2011年09月30日

よみがえる力、再生の糸口

「財界総理」と呼ばれた土光敏夫さん(エンジニア、実業家。元経団連会長)の鶴見にある自宅で驚かされるのが、玄関の扉がたてつけが悪くてガタガタやっても開かないことだったという。そこで縁側から上がることになる。良く言って郊外にある質素な家だが、古い家だけあり、広い庭はあるが、それも池や石などない庶民の家そのものだ。普通の植木と芝生と野菜畑があるだけ。農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。夫人との生活費は、年金生活者のように堅実で月10万円だけだったとか。収入は全て、母親が作った女子校へ寄付にまわしていたからだった。だから自宅の玄関も直そうともしないし、ガラスが割れても直せない。その健康法には、他の財界人のようにゴルフでもなく、お金をかけない、木刀を振り回しながら庭を駆けめぐるだけで、なんと隣の女子校に泥棒が入った時は、木刀を持って泊り込みに行ったとの逸話が残っている。

経団連会長を辞めた後、各方面で人気の高い土光さんは臨時行政調査会の会長に引っ張りだされた。1981年(昭和56年)の鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、

1.首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
2.増税によらない財政再建の実現。
3.各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
4.3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

上記の4箇条の申し入れを行い実現を条件とした。行政改革に執念を燃やし2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。

1986年(昭和61年)11月、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988年(昭和63年)8月4日、老衰のため東京都品川区東大井の東芝中央病院で死去。91歳没。金儲けだけでは動かない日本的ビジネスマインドをしめした。

古い話だが、あの西郷隆盛に、これと同じような話がある。
西郷さんが、官を辞して、田舎に帰ったところ、そこへ村長が訪ねてきた。
村長は、西郷さんに、村の様々な問題や運営の難しさを切々と訴えた。
ずっと黙って聞いていた西郷さんは、やおら座りなおし、
「そいじゃ、おいどんがやろうか」と本気で言ったという。
西郷さんなら、掛け値なしで本気でやってくれるに違いないと村人は喜々としてやる気を起こしたのだという。千葉にも、農民の窮状を救うために命をなげうった佐倉惣五郎の霊廟が残され、今もお参りする人が絶えないが、こういう人がいて人々の力が結集して、物事が動くのである。

無我無私の人たちが、日本、地域、民の為に動いて変えてきていたともいえる。
明治の維新の政治家には、若くして亡くなった坂本竜馬など、私心なく命をなげうった人たちが多くいた。黒船到来、世界大戦を経て、150年間ほどもの変化の時を経て、今また坂本竜馬を引き合いに出して維新を語る現代の政治家や、中には政治生命を賭けるとまで言う政治家がいる。リーダーとして言った言葉が、その矛先を間違えれば国際的な国交問題に発展させ立場を失うこともあるのを目の当たりにしている昨今があるが、私心なく力を発揮してくれるリーダーと、日本の健全な社会を再構築していくために力を合わせなくてはならない。リーダーには、高い資質と私心のない姿勢が重要だ。日本は世界を担う一翼でもあり、アジアの未来にも、私心のない人々が働いてきた歴史の一端、多くの人々が流した汗と築いた知恵の結晶等など日本の過去の経験は大いに役立つはずだ。日本の再生のチャンスはそこにあるのではないだろうか。

参考:
城山三郎氏『よみがえる力は、どこに』新潮社
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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