2012年08月11日

敗戦直後の樺太、女性たちの決断

 11日、我孫子の手賀沼公園では原爆被爆平和記念式典が行なわれた。広島や長崎で被爆した方々がこの地にもおられ、平和を祈念する式典には市長、議員、中学生代表、一般市民が思い思いに自由な形で参列する。過去に起きた事を未来をつくる人々にも伝える必要がある。

 ところで、1945年6月に沖縄が戦火にさらされたことは日本人なら誰もが知るところだが、日本国内で戦場になった地として樺太もあることは忘れられがちだ。8月9日に参戦したソビエト連邦は、南樺太に進撃した。当時、樺太には、戦火を避けて疎開している人も多かった。日本政府がソ連からの宣戦布告を受領したのは、翌日のことである。沖縄と異なり、今では日本の領土ではなく、住民たちが散り散りになっており、戦場の跡を自由に訪れるのも叶わない地である。

 8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。その攻撃は、日本がポツダム宣言を受諾してもなお止むことはなかった。日本から停戦のための軍使を何度送っても殺され、日本人と朝鮮人の婦女子を乗せた避難船は撃沈された。
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■真岡郵便電信局、9人の乙女像

 引揚者も順次出たが、8月20日のソ連軍の上陸掃討作戦開始まで間に合わなかった人々もいた。そこで真岡郵便電信局にて連絡業務のため残留、戦火の中で職務に忠実に留まって働いていた女性交換手たちが、追い詰められた。通信で寄せられるあちこちで次々と市民の殺害、凌辱の話しから、若い女性12人のうちの、9人が青酸カリなどを用い自決することを選んだ。

 「傷ついた者は助けてやる。食べ物いっぱいあります」とマイクの呼びかけが続いていますが、捕虜になれば女の子は裸に(凌辱)され、戦車でひき殺されると教えられていた女生徒たちには、それが悪魔の声に聞こえた。 ――島袋淑子さん・照屋菊子さんの沖縄の証言 

 戦後、彼女らを英霊として顕彰しようとの機運が関係者・遺族の間に起こり、1963年に地元の樺太関係者と遺族の手によって氷雪の門とともに九人の乙女の像が建立された。

 高さ1.8m、幅2.4m、登別石で屏風風に造られ、交換手姿の乙女の像銅版レリーフをはめ込み、当時の北海道知事町村金五の筆で乙女達の別れの言葉と9人の乙女の名が表面に記されている。ただし乙女達の別れの言葉は史実とは異なる(記録によれば『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』

             北海道稚内市水産商工観光課「九人の乙女の物語」よりhttp://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/midokoro/spot/9ninotomenohi.html

 その後、公務殉職として叙勲しようとの機運が起こると、碑文は書き直され、死亡は殉職であるとされた。 亡くなった9名は公務殉職として1973年3月31日付で勲八等宝冠章を受勲、靖国神社にも合祀された。碑文では生存者については触れられていない。この実話『氷雪の門』を映画化が9年の歳月をかけて上映の運びになるが、上映も東宝系劇場と決まっていたが、公開10日前にソ連側からクレームをつけられ、北海道・九州での2週間のみのに上映館を自粛せざるを得なくなるなどが起きた。


■恵須取町(樺太):大平炭鉱病院の看護婦23人が集団自決
 
 旧樺太では真岡での電話交換手9人の集団自決が知られるが、炭鉱病院の看護婦による集団自決は、一般にはあまり知られてこなかったが、終戦直後の8月17日、旧樺太(サハリン)・恵須取町にあった大平炭鉱病院の看護婦(看護師)23人が集団自決をはかり、6人が死亡した。

 そのうちの1人、九死に一生を得た登別市美園町に住む桜庭タイさん(79)にとって生涯忘れらない日となった。当時の記憶は今でも生々しく、2人の子供にも話したことはないが、戦後62年を経て、やっとその重い口を開いた。

 史実などによると、昭和20年8月、ソ連軍が参戦。16日未明の空襲で街中は火の海となり、市民は避難。大平炭鉱病院の高橋婦長ら23人の看護婦も重症患者らを守って避難所にとどまっていたが、その後、上恵須取を目指し避難。ところが、ソ連兵が接近という情報が入り、囲まれて行くも退くもできない状態となり、婦長は「年ごろの娘を預かった。無事に帰せないなら死を選ぶしかない」と覚悟。病院から持ち出した劇薬を飲んだ。途中瓶が割れ、致死量に達しないものは、手術用のメスで手首を切って6人が亡くなった。後の17人は近くの造材部の人たちに助けられ、一命を取り留めた―という。

 生き残った看護婦らで「楡の会」が発足。8月17日に命日祭、数年置きくらいに慰霊祭も行われており、平成4年には札幌の護国神社に鎮魂碑も建立されている。

 桜庭さんはその時の1人。当時看護婦になりたてのまだ18歳。若山町に住む浅野清さん(71)が今年2月に発行した「遙かなる潮騒〜樺太逃避行」を読んだのをきっかけに、取材に応じることになった。

 浅野さんは5歳で樺太に渡り、6年間暮らした経験がある。作品は創作の形を取っているが、当時の記憶を基に、丹念に調べ上げた史実も盛り込んでおり、この集団自決についても触れている。これを読んだ桜庭さんが浅野さんに会う決意をした。

 桜庭さんは「本当はこうして話すのも嫌だった」と重い口調ながら、「いい病院に就職させてもらった矢先のこと」と話し出した。幸せな生活が急転直下、戦火にのまれ、「この先どうなるか分からないが、避難する時は、みんな婦長と一緒に行動する、という覚悟でした」と振り返る。「婦長は『私がいたらないために』『ごめんね、ごめんね』と何度も言っていた」と桜庭さん。飲んだ薬については「劇薬」との記述が多いが、「睡眠薬かなにかではなかったかしら」と言い、「量が少なくそれでは死ねないので、メスで手首を切った。メスが入る感触を今でも覚えている」と生々しい記憶を語った。「死」は「全員」の暗黙の了解だったといい、「あの世にいったら、みんなに会える、と抵抗感はなかった」と当時の心境をのぞかせた。

 生き残った看護婦は「(死んだ仲間に)申し訳ない」といった気持ちが強く、これまでも当時のことはあまり口にしてこなかった。桜庭さんも2人の子に話したことはないと言うが、62年の歳月と、浅野さんの作品に強く揺り動かされ、話す気になったようだ。

 桜庭さんは今年は体調を崩して、慰霊に行けなかったが「今だから言えるが、つらく、思い出すと嫌な気持ちになる」とポツリ。「戦争になると常識では考えられないことが起こる。戦争に行った人ばかりでなく、多くの人が犠牲になった。戦争は愚か。罪のない人が死んだりする」。そして「(あの時のことは)一生涯、背負っていかないとならない」と静かに目を伏せた。

参考資料:室蘭民報 2007年8月24日
 http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2007/200708/070824.htm
 
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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