昨日は、このところの梅雨空がウソのような青空の下、武者小路実篤記念公園に行ってきた。京王線仙川の駅から歩いて10分ほどで、楚人冠記念館、嘉納治五郎別荘記念史跡の風情と似ていた。実篤は、子どものころより水辺の近くに住むことに執着していたのだというのはなるほどと思う。ついで、二駅隣の芦花公園にも寄ってみることにした。
芦花公園駅から徒歩15分、公園一帯は、8万平方メートルの広さがある。徳富蘆花の没後10周年に愛子夫人が東京市(当時)に寄贈し都立蘆花公園となったものだ。芦花公園の北西1万4000平方メートルの一角は恒春園という名で、母屋、二つの離れなど当時の建屋、愛子夫人の居宅、墓などが保存されている。また、蘆花記念館も併設されており、トルストイから蘆花に届いた手紙も展示されていた。
蘆花夫妻は1906年、日露戦争の直後に、パレスチナからロシアへ旅をし、トルストイにヤスナヤポリアナで面会し約1週間滞在した。それ以来トルストイの最晩年の3-4年間、手紙のやり取りがあったようだ。トルストイは1910年に亡くなったのでロシア革命はもちろんみていないが、血の日曜日事件(1905)は見聞しているので革命への想いはあったのだろう。なお、面会したとき「君は農業で生活できないか」とトルストイに言われたことが、翌年に転居して農作業をするきっかけとなったという。1907年2月、39歳のとき武蔵野の片隅に位置する千歳村粕谷(現・世田谷区粕谷)に没するまで暮らした。文章を書くかたわら、農作業を行ったので、草刈鎌や鍬も展示されていた。トルストイに心酔する武者小路実篤や柳宗悦も蘆花の田園生活の場をしばしば訪ねていたという。
蘆花が1911年に増築のため烏山から移築した書院の建前をした1月24日は、大逆事件の死刑執行日(管野のみ翌25日)だった。判決からわずか6日後のことで、じつは兄の蘇峰は、桂太郎首相への嘆願書や明治天皇への公開直訴状を新聞に公開する計画を立てていたが、それも水泡に帰したのだった。
また、大逆事件のあと1913年に大連、青島、朝鮮に旅行したときは、旅順小学校の教師、菱田正基から安重根(日本による支配に抵抗し、当時の韓国統監府の責任者だった伊藤博文を暗殺した)が獄中で書いた「貧而無諛、富而無驕」(ひんにしてへつらうことなく、とんでおごることなし)という書を譲り受け、大事に保管していた。1923年に難波大助が摂政宮(のちの昭和天皇)を暗殺しようとした虎ノ門事件のときも助命嘆願書を東宮太夫に送っている。それらも記念館に展示されていた。