2013年03月19日

我孫子市白樺文学館

先週、調べ物をしていて久々に白樺文学館に伺った。なんと現在の展示は、志賀直哉のまさに直筆の掛け軸や武者小路実篤と岸田劉生のコラボレーションによる絵本『花咲爺』の紹介、バーナードリーチの描いた今となっては大変に珍しい絵、そして柳宗悦が夢中になったウイリアム・ブレイクの画集の一部の紹介があった。白樺派の研究者には大変に貴重な展示であるから、市外からの訪問者も多くなって、当初の会期時期を延長して行なっていた。ぜひ、陽気の良いこの頃、再度、行ってみることをお薦めしたい。

◎展覧会への試みが始められた
国内における、美術工芸品の展覧会は1877年、第1回内国勧業博覧会からの歴史にたどり着くのだそうで、そうした機運に柳宗悦は1921年(大正10年)に東京・神田にて日本初の朝鮮美術展を開催、1924年(大正13年)には、浅川伯教と弟の浅川巧の援助を得て、ソウルの景福宮内に「朝鮮民族美術館」を開設していた。

柳は、我孫子において浅川兄弟との縁を結ぶことになって以降、西洋美術、文化への憧憬一途だった白樺の人達にも東洋美術、工芸へと目を向けるべく『白樺』に紹介していった。柳は日本各地に個性的な仏像を残した江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年(大正12年)以来、木喰の事績を求めて佐渡をはじめ日本各地に調査旅行をしている。我孫子から東京に転居後、関東大震災の大被害をうけて京都に居を移した柳は、実作者である濱田庄司、河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる「民芸運動」を展開した。

柳は、こうして収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移した柳は、実業家大原孫三郎(株式会社クラレ、大原美術館、大原社会問題研究所などの創設者)より経済面の援助を得て、1936年(昭和11年)、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した。木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる日本民藝館本館は、第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきた。

◎柳宗悦のコレクション
柳宗悦の収集品は当時(昭和時代初期)は品物の伝来、由緒、銘の有無などにはこだわらず、自己の直感で美しいと信じるものを収集していった。工芸品を収集の中心とし、美術品についても工芸的な美しさをもったものを収集の対象とした。柳の考える美とは、生活の中の美、実用に即した器物の美であり、本人がしばしば用いる言葉にしたがえば、「正しい工藝品」「健康の美」「正常の美」であった。収集の対象は多岐にわたるが、柳の収集の特色を顕著に示すものとしては、朝鮮王朝時代の雑器、朝鮮民画、初期伊万里の染付、古丹波焼、大津絵、木喰の仏像、沖縄の染織品や陶芸、「かづき」「こぎん」などの東北地方の染織品、スリップウェアなどのイギリスの古陶器、盟友である濱田庄司・河井寛次郎・バーナード・リーチなどの個人作家の作品などがある。上述のようなコレクションの性格から、収蔵品が国宝、重要文化財等に指定されることは長らくなかったが、2003年度に「絵唐津芦文壺」が絵唐津壺の代表作として重要文化財に指定された。
posted by Nina at 23:22| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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