2013年03月21日

柳宗悦と出会い傾倒

 「最後の白樺教師」と呼ばれた小林多津衛(たつえ)はが郷里佐久の中心校、岩村田の校長になったのは、戦争に降服したの年(1945年)の十二月の臨時異動によるものであった。敗戦というようなことがなければ、こんなことにはならなかった。戦中は、教職を追われた中谷勲とともに、最年少の白樺教員として、いまはその生き残りの頭目として、終始一貫、危険視され、警戒されてきた存在だったからである。
 戦後、小林校長が、まず考えたのは、無謀な戦争をはじめて、惨苦の敗北をもたらした原因についてであった。(平成十三(二〇〇一)年三月十七日、百四歳と七カ月にわたる生涯を終えた。その顔はとても安らかで、ほほ笑んでいるようであったという。

 小林の人生は、柳宗悦(民芸運動創始者)との出会いをきっかけに、民芸とその思想に教えられた歩みであり、教育であり、平和への希求であった。塩尻小の訓導として赴任したのは大正七年のことだ。翌年は白樺教師に対する最初の弾圧事件「戸倉事件」、翌々年は「倭(やまと)事件」(現在の松本市梓川小)が起きた。まさに信州白樺教育の興亡期、小林も白樺教師だった。自分の知らない間に休職願が郡役所に出されたものの、辛うじて首はつながったという。

 師範学校時代、学校の図書室で若き柳宗悦が著した『ウィリアム・ブレーク』を読んで圧倒され、大正六年、長野に来た柳の話を初聴講、八年は塩尻、麻績(おみ)小などでブレーク絵画展が開かれた折、再び柳の講演を聴いた。十年は、白樺教師たちの雑誌『地上』最終号で、死んだ盟友中谷勲を特集し、十一年には勤務する高遠小に柳を招いて講義してもらった。 柳宗悦が「民芸」の言葉を生み、民芸運動を始めるのは十四年ころだから、小林はそれ以前から柳に傾倒し、縁を深めていたわけである。

 ブレーク研究を経て民芸の“発見”に至る柳は何を唱え続けたのか。「実用を離れるならば、それは工芸ではなく美術である。(中略)偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用に堪(た)えず、美にも堪えぬ」(「工芸の美」)。無名の職人たちの手仕事から生まれた民芸、工芸は、高価な美術品と違って実用品である。庶民が日常生活で使いこなしてきたからこそ温かく、美しい。

 そして、小林は随筆「民芸はなぜ大切か」でこう記す。「民芸の願いは、(中略)自分の心情も素朴で誠実なつつましいものにしていこうというところにあります」「美を喜び、美を創(つく)ることは、人間として趣味の問題ではなく、人間存在の本質にかかわり、人間生活の生命の問題だ」「民芸は地方に育ちます。民芸を大切にする心はまた地方を大切にする心です」
 柳の思想は小林の中で血肉化していった。やがて戦禍をくぐり抜け、恒久平和を願う訴えに結実してゆく。
 文と写真/赤羽康男
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「亡国の徒」白樺派弾圧

 「信州白樺教育」への最初の弾圧事件である「戸倉事件」について、臼井吉見は『安曇野』第3部で、比較的詳しく記述している。
 大正7(1918)年春、埴科郡戸倉小学校校長の宮坂亮は、教育改革を実践すべく新進の白樺派教員たちを集めた。校長が部下の教員の人事権を一任されていた時代である。教頭に滝沢万治郎を抜擢して迎え、その下に赤羽王郎、羽田武邦、藤原武夫ら。長野師範学校の新卒は中谷勲を採用した。年度途中で王郎シンパの郷原四五六、浜文武を補充する。和田小から転じた王郎だけが30代、ほかはみんな20代前半と若かった。
 
「教室にかかっていた乃木大将の肖像ははずされて、トルストイに代った。教案は提出しないことになった。朝会はやらないことにきまった。郡の連合運動会には参加しない、郡教育会の研究会にも出席しないことが申し合された。(中略)修身教科書には生きた人間の道徳が扱われていないという理由で、一度も開かれたことがなかった。(中略)歴史の時間には、天照大神なんてものはいなかったこと、神武天皇は浦島太郎と同じように伝説の人物であること、海軍記念日というのは平和の決心をかためる日であることを話して聞かせた。地理で朝鮮を扱えば、朝鮮民族に同情し、日韓併合の非道を説いた。総じて彼らが何よりきらいなのは国家主義であり、軍隊主義であった。彼らが揃(そろ)って熱意を見せたのは、学級文集と学校文集を発行することだった」(『安曇野』第3部)

 実際このような教育、授業だった。武者小路実篤が王郎の依頼で児童向けに書いた「花咲爺(はなさかじじい)」を読み聞かせ、西洋美術の素晴らしさを語り、野外に子どもたちをどんどん連れ出した。ついに事件が起きる。子どもたちの新しい読み物を購入する資金を生み出そうと、白樺派教員たちは学校物置に山積みされていた古書類を無断で回収業者に売り払ってしまったのだ。村当局が問題にし、明けて8年、事が表面化する。

 彼らの言動に苦り切り、亡国の徒と危険視していた周囲はここぞとばかり騒ぎ立てた。問題は学校、父兄、村内にとどまらず、県議会で取り上げられるまでにエスカレートする。 長野新聞主筆で県議の山本聖峰(慎平)が新聞で彼らを「空中生活者」となじり、臨時県会では「王郎という教師は、村長が職員室に来てもあいさつもせず、理想の世界に入り込んで現実を無視し、世の中をばかにしている。ああいう者どもを教員にしておいてどうするか」と演説して県に対応を迫った。

 8年2月、処分が発表され、滝沢と王郎は懲戒免職、羽田は休職、ほかは転任が命じられた。信州教育界から追放を食った王郎は悄然(しょうぜん)、バーナード・リーチの窯を手伝いに千葉我孫子へ、滝沢は兵役に赴いて北海道に渡った。
 王郎は中谷あての書簡(7月1日)で「俺(おれ)は一体子供がなければ生きていれない人間だ。子供がなくて女房が何になる。勉強が何になる。生きていてどうなる」と辛(つら)い胸のうちを訴えている。子どもあっての王郎なのである。
 彼らのやり方は独善的で、周りに理解してもらう努力を欠き、自ら反発を招いてしまったとも言えよう。しかし、元県教育史編集主任の中村一雄さんが「(事件後の王郎が)教壇から離れることができなかった足跡を知るにつけても、王郎の魅力の由来が一途(いちず)に純粋で、自由な人間性にあることは明らかである」と述べるように、彼らは教師として大事な天分(子ども好き、ヒューマンな精神、高い理想)を間違いなく持ち合わせていた。


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赤羽王郎は柳宗悦から、よかったらうちに来ないかと言われて、その気になった。離れ難い友人の多くと妻とを残して、我孫子(あびこ)へ去った。可愛らしいおだやかな顔の妻は戸倉の隣村の五加小学校に勤めていたが、四月から松本市外の山形小学校へ転ずることにきまっていた。彼は宗悦の家に寄食して、バーナード・リーチの窯の仕事を手伝うことになった。(中略)代用教員になったことがニヒリスト赤羽王郎を暗い淵から救い出したのだから、子供をとられてしまっては生きられないという気持は彼にとって誇張ではなかった。
(『安曇野』第三部 その十六))

-----王郎32歳、流浪が始まる。
 大正8年春、我孫子にいたバーナード・リーチの窯の手伝いに行ったものの、窯が全焼して帰郷、9月には雑誌『地上』を創刊した。この年から翌年にかけては、泰西(たいせい)名画複製画展を南安曇郡梓村(現・松本市)を皮切りに県内各地で開き、解説に歩いた。

 大正10年4月、柳宗悦(むねよし)の勧めで朝鮮京城の中央高等普通学校に赴任した。
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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