行脚の間、佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を歴遍しました。 仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できるわけです。
仏像づくりを61歳からはじめて91歳まで木像仏つくりを続けられたという事です。驚くべき、生涯現役のお手本のような人で、亡くなられたのは93歳になってで、初めに木食戒を受けた常陸のお寺だと言われています。先月は益子の参考館で、木喰仏像をみました。今回、長野での調査は、松本、小布施をまわりましたが、直接民藝と繋がるものは見つけられませんでしたが、別なる収穫があり、良かったと思いました。
さて、日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られているそうです。円空の仏像は荒削りで野性的な作風だが、木喰上人が全国を遊行して、残した仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色と言われます。
木喰上人の作が確認できる最初期の仏像は1778年(安永7年)、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものだといわれます。全国行脚の間、佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を歴遍しました。 仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できるわけです。
仏像づくりを61歳からはじめて91歳まで木像仏つくりを続けられたという事です。驚くべき、生涯現役のお手本のような人で、亡くなられたのは93歳になってで、初めに木食戒を受けた常陸のお寺だと言われています。先月は益子の参考館で、木喰仏像をみました。今回、長野での調査は、松本、小布施をまわりましたが、直接民藝と繋がるものは見つけられませんでしたが、別なる収穫があり、良かったと思いました。
2013年08月04日
信じられる意思
薬でもないのに薬のような働きをする「偽薬」をプラセボと訳すこともあります。もともとはラテン語だそうです。そのプラセボ効果について語られるときにしばしば登場する有名な逸話を知れば、その効果がいかほどか、皆様には察しがつくと思われますのでご紹介したいと思います。
米国心理投影法学会の会長に就任したブルーノ・クロファー教授が、 就任演説(1957年)でカリフォルニア州のロングビーチにある病院で実際にあったことの話を交えてのものでした。
治療を受けていた末期の悪性リンパ腫の患者は、腫瘍が大きいものではオレンジほどで、それが体のいたるところに転移、診察したウエスト医師は「余命は数日」という診断を下しました。当時、その病院では新しく開発された抗ガン剤「クレビオゼン」の臨床試験を行なっていました。この話を聞きつけた患者は、クレビオゼンを注射してほしいと医師に懇願します。しかし、医師はこの患者の願いを断ります。クレビオゼンの臨床試験に参加できるのは“余命3ヶ月以上の人に限る”とされていたからです。
いったんは拒んだものの、患者からのたっての希望ということでウエスト医師は、ある金曜日の午後、クレビオゼンを投与します。そして、その結果はすぐに現れました。 週末をはさんだ翌週の月曜日、患者はベッドを離れて看護師と雑談ができるまでに快復していました。しかも驚くべきことに、腫瘍がまるで溶けてしまったかのように半分くらいの大きさになっていたというのです。さらに、その10日後、ガンの症状はまったく消えてなくなり、患者は自家用飛行機を運転できるまでに快復しました。
ところが、その後、事態は急展開します。 新聞に“クレビオゼンに薬効なし”という記事が出たのです。これを読んだ患者はしだいに元気を失っていき、うつ状態になります。そして、その2か月語にはガンがその勢いをとりもどしてしまうのです。その結果、病状は、患者が最初に病院を訪れたときと同じレベルに逆もどりしてしまいました。医師は患者に「そんな話を信じてはいけない」と諭し、 「これはスーパークレビオゼンで、効き目は2倍になっている」と言って、ただの食塩水を注射しました。すると、ふたたび“奇跡”が起こります。ほどなく腫瘍が消え、ふたたび歩けるまでに快復したのです。また自家用飛行機にも乗れるまでになりました。
ところが、話はここで終わりませんでした。皮肉にも、その2か月後、全米医学会によって行なわれた大規模なクレビオゼンの治療効果の調査を新聞が“効果なし”と再度報じたからです。患者は、その記事を読み、数日後に入院し、2日後に亡くなりました。
医師が、プラスもマイナスの情報も、伝えた結果、14人のうち13人に顕著な改善がみられたという実験があり、医師のことばを患者が信頼することで、著しくプラセボ効果が高まるということが明らかになり、この研究事例から、情報の属人性によって影響ががあるとの事例だと、高田明和(浜松医科大学名誉教授)『うつもボケも寄せつけない 脳と心がホッとする健康学』(すばる舎)に紹介されていました。何を信じるか、誰を信じるか、でこれほどまに体が病みもすれば回復も可能になるということです。
情報の属人性とは、誰が言ったかで、信じる人もいるということを意味します。その結果、 「あの人が言うんじゃ、嘘っぽい」と言われてしまうことも起こります。「あの人が言うんなら、信じる」と言ってもらえるのは、信頼されている人で、言葉だけでなく行動も一致している人であり、裏切らない人、信じられる人、すなわち誠実な人柄が伝わっているからです。「大丈夫」「きっとよくなる」「うまくいく」…と人を励まし、社会を元気付けられるような発信をして、正しい情報なのか取捨選択しながら、年輪のように年を重ねて心の拠り所にもなれる人になりたいものです。それは、いつも子を思う父母の顔につながるのかもしれませんね。その真逆にいるかのような人が政治に携わったりするようなら、許してはいけません!国民、市民の意識をハッキリ伝えるようにネットやメールが便利に活用できるようになった現代は、私たちの責任も増していきます。孫と子と我らの未来の為に考え、そして佳きことへ向けて少しずつでも行動しましょう!!
さて、8月6日、9日は広島・長崎の68回目の原爆記念日です。
我孫子市では、17日に平和記念式典を行ないます。そこには、原爆被災地の平和式典および平和学習活動に派遣(広島平和記念公園における自治体席に7時頃から並んで参列、平和を祈念し慰霊する式典に参加する。毎年、NHKなどの同時中継がされる)の中学生代表が報告、参加者とで非核平和記念碑に花を手向けるなどが行なわれます。我孫子市からも68年前に広島へ派遣された兵隊さん達がいて被爆者となりました。こうした不幸な出来事をけして繰り返さないように、市内の被爆者の方たちが慰霊と平和記念の活動を続けてこられました。これからは、ご高齢になった被爆者に変わって私たち一般市民もこの事を忘れず、語り継いで、世界の平和も訴えなくてはいけないでしょう。
我孫子市平和祈念式典(無料、参加自由)
日時 8月17日(土) 9時半〜10時半
場所 手賀沼公園入り口(アビスタ脇) 平和記念碑前
その他 映画上映(無料)、展示など
米国心理投影法学会の会長に就任したブルーノ・クロファー教授が、 就任演説(1957年)でカリフォルニア州のロングビーチにある病院で実際にあったことの話を交えてのものでした。
治療を受けていた末期の悪性リンパ腫の患者は、腫瘍が大きいものではオレンジほどで、それが体のいたるところに転移、診察したウエスト医師は「余命は数日」という診断を下しました。当時、その病院では新しく開発された抗ガン剤「クレビオゼン」の臨床試験を行なっていました。この話を聞きつけた患者は、クレビオゼンを注射してほしいと医師に懇願します。しかし、医師はこの患者の願いを断ります。クレビオゼンの臨床試験に参加できるのは“余命3ヶ月以上の人に限る”とされていたからです。
いったんは拒んだものの、患者からのたっての希望ということでウエスト医師は、ある金曜日の午後、クレビオゼンを投与します。そして、その結果はすぐに現れました。 週末をはさんだ翌週の月曜日、患者はベッドを離れて看護師と雑談ができるまでに快復していました。しかも驚くべきことに、腫瘍がまるで溶けてしまったかのように半分くらいの大きさになっていたというのです。さらに、その10日後、ガンの症状はまったく消えてなくなり、患者は自家用飛行機を運転できるまでに快復しました。
ところが、その後、事態は急展開します。 新聞に“クレビオゼンに薬効なし”という記事が出たのです。これを読んだ患者はしだいに元気を失っていき、うつ状態になります。そして、その2か月語にはガンがその勢いをとりもどしてしまうのです。その結果、病状は、患者が最初に病院を訪れたときと同じレベルに逆もどりしてしまいました。医師は患者に「そんな話を信じてはいけない」と諭し、 「これはスーパークレビオゼンで、効き目は2倍になっている」と言って、ただの食塩水を注射しました。すると、ふたたび“奇跡”が起こります。ほどなく腫瘍が消え、ふたたび歩けるまでに快復したのです。また自家用飛行機にも乗れるまでになりました。
ところが、話はここで終わりませんでした。皮肉にも、その2か月後、全米医学会によって行なわれた大規模なクレビオゼンの治療効果の調査を新聞が“効果なし”と再度報じたからです。患者は、その記事を読み、数日後に入院し、2日後に亡くなりました。
医師が、プラスもマイナスの情報も、伝えた結果、14人のうち13人に顕著な改善がみられたという実験があり、医師のことばを患者が信頼することで、著しくプラセボ効果が高まるということが明らかになり、この研究事例から、情報の属人性によって影響ががあるとの事例だと、高田明和(浜松医科大学名誉教授)『うつもボケも寄せつけない 脳と心がホッとする健康学』(すばる舎)に紹介されていました。何を信じるか、誰を信じるか、でこれほどまに体が病みもすれば回復も可能になるということです。
情報の属人性とは、誰が言ったかで、信じる人もいるということを意味します。その結果、 「あの人が言うんじゃ、嘘っぽい」と言われてしまうことも起こります。「あの人が言うんなら、信じる」と言ってもらえるのは、信頼されている人で、言葉だけでなく行動も一致している人であり、裏切らない人、信じられる人、すなわち誠実な人柄が伝わっているからです。「大丈夫」「きっとよくなる」「うまくいく」…と人を励まし、社会を元気付けられるような発信をして、正しい情報なのか取捨選択しながら、年輪のように年を重ねて心の拠り所にもなれる人になりたいものです。それは、いつも子を思う父母の顔につながるのかもしれませんね。その真逆にいるかのような人が政治に携わったりするようなら、許してはいけません!国民、市民の意識をハッキリ伝えるようにネットやメールが便利に活用できるようになった現代は、私たちの責任も増していきます。孫と子と我らの未来の為に考え、そして佳きことへ向けて少しずつでも行動しましょう!!
さて、8月6日、9日は広島・長崎の68回目の原爆記念日です。
我孫子市では、17日に平和記念式典を行ないます。そこには、原爆被災地の平和式典および平和学習活動に派遣(広島平和記念公園における自治体席に7時頃から並んで参列、平和を祈念し慰霊する式典に参加する。毎年、NHKなどの同時中継がされる)の中学生代表が報告、参加者とで非核平和記念碑に花を手向けるなどが行なわれます。我孫子市からも68年前に広島へ派遣された兵隊さん達がいて被爆者となりました。こうした不幸な出来事をけして繰り返さないように、市内の被爆者の方たちが慰霊と平和記念の活動を続けてこられました。これからは、ご高齢になった被爆者に変わって私たち一般市民もこの事を忘れず、語り継いで、世界の平和も訴えなくてはいけないでしょう。
我孫子市平和祈念式典(無料、参加自由)
日時 8月17日(土) 9時半〜10時半
場所 手賀沼公園入り口(アビスタ脇) 平和記念碑前
その他 映画上映(無料)、展示など
2013年08月03日
手賀沼花火・・・・カッパ祭り
不動産・住宅情報サイト『HOME'S』を運営する株式会社ネクストは2013年7月23日、『HOME'S』内の情報コンテンツ「暮らしといっしょ」にて「2013年上半期 全国人気の街ランキング」を発表した。 今回のランキングでは、柏(千葉県)、つくば(茨城県)、本厚木(神奈川)、川口(埼玉)等、前回までトップ30圏内だった郊外の街がことごとく圏外となり、東京都以外でトップ30にランクインしたのは、ランキング開始以来過去最低の6駅という都心回帰の傾向が顕著に表れた。
そんな中、前回15位から3位に大躍進したのが大宮(埼玉県)が注目された。三軒茶屋、恵比寿、吉祥寺等、並み居る人気駅を抑え、初のトップ3入りを果たした。乗り入れ路線数が全国第2位の14路線という埼玉県最大のターミナル駅であり、駅ナカや周辺の商業施設も充実している等、高い利便性を誇っている。さらに、2011年8月に駅前に竣工した、総戸数約1,000戸の超高層ツインタワーマンションをはじめ周辺駅を含めた複数の分譲マンションも、街の注目度や人気上昇の一因と言えそうだ。
閑古鳥の鳴く街にならないように、打つ手を考える、シティープロデュースが必要です。
我孫子の夏の風物詩、手賀沼花火大会が復活です。今夕7時から8時半は、我孫子に多くの来訪者による年に一度だけの渋滞の日になります。こういう渋滞も街の活気を感じられるもの、必要ですよね。
寄付金の集まりが早かったとの関係者の声と共に、合計 2,682,979円 (8月13日現在)の寄付金が集まったのも善意の人々が多い我孫子を印象付けるのではないでしょうか。内訳については、下記の報告が市ホームページにあります。
街頭募金額 348,180円
イベント募金額 288,171円
市民の皆様の自主的な募金等の額 1,085,312円
法人募金額 249,915円
市役所設置の募金箱の募金額 452,929円
口座振込み募金額 118,000円
花火大会開催時の募金 140,472円
そして、24日には手賀沼の主役、カッパ(河童)たちが集合するカッパ祭りです。ゆるキャラ/アビカちゃんをデザインしたミニタオルも販売されますので、お祭りの経費の一助にご協力ください。
今回、私は、特にヒルクライムのコーナーをお手伝いしていますので、午後2時ごろから公園坂あたりで見かけたら、お声かけくださいね。何分、優勝、上位者の常連がご近所さんなので、今度こそ目の前でその雄姿を見てみようとボランティアに志願しました!そして、翌日は手賀沼公園の祭りの後の片づけがあります!よかったらお手伝いに来てください!!!
そんな中、前回15位から3位に大躍進したのが大宮(埼玉県)が注目された。三軒茶屋、恵比寿、吉祥寺等、並み居る人気駅を抑え、初のトップ3入りを果たした。乗り入れ路線数が全国第2位の14路線という埼玉県最大のターミナル駅であり、駅ナカや周辺の商業施設も充実している等、高い利便性を誇っている。さらに、2011年8月に駅前に竣工した、総戸数約1,000戸の超高層ツインタワーマンションをはじめ周辺駅を含めた複数の分譲マンションも、街の注目度や人気上昇の一因と言えそうだ。
閑古鳥の鳴く街にならないように、打つ手を考える、シティープロデュースが必要です。
我孫子の夏の風物詩、手賀沼花火大会が復活です。今夕7時から8時半は、我孫子に多くの来訪者による年に一度だけの渋滞の日になります。こういう渋滞も街の活気を感じられるもの、必要ですよね。
寄付金の集まりが早かったとの関係者の声と共に、合計 2,682,979円 (8月13日現在)の寄付金が集まったのも善意の人々が多い我孫子を印象付けるのではないでしょうか。内訳については、下記の報告が市ホームページにあります。
街頭募金額 348,180円
イベント募金額 288,171円
市民の皆様の自主的な募金等の額 1,085,312円
法人募金額 249,915円
市役所設置の募金箱の募金額 452,929円
口座振込み募金額 118,000円
花火大会開催時の募金 140,472円
そして、24日には手賀沼の主役、カッパ(河童)たちが集合するカッパ祭りです。ゆるキャラ/アビカちゃんをデザインしたミニタオルも販売されますので、お祭りの経費の一助にご協力ください。
今回、私は、特にヒルクライムのコーナーをお手伝いしていますので、午後2時ごろから公園坂あたりで見かけたら、お声かけくださいね。何分、優勝、上位者の常連がご近所さんなので、今度こそ目の前でその雄姿を見てみようとボランティアに志願しました!そして、翌日は手賀沼公園の祭りの後の片づけがあります!よかったらお手伝いに来てください!!!
2013年08月02日
「IS JAPAN COOL?」
「IS JAPAN COOL?」とは、日本は涼しいかい?という意味ではなくて、日本はカッコよいとか、素敵ですか?という意味のサイト。ANAが、東日本大震災の約1年後の2012年の2月公開してから、これまでサイトを訪れた外国人は延べ72万人以上。ルース駐日アメリカ大使など政府要人や各国観光関係者も続々とTwitterで紹介するなど、多くの国・人から関心を集めているという盛況ぶりなのだ。知らぬは、当の日本人だけ・・・・
大震災後の放射能被災もあって、日本への渡航者数が大きく落ち込むなか、日本のファンを増やそうと、海外に日本独特のカルチャーやライフスタイルを紹介していくサイト立ち上げたのだった。そして、 同サイトの特徴のひとつが、Facebookの「いいね」の代りに「COOL」ボタン、「NOT SO COOL」ボタンで参加できることだ。サイトを訪れた人は紹介されているコンテンツに対して、「カッコいい」「ステキ」と思ったものに「COOL」、そうでないコンテンツには「NOT SO COOL」ボタンを押して投票することが可能。これにより外国人から見た「日本の魅力」が、加速的に浮き彫りになる。
そのお蔭もあってか、ヨーロッパの中でも特にフランスでは日本熱が高く、そうした日本に関心の高い人々が集まり、4日間で20万人の動員を見込む「JAPAN EXPO2013」が開催(7月4〜7日)された。このイベントには外務省も参加し、様々な日本文化を紹介する展示を行ったので、ヨーロッパの人々が「Cool Japan]を求めて続々とサイト訪問する。
ちなみに「Season1」(2012年2〜7月)の「COOL」数を集計すると、外国人が興味を持つ意外なコンテンツも明らかになった。上から「おもてなし」「ハイテクトイレ」「温泉」「富士山」「次世代型自動販売機」の順となっている。
さらに最近は、新コンテンツ「DREAMS」が加わった。クリエーター集団STUDIO4℃とTOYOTAが手掛けるプロジェクト「PES(Peace Eco Smile)」とANAがコラボし、日本を代表する文化のひとつといえるアニメ、マンガ、ゲームの世界を紹介している。STUDIO4℃協力のもと、キャラクターデザイン、絵コンテ、原画といった制作の舞台裏から、アニメーションが完成するまでの一部始終をサイトのオープニングムービーとして公開。また、アニメ作品の舞台を実際に旅する「聖地巡礼」といった最新のムーブメントなども幅広く紹介されている。
6月に、富士山も正式に世界文化遺産に登録され、日本への観光客が増えそうだ・・・。
「IS JAPAN COOL?」を通して、どんなふうに日本が見られているのか。夏休みを利用して日本に来たら、しかし、今年は日本人でもたまらないくらいに蒸し暑い日本だから、彼らが熱中症にならないようにクールダウンした秋ごろのほうがいいかもしれない。
7月には、キャロライン・ケネディー(故ケネディー大統領の長女)が米国の駐日大使として就任することが決定した。初の米国からの女性大使であり、母・ジャクリーン似なのもあって、注目度はすこぶる高い。欧米からの視線もJAPANカルチャーに向いてきた感じである。
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20130704-00030902-r25
大震災後の放射能被災もあって、日本への渡航者数が大きく落ち込むなか、日本のファンを増やそうと、海外に日本独特のカルチャーやライフスタイルを紹介していくサイト立ち上げたのだった。そして、 同サイトの特徴のひとつが、Facebookの「いいね」の代りに「COOL」ボタン、「NOT SO COOL」ボタンで参加できることだ。サイトを訪れた人は紹介されているコンテンツに対して、「カッコいい」「ステキ」と思ったものに「COOL」、そうでないコンテンツには「NOT SO COOL」ボタンを押して投票することが可能。これにより外国人から見た「日本の魅力」が、加速的に浮き彫りになる。
そのお蔭もあってか、ヨーロッパの中でも特にフランスでは日本熱が高く、そうした日本に関心の高い人々が集まり、4日間で20万人の動員を見込む「JAPAN EXPO2013」が開催(7月4〜7日)された。このイベントには外務省も参加し、様々な日本文化を紹介する展示を行ったので、ヨーロッパの人々が「Cool Japan]を求めて続々とサイト訪問する。
ちなみに「Season1」(2012年2〜7月)の「COOL」数を集計すると、外国人が興味を持つ意外なコンテンツも明らかになった。上から「おもてなし」「ハイテクトイレ」「温泉」「富士山」「次世代型自動販売機」の順となっている。
さらに最近は、新コンテンツ「DREAMS」が加わった。クリエーター集団STUDIO4℃とTOYOTAが手掛けるプロジェクト「PES(Peace Eco Smile)」とANAがコラボし、日本を代表する文化のひとつといえるアニメ、マンガ、ゲームの世界を紹介している。STUDIO4℃協力のもと、キャラクターデザイン、絵コンテ、原画といった制作の舞台裏から、アニメーションが完成するまでの一部始終をサイトのオープニングムービーとして公開。また、アニメ作品の舞台を実際に旅する「聖地巡礼」といった最新のムーブメントなども幅広く紹介されている。
6月に、富士山も正式に世界文化遺産に登録され、日本への観光客が増えそうだ・・・。
「IS JAPAN COOL?」を通して、どんなふうに日本が見られているのか。夏休みを利用して日本に来たら、しかし、今年は日本人でもたまらないくらいに蒸し暑い日本だから、彼らが熱中症にならないようにクールダウンした秋ごろのほうがいいかもしれない。
7月には、キャロライン・ケネディー(故ケネディー大統領の長女)が米国の駐日大使として就任することが決定した。初の米国からの女性大使であり、母・ジャクリーン似なのもあって、注目度はすこぶる高い。欧米からの視線もJAPANカルチャーに向いてきた感じである。
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20130704-00030902-r25
2013年08月01日
かけがえのない存在になること
シャネルのブランドを確立し、ファッションの女王となったココ・シャネルは、「かけがえのない存在になるためには、常に他とは違っていなければならない」と言いいました。
作家・曽野綾子も、「 付和雷同、流行を追いかける姿勢の人に、今まで面白い個性を見たことがないのである。流行を追うのは恥ずかしいことです、と私は幼い時から母に言われた。自分というものがない、か、自分が極めて弱いから、人のまねをして、人と同じ行動をとりたがるのだ、と母は言うのである。 人は自分がしたいことをする時には、はっきりと自分らしい理由を持たねばならない。 人がするから、自分もしたい、というのは、理由にはならない、と母は私に戒めた。」と書いています。
独自性がもてることがその人の魅力であるようにように、これはらは、私たちの街も個性が重要視されるようになるでしょう。 田舎くさい、不便であるとか・・・・。都会に近づけようとするより、現にある良さを維持しようとする力は数倍強いものになります。その良さを維持するために、逆に他からできるだけたくさん吸収してこなければなりません。それが逆に言えば個性になり、面白いと感じてくれる人たちもいるのです。持てるもので、独自の道を往くことです。時にはバカにされ、批判にさらされたりするかもしれない、それを磨き上げて特性にする。 良さに気づくために本を読み、情報収集をして現状を打破し、他とも付き合い連携していく。また、旅をして見知らぬ町へ行ってみて、初めて複合的にセンスを磨くことになる。それは、柳宗悦が民藝運動をつくっていくために辿った道とも似ています。
夏休みを利用して、我孫子に関わる「民藝運動」や『白樺』の調査に歩いてみようと思っています。皆さまも、情報をお教えください。
ninakaizu●gmail.com
作家・曽野綾子も、「 付和雷同、流行を追いかける姿勢の人に、今まで面白い個性を見たことがないのである。流行を追うのは恥ずかしいことです、と私は幼い時から母に言われた。自分というものがない、か、自分が極めて弱いから、人のまねをして、人と同じ行動をとりたがるのだ、と母は言うのである。 人は自分がしたいことをする時には、はっきりと自分らしい理由を持たねばならない。 人がするから、自分もしたい、というのは、理由にはならない、と母は私に戒めた。」と書いています。
独自性がもてることがその人の魅力であるようにように、これはらは、私たちの街も個性が重要視されるようになるでしょう。 田舎くさい、不便であるとか・・・・。都会に近づけようとするより、現にある良さを維持しようとする力は数倍強いものになります。その良さを維持するために、逆に他からできるだけたくさん吸収してこなければなりません。それが逆に言えば個性になり、面白いと感じてくれる人たちもいるのです。持てるもので、独自の道を往くことです。時にはバカにされ、批判にさらされたりするかもしれない、それを磨き上げて特性にする。 良さに気づくために本を読み、情報収集をして現状を打破し、他とも付き合い連携していく。また、旅をして見知らぬ町へ行ってみて、初めて複合的にセンスを磨くことになる。それは、柳宗悦が民藝運動をつくっていくために辿った道とも似ています。
夏休みを利用して、我孫子に関わる「民藝運動」や『白樺』の調査に歩いてみようと思っています。皆さまも、情報をお教えください。
ninakaizu●gmail.com