2011年09月22日

柳田國男、杉村楚人冠は「日本野鳥の会」創立の有力メンバーであり支援者だった

中西悟堂(18951984)が、日本野鳥の会を創立したのは昭和9年(19343月だった。創立の趣旨について中西は「日本野鳥の会の根本精神〜創立50周年を迎えて」の中で「当初のその発想には、それまでの長い歴史であった飼い鳥の因習打破ということと、もう一つには鳥の科学と芸術を車の両輪として走らせこそ文化の港に着くと言う私の考え方があって、その理想通りの交流が実行されていた」と述べている。また、日本野鳥の会の創立について、「はじめは友人であった詩人竹友藻風氏にしきりにすすめられて、鳥学の先達である内田清之介博士にまず相談したところ、幸いにも内田博士も私の考えとほぼ同じ考えだったという。

一方で、竹友氏はまず柳田國男(旧姓・松岡として、思春期を布佐で過した。両親の墓があるので布佐にたびたび来ていた。民俗研究の緒はその折の体験があるといわれる)に賛助求めたという経緯があった。
柳田國男は、日本野鳥の会の発足にあたって相当も援助をした。杉村楚人冠、泉鏡花らの人々に入会を誘ったのも柳田であったし、経営上の方針、金銭上の助力についても力添えした(『定本柳田國男集』第22巻月報)。

我が国で初めての「鳥類見学会」は昭和9623日の2日間富士山麓須走で行われ、参加者には内田清之介博士、子息清一郎、柳田國男、令嬢長女千枝子、次女三千子、金田一京助、子息春彦、杉村楚人冠、北原白秋、窪田空穂、若山喜志子、等々40余名が参加した。中西は「この探鳥会こそが、過去八百年来の陋習である飼鳥界への反逆の第一声であり、鳥籠を踏み潰して野生の鳥を楽しめとの宣言であった。」と述べている。当時は「探鳥」の言葉ではなく「鳥類見学会」の名称で行われたが、中西によれば『この言葉は硬くて一般普及性が無い』ので、その後中西が「探鳥」という言葉を造語、今日一般的に使用されるようになったと中西は言っている。また『野鳥』という言葉もいまでこそ国語になっているが、当時の一般語にはなく、どうも柳田が会名を「日本野鳥の会」、誌名を「野鳥」に決めたのではということだ。

楚人冠は昭和32月の随筆『巣箱再び』では、「春が来ると、巣箱を懸けなおすことが、この山荘の楽しい行事の一つである。」、「とにかく、四個とも鳥が巣ったところを見ると可愛さを覚える。一昨年は初めてのことで、鳥も考えてみて二の足を踏んだのだろうが、去年我らに害心なきことを認めて安心して巣ったものと見える。」、「何事も一年では分からぬことを、この巣箱は教えた。同時に気長く親切を示せば、鳥でさえなついて来るものであること、この巣箱は教えた。」と、とりどりに述べている。

柳田國男が大正155月『郊外』に書いた「翡翠の嘆き」と題する随筆に、「杉村楚人冠氏は巣箱主義の新たなる使徒である。彼の我孫子の村荘の園は森林の如く、晴れたる朝先生斧をを提げて下り立ち、数十本の無用なる木を切り倒すと、その中に往々に自然の鳥の巣を見出すという実情なるにも拘わらず、更に邸内に総計12個の巣箱を配置し、その箱にはヘットなどを塗りつけていとも熱心に雀以上の羽客を歓迎しているのである。」、然し、「池の金魚を食べるかわせみを非難する」楚人冠に「(カワセミ)嫌いなら嫌いでも結構と言ってもよいが、よいじゃ無いか君の家の泉水に、ほんの小雑魚を年にもう70匹か、80匹ほども余分に飼って置いて彼らに自由に狙わせて、遊ばせてみたらどんなもんだ」と楚人冠を揶揄している。結構に言いたい放題の強い仲間意識があったようだ。

楚人冠の昭和1043日の随筆『春暁聴禽』では、「それにしても小鳥の名をいちいち知っていたら、さぞかし興味を深かろうと思うが、生憎と私はその方にかけては、名だたる無学で、其の上目が悪いから、すばやく飛び交う鳥の姿を見定めることが出来ない。名を知らぬ悲しさ、美しい鳥、可愛らしい鳥と思うだけである。」、「負け惜しみかもしれぬが、まことに、小鳥の自然の姿を楽しむものは、鳴き声の妙なるを愛し、羽色の美しきを愛で、飛び移る姿の優しきを眺めていれば、それでよいのではないかと思う。」などとユーモア精神を発揮している。

関東大震災後の大正13年(1924)、我孫子に居を構えた杉村楚人冠(18721945)が大正15年(192610月に書いた随筆『鳥の巣箱」によると、彼はシカゴトリビュン社発行の巣箱に関する資料を入手、また日本鳥学会で製作している巣箱を購入、それを見本に巣箱を10個作らせ庭内に懸架した。更に昭和33月の随筆『二十二日記』では「雪が降っては小鳥が餌に困るだろうと思って、雪の小降りなったころを見計らって庭の枝にかけた鳥の餌箱に粟を入れてやる。この餌箱は大学の理学部の日本鳥学会でできたものだが構造がいいと見えて、毎朝一掴みの粟を入れておくと、何時どんな鳥が来て食べるのかは知らぬが、夕方までに綺麗になくなっている。別に宅で手製の餌箱の方にはさう鳥がよって来ない。」、などと書いている。

楚人冠も柳田も、あらゆる方面に率先して我孫子でも色々に取り組んでいた人だ。言行一致、言うだけでなく行動も伴う、我孫子の先達として私たちも学びとりたい。
 





 

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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