『観光文化』という専門誌で、グラハム・ミラ―教授(英サリ―大・サステナブルビジネス)が「持続可能な観光のためのモニタリング導入と指標の活用について」ー日本の観光分野専門家への提言ーという論文を寄稿していた。そこで、
「観光産業には素晴らしい役割がある。観光産業は指標の開発過程によって改善すべき点が明らかにでき、観光産業自体をより持続可能な産業にさせることができる。観光がもたらす影響について把握できる態勢が整えば、資源に制約のあるこれからの世界において、グリーンエコノミーの中心的な役割を築くこともできる。」と書いている。
近年、日本各地で名所史跡や自然景観などの地域資源の世界遺産登録を目指す運動が活発になっている。世界遺産登録推進運動は、地域の文化・自然資源を世界遺産に登録することによって認知度をたかめ、ブランド価値を産み、国内のみならず国外からも観光客を誘致するという、期待が強くなっている。
世界遺産委員会は締約国から選ばれた21 カ国で構成された政府間委員会(各国任期6 年)で、推薦された物件について審査を行い、決議を行う。
2008 年7月現在、「世界遺産条約」を締結しているのは、184 カ国、遺産に登録されている物件は、「文化遺産」679 件、「自然遺産」174 件、双方の条件を満たす「複合遺産」25 件1)、合計878 件となっており、締約国のうち145 カ国に立地している。
2013年02月28日
2013年02月27日
井上住宅は貴重な文化遺産
日本文化は、強大なエジプトの「ピラミッド」、古代中国の「万里の長城」など支配階級の強大な遺産を残してはきませんでした。それら大きな物は、見つけようとしなくても、目に見えますが、日本は古代から庶民の文化が残っている国だったかもしれない。自国の産物で食いつなぎ、干拓・開墾やりくりの庶民の知恵を生かす小さな島国だった(そうはいっても琉球処分、蝦夷、朝鮮への出兵の権力行使もありましたが)ようです。その庶民の暮らしをheiwaに守る為に鎖国令をした江戸時代には他国に例を見ない、他国の富を奪う事も自国を攻撃されることもないようにしました。
庶民の生活文化の遺品は布きれ、瀬戸物などと小さいので、見つけること自体がむずかしく、発見すること自体が奇跡かもしれない。庶民一人一人は確かに小さい単位かもしれませんが、その小さい存在が日本の文化を創ってきた。 「もったいない」が環境保全の合言葉に選ばれエコ推進を元々してきた。
『ミシュランガイド』は東京に最多の星を付けた。その日本に生きている人達はこうしたささやかな文化を幾層にも重ねてきたことに自信を持つべきです。戦後社会も半世紀、日本以上に欧米社会に蔓延する閉塞感の中でも、世界のために何ができるか、考える地球市民として文化を創ってきたことを生かす時です。
たび重なる災害で失ったものも大きいけれど、だから「もったいない」とあらゆるものを長く大切に維持しようと心配ってきたのも日本人です。その昔、ジパングと言われて憧れをもって世界が押し寄せた頃から、ふたたび世界がその文化を見直してきたことに、今の日本人は改めて誇りを持つべきです。脱亜入欧の明治維新を経て敗戦、小さい島国とはいっても人口が1億人を超える国がいくつあるでしょうか。人口が密で、300年も平和な江戸時代を経過してきたおかげで、数々の世界最古の文化を維持してきた和なる国・日本は注目大です。
そのような日本の中で、我孫子市指定文化財(2013/12/28)となった井上邸のような庶民文化をほぼ完全に保存したという住宅はそうは残っていないと言うことです(文化庁)。:江戸時代に繋がる庶民文化が残る貴重な史跡です。訪ねてみたい方は、週末の公開日に是非いらしてみてください。
庶民の生活文化の遺品は布きれ、瀬戸物などと小さいので、見つけること自体がむずかしく、発見すること自体が奇跡かもしれない。庶民一人一人は確かに小さい単位かもしれませんが、その小さい存在が日本の文化を創ってきた。 「もったいない」が環境保全の合言葉に選ばれエコ推進を元々してきた。
『ミシュランガイド』は東京に最多の星を付けた。その日本に生きている人達はこうしたささやかな文化を幾層にも重ねてきたことに自信を持つべきです。戦後社会も半世紀、日本以上に欧米社会に蔓延する閉塞感の中でも、世界のために何ができるか、考える地球市民として文化を創ってきたことを生かす時です。
たび重なる災害で失ったものも大きいけれど、だから「もったいない」とあらゆるものを長く大切に維持しようと心配ってきたのも日本人です。その昔、ジパングと言われて憧れをもって世界が押し寄せた頃から、ふたたび世界がその文化を見直してきたことに、今の日本人は改めて誇りを持つべきです。脱亜入欧の明治維新を経て敗戦、小さい島国とはいっても人口が1億人を超える国がいくつあるでしょうか。人口が密で、300年も平和な江戸時代を経過してきたおかげで、数々の世界最古の文化を維持してきた和なる国・日本は注目大です。
そのような日本の中で、我孫子市指定文化財(2013/12/28)となった井上邸のような庶民文化をほぼ完全に保存したという住宅はそうは残っていないと言うことです(文化庁)。:江戸時代に繋がる庶民文化が残る貴重な史跡です。訪ねてみたい方は、週末の公開日に是非いらしてみてください。
2013年02月26日
世界最古の独立国は、日本だった
日本はアジアの中で独立を守った数少ない国だとは歴史で習いましたが、実に、日本には世界最古の木造建築があり、世界最古の土器、陶器があり、世界最古の貝塚があり、世界最古の漆製品があり、世界最古の企業(金剛組)があり、世界最古の君主国である世界最古の独立国です。
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2088.html
米中央情報局CIAの公式サイトを読みとると世界最古の独立国は日本になっています。
Japan 660 B.C. (traditional founding by Emperor JIMMU)
米大統領が、みずから空港に出迎えに行かなければ成らない格上の権威は、世界中に3人いて、それが旧宗主国の英国王(女王)と宗教的権威のローマ法王と最期の一人は日本の天皇陛下だということなのです。それでかどうか、米国は、日本各地を壊滅的に爆撃し、原爆を落としても京都と、あの東京大空襲でも皇居には爆撃をしませんでした。
1974年までは、エチオピアの皇室が世界最古とされたが、革命で事情が変わって、それ以来、日本が世界一になった。その根拠となるのは皇室成立の時期で、歴史学的に見た場合、4世紀前後と推定され、「記紀」によれば紀元前660年在位されたとなるが、現時点では、その神武天皇の実在が確定せず、物的記録とみないのです。しかし、そのどちらにせよ、歴史的には現存する最古の王室であり、最古の君主国で、国民はそれを意識することもないでいました。わざわざ世界最古の歴史など試験で確認しないのですが、最近は世界遺産の認定で古い歴史が見直されて、観光の要のようになることもあります。皆様はどのように認識されているでしょうか。
一方で、「現存最古の共和国」と認識されている国があり、サンマリノ共和国が5世紀半ばまでに形成さたと考えられるということですが、同国の名が文献に現れるのは951年のことです。
中国4000年の歴史や韓国半万年の歴史はどう捉えているかと言えば、以下が参考にできます。
China 221 BC (unification under the Qin or Ch'in Dynasty)
1 January 1912 (Manchu Dynasty replaced by a Republic)
1 October 1949 (People's Republic established)
Korea, North 15 August 1945 (from Japan)
Korea, South 15 August 1945 (from Japan)
上記を見るまでもなく、漢民族の王朝と言うのは、「漢」と「明」の時代くらいで、後は他民族であったし、「清」は満州族の国であり、漢民族とは全く別物です。私たちが歴史で習ったように、中国王朝は何度も変わっており、一つの頂点を拝して連綿と続けていたとはいえません。朝鮮半島でも、日本が清から韓国を独立証人させるまで大陸の属国であり続け、取り交わした記録文書の冠号も中国王朝の号に合わせていました。一方、日本は独自の年号を使っていました。
もうちょっとWIKIPEDIAで調べると次のような事でも驚きます。
◎世界最古の土器
中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器 、日本最古の縄文式土器(約1万6500年前大平山元I遺跡より出土)
◎世界最古の陶器
2009年に中国で湖南省で1万4000年前から2万1000年前の陶器が発見された。 日本最古の陶器は長崎県にある福井洞窟で発見された約1万2000年前のもの。
◎世界最古の企業
578年 (敏達天皇6年) 四天王寺建立のため、聖徳太子によって百済より三人の宮大工が招かれる。そのうちの一人である金剛重光(柳重光)により創設の金剛組。江戸時代に至るまで官寺・四天王寺お抱えの宮大工となる。創業から1955年に法人化を挟んで、2005年まで金剛一族が経営してきたが、同年11月より松建設(現松コンストラクショングループ)の子会社へ移行している。現在は本業の宮大工に立ち戻り、現在でも100人以上の宮大工を抱える。
そして、日本には、千年以上続く老舗(しにせ)が7社あるのだそうだ。
しかも、200年以上であれば日本はなんと3000社もある。一方で、中国9、インド3、しかし韓国ゼロ。世界には、200年続く会社が7000程あるといわれるのだが、実に半分近くが日本に集中しているという。そして、100年以上は世界の中でも 断トツの10万軒以上 にのぼる。
親子代々の思い出を大切にするお店やホテル…風雪にも耐えられる、長く繁盛する商いにはお客さまの動向を知り、店がもうけることへの力点よりは、大切なお客さまに喜んでいただける質を高めようと願う人の気持ちが、廃れさせず、誇りとなって継がれてきたからなのでしょう。
◎世界最古の貝塚
昭和25年に、日本の三浦半島で発見されたそうです。
今から1万年近く前(縄文時代早期前半)のものだそうです。
貝を食べる習慣は昔から世界中にあったと思いますが、
古代の日本人は貝殻をポイ捨てしないで、自然への感謝の気持ちを込めて埋葬したようです。
貝塚の研究は、1850年ごろ、デンマークで始まったそうです。
その研究が、アメリカに伝わり、1877年、アメリカの動物学教授モールスが大森貝塚を発見しました。
◎世界最古の漆製品
日本の北海道南茅部町で発見され、約九千年前(縄文時代)と認証したそうです。
◎「世界最古の花」
千葉市にある大賀ハス(厳密には、1952年[昭和27年]7月18日に開花した一個体)
種子は弥生時代の遺跡(泥炭層)から出土したもので、間接的年代測定がなされた1952年の時点で2000年以上前(紀元前1世紀末以前。弥生後期V期前半以前[cf.])に由来と推定された。その開花は「世界最古の花 生命の復活」」として雑誌『ライフ』にも採り上げられた。最も古い時代の種子から発芽・成長した顕花植物です。
幾度の災害を乗り越えて、花が咲く日本をみんなで大事につなげてきました。
頑張ろう日本、頑張ろう千葉、そして我孫子!!
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2088.html
米中央情報局CIAの公式サイトを読みとると世界最古の独立国は日本になっています。
Japan 660 B.C. (traditional founding by Emperor JIMMU)
米大統領が、みずから空港に出迎えに行かなければ成らない格上の権威は、世界中に3人いて、それが旧宗主国の英国王(女王)と宗教的権威のローマ法王と最期の一人は日本の天皇陛下だということなのです。それでかどうか、米国は、日本各地を壊滅的に爆撃し、原爆を落としても京都と、あの東京大空襲でも皇居には爆撃をしませんでした。
1974年までは、エチオピアの皇室が世界最古とされたが、革命で事情が変わって、それ以来、日本が世界一になった。その根拠となるのは皇室成立の時期で、歴史学的に見た場合、4世紀前後と推定され、「記紀」によれば紀元前660年在位されたとなるが、現時点では、その神武天皇の実在が確定せず、物的記録とみないのです。しかし、そのどちらにせよ、歴史的には現存する最古の王室であり、最古の君主国で、国民はそれを意識することもないでいました。わざわざ世界最古の歴史など試験で確認しないのですが、最近は世界遺産の認定で古い歴史が見直されて、観光の要のようになることもあります。皆様はどのように認識されているでしょうか。
一方で、「現存最古の共和国」と認識されている国があり、サンマリノ共和国が5世紀半ばまでに形成さたと考えられるということですが、同国の名が文献に現れるのは951年のことです。
中国4000年の歴史や韓国半万年の歴史はどう捉えているかと言えば、以下が参考にできます。
China 221 BC (unification under the Qin or Ch'in Dynasty)
1 January 1912 (Manchu Dynasty replaced by a Republic)
1 October 1949 (People's Republic established)
Korea, North 15 August 1945 (from Japan)
Korea, South 15 August 1945 (from Japan)
上記を見るまでもなく、漢民族の王朝と言うのは、「漢」と「明」の時代くらいで、後は他民族であったし、「清」は満州族の国であり、漢民族とは全く別物です。私たちが歴史で習ったように、中国王朝は何度も変わっており、一つの頂点を拝して連綿と続けていたとはいえません。朝鮮半島でも、日本が清から韓国を独立証人させるまで大陸の属国であり続け、取り交わした記録文書の冠号も中国王朝の号に合わせていました。一方、日本は独自の年号を使っていました。
もうちょっとWIKIPEDIAで調べると次のような事でも驚きます。
◎世界最古の土器
中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器 、日本最古の縄文式土器(約1万6500年前大平山元I遺跡より出土)
◎世界最古の陶器
2009年に中国で湖南省で1万4000年前から2万1000年前の陶器が発見された。 日本最古の陶器は長崎県にある福井洞窟で発見された約1万2000年前のもの。
◎世界最古の企業
578年 (敏達天皇6年) 四天王寺建立のため、聖徳太子によって百済より三人の宮大工が招かれる。そのうちの一人である金剛重光(柳重光)により創設の金剛組。江戸時代に至るまで官寺・四天王寺お抱えの宮大工となる。創業から1955年に法人化を挟んで、2005年まで金剛一族が経営してきたが、同年11月より松建設(現松コンストラクショングループ)の子会社へ移行している。現在は本業の宮大工に立ち戻り、現在でも100人以上の宮大工を抱える。
そして、日本には、千年以上続く老舗(しにせ)が7社あるのだそうだ。
しかも、200年以上であれば日本はなんと3000社もある。一方で、中国9、インド3、しかし韓国ゼロ。世界には、200年続く会社が7000程あるといわれるのだが、実に半分近くが日本に集中しているという。そして、100年以上は世界の中でも 断トツの10万軒以上 にのぼる。
親子代々の思い出を大切にするお店やホテル…風雪にも耐えられる、長く繁盛する商いにはお客さまの動向を知り、店がもうけることへの力点よりは、大切なお客さまに喜んでいただける質を高めようと願う人の気持ちが、廃れさせず、誇りとなって継がれてきたからなのでしょう。
◎世界最古の貝塚
昭和25年に、日本の三浦半島で発見されたそうです。
今から1万年近く前(縄文時代早期前半)のものだそうです。
貝を食べる習慣は昔から世界中にあったと思いますが、
古代の日本人は貝殻をポイ捨てしないで、自然への感謝の気持ちを込めて埋葬したようです。
貝塚の研究は、1850年ごろ、デンマークで始まったそうです。
その研究が、アメリカに伝わり、1877年、アメリカの動物学教授モールスが大森貝塚を発見しました。
◎世界最古の漆製品
日本の北海道南茅部町で発見され、約九千年前(縄文時代)と認証したそうです。
◎「世界最古の花」
千葉市にある大賀ハス(厳密には、1952年[昭和27年]7月18日に開花した一個体)
種子は弥生時代の遺跡(泥炭層)から出土したもので、間接的年代測定がなされた1952年の時点で2000年以上前(紀元前1世紀末以前。弥生後期V期前半以前[cf.])に由来と推定された。その開花は「世界最古の花 生命の復活」」として雑誌『ライフ』にも採り上げられた。最も古い時代の種子から発芽・成長した顕花植物です。
幾度の災害を乗り越えて、花が咲く日本をみんなで大事につなげてきました。
頑張ろう日本、頑張ろう千葉、そして我孫子!!
2013年02月25日
東アジア初の女性元首誕生
韓国で朴槿恵(パククネ)新政権がスタートする。
李明博大統領の際には、石原都知事・野田首相の竹島国有化の流れの中で、李大統領が突然に島に上陸した。事態はエスカレート、ソウル日本大使館前のみならず米国内での慰安婦像設置など、日韓関係が悪化した。こうした中での朴政権の出帆となるが、新たな日韓関係の行方はどうなるのか。東アジア初の女性国家元首となる朴槿恵氏(61)の人物像について探った女性記者(水沼啓子)の記事があったので、一部紹介したい。
●両親への深い敬慕と公約の実施を確実に
朴氏は非業の死を遂げた両親をもつ。母親の陸英修(ユクヨンス)さんは朴氏が22歳の時に凶弾に倒れた。父親の朴正煕(チョンヒ)元大統領が暗殺されたのは27歳だった。以後、父親のかつての側近たちの政治的裏切りを数多く目の当たりにし、「なかなか人を信用しない」性格(政党関係者)といわれる。一方で、国会議員に初当選した1998年の補選以来、同じ補佐官や秘書官らが朴氏を一貫して支えている。一度深く信頼すれば決して捨てることはなかったという父親の用兵術に通じるものがある。
朴氏の両親への敬慕の念は深い。以前インタビューで尊敬する人物を質問すると、「父母を除けば、(大英帝国の礎を築いた。未婚)エリザベス1世」とわざわざ断りを入れたほどだった。母親からは、責任感を持ち謙虚で誠実に生きることを教えられたとされる。
母親亡き後およそ5年間にわたり、ファーストレディー役を務めながら、父親の傍らで学んだ。朴元大統領は日本の陸軍士官学校を卒業している。父親からは、日本に対し肯定的な話も聞いていたはずだ。
反日一辺倒だった盧武鉉(ノムヒョン)前大統領が「対日外交戦争も辞さない」とまで宣言し、日韓関係が最悪だった2006年3月、朴氏は周囲の反対を押し切って日本を訪問している。
その理由は「核問題など両国がともに解決すべき問題が山積していた」「韓日関係の突破口を開き、日本に変わるきっかけを作るべきだと考えた」(自叙伝)。自分の信念に従い、行動している。
朴次期政権下で日韓関係の好転を期待する声が日本で上がるのも、こうした背景がある。 だが、韓国では“親日独裁者の娘”というイメージがつきまとう朴氏にとって、対日問題には慎重にならざるを得ないというのが多くの専門家の見方だ。
また、朴氏は06年に当時の小泉純一郎首相に会った際、首相の座右の銘「無信不立(信無くば立たず)」を取り上げた。今年1月、安倍晋三首相の特使にも、この同じ論語の言葉を持ち出したという。
この頃の政治家は、テレビ映りも気にして整形をしたり、スピーチライターによって巧みな演説を準備する。しかし、みんなの求めるのは政策の実現だ。朴氏には、初の女性元首として大きな期待がかかる。
参考:
産経ニュース(2013.2.21)
李明博大統領の際には、石原都知事・野田首相の竹島国有化の流れの中で、李大統領が突然に島に上陸した。事態はエスカレート、ソウル日本大使館前のみならず米国内での慰安婦像設置など、日韓関係が悪化した。こうした中での朴政権の出帆となるが、新たな日韓関係の行方はどうなるのか。東アジア初の女性国家元首となる朴槿恵氏(61)の人物像について探った女性記者(水沼啓子)の記事があったので、一部紹介したい。
●両親への深い敬慕と公約の実施を確実に
朴氏は非業の死を遂げた両親をもつ。母親の陸英修(ユクヨンス)さんは朴氏が22歳の時に凶弾に倒れた。父親の朴正煕(チョンヒ)元大統領が暗殺されたのは27歳だった。以後、父親のかつての側近たちの政治的裏切りを数多く目の当たりにし、「なかなか人を信用しない」性格(政党関係者)といわれる。一方で、国会議員に初当選した1998年の補選以来、同じ補佐官や秘書官らが朴氏を一貫して支えている。一度深く信頼すれば決して捨てることはなかったという父親の用兵術に通じるものがある。
朴氏の両親への敬慕の念は深い。以前インタビューで尊敬する人物を質問すると、「父母を除けば、(大英帝国の礎を築いた。未婚)エリザベス1世」とわざわざ断りを入れたほどだった。母親からは、責任感を持ち謙虚で誠実に生きることを教えられたとされる。
母親亡き後およそ5年間にわたり、ファーストレディー役を務めながら、父親の傍らで学んだ。朴元大統領は日本の陸軍士官学校を卒業している。父親からは、日本に対し肯定的な話も聞いていたはずだ。
反日一辺倒だった盧武鉉(ノムヒョン)前大統領が「対日外交戦争も辞さない」とまで宣言し、日韓関係が最悪だった2006年3月、朴氏は周囲の反対を押し切って日本を訪問している。
その理由は「核問題など両国がともに解決すべき問題が山積していた」「韓日関係の突破口を開き、日本に変わるきっかけを作るべきだと考えた」(自叙伝)。自分の信念に従い、行動している。
朴次期政権下で日韓関係の好転を期待する声が日本で上がるのも、こうした背景がある。 だが、韓国では“親日独裁者の娘”というイメージがつきまとう朴氏にとって、対日問題には慎重にならざるを得ないというのが多くの専門家の見方だ。
また、朴氏は06年に当時の小泉純一郎首相に会った際、首相の座右の銘「無信不立(信無くば立たず)」を取り上げた。今年1月、安倍晋三首相の特使にも、この同じ論語の言葉を持ち出したという。
この頃の政治家は、テレビ映りも気にして整形をしたり、スピーチライターによって巧みな演説を準備する。しかし、みんなの求めるのは政策の実現だ。朴氏には、初の女性元首として大きな期待がかかる。
参考:
産経ニュース(2013.2.21)
2013年02月24日
日本を舞台にしたベトナムの革命運動、20C初頭の東遊運動
土曜日の夜は、「世界ふしぎ発見」というテレビ番組を見ることが多い。今日はベトナムと日本のゆかりがテーマでした。
19世紀アジアにフォーカス、各国は西欧列強の侵犯を受け、植民地化が進行していました。ベトナムも仏統治政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。1905年(明治38)、そこで日露戦争で日本の戦勝をきいたベトナム革命組織・維新会の代表ファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて武器援助を求めるため、密出獄して日本へ来ます。ファン・ボイ・チャウは清国戊戌(ボジュツ)の政変で日本に亡命中であった梁啓超を横浜に訪ね、在野の政党リーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることではなく、革命の為の人材養成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。両者は漢字を連ねての筆談ながら、国の前途を賭けた激烈で清新な議論を行ない、同席した柏原文太郎は三国志の英雄の話を聞くようであったと、チャウの人物に大きな魅力を感じたのでした。犬養は陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々長の根津一らと相談し、最初の留学生4人を中国人の為の軍人養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する中国人のための学校「東京同文書院」へ入学させます。
日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、「ベトナム亡国史」、「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と書き上げベトナムに送ります。その後、これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため出国してきます。東京同文書院は教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。最盛期の1908年(明治41)には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学んでいたと言われます。ベトナム本国では、維新会が宣伝文書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組織的に担当しました。
この反仏の動きに危機感を持った仏統治政府は、留学生の親族や支援者に対し摘発を進めていきました。日仏同盟の締結で仏政府の強い要請を受けた日本政府は、1908年(明治41)秋留学生に解散命令を出します。多くの留学生は日本を離れますが、残った留学生を抱えたチャウは、資金も底をつき生活は困窮を極めていきました。
借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、そして東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないと阮泰抜に相談をします。阮の件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。
ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託します。心の中では厚志に対して何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。幸い、朝持たせた手紙の返事は夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金も渡されてきました。(当時の東浅羽小学校の校長の月給は18円であった。)その手紙には『手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』とほんとうに簡潔であるが、温情のある言葉が添えられていました。
1909年(明治42)3月、クォンデ候とチャウは日本政府から国外退去を命令されます。10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評します。
退去後9年、1918年(大正7)ファン・ボイ・チャウが日本の土を踏んだ時には佐喜太郎はすでになく、佐喜太郎への報恩のために静岡県浅羽町梅山の常林寺に大きな記念碑を立てたのですが、多くの人には知られずにあるということです。
参考HP:
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/kouryu.htm
19世紀アジアにフォーカス、各国は西欧列強の侵犯を受け、植民地化が進行していました。ベトナムも仏統治政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。1905年(明治38)、そこで日露戦争で日本の戦勝をきいたベトナム革命組織・維新会の代表ファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて武器援助を求めるため、密出獄して日本へ来ます。ファン・ボイ・チャウは清国戊戌(ボジュツ)の政変で日本に亡命中であった梁啓超を横浜に訪ね、在野の政党リーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることではなく、革命の為の人材養成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。両者は漢字を連ねての筆談ながら、国の前途を賭けた激烈で清新な議論を行ない、同席した柏原文太郎は三国志の英雄の話を聞くようであったと、チャウの人物に大きな魅力を感じたのでした。犬養は陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々長の根津一らと相談し、最初の留学生4人を中国人の為の軍人養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する中国人のための学校「東京同文書院」へ入学させます。
日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、「ベトナム亡国史」、「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と書き上げベトナムに送ります。その後、これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため出国してきます。東京同文書院は教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。最盛期の1908年(明治41)には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学んでいたと言われます。ベトナム本国では、維新会が宣伝文書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組織的に担当しました。
この反仏の動きに危機感を持った仏統治政府は、留学生の親族や支援者に対し摘発を進めていきました。日仏同盟の締結で仏政府の強い要請を受けた日本政府は、1908年(明治41)秋留学生に解散命令を出します。多くの留学生は日本を離れますが、残った留学生を抱えたチャウは、資金も底をつき生活は困窮を極めていきました。
借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、そして東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないと阮泰抜に相談をします。阮の件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。
ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託します。心の中では厚志に対して何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。幸い、朝持たせた手紙の返事は夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金も渡されてきました。(当時の東浅羽小学校の校長の月給は18円であった。)その手紙には『手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』とほんとうに簡潔であるが、温情のある言葉が添えられていました。
1909年(明治42)3月、クォンデ候とチャウは日本政府から国外退去を命令されます。10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評します。
退去後9年、1918年(大正7)ファン・ボイ・チャウが日本の土を踏んだ時には佐喜太郎はすでになく、佐喜太郎への報恩のために静岡県浅羽町梅山の常林寺に大きな記念碑を立てたのですが、多くの人には知られずにあるということです。
参考HP:
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/kouryu.htm
2013年02月23日
手賀沼終末処理場、8000ベクレル以下下水道汚泥焼却灰は搬出開始だが・・・
手賀沼終末処理場(我孫子・印西市境)で保管中だった1キロ当たり8000ベクレル以下の汚泥焼却灰の搬出を県が18日から、始めたことが分かった。東京電力福島第1原発事故に伴う放射性セシウムに汚染された焼却灰の一時保管問題で錯綜していたが、最終処分する民間業者が見つかったためだという。来年度以降も入札で業者を選んで搬出を継続する方針で、約2500トンまでたまった汚泥焼却灰は今後、徐々に減る見通しとなった。
県によると、汚泥焼却灰は、松戸、柏、我孫子市など7市の下水道から出る汚泥を処理してできたもの。11年9月以降、最終処分されず、処理場内の17のテント倉庫などで約2500トン保管されている。そのうち8000ベクレル超の灰は3棟に550トン、8000ベクレル以下の1950トンは14棟に収容。14棟のほとんどは民間業者が受け入れる2000ベクレル程度といい、3月末までに計400トンを君津市内の民間の最終処分場で処理されることが決まった。来年度以降も新たに発生する分を含め3400トン分を搬出する計画で、今後入札で業者を決めるという。
一方、処分場内には、柏、松戸、流山3市からのごみの焼却で発生した8000ベクレル超の汚染灰の一時保管施設として、汚泥焼却灰の倉庫テントと同じものが建設中だ。県は3月末までに9棟を設置。さらに6棟を来年度約1億5000万円で建設し、最終的には15棟に約2500トンのごみ焼却灰を保管する予定だ。搬入開始から約2カ月が経過した2月15日現在、276トンが保管されている。
汚泥焼却灰について、県は日量4〜5トン発生しており、「すぐに汚泥焼却灰の倉庫テントが空になることはない」(下水道課)としている。ただ、搬出が進めば同じ倉庫テントが空になり、地元からは、代わりにごみ焼却灰の保管用に充てて新たなテント倉庫の建設をやめるよう要望される可能性がある。これについて、県は「14年度末まで一時保管しても下水道の本体事業に影響ないということで、(処分場用地を)借りている。汚泥焼却灰を保管するテントは現時点で空になっているわけではないので、焼却灰を入れることは検討していない」と話しているとの、毎日新聞(2月20日 地方版)に報道があった。
また、県側は「一時保管問題は公益にかかる事項で、さまざまな要素を勘案しなければならない高度の政策判断を要する」ので、「個々の住民である申請人らと調停で合意する対象になじまない」とし、受け入れを中止しない考えを示している。
他方、「ごみ焼却灰の一時保管にかかる連絡調整会議 第1回会合」が18日、千葉市中央区の県自治会館で開かれた。会議には各自治体の担当者が出席。県が焼却灰の放射性物質の濃度、手賀沼終末処理場の敷地境界や周辺地域、灰の運搬車両の空間線量を測定し、結果を月2回、県のホームページ(HP)で公開することを決めた。
県によると、汚泥焼却灰は、松戸、柏、我孫子市など7市の下水道から出る汚泥を処理してできたもの。11年9月以降、最終処分されず、処理場内の17のテント倉庫などで約2500トン保管されている。そのうち8000ベクレル超の灰は3棟に550トン、8000ベクレル以下の1950トンは14棟に収容。14棟のほとんどは民間業者が受け入れる2000ベクレル程度といい、3月末までに計400トンを君津市内の民間の最終処分場で処理されることが決まった。来年度以降も新たに発生する分を含め3400トン分を搬出する計画で、今後入札で業者を決めるという。
一方、処分場内には、柏、松戸、流山3市からのごみの焼却で発生した8000ベクレル超の汚染灰の一時保管施設として、汚泥焼却灰の倉庫テントと同じものが建設中だ。県は3月末までに9棟を設置。さらに6棟を来年度約1億5000万円で建設し、最終的には15棟に約2500トンのごみ焼却灰を保管する予定だ。搬入開始から約2カ月が経過した2月15日現在、276トンが保管されている。
汚泥焼却灰について、県は日量4〜5トン発生しており、「すぐに汚泥焼却灰の倉庫テントが空になることはない」(下水道課)としている。ただ、搬出が進めば同じ倉庫テントが空になり、地元からは、代わりにごみ焼却灰の保管用に充てて新たなテント倉庫の建設をやめるよう要望される可能性がある。これについて、県は「14年度末まで一時保管しても下水道の本体事業に影響ないということで、(処分場用地を)借りている。汚泥焼却灰を保管するテントは現時点で空になっているわけではないので、焼却灰を入れることは検討していない」と話しているとの、毎日新聞(2月20日 地方版)に報道があった。
また、県側は「一時保管問題は公益にかかる事項で、さまざまな要素を勘案しなければならない高度の政策判断を要する」ので、「個々の住民である申請人らと調停で合意する対象になじまない」とし、受け入れを中止しない考えを示している。
他方、「ごみ焼却灰の一時保管にかかる連絡調整会議 第1回会合」が18日、千葉市中央区の県自治会館で開かれた。会議には各自治体の担当者が出席。県が焼却灰の放射性物質の濃度、手賀沼終末処理場の敷地境界や周辺地域、灰の運搬車両の空間線量を測定し、結果を月2回、県のホームページ(HP)で公開することを決めた。
2013年02月22日
福島へ
上野の芸大で開催されていた「尊厳の藝術 The Art of GAMAN」展を見逃したことも気になって、巡回展を見る為に福島へ行ってきました。
http://pid.nhk.or.jp/event/PPG0151561/index.html
泊まったところはスキー場の前、せっかくなので10年ぶりにスキーを借り、人滑り!!パウダースノー、天気も暖かく爽快でした。ゲレンデは、スノボーを楽しむ若者や家族ずれが大半でスキーはマイノリティ―になったのだなあなどと思いながら滑り降りてくると、取材班がいて何やら韓国語が飛び交っていました。傍にいた方に聞くとNHK国際放送局で、韓国からのスキーツアーを取材しているとのこと。まだまた、韓国からの旅行者は戻って来てはいないとは言っていましたが、ツアー参加者の顔は満足そうでした。
因みに最近は環境省 放射能測定値が公表されており、福島はかなりの地点でチェックされており、
(会津) http://radioactivity.mext.go.jp/map/ja/area.html
(いわき)http://radioactivity.mext.go.jp/map/ja/area2.html
むしろ、いわきは北茨城市に近いが、会津の線量より高い。会津は柏よりもかなり低い値なのに驚いた。
ホテルから、会津町へ行き、電車をまっていると遅延、さらに来た電車は単線のために行きかう反対方向からの電車が途中で大雪で列車が動かなくなって!! 一時はバスで代行、との車掌の声をきいて目的地を尋ねられるなどして、社内の人々が次の駅につくのも夕方かという騒ぎになって一時間が過ぎたころ、幸いに電車は動き出しました。実は、3.11直前に福島の観光公社に就職が決まった健気に働いている後輩がいるので、会いに行ってこようとも考えていましたが、これでは行かれなくなってしまいました。
それでも、今、福島は、新島八重を取り上げた大河ドラマ「八重の桜」で観光客を掴もうとの地元の熱の入れようですから、あちこちにポスターが綾瀬はるかの貼られ、特別展を開催中でした。ドラマ館、県立博物館を見て、目的地の福島こむこむ館での「尊厳の芸術」展もみてきました。
段々、東北が近くて行き易い所になってきたように思います。
春の桜のころは、あちこちが花の国のようですね。
大河ドラマも見るので、福島や東北の人達の心根の深さを改めて思います。
京都もいいけど、東北の良さをもっと知る必要があるなぁと思います。
観光はその為にも重要な仕事ですから、後輩の熱心さを見習って頑張ろうと思ってます。
http://pid.nhk.or.jp/event/PPG0151561/index.html
泊まったところはスキー場の前、せっかくなので10年ぶりにスキーを借り、人滑り!!パウダースノー、天気も暖かく爽快でした。ゲレンデは、スノボーを楽しむ若者や家族ずれが大半でスキーはマイノリティ―になったのだなあなどと思いながら滑り降りてくると、取材班がいて何やら韓国語が飛び交っていました。傍にいた方に聞くとNHK国際放送局で、韓国からのスキーツアーを取材しているとのこと。まだまた、韓国からの旅行者は戻って来てはいないとは言っていましたが、ツアー参加者の顔は満足そうでした。
因みに最近は環境省 放射能測定値が公表されており、福島はかなりの地点でチェックされており、
(会津) http://radioactivity.mext.go.jp/map/ja/area.html
(いわき)http://radioactivity.mext.go.jp/map/ja/area2.html
むしろ、いわきは北茨城市に近いが、会津の線量より高い。会津は柏よりもかなり低い値なのに驚いた。
ホテルから、会津町へ行き、電車をまっていると遅延、さらに来た電車は単線のために行きかう反対方向からの電車が途中で大雪で列車が動かなくなって!! 一時はバスで代行、との車掌の声をきいて目的地を尋ねられるなどして、社内の人々が次の駅につくのも夕方かという騒ぎになって一時間が過ぎたころ、幸いに電車は動き出しました。実は、3.11直前に福島の観光公社に就職が決まった健気に働いている後輩がいるので、会いに行ってこようとも考えていましたが、これでは行かれなくなってしまいました。
それでも、今、福島は、新島八重を取り上げた大河ドラマ「八重の桜」で観光客を掴もうとの地元の熱の入れようですから、あちこちにポスターが綾瀬はるかの貼られ、特別展を開催中でした。ドラマ館、県立博物館を見て、目的地の福島こむこむ館での「尊厳の芸術」展もみてきました。
段々、東北が近くて行き易い所になってきたように思います。
春の桜のころは、あちこちが花の国のようですね。
大河ドラマも見るので、福島や東北の人達の心根の深さを改めて思います。
京都もいいけど、東北の良さをもっと知る必要があるなぁと思います。
観光はその為にも重要な仕事ですから、後輩の熱心さを見習って頑張ろうと思ってます。
2013年02月21日
福島第1警戒区域のペット犬猫992匹保護(2012年末時点)
上野駅の公園口をでたところで、福島県の犬猫の避難所をサポートしている若い人たちが募金を呼び掛けていたので、娘達も日々被災地の動物たちの心配もしていたので募金に協力した。
大田区の「ねこひと会」では、福島県南相馬市・双葉郡等警戒区域内で猫を保護している。
被災猫の里親様/一時預かりボランティア募集中!猫を探している飼い主さんへの情報もお寄せ下さいとのこと。 http://nekohito.org/category/eastjapanearthquake
ヤマト運輸「311犬猫後方支援の会」宛で、支援を受付けている。
下記のブログで、猫ちゃん、ワンちゃん達の保護の様子を写真で掲載している。
http://okomenokiwami.blog38.fc2.com/
福島県が福島第1原発事故の警戒区域で保護したペットの犬猫が2012年末時点で992匹に上ることが分かった。うち4割の引き取り手が見つからず、県は引き取りを呼び掛けている。
内訳は犬が451匹、猫が541匹。11年4月〜12年12月の県の実態調査や住民の一時立ち入り同行の際に保護した。これまで犬369匹、猫230匹が元の飼い主や新たな飼い主に引き取られた。
県は飼い主不明の犬猫の写真を保護時から1カ月間、県動物救護本部のホームページで公開し、引き取りを促している。引き取り手が見つからない場合は同県三春町の救護本部三春シェルターで保護している。これまで殺処分した犬猫はいないという。
県食品生活衛生課は「時間の経過と共に保護数は少なくなっている。避難区域再編が進み、今後は地元市町村と協議して保護活動を進めたい」と話している。シェルターでは猫砂が不足しているため、寄付を呼び掛けている。餌やりや清掃を担うボランティアも募集している。連絡先はシェルター024(983)8330。
出典:河北新報 2月19日(火)6時10分配信
大田区の「ねこひと会」では、福島県南相馬市・双葉郡等警戒区域内で猫を保護している。
被災猫の里親様/一時預かりボランティア募集中!猫を探している飼い主さんへの情報もお寄せ下さいとのこと。 http://nekohito.org/category/eastjapanearthquake
ヤマト運輸「311犬猫後方支援の会」宛で、支援を受付けている。
下記のブログで、猫ちゃん、ワンちゃん達の保護の様子を写真で掲載している。
http://okomenokiwami.blog38.fc2.com/
福島県が福島第1原発事故の警戒区域で保護したペットの犬猫が2012年末時点で992匹に上ることが分かった。うち4割の引き取り手が見つからず、県は引き取りを呼び掛けている。
内訳は犬が451匹、猫が541匹。11年4月〜12年12月の県の実態調査や住民の一時立ち入り同行の際に保護した。これまで犬369匹、猫230匹が元の飼い主や新たな飼い主に引き取られた。
県は飼い主不明の犬猫の写真を保護時から1カ月間、県動物救護本部のホームページで公開し、引き取りを促している。引き取り手が見つからない場合は同県三春町の救護本部三春シェルターで保護している。これまで殺処分した犬猫はいないという。
県食品生活衛生課は「時間の経過と共に保護数は少なくなっている。避難区域再編が進み、今後は地元市町村と協議して保護活動を進めたい」と話している。シェルターでは猫砂が不足しているため、寄付を呼び掛けている。餌やりや清掃を担うボランティアも募集している。連絡先はシェルター024(983)8330。
出典:河北新報 2月19日(火)6時10分配信
2013年02月20日
文化の日本に注目、GNPからGNCへ!
最近のフランスでは「文化の日本、経済のフランス」という論調があるのだという。フランス人の経営者が日産を建て直したこフランス人の経営者が日産を建て直したことに象徴されるようにフランスは経済の国。逆に日本のアニメや若者文化がフランスで相当に流行しているという。日本が貿易黒字でバッシングされていた時代とは違う現象になっているようだ。
確かに我孫子ツアーに外国人を案内しながら、話をすると日本文化について相当の興味をもっていて、日本語はおろか武術を学んだりと、日本の文化に強い興味を示す留学生や観光客がいると感じる。フランスで「文化の日本、経済のフランス」という転換がおきていたとは意外だが、確かに日本経済の低迷が続く中でも、宮崎アニメや北野武、村上春樹などは世界的に認められて来ている。フランスで人気の漫画『Dr.スランプ アラレちゃん』『ドラゴンボール』の作者は、子どもにまで有名なのだそうだ。麻生さんが政治家の割に漫画が好きだと珍しがられるように、こうした人気キャラクターを輩出できる日本のアニメや漫画を見ていなから、日本の政財界人は、その鳥山明が誰なのか知らない。国際的な賞を取るレベルになって、評価をしているがこれはまた海外流出の問題になるのではないだろうか。
これからはコンテンツ産業だとの声もあるが、日本の漫画家では生活できる人が少ないのだから、作家たちを助成しないと技術者が海外にいったようになってしまうのではないか。そういう点でも、映画ロケ地を観光に宣伝して、コンテンツ産業の振興に力をいれるお隣韓国は凄い。韓国は、人口も面積も日本より少ないが、韓国への観光客は日本へくる観光客よりも多いのだ。
■外国人観光客 受け入れ人数 国別ランキング
順位 国 地域 外国人観光客
受け入れ人数(単位:人)
1 フランス 欧州 76,800,000
2 アメリカ 北米 59,745,000
3 中国 アジア 55,665,000
4 スペイン 欧州 52,677,000
5 イタリア 欧州 43,626,000
6 イギリス 欧州 28,133,000
7 トルコ アジア 27,000,000
8 ドイツ 欧州 26,874,000
9 マレーシア アジア 24,577,000
10 メキシコ 北米 22,395,000
11 オーストリア 欧州 22,004,000
12 ウクライナ 欧州 21,203,000
13 ロシア 欧州 20,271,000
14 香港 アジア 20,085,000
15 カナダ 北米 16,095,000
16 タイ アジア 15,842,000
17 ギリシャ 欧州 15,007,000
18 エジプト アフリカ 14,051,000
19 ポーランド 欧州 12,470,000
20 マカオ アジア 11,926,000
21 オランダ 欧州 10,883,000
22 サウジアラビア アジア 10,850,000
23 ハンガリー 欧州 9,510,000
24 クロアチア※1 欧州 9,335,000
25 モロッコ アフリカ 9,288,000
26 シンガポール アジア 9,161,000
27 デンマーク 欧州 9,097,000
28 韓国 アジア 8,798,000
29 スイス 欧州 8,628,000
30 日本 アジア 8,611,000
31 シリア アジア 8,546,000
32 南アフリカ アフリカ 8,074,000
33 アラブ首長国連邦 アジア 7,432,000
34 ベルギー 欧州 7,217,000
35 アイルランド※2 欧州 7,189,000
観光庁が発表した上位40ヶ国(2010年)国別の内訳だが、どうみても日本の観光振興への努力は不十分です。
日本が外国人観光増加に目を向けなら、新たな雇用創出、産業の装置になるはず。
我孫子も、可能性を掘り起こそう。
確かに我孫子ツアーに外国人を案内しながら、話をすると日本文化について相当の興味をもっていて、日本語はおろか武術を学んだりと、日本の文化に強い興味を示す留学生や観光客がいると感じる。フランスで「文化の日本、経済のフランス」という転換がおきていたとは意外だが、確かに日本経済の低迷が続く中でも、宮崎アニメや北野武、村上春樹などは世界的に認められて来ている。フランスで人気の漫画『Dr.スランプ アラレちゃん』『ドラゴンボール』の作者は、子どもにまで有名なのだそうだ。麻生さんが政治家の割に漫画が好きだと珍しがられるように、こうした人気キャラクターを輩出できる日本のアニメや漫画を見ていなから、日本の政財界人は、その鳥山明が誰なのか知らない。国際的な賞を取るレベルになって、評価をしているがこれはまた海外流出の問題になるのではないだろうか。
これからはコンテンツ産業だとの声もあるが、日本の漫画家では生活できる人が少ないのだから、作家たちを助成しないと技術者が海外にいったようになってしまうのではないか。そういう点でも、映画ロケ地を観光に宣伝して、コンテンツ産業の振興に力をいれるお隣韓国は凄い。韓国は、人口も面積も日本より少ないが、韓国への観光客は日本へくる観光客よりも多いのだ。
■外国人観光客 受け入れ人数 国別ランキング
順位 国 地域 外国人観光客
受け入れ人数(単位:人)
1 フランス 欧州 76,800,000
2 アメリカ 北米 59,745,000
3 中国 アジア 55,665,000
4 スペイン 欧州 52,677,000
5 イタリア 欧州 43,626,000
6 イギリス 欧州 28,133,000
7 トルコ アジア 27,000,000
8 ドイツ 欧州 26,874,000
9 マレーシア アジア 24,577,000
10 メキシコ 北米 22,395,000
11 オーストリア 欧州 22,004,000
12 ウクライナ 欧州 21,203,000
13 ロシア 欧州 20,271,000
14 香港 アジア 20,085,000
15 カナダ 北米 16,095,000
16 タイ アジア 15,842,000
17 ギリシャ 欧州 15,007,000
18 エジプト アフリカ 14,051,000
19 ポーランド 欧州 12,470,000
20 マカオ アジア 11,926,000
21 オランダ 欧州 10,883,000
22 サウジアラビア アジア 10,850,000
23 ハンガリー 欧州 9,510,000
24 クロアチア※1 欧州 9,335,000
25 モロッコ アフリカ 9,288,000
26 シンガポール アジア 9,161,000
27 デンマーク 欧州 9,097,000
28 韓国 アジア 8,798,000
29 スイス 欧州 8,628,000
30 日本 アジア 8,611,000
31 シリア アジア 8,546,000
32 南アフリカ アフリカ 8,074,000
33 アラブ首長国連邦 アジア 7,432,000
34 ベルギー 欧州 7,217,000
35 アイルランド※2 欧州 7,189,000
観光庁が発表した上位40ヶ国(2010年)国別の内訳だが、どうみても日本の観光振興への努力は不十分です。
日本が外国人観光増加に目を向けなら、新たな雇用創出、産業の装置になるはず。
我孫子も、可能性を掘り起こそう。
2013年02月19日
国際的な日本文化の象徴・KIMONO、衰退の一途を喰い止めるには
現代の日本で言う着物とは主に絹織物です。高価で、着脱・保管にも手間がかかるため、日常生活から消えていくばかりでした。箪笥の肥しの代表格で、一度も袖を通さないままでもてあますならば、リサイクルに売り払われて、それをフレアマーケットで見つけた外国人がテーブルや椅子のファブリック、インテリアに切り刻んで使うなどに喜ばれるようになり、古着屋を利用しない日本人は精々が質札にするかどうかでした。ところが、ビンテージもののジーンズ、Tシャツを愛用する世代が出てきて、そこに絹の着物も安価に叩かれて流れ着きました。それを見た若い子たちが、新たな感覚でコスプレの素材のように目立つこともあって、着物で終末にデートということも出てきました。
かつては、庶民の生活でどんな着方をしていたかというと、柳兼子さんなどは黄八丈(きはちじょう)がお好きだったようでした。いわゆる草木染めの絹織物で、八丈島に自生する植物の煮汁で黄色、鳶色、黒に染められた糸を平織りまたは綾織りに織って縞模様や格子模様にした反物です。現在は国の指定を受けた伝統的工芸品ですから、民芸の創始者の奥さまとしてもピッタリの着物だったのでしょう。
◆身分の差を払いのけて
着物の歴史を振り返ると、江戸時代は身分の差によって衣服に対する厳しい規制がありました。
そんな制約の中でも、紬(つむぎ)は養蚕農家では商品化できない(粗悪品とされる)繭糸を使って織りあげており、絹に見えないほど質素なものに見えたため、百姓や町人などの身分でも着用が許されていました。昭和の中頃まで、農村の多くの家には糸車と機織り機があり、養蚕農家ではくず繭から真綿を作り、それから一本一本指先で糸を紡ぎ、藍染めをして縞柄や絣柄の着物を織っていました。その伝統技術が高く評価されるようになってきて、訪問着として紬が見直されてきたのです。民主的なカジュアルなお洒落とでもいうべき紬は、かつての普段着の位置から、現代のお洒落として着る場面がむしろ広がりを見せています。
◎普段着のお洒落
紬は、きものの世界ではカジュアルとはいえ、洋服と比べると全てシルクで作られた上質な服装です。バッグや小物に気を使えば高級レストランでもぴか一の注目度、敬意でもてなしてもらえます。さらに面白いのは、下駄を合わせることもできるので、一段とカジュアル度合いが増します。なにしろ、こうした小物を揃えるだけでも現代は和のスペシャリストのようなものですから、フォーマルのお洒落が型どおりなら、ジーンズのお洒落が出来れば着こなしの幅が広い着物上級者となるわけです。 普通、紬の着物はフォーマルな場には着ていけないことになっています。しかし、一ツ紋入りの色無地の紬だけは例外で、相当なお洒落な方は披露宴などに着て行く事もあるようです。そこで、ちょっとだけ紬の出来るまでも概略を記しておきましょう。
紬(tumugi)とは蚕の繭から糸を取り出し、より(ひねり)をかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物です。紬は世界一緻密な織物とも言われ、丈夫なため普段着の着物とされていましたが、最近はおしゃれ着へと変化をしています。織物の中で最も渋く、深い味わいを持つ着物で、着物通の人が好む織物と言われています。
紬の良さはパリっとしていて軽く、とても着やすい着物です。着付けてもらって出てきたような見えるよりもざっくりとラフに着たほうがおしゃれに見えます。逆に、きっちり着付けるよりは、むしろラフな着こなしが「味」に見えるメリットを持っています。布地が固くしまっているので、最初はジーンズのように着るとごわごわして感じますが、着るほどに軽くやわらかい着心地になります。絹のドレスにないジーンズの小気味よいカジュアルなお洒落に似ています。
☆紬は大きく3種類
1.結城紬・大島紬…最高級品とされる紬の着物で、制作に1年かかるといわれます。
あまりに高価なため、若い人が着用することはあまりありませんでした。日本の古典的な幾何学模様などを始め、伝統的な模様が多く制作されています。
大島紬の魅力は豪華さと何と言ってもその高級感にあります。奄美大島の島民には着用が禁止され、もっぱら薩摩藩への上納品とされていました。泥大島・藍大島・藍泥大島・色大島・白大島などの種類があります。深黒の泥染めには気品と光沢があり、日本女性の顔色をきれいに際立たせます。黒い瞳に黒い髪、多くの日本女性が美しく見える色だからです。帯は、塩瀬やちりめんの染めの帯、すくいの名古屋帯を締めたり、お洒落用の袋帯を結びます。
結城紬は茨城県結城市を中心に生産され、絹織物の一級品です。糸質精緻、染色堅牢をうたわれ、「結城は一度、寝間着にしてから外出着にする」と言われるほど丈夫な上に着れば着るほどツヤが出て体になじみます。日本文化特有の「渋み」を表現してくれる代表的なキモノと言えます。藍紺の結城には白地に墨絵のヒゲ紬の帯。また泥染のお洒落袋、つや消しのスワトウなど、帯よって自由な雰囲気が楽しめます。
2.米沢紬・上田紬・郡上紬・塩沢紬など…カジュアルな格子柄や縞模様の着物で、普段着として楽しめるラフな着物です。塩沢は新潟県塩沢町で生産されます。「単衣といえば塩沢」と言われ、しゃり感」あふれる肌ざわりは初夏と初秋の数か月、きもの好きを虜にしています。紫陽花や菖蒲の花が咲く頃は、鉄紺の塩沢に薄地で羅の名古屋帯。山ゆりの花の咲く頃は、白地の絣に博多帯。華美に見えない渋さが着物にうるさい人程その風格、絶妙の地風がわかるのが塩沢です。今では四季を通じ、オ−ルシ−ズン愛用されています。
3.色無地の紬…1色で染めた布地に一ツ紋を入れた紬です。着物を極めた方が着用する場面が多かったようですが、最近では初心者でも着こなしやすいという理由で若い世代にも人気があります。
白樺派の芸術家の一人である柳兼子さんが上野の音楽学校に通っていたのは明治の終わり、女学生は着物で通学、結婚してから我孫子やってきた姿が「ゆかりの人々」の群像写真の中にありますが、やはり着物です。、炊事洗たくの家事も着物、舞台でも着物を着ることが多く、着物の良さを体現していた人でもありました。我孫子でなら、女性ばかりでなく、男性も勇気をもって紬などからお召いくださいますと、自国文化を見直してみるのにも良いのではないでしょうか。
楚人冠記念公園あたりは、椿や梅が咲く今しがた、着物で散策もピッタリです。
かつては、庶民の生活でどんな着方をしていたかというと、柳兼子さんなどは黄八丈(きはちじょう)がお好きだったようでした。いわゆる草木染めの絹織物で、八丈島に自生する植物の煮汁で黄色、鳶色、黒に染められた糸を平織りまたは綾織りに織って縞模様や格子模様にした反物です。現在は国の指定を受けた伝統的工芸品ですから、民芸の創始者の奥さまとしてもピッタリの着物だったのでしょう。
◆身分の差を払いのけて
着物の歴史を振り返ると、江戸時代は身分の差によって衣服に対する厳しい規制がありました。
そんな制約の中でも、紬(つむぎ)は養蚕農家では商品化できない(粗悪品とされる)繭糸を使って織りあげており、絹に見えないほど質素なものに見えたため、百姓や町人などの身分でも着用が許されていました。昭和の中頃まで、農村の多くの家には糸車と機織り機があり、養蚕農家ではくず繭から真綿を作り、それから一本一本指先で糸を紡ぎ、藍染めをして縞柄や絣柄の着物を織っていました。その伝統技術が高く評価されるようになってきて、訪問着として紬が見直されてきたのです。民主的なカジュアルなお洒落とでもいうべき紬は、かつての普段着の位置から、現代のお洒落として着る場面がむしろ広がりを見せています。
◎普段着のお洒落
紬は、きものの世界ではカジュアルとはいえ、洋服と比べると全てシルクで作られた上質な服装です。バッグや小物に気を使えば高級レストランでもぴか一の注目度、敬意でもてなしてもらえます。さらに面白いのは、下駄を合わせることもできるので、一段とカジュアル度合いが増します。なにしろ、こうした小物を揃えるだけでも現代は和のスペシャリストのようなものですから、フォーマルのお洒落が型どおりなら、ジーンズのお洒落が出来れば着こなしの幅が広い着物上級者となるわけです。 普通、紬の着物はフォーマルな場には着ていけないことになっています。しかし、一ツ紋入りの色無地の紬だけは例外で、相当なお洒落な方は披露宴などに着て行く事もあるようです。そこで、ちょっとだけ紬の出来るまでも概略を記しておきましょう。
紬(tumugi)とは蚕の繭から糸を取り出し、より(ひねり)をかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物です。紬は世界一緻密な織物とも言われ、丈夫なため普段着の着物とされていましたが、最近はおしゃれ着へと変化をしています。織物の中で最も渋く、深い味わいを持つ着物で、着物通の人が好む織物と言われています。
紬の良さはパリっとしていて軽く、とても着やすい着物です。着付けてもらって出てきたような見えるよりもざっくりとラフに着たほうがおしゃれに見えます。逆に、きっちり着付けるよりは、むしろラフな着こなしが「味」に見えるメリットを持っています。布地が固くしまっているので、最初はジーンズのように着るとごわごわして感じますが、着るほどに軽くやわらかい着心地になります。絹のドレスにないジーンズの小気味よいカジュアルなお洒落に似ています。
☆紬は大きく3種類
1.結城紬・大島紬…最高級品とされる紬の着物で、制作に1年かかるといわれます。
あまりに高価なため、若い人が着用することはあまりありませんでした。日本の古典的な幾何学模様などを始め、伝統的な模様が多く制作されています。
大島紬の魅力は豪華さと何と言ってもその高級感にあります。奄美大島の島民には着用が禁止され、もっぱら薩摩藩への上納品とされていました。泥大島・藍大島・藍泥大島・色大島・白大島などの種類があります。深黒の泥染めには気品と光沢があり、日本女性の顔色をきれいに際立たせます。黒い瞳に黒い髪、多くの日本女性が美しく見える色だからです。帯は、塩瀬やちりめんの染めの帯、すくいの名古屋帯を締めたり、お洒落用の袋帯を結びます。
結城紬は茨城県結城市を中心に生産され、絹織物の一級品です。糸質精緻、染色堅牢をうたわれ、「結城は一度、寝間着にしてから外出着にする」と言われるほど丈夫な上に着れば着るほどツヤが出て体になじみます。日本文化特有の「渋み」を表現してくれる代表的なキモノと言えます。藍紺の結城には白地に墨絵のヒゲ紬の帯。また泥染のお洒落袋、つや消しのスワトウなど、帯よって自由な雰囲気が楽しめます。
2.米沢紬・上田紬・郡上紬・塩沢紬など…カジュアルな格子柄や縞模様の着物で、普段着として楽しめるラフな着物です。塩沢は新潟県塩沢町で生産されます。「単衣といえば塩沢」と言われ、しゃり感」あふれる肌ざわりは初夏と初秋の数か月、きもの好きを虜にしています。紫陽花や菖蒲の花が咲く頃は、鉄紺の塩沢に薄地で羅の名古屋帯。山ゆりの花の咲く頃は、白地の絣に博多帯。華美に見えない渋さが着物にうるさい人程その風格、絶妙の地風がわかるのが塩沢です。今では四季を通じ、オ−ルシ−ズン愛用されています。
3.色無地の紬…1色で染めた布地に一ツ紋を入れた紬です。着物を極めた方が着用する場面が多かったようですが、最近では初心者でも着こなしやすいという理由で若い世代にも人気があります。
白樺派の芸術家の一人である柳兼子さんが上野の音楽学校に通っていたのは明治の終わり、女学生は着物で通学、結婚してから我孫子やってきた姿が「ゆかりの人々」の群像写真の中にありますが、やはり着物です。、炊事洗たくの家事も着物、舞台でも着物を着ることが多く、着物の良さを体現していた人でもありました。我孫子でなら、女性ばかりでなく、男性も勇気をもって紬などからお召いくださいますと、自国文化を見直してみるのにも良いのではないでしょうか。
楚人冠記念公園あたりは、椿や梅が咲く今しがた、着物で散策もピッタリです。
2013年02月18日
衰退産業のなかでの成長、箪笥屋
かつては、誰もが留袖、振袖を作っていたため2兆円もの市場規模を誇っていた着物市場。それも、少子化の影響以前に、挙式スタイルの洋式化、嫁入り道具の簡略化で礼装自体のマーケットが縮小した。中でも着物業界はもっともそのあおりを受け、1999年には7000億円と半減を割るほどになり、そして今ではわずか3000億円と、着物市場は衰退の一途となってしまった。
バブル経済の崩壊から立ち直るきっかけを見つけられない業界は、ついに、京都、名古屋、東京と大手呉服問屋が次々と倒産する事態が起き、西陣織、友禅染めなどの職人も伝統工芸の継承者を減らし続けていた。
末期的な状況の中で、箪笥屋の新事業が収益を伸ばしてきている。女性たちのアンケートでは、「着物は好きですか」「直近の一年間で着物を着ていますか」の問いに9割が「着物が好き、できれば着たい」と答えていたのに、同じく9割がここ一年間で「着物を買ってもいないし、着てもいない」と答えていた。第一の理由は「着物ってお高いんでしょ?」「着つけが面倒」とのことで、箪笥屋社長の中村氏が思い立って、着物市場の復興にと販売価格を下げるように海外での縫製などと、次々に戦略を立てた。
遂には1999年、リサイクルきものの一号店をオープン。店は約15坪と狭いが大盛況となり、オープン後の一か月間、予想を上回る600万円の売上を誇った。その後、3か月の間に3店舗まで店舗を増やし、さらには、フランチャイズ化を進め、現在は100店舗を超す。開店後10年経った今でも、売上は毎年右肩上がりで伸びている。
帯や着物をジャストフィット加工(原型復帰も可能)、月々100円で着物を預かるというサービスを開始する。日本全国に眠っている着物は約4億点、そのうちの1%のものが預かりサービスを利用すれば、月々何億というお金が収益としてあがるというのが中村氏の目論見だそうだ。我孫子にもイトーヨーカドー内に出店している。
http://tansuya.jp/
最近は他にもアンティークきもの店が・・・・
http://smkt135.exblog.jp/
中高年でも着物を着ない日常だが、お正月にも着物を着る人も見かけなくなって久しい。しかし、最近になって若いカップルが手賀沼の花火大会など浴衣を着て来るようになっていた。京都では、舞子さんの格好で散策ツアーも流行っているという。着物も気安くハレの日を楽しめるなら、皆で浴衣をきてお祭り気分を味わい、若者には楽しい「非日常」のイベントとなるからなのかもしれない。北の鎌倉では、そうした着物で遊びにくる御嬢さんたちが出没しており、銀座の着物の老舗ツアーなどをブログで呼び掛けるグループもある。今や着物の着つけに細かいことをいう人もいなくなったので、その組み合わせも奇想天外、時には外国人もかんざしを挿して参加して回る姿も加わる。これまでにないような着物の着方が、コスプレのようで面白いようだが、中には人気歌手の真似をして、成人式に肩も露わに出しているお嬢さんまでいるのはどうしたものだろうか。一方できちんとした文化の復活を促さないといけない。我孫子でなら、北の鎌倉と言われることもある着物の似合う場所なので、着物の装いでのイベントも呼び掛けられるのではないだろうか。
http://ameblo.jp/kanako-kimono/entry-11386335499.html
バブル経済の崩壊から立ち直るきっかけを見つけられない業界は、ついに、京都、名古屋、東京と大手呉服問屋が次々と倒産する事態が起き、西陣織、友禅染めなどの職人も伝統工芸の継承者を減らし続けていた。
末期的な状況の中で、箪笥屋の新事業が収益を伸ばしてきている。女性たちのアンケートでは、「着物は好きですか」「直近の一年間で着物を着ていますか」の問いに9割が「着物が好き、できれば着たい」と答えていたのに、同じく9割がここ一年間で「着物を買ってもいないし、着てもいない」と答えていた。第一の理由は「着物ってお高いんでしょ?」「着つけが面倒」とのことで、箪笥屋社長の中村氏が思い立って、着物市場の復興にと販売価格を下げるように海外での縫製などと、次々に戦略を立てた。
遂には1999年、リサイクルきものの一号店をオープン。店は約15坪と狭いが大盛況となり、オープン後の一か月間、予想を上回る600万円の売上を誇った。その後、3か月の間に3店舗まで店舗を増やし、さらには、フランチャイズ化を進め、現在は100店舗を超す。開店後10年経った今でも、売上は毎年右肩上がりで伸びている。
帯や着物をジャストフィット加工(原型復帰も可能)、月々100円で着物を預かるというサービスを開始する。日本全国に眠っている着物は約4億点、そのうちの1%のものが預かりサービスを利用すれば、月々何億というお金が収益としてあがるというのが中村氏の目論見だそうだ。我孫子にもイトーヨーカドー内に出店している。
http://tansuya.jp/
最近は他にもアンティークきもの店が・・・・
http://smkt135.exblog.jp/
中高年でも着物を着ない日常だが、お正月にも着物を着る人も見かけなくなって久しい。しかし、最近になって若いカップルが手賀沼の花火大会など浴衣を着て来るようになっていた。京都では、舞子さんの格好で散策ツアーも流行っているという。着物も気安くハレの日を楽しめるなら、皆で浴衣をきてお祭り気分を味わい、若者には楽しい「非日常」のイベントとなるからなのかもしれない。北の鎌倉では、そうした着物で遊びにくる御嬢さんたちが出没しており、銀座の着物の老舗ツアーなどをブログで呼び掛けるグループもある。今や着物の着つけに細かいことをいう人もいなくなったので、その組み合わせも奇想天外、時には外国人もかんざしを挿して参加して回る姿も加わる。これまでにないような着物の着方が、コスプレのようで面白いようだが、中には人気歌手の真似をして、成人式に肩も露わに出しているお嬢さんまでいるのはどうしたものだろうか。一方できちんとした文化の復活を促さないといけない。我孫子でなら、北の鎌倉と言われることもある着物の似合う場所なので、着物の装いでのイベントも呼び掛けられるのではないだろうか。
http://ameblo.jp/kanako-kimono/entry-11386335499.html
2013年02月17日
スカイツリー周辺の下町散策へ、いざ
スカイツリー周辺の下町散策をしながら、白樺派の人々とのえにしを探ります。
●出発日: 3月10日(日)小雨催行
参加費・申込み金はありません。交通費、昼食代など各自実費で2000円くらいです。出発時間、その他、詳細お問合わせ、申し込みは ninakaizu@gmail.com メールください。
●見学場所:
1.勝海舟生誕地(墨田区・両国公園内)
勝海舟は長崎海軍伝習所で教えていた時代に竜馬がやってきて、欧米人と友好を深めることで日本の独立を守ることが出来るのだと諭したのは有名な話です。竜馬はこの後に海舟の弟子になって、命をかけて奔走し、内戦となるのを抑えたのです。海舟が東京下町の生れだと思いもよりませんが、出自は農民の倅であり、スカイツリー周辺だったということです。
また、勝海舟から多大な影響を受けた一人に、我孫子ゆかりの人・嘉納治五郎師範がいたこともあまり知られていません。元々、嘉納治五郎師範のお家は酒造・廻船の名家として業をされていましたが、嘉納家は幕府の廻船方御用達を勤め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟に設計、工事などを協力させて資金的にも援助を行っていました。嘉納治五郎師範は東大を卒業し、学習院に奉職したときに海舟を訪ねこう話したと言われています。
治五郎:「暫く学問に没頭しようかと思う」
海舟 :「学者になろうとするのか。それとも社会で事をなそうとするのか。」
治五郎:「後者です。その為しばらく必要な学問に集中しようと思います。」
海舟 :「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」
海舟のアドバイスによって、教育者として、灘高の創設に関わり、東京師範学校(旧東京教育大、現筑波大)の校長を歴任、オリンピック招致、柔道を世界スポーツにするために貢献することになりました。
2.香取神社(墨田区)と亀戸天神(江東区)
両国の近くである亀戸には菅原道真をお祭りする天神様があります。九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は末裔であり、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡りました。寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった小祠(しょうし)に道真ゆかりの飛梅(とびうめ)で彫った天神像を奉祀。これが亀戸天神として世に知れる始まりとされています。都内でも藤の花で有名ですが、天神様といえばもちろん梅の花とは切っても切れないご縁です。当日は梅まつりと骨董市も行なわれて賑わいますので、麗かな春を一緒に愉しみましょう。香取神社は、隠れた梅の名所です。120本もの梅が春の香りを漂わせています。
3.東博(台東区・上野公園)の特別庭園公開
東博140周年を記念した数多くの企画が、いよいよ3月で一巡。近代日本における美術コレクターの多くは大実業家、著名な茶人であった場合が多く、東博への寄贈品もそうした人物からでした。柳宗悦は、関東大震災の再建中の東京帝室博物館に、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れていましたが、断られた為、官に頼らない美術館設立の決心を固め、日本民芸館を作ることとなったのでした。
日本初の西洋美術館としては、大原美術館の開館が1930年で最初でしたが、その以前から白樺派同人たちはロダンの彫刻をロダン本人から直送されて美術関係者に注目され、美術展を何度も開催しており、その最たるものは1917年に白樺美術館を計画して募金活動を展開していたことです。柳宗悦の妻・兼子も、何度も独唱会を開いて寄附をおこない、その金額は白樺同人の中でも目を見張ります。柳は、白樺美術館を断念した同人たちの意思を汲むかのように、1924年(大正13年)に朝鮮民族美術館を恵福宮(ソウル)に開設、また柳と昵懇となる大原とは例の白樺派の同人たちロダンの彫刻を寄託し、大原美術館は彼らの果たせなかった白樺美術館の意思を汲んでいました。
また、柳はこの後の1928年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会で、民藝運動の同人と諮り「民藝館」を出品しました。都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームというような設えのもので、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれました。博覧会終了後は、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎(当時アサヒビール社長)がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本邸内に移築して「三国荘」となっていました。
・・・・・・追記・・・・・・・・・・
嘉納治五郎の妻(須磨子)も海舟との関係は親密です。須磨子の父・竹添進一郎は朝鮮の甲申政変(1884年に起きた閔氏政権打倒のクーデター)の時の日本国公使であり、履信(長男)を養嗣子として竹添家を継がせています。竹添進一郎は、27歳の折に藩命により江戸を訪ねた際には勝海舟に会って、国家大経を論じその見識の深さに海舟を驚かしめ、以後親しく交わったとされています。甲申政変には金玉均、朴泳孝らと共に尹致昊(ユンチホ)(1864〜1945)が加わっており、柳宗悦は尹致昊にも対面(1920)していることも分かってきています。海舟の東洋和平の思想が、叔父の治五郎から柳宗悦にも反映されていると考えられます。
柳宗悦が著わした『朝鮮とその藝術』には、こうした身近な人たちの影響による歴史認識の背景も大きいと考えられます。妻となる兼子も「柳」という名前が、一文字であったことや、学習院を首席で卒業して東京帝大進学する青年であったことが印象的に記憶されるが、柳の父・柳楢悦は海軍創設時からの和算家として海図を創る上で重要な人物であり、海軍では柳楢悦を抜きに語ることはできないと言われる人物で、早逝されなければ爵位に叙される立場だったと言われていたそうです。
勝海舟の談話:
「しかし朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だよ。昔しは、日本文明の種子は、皆朝鮮から輸入したのだから。特に土木事業などは、盡く朝鮮人に教はつたのだ。何時か山梨県のある處から、石橋の記を作つてくれ、と頼まれたことがあつたがその由来記の中に「白衣の神人来たりて云々」といふ句があつた、白衣で、そして髭があるなら疑もなく朝鮮人だろうよ。この橋の出来たのが、既に数百年前だといふから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつた。」
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないぢゃないか。たとへ日本が勝ってもどうなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客だ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。」
勝海舟(江藤淳、松浦玲編)『氷川清話』講談社学術文庫、269頁。
参考HP
http://tkyburabura.web.fc2.com/people-katsu/people_katsu.html
●出発日: 3月10日(日)小雨催行
参加費・申込み金はありません。交通費、昼食代など各自実費で2000円くらいです。出発時間、その他、詳細お問合わせ、申し込みは ninakaizu@gmail.com メールください。
●見学場所:
1.勝海舟生誕地(墨田区・両国公園内)
勝海舟は長崎海軍伝習所で教えていた時代に竜馬がやってきて、欧米人と友好を深めることで日本の独立を守ることが出来るのだと諭したのは有名な話です。竜馬はこの後に海舟の弟子になって、命をかけて奔走し、内戦となるのを抑えたのです。海舟が東京下町の生れだと思いもよりませんが、出自は農民の倅であり、スカイツリー周辺だったということです。
また、勝海舟から多大な影響を受けた一人に、我孫子ゆかりの人・嘉納治五郎師範がいたこともあまり知られていません。元々、嘉納治五郎師範のお家は酒造・廻船の名家として業をされていましたが、嘉納家は幕府の廻船方御用達を勤め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟に設計、工事などを協力させて資金的にも援助を行っていました。嘉納治五郎師範は東大を卒業し、学習院に奉職したときに海舟を訪ねこう話したと言われています。
治五郎:「暫く学問に没頭しようかと思う」
海舟 :「学者になろうとするのか。それとも社会で事をなそうとするのか。」
治五郎:「後者です。その為しばらく必要な学問に集中しようと思います。」
海舟 :「それはいけない。それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ。」
海舟のアドバイスによって、教育者として、灘高の創設に関わり、東京師範学校(旧東京教育大、現筑波大)の校長を歴任、オリンピック招致、柔道を世界スポーツにするために貢献することになりました。
2.香取神社(墨田区)と亀戸天神(江東区)
両国の近くである亀戸には菅原道真をお祭りする天神様があります。九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は末裔であり、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡りました。寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった小祠(しょうし)に道真ゆかりの飛梅(とびうめ)で彫った天神像を奉祀。これが亀戸天神として世に知れる始まりとされています。都内でも藤の花で有名ですが、天神様といえばもちろん梅の花とは切っても切れないご縁です。当日は梅まつりと骨董市も行なわれて賑わいますので、麗かな春を一緒に愉しみましょう。香取神社は、隠れた梅の名所です。120本もの梅が春の香りを漂わせています。
3.東博(台東区・上野公園)の特別庭園公開
東博140周年を記念した数多くの企画が、いよいよ3月で一巡。近代日本における美術コレクターの多くは大実業家、著名な茶人であった場合が多く、東博への寄贈品もそうした人物からでした。柳宗悦は、関東大震災の再建中の東京帝室博物館に、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れていましたが、断られた為、官に頼らない美術館設立の決心を固め、日本民芸館を作ることとなったのでした。
日本初の西洋美術館としては、大原美術館の開館が1930年で最初でしたが、その以前から白樺派同人たちはロダンの彫刻をロダン本人から直送されて美術関係者に注目され、美術展を何度も開催しており、その最たるものは1917年に白樺美術館を計画して募金活動を展開していたことです。柳宗悦の妻・兼子も、何度も独唱会を開いて寄附をおこない、その金額は白樺同人の中でも目を見張ります。柳は、白樺美術館を断念した同人たちの意思を汲むかのように、1924年(大正13年)に朝鮮民族美術館を恵福宮(ソウル)に開設、また柳と昵懇となる大原とは例の白樺派の同人たちロダンの彫刻を寄託し、大原美術館は彼らの果たせなかった白樺美術館の意思を汲んでいました。
また、柳はこの後の1928年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会で、民藝運動の同人と諮り「民藝館」を出品しました。都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームというような設えのもので、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれました。博覧会終了後は、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎(当時アサヒビール社長)がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本邸内に移築して「三国荘」となっていました。
・・・・・・追記・・・・・・・・・・
嘉納治五郎の妻(須磨子)も海舟との関係は親密です。須磨子の父・竹添進一郎は朝鮮の甲申政変(1884年に起きた閔氏政権打倒のクーデター)の時の日本国公使であり、履信(長男)を養嗣子として竹添家を継がせています。竹添進一郎は、27歳の折に藩命により江戸を訪ねた際には勝海舟に会って、国家大経を論じその見識の深さに海舟を驚かしめ、以後親しく交わったとされています。甲申政変には金玉均、朴泳孝らと共に尹致昊(ユンチホ)(1864〜1945)が加わっており、柳宗悦は尹致昊にも対面(1920)していることも分かってきています。海舟の東洋和平の思想が、叔父の治五郎から柳宗悦にも反映されていると考えられます。
柳宗悦が著わした『朝鮮とその藝術』には、こうした身近な人たちの影響による歴史認識の背景も大きいと考えられます。妻となる兼子も「柳」という名前が、一文字であったことや、学習院を首席で卒業して東京帝大進学する青年であったことが印象的に記憶されるが、柳の父・柳楢悦は海軍創設時からの和算家として海図を創る上で重要な人物であり、海軍では柳楢悦を抜きに語ることはできないと言われる人物で、早逝されなければ爵位に叙される立場だったと言われていたそうです。
勝海舟の談話:
「しかし朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だよ。昔しは、日本文明の種子は、皆朝鮮から輸入したのだから。特に土木事業などは、盡く朝鮮人に教はつたのだ。何時か山梨県のある處から、石橋の記を作つてくれ、と頼まれたことがあつたがその由来記の中に「白衣の神人来たりて云々」といふ句があつた、白衣で、そして髭があるなら疑もなく朝鮮人だろうよ。この橋の出来たのが、既に数百年前だといふから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつた。」
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないぢゃないか。たとへ日本が勝ってもどうなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客だ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。」
勝海舟(江藤淳、松浦玲編)『氷川清話』講談社学術文庫、269頁。
参考HP
http://tkyburabura.web.fc2.com/people-katsu/people_katsu.html
2013年02月16日
新韓国大統領の父:朴正煕
今日の午後は、水の館で手賀沼のシンポジウムにてお話しを聞いていた。その水の館の前にあるのが我孫子市鳥の博物館だ。先月20日は「鳥の博物館」に設置のお天気カメラで、空に光る物体を確認されて隕石の光だと話題になった。当時、神奈川県を走っていた車の車載カメラにも、青白い光がキャッチされるなど、同じ時間に多数の隕石落下かとの目撃証言があった。大きな爆発音を聞いたという人も多く、先日来より話題となっていた。そして、昨日のロシアに落ちた隕石はやたらに大きくて建物を破損していたから、地震や津波だけでなく、空から飛来するモノまで、世の中で何が起きるか分からない。
杉浦直治教授(東京大学・惑星科学)は「これは、『火球』と呼ぶんですけど、これが地上まで落ちてくれば、隕石と呼びます。隕石として地上で発見されると、学問的にも、いろいろ面白いことがわかるかもしれない」と話した。北朝鮮が核実験をするとかの不安材料からしたら、隕石は自然界、宇宙の摂理で我慢するが、人間が関与する国際社会は平和構築を目指さなくてはいけない。私たちが生きているということはこうした危険・懸念と常に一体になっているということでもある。
さて、隣国・韓国では新大統領が就任する。しかも、前朴統領の娘であって、真に日本との国交正常化に尽くされた方だった。
故福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本統治時代を批判する旨の発言を始めたところ、朴正煕大統領は彼をなだめたうえで次のように語った。
「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」(「日韓 禁断の歴史」 (p.212 金完燮 2003年発行 小学館 )
また、無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新について「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していたと言われる。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬し、西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた。こうしたことから、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進、さらに維新体制の確立など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。
日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。
酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。
前朴大統領は自著『国家・民族・私』で、「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。(韓国社会は)姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない。わが民族史を考察してみると情けないというほかない。われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」
また、自著『韓民族の進むべき道』で、李氏朝鮮について「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である。今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである。今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
さらに『韓民族の進むべき道』で、韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として、事大主義、怠惰と不労働所得観念、開拓精神の欠如、企業心の不足、悪性利己主義、名誉観念の欠如、健全な批判精神の欠如などを挙げていた。
愛妻家ではあったが、 陸英修夫人(暗殺の凶弾がそれて夫人が亡くなった。韓国では結婚後も旧姓を名乗る。)とは見合いを経て結婚したが、恥ずかしがり屋であったために、見合いの際には酒を飲んでから臨んだとか。陸英修夫人とは終生、ただの妻以上に尊敬し続け、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった。もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないと言われるほどだった。
朴正煕は自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウルへの立ち入りを禁じていたという。独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素潔癖であり、ネポティズム(縁故採用)も嫌っており、韓国大統領の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、彼の死後には私有財産がほとんどなかった。そのため保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国の発展に最も大きく貢献した韓国歴代大統領ともいわれている。韓国大統領の人気ランキングでは、朴正煕がダントツ1位の75.8%、金大中が2位の12.9%に選ばれている。
過去に政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。また、終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であったが、北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも苦境に陥っている。
前朴政権に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げ、韓国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめる事となる足がかりを作った事や、治安の良さを再評価する動きが出て来ていた。支持者からは「独裁政権」ではあるものの、日本から経済援助を引き出し、韓国に秩序と経済発展をもたらしたのも事実であり、また人事面においても釜山市の都市建設で力量を発揮した工兵将校出身の金玄玉をソウル市長に抜擢するなど、格式を無視して有能な人材を要職に登用した。かつて朴正煕批判で職を追われたことがある趙甲濟も、「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的な指導者だった」と、朴暗殺事件の取材を通じて以前の否定的な見解を変えていた。
最近のネットユーザーからは「親日派として罵倒するのは問題がある」、「朴正煕大統領が親日派だったら、日本統治時代に生まれ育ち、日本の教育を受けた人はみんな親日派ということだが、親日派でも国民生活の向上に力を入れたことは評価すべき」、「韓国が発展できる基盤を作ったことは重要」と、功と過を正しく評価すべきとの声も多く上がっている。
参考:Wikipedia
杉浦直治教授(東京大学・惑星科学)は「これは、『火球』と呼ぶんですけど、これが地上まで落ちてくれば、隕石と呼びます。隕石として地上で発見されると、学問的にも、いろいろ面白いことがわかるかもしれない」と話した。北朝鮮が核実験をするとかの不安材料からしたら、隕石は自然界、宇宙の摂理で我慢するが、人間が関与する国際社会は平和構築を目指さなくてはいけない。私たちが生きているということはこうした危険・懸念と常に一体になっているということでもある。
さて、隣国・韓国では新大統領が就任する。しかも、前朴統領の娘であって、真に日本との国交正常化に尽くされた方だった。
故福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本統治時代を批判する旨の発言を始めたところ、朴正煕大統領は彼をなだめたうえで次のように語った。
「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」(「日韓 禁断の歴史」 (p.212 金完燮 2003年発行 小学館 )
また、無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新について「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していたと言われる。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬し、西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた。こうしたことから、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進、さらに維新体制の確立など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。
日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。
酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。
前朴大統領は自著『国家・民族・私』で、「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。(韓国社会は)姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない。わが民族史を考察してみると情けないというほかない。われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」
また、自著『韓民族の進むべき道』で、李氏朝鮮について「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である。今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである。今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
さらに『韓民族の進むべき道』で、韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として、事大主義、怠惰と不労働所得観念、開拓精神の欠如、企業心の不足、悪性利己主義、名誉観念の欠如、健全な批判精神の欠如などを挙げていた。
愛妻家ではあったが、 陸英修夫人(暗殺の凶弾がそれて夫人が亡くなった。韓国では結婚後も旧姓を名乗る。)とは見合いを経て結婚したが、恥ずかしがり屋であったために、見合いの際には酒を飲んでから臨んだとか。陸英修夫人とは終生、ただの妻以上に尊敬し続け、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった。もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないと言われるほどだった。
朴正煕は自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウルへの立ち入りを禁じていたという。独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素潔癖であり、ネポティズム(縁故採用)も嫌っており、韓国大統領の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、彼の死後には私有財産がほとんどなかった。そのため保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国の発展に最も大きく貢献した韓国歴代大統領ともいわれている。韓国大統領の人気ランキングでは、朴正煕がダントツ1位の75.8%、金大中が2位の12.9%に選ばれている。
過去に政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。また、終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であったが、北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも苦境に陥っている。
前朴政権に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げ、韓国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめる事となる足がかりを作った事や、治安の良さを再評価する動きが出て来ていた。支持者からは「独裁政権」ではあるものの、日本から経済援助を引き出し、韓国に秩序と経済発展をもたらしたのも事実であり、また人事面においても釜山市の都市建設で力量を発揮した工兵将校出身の金玄玉をソウル市長に抜擢するなど、格式を無視して有能な人材を要職に登用した。かつて朴正煕批判で職を追われたことがある趙甲濟も、「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的な指導者だった」と、朴暗殺事件の取材を通じて以前の否定的な見解を変えていた。
最近のネットユーザーからは「親日派として罵倒するのは問題がある」、「朴正煕大統領が親日派だったら、日本統治時代に生まれ育ち、日本の教育を受けた人はみんな親日派ということだが、親日派でも国民生活の向上に力を入れたことは評価すべき」、「韓国が発展できる基盤を作ったことは重要」と、功と過を正しく評価すべきとの声も多く上がっている。
参考:Wikipedia
2013年02月15日
経済大国でないが良質生活のイタリア!?
経済危機で苦しんでいるイタリア。失業も多く、経済成長に失敗した国に見えます。しかし、ここ20年ぐらい、ちいさな村や町に着実に新しい豊かさの芽が育っていることは見逃せません。一方。日本では人口減少、超高齢化社会へ向かうなかでどう対処していくか。日本でもスローフード、アグリツーリズム(グリーンツーリズム)の研究が始まっています。今や、時代に乗り遅れたかに見えていたジェントルでスローな流れのライフスタイルを維持していけるようにすることがトレンドになっています。ですから、わが町・我孫子も、チャンスをとらえる機だと思うのです!そこで、イタリアの村の研究をされている宗田好史教授(イタリアに留学。工学博士。京都府立大教授)のトークセッション(2/14)に代官山まで行ってきました。
イタリアの各地にある農村の魅力には美しい風土とその土地ならではの香り高いワイン、それに合う牛肉、ビンテージもののチーズ、海の幸…イタリアの良さは多くの人の知るところです。また、最近はこれらを売りにする農村観光(アグリツーリズモ)も約2万施設、20万ベッド、一兆円産業に成長しているのだという事です。
宗田教授の新刊本『なぜイタリアの村は美しく元気なのか 市民のスロー志向に応えた農村の選択』では、まちづくりの切掛けとなった三つの変化を語りながら、一見バラバラに起こったように見える動きが、地域でいかに一つに紡ぎ上げられ美しく元気な村の再生に繋がったのか、その秘密を解き明かしています。
「景観」「観光」「農業」で再生する動きが本格化し、「スローフード」「アグリツーリズム」「文化的景観」の3側面が一つの大きな流れになってきたのです。 こうした魅力的な民泊も昔からあったわけではなく、実はこの数十年で創られたものだということです。国がやってくれるのを待っているのではなくて、地域で何ができるか、力を蓄積して豊かな実りをみせる・・・。
イタリアは景観計画の規制が決まっていてかなり細かく丁寧にやっていますし、文化遺産の小さな教会とか、建物とか、モニュメントの凄く豊かなリストを作成しているのだそうで、宗田先生はその人たちを相手にイタリアでもワイン片手にパワポイントで講義もしたのだとその写真も見せてくださいました。。もっとも、イタリアの中でも北と南で政治的バランスが違い、アグリツーリストのなかでもスローフードと相性が良い所と悪いのとがあるとの指摘があります。そういう多くの組織があって、地域社会の活動であり、政治活動であり、文化活動であり、そういう組織がかなり大きな役割を果たしているということです。
一つ例をあげると、1989年に五つの町、村がシエナ県に公園計画の策定を提起したということがあります。小さい町や村なので、それぞれの街に計画をつくる能力をもった職員がいない。そこで96年にヴァル・ドルチャ有限会社を設立します。第3セクタ―をつくるお金もないので、村長さんたちや議員さんが100万円とか150万円と少しずつポケットマネーを出し合ってつくって会社にしたのです。イタリアとはいえ、議員達も寝ていない、議場だけでなく農業再興のために出資もするとはなかなかです。97年には五つの自治体の地域協議会がつくられ、実際のまちづくりの整備はこの有限会社にやってもらうことに決めました。 それぞれの街には都市計画部門はもともとありませんでした。農業部門はあったのですがこれも切り離しました。工業もあったのですが、人口が2000人くらいしかいない村で、そんな職員がいても意味がない。
そして1999年になってヴァル・ドルチャを州立自然保護区域に登録しています。ついに法律によって厳しい規制内容が決められるようになったのです。地域協議会には首長さん、そして一部の議員さんが加わっています。五人の首長さんはヴァル・ドルチャ有限会社の重役にもなっています。もちろん無給です。職員は常勤が3名、非常勤が5名の8名でやっています。常勤スタッフの1人。あと2人は若い女性です。給料は12〜13万円ぐらいだということです。
イタリアは文化的景観に関して、2004年の景観法、同時に改正された文化財保護法に登場しています。これまで考古学、美術・建築中心だった文化遺産も、今は、市民(地域)社会・経済とより密接な関わりを持った都市や農村の課題に展開してきています。
宗田教授は、京都市景観・まちづくりセンターと性格が似ているといい、まちセンよりはるかに大きな権限を持っていて、環境、地域整備と都市計画、農業、工業と手工芸、文化と観光、公共サービスとインフラストラクチャに取り組んでいるのだということです。これからの農業の牽引者は農Girlだそうで、女性が動くと世の中が変わる。そういえば、柏にもブルべりーを観光農業に生かそうとして力をいれている市議会議員がいましたが、そこに女性たちが動き出せば農業の民主化が起きるのはありそうです。我孫子の取り組みは、強力な推進力になる姿が見えません。農業委員には女性が入れませんし、農家の女性に進言しても忙しいからと気のない返事です。今こそ市民、議員を含んだ取り組みがもっともっと必要で、柏に負けないでアイデアを実現していく気概が必要なのでしょう。私もずいぶん視察を重ねてきたので我孫子の可能性の一つには農業と観光だろうと思っています。まだまだ、我孫子は眠っている宝が多い気がします!!
イタリアのアグリツーリズモについてのトークセッションは大入り満員、予約していない人はお断りするくらいでした。つまり、農業観光は若い世代を含めてトレンドになるかなりの展望も開けるという事ではないでしょうか。たっぷり2時間、熱心な聴衆の中には若い女性も多くいて、9時半になろうというのに質問も山もり。せっかくなので代官山駅前のお店でお茶とケーキで一息ついてから、帰りの電車に乗りました。
イタリアの各地にある農村の魅力には美しい風土とその土地ならではの香り高いワイン、それに合う牛肉、ビンテージもののチーズ、海の幸…イタリアの良さは多くの人の知るところです。また、最近はこれらを売りにする農村観光(アグリツーリズモ)も約2万施設、20万ベッド、一兆円産業に成長しているのだという事です。
宗田教授の新刊本『なぜイタリアの村は美しく元気なのか 市民のスロー志向に応えた農村の選択』では、まちづくりの切掛けとなった三つの変化を語りながら、一見バラバラに起こったように見える動きが、地域でいかに一つに紡ぎ上げられ美しく元気な村の再生に繋がったのか、その秘密を解き明かしています。
「景観」「観光」「農業」で再生する動きが本格化し、「スローフード」「アグリツーリズム」「文化的景観」の3側面が一つの大きな流れになってきたのです。 こうした魅力的な民泊も昔からあったわけではなく、実はこの数十年で創られたものだということです。国がやってくれるのを待っているのではなくて、地域で何ができるか、力を蓄積して豊かな実りをみせる・・・。
イタリアは景観計画の規制が決まっていてかなり細かく丁寧にやっていますし、文化遺産の小さな教会とか、建物とか、モニュメントの凄く豊かなリストを作成しているのだそうで、宗田先生はその人たちを相手にイタリアでもワイン片手にパワポイントで講義もしたのだとその写真も見せてくださいました。。もっとも、イタリアの中でも北と南で政治的バランスが違い、アグリツーリストのなかでもスローフードと相性が良い所と悪いのとがあるとの指摘があります。そういう多くの組織があって、地域社会の活動であり、政治活動であり、文化活動であり、そういう組織がかなり大きな役割を果たしているということです。
一つ例をあげると、1989年に五つの町、村がシエナ県に公園計画の策定を提起したということがあります。小さい町や村なので、それぞれの街に計画をつくる能力をもった職員がいない。そこで96年にヴァル・ドルチャ有限会社を設立します。第3セクタ―をつくるお金もないので、村長さんたちや議員さんが100万円とか150万円と少しずつポケットマネーを出し合ってつくって会社にしたのです。イタリアとはいえ、議員達も寝ていない、議場だけでなく農業再興のために出資もするとはなかなかです。97年には五つの自治体の地域協議会がつくられ、実際のまちづくりの整備はこの有限会社にやってもらうことに決めました。 それぞれの街には都市計画部門はもともとありませんでした。農業部門はあったのですがこれも切り離しました。工業もあったのですが、人口が2000人くらいしかいない村で、そんな職員がいても意味がない。
そして1999年になってヴァル・ドルチャを州立自然保護区域に登録しています。ついに法律によって厳しい規制内容が決められるようになったのです。地域協議会には首長さん、そして一部の議員さんが加わっています。五人の首長さんはヴァル・ドルチャ有限会社の重役にもなっています。もちろん無給です。職員は常勤が3名、非常勤が5名の8名でやっています。常勤スタッフの1人。あと2人は若い女性です。給料は12〜13万円ぐらいだということです。
イタリアは文化的景観に関して、2004年の景観法、同時に改正された文化財保護法に登場しています。これまで考古学、美術・建築中心だった文化遺産も、今は、市民(地域)社会・経済とより密接な関わりを持った都市や農村の課題に展開してきています。
宗田教授は、京都市景観・まちづくりセンターと性格が似ているといい、まちセンよりはるかに大きな権限を持っていて、環境、地域整備と都市計画、農業、工業と手工芸、文化と観光、公共サービスとインフラストラクチャに取り組んでいるのだということです。これからの農業の牽引者は農Girlだそうで、女性が動くと世の中が変わる。そういえば、柏にもブルべりーを観光農業に生かそうとして力をいれている市議会議員がいましたが、そこに女性たちが動き出せば農業の民主化が起きるのはありそうです。我孫子の取り組みは、強力な推進力になる姿が見えません。農業委員には女性が入れませんし、農家の女性に進言しても忙しいからと気のない返事です。今こそ市民、議員を含んだ取り組みがもっともっと必要で、柏に負けないでアイデアを実現していく気概が必要なのでしょう。私もずいぶん視察を重ねてきたので我孫子の可能性の一つには農業と観光だろうと思っています。まだまだ、我孫子は眠っている宝が多い気がします!!
イタリアのアグリツーリズモについてのトークセッションは大入り満員、予約していない人はお断りするくらいでした。つまり、農業観光は若い世代を含めてトレンドになるかなりの展望も開けるという事ではないでしょうか。たっぷり2時間、熱心な聴衆の中には若い女性も多くいて、9時半になろうというのに質問も山もり。せっかくなので代官山駅前のお店でお茶とケーキで一息ついてから、帰りの電車に乗りました。
2013年02月14日
東日本大震災、福島原発汚染の影響と国外事故の現状
東京電力福島第1原発事故を受け、福島県が当時18歳以下の子供を対象に実施している甲状腺検査で、新たに2人から甲状腺がんが見つかったことが13日、県民健康管理調査の検討委員会で明らかになった。
2011年度の甲状腺検査でこれまでに1人から甲状腺がんが見つかっている。
県立医大は、原発事故の影響の可能性は低いとしている。
出典:時事通信 2月13日(水)13時39分配信
--------------------------------------------------------------------------------
福島県などは11年度の検査(2012年9月11日)では、東京電力福島第1原発の事故当時18歳以下だった全県民を対象とした甲状腺検査で、1人から甲状腺がんが見つかったと発表していた。検査を担当した福島県立医大の鈴木真一教授は「放射線の影響で発症する期間はチェルノブイリですら最短4年で、それより早いことは極めてまれ」と述べ、原発事故が原因の可能性は低いとの見方を示した。
出典:時事ドットコム 2012/09/11-19:39)
東日本大震災100枚の記録:
http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_quake&p=lat216&rel=y&g=phl
◆ NHKスペシャル シリーズ日本新生
どうするエネルギー政策〜山積する課題を追う〜
2月16日(土) 午後7:30〜8:45
午後9:00〜10:13
http://www.nhk.or.jp/special/program/index.html
【ルポ 未だ進まぬ原発汚染の現状】
■チェルノブイリから25年(モスクワ支局長 奥山昌志)■
1986年4月26日の旧ソ連チェルノブイリ原発事故から25年。ウクライナ政府は「負の遺産」のイメージ転換を探り始めたが、原発周辺の放射能汚染は依然深刻で、強制立ち退きとなった住民11万人以上が帰還できる見通しは立っていない。ウクライナ政府のプレスツアーで3月末、同原発を訪れ、現状を探った。
http://www.jiji.com/jc/v4?id=chernobyl-tmi&p=chernobyl-tmi-jlp10676425
炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近づくと放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴り続けた。通常の50倍を超える放射線量だ。
「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れないよう新たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの立ち入り規制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が始まった。
ただ、建設費15億4000万ユーロ(約1830億円)に対し、拠出額が6億ユーロ不足しているため、ウクライナ政府は今月19日に国際会議を開き、追加支援を求める。新シェルターは100年の耐久性を持つとされ、完成すれば安全性向上に役立つと期待される。
しかし、近い将来、立ち入り規制区域内に住民が帰還するのは困難とみられている。原発職員ら約5万人が住んでいた原発近郊の町プリピャチでは無人のアパートや学校、レストラン、商店などが荒れ果てるままに放置されていた。
コンクリートやアスファルトの割れ目に盛り上がるコケに線量計をかざすと、毎時2マイクロシーベルトを超え、土壌の放射能汚染をうかがわせた。
避難先になじめず、居住禁止を無視して自宅に舞い戻った少数の老人らの存在は政府も黙認しているが、ハロシャ局長は「半減期の長い放射能の除染は難しい。地元の野菜や果物、キノコなどを食べるのは危険で、果たして帰還がいいことなのか慎重に考えなければならない」と述べた。
その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。
ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。1日で8グループが訪問したこともある」と話した。
しかし、こうした動きを批判する声も根強い。チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。
その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。
ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。1日で8グループが訪問したこともある」と話した。
しかし、こうした動きを批判する声も根強い。チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。
その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。
ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。1日で8グループが訪問したこともある」と話した。
しかし、こうした動きを批判する声も根強い。チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。当時のソ連政府が発表した死者数は消防士ら33人だが、大量に被ばくした事故処理作業員らが多数死亡。子供の甲状腺がん多発など深刻な健康被害ももたらしたとされる。
原発の周囲30キロ圏では住民約12万人が強制立ち退きとなり、現在も立ち入り規制が敷かれている
■スリーマイル島原発事故32年 (ワシントン特派員 淡路愛)■
米ペンシルベニア州ミドルタウンで1979年に発生したスリーマイル島(TMI)原発事故から3月28日で丸32年たった。サスケハナ川の中州にあるスリーマイル島原発で発生。2基の加圧水型軽水炉のうち、2号機の2次冷却水ポンプが故障し、人為的ミスも重なって露出した炉心が溶融。放射性物質を含んだ水蒸気が外部に漏れ出した。国際原子力事故評価尺度(INES)の8段階評価(0〜7)では「5」。
放射能汚染の脅威に直面した小さな町では今も原子炉1基が稼働、のどかな田園風景の中に際立つ存在感を放つ。住民は32年後の福島第1原発事故をどう受け止めているのか、現地で取材した。
「TMI、チェルノブイリ、福島。次の犠牲は誰?」−。氷点下の未明、プラカードやろうそくを手にした住民約30人が原発入り口前に集まった。毎年3月28日に行われる抗議集会。参加者は事故発生時刻の午前4時前、今年は日本の被災者のために黙とうをささげた。背後の夜空にそびえる冷却塔から水蒸気が立ち上っている。
「日本の事故で余計に心配になった。ここでもまたメルトダウン(炉心溶融)が起きるかもしれない」。主婦マリア・フリズビーさん(47)は不安げな表情で高校生だった当時を振り返った。「外に出ると空気が鉄のような味がして、肌がひりひりした」。住民の避難で街がゴーストタウンのようになったのを覚えている。
事故以来、反核運動を続けてきたメアリー・オズボーンさんは、健康への悪影響はなかったという当局の説明を今も信じていない。当時のカーター大統領が「流出すれば原発産業を崩壊させたであろう情報を隠している」との疑念を語った。
地元大学教授らが反核の学者グループを新たに立ち上げるなど、福島を機にTMI原発を見つめ直す動きも出てきた。しかし、集会の規模が物語るように危機感を積極的に訴えるのは一部住民にとどまり、原発の街はおおむね平静に見える。
TMI原発では事故の危機収束後、放射能除去に12年、約10億ドルの費用を要した。しかし、「最大の課題は地域住民の信頼を取り戻すことだった」とラルフ・デサンティス広報部長は言う。事故当時、TMI原発には広報部すらなく、情報収集・公表過程での混乱が住民の恐怖と不信を拡大させた。
TMI原発のあるロンドンデリー郡区のスティーブ・レタビック郡区長も「大半の住民は改善された管理体制に信頼を寄せている」と太鼓判を押した。「日本の事故がTMI事故を思い出させるのは事実だが、地震と津波があった日本との違いも住民は認識している」とも指摘する。
地元客でにぎわう中心部の飲食店。てきぱきと注文をさばく女性店員は「私にとっては過去の話」と言い切った。原発も地元経済を支える地域生活の一部。無頓着なわけではないが、「結局ここでの暮らしは続く」というのが本音だという。
(記事は2011年3月下旬の状況を時事ドットコムでまとめたものです)
2011年度の甲状腺検査でこれまでに1人から甲状腺がんが見つかっている。
県立医大は、原発事故の影響の可能性は低いとしている。
出典:時事通信 2月13日(水)13時39分配信
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福島県などは11年度の検査(2012年9月11日)では、東京電力福島第1原発の事故当時18歳以下だった全県民を対象とした甲状腺検査で、1人から甲状腺がんが見つかったと発表していた。検査を担当した福島県立医大の鈴木真一教授は「放射線の影響で発症する期間はチェルノブイリですら最短4年で、それより早いことは極めてまれ」と述べ、原発事故が原因の可能性は低いとの見方を示した。
出典:時事ドットコム 2012/09/11-19:39)
東日本大震災100枚の記録:
http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_quake&p=lat216&rel=y&g=phl
◆ NHKスペシャル シリーズ日本新生
どうするエネルギー政策〜山積する課題を追う〜
2月16日(土) 午後7:30〜8:45
午後9:00〜10:13
http://www.nhk.or.jp/special/program/index.html
【ルポ 未だ進まぬ原発汚染の現状】
■チェルノブイリから25年(モスクワ支局長 奥山昌志)■
1986年4月26日の旧ソ連チェルノブイリ原発事故から25年。ウクライナ政府は「負の遺産」のイメージ転換を探り始めたが、原発周辺の放射能汚染は依然深刻で、強制立ち退きとなった住民11万人以上が帰還できる見通しは立っていない。ウクライナ政府のプレスツアーで3月末、同原発を訪れ、現状を探った。
http://www.jiji.com/jc/v4?id=chernobyl-tmi&p=chernobyl-tmi-jlp10676425
炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近づくと放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴り続けた。通常の50倍を超える放射線量だ。
「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れないよう新たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの立ち入り規制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が始まった。
ただ、建設費15億4000万ユーロ(約1830億円)に対し、拠出額が6億ユーロ不足しているため、ウクライナ政府は今月19日に国際会議を開き、追加支援を求める。新シェルターは100年の耐久性を持つとされ、完成すれば安全性向上に役立つと期待される。
しかし、近い将来、立ち入り規制区域内に住民が帰還するのは困難とみられている。原発職員ら約5万人が住んでいた原発近郊の町プリピャチでは無人のアパートや学校、レストラン、商店などが荒れ果てるままに放置されていた。
コンクリートやアスファルトの割れ目に盛り上がるコケに線量計をかざすと、毎時2マイクロシーベルトを超え、土壌の放射能汚染をうかがわせた。
避難先になじめず、居住禁止を無視して自宅に舞い戻った少数の老人らの存在は政府も黙認しているが、ハロシャ局長は「半減期の長い放射能の除染は難しい。地元の野菜や果物、キノコなどを食べるのは危険で、果たして帰還がいいことなのか慎重に考えなければならない」と述べた。
その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。
ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。1日で8グループが訪問したこともある」と話した。
しかし、こうした動きを批判する声も根強い。チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。
その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。
ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。1日で8グループが訪問したこともある」と話した。
しかし、こうした動きを批判する声も根強い。チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。
その一方で、事故から25年を迎え、ウクライナ政府は原発への「観光ツアー」の解禁で、「負の遺産」を観光資源として利用する道を探り始めた。
ウクライナ非常事態省は、所定の手続きを取れば、研究者やメディア関係者だけでなく、観光客にも原発訪問を許可している。専門ガイドのユーリー・タタルチュクさん(38)は「今年は事故25周年や福島原発事故でチェルノブイリへの関心が高まり、訪問者が増えた。1日で8グループが訪問したこともある」と話した。
しかし、こうした動きを批判する声も根強い。チェルノブイリ原発の元技術者で、大量被ばくで障害者認定を受けたアナトリー・コリャジンさん(61)は「事故原発をビジネスに利用して潤うのは一部の政府関係者らだけ。政府は被ばく障害者への医療支援の支出を制限しており、必要な手術が受けられないケースが増えている」と指摘している。当時のソ連政府が発表した死者数は消防士ら33人だが、大量に被ばくした事故処理作業員らが多数死亡。子供の甲状腺がん多発など深刻な健康被害ももたらしたとされる。
原発の周囲30キロ圏では住民約12万人が強制立ち退きとなり、現在も立ち入り規制が敷かれている
■スリーマイル島原発事故32年 (ワシントン特派員 淡路愛)■
米ペンシルベニア州ミドルタウンで1979年に発生したスリーマイル島(TMI)原発事故から3月28日で丸32年たった。サスケハナ川の中州にあるスリーマイル島原発で発生。2基の加圧水型軽水炉のうち、2号機の2次冷却水ポンプが故障し、人為的ミスも重なって露出した炉心が溶融。放射性物質を含んだ水蒸気が外部に漏れ出した。国際原子力事故評価尺度(INES)の8段階評価(0〜7)では「5」。
放射能汚染の脅威に直面した小さな町では今も原子炉1基が稼働、のどかな田園風景の中に際立つ存在感を放つ。住民は32年後の福島第1原発事故をどう受け止めているのか、現地で取材した。
「TMI、チェルノブイリ、福島。次の犠牲は誰?」−。氷点下の未明、プラカードやろうそくを手にした住民約30人が原発入り口前に集まった。毎年3月28日に行われる抗議集会。参加者は事故発生時刻の午前4時前、今年は日本の被災者のために黙とうをささげた。背後の夜空にそびえる冷却塔から水蒸気が立ち上っている。
「日本の事故で余計に心配になった。ここでもまたメルトダウン(炉心溶融)が起きるかもしれない」。主婦マリア・フリズビーさん(47)は不安げな表情で高校生だった当時を振り返った。「外に出ると空気が鉄のような味がして、肌がひりひりした」。住民の避難で街がゴーストタウンのようになったのを覚えている。
事故以来、反核運動を続けてきたメアリー・オズボーンさんは、健康への悪影響はなかったという当局の説明を今も信じていない。当時のカーター大統領が「流出すれば原発産業を崩壊させたであろう情報を隠している」との疑念を語った。
地元大学教授らが反核の学者グループを新たに立ち上げるなど、福島を機にTMI原発を見つめ直す動きも出てきた。しかし、集会の規模が物語るように危機感を積極的に訴えるのは一部住民にとどまり、原発の街はおおむね平静に見える。
TMI原発では事故の危機収束後、放射能除去に12年、約10億ドルの費用を要した。しかし、「最大の課題は地域住民の信頼を取り戻すことだった」とラルフ・デサンティス広報部長は言う。事故当時、TMI原発には広報部すらなく、情報収集・公表過程での混乱が住民の恐怖と不信を拡大させた。
TMI原発のあるロンドンデリー郡区のスティーブ・レタビック郡区長も「大半の住民は改善された管理体制に信頼を寄せている」と太鼓判を押した。「日本の事故がTMI事故を思い出させるのは事実だが、地震と津波があった日本との違いも住民は認識している」とも指摘する。
地元客でにぎわう中心部の飲食店。てきぱきと注文をさばく女性店員は「私にとっては過去の話」と言い切った。原発も地元経済を支える地域生活の一部。無頓着なわけではないが、「結局ここでの暮らしは続く」というのが本音だという。
(記事は2011年3月下旬の状況を時事ドットコムでまとめたものです)
2013年02月13日
まず、やってみること
イギリスの劇作家サウザーンは「失敗は落胆の原因ではなく、新鮮な刺激である」といったが、こうした気概をもって事に臨むことが何より大切なことといえる。
一代で西武王国を築き挙げた堤康二郎の、その前半生は失敗の連続だった。彼が20代で手がけた事業は、鉄工所経営、石油採掘、雑誌発行、船会社の買収、真珠の養殖と、おどろくほど多彩だが、そのすべてに失敗しているのだ。「そのときはもう自分は世の中に生きている値打ちのない人間だとまで思った」と、堤康二郎は当時をふりかえってこう述べている。
本田宗一郎氏も「現在の私が成功というなら、その土台を築いたのは失敗である。私のしてきた仕事は失敗の連続であった」といっている。
世の中の成功者で失敗に言及しなかった人はまずいない。山ほどの失敗をしたからこそ、大きな成功にたどりついたのだ。上手くいかない経験を一つ一つ積み重ねていくことが成功へ近づく方法であり、失敗も「しないほうがいい」のではなくてそうして「苦労はしたほうがいい」のである。
つまり、成功に遠い人とは失敗を恐れる人なのだということだ。「失敗をしまい」と考えたときから人は消極的になってしまう。あるいは「失敗したくない」ために何もしない。失敗はプロセスでおこることであり、最終結論ではないということだ。確かに、失敗しない者は結局は何事もなしえない。
人のやらないこと、やれないと思っていることをやれば、失敗する確率は非常に高くなる。
「決して倒れないのが良いのではない。倒れたらすぐ起き上がるのが貴いのである。」
(オリバー・ゴールドスミス)
失敗を恐れない人は、逆境や修羅場に強くなっていく。失敗しても失敗しても、起き上がる不屈の精神が成功のカギなのだ。我孫子のためになる事なら、諦めないでがんばろう!
川北義則 『逆転の人生法則』PHP
一代で西武王国を築き挙げた堤康二郎の、その前半生は失敗の連続だった。彼が20代で手がけた事業は、鉄工所経営、石油採掘、雑誌発行、船会社の買収、真珠の養殖と、おどろくほど多彩だが、そのすべてに失敗しているのだ。「そのときはもう自分は世の中に生きている値打ちのない人間だとまで思った」と、堤康二郎は当時をふりかえってこう述べている。
本田宗一郎氏も「現在の私が成功というなら、その土台を築いたのは失敗である。私のしてきた仕事は失敗の連続であった」といっている。
世の中の成功者で失敗に言及しなかった人はまずいない。山ほどの失敗をしたからこそ、大きな成功にたどりついたのだ。上手くいかない経験を一つ一つ積み重ねていくことが成功へ近づく方法であり、失敗も「しないほうがいい」のではなくてそうして「苦労はしたほうがいい」のである。
つまり、成功に遠い人とは失敗を恐れる人なのだということだ。「失敗をしまい」と考えたときから人は消極的になってしまう。あるいは「失敗したくない」ために何もしない。失敗はプロセスでおこることであり、最終結論ではないということだ。確かに、失敗しない者は結局は何事もなしえない。
人のやらないこと、やれないと思っていることをやれば、失敗する確率は非常に高くなる。
「決して倒れないのが良いのではない。倒れたらすぐ起き上がるのが貴いのである。」
(オリバー・ゴールドスミス)
失敗を恐れない人は、逆境や修羅場に強くなっていく。失敗しても失敗しても、起き上がる不屈の精神が成功のカギなのだ。我孫子のためになる事なら、諦めないでがんばろう!
川北義則 『逆転の人生法則』PHP
2013年02月12日
必見!東京国立博物館140周年 特別展 「日中友好40周年記念 特別展 書聖・王羲之」と「松永耳庵の茶道具」
上野公園内にある東京国立博物館は1872年(明治5)3月10日、文部省博物局が湯島聖堂大成殿において最初の博覧会を開催したとき、わが国初の博物館としてその産声をあげました。博物館は開館後間もなく内山下町に移転、次いで明治15年に上野公園に移り、現在にいたっています。140年目に当たる本年は特別展が幾つも開催されていますが、白樺派の面々も上野の博覧会を何度か訪ねながら遂には白樺美術館の構想を立てて、特に柳宗悦は兼子夫人の支えを得て最も奮闘していました。
そこで、久々に上野公園内を歩きましたが、上野に近い利点で下記の2特別展は是非ごらんになることをお薦めします。
@平成館 特別展示室 「書聖 王羲之」
:2013年1月22日(火) 〜 2013年3月3日(日)
中国4世紀の東晋時代に活躍した王羲之(おうぎし、303〜361、異説あり)は従来の書法を飛躍的に高めました。
その書は歴代の皇帝にも愛好され、王羲之信仰とでも言うべき状況を形成します。唐の太宗皇帝は全国に散在する王羲之の書を収集し、宮中に秘蔵するとともに、精巧な複製を作らせ臣下に下 賜して、王羲之を賞揚しました。
それゆえに王羲之の最高傑作である蘭亭序(らんていじょ)は、太宗皇帝が眠る昭陵(しょうりょう)に副葬され、 後世の人々が見ることが出来なくなりました。その他の書も戦乱などで失われ、現在、王羲之の真蹟は一つも残されていません。そのため、宮廷で作られた精巧な複製は、王羲之の字姿を類推するうえで、もっとも信頼の置ける一等資料となります。今回の展覧会では、内外に所蔵される名品を通して、王羲之が歴史的に果たした役割を再検証するまたとない機会だとされて、多くの参観者がひきも切りません。とても2時間くらいでは見切れません!
A本館 4室 「松永耳庵の茶道具」
2012年11月27日(火) 〜 2013年2月24日(日)
今回の特集陳列では、松永安左エ門氏(耳庵)が茶道具の蒐集家としての名を一躍有名にするきっかけとなった≪文琳茶入 銘宇治≫(ぶんりんちゃいれ めい うじ)をはじめ、先達・鈍翁に競り勝って手に入れた≪大井戸茶碗 有楽井戸≫(おおいどちゃわん うらくいど)など、松永コレクションを代表する茶道具を一堂に会し展示しています。東京国立博物館蔵の「松永コレクション」は、第二次世界大戦前に氏が蒐集し、昭和22年(1947)に氏のご意志によってご寄贈いただいたものです。氏が茶の湯を通じて蒐集、愛好した名品の数々を観賞することが出来ます。
*松永安左エ門氏(1875〜1971)は、長崎県壱岐に生まれ、後に電力王と呼ばれるまでになった人です。今日の電力業界が批判にさらされる戦前から、その問題性を鋭く指摘していたために地位を追われ、後半の人生はお茶に没頭されて、その世界でも一流を極め、財産は公共に寄付されて生涯を閉じました。
慶応義塾卒業後、学友らの引きあいで九州電灯鉄道・東邦電力等を率いて、戦前戦後を通じて電力界の重鎮として活躍されました。氏が茶の湯を始めたのは還暦を迎えてからで、『論語』の「六十にして耳順(したが)う」にちなんで耳庵(じあん)という号を名乗るようになります。埼玉県新座市に春風庵、柳瀬村(現所沢市)に山荘「柳瀬荘」を営んで、益田鈍翁(ますだどんのう、1848〜1938)や、原三渓(はらさんけい、1868〜 1939)といった我が国の近代茶の湯の主導者たちと広く交流から、古美術品の蒐集においても強く影響を受けました。当時の数寄者たちは、蒐集した美術品を茶席へ惜しみなく用いて取り合わせを楽しむ茶の湯を展開し、耳庵氏もまた、古くからの概念にとらわれない、自由で豪快な茶の湯スタイルを受け継ぐ、最期の茶の名人たちの一人でした。
そこで、久々に上野公園内を歩きましたが、上野に近い利点で下記の2特別展は是非ごらんになることをお薦めします。
@平成館 特別展示室 「書聖 王羲之」
:2013年1月22日(火) 〜 2013年3月3日(日)
中国4世紀の東晋時代に活躍した王羲之(おうぎし、303〜361、異説あり)は従来の書法を飛躍的に高めました。
その書は歴代の皇帝にも愛好され、王羲之信仰とでも言うべき状況を形成します。唐の太宗皇帝は全国に散在する王羲之の書を収集し、宮中に秘蔵するとともに、精巧な複製を作らせ臣下に下 賜して、王羲之を賞揚しました。
それゆえに王羲之の最高傑作である蘭亭序(らんていじょ)は、太宗皇帝が眠る昭陵(しょうりょう)に副葬され、 後世の人々が見ることが出来なくなりました。その他の書も戦乱などで失われ、現在、王羲之の真蹟は一つも残されていません。そのため、宮廷で作られた精巧な複製は、王羲之の字姿を類推するうえで、もっとも信頼の置ける一等資料となります。今回の展覧会では、内外に所蔵される名品を通して、王羲之が歴史的に果たした役割を再検証するまたとない機会だとされて、多くの参観者がひきも切りません。とても2時間くらいでは見切れません!
A本館 4室 「松永耳庵の茶道具」
2012年11月27日(火) 〜 2013年2月24日(日)
今回の特集陳列では、松永安左エ門氏(耳庵)が茶道具の蒐集家としての名を一躍有名にするきっかけとなった≪文琳茶入 銘宇治≫(ぶんりんちゃいれ めい うじ)をはじめ、先達・鈍翁に競り勝って手に入れた≪大井戸茶碗 有楽井戸≫(おおいどちゃわん うらくいど)など、松永コレクションを代表する茶道具を一堂に会し展示しています。東京国立博物館蔵の「松永コレクション」は、第二次世界大戦前に氏が蒐集し、昭和22年(1947)に氏のご意志によってご寄贈いただいたものです。氏が茶の湯を通じて蒐集、愛好した名品の数々を観賞することが出来ます。
*松永安左エ門氏(1875〜1971)は、長崎県壱岐に生まれ、後に電力王と呼ばれるまでになった人です。今日の電力業界が批判にさらされる戦前から、その問題性を鋭く指摘していたために地位を追われ、後半の人生はお茶に没頭されて、その世界でも一流を極め、財産は公共に寄付されて生涯を閉じました。
慶応義塾卒業後、学友らの引きあいで九州電灯鉄道・東邦電力等を率いて、戦前戦後を通じて電力界の重鎮として活躍されました。氏が茶の湯を始めたのは還暦を迎えてからで、『論語』の「六十にして耳順(したが)う」にちなんで耳庵(じあん)という号を名乗るようになります。埼玉県新座市に春風庵、柳瀬村(現所沢市)に山荘「柳瀬荘」を営んで、益田鈍翁(ますだどんのう、1848〜1938)や、原三渓(はらさんけい、1868〜 1939)といった我が国の近代茶の湯の主導者たちと広く交流から、古美術品の蒐集においても強く影響を受けました。当時の数寄者たちは、蒐集した美術品を茶席へ惜しみなく用いて取り合わせを楽しむ茶の湯を展開し、耳庵氏もまた、古くからの概念にとらわれない、自由で豪快な茶の湯スタイルを受け継ぐ、最期の茶の名人たちの一人でした。
2013年02月11日
志賀直哉と我孫子
志賀文学に造詣の深い我孫子市在住の作家・坂上弘氏に寄る講演会(2/9)がありました。会場に入ってびっくり、要予約とはしてあったものの、150席が予約なしでは入れない状況で満杯でした。
志賀直哉は1915(大正4)年から1923(大正12)年まで我孫子に居を構え、代表作といわれる「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」(前編と後編の一部)などを次々に発表しました。中でも「和解」は、主人公順吉と父親との長年にわたる不和とその和解を描いた名作で、作品を読むと我孫子という地名が頻繁に出てくるのですが、志賀直哉自身も好きな作品の一つに挙げているとのことです。
坂上氏は、「和解」が他のどの作品よりも志賀直哉を理解するのに大切な作品であると同時に、若い人々に読み継がれてほしい一冊であると述べておられます。
そのほか、「十一月三日午後の事」にも我孫子の地名が多々出てきます。文豪と言われる作家の小説にこれほど我孫子が強く関わっているという事は、改めて驚きでした。我孫子では、志賀が我孫子はホトホト嫌気がさしたと書いていたのだから嫌っていたに違いないと判断していところがありますが、それはそれとして、子どもが叱られた時に「ママなんか嫌い」というような感想であって、小説としての表現があったとしても、それが作家の本心とは別なのです。作品が書けたこと、その作品が代表作、名作として残ったことはこの地への感謝は間違いなくあったはずだと坂上氏もそのように捉えておいでのようで、書くのに良い環境だと述べておられました。小説は創作上の脚色もあるのですから、たしかに一言一句を鵜呑みにしていけばいいのではなくて、そこで何を言わんとしたかを感じ取らせるかのひょうげんなのでしょう。坂上氏のいわれるように「我孫子によって書けたこと間違いない」のであって、それが佳き作品となったのであれば、感謝こそすれその反対はないだろうと納得しました。
志賀にとって父との葛藤を越えることができたのは、妻と子という新たな家族の誕生によって、折り合いを上手くつけて前にと進み出していけたことなのであって、学習院時代からの同人たちと共に家族もちになり、毎日行き来して友情を深め、生涯にわたって交流を続ける思い出の地であったことは、懐しい心の故郷となっていたことでしょう。我孫子が嫌になったというような一節があったとして、我孫子の全てを受け入れなかったのかのように思い込むのは早合点で、場所の思い出は小説にくっきり刻まれ残ったのには間違いないのですから、誇りにしていいのではないでしょうか。
むしろ、大正のころの彼らは実は今の感覚に近い考え方をしていたのではと思います。講演会を聞いて、もっと、もっと彼らの白樺運動について知りたいと思うようになりました。
志賀直哉は1915(大正4)年から1923(大正12)年まで我孫子に居を構え、代表作といわれる「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」(前編と後編の一部)などを次々に発表しました。中でも「和解」は、主人公順吉と父親との長年にわたる不和とその和解を描いた名作で、作品を読むと我孫子という地名が頻繁に出てくるのですが、志賀直哉自身も好きな作品の一つに挙げているとのことです。
坂上氏は、「和解」が他のどの作品よりも志賀直哉を理解するのに大切な作品であると同時に、若い人々に読み継がれてほしい一冊であると述べておられます。
そのほか、「十一月三日午後の事」にも我孫子の地名が多々出てきます。文豪と言われる作家の小説にこれほど我孫子が強く関わっているという事は、改めて驚きでした。我孫子では、志賀が我孫子はホトホト嫌気がさしたと書いていたのだから嫌っていたに違いないと判断していところがありますが、それはそれとして、子どもが叱られた時に「ママなんか嫌い」というような感想であって、小説としての表現があったとしても、それが作家の本心とは別なのです。作品が書けたこと、その作品が代表作、名作として残ったことはこの地への感謝は間違いなくあったはずだと坂上氏もそのように捉えておいでのようで、書くのに良い環境だと述べておられました。小説は創作上の脚色もあるのですから、たしかに一言一句を鵜呑みにしていけばいいのではなくて、そこで何を言わんとしたかを感じ取らせるかのひょうげんなのでしょう。坂上氏のいわれるように「我孫子によって書けたこと間違いない」のであって、それが佳き作品となったのであれば、感謝こそすれその反対はないだろうと納得しました。
志賀にとって父との葛藤を越えることができたのは、妻と子という新たな家族の誕生によって、折り合いを上手くつけて前にと進み出していけたことなのであって、学習院時代からの同人たちと共に家族もちになり、毎日行き来して友情を深め、生涯にわたって交流を続ける思い出の地であったことは、懐しい心の故郷となっていたことでしょう。我孫子が嫌になったというような一節があったとして、我孫子の全てを受け入れなかったのかのように思い込むのは早合点で、場所の思い出は小説にくっきり刻まれ残ったのには間違いないのですから、誇りにしていいのではないでしょうか。
むしろ、大正のころの彼らは実は今の感覚に近い考え方をしていたのではと思います。講演会を聞いて、もっと、もっと彼らの白樺運動について知りたいと思うようになりました。
2013年02月10日
またも東電の虚偽
福島第一原発事故に関して、国会の事故調査委員会が事故の核心に迫る調査をしようとした時に、東電が嘘をついて調査を妨害した事実が浮かび上がってきた。 その際の事故調と東電側の会話の録音が残っている。
津波ではなく地震で壊れた可能性のある非常用復水器を調査しようとして原子炉建屋に入ろうとしたが東電の妨害により入れなかった田中三彦氏ら事故調メンバーが、今日会見を開き、「国会事故調を愚弄した。これは許されないことだ」と厳しく糾弾した。
報道ステーション(2013/2/7)
東電が事故調に虚偽説明か 現地調査を妨害 投稿者 tvpickup
津波ではなく地震で壊れた可能性のある非常用復水器を調査しようとして原子炉建屋に入ろうとしたが東電の妨害により入れなかった田中三彦氏ら事故調メンバーが、今日会見を開き、「国会事故調を愚弄した。これは許されないことだ」と厳しく糾弾した。
報道ステーション(2013/2/7)
東電が事故調に虚偽説明か 現地調査を妨害 投稿者 tvpickup
2013年02月09日
初春バードウオッチング@水の館
数え年90歳のリーダー・Tさん(写真中央)の呼びかけでバードウオッチングに参加。
オオバン、オナガカモが仲良く水辺で集合しているのを観察しながら、最近は瀧前にヒクイナがやって来るの一日中、カメラでシャッターチャンスを狙って集まってきているだのだとかの情報交換がされた。オオバンがこんなに仲良く群れて、他の鳥たちとも和気あいあいと暮らしているというのを真近でみるのは初めてだった。頭に白い点があるほかモノカラ―で地味な鳥だけれど、性格の良い鳥なのではないかなと思えてきた。
お洒落なTさんはファッション・コーディネイトも見事で、闊達とした立ち居振る舞い、楽しい会話もさすがのレディーだ。帽子もご自分で編んでしまうなど、どうもプロの腕前らしく、兎に角なんでも積極的。良く見ると、周囲の女性がその編み方のコピーをもらって真似して編んでかぶっていたのだ!見習う事が多いので自然に周りにお集まりができるらしくて、バードウオッチングも10年以上も続いているとのこと・・・。となると、80歳にスタートして、二か月に一度なのに絶え間なく続いているということは恐れ入る。実は、毎日手賀沼減りをウオーキングされているというので、その颯爽たる姿はとても御年には見えない、つくづく我孫子には素敵な女性が多いのだとおもう。私は女性が美しくなくては、街は美しくならないと思うので、大いに結構な市民活動に参加出来たと、感激した。春一番のようなとても風が強い日だったが、それでも数人が集まってたように、元気な田口さんがいるから例会は和やかに続いてきた。
次回は、野田の運河のバードウオッチングに行くそうで、たぶん桜の季節が最高だろうと予想されるので、ご興味がある方、もし行ってみたいという方は
ninakaizu@gmail.com へご連絡下さい (*^_^*)
オオバン、オナガカモが仲良く水辺で集合しているのを観察しながら、最近は瀧前にヒクイナがやって来るの一日中、カメラでシャッターチャンスを狙って集まってきているだのだとかの情報交換がされた。オオバンがこんなに仲良く群れて、他の鳥たちとも和気あいあいと暮らしているというのを真近でみるのは初めてだった。頭に白い点があるほかモノカラ―で地味な鳥だけれど、性格の良い鳥なのではないかなと思えてきた。
お洒落なTさんはファッション・コーディネイトも見事で、闊達とした立ち居振る舞い、楽しい会話もさすがのレディーだ。帽子もご自分で編んでしまうなど、どうもプロの腕前らしく、兎に角なんでも積極的。良く見ると、周囲の女性がその編み方のコピーをもらって真似して編んでかぶっていたのだ!見習う事が多いので自然に周りにお集まりができるらしくて、バードウオッチングも10年以上も続いているとのこと・・・。となると、80歳にスタートして、二か月に一度なのに絶え間なく続いているということは恐れ入る。実は、毎日手賀沼減りをウオーキングされているというので、その颯爽たる姿はとても御年には見えない、つくづく我孫子には素敵な女性が多いのだとおもう。私は女性が美しくなくては、街は美しくならないと思うので、大いに結構な市民活動に参加出来たと、感激した。春一番のようなとても風が強い日だったが、それでも数人が集まってたように、元気な田口さんがいるから例会は和やかに続いてきた。
次回は、野田の運河のバードウオッチングに行くそうで、たぶん桜の季節が最高だろうと予想されるので、ご興味がある方、もし行ってみたいという方は
ninakaizu@gmail.com へご連絡下さい (*^_^*)
2013年02月08日
トークセッションに参加しませんか
■バレンタインデー
トークセッション 宗田好史×陣内 秀信
次の豊かさをイタリアに探る
経済危機で苦しんでいるイタリア。失業も多く、経済成長に失敗した良いところがない国に見えます。
しかし、ここ20年ぐらい、ちいさな村や町に着実に新しい豊かさの芽が育っていることは見逃せません。
観光と地域の食を結びつけたアグリツーリズモをとりあげた宗田好史さんの『なぜ、イタリアの村は美しく元気なのか』の刊行を記念し、『イタリア 小さなまちの底力』を書かれた陣内秀信さんをお招きし、お二人に成熟社会の価値観へ向けて着実に社会を前に進めているもう一つのイタリアの姿を伺います。
日時:2013年2月14日(木) 19:30〜21:00
会場:代官山蔦屋書店1号館 1階 総合インフォメーション
お問い合わせ:03-3770-2525
主催:代官山蔦屋書店、協力:学芸出版社
参加方法
『なぜ、イタリアの村は美しく元気なのか』を蔦谷代官山書店で購入する(電話予約可03-3770-2525)
詳細
http://tsite.jp/daikanyama/event/001486.html
『なぜ、イタリアの村は美しく元気なのか
〜市民のスロー志向に応えた農村の選択』
http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/book/ISBN978-4-7615-2536-1.htm
トークセッション 宗田好史×陣内 秀信
次の豊かさをイタリアに探る
経済危機で苦しんでいるイタリア。失業も多く、経済成長に失敗した良いところがない国に見えます。
しかし、ここ20年ぐらい、ちいさな村や町に着実に新しい豊かさの芽が育っていることは見逃せません。
観光と地域の食を結びつけたアグリツーリズモをとりあげた宗田好史さんの『なぜ、イタリアの村は美しく元気なのか』の刊行を記念し、『イタリア 小さなまちの底力』を書かれた陣内秀信さんをお招きし、お二人に成熟社会の価値観へ向けて着実に社会を前に進めているもう一つのイタリアの姿を伺います。
日時:2013年2月14日(木) 19:30〜21:00
会場:代官山蔦屋書店1号館 1階 総合インフォメーション
お問い合わせ:03-3770-2525
主催:代官山蔦屋書店、協力:学芸出版社
参加方法
『なぜ、イタリアの村は美しく元気なのか』を蔦谷代官山書店で購入する(電話予約可03-3770-2525)
詳細
http://tsite.jp/daikanyama/event/001486.html
『なぜ、イタリアの村は美しく元気なのか
〜市民のスロー志向に応えた農村の選択』
http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/book/ISBN978-4-7615-2536-1.htm
2013年02月07日
東アジア外交の昨今
ロシアのプーチン大統領から佐竹敬久知事に寄贈される猫=昨年9月、秋田県提供
写真の大ぶりの子猫はロシアやってきた長毛種のサイベリアン(シベリア猫)。検疫のため半年間、成田空港内の動物検疫所に留め置かれ飼育されていた。東日本大震災の被災地・秋田県に対するロシアの支援に感謝の意を込め、愛犬家として知られるプーチン大統領に県が贈った秋田犬「ゆめ」の返礼としてやってきた。外交特使とでもいう存在で、今月5日に駐日ロシア大使夫妻に伴われ、県庁に到着した。
現在7匹の猫を飼う大の猫好きの佐竹知事は、佐竹北家21代目であり、元県職員から秋田市長など歴任し、全国市長会会長などを務め言うべき時には国にもモノを言う人だと地元での評価も厚いという。昨年10月に空港で猫と“面会”したそうで、「将来の飼い主と分かったのか、帰り際にケージ(オリ)に来て鳴いたのが可愛かった」と頬を緩めた。知事公舎の新入りとなるが、オリとトイレは購入済みとか。名前はロシア語の「ミール」(平和)と命名したことを明らかにした。ロシア側に贈った「ゆめ」と合わせ、「『ゆめ』がかなうには『平和』でなければならない」と話し、日ロ友好の発展に期待を込めた。ホームページでの動画掲載を検討しているという。
*** **** *** ****
ウチの猫も可愛い。エピソードは尽きないが、ある雪の日、お腹が大きくなっていたノラ猫を可哀そうに思って一晩玄関においてやることにしたら、翌朝に赤ちゃんを6匹産んでしまった。これはもらってくれる所を探さないとと躍起になって、全員の里親をみつけて、ほっとしたら一匹が戻ってきた。その時から20年がたって、人間の会話は相当に分かっていて、家族の中を取り持っていると話題の中心です
動植物と付き合うとこれもまたいろいろと教えられるものだと思います。
子供たちの非常に良い遊び相手をしてくれたことも、今さらに知ることになります。
万国共通に心が温まる繋がりが作られるのであり、極めつけはパンダが取り持つ交流というのもあります。
外交ルートを駆使して国交正常化へと向かった例として、「ピンポン外交」があります。舞台は、卓球王者の日本で、私も卓球が好きなので当時の記憶があります。
1971年(昭和46年)に名古屋市で行われた第31回世界卓球選手権は、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った時でした。これは当時の日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長、愛知工業大学学長だった後藤ナ二が地元名古屋での大会を世界一のものとするべく、西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、二つの中国の問題解決に必要な処置(台湾をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断、直接中国に渡り周恩来と交渉を行なった結果でした。文部省からのクレーム、右翼からの脅迫などもあったそうです。交渉は成立したものの、ンガポールで行なわれたアジア卓球連盟総会で、「中国加入・台湾排除」の提案には韓国、マレーシアなどの反対が出て、後藤会長は辞任した。こうした影の努力で、アメリカ合衆国と中華人民共和国との間で外交ルートが出来ていきました。
1971年7月、突如としてキッシンジャー米国務長官が北京を極秘訪問し、米中政府間協議を行ったのです。続いて1971年7月15日には、ニクソン大統領自身が中華人民共和国を訪問すると発表し、世界を驚かせた(ニクソン・ショック!)。
アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するものでしたが、しかしながらキッシンジャーがその東アジア新秩序構想において日本抜きで事を運ぼうとしていることを察知した日本政府及び田中角栄は、アメリカの先手を取ってでき得る限り早く日中国交正常化を果たすことを決断することになります。田中の意を受けて密かに訪中する日本社会党委員長・成田知巳に田中の親書を毛沢東に渡す様に託し、田中の日中国交回復を真剣に目指している事を中国側に伝えます。1972年内閣総理大臣に就任した田中角栄は、同年9月に自ら中華人民共和国を訪問。9月29日、日中国交正常化が成立しました。アメリカの外交戦略の先手を取ったというのは日本の戦後政治史において例外的なことでした。
もう一つの歴史的ピンポン外交の舞台は、千葉県幕張メッセで1991年の開催の世界卓球選手権千葉大会。ここでは統一コリアチーム(朝鮮半島の旗)として出場、女子団体では優勝を果たしています。2000年6月に韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記が初の平壌会談の結果、南北共同宣言が発表される流れを作ります。同年シドニーオリンピック、2004年のアテネオリンピック、2006年の冬季トリノオリンピック、2002年アジア競技大会、2003年アジア冬季競技大会、2006年アジア競技大会の開会式では、両国の選手団は統一行進(競技自体は別の国として参加)を行いスポーツの分野では統一の機運は出て来ていたところだったのです。果たして、ミサイル発射を強行すると宣言する北朝鮮の様子を伺いながら日本との外交を見直して頂けるものか、文化・スポーツ、動物たちの手を借りて、初の韓国女性大統領(2月25日就任)に平和な夢を東アジアにもたらしていただけるよう大いに期待したいです。
2013年02月06日
柳宗悦の朝鮮芸術論を深層分析 韓国で新刊発売
先月、韓国で柳宗悦の朝鮮芸術論を深く分析した新刊「柳宗悦と韓国」が出版された。柳宗悦は、嘉納治五郎の甥にあたり、2歳で父親がなくなった為、父親代わりのような関係であった。柳夫妻が結婚してすぐに嘉納の別荘の隣に住むことになった。宗悦の姉妹両方の夫が朝鮮総督府、仁川総領事館に勤務する関係があり、少年期から自然と朝鮮に関心を持つことなっていった。さらにひも解くと、明治維新の前後から柳家と嘉納家は勝海舟を通じてつながりがあり、そのため柳宗悦の母親・勝子の名は勝海舟が嘉納家を訪問した際に生まれた事にちなんでつけられたという経緯まであるそうです。(因みに、勝海舟と柳宗悦の父親が長崎海軍伝習所の同志、加納治五郎の父は伝播所のスポンサー的立場。後に勝は哲学館(現:東洋大学)設立にも尽力し、嘉納治五郎、柳宗悦もその講師となる。)
柳宗悦は、とうとう兼子夫人、友人らの協力を得て、朝鮮の芸術品を保護するためで朝鮮民族美術館を設立し、また総督府により古宮・景福宮の光化門が取り壊されそうになると、これに反対する文章を発表した。
「朝鮮の全民が骨身に感じるところは限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼らの理想となるのは必然の結果であろう。彼らが日本を愛し得ないことこそ自然であって、敬い得ることこそ例外である」――。
1919年、朝鮮半島で三・一独立運動が起こった約2か月後の5月20日から24日にかけ、読売新聞に「朝鮮人を想う」と題するこのような文章が連載された。この文で、朝鮮総督府による朝鮮人弾圧や日本語教育などの同化政策を批判し、三・一独立運動の正当性を訴えたのが、当時、我孫子に住んでいた柳宗悦(1889〜1961)だった。その二日後、風のない日だったが、柳邸内に築かれたリーチの工房が焼失してしまったと、志賀の文章にある。当時は、柳邸には特高警察の見張り、尾行も頻繁だったと兼子は証言する。我孫子周辺は陸軍演習地だった(志賀直哉「十一月三日の午後の事」に詳しい)。
その後、詩人の崔夏林(チェ・ハリム、1939〜2010)は、1974年6月に発表した文章で「柳は(朝鮮と朝鮮の工芸品に)愛情を持ってはいたが、その愛情を正しく活用しなかった」と指摘した。これを機に、韓国で柳の朝鮮芸術論も日本の植民地支配を正当化した考えだったとの主張が出てくる。
今回、出版された「柳宗悦と韓国」では、そうした柳に対する断片的な評価を控え、柳本来の朝鮮芸術論を深く分析しようとしている。執筆に加わった韓国と日本の研究者らは、柳自身に対する研究だけでなく、柳と朝鮮芸術界の関係、柳と日本芸術界の関係を比較・分析し、植民地時代における日本知識人の朝鮮認識を解き明かそうとの試みだと評価されている。
参照HP
yahoo 聯合ニュース 1月10日(木)21時32分配信
柳宗悦は、とうとう兼子夫人、友人らの協力を得て、朝鮮の芸術品を保護するためで朝鮮民族美術館を設立し、また総督府により古宮・景福宮の光化門が取り壊されそうになると、これに反対する文章を発表した。
「朝鮮の全民が骨身に感じるところは限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼らの理想となるのは必然の結果であろう。彼らが日本を愛し得ないことこそ自然であって、敬い得ることこそ例外である」――。
1919年、朝鮮半島で三・一独立運動が起こった約2か月後の5月20日から24日にかけ、読売新聞に「朝鮮人を想う」と題するこのような文章が連載された。この文で、朝鮮総督府による朝鮮人弾圧や日本語教育などの同化政策を批判し、三・一独立運動の正当性を訴えたのが、当時、我孫子に住んでいた柳宗悦(1889〜1961)だった。その二日後、風のない日だったが、柳邸内に築かれたリーチの工房が焼失してしまったと、志賀の文章にある。当時は、柳邸には特高警察の見張り、尾行も頻繁だったと兼子は証言する。我孫子周辺は陸軍演習地だった(志賀直哉「十一月三日の午後の事」に詳しい)。
その後、詩人の崔夏林(チェ・ハリム、1939〜2010)は、1974年6月に発表した文章で「柳は(朝鮮と朝鮮の工芸品に)愛情を持ってはいたが、その愛情を正しく活用しなかった」と指摘した。これを機に、韓国で柳の朝鮮芸術論も日本の植民地支配を正当化した考えだったとの主張が出てくる。
今回、出版された「柳宗悦と韓国」では、そうした柳に対する断片的な評価を控え、柳本来の朝鮮芸術論を深く分析しようとしている。執筆に加わった韓国と日本の研究者らは、柳自身に対する研究だけでなく、柳と朝鮮芸術界の関係、柳と日本芸術界の関係を比較・分析し、植民地時代における日本知識人の朝鮮認識を解き明かそうとの試みだと評価されている。
参照HP
yahoo 聯合ニュース 1月10日(木)21時32分配信
2013年02月05日
教育者・嘉納治五郎
嘉納治五郎と我孫子の関わりがあるのは、多くの市民の知るところとなっており、このところ講道館の創設者であるその名前と写真が頻出しているので、あらためて嘉納治五郎が本当に柔道家としての位置を改めて感じますが、むしろその他の業績のほうが先行していたのを忘れてしまいがちです。日本の中で旧い歴史のある教育機関であった東京師範学校(後の東京教育大学→現・筑波大学)の校長を3期23年半務められて、現・構内にはそれを顕彰する立像があります。また、中国人留学生を受け入れる民間の学校をつくったのも日本で最初でした。勝海舟とのゆかりの人は、そうした視野が広く海外をも見つめていました。
スポーツは教育の一環であり、教育者としての功績が一番でしょうが、「柔道の父」、また「日本の体育の父」と称される為、諸流派を極めた柔道の達人であったころから世界のスポーツとしての柔道を世に知らせたのは嘉納治五郎であったのは間違いありません。遂には、スポーツの国際大会を日本で開催ということのためにオリンピック招致を働きかけるために海外へ出向き、得意の英語で弁舌して各界の人をうならせ感動をさせて東京での開催を確約させます。残念なことに、その帰路に船の中で亡くなりますが、それは嘉納治五郎らしい最期だったのではないでしょうか。戦前の話ですから、飛行機でひと飛びと言う時代でないので、行きも帰りも大変なご苦労が分かります。1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。
夢を実現する姿勢は生涯変えません。頻繁にきた我孫子別荘から、手賀沼を眺めて、オリンピックのボート競技を開催しようと考えておられた・・・・。これは、夢想家というか、教育者とは自身も常に夢見る人なのでしょう。つまり、嘉納治五郎にとっての夢とはみんなの為に叶えるもののようでした。
我孫子には、こうした土地にゆかりのある人を調べて質の高い研究をされている方々がかなり多くおられます。中でも、「我孫子の文化を守る会」の方々の活動は素晴らしいものがあり、ネットを活用してご自身の労作を惜しげもなく公開されているのです。そのお一人、楫西雄介氏の「葭の髄から」を読むと嘉納治五郎の人となりに惚れこんで、綿密な調査をされていまして驚愕しました。下記はその一部ですが、ほんとうに嘉納治五郎の偉大さを知るところとなります。柔道界の不祥事を嘉納氏は出て来て一喝したいと思われていることでしょう。
***** ****** ******
嘉納治五郎の漢籍の素養の深さは尋常なものではありません。それも道理で、嘉納の父・次郎作まれしば希芝は、近江国坂本日吉大社の神官で且つ和漢洋に通じた学者であった正三位・生源寺希烈の四男(一説には次男)で、父から十分に学問を仕込まれ、絵画も良くした教養人でありました(戸川幸夫『小説嘉納治五郎』)。
しかし嘉納家の養子に迎えられたこの父親は、公私頗る多忙で家のことはほとんど顧みる暇がなく、嘉納六歳の時に山本竹雲なる画家、あるいは山本なる医者の家に通わせて習字や漢学を学ばせます(嘉納治五郎『回顧六十年』)。10歳の時、母親が死亡して東京の父親に引き取られた嘉納は両国の成達書塾に入り、生方桂堂のもとで書道と漢学を修めます。桂堂は嘉納の人物の卓越性を見抜いて特別に心を用いて訓育し、四書五経の素読は既に国許で習得していたので、国史略、日本外史、十八史略、日本政記と順を追うて素読を授け、書の方は一日必ず3帖(半紙60枚)は丁寧に習字せしめたといいます(前出『嘉納先生伝)』)。
嘉納の書の巧さと漢籍の素養は、これら少年時に育まれたものなのです。
嘉納が別荘を構えたわが我孫子にも、嘉納書額は次の5面が残されています)。
一.「力必達(チカラヒッタツ:ツトムレバ必ズ達ス)」
書号は「進乎齋」で、我孫子第一小学校の体育館に懸架されています。
語句の意味は森本説によれば、中庸の20章の要約をした嘉納の造語と思われます。学習院柔道部と京大柔道部の道場には同じ額が架かっています。嘉納の高弟・西郷四郎がモデルといわれる富田常雄『姿三四郎』(下巻「不借の章」)の中にも、三四郎が矢野正五郎(嘉納治五郎)の書いた『力必達』という額を掲げた紘道館(講道館)道場を懐かしむ場面があります。
二.「以人為鏡(イジンイキョウ:人ヲ以テ鏡ト為ス)」
書号は「歸一齋」で、我孫子第一小学校の玄関に懸架されています。語句の意は、ネットの検索により、中国唐時代唐高宗の名相魏徴の名言「以銅為鏡 可以正形 以人為鏡 可以正身」(銅ヲ以テ鏡ト為セバ形ヲ正スベシ、人ヲ以テ鏡ト為セバ身ヲ正スベシ)に基いていることがわかりました。
三.「擇道竭力(タクドウケツリョク:道ヲエラビテ力ヲツクス)」
書号は「歸一齋」で、市役所の市長室に懸架されています。最初の二文字が判読できず、いろいろ識者に当って最後に秘書室よりメールで教えていただきました。この語句の出典は検索不能で、嘉納の造語と思われます。
四.「従善如流(ジュウゼンジョリュウ:善ニ従フコト流ルルガ如シ)」
書号は「歸一齋」で、角松旅館の客室に懸架されています。語句の意は、「善いことに従うのが水の流れのように速く、自然でとどこおることがないこと(『成語林』)」で、平安時代初頭に源為憲が道長の子・頼通のために書いたといわれる『世俗諺文』ということわざ辞典の元祖に登場します。『世俗諺文』には、現在のことわざ辞典にも載っている「良薬口に苦し」「千載一遇」などがすでに記載されていました。出典を辿れば『春秋左氏伝』で、斉の桓公がそういう人となりであったといわれます。
五.「三樹荘(サンジュソウ)」
書号は「歸一齋」で、三樹荘跡、村山正八氏邸の玄関階段上に懸架されています。「三樹荘」とは柳宗悦の旧邸、邸内に椎(スダジイ)の古木が3本屹立しているところから嘉納が命名して、書額に仕立てたものです
嘉納治五郎という人は書家としても一流を究められた人で、雄渾闊達の書風に揮毫の依頼はひきもきらず、その書額は今も全国に残されています。
嘉納の書額と書号については、横山健堂氏(『嘉納先生伝』昭和16年4月刊)と森本角蔵氏(『嘉納先生揮毫の語句の解説』雑誌「柔道」昭和26年5月〜27年11月号掲載)に詳しく、両氏によると、揮毫の語句の一部だけでも50余り、戦争前に全国の道場、学校に掲げられていた書額は合計226面を数えたといいます。
嘉納治五郎(以下、私稿では師範と呼ぶ)はこの別荘を特に晩年はたいそう気に入っていたようで、年譜(『嘉納治五郎大系第十三巻』)には大正十四年頃から亡くなる前年まで、「我孫子で静養」「家族と共に我孫子へ」「夫人同伴で我孫子へ」「孫たちが我孫子に来訪」「我孫子で越年」という記述が各年数回の頻度で現れる。
師範が別荘地を購入したのは、当時の土地台帳によれば明治四十四年十二月二十一日が最初で、以後大正二年まで逐次買い増しを行なっていることからみれば、別荘建築はその前後であろうと推測される。道一本隔てた隣地に姪(師範の姉・勝子の娘)の柳直枝が住むことになったのは、師範が呼び寄せたのであろう。夫に死別した直枝が転居したあとに、直枝の弟(師範にとっては甥)の柳宗悦が新妻の兼子を伴って移ってくるのは、大正三年秋のことである。喜んだ師範は、椎の三本の大木があることに因んで、柳邸を「三樹荘」と名づけて書額を贈っている。
別荘地を購入する二か月前に二万余坪の用地を手当てし始めたことは、当時の土地台帳に記録されている。学園建設工事も進められ、校門予定地に到る並木道までが完成したことも目撃されている。しかし工事は中断され、学園は農園に転用されたまま、師範の没後は手放され住宅地として分譲された。いま、閑静な住宅地となった白山地区で、往時の農園はおろか学園の痕跡を偲ぶものは何一つ残されていない
師範は克明に英文日記をつけていたので、もしイートン校を訪ねたとすれば日記に記載されているはずだが、不幸にして現在は日記の閲覧が許されていないため、この事実は検証できないでいる。
東氏の論文の主眼は、ハーンと嘉納の熊本時代の関係を、柔道という新しい視点から捉えようとするものですが、後半では、ハーンが遺した書簡を通して、最初は極めて良好であったハーンの嘉納に対する感情が次第に悪化してゆく推移が克明に綴られています。
この推移を東氏は西田千太郎に宛てた7通の書簡でたどります。
かいつまんで紹介すれば、
「嘉納氏は、…私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です」(1891年、月日不明)
東(ひがし)憲一氏の『熊本における嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン』(1995東京外国語大学論集51)と題する小論文(B5版16頁)からでした。東氏は東京外国語大学の教授で専門は「武道論」、嘉納治五郎研究の第一人者といわれます。
周知のごとく、ハーンと嘉納との関わりは熊本で生じました。
1891年(明治24)11月、ハーンは松江を引き払って第五高等中学校の英語教師として新妻セツを伴って熊本に赴任しますが、そのハーンを招聘したのは、当時の五高校長、嘉納治五郎でありました。このことは嘉納自身が自伝の中で五高時代を振り返って、
「学校長として自分のしたことは数多いが…ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師から抜いて招聘したことは特筆すべき一事である」
と、些か得意げに記しています(『嘉納治五郎大系第十巻』)。
私にはハーンの赴任時に校長の嘉納みずからが熊本駅まで出迎えに行ったというほのかな記憶があって、それを確かめるべくネットを渉猟していたとき、たまたま東氏の論文に行き当たりました。私はさっそく、不躾にも氏に直接メールしてこの論文を郵送してもらったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・
なお、柔道の場合で師範とは「嘉納治五郎」一人のみを指し、他の武道における師範とは異なるということです。
スポーツは教育の一環であり、教育者としての功績が一番でしょうが、「柔道の父」、また「日本の体育の父」と称される為、諸流派を極めた柔道の達人であったころから世界のスポーツとしての柔道を世に知らせたのは嘉納治五郎であったのは間違いありません。遂には、スポーツの国際大会を日本で開催ということのためにオリンピック招致を働きかけるために海外へ出向き、得意の英語で弁舌して各界の人をうならせ感動をさせて東京での開催を確約させます。残念なことに、その帰路に船の中で亡くなりますが、それは嘉納治五郎らしい最期だったのではないでしょうか。戦前の話ですから、飛行機でひと飛びと言う時代でないので、行きも帰りも大変なご苦労が分かります。1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。
夢を実現する姿勢は生涯変えません。頻繁にきた我孫子別荘から、手賀沼を眺めて、オリンピックのボート競技を開催しようと考えておられた・・・・。これは、夢想家というか、教育者とは自身も常に夢見る人なのでしょう。つまり、嘉納治五郎にとっての夢とはみんなの為に叶えるもののようでした。
我孫子には、こうした土地にゆかりのある人を調べて質の高い研究をされている方々がかなり多くおられます。中でも、「我孫子の文化を守る会」の方々の活動は素晴らしいものがあり、ネットを活用してご自身の労作を惜しげもなく公開されているのです。そのお一人、楫西雄介氏の「葭の髄から」を読むと嘉納治五郎の人となりに惚れこんで、綿密な調査をされていまして驚愕しました。下記はその一部ですが、ほんとうに嘉納治五郎の偉大さを知るところとなります。柔道界の不祥事を嘉納氏は出て来て一喝したいと思われていることでしょう。
***** ****** ******
嘉納治五郎の漢籍の素養の深さは尋常なものではありません。それも道理で、嘉納の父・次郎作まれしば希芝は、近江国坂本日吉大社の神官で且つ和漢洋に通じた学者であった正三位・生源寺希烈の四男(一説には次男)で、父から十分に学問を仕込まれ、絵画も良くした教養人でありました(戸川幸夫『小説嘉納治五郎』)。
しかし嘉納家の養子に迎えられたこの父親は、公私頗る多忙で家のことはほとんど顧みる暇がなく、嘉納六歳の時に山本竹雲なる画家、あるいは山本なる医者の家に通わせて習字や漢学を学ばせます(嘉納治五郎『回顧六十年』)。10歳の時、母親が死亡して東京の父親に引き取られた嘉納は両国の成達書塾に入り、生方桂堂のもとで書道と漢学を修めます。桂堂は嘉納の人物の卓越性を見抜いて特別に心を用いて訓育し、四書五経の素読は既に国許で習得していたので、国史略、日本外史、十八史略、日本政記と順を追うて素読を授け、書の方は一日必ず3帖(半紙60枚)は丁寧に習字せしめたといいます(前出『嘉納先生伝)』)。
嘉納の書の巧さと漢籍の素養は、これら少年時に育まれたものなのです。
嘉納が別荘を構えたわが我孫子にも、嘉納書額は次の5面が残されています)。
一.「力必達(チカラヒッタツ:ツトムレバ必ズ達ス)」
書号は「進乎齋」で、我孫子第一小学校の体育館に懸架されています。
語句の意味は森本説によれば、中庸の20章の要約をした嘉納の造語と思われます。学習院柔道部と京大柔道部の道場には同じ額が架かっています。嘉納の高弟・西郷四郎がモデルといわれる富田常雄『姿三四郎』(下巻「不借の章」)の中にも、三四郎が矢野正五郎(嘉納治五郎)の書いた『力必達』という額を掲げた紘道館(講道館)道場を懐かしむ場面があります。
二.「以人為鏡(イジンイキョウ:人ヲ以テ鏡ト為ス)」
書号は「歸一齋」で、我孫子第一小学校の玄関に懸架されています。語句の意は、ネットの検索により、中国唐時代唐高宗の名相魏徴の名言「以銅為鏡 可以正形 以人為鏡 可以正身」(銅ヲ以テ鏡ト為セバ形ヲ正スベシ、人ヲ以テ鏡ト為セバ身ヲ正スベシ)に基いていることがわかりました。
三.「擇道竭力(タクドウケツリョク:道ヲエラビテ力ヲツクス)」
書号は「歸一齋」で、市役所の市長室に懸架されています。最初の二文字が判読できず、いろいろ識者に当って最後に秘書室よりメールで教えていただきました。この語句の出典は検索不能で、嘉納の造語と思われます。
四.「従善如流(ジュウゼンジョリュウ:善ニ従フコト流ルルガ如シ)」
書号は「歸一齋」で、角松旅館の客室に懸架されています。語句の意は、「善いことに従うのが水の流れのように速く、自然でとどこおることがないこと(『成語林』)」で、平安時代初頭に源為憲が道長の子・頼通のために書いたといわれる『世俗諺文』ということわざ辞典の元祖に登場します。『世俗諺文』には、現在のことわざ辞典にも載っている「良薬口に苦し」「千載一遇」などがすでに記載されていました。出典を辿れば『春秋左氏伝』で、斉の桓公がそういう人となりであったといわれます。
五.「三樹荘(サンジュソウ)」
書号は「歸一齋」で、三樹荘跡、村山正八氏邸の玄関階段上に懸架されています。「三樹荘」とは柳宗悦の旧邸、邸内に椎(スダジイ)の古木が3本屹立しているところから嘉納が命名して、書額に仕立てたものです
嘉納治五郎という人は書家としても一流を究められた人で、雄渾闊達の書風に揮毫の依頼はひきもきらず、その書額は今も全国に残されています。
嘉納の書額と書号については、横山健堂氏(『嘉納先生伝』昭和16年4月刊)と森本角蔵氏(『嘉納先生揮毫の語句の解説』雑誌「柔道」昭和26年5月〜27年11月号掲載)に詳しく、両氏によると、揮毫の語句の一部だけでも50余り、戦争前に全国の道場、学校に掲げられていた書額は合計226面を数えたといいます。
嘉納治五郎(以下、私稿では師範と呼ぶ)はこの別荘を特に晩年はたいそう気に入っていたようで、年譜(『嘉納治五郎大系第十三巻』)には大正十四年頃から亡くなる前年まで、「我孫子で静養」「家族と共に我孫子へ」「夫人同伴で我孫子へ」「孫たちが我孫子に来訪」「我孫子で越年」という記述が各年数回の頻度で現れる。
師範が別荘地を購入したのは、当時の土地台帳によれば明治四十四年十二月二十一日が最初で、以後大正二年まで逐次買い増しを行なっていることからみれば、別荘建築はその前後であろうと推測される。道一本隔てた隣地に姪(師範の姉・勝子の娘)の柳直枝が住むことになったのは、師範が呼び寄せたのであろう。夫に死別した直枝が転居したあとに、直枝の弟(師範にとっては甥)の柳宗悦が新妻の兼子を伴って移ってくるのは、大正三年秋のことである。喜んだ師範は、椎の三本の大木があることに因んで、柳邸を「三樹荘」と名づけて書額を贈っている。
別荘地を購入する二か月前に二万余坪の用地を手当てし始めたことは、当時の土地台帳に記録されている。学園建設工事も進められ、校門予定地に到る並木道までが完成したことも目撃されている。しかし工事は中断され、学園は農園に転用されたまま、師範の没後は手放され住宅地として分譲された。いま、閑静な住宅地となった白山地区で、往時の農園はおろか学園の痕跡を偲ぶものは何一つ残されていない
師範は克明に英文日記をつけていたので、もしイートン校を訪ねたとすれば日記に記載されているはずだが、不幸にして現在は日記の閲覧が許されていないため、この事実は検証できないでいる。
東氏の論文の主眼は、ハーンと嘉納の熊本時代の関係を、柔道という新しい視点から捉えようとするものですが、後半では、ハーンが遺した書簡を通して、最初は極めて良好であったハーンの嘉納に対する感情が次第に悪化してゆく推移が克明に綴られています。
この推移を東氏は西田千太郎に宛てた7通の書簡でたどります。
かいつまんで紹介すれば、
「嘉納氏は、…私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です」(1891年、月日不明)
東(ひがし)憲一氏の『熊本における嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン』(1995東京外国語大学論集51)と題する小論文(B5版16頁)からでした。東氏は東京外国語大学の教授で専門は「武道論」、嘉納治五郎研究の第一人者といわれます。
周知のごとく、ハーンと嘉納との関わりは熊本で生じました。
1891年(明治24)11月、ハーンは松江を引き払って第五高等中学校の英語教師として新妻セツを伴って熊本に赴任しますが、そのハーンを招聘したのは、当時の五高校長、嘉納治五郎でありました。このことは嘉納自身が自伝の中で五高時代を振り返って、
「学校長として自分のしたことは数多いが…ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師から抜いて招聘したことは特筆すべき一事である」
と、些か得意げに記しています(『嘉納治五郎大系第十巻』)。
私にはハーンの赴任時に校長の嘉納みずからが熊本駅まで出迎えに行ったというほのかな記憶があって、それを確かめるべくネットを渉猟していたとき、たまたま東氏の論文に行き当たりました。私はさっそく、不躾にも氏に直接メールしてこの論文を郵送してもらったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・
なお、柔道の場合で師範とは「嘉納治五郎」一人のみを指し、他の武道における師範とは異なるということです。
2013年02月04日
本当はどうすればいいのか
IWJ Independent Web Journalが、先月19日(土)、柏市民文化会館で行われた「『放射線対策と原発の明日』小林泰彦さん VS 小出裕章さん」を動画で下記において公開(掲載期間終了後は、会員限定)。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/54129
■内容 19:00〜21:30(手話通訳付き)
講演 小林泰彦氏(日本原子力研究開発機構〔JAEA〕高崎量子応用研究所 量子ビーム応用研究部門)「柏地域の子どもたちのための真っ当な放射線対策とは 〜 被害を最小にするための基礎知識」
講演 小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)「原子力利用と被曝」
対談 小林泰彦氏×小出裕章氏
質疑応答
■主催 1.19 柏講演実行委員会 http://bit.ly/12jIp7k
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「内部被ばくを考える市民研究会」、MLホームページ(http://www.freeml.com/no_nukes_saitama)では、東京都の空間放射線量の上昇を指摘して、下記のことを伝えていました。
【14日の雨には当たってはいけないC】雨が雪に変わりました。この雪とたわむれてはいけません。かなりのフォールアウトを含む可能性があります。東京の空間線量がかなり上がっています。
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=433163453419247&set=a.160143847387877.4
1492.100001767876800&type=1&theater
お子さんを外に出さないようにした方がいいと思います。雪など口にしないように。
ーーーーーーーーーーーーーー
子どもたちの内部被ばくをどう抑えるか、非常な問題であるが、これに対処できる医者は今のところいない。小出氏らが主張することを軽微なことだと笑う人も政財界には特に多いようだが、幼小児を持つ保護者、これから子供を産むだろう若い女性たちは深刻な選択を迫られるのだ。結果が分かった時では遅い、薬害エイズ、サリドマイド、スモンなど因果関係が証明されるまでの対処、予防は自己責任では今回の被曝の影響は大きすぎる。本当はどうすれば良いのか、考え続け、問い続けるしかない。以前よりいいことは、ファックス、ネットを利用して、資金のない市民が政党や既存組織に寄らずとも勉強会を開いたり、繋がっていけることだと思う。
19日の柏市で行われた講演資料があります。関心のある方は、コピーを差し上げます。
下記へご連絡ください。
Tel/Fax 04-7184-9828(海津)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/54129
■内容 19:00〜21:30(手話通訳付き)
講演 小林泰彦氏(日本原子力研究開発機構〔JAEA〕高崎量子応用研究所 量子ビーム応用研究部門)「柏地域の子どもたちのための真っ当な放射線対策とは 〜 被害を最小にするための基礎知識」
講演 小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)「原子力利用と被曝」
対談 小林泰彦氏×小出裕章氏
質疑応答
■主催 1.19 柏講演実行委員会 http://bit.ly/12jIp7k
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「内部被ばくを考える市民研究会」、MLホームページ(http://www.freeml.com/no_nukes_saitama)では、東京都の空間放射線量の上昇を指摘して、下記のことを伝えていました。
【14日の雨には当たってはいけないC】雨が雪に変わりました。この雪とたわむれてはいけません。かなりのフォールアウトを含む可能性があります。東京の空間線量がかなり上がっています。
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=433163453419247&set=a.160143847387877.4
1492.100001767876800&type=1&theater
お子さんを外に出さないようにした方がいいと思います。雪など口にしないように。
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子どもたちの内部被ばくをどう抑えるか、非常な問題であるが、これに対処できる医者は今のところいない。小出氏らが主張することを軽微なことだと笑う人も政財界には特に多いようだが、幼小児を持つ保護者、これから子供を産むだろう若い女性たちは深刻な選択を迫られるのだ。結果が分かった時では遅い、薬害エイズ、サリドマイド、スモンなど因果関係が証明されるまでの対処、予防は自己責任では今回の被曝の影響は大きすぎる。本当はどうすれば良いのか、考え続け、問い続けるしかない。以前よりいいことは、ファックス、ネットを利用して、資金のない市民が政党や既存組織に寄らずとも勉強会を開いたり、繋がっていけることだと思う。
19日の柏市で行われた講演資料があります。関心のある方は、コピーを差し上げます。
下記へご連絡ください。
Tel/Fax 04-7184-9828(海津)
2013年02月03日
恵方巻き
2月3日は節分。節分は立春の前日をさし、古くは立春を1年の始まりとしたため、大晦日と同じように考えられていました。この夜に丸かぶりをすると、その年は幸運がめぐってくると言い伝えられています。「丸かぶり」とは、関西弁で丸かじりのことで、京の周辺の方たちがは巻ずし(関東でいう「のり巻」を太くしたもの)をガブリと食し、恵方(えほう)へ向けて福を内にするわけでした。巻ずしの形が黒くて太いことから、鬼の金棒にみたて豆をまくのと同じように、鬼の金棒を食べて鬼退治をする意味もあるようです。「縁を切らない」「えいほうをまるのみや〜」という意味から、そのまま切らずにガブリが正解です。
恵方は毎年変わり、2013年は南南東の富士山の見える方角になります。恵方とは十干(じっかん)により、その年の幸運を招く方角のこと。歳徳神(としとくしん)のつかさどる方角とされています。
がんばろう、我孫子のみんな!!!
参考HP:
海苔Japan 健康推進委員会
http://www.nori-japan.com/marukaburi/howto.html
恵方は毎年変わり、2013年は南南東の富士山の見える方角になります。恵方とは十干(じっかん)により、その年の幸運を招く方角のこと。歳徳神(としとくしん)のつかさどる方角とされています。
がんばろう、我孫子のみんな!!!
参考HP:
海苔Japan 健康推進委員会
http://www.nori-japan.com/marukaburi/howto.html
2013年02月02日
喜んで、進んで、働きます
国会論戦が始まっていますが、安倍首相は挑発されても、安全運転に努める感じです。参議院選挙を勝たないと、長期政権への展望は開けないと考えていれば当然の構えでしょう。5年間の研鑽の日々に、まさか首相復活があるとは思ってはいなかっただろうけれど、ここまで来たらこの夏を乗り切り、日本のあるべき位置を確立するために粉骨砕身するおつもりなのだ。
運のある人は、サポート陣にも力のある人が集まり、前進していくものだ。大河ドラマの平清盛だって、初めはそうだった。その轍を踏まずと、多くの武将が天下統一を夢見た。信長、秀吉、家康、更には黒船に開国を迫られ維新の竜馬や博文が続いて近代日本が築かれて、結果的に帝国憲法発布の際に女性が排除されたのは残念だけれど、しかしながら、神代の国にまでも遡る日本の歴史のその先はアマテラス大御神という女性神を崇める国だから・・・、こうなってくると話は長くなるので論文『明治、大正、昭和において社会的活動をした女性』を読んで頂きたいところです。
さてさて、話を戻すと、安倍内閣による日本経済再生はアベノミックスと称して定着しつつあり、評価も結果も悪くはない。円安、株高で動きが続いています。日銀総裁の同意人事は、参議院で12議席を持ち、キャステイングボートを握るみんなの党に配慮し、財務省OBは避け、岩田一政を指名するのではないかと言われ、これもなかなかの采配ではないでしょうか。
今やこうした政治、経済の影響は、所得倍増計画の時代と違い、右肩上がりでは行かないシナリオです。高度成長の時代は政治家の失言、失策に目をつぶっていても、失業はなかったのです。新卒は青田買いされて、昇給があり、ボーナス増額率でもめる組合闘争でした。今は、私たちが日本の再生に力を貸すように求められているのですから、箪笥貯金を死守している場合ではなくて、孫子に渡していこうとのトレンドに向かっています。国会中継はPCでも視聴することができる時代です。女性が動けば、良い形に変わるのではと思います。
人生のテーマは、ただ長生きするなら良いのではありません。
小林正観(著述業、講演者)の『楽しい人生を生きる宇宙法則』講談社によると、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガンを宣告され、毎日さまざまな健康法、食事療法を5年間続けてきた方がおられ、ありとあらゆる頼まれごとをすべて断って、健康維持を第一としてきた。5年経ったところでふと「私は何のために体を治そうとしているのだろうか」と思ったそうです。病気のせいで何も他は引き受けられない、と5年間思い続けてきた。
その結果、何のために生きているのかわからなくなった。
頼まれごとは極力断ってきたが、それでは今この瞬間を生きていることの意味がぜんぜん無いではないかと思い、それからは人から頼まれたことをやってみることにしたのだそです。毎日病気を治す健康法のために費やしていた時間やお金を、他からの頼まれごとをするために使い始めたのだそうです。
そして、それ以来すでに3年経ちますが、その後忙しくて、一度も病院へ行っていないそうです。しかも、最近ホノルルマラソンに参加し、完走しました。誰もが「奇跡」と驚いています。
ある一点について問題をどうにかしようとか、または、この商品を営業努力によって売りたい、と思って努力するが、神や宇宙を味方にして今この瞬間を生きていくことのほうが、実は近道なのかもしれません。
皆に喜ばれる存在であると、「ツイてる」、「うれしい、楽しい」、「感謝」、「幸せ」、「ありがとう」という言葉が出てきて、顔も自然にそう言っている人となると言うわけです。反対に、相手に喜ばれない存在は、「不平不満」、「愚痴」、「泣き言」、「悪口」、「文句」を言う人のようです。この状態がエスカレートすると、「恨み」、「憎しみ」、「呪い」となる、と正観さんは言うのです。
もし神という存在が上から見下ろしていたとすると、その人が病気であるかどうかは関係がない。喜ばれる存在をまったくやっていない5年の間は、神はこの人を応援支援しようとは思わなかったのかもしれません。
引き受けるなら、文句をいいながら引き受けるか、進んで立ち働くか、は大きな違いだということです。人に喜ばれる人生は大きく膨らむし、そうでないと萎んでいくそうなのです。もっとも、単なる人数合わせで頼まれるようなことは断っても構わないので、どうしてもとの頼まれごとは進んで引き受けた方がいいということなのだそうです。
運のある人は、サポート陣にも力のある人が集まり、前進していくものだ。大河ドラマの平清盛だって、初めはそうだった。その轍を踏まずと、多くの武将が天下統一を夢見た。信長、秀吉、家康、更には黒船に開国を迫られ維新の竜馬や博文が続いて近代日本が築かれて、結果的に帝国憲法発布の際に女性が排除されたのは残念だけれど、しかしながら、神代の国にまでも遡る日本の歴史のその先はアマテラス大御神という女性神を崇める国だから・・・、こうなってくると話は長くなるので論文『明治、大正、昭和において社会的活動をした女性』を読んで頂きたいところです。
さてさて、話を戻すと、安倍内閣による日本経済再生はアベノミックスと称して定着しつつあり、評価も結果も悪くはない。円安、株高で動きが続いています。日銀総裁の同意人事は、参議院で12議席を持ち、キャステイングボートを握るみんなの党に配慮し、財務省OBは避け、岩田一政を指名するのではないかと言われ、これもなかなかの采配ではないでしょうか。
今やこうした政治、経済の影響は、所得倍増計画の時代と違い、右肩上がりでは行かないシナリオです。高度成長の時代は政治家の失言、失策に目をつぶっていても、失業はなかったのです。新卒は青田買いされて、昇給があり、ボーナス増額率でもめる組合闘争でした。今は、私たちが日本の再生に力を貸すように求められているのですから、箪笥貯金を死守している場合ではなくて、孫子に渡していこうとのトレンドに向かっています。国会中継はPCでも視聴することができる時代です。女性が動けば、良い形に変わるのではと思います。
人生のテーマは、ただ長生きするなら良いのではありません。
小林正観(著述業、講演者)の『楽しい人生を生きる宇宙法則』講談社によると、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガンを宣告され、毎日さまざまな健康法、食事療法を5年間続けてきた方がおられ、ありとあらゆる頼まれごとをすべて断って、健康維持を第一としてきた。5年経ったところでふと「私は何のために体を治そうとしているのだろうか」と思ったそうです。病気のせいで何も他は引き受けられない、と5年間思い続けてきた。
その結果、何のために生きているのかわからなくなった。
頼まれごとは極力断ってきたが、それでは今この瞬間を生きていることの意味がぜんぜん無いではないかと思い、それからは人から頼まれたことをやってみることにしたのだそです。毎日病気を治す健康法のために費やしていた時間やお金を、他からの頼まれごとをするために使い始めたのだそうです。
そして、それ以来すでに3年経ちますが、その後忙しくて、一度も病院へ行っていないそうです。しかも、最近ホノルルマラソンに参加し、完走しました。誰もが「奇跡」と驚いています。
ある一点について問題をどうにかしようとか、または、この商品を営業努力によって売りたい、と思って努力するが、神や宇宙を味方にして今この瞬間を生きていくことのほうが、実は近道なのかもしれません。
皆に喜ばれる存在であると、「ツイてる」、「うれしい、楽しい」、「感謝」、「幸せ」、「ありがとう」という言葉が出てきて、顔も自然にそう言っている人となると言うわけです。反対に、相手に喜ばれない存在は、「不平不満」、「愚痴」、「泣き言」、「悪口」、「文句」を言う人のようです。この状態がエスカレートすると、「恨み」、「憎しみ」、「呪い」となる、と正観さんは言うのです。
もし神という存在が上から見下ろしていたとすると、その人が病気であるかどうかは関係がない。喜ばれる存在をまったくやっていない5年の間は、神はこの人を応援支援しようとは思わなかったのかもしれません。
引き受けるなら、文句をいいながら引き受けるか、進んで立ち働くか、は大きな違いだということです。人に喜ばれる人生は大きく膨らむし、そうでないと萎んでいくそうなのです。もっとも、単なる人数合わせで頼まれるようなことは断っても構わないので、どうしてもとの頼まれごとは進んで引き受けた方がいいということなのだそうです。
2013年02月01日
福は内、鬼は〜外
2月、節分、福は内、鬼は〜外だ。陽光も春の兆しだ。既に、昨日のニュースで節分の豆まきが行われていた。日本人は、季節感に優れるのは四季折々の変化に影響されるからであり、刹那刹那、仏神あらゆるところへお願いして疫をさけ縁起もかつぐ。
しかし、それもそれなりの理由と効果がもたらされるようなのだ。心理学博士・ウエイン・W・ダイアー は、「あなたの考えるように、そのようにあなたはなるであろう」と説明する。ダイアーは、1940年に生まれ、マズローの自己実現論の心理学をさらに発展させた、「個人」の生き方重視の意識革命の提唱、新個人主義の旗手として世界的に評価された。『“勝ちぐせ”をつけるクスリ』(渡部昇一訳、三笠書房)があるほか、世界各国で大ベストセラーとなった本には、『「頭のいい人」はシンプルに生きる』『小さな自分で一生を終わるな!』『自分の中に奇跡を起こす!』『「いいこと」が次々起こる心の魔法』『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』等々がある。
つまり、いいことを考え、よいことが起こると期待している心には、よいことを引きつける一種の磁場が働く。よいことを期待している気分でいると潜在意識は、終局的によいことに連なるチャンスだけをつかえるようにその人を導いてくれる。洋の東西に関わらず、成功の大小にかかわらず、そういう人の周囲には、必ず人生の明るい面により敏感だという要素があるということだ。
「顔を太陽に向けましょう。そうすれば、影を見ることはできません」(ヘレン・ケラー)
さらに、愛の反対は憎しみではなく嫉妬だが、このようなマイナスエネルギーが潜在意識の中にあると、成功やお金からはどんどん遠ざかることになる。つまり繁盛している所や成功者を否定するということは、金持ちや成功者を嫉妬するということになる。否定しているうちは、否定や反発していた状況を引き寄せるというのだ。
同様に、心配性や取り越し苦労も引き寄せるという。「心配するな」、ではなく、「今ある幸せに感謝」
常に、明るい面、プラスな面、ポジティブな面を見続け、嫉妬したり、他を否定しない方が有難い人生、社会になるのだと分かる。
なるほど、昔の日本人が「鬼は外、福は内」と言ったのは、心の中をポジティブにする戒めかもしれない。
しかし、それもそれなりの理由と効果がもたらされるようなのだ。心理学博士・ウエイン・W・ダイアー は、「あなたの考えるように、そのようにあなたはなるであろう」と説明する。ダイアーは、1940年に生まれ、マズローの自己実現論の心理学をさらに発展させた、「個人」の生き方重視の意識革命の提唱、新個人主義の旗手として世界的に評価された。『“勝ちぐせ”をつけるクスリ』(渡部昇一訳、三笠書房)があるほか、世界各国で大ベストセラーとなった本には、『「頭のいい人」はシンプルに生きる』『小さな自分で一生を終わるな!』『自分の中に奇跡を起こす!』『「いいこと」が次々起こる心の魔法』『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』等々がある。
つまり、いいことを考え、よいことが起こると期待している心には、よいことを引きつける一種の磁場が働く。よいことを期待している気分でいると潜在意識は、終局的によいことに連なるチャンスだけをつかえるようにその人を導いてくれる。洋の東西に関わらず、成功の大小にかかわらず、そういう人の周囲には、必ず人生の明るい面により敏感だという要素があるということだ。
「顔を太陽に向けましょう。そうすれば、影を見ることはできません」(ヘレン・ケラー)
さらに、愛の反対は憎しみではなく嫉妬だが、このようなマイナスエネルギーが潜在意識の中にあると、成功やお金からはどんどん遠ざかることになる。つまり繁盛している所や成功者を否定するということは、金持ちや成功者を嫉妬するということになる。否定しているうちは、否定や反発していた状況を引き寄せるというのだ。
同様に、心配性や取り越し苦労も引き寄せるという。「心配するな」、ではなく、「今ある幸せに感謝」
常に、明るい面、プラスな面、ポジティブな面を見続け、嫉妬したり、他を否定しない方が有難い人生、社会になるのだと分かる。
なるほど、昔の日本人が「鬼は外、福は内」と言ったのは、心の中をポジティブにする戒めかもしれない。