福田師匠がサンフランシスコの道場で柔道を教え始めた同じころ、ニューヨーク(Brooklyn)で路上のならず者と呼ばれていた米国生まれのユダヤ人女性(シングルマザー、10代で結婚して子供をもうけ、間もなく離婚)が、ひょんなことから、鹿子木リョウヘイという柔道家の道場に行き、すっかり柔道の虜になった。もともとはレナ・グリックマンという名だが、その後,結婚してレナ・鹿子木となり、ニックネームにしたラスティー・カノコギとして、今や全米に知られる。ラスティー・カノコギが全力を注いだ米国の女子柔道は、2012年ロンドン五輪で初めて米女子柔道に金メダルをもたらしたカイラ・ハリソン選手(78kg級)で頂点に達したといえる。
ラスティー・カノコギが 24才の時(1959年)、 YMCA柔道選手権団体戦がニューヨーク州で開催された。負傷した選手の代わりに胸に布を巻いて男子に見せかけ出場し、一本勝ちを決め、チームも優勝して金メダルを獲得した。しかし、当時は米国に女子柔道選手はほとんどおらず、この大会も男子の大会と考えられていたため、出場規定に性別が決められていなかったにも拘らず、試合後に女子と判明したラスティー・カノコギだけが金メダルを剥奪された。この女子柔道家に対する侮辱から、彼女は女子柔道を国際公認のスポーツにしようと運動を開始、ついに1992年のバルセロナ五輪で正式種目とすることに成功した。米国柔道連盟七段になっていた。
女子柔道も五輪の歴史はまだまだ浅い。世界の女子柔道は日本が主導役ではなく、米国や欧州がむしろ日本を誘導して、国際化、試合化、そしてオリンピックの正式種目入りを果たすというユニークな歴史があった。嘉納治五郎の自伝でも“母体保護”を考えて、女性の試合を禁じていた時期があったという。
確かに、マラソンも“か弱い女性には無理”と思われていた1966年、男子だけだったボストンマラソンに、スタート直前まで木陰に身を潜めていた女性がスタートの号砲とともに飛び出し、ゴールまで完走したという逸話がある。それをきっかけに非公式の女性ランナーが次々と現れ、1984年のロサンゼルスから女子マラソンが五輪の正式種目となったという。
残念なことに、この「米国女子柔道の母」は、自分が育てた選手の金メダルを見る前、2009年11月、74才でこの世を去る。YMCAは50年前に彼女から剥奪した金メダルを、彼女が亡くなる3ヵ月前に、詫び状と共に返還し、米国女子柔道の母の生涯に渡る献身的な貢献に対して、最大限の謝辞を送った。2008年、日本政府も旭日小綬章を授与、現在は国際女性スポーツ殿堂に所属する。
福田敬子師匠及びラスティー・カノコギ師匠という二人の「女子柔道の母」のおかげで女子柔道は世界のスポーツとして確立した。女子柔道による活躍は、その組織の整備も重要であることが、日米の対比でも明らかであり、まして日本の金メダル数は女子によって支えらているのは、他の国より顕著だ。がんばれ、日本の未来の女子選手たち!!