2013年03月18日

千葉県知事選挙のこれまで

首都圏初の女性知事誕生の2001年まで、5期20年にわたり千葉県は沼田県政が続いており、低投票率はかえって金権千葉といわれる旧勢力の県政を思いのままできた。千葉県では市民から乖離した選挙が繰り返されて、変えようもない状況に投票率が下がって、ワーストワンにまでなっていた。1997年の知事選では市民運動グループの中から「白票で批判の意思表示を」という呼びかけがされるほどだった。

沼田県政の終盤は、産業廃棄物の不法投棄や三番瀬干潟の埋め立て、あるいは第二常磐線沿線開発をめぐって、都市部市民の批判が高まり、各地で住民運動がおきていた。6期目になれば83歳(満了時)となるが、沼田自身も続投を検討していたと言われる。さすがに与党内から、自然保護と開発を争点とした新人候補による知事選が準備されていった時点で思い止まったようだ。結果的に5人の新人によって争われ、後手に回っていた堂本暁子氏が当選した。

その時の堂本陣営は、勝手連による草の根選挙によって自民・民主・共産の各推薦候補と無所属候補を劇的に破った。戦後の千葉県政として、旧態勢と繋がりのない革新知事が誕生したのだった。この時の堂本の得票が約47万票、次点の自民党候補が約47万票、三位の民主党が約42万票という結果で、インターネットの呼びかけが出来る時代になっての勝利でもあった。
 
それまでには、長野県や栃木県では無党派知事が誕生していた。住民運動が千葉県の都市部でおきて、無党派市民が、“政党や組織と一線を画した選挙をしたい”それでもし独自の候補が擁立できればベターという状況が産まれていた。社会環境としても、旧体制によって税金の無駄遣い・天下りに批判の対象とするばかりでなく、組合い中心の旧組織体制の選挙や市民を排除するような政党のセクト主義にも向けられた。

そこで、市民による候補探しが始まり、たび重なる交渉の結果、当時参議院の無所属議員でつくる「参議院の会」に所属していた堂本暁子氏がそれを受ける形になった。市民の中でも女性が動いた選挙であって、GLOBE(地球環境国際議員連盟)の総裁、フィフティー・フィフティー(国際的な男女平等運動)など、自然保護運動との一定の信頼関係を築いており、市民から新しい県政への期待は高まった。

他陣営の問題が顕在化する時期にあって、千葉県自民党の重鎮・水野清が堂本勝手連をつくり、現役代議士であった田中甲が民主党離党で応援するなど、「堂本に大義あり」という雰囲気も生まれた。
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しかし、新知事のもとで戦前戦後の体制を引きずる議会において、堂本知事は庁内人事に手をつけられずに沼田体制を継続する事になる。「長野県に続け」という期待は裏切られ、改革宣言を覆した青島都政の後追いのような状況となる。03年の統一地方選(県議)後の3回の定例会で、県が提出した計71議案すべてに自民党は賛成、可決され、そのうち反対する会派があった議案は25件だった。そうした中で、03年県議選以前から上程されていた「千葉県男女共同参画の促進に関する条例案」は自民党の猛反対により、連日の報道が見守る中で廃案となった。

男女共同参画条例案は弁護士の渥美雅子氏、金城清子氏らが加わった専門部会で基本骨格がつくられていた。
反対理由に挙げられたのは、「農林水産業経営における家族経営協定の締結促進」、「入札参加資格に男女共同参画の取り組み状況を考慮」、「性及び子を産み育てることを自らの意思で決定できるよう性教育の充実及び促進」、「教育・学習活動で男女が互いの人格を尊重し、性別にかかわりなく、その個性及び能力を十分に発揮できるように」という項目であった。自民党県議団は、この条例を制定しようとした堂本知事とあからさまに敵対し、県内、全国の注目するところとなった。自民党は先の4項目の削除あるいは変更を求め、継続審議を提案、結果、廃案に追い込んだのだ。

我孫子には遠いが、三番瀬干潟の埋め立てについては、千葉の湾岸に位置する都市部の県民によって中止が要請されて、「三番瀬再生計画検討会議」(円卓会議)を発足した。円卓会議は、「三番瀬再生計画案」を知事に提出していた。しかし、県は具体的な再生計画の立案と知事にはその指導責任があるのに進んではいかなかった。それまで三番瀬干潟の埋め立て計画は、第二湾岸道路建設とセットにされており、堂本自身「通すだけの理由はある、いずれは考える」と言うようになった。さらに、八ツ場ダム(群馬県)と湯西川ダム(栃木県)の事業費が膨らむとして、負担金の倍増を求める国からの要請を受け入れたため、関係する一都五県で不当な支出に対する住民監査請求が行われ、堂本知事らを被告とする千葉地裁では本訴となった。

そこで、県収用委員会を16年ぶりに再開を機に、堂本は沼田を超える評価を市町村長らから得、再選への支持を得ようとの考えに変わったのだった。「成田紛争という不幸な出来事のため、千葉県には全国で唯一、収用委員会という組織がなく、インフラ整備のための土地を思うように確保ができず、道路や鉄道の建設が遅れた。そこで、『収用委員会』を再建した」と堂本は判断したと言う。収用委員会の再開による不要な公共事業の暴走、その中には第二湾岸道路の建設の強行や三番瀬干潟の埋め立て、成田横風用滑走路の北側延伸が含まれるとなって、01年に堂本を担いだ市民支援者からは乖離していった。

堂本二期目の選挙は、2005年2月24日告示され、投票は3月13日だった。再選をめざす堂本暁子、元衆議院議員の森田健作、弁護士の山田安太郎の三候補が届け出をした。公明党は党本部の承認を得て県本部が堂本を支持する。民主党は当初「反堂本」で独自候補擁立をめざしたが断念、県連として直前に堂本支持を決めた。社民党と生活クラブ生協を母体とする市民ネットワーク・千葉県も堂本を支持することになった。

県議会で敵対するまでになった自民党は、県議を中心に「サポータークラブ」を名乗って森田を勝手連的に支援した。それまで、森田は03年の埼玉知事選に立候補しようとの動きをとったが、自民党内部から引きずり下ろされた経験がある。森田の千葉県との関わりは、山武郡芝山町岩山に森田農場を12年前から運営、『自宅』も同地としていた。また、私立広池学園・麗澤大学(千葉県柏市)客員教授の肩書きで、年に数回、同大学や関係団体によるオープンカレッジでの講演をしていた。『週刊金曜日』(05/2/18日号)で横田一氏が指摘するように、「右派勢力のメッセージを発信する広告塔」としての危険性もあるが、不戦敗をよしとせず、堂本を「フェミニストの領袖」と規定する一部勢力のガス抜きのために森田は担ぎ出されたという指摘もあった。一方、山田候補は共産党が推薦、新社会党が支持をした。

芸能界のコネをフル活用した森田が立候補した事で、二期目は現職有利の選挙のはずが、5千票差で辛くも逃げ切った。3期目にもと本人の意欲はあったものの、さすがに堂本勇退となった。その際に、堂本との話し合いもあって新たな無所属市民派候補擁立の動きもおきたが、実現には至らず、市民による選挙の勝利はなかった。

森田葉県知事の09年誕生、アクアラインの社会実験の実現、北総線の値下げ交渉などとこれまでにない発信力を発揮した。しかし、東日本大震災がおきて、知事は肝心なところは説明員に任せてしまう。印西・我孫子で行なわれる説明会直前にドイツ視察へ向かい、同行した県職員は県費(国際交流パーティ)をおく忘れて紛失する失態が報道されていた。手賀沼下水終末処理場への放射能汚染焼却灰の一時保管については、説明会など副知事と職員任せに徹しているが、全国の妙な先例にだけはして欲しくない。

参考:週刊金曜(2005年)
posted by Nina at 02:59| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | chiba | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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