歴史は、作られるとも言われる。後年の作家たちが、英雄のエピソードを脚色することにもよる、例えば「おもしろきこともなき世をおもしろく」とは、29歳で亡くなった高杉晋作の有名な辞世の句などとされるが、近年の研究によればこの句は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である(ただし死の間際に詠んだ句でなくとも、人生最後に詠んだ句は辞世と扱われる事もある)。高杉直筆になる句が残されていないため、正確なところは不明。高杉は肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずして29歳で亡くなった。
高杉は、安政6年(1859年)安政の大獄で師の松陰が捕らえられるとその獄を見舞うが、松陰は10月に処刑された。文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。
長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京師(京都)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。文久2年(1862年)、高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志が相談した。しかし久坂が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。
文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。
京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、同志・久坂玄瑞は自害する。
長州藩は、関門海峡を通る外国船に砲撃を加えたのが1863年、しかし、その翌年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4カ国の17隻からなる連合艦隊から長州藩は大規模な攻撃を受け大敗、砲台が占拠されるに至ると、高杉は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、イギリスの租借地となっていた香港の屈辱的な惨状を見ていた高杉は、「彦島の租借」を要求だけは断固として受け入れず、結局は取り下げさせることに成功した。
これは2年前に清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を察知していたからで、もし「高杉があの時、租借問題を拒否していなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、ずっと後年の伊藤の回想に依拠しているため、真実か否かは不明である。
近じか、徳川文武氏による「混沌の現在を維新前後から読み直そう」とのトークセミナーを開催するが、参加者と話をやり取りしながらのセミナーなので、どんな話のやり取りがされるかと期待される。