久しぶりに柏の友人と会って話をしていたら、地元の少林寺には江口章子(あやこ)の歌碑があると教えてくれた。章子は、北原白秋の二番目の妻と言われる女性で、詩人としても知られる。
北原白秋は、北原白秋は裕福な家(福岡県山門【現柳川】の酒造業)で育ち、勉学のために上京後、鉄幹らと交流をもったり、森鴎外の観潮楼での歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識をもった。1908年(明治41年)、『謀叛』を発表し、世評高くなる。木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に加わり、益々名声が高まる。一方で、郷里の生家が破産したため、一家が白秋を頼って上京するなど、苦難が襲った時期があった。ちょうどその頃、白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。告訴され、未決監に拘置2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられた。1914(大正3)年に俊子と離婚。この時期に作られたのが歌曲『城ヶ島の雨』だった。人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって失墜。
この失意の時代を支えたのが江口章子と言われる。章子は、青踏の平塚らい鳥を頼って上京していたが、鴎外の家とも近いことから白秋とも知り合い、1916(大正5)年に結婚。千葉県葛飾(現東京都江戸川区)に居を移し、葛飾時代とよばれる窮乏のなかで歌集『雀の卵』、長編随筆集『雀の生活』を発表、1918(大正7)年からは神奈川県小田原に移った。鈴木三重吉の児童文学雑誌『赤い鳥』創刊に際して童謡部門を担当して創作童謡を多く発表し、地方に伝わる童唄の収集に努力するなど、童謡とのかかわりを深め、詩歌壇で確固たる地位を占めるようになる。この間の家計はきわめて困窮し、章子は着物ほとんどを質入れし家計を支えるが、胸を病んだ。ようやく白秋が家を建てるまでになった時、建前の祝宴で、白秋は小田原芸者総出という散財をして、弟らが反発し章子を非難する。非難されるいわれはないと反発した章子は、その晩行方をくらますと、白秋のもとに来ていた記者との不貞を疑われることになって離婚、白秋はその後に再々婚。章子は放浪生活に落ちいり、故郷に戻るが精神を病み、失意のうちに亡くなる。
離婚した章子は、柏市増尾(旧東葛飾郡土村増尾)の広幡八幡宮近くの墓地にある辻堂の寮に仮住いしていたこともあり、我孫子にも足を延ばしいる。この辺りを往来したのは、大正末期から昭和の初めのころであり、その間に詩集『追分の心』、詩文集『女人山居』を書いて、手賀沼も詠んでいる。増尾の少林寺境内には、下記の歌碑がある。
手賀沼の 水のほとりをさまよいつ
芦刈る音を わがものとせし
このように手賀沼周辺には、時代を代表するような活躍をした女性が何人かいるが、我孫子には活躍した女性たちの顕彰碑はない。市役所、教育委員会の関係者らにも、こうした故郷ゆかりの女性たちについて、男性ばかりだけなく顕彰すべきであり、もっと市民に分かり易く紹介するなどもして欲しいと話しているが、なかなか実現しない。日本各地で、こうした文化人たちを紹介する説明板をおいたり、継続的な企画行事が盛んに行なわれてきている。
http://www.kurumejin.jp/archives/51291198.html
http://www.city.bungotakada.oita.jp/dekigoto/page_00613.html
豊後高田市・章子祭り、他
情報化の時代に郷土ゆかりの先達たちの紹介は女性も含めて、あってしかるべきではと思う。宝の持ち腐れにならぬよう、地域の誇りとして、多くの人が知って損はない。中に、私から柳兼子さんの話を聞いて、顕彰碑をつくるなら寄付をしたいのだけれどと多額のお金を申し出られた事もあるくらいだ。せっかくなので、我孫子ゆかりの女性たちも紹介すてもらえないか、関係各所に相談に出向いたけれど、時間ばかりがたって埒があかない。市内外の人々に、我孫子の知的財産ともいうべき人々の活躍を認識して、未来の子供たちにも励みにしてもらうにも、埋もれさせて、何も出来ないのはもったいない話だ。