嘉納治五郎は,「柔道の父」,「日本の体育の父」とも呼ばれ,1893年(明治26年)から通算25年間ほど東京高等師範学校(筑波大学の前身)校長及び東京高等師範学校附属中学校(筑波大学附属中・高等学校の前身)校長を務めました。また、嘉納本家が基金を出して灘中学校として発足させた際に,学校全般の基礎づくりをしたのは,本嘉納の一族と嘉納治五郎だったと伝えられています。
一方,1909年(明治42年)には日本人初のIOC委員となり,1912年(大正元年),日本が初参加したストックホルムオリンピックおいては団長として参加しました。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会)設立,初代会長となり,同年には我孫子に別荘を建てました。そこで,学園構想を練ったり,農場の作物に精を出されたりとよく滞在されたと伝わっています。手賀沼を前面に眺められる高台から東京へのオリンピック招致を構想し,1936年(昭和11年)のIOC総会において,1940年(昭和15年)に東京オリンピック招致をと国際社会に訴えました。得意の英語と,絶大な信頼が強いアピールとなり、軍事色に染まる日本への反感が激しくなるなかでも、嘉納個人の信頼があって承認されたのでした(後に、戦争の激化に招致返上。詳細HP: http://www.ifsa.jp/index.php?Gkano)。
国際的な視野をもつ嘉納は,近代日本において,最初に留学生を受け入れた教育者でした。高等師範学校(後の東京教育大,現筑波大)の校長になると,人に教えることを最大の喜びとする教育者育成のために軍隊的な学生寮の規則を改正し,学生に自由な気風を与えるとともに,課外活動の導入や留学生受け入れなど,当時においては画期的な教育改革を行いました。留学生は官学での受け入れがされていませんでしたので、当初は私塾(宏文学院)で受け入れるようにし尽力し,1899年以降には東京高等師範学校にも受け入れました。
嘉納治五郎の基本的な考えは,他者に善隣を尽くしてこそ,自国も自身も繁栄するというものでした。多くの中国人留学生が学び,北京大学や北京師範大学の教員はじめ,中国の学術界や教育界に巣立っていきました。受け入れた留学生数は宏文学院と東京高等師範学校で約8000人になります。作家の魯迅,田漢や毛沢東の師となる教育者,楊昌済も宏文学院や東京高等師範学校出身でした。
今日の日本は,2020年までに留学生30万人を受け入れようとしていますが,嘉納先生の示した「自他共栄」の考えは筑波大学で今も尊重されています。筑波大学構内には生誕150周年(2010年)を記念して銅像が建てられ,入学式においても加納治五郎の精神が説かれました。
参考:筑波大学HP
桜咲く、入学式の様子
(学内交響楽団の演奏)
私は、今年度の入学生(国際日本研究専攻 大学院博士課程後期)となったが、最年長だったのではないだろうか。
おかげで、保護者席に案内されたのも無理はないが・・・・