2012年10月08日

千葉から醤油は地球サイズ伝達力の調味料になった

醤油は、日本に最初に伝わったのが紀州(和歌山県)でその後江戸時代に銚子で作られ大きな発展をとげたという説、など諸説ある。

江戸時代初期までは、日本の醤油の主流はたまり醤油で、主な産地は上記の湯浅に代表される近畿と讃岐(引田、小豆島)に集中していた。しかし、たまり醤油は製造開始から出荷まで3年かかり、生産量が需要に追いつかなかった。また1666年(寛文6年)には、現在の兵庫県たつの市で円尾孫右衛門長徳が「うすくち醤油」を考案したと言われている。

1640年代頃、寛永年間、巨大な人口を抱えて醤油の一大消費地となっていた 江戸近辺において、1年で製造できる「こいくち醤油」が考案された。現在では、千葉県35.11%、兵庫県15.72 %を生産している。

銚子は利根川、江戸川によって江戸と結びついている。水運に恵まれた 銚子は近隣に関東平野をひかえ、良質の大豆(常陸)や小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)が、江戸川と利根川の水運を利用して、しょうゆ醸造業発達の要因がそろっていた。太平洋の暖流と寒流の合流は、高い品質の醤油を醸造するのに理想的な銚子の気候を作り出している。夏涼しく冬暖かく、しかも湿度が高いという気候風土は、こうじ菌などの微生物の発達を良くする。江戸の町に人口が集中、それを支える食に魚と醤油をそろえられる銚子は栄えていった。その途中にある布佐・木下は、当時の物流を支える中継地として大変な繁盛をしていたわけだ。

実は、1854年(安政元年)に 第七代当主濱口梧陵が安政南海地震において津波の来襲から村人を救い、その後「稲むらの火」として紹介されたのは、ヤマサ醤油7代目当主であり、10代目濱口梧洞は醤油王(その六男が加納家に養子となり10代当主ということだ。鴻池とも親戚関係がある財閥。)海外との貿易にも力をいれた。鴻池とも親戚関係がある財閥であった。

さらに、江戸の人口の増加とともに、次に野田の醤油醸造が拡大する。 1800年代中頃には、梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受ける。幕末の1864年(元治元年)、物価高に悩んだ幕府が市場に値下げ令を発した際、商品の品質保持を理由に銚子と野田の7銘柄は「最上醤油」の名称で従来価格で販売する許可を得た。

1887年(明治20年)に「野田醤油醸造組合」が結成された。1917年(大正6年)には茂木一族と梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが後にキッコーマン株式会社となった。『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もあった。売り上げ1千200億円、国内シェア30%、業界bPのキッコーマンと、売り上げ20億円のキノエネはともに野田にあり、キッコーマンは機械化され、周囲とは遮断された「完全密室」で醤油を製造し、キノエネは製造工程の一部に「人の手」が加わり、外気に「香り」が漏れる小さな「キノエネ醤油」の工場は、昔ながらの「醤油醸造所」の佇まいを残している。

千葉には、世界の食として愛されるようになった日本食の素材の要がぎっしり詰まった歴史がある。

参考:Wikipedia
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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